はじめに 島畑景観とは, 水田の地盤高と ーm近くの高低 差をもって, 様々

霞ケ浦南岸美浦村における島畑・掘下田の
土地改良と土地利用変化
田 野
宏
現状である。
1. はじめに
そこで本稿は,かつて稠密な島畑と掘下田のみ
島畑景観とは,水田の地盤高と1m近くの高低
られた地域農業の特色を述べるとともに,1960年
差をもって,様々な形の畑が水田の中に混在する
代から1970年代にかけての圃場整備事業を経過す
土地利用景観であり,わが国の沖積平野における
ることで,その地域の農業がいかなる変容をとげ
特異な土地利用パターンの1つである。従来,島
たのかを,近年の米生産調整政策(以下,減反政
畑景観を取り扱った研究は,古島(1949),大和
策と呼称)への対応と土地利用変化を通して報告
(1956),岩瀬(1961),竹内(1967,1975)をは
することにしたい。調査対象地域(図1)は,大
じめとして,数多くの報告1)が行なわれてきてい
都市近郊外縁に位置し,農業生産要素に多様な変
る。なかでも竹内の報告は,島畑景観成立に関す
化をみせながらも,農業振興法指定地域として,
る従来の謬見を改めるとともに,わが国の代表的
農村的土地利用が展開されている,霞ケ浦南岸美
な島畑の分布を丹念に調べ上げるなど,この分野
浦村安中地区のr旧島畑・掘下田地域2)」(仮称)
における研究、誉く準を構成する貴重な成果であると
の農業を取り上げた(図2)。
いえる。しかし,竹内も指摘するように,近年の
なお,当該地域は,籠瀬(1967,1975),竹内
機械化農業を推進するための圃場整備事業の進展
(1967)によって島畑の存在3)が明らかにされた
とともに,各地の島畑景観は大きく変貌しつつあ
が,より詳細な土地利用・農業水利・土地改良等
り,こうした社会的状況のもとでの島畑地域の農
に関する報告は行なわれていない。
業に関する報告はほとんど行なわれていないのが
2.島細・掘下田の土地利用・土地改良と稲作
農業
石岡
(1)島畑・掘下田の土地利用と土地改良実施の
背景
土浦
霞ケ浦南岸美浦村安中地区には,1960年代から
1970年代まで,稠密な島畑景観が存在した。島畑
景観を成立せしめた土地条件は,図3によって表
霞
わされる。すなわち,標高3∼4m前後の砂壌土
ケ
調査地域
浦
質の土地に立地し,明治期以前から近年の土地基
盤整備事業によって姿を消すまで,極めて稠密な
島畑景観を呈していた。地形的にみれば,複雑に
0
10km
一一
図1調査地域概念図斜線が図2の範囲を示す
入り組む洪積台地をつなぎ止める形で形成された
縄文海進最高海水準期の砂州が,その後の海面低
下によって離水し,その土地が複雑に入り組む形
一33一
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(1986)
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霞ケ浦南岸美浦村における島畑・掘下田の土地改良と土地利用変化
で掘り下げられ,開田されることで,こうした景
代的背景に呼応して,最も土地基盤整備の進んだ
観がつくられたものである(図4)。霞ケ浦沿岸
水田単作地域が形成されることになった6)。
にはこのように,かつての高位海水準のもとで形
ところが,当時美浦村安中地区の稲作は,離水
成された砂州状の土地と,現在の湖水準のもとで
砂州上(沖積高位面)の掘下田と,その前方の沖
形成された土地とが存在する4)。以下,本稿で
積低位面上において行なわれ,土地改良のきざし
は,前者を沖積高位面,後者を沖積低位面と呼称
はみられなかった。これは,上記の霞ケ浦と利根
する。
川とに挾まれた水稲単作地域に比べれば,低収量
この地域の用水源は,洪積台地を刻む谷地田の
ではあるものの,洪水時に沖積低位面上の水田が
くらうしろ
池沼(蔵後池)を溜池として利用していた。しか
冠水しても,沖積高位面上の掘下田の存在が収穫
し,溜池の水深は約1m前後と浅く,用水量が不
皆無の惨状に陥ることを防いだこともあって,土
安定で,水田の保水性を維持する必要からも,地
地改良を急務とするほど,さし迫った必要性が存
下水位近くまで土地を掘り下げる必要が存在した
在しなかったからである。
ものと考えられる。図5は,島畑の存在した離水
しかし,霞ケ浦南岸周辺の農村が,土地基盤整
砂州(沖積高位面)の横断図(図2A−B断面)を
備を契機として収量の増加を図り,稲作近代化を
作成し,その土壌・地下水位,そして当時の島
進める中で,掘下田の水稲作経営は次第に後進性
畑と掘下田の高低差5)を表わしたものであるが,
を帯びたものになっていった。1950年代から1960
両者の高低差はほぼ50㎝以上を示し,離水砂州頂
年代前半における当該地域は,牛馬耕が存続し,
部付近においては1mを越える場合もある。わが
用水源はすでに述べたように谷地田の溜池に依存
国の代表的な島畑地域とされる千葉県の九十九里
していた。しかし,溜池内への土砂の堆積による
浜平野に比べれば,規模は格段に小さい(約200
貯水能力低下は,保水力を備えた掘下田をもって
hα)が,その高低差は大きいものとして注目され
しても,干ばつ被害による減収を免れることはで
る。このことは,堤防が築かれていない時代に,
きなかった。そのため1963年に,霞ケ浦湖岸(八
霞ケ浦の洪水常習地であった標高約2m以下の沖
井田)に機場が設置され,80H》の揚水機の敷設に
積低位面は,ほとんどが耕作不可能な土地であっ
より,それまでの溜池灌瀧から湖水の揚水灌海に
たことと関係している。すなわち,沖積高位面上
代わり,水不足の解消が図られることになった。
に少しでも多くの水田を確保しようとした農民の
しかし,不整形な土地区画に加えて島畑特有の
さし迫った必要性と,加えて水稲作に重点を置い
高低差をもつ土地条件は,農作業上極めて非能率
ていた往時の日本の農業政策とが相互に関連し
であり,稲作近代化が進行する周辺地域と比べ
て,このような高低差の大きい島畑景観が成立し
て,生産力の大きく見劣りする耕地であることに
たものと考えられる。
変わりはなかった。この点,いち早く土地改良を
第2次世界大戦前,霞ケ浦をとりまく沖積低
導入した東村,潮来町では,1960年代前半に10a
地,特に利根川寄りの霞ケ浦南岸地域の東村,潮
当り収量(以下10a収量と呼称)は400kgを超えて
来町,河内村等にみられる低湿地は,稲作依存度
いるのに対し,当該地区の掘下田は,その前方湖
の特に高い地域であった。しかし,同時に利根川
岸寄りの沖積低位面上の水田とともに,300kg前
の氾藍と逆流とによってもたらされた霞ケ浦の増
後の10a収量しかあげておらず,非能率かつ低収
水の結果,耕作水田の冠水による被害は極めて大
量を示す低位生産水田地域であった。
きかった・このため,第2次世界大戦直後から土
ところで,掘下田と並んで,島畑の土地利用に
地改良が着工きれ,当時の食糧増産政策による時
着目すると美浦村安中地区では,24,39hαの島畑
一35一
研究紀要(1986)
に綿作が行なわれていた(農林業センサス)。籠
2集落の事例を中心に,その特色を論ずることに
瀬(1975)7)の報告によると,綿作は洪積台地を
したい。
避けて,沖積平野の砂州・自然堤防上に作付され
①安中地区太田集落
るという。籠瀬は,r関東および周辺の戦後の綿作
美浦村安中地区太田集落は,1968年当時,58戸
地域」の中で,安中地区は,r江戸時代から,“安
の農家よりなる集落であった。離水砂州頂部付近
中木綿”の呼称を与えられていたほどの綿作地域
に立地し,集落を取り囲んでの耕地所有形態を成
であり,かつての広面積の綿畑はすべて島畑であ
しており,耕地分散は集落内においてほぼ完結し
る」と述べている。続けてr綿の樹根の尖端は一
ている。1965年当時,美浦村は第1次構造改善事
部腐植層に達するようである。干ばつがないのは
業実施計画として50hαの指定を受け,村内に事業
このような土壌のためと考えられる。この土地の
実施地区の選定を行なっていた。多くの候補地区
農家は,綿作には粗砂よりも粘土混りの壌土がよ
の中で,太田集落の代表者や篤農家を中心として,
く,それが安中木綿を育てた要因であるとしてい
集落内の意見が早くにまとまったため,積極的な
る・といって,背後の関東ローム土壌では綿作は
導入運動を行ない,それに見合った耕地面積をも
絶対に不向きであると農家は力説している。」と論
つ当集落が構造改善事業を受け入れることになっ
述している。
た。この工事は1968年に着工され,翌1969年まで
しかし,関東随一とまでいわれるほどの綿作の
行なわれており・総工費4,243万円の事業費が投
濃密産地であった安中地区も,1960年代半ば以
じられ,30a区画の耕地整理がなされた。また,
降,わが国の綿花輸入とともに,綿作面積は激減
こうした土地基盤整備のほかに,水稲生産農家の
し,これといった代替作物もないまま,自給用野
経営合理化と兼業農家の育成を図る意味から・太
菜(ダイコン・ネギ・キュウリ他)の作付される
田機械利用組合が設立された。当時の同地区近代
時代が到来するのである。この時期,すなわち,
化施設および土地改良実施計画によると,r水田
1960年代半ば以降の高『度経済成長の始まりととも
畑の区画整理を行ない,田畑輪換を可能にし,
に,わが国の農業が労働生産性追求の時代に入り,
土地利用度を高め,水田においてはコンバインの
低収量かつ手間のかかる掘下田および沖積低位面
導入によって生まれた余剰労働力と野菜生産(タ
での稲作経営,そして特産地としての地位を失な
マネギの集団産地化)へ向かわせる」ものであっ
った島畑上の綿作経営は,大きな行き詰まりを迎
た。
えることになるのである。このため,大都市近郊
しかし基盤整備導入後・実際にタマネギ栽培を
周辺の農振法指定地域として,農業経営を維持し
行なった農家は,第1次構造改善事業導入時の指
ていくためには,新たに土地基盤整備の導入を図
導者(Y氏)のみであった。そのY氏も,2年後
る必要が生じ始めたのである。しかし,土地基盤
には不安定かつ安価な生産者価格と出荷組織の極
整備導入に際しては,以下に述べるように,集落
度の脆弱性から市場への対応ができず,栽培を中
ごとの農民の意思、が統一されなければならなかっ
止することになった。太田地区農民は,構造改善
た。
事業導入以前から畑作に見切りをつけ,兼業化の
(2) 島畑・翻下田の土地改良実施と稲作農業
道を模索していたのかもしれない。いずれにせ
安中地区の土地基盤整備の実施は,1960年代後
よ,土地改良の導入によって全耕地は水田化さ
半から1970年代にかけて,集落単位で行なわれ
れ,島畑・掘下田の存在した時代の稲作と畑作と
た。ここでは,1960年代に土地基盤整備着工をみ
の複合経営は,ここに終焉の時代を迎えることに
た太田集落と,ま貿0年代に着工をみた山内集落の
なったのである。
一36一
霞ケ浦南岸美浦村における島畑・掘下田の土地改良と土地利用変化
一方,全耕地が水田化された稲作に対して,構
低い状態にあった。さらに特筆すべき点は,土地
造改善事業導入時に購入した435P Sトラクター,
改良実施の翌年から,機械利用組合とは全く別個
57P Sコンバイン等を,太田機械利用組合の代表
に,耕蒜機,刈取機をはじめとする小型機械を購
者達がオペレーターとなり,組織全体による機械
入し,独自に農作業を行なう農家が大半を占める
利用体系が当初のうちは図られていた。ところ
ことになったのである。このために,機械利用組
が・実際にこの機械利用組合に対して刈取り作業
合は事実上有名無実のものとなり,数年後には大
を委託した農家は,58戸の組合員農家のうち24戸
型機械はすべて売却され,今日もなお稼動してい
の農家しか存在せず,機械利用の稼動率は極めて
るのはライスセンターのみとなっている。これ
山内集落
霞 ヶ 浦 ___
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園島畑團水田羅集落一目洪積台地
一
図4 1960年代の島畑掘下田景観
山内集落は護肖土地改良区,太田集落は蔵後土地改良区の1:2,5GO圃場整備図をもとに作成
5■
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4
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1GO
3
組
2
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1
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『
Eコ砂礫土
〕o凹 ↓島畑・掘下田の高低差(cm)國壌粘土
匠コ砂壌土
83
_!“、地下水位
図5 旧島畑掘・下田の横断面と高低差
蔵後・霞南両土地改良区に112,500従前図および現地調査にょり作成
一37一
40
B
研 究 紀 要 (1986)
は,大型機械の稼動効率を考えると,太田集落の
であり,機場管理の代表者でもある地元農家から
みならず・周辺の安中地区の水田まで刈取り作業
発案された。村議会議員として有力者でもあるこ
の請負いを行なわなければ,機械のロスが生じて
の発案者の提案に,当時の美浦村議会は,賛否両
しまうことになる。しかし,沖積低位面の湿田土
論が交錯し,農振法指定をめぐっての白紙および
壌では,自重で沈み込んでしまい,かえって農作
白紙撤回の議決が繰り返された。結局,農地価格
業に手間取る結果となったのである。そしてさら
の上昇が抑制されても,農用地指定による農業政
に,この機械オペレーターへの支払賃金が,当時
策施策の重点化という一般的メリットを得ること
の兼業賃金と比較して・低い稼動率の中では見劣
を望む農民代表の村議の意見が通ることになり,
りのする水準であったことである。また,基幹労
太田集落に遅れること8年後の1977年に,山内集
働力のおよぶ範囲で,必要時に自由な農作業が行
落を皮切りとする島畑・掘下田残存集落の基盤整
なえるほうが有利であるとの考え方が,個別農家
備事業が着工されることになったのである。
に浸透していたようである。
村営の団体営事業ではあるが,国・県の補助以
ちなみに,1960年以降の専業・兼業別動向をみ
外の地元負担については,1971年3月に発足した
ると・1960年の土地改良実施以前は・半数以上
水資源開発公団から,霞ケ浦の湖水位変動に伴な
(31戸)の農家が専業農家であるのに対し,土地
う補償として,霞南土地改良区への割当分の約2
改良後,数年経た1970年には,臨時雇用中心の第
億円の補償金を得ることができた。このために,
1種兼業農家が増加し,1975年以降は,恒常的勤
八井田機場の施設拡充をはじめ,用排水工事費用
務に就業する第2種兼業農家が大半を占めるよう
にこれをあてることが可能となり,地元負担は少
になった。すなわち,区画整理と小型機械の個人
なからず軽減されることになった。
所有による稲作生産体系によって作り出された余
ここで注目すべき点は,従来の狭小かつ不整形
剰労働力は,農外諸産業に向かうことになったの
な高低差をもった土地は,30a区画の耕地に改善
である。
されることになったのであるが,減反政策下の土
② 安中地区山内集落
地改良であって,従来からの島畑の面積を稲作に
島畑・掘下田の水利が台地浸食谷底の溜池灌瀧
変更することが不可能であった。このため,30a
から,霞ケ浦の湖水を用いた揚水灌洩に移行し
区画の水田は形成されたものの,1978年以降の水
て,太田集落は・安中地区諸集落の依存する土地
田利用再編対策への対応も含めて・どのような畑
改良区から離れ,隣接する余郷入干拓地の蔵後土
作物を導入すべきかについては,苦慮すべき問題
地改良区の傘下に入った・これに対して,山内集
が生じていた。
落をはじめとする安中地区各集落は,八井田機場
3・ 減反政策下における土地改良後の
揚水機の水利に頼ることになり,霞南土地改良区
旧島畑農業
に編入された。
ところで,山内集落をはじめとする安中地区の
(1)安中地区の稲作農業
島畑・掘下田の残存する各集落が,太田集落と比
安中地区の農家数の推移を表1よりみると,
べて土地改良着工が10年以上も遅延した理由は以
1965年に499戸,1970年に488戸,1980年には431
下のごとくである。この美浦村は,土浦市と至近
戸となっている。このうち専業農家は,1960年に
距離にあり,常磐線沿線の都市化に伴ない,八井田
160戸(32.0%)存在したが,1980年には17戸(3。9
機場周辺の農用地の農地転用を図って,農業外の
%)に激減している。これに代つて第2種兼業
土地利用を促進しようとする考えが,不動産業者
農家が62.9%へと増加しており,茨城県の割合
一38一
霞ケ浦南岸美浦村における島畑・掘下田の土地改良と土地利用変化
年)を若干上回る数字を示している。なかでも第 越していた。ところが1980年代に入ると,恒常的
2種兼業農家の内容をみると,1970年には日雇・ 勤務に就業する農家が全体の60%以上を示すよう
出稼ぎの割合が高く,不安定な職に就く農家が卓 になってきている。このことは,1960年代から
表1 美浦村および安中地区の専業・兼業別動向
総農家
戸 数
美浦村騰
兼 業 農 家
第1種(%)
1,354戸
1,324
安中地区騰
第2種兼業内訳(彩)
専業農家(彩)
第2種(%)
恒常的勤務
日雇・出稼
475戸(35.0)
533戸(39.4)
346戸(25.6)
236(17.8)
686(51.8)
402(30.3)
49.6
50.4
509 (37.6)
687(50.7)
66,1
33,9
1,354
158(11.7)
499
160(32.0)
210 (42.1)
129(25.9)
488
55(11.3)
282(57,8)
151(30.9)
43.3
431
56。7
17(3。9)
143(33.2)
271(62.9)
63.9
36,1
(農林業センサスより作成)
表2 美浦村およぴ安中地区の経営階層別変化
例外規定
美浦村{iiii
戸
2
安中地区鷹i
0.3hα
0.3∼
未満
0.5∼
1,0∼
0.5hα
1.Ohα
1.5hα
137戸
137戸
139
118
146
1。5∼ 2.0∼
2.Ohα 2,5hα
335戸 383戸 257戸
2.5∼
3.0∼
5.Ohα
3、Ohα
5。Ohα
以上
299
341
248
77戸
149
123
230
222
160
103
54
67
123
129
92
35
58
43
80
123
84
79
18
44
39
85
97
73
48
21
7戸
149
26
戸
戸
2
2
26
4
2
1
23
(農林業センサスより作成)
表3
作付面積
A
B
C
D
E
F
G
H
I
J
K
L
M
N
安中地区の稲作農家にみる稲作経営収支状況 (1978年)
粗収入
流動財費『固定財費
労働費
0.6hα
650千円
118千円
1.0
1,450
382
1.0
LO50
489
1.1
950
428
1.2
1,950
536
1.3
1,050
432
1.4
LO50
768
1.4
1,250
580
L450
567
1、6
1,550
818
1.8
2,550
615
2.0
2,850
400
2.0
3,300
360
1.5
斑円I
[地代●資本利子
8干円1
一千円
424
l認
彊
40
尭
1諾
106
21
534
462
譲
624
1望
815
ll
608
凱
1銘
620
瀦
653
465
2謬
502
249
366
781
−42
−575
−396
111
−159
944
1,544
2.4
O
2,550
833
2,850
872
潔
701
3.0
P
716
彰
3.1
2,900
900
420
720
51
一39一
411千円
1,668
839
(アンケートを中心とした実態調査により作成)
純収益
617
802
809
研究紀要(1986)
1970年代にかけて,国鉄常磐線沿線を中心とする
100∼200万円台の所得しかあげていない。このこ
とからみても,専業・第1種兼業農家の経営基盤
農外諸産業の進出に伴ない,美浦村が土浦市方面
へ20分以内の通勤可能な距離にあることから,兼
も極めて脆弱なものといわねばならない。したが
業化の大幅な進行がみられたものと思われる。
って,第2種兼業農家でも赤字経営農家はますま
また,経営階層別変化(表2)をみると,2・0∼
す農外就業の道を模索するであろうし,経営の存
2・5hαを境として上向化がみられ,専業化志向を
立基盤の脆弱な専業農家層は,土地取得による外
強める一方で,最多数を占める1.0∼2.Ohαの平均
延的拡大を図る一方で,かつての綿作のような高
的階層は,全体的に下向傾向を示し兼業化に向か
収益をあげる畑作物導入によって,経営の内容的
充実を図る努力が必要とされるのである。
うという2分極化が進行している。
島畑・掘下田(沖積高位面)と強湿田(沖積低
(2)減反政策下の土地利用と旧島畑・掘下田
位面)の双方の土地条件をもつ当該地域では,土
農業とのかかわり
地基盤整備事業が進行した結果,太田集落のよう
土地基盤整備導入後のこうした水稲生産農家の
に一部では稲作生産集団の萌芽をみた集落も存在
経営的特色を背景として,1978年に開始された水
した。しかしその後の消滅にみられるように,今
田利用再編対策に対して.安中地区の各農家は地
日,大部分の農家においては耕作機械の個人所有
域内や,個別農家における土地条件,経営状態に
化が進み,1h・以上層にあっては,自己完結型と
見合った転作への対応を展開することになった。
もいうべき家族労働範囲内での水稲経営が行なわ
その状況が図6の土地利用図である。
れている。
すでに述べたように,当該地域の土地条件は,
ここで,安中地区稲作農家の特徴を知るため
標高約2m前後を境として,沖積高位面(かつて
に,個別農家の稲作収入と生産費とのかかわりに
の島畑・掘下田)と沖積低位面とに区分すること
ついてふれてみたい。表3は霞南土地改良区,
ができる。この土地利用図でも明らかなように,
蔵後土地改良区理事長の協力を得て,地区内15戸
沖積低位面は稲作が中心であるのに対し,沖積高
の水稲生産農家の経営収支状況について行なった
位面では,大豆・スイートコーン・ハウス栽培
調査の集計である8)。L・M・N・0農家を除い
(キュウリ他)・小麦等の畑作物が水稲と混在して
ては・すべて第2種兼業農家である。A農家は・
作付されている。沖積低位面は半腐植土よりなる
経営規模も小さく,M農家に作業委託(田植・稲
強湿田,旧島畑地域の沖積高位面は,砂壌土より
刈)を行なっている。資本装備には劣るが・反
なる半乾田(半湿田)である。各農家の圃場は,
面,固定財費はさほどかかっていない。B∼E農
ほぼ500m以内の範囲で耕地が分散し,沖積低位
家(1・0∼1.2hα層)は,田植から稲刈に至るすべ
面と旧島畑地域の沖積高位面の双方にまたがる土
ての作業を,家族労働内において行なっているが,
地所有形態である。転作作物がほとんどすべて畑
機械装備は固定財費の53万円以下(E農家)をみ
作物であること,そして沖積低位面が,水稲と蓮
てもわかるように高くはなく,2戸∼3戸による
根を除いて“湿潤限界地”であること等からみ
共同所有農家が多い。ところが,経営規模が1.3
て,旧島畑(離水砂州)の存在という所与の土地
∼1・6hα規模(F∼」農家)になると農作業に必
条件が,水田利用再編対策への対応を規定する自
要な機械をすべて所有しており,固定財費(減価
然的要因を形づくることになったのである。すな
償却費)が増加し,純収益がマイナスを示す農家
わち,各農家とも,自作地における土地改良後の
が存在する。一方・第1種兼業農家や専業農家に
旧島畑上の水田を利用して,転作のための畑作物
注目すると,純収益はマイナスこそ示さないが,
を,個別農家の枠組み範囲で導入する形が進んで
一40一
霞ケ浦南岸美浦村における島畑・掘下田の土地改良と土地利用変化
霞 ケ 浦
筆
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固野菜 E二蓮根闘保全管理囲集落回羅水路匿…洪積台地
図6
水田利用再編対策下における安中地区の土地利用図(1983年7月) 現地調査により作成
いる。
を志向する農家が存在するものの,大半が1.5∼
転作導入作物をみると,比較的面積の大きい大
2・Ohα規模,もしくはそれ以下の第2種兼業農家
豆は,1981年より栽培が開始されており,裏作
によって占められ,農家収入に占める水田農業へ
(旧島畑のため,均平化後も裏作可能)の小麦と
の依存度合が低下の傾向をみせ,集落構成農家同
ともに,転作の代表的作物となっている。スイー
士の結びつきも近年は希薄になりつつある。沖積
トコーンは,1982年に地域振興加算作物に指定さ
低位面と沖積高位面の双方にわたる耕地の分散所
れ,5.3hαの水田に作付が行なわれている。そし
有,自己完結型の稲作農業に加えて,こうした農
て,安中農業協同組合に転作組合が結成され,県
家同士の結びつきの希薄さも,転作に対して場当
内市場中心に出荷されている。
り的対応をみせることになった一要因であること
このように,土地改良によって島畑・掘下田の
が考えられる。いずれにせよ,減反政策の実施に
高低差は均らされ,1960∼1970年代に水田化が
伴ない,標高2m以高の旧島畑・掘下田地域には,
進んだが,減反政策への対応に際しては,畑作の
畑作物が集中し,沖積低位面上は従来のままの水
可能な旧島畑地域が選ばれることになった。霞ケ
稲単作という土地利用パターンが今日においても
浦周辺地域の水田農業において転作への対応をみ
残存することになったのである。
ると・低湿地としての土地条件を有効に生かした
4. まとめ
蓮根栽培9)の開始や,規模拡大志向農家を中核と
した互助制度の確立10)にみられる地域ぐるみの転
本稿では,かつて稠密な島畑景観をみせた地域
作等,集団化が図られるケースが多く見受けられ
が・1960年代から1970年代にかけての圃場整備事
る。美浦村安中地区においては,一部に規模拡大
業を経過することで,その地域の農業的土地利用
一41一
研究紀要(1986)
がいかなる変化をみせたのかを,近年の米の生産
利害が対立することもあり,意思の統一を欠くこ
調整政策への対応と合せて明らかにしようとし
ともあったが,1970年代には安中地区全集落の島
た。
畑・掘下田はブルドーザーによって均平化され,30
霞ケ浦南岸美浦村安中地区には,標高3∼4m
a区画の圃場が形づくられた。
前後の砂壌土質の土地に,明治期以前から,玉960
しかし,米の生産調整政策下であることから,
∼1970年代の土地基盤整備事業によって姿を消す
農家はかつての島畑・掘下田地域に・割り当てら
まで,極めて稠密な島畑景観が存在した。当時の
れた転作作物を作付するようになった。その結果
稲作は,標高2m以上の島畑景観内の掘下田(沖
として,土地利用形態は,標高2m以上の旧島畑
積高位面)と,標高2m以下の沖積低位面上の水
・掘下田地域には,水稲作とともに畑作が集中
田において行なわれていた。
し,沖積低位面上には水稲単作が続行するという
しかし,島畑・掘下田が,当時灌概用水源とし
土地利用パターンが残存することになった。
て依存していた蔵後池は,谷地田内の土砂が池沼
かかる土地利用パターンの形成をみるに至った
内に堆積して貯水能力を低下させたために,用水
要因は,当該地域の農家の土地所有形態や恒常的
不足をきたし始めていた。そのため,霞ケ浦湖岸
勤務に就く多数の第2種兼業農家の存在等の社会
に揚水機場が敷設され,一時的に用水不足は解消
的要因に加えて,かつて島畑景観を出現せしめた
された・しかし,島畑内の掘下田は,島畑と高低
砂壌土質の沖積高位面,すなわち離水砂州の存在
差をもって複雑に交錯するため,低収量かつ手間
という自然的条件が大きな影響を与えているとい
のかかる稲作経営であり,1960年代半ば以降の労
うことができるのである。
働生産性を追求する稲作経営と符合することが困
本稿の作成に当り,御指導を賜りました籠瀬良明前
難な状態となっていった。このため,大都市周辺
教授,澤田 清教授,菊池万雄教授をはじめとする地
の農振法指定地域として農業経営を維持していく
理学教室の諸先生方に厚く御礼申し上げます。
尚本稿は,1982年度日本地理学会春季学術大会にお
には,新たな土地基盤の整備が必要であった。土
いて発表したものに,その後の調査を加えて,加筆・
地基盤整備導入に際しては,各集落ごとの思惑・
訂正したものである。
参考文 献 註
1)古島敏雄(1949)汀改革途上の日本農業』柏葉書
院,293ぺ一ジ
1図一多数の新図と改訂図一地理12−7 63−73
籠瀬良明(1975):関東および周辺の戦後の綿作
大和英成(1956)1千葉県九十九墨平野北部の農
地域 日本大学地理学科五十周年記念論文集一関東
業地理学的研究一天水田地域の農業について,駒沢
とその周辺一 51∼66,古今書院 362ぺ一ジ
大学研究紀要 15,184∼203
竹内常行(1967):前掲1)
大和英成(1957):天水田地域における稲作一千
葉県平和村の場合一,経済地理学年報 3, 57∼64
4) 田野 宏(1980):霞ヶ浦北浦岸における水稲・
岩瀬和博(1961):両総用排水事業と九十九里平
野の農業,人文地理13,251∼257
竹内常行(1968):島畑景観の分布について,地
理評 41, 2玉9∼240
蓮根栽培地の土地条件 地図18,1∼10
5) 美浦村安中地区蔵後土地改良区および美浦村役場
による圃場整備用大縮尺図(1:2,500)に記された
土地改良前の島畑と掘下田の標高差を読み取った。
6)田野宏(1985):茨城県南部低湿地の水田利用
再編対策への対応と特色 東北地理 37,1∼15
竹内常行(1975):九十九里平野,特に椿海干拓
地の島畑景観について,地理評 48,445∼458
2) 圃場整備事業が完了し,自然発生的な島畑景観が
7)籠瀬良明(1975)1前掲3)
8) 1977年10月に,蔵後土地改良区理事長,下村実氏
消滅した地域を, 「旧島畑・掘下田地域」と仮称す
の紹介を得て,協力の得られた安中地区の15戸の稲
る。
作農家より面接によって得られた数字である。固定
3)籠瀬良明(1967):東北・関東の新2万5,000分
財費は所有機械価格を償却年数で除して求めた。地
一42一
霞ケ浦南岸美浦村における島畑・掘下田の土地改良と土地利用変化
代は全面請負耕作についてのみ,3俵地代(美浦村
自立型農業経営の地域的性格 地理評 55, 814∼
農業委員会)に統一した。各生産費の算出は,吉野
833
新六(1974)1農産物の生産費はどう計算するか一
田野 宏(1983)1霞ヶ浦岸沖積低地の土地条件
その知識とまとめ方一(改訂増補版) 博友社230
と蓮根生産 地理評 56,17∼34
田野 宏(1983):r霞ヶ浦沿岸」低湿地の蓮根
ぺ一ジ,にょって行なった
9) 山本正三・田林 明・菊地俊夫(1980):霞ヶ浦
沿岸地域における蓮根栽培 筑波大学霞ヶ浦地域研
究報告2,1∼15
栽培,立石友男編著:日本の農業地域・大明堂・90
∼94
10)田野 宏(1984):水田利用再編対策下の集落互
元木 靖(1972):蓮根栽培地域考一霞ヶ浦湖岸
助制度一茨城県東村低湿地農村一地理誌叢 25,54
低地の事例に即して一 埼玉大学紀要 社会科学篇
∼56
29, 15∼37
田野 宏(1985):前掲6)
手塚 章(1982):茨城県出島村下大津における
Land Improvements and Changes in Land Utilization for the
Shimabatake(“lsland・Like Upland Field”)of the South
Coast of Lake Kasumigaura
Hiroshi TANO
The Scienery of the Shimabatake fields(“lsland−like upland fields”)are almost one meter
higherthanthesurr・undingricepaddiesaredistributedlikeam・saicinrice丘elddist「icts・
anditrepresentsapeculiarpattern・flanduseint五ealluvialplains・fJapan・In・ther
w。rds,whensandbarsandnaturalleveesαnd・therslightlyelevatedlandareas・fanallu。
via1Plainaredug・utin・rdert・makerice丘elds7thec・mplexpatchareasthatareleft
。vermakeupanisland−hkeupland且eld.Theseisland・1ikeupland丘eldsexpressedthep・si’
tiveeagemess・fpeasantsinthepreMeijiperi・dt・expandtheirrice五eldst・themaximum
extent possible。
LakeKasumigaurawas・ncec・nnectedt・theseabef・rethepre−hist・ric」・m・nPeri・d・
The sand bars which were formed at that time have risen in a Iater period,and have for・
med a low sandbar−1ike terrace along the lakeshore。In Miho village,it was possible
to see the island−1ike upland丘eld on this sandy soil until the1960’s・However,because there
wasagap。falm・st・nemeterbetweentheisland・likeuplandfieldandthericefieldsラand
the rice fields and because the island−like upland五eld formed such complicated,intertwining
patterns,thelandwasc・nsideredt・beinapPr・priatef・rmechanizedagriculture・F・rtkis
reas。n,afterthe1960・s,theleveldi鉦erencesbetweentheisland−likeupland丘eldandthe「ice
丘elds were removed and the land was evened out by bu11dozers,so that an orderly cluster
。f30−are1。tsweredevel。ped.Theresultisthatthetraditi・nalscenerywiththeisland・
Iikeupland五elddisapPearedf・rmthesh・res・fKasumigaura7andriceplantingwasbeing
carried out throughout the area.
一43‘
研究紀要(1986)
However,when rice production adjustment policies were adopted by the government after
1970,and farmers were obliged to tum a part of their rice fields into vegetable丘elds,vege・
tables and other nonrice crops began to be planted again on this land.This land which used
to be the island・1ike upland五eld,unlike the surrounding wet rice paddies,has good water
drainage,because it used to consist of sand bars.Thus,even though the old level differences
for the island−like upland£eld are no longer to be seen,the land utilization pattem in which
there is a complex mixture of rice paddies and vegetable fields can be seen again.
44