日本を本当に理解していますか? - 自治体国際化協会

図1:JETプログラムサポートシステム
JETプログラム参加者を
支えるサポート体制
自治体国際化協会業務部
取りまとめ団体
カウンセリング担当者(PA)
二〇〇九年七月現在、三六カ国四四三六名の外国青年がJETプログラム参加者として
日本各地の自治体で活躍しています。
これらJETプログラム参加者にとって、日本という外国で生活し、働くことは、大きな
ストレスを伴います。そのストレスがエスカレートして深刻な状況に陥ることのないよう、
契約団体
(担当者・上司・同僚)
JETプログラムでは様々なサポートシステムを設けています。
自主サポートリーダー
ピア・サポート・グループ
JETLINE
このサポートシステムの中心となって活躍しているのは、各都道府県、政令指定都市に
加者と接している契約団体担当者、上司、
同 僚 がJET 参 加 者 の 抱 く 疑 問、不 満、
要望についてよく耳を傾け、十分な説明と
話し合いでその解決を図っていくことが重
や、話がこじれてしまい契約団体内での問
2010
31 自治体国際化フォーラム Feb.
置かれている「カウンセリング担当者( Prefectural Advisor以下、PAという。
)
」です。
ここでは、年二回開催されているPA研修会の様子とJETプログラムのカウンセリング
体制の概要について、ご紹介します。
JETプログラムサポートシステム
はじめに、JETプログラムにおけるサポ
要です。
図1のような体制で運営されています。
題解決が難しくなった場合などは、取りま
・契約団体とJETの間に問題が起きた場合
・JET参加者にとって一番身近なサポータ
とめ団体や、CLAIR、ピア・サポート・
JETプログラムのサポートシステムは、
ートシステムの概要をご説明いたします。
ーとなるのは契約団体です。毎日JET参
JET参加者
(財)
カウンセリングシステム
委員会
自治体国際化協会
(CLAIR)
総務省・外務省・
文部科学省
:
グループ(以下、PSGという。
)
、あるい
は自主サポートリーダー(以下、SGLと
場で仲介にあたります。
税金や年金、健康保険など制度的な問題
サポートシステムで、最も重要な役割を
在住外国人の生活支援サービスなど、さま
し 方、日 本 語 のボランティア、地 域 活 動、
JET参加者を支えるPA
・取りまとめ団体でJETのケアを担当して
果たしているのが、各都道府県、政令指定
ざまな生活情報の提供もPAの重要な役割
から、英語の通じる医師の紹介、ゴミの出
いるのが、PAです。PAは、各取りまと
都市に置かれたPAと呼ばれるカウンセリ
です。
いう。
)などに相談できます。
め団体に日本人、JET各一名以上が置か
ング担当者です。
JET参加者又は母国の家族に事件や事
れています。PAは、契約団体とJET参
PAが対応する職務の範囲は、簡単な問
速やかに状況を把握して、CLAIRや関
加 者の間に立ち、客 観 的な立場で、カウ
LAIRが設けた「JETプログラムカウン
係機関との連絡調整を行います。特に、J
対 応にあたる契 約 団 体の担 当 者と連 携し、
JETと契 約団体双方のサポートを行い
セリング担当者設置要綱」に基づき、カウ
ETPAは、事件や事故に遭った本人の病
故などの緊急事態が生じたときは、現場で
ます。
ンセリング、相談への応対、JET参加者が
院受診、家族の来日等に際し、付添いや通
気の相談などにまで及びます。PAは、C
・PSG、SGLはどちらも現役JET参加
日常生活を送るうえで必要とする情報の提
訳対応にあたります。
い合わせや生活相談から始まって深刻な病
者によるボランティアの支援団体です。電
供、JET参加者と契約団体間の相互理解
しての緊急支援など、さまざまな面から、
話やメールで、JET参加者からの相談に
の促進や仲裁、JET参加者が危機的状況
ンセリング、情 報 提 供、危 機 的 状 況に際
応じています。
答えしています。
団体、契約団体からの問い合わせに随時お
話相談を行っています。また、取りまとめ
用回線 を設置してJET参加者 向けの電
困難な場合、たとえば日本の習慣や職場に
JETPAの知識だけでは解決することが
はJETPAが担当することになりますが、
参加者に対するカウンセリングです。主に
PAの職務でまず一番重要なのは、JET
を教授するほか、情報交換や事例研究、ロ
対象に、カウンセリングの基礎やテクニック
そこで、CLAIRでは年に二回、PAを
PA研修会
・カウンセリングシステム委員会は、精神保
対する質問・疑問、セクハラに対する対応
ールプレイを通じて、カウンセリング技術の
に陥った場合の対応を行います。
健やカウンセリングの専門家四名からなる
など専門機関に相談が必要な事案に対応す
向上と知識を身につけていただくことを目
・CLAIRでは、JETLINEという専
委員会です。いずれの委員も、JETプロ
る場合は、日本人PAが支援します。
ており、専門家の視点からカウンセリング
に対する豊富なカウンセリング経験を持っ
あるのは、JETの勤務態度や休暇取得に
ETと契約団体との仲立ちをします。よく
場の間でトラブルが発生したとき、PAはJ
JETと契約団体、あるいはJETと職
います。
会を開催し、サポート体制の強化を図って
的としたカウンセリング担当者(PA)研修
知識が要求されます。
以上のように、PAにはさまざまな能力、
グラムに対する深い理解と、JET参加者
システムに関する指導助言をしています。
な問題が発生した場 合にはPAを始め関
体、それぞれの話を十分に聞き、中立の立
関する問題ですが、PAはJETと契約団
からの相談や、JETPAが引き受けた相
相談を直接受けるJETPAと、契約団体
同じPAであっても、JET参加者からの
また、JET参加者の精神面に関わる重大
係者に対する直接の助言を行っています。
自治体国際化フォーラム Feb. 2010 32
JETプログラム参加者を支えるサポート体制
力も異なることから、本研修の開催にあた
を行う日本人PAとでは、必要な知識や能
日本語での照会が必要な細かな事務手続き
慣上の問題や文化の違いについての解説や
談のうち、日本人でなければわからない習
紹介なども行っています。
の重要性、ALTの学校外での活躍事例の
であることから、勤務評定やフィードバック
ケーションをとり、理解を深めることが重要
ET参加者と契約団体とで積極的にコミュニ
また、トラブルを未然に防ぐためにはJ
支援が必要です。
にするためには、さまざまな局面における
しい環境になじみ、能力を発揮できるよう
ョックはいかばかりかと思います。彼らが新
大きく異なるわけですから、その受けるシ
とはもちろん、生活習慣も食べ物も環境も
JETプログラムでは、各取りまとめ団体
に置かれたPAを中心としたJETサポート
誰しも、生活環境が変われば大きなスト
JET参加者の活躍の陰には、各地にお
JETプログラム参加者のために
っては、JETPA、日本人PAそれぞれの、
初任者からベテランにまで対応できる幅広
いカリキュラムを用意しています。
システムにより、幾重にも渡る体制でJET
修 会では、新任PAを対象とした、サポー
レスを感じるものです。JET参加者の大
けるPAの皆さんをはじめ、PSGやSGL
二〇〇九年六月に開催した第一回目の研
トシステムの概要説明、カウンセリングの基
多数が、学校を卒業したばかりで、仕事を
参加者を支援しています。
礎知識や勤務評定についての講義を中心に、
のメンバーの、JET参加者に対する思いや
途退職者分については、四月第二週(中国、
三週から翌年二月第三週までに判明した中
が、今年度より延長いたします。十二月第
期間は十二月 第二週までとしていました
中途退職したJET参加者の補充受付
中途退職者補充受付期間の延長について
するのも初めてなら、外国で生活するのも
050-5534-5566(毎日 20:00 ~翌 7:00)
経験者向けの分科会も行いました。
(AJET)
りにあふれる助力があるのです。
ピア・サポート・グループ
初めての若者たちです。言葉が通じないこ
(Tokyo English Life Line:
民間ボランティアによる電話相談)
03-5774-0992(毎日 9:00 ~ 23:00)
八月の新規JETの来日を経て一〇月に開
TELL
催した第二回 目の研 修 会では、飲 酒 問 題、
(CLAIR PC による電話相談)
03-5213-1729(月~金 9:00 ~ 18:00)
うつへの対応、電話によるカウンセリング技
術など、より掘り下げたテーマ別の分科会
のほか、実際に自分たちが担当した事例を
持ち寄り、解決方法について考察を深める
ケーススタディなど、より実践的な内 容の
研修を実施しました。
いずれの研修会でも、少人数のグループ
韓国、ブラジル、ペルーと同日。二〇一〇
年は四月一四日(水)
)にオセアニア出身者
て来日します。詳細については二〇〇九年
(七・八月来日予定者の一部)が繰上げし
十二月十一日付自国業第一五五号をご覧く
ださい。該当される契約団体におかれまし
します。
ては、手続きに遺漏のないようお願いいた
2010
33 自治体国際化フォーラム Feb.
に分かれてのロールプレイに多くの時間を割
いています。事例に対する対応や相談者が
どんな気持ちで連絡してくるかを実地に経
験できること、自分の対応を同じPAに見
てもらうことで自分の長所短所を把握でき
ること、他のPAがどのような対応をする
のかを見ることで、新しい考え方や解決方
法のヒントを得られることから、もっとも重
要なプログラムと位置付けています。
JETLINE
日本を本当に
理解していますか?
秋田県羽後町教育委員会外国語指導助手
Patrick Costello パトリック・コステロ
好の機会であり、私は日本のどこにいって
ログラムは大学で学んだことを活かせる絶
できたと思いました。私にとってJETプ
した。この経験の後、私は日本をよく理解
を日帰り旅行し、お正月には京都を訪れま
阪に二週間滞在し、関西地方の有名な場所
日本史、日本文学を勉強しました。また大
は大 学で副専 攻として日本語、日本 文 化、
JETプログラムで日本に来る以前に私
区の方言も一生懸命学びました。この一年間
いても学びました。それだけでなくこの地
史について学びました。町の祭と伝統につ
必要以上にある美容室でした。私は町の歴
ものといえば、田畑、からす、秋田杉、雪に、
若者も全くいません。ここにたくさんある
午 後 七時 以 降に開いている店も無けれ ば、
テル、大きなレストラン、コンサート会場、
とは大いに異なっていました。ここにはホ
た。実際の日本は私が思い描いていた日本
で秋田県南部から離れることは珍しく、県
も生活していく準備が十分にできていると
思いました。そして、このプログラムに申
県特に羽後町は私の第二の故郷になりまし
外へ旅行に出かけたのはたったの一回だけで
秋田県 南 部の羽 後町に配属されると伝
た。実は自分の故郷よりも秋田が大好きで
し込み、面接を受け、すぐにALTとして
えられました。私は自分の学歴と経験から
あるようで戸惑ってしまいました。単純に
した。私は秋田県が大好きなのです。秋田
うまくやっていく自信がありました。飛行
秋田県の小規模地域から「本当の日本」を
雇われました。
機を降りると主任が出迎えてくれ、教育委
まずは近 場の仙 台から旅 行 を始めまし
とらえることはできないかもしれませんが、
と主任の日本語を理解するのに苦労しまし
た。その後、友達と一緒に岩手に行きまし
員会の車で羽後町に連れていってくれまし
た。あのような方言は聞いたことがありま
た。盛岡、平泉、一関、湯田、ヨークシャー
私の想像した日本と実際の日本を比較する
せんでした。道路標識の地名には今までに
テリアーの駅長がいる奥中山高原に行きま
ことができてとてもうれしく思いました。
見たことも、聞いたことも無い漢字があり
した。それから青森に行きました。ニコラ
た。私の計画が狂い始めたのはその時から
ました。私が住んでいる羽後地区にも私が
ス・ケージによく似て
でした。羽後町に着くまでの間、私はずっ
勉強した日本語とは違った漢字の書き方を
会った八戸、十和田湖、
いるバーテンダーと出
CLAIRの職員と前ALT達が言った
田子町、伝説によれば
ニンニクの宝庫である
した地名がありました。
通り、ALTとしての日本での一年目は、と
キリストが埋葬されて
ても小さいけれどもすてきな米作りの町で
「本当の日本」について学ぶことができまし
cマロン駅長(岩手県)
自治体国際化フォーラム Feb. 2010 34
長期休暇では、旅行はだんだん凝ったもの
いるという新郷を訪問しました。その後の
多 く の 東 南 ア ジアの 国 々 に 住 ん だこ と が
リアでバーを経営していた経験があり、数
ことを学ぶとは予想もせずに日本に来まし
とに気づきました。こんなにもたくさんの
徒のアメリカ理解よりも随分劣っているこ
のドアを両サイドに開いていかなければな
あって、さらには大の外国人好きだったの
らないのだと気づきました。学ぶことは教
になっていきました。黄金週間その名の通
夜サーフィンをしてきたことがわかりまし
えることと同じく必要で、もしあなたがそ
たが、私達は国際文化交流大臣であるので
そして岐阜へと自家用車でそれぞれの県を
た。このビーチは冬季シーズン唯一、ナイ
れを正確にしているならば、だれかがあな
でした。もっと驚いたことは、このビーチ
観光して回りました。
トサーフィンができるビーチだったのです。
たにヘリコプターからスカイダイビングを
りのゴールデンウィークには三人のALT
福井県北部で一番感動した出来事が降っ
その日の夜は雪がたびたび降り注ぐ二月で
させてくれるかもしれない、たくさんのリ
草の根の国際化として先頭に立って国際化
て湧きました。ちょう ど辺 り が暗 くなり、
した。地元の人達は皆、私達が秋田から来
ンゴをくれるかもしれない、ステーキをご
す。私は不透明な国際化をより明確にする
名所である「東尋坊」に比較的近いキャン
たことに驚き、秋田での暮らしの様子や秋
ちそうしてくれるかもしれない、まだ経験
むうちに、カフェにいるすべての人がその
プ場 を探しているときに道に迷いました。
田弁にとても興味を持っていました。よく
したことの無いもっとすばらしいことをし
はサーフィンで有名だったのです。話し込
私達は海岸沿いの小さな町、三国(みくに)
冷えたビールととても温かい会話であふれ
てくれるかもしれません。
と一緒に八日間、日本海方面を旅行しまし
に迷い込んでいたのでした。キャンプ場は
達は彼らの連絡先、地図、旅行の名所と名
たすばらしい夜はあっという間に更け、私
た。山形、新潟、富山、石川、福井、滋賀、
全て閉まってしまい、私達は疲れ果ててい
ア メリカ・ボ ル チ モ ア 市 出
身。北フロリダ大学とメリー
ランド 大 学 音 楽 学 部ジャズ
専 門 専 攻と日本 学 副 専 攻 。
2007年8月にJETプログラ
ムに参加した。趣味は音楽の
演奏や作曲することや相撲を
見ることです。23の都道府
県を訪れたことがあるが、九
州はまだ行ったことがないの
でJETプログラムの後、南日
本に旅行するつもりです。
ました。そこでミクニ・フレンドシップ・ビー
物リスト、妊娠中の妻の怒りから一息つき
最近の旅行は、田舎でスカイダイビング
チに車を駐車し、近くのカフェで食事をし
人に今夜泊まれるキャンプ場があるかどう
に挑戦した栃木県と深山幽谷の村で鍾乳洞
にやってきた漁師さんが作ってくれた漁師
か聞いてみました。彼は私達に無料で浜辺
を腹 ばいになって観 光した福 島県でした。
ながらこれからのことについて考えること
でキャンプすることを許してくれ、さらに
また、白鷹町にある鮎の祭りにも足を運び
している町です。新し
c華厳の滝(栃木県)
2010
35 自治体国際化フォーラム Feb.
工芸品と共にそのカフェを後にしました。
はいつでも好きなときにカフェに戻ってお
ました。白鷹町は山形県の最上川で佳肴の
で、テントを準備し
い場所を訪問するたび
Patrick Costello
にしました。食事を済ませた後カフェの主
いでと言ってくれました。カフェの従業員
た 後、カフェに戻っ
に、また新しい日本の
魚 を 捕 る 為 にいま だに 簗 と言 う 罠 を 使 用
てビールを飲むこと
私の日本理解は私の生
自 己 評 価 を す れ ば、
発見がありました。
の主人はオーストラ
実は、そのカフェ
にしました。
の皆さんがとてもいい人々のようだったの
cカフェサマサマの皆さん
(福井県)
暑い夏の日
栃木市教育委員会外国語指導助手
Joshua Brown ジョシュア・ブラウン
ぞに包まれ、日本とアメリカは興味深い国
方を理解するようになり、おもしろい。な
かし、知れば知るほどその国の人々の考え
の経験では考えられないくらい変な国。し
多民族の万華鏡、面白くて多様な国。僕
ーストラリア人ですので原爆については関
のことは大変だと思っていましたが僕はオ
いいかわかりませんでした。広島や長崎で
ってしまいました。どんな気持ちで歌えば
に心から歌おうとしたら、自分の心が戸惑
しかし、間違っていました。僕はこのコ
心がありませんでした。
JETプログラムでの三年間は、他のこ
ンサートの前にアメリカ人の友達と沖縄旅
です。
とを忘れてしまうくらい日本のことに集中
友達が絶対行きたいといった場所は僕が知
らな かった ところ、ひめゆ りの 塔でした。
行 を計画していました。本 島に到 着して、
挑戦しました。その中でも日本の歌を習い
少し解説しますと…一九四五年の沖縄戦に
していました。日 本の言語や文 化の勉 強。
たいという小さなきっかけで、単なる日本
二二二人の女学生と一八人の先生が看護部
日本全国巡り。餅つきや茶道、合唱団にも
の文化だけではなく、多くのことについて
隊に指命され、沖縄戦の恐ろしい三カ月の
間にひめゆりの学生は前線で手術したり、
学ぶことができました。
僕は歌が非常に好きです。マイクを離さ
ない傾向があり、家にいる時はいつも日本
の音楽を聴いています。でも、日本人みん
なが知っている歌や学校で聞く歌はわかり
講座の存 在を知ったとたん登録しました。
ません。だからレッツコーラスという合唱
先生や他の講座のメンバーは歓迎してくれ
ました。コーラスを五カ月くらいやったこ
ろ、八月に皆で参加できるイベントの知ら
せがありました。長崎からピアノが運ばれ
て栃木にやってきました。原爆の時にあっ
た、歴史のある被爆ピアノ。
一曲目は「 Believe
」
。なめらかなメロデ
ィーと未来へ向かう歌詞で比較的新しい曲
的な歌。そして三曲目、
「消えた八月」
。原
です。二曲 目 は「 ふるさと 」
、日 本の 伝 統
爆の時の話で切ない曲です。いつもみたい
c声を合わせて一緒に歌った37人の栃木県民
自治体国際化フォーラム Feb. 2010 36
学生は亡くなってしまったそうです。
一緒にどうくつで生活をしていて、多くの
人かは数え切れない軍人のけが人や死体と
介護したりしました。戦争の終わり頃に何
「 Believe
」無 事 終 了。二曲 目「 ふる さ と 」
も。そして一番感動にあふれている三曲目、
的 で は な い 視 線 を 感 じ ま し た。一曲 目、
見ているような気がしました。あまり好意
ージに上がった時、多くの人が僕のことを
いておらず、名前と写真だけでした。ステ
ました。JETプログラムは日本人と外国
関わりや経験ではなかったことなので驚き
る国についてこんな深く考えさせられると
JETプログラムで二つの絡み合ってい
成長したと思います。
す。被爆ピアノと演奏できた経験で自分は
思っていませんでした。自分の国の人との
受けました。僕がよくわからなかったこと
「消えた八月」
。
ひめゆりの学生の体験談を読んで衝撃を
を、僕のアメリカ人の友達が色々説明して
持ち、それから若い女学生たちと戦ってい
光に撃たれて、僕は壁に溶けた
熱い光の中で僕は一枚の絵になった
の人ともその人の文化を見落とさないよう
ことは予想もしませんでした。今はどの国
る外国人同士で文化交流をしているという
人を結んでいるだけではなく、来日してい
るアメリカ軍人の気持ちが分かってきたよ
ふるさとに黒い雨が降る
くれました。参戦する若い女学生たちの気
うな気がしました。胸が詰まって、泣き出
でしょうか?まだまだわからないことがた
無力感。あの人々もこんな気持ちだったの
して、客席の方に目を向けました。良く見
まれていました。僕は泣かないように努力
たちの声が混ざりあい、歌以上のものがう
曲の重さ、被爆ピアノの音色、そして僕
の日のできごとのおかげで。
りを大事に思い始めています。あの暑い夏
けではなく、ある文化とある文化のつなが
がたくさんあります。徐々に日本の文化だ
にしています。僕たちに教えてくれること
くさんあったけれど、この気持ちだけは明
しそうになりました。この…切なさ、この
らかでした。今のこの気持ちを演奏の中で
ると、皆は思い出の涙で頬をぬらしていま
した。
オーストラリアのメルボルン
出身で栃木市教育委員会で外
国語指導助手として勤めさせ
ていただいています。中学校
から僕は日本語を勉強して、
2004年にメルボルン大学か
ら京都の立命館大学に1年間
留学しました。その1年間が
印象に残ってまた来日したい
と言うことでJETプログラム
に参加。趣味はもちろん歌う
ことと料理やドライブです。
将来の夢は幸せになることで
す。
表したい。
ついにコンサ ー トの日 が 来 ました。
「被
2010
37 自治体国際化フォーラム Feb.
人が経験の積み重ねからできているよう
Joshua Brown
爆 ピアノと朗 読のコンサート 」
。前 半 は ピ
に国も国としての経験の積み重ねからでき
事にしている価値観について知ることがで
アノの説明と原爆の時の話の朗 読でした。
きるでしょう。僕は今まで自分の国につい
ているものだと思います。国の歴史を考え
はようやくス
ステージにある被爆ピアノは爆心地から約
テージに上が
て考えたことがありませんでした。もちろ
ることで、民族のこころや考え方を感じ取
り ま し た。 プ
ん 他の国 も。しかし、徐 々に 探 りな がら、
一・五キロしか離れていませんでした。完
ログラムの中
自 分 の 国 や 他 の 国 につい て 考 え 始 め ま し
ることができるでしょう。つまり、二つの
に僕 がオース
た。そして、関係ないと思っていたものに
璧に残っていなかったけれど、復元されま
トラリア人と
対 し て 知 ら ん 顔 を し な く な って き て い ま
国の歴史を顧みることでその二つの国が大
いうことは書
し た。 僕 た ち
c 無数のガラスの破片が刺さっ
た、歴史のある被爆ピアノ
Do You Really Understand Japan?
Before coming to Japan through the JET Programme I studied
Japanese language, linguistics, history, and literature in college as part of
my minor in Japanese studies. In addition, I spent two months living in
Osaka, taking day trips to various famous sights around Kansai, and even
spending the New Years Holiday in Kyoto. After all of that I thought I
understood Japan pretty well. I thought that the JET Programme would
make good use of my studies, and that I would be well prepared to live
anywhere in the country. I applied, interviewed, and after a brief stint as
an alternate, was given a position.
I was told I would be going to Ugo town in the south of Akita
prefecture. I remained confident that I would be just fine, after all I had
spent some time studying about and living in this country. Once off the
plane, my supervisor helped me shove my stuff in the BOE's car, and we
started back to Ugo. It was then that my plans started unraveling. The
entire ride back was an epic struggle to understand his Japanese. I had
never heard anything like it. The place names along the road used either
kanji I had never seen, or used bizarre spellings that I would never have
imagined. Even the part of Ugo I live in has a kanji spelling that didn't
seem to match up with the phonetics I had learned.
My first year in Japan as an ALT was spent in my tiny, but charming
rice farming town, learning to know the "Real Japan" as countless CLAIR
officials and former JETs had told me I would. The one I thought I knew
but, now very obviously, did not. There were no hotels, no big restaurants,
no concerts, no stores open after 7pm, and absolutely no young people.
The only things there were in abundance were rice fields, crows, Japanese
cedar, snow, and, oddly enough, barber shops. I learned about the history
of my town. I learned about its festivals and traditions. I even learned the
local dialect as best I could. For one entire year I rarely ever ventured
out of Southern Akita, and I only left the prefecture once. Don’t get me
wrong here. I love Akita. In fact Akita, Ugo in particular, has become like
a second home to me. However, I kept getting this feeling that, surely this
couldn't be it. I couldn't be as naive as to think that the "Real Japan" could
consist of just one small area of Akita prefecture. I knew that I was wrong
about Japan, but I wanted to know just how wrong.
I started small, with a trip to Sendai. Then I went on a self-guided
mini tour of Iwate with some friends. We hit Morioka, Hiraizumi,
Ichinoseki, Yuda, and Okunakayama Kougen (whose station had a
yorkshire terrier as its station master.) Next we tackled Aomori. We went
to Hachinohe, (where I encountered a decent Nicholas Cage look-alike,) Lake Towada, Takko (the garlic capital of Japan), and most notably
Shingo (where Jesus is allegedly buried). During subsequent holidays, my
trips became more and more elaborate. One rather ambitious golden week
holiday saw me on an eight day trip down the Japan sea coast with 3 other
ALTs. We drove through Yamagata, Niigata, Toyama, Ishikawa, Fukui,
Shiga, and Gifu, getting to know each prefecture as best as we could.
A Hot Day in August
Interesting and diverse, a kaleidoscope of different peoples. Strange
and foreign lands unfathomable to my limited experience. But the more I
learn, the closer I come to understanding what makes people tick. Japan
and America are interesting countries, lands shrouded in mystery.
Up until my third year on the JET Programme, I was so focused on
Japan that I really didn’t see much of anything else. I studied the language
and the culture. I traveled all over the country. I tried my hand at making
mochi, tea ceremony classes, and even joined a Japanese choir. Through
a seemingly benign decision to learn some Japanese songs, I ended up
learning about more than just Japan.
Singing is something that I love to do. I have a tendency not to let
go of the microphone in karaoke, and I listen to Japanese music nearly
all the time at home. But the types of songs I hear at school, the songs
that almost all Japanese people know, escape me. I heard about a “Let’s
Chorus” singing group that was run once a week at my local youth centre
and signed up without hesitation. The teacher and the other members of
the class welcomed me with open arms, and about five months in, she told
us about an event in August we could participate in if we wished. A piano
was going to be brought up from Nagasaki--- a piano with a history dating
back to the release of the atomic bomb.
First, there was “Believe,” a relatively modern song with a
39 自治体国際化フォーラム Feb.
2010
lighthearted melody, and lyrics which speak of the future. “Furusato,”
a traditional Japanese song that speaks of home, and “The Vanishing
August,” a haunting melody about the harrowing effects of the atomic
bomb. I approached learning the songs the way I usually do – from the
heart. But this time, my heart didn’t really know what to make of these
songs. I had always thought that the events of Hiroshima and Nagasaki
were important events in history, but I didn’t have any strong feelings
towards them as an Australian.
Or so I thought. I happened to book a holiday to Okinawa with an
American friend before the month of the recital. We arrived at the main
island, and one of the places my friend was adamant about visiting was
a place called “Himeyuri no tou,” a place that I was not familiar with. A
little background: 222 female students and 18 teachers were formed into a
nursing unit during the Battle of Okinawa in 1945. The Himeyuri students
were on the battlefront, performing surgery, nursing and other duties for
most of the terrifying three month long battle. Near the end, many were
living in dark caves filled with countless injured and dead soldiers, and
many others were dead.
I was deeply shocked by the accounts and testimonies of war from
the Himeyuri students. My American friend was on hand to explain the
things that I did not understand, and before we left I felt what it might
have felt like for the young girls to go to war, and the American soldiers
Patrick Costello
The most profound moment on this trip came quite unexpectedly in
Northern Fukui. It had gotten dark and we had gotten lost searching for a
place to camp reasonably close to the famous Tojinbo suicide cliffs. We
wandered into a small coastal town called Mikuni. All of the camping
sites were closed and we were exhausted. So we parked at the aptly named
“Mikuni Friendship Beach” and decided to grab some food in a local cafe
and figure things out. After finishing our food, we prepared to leave and
asked the owner of the cafe if he knew anywhere that we could camp for
the night. He told us we could camp on the beach for free, and invited us
to come back whenever we liked. We decided after setting up the tent to
go back to the cafe and have a few beers, after all, they seemed like nice
enough people.
As it turns out the cafe's owner used to tend bar in Australia and had
lived in a numerous other Southeast Asian countries, and therefore loved
talking with foreigners. We were even more surprised to hear that this
town was a popular place for surfing. As the night went on it was revealed
not only that everyone who was in the bar that night surfed, but that in this
town you can only do winter night surfing. That’s right, surfing at night,
in February, often in the snow. The locals were all quite surprised that we
had come all the way from Akita. They were interested both to hear what
life was like there, and in hearing some Akita-ben. After a wonderful night
of cold beer and warm conversation, we ended up leaving with phone
numbers, email addresses, maps, recommendations for travel and food,
an invitation to their yearly reggae festival, and an original drawing by a
local fisherman/artist, who happened to be there trying to get a few hours
respite from the ire of his pregnant wife.
My most recent trek took me skydiving in the country-side of Tochigi,
and crawling around in a limestone cave in the secluded mountain villages
of Fukushima. In addition to that, I stumbled upon an Ayu (sweetfish)
festival in Shirataka. A town in Yamagata that still uses a huge bridge-like
trap, called a yana, to catch the highly prized fish on the Mogami river.
Every new place I visit leads to new understanding of a country I thought
I understood.
If I were to take the self-assessment my teachers often assign
my students, I would have to say that I didn't have any better an
understanding of Japan than some of my students do of my country. I
didn't come to Japan thinking I would be learning much, but as ministers
of cultural exchange, I now realize that the nebulous quest of grassroots
internationalization we are sent here to spearhead is a door that must
swing both ways. Learning is as essential as teaching, and if you’re doing
it right someone might push you out of a helicopter, give you a bunch of
apples, have their wife cook you a steak, or even better things I haven’t
discovered yet.
英語
Joshua Brown
to fighting them. My chest grew tight, and I could feel tears welling in
my eyes. This… sorrow, this sense of helplessness...Is that what they felt?
I had so many questions, yet one thing was clear. I wanted to remember
these feelings, and put them into my performance.
The day of the recital came around, which was not just a recital,
I soon learned. The first half of the concert was information about the
piano, and a reading about the times of the bombings. The piano had been
only about 1.5 kilometers from the epicentre of the blast, and while not
surviving completely intact, had been restored. We took to the stage. It
was not indicated in the concert programme that I was Australian; only
my name and face were included. I felt like all eyes were on me as I stood
on the stage, and it didn’t seem like the looks I was getting were the good
kind. We sang. First, “Believe,” then “Furusato.” Then finally, the most
moving piece, “The Vanishing August.”
In a blaze of heat, you became a painting on the wall…
Hit by the light, I melted into the wall…
A black rain falls on our home.
I fought back tears as the weight of the song, the mellow sound of the
special piano, and our voices merged to create something more than just
a song. As I looked out into the audience, I saw people who had lost the
fight, their cheeks stained with wet memories.
I believe that just as a person is the sum of his or her experiences, so
is a country. Thinking about the events in the past of one country can give
you so much insight into how the people of that country think, and feel.
To that end, reflecting on the past of two countries can tell so much more
about the attitudes and values that each holds dear. I had not given much
thought about the past of my own country, let alone another. But slowly
and through many questions, I have begun to contemplate countries
outside my own, and have begun to feel more than indifference in regards
to things that I used to feel did not concern me. I feel enriched through my
experience with the piano from the times of the bombing.
I never thought that I would learn so much about two intertwining
countries while on the JET Programme. Suprisingly, it was through
interactions with people and experiences not involving my own country.
The JET Programme is great in that it brings Japanese people together
with 'foreigners,' while also bringing people of different nationalities
together in an invaluable exchange of cultures in ways I had neither
expected nor anticipated. I am starting to take more notice of the people
around me now, and the valuable information they have to impart. Slowly,
I am beginning to appreciate the interactions between cultures, and not
just focus on Japanese culture, all thanks to the experiences leading up to
a hot day in August.
英語
自治体国際化フォーラム Feb. 2010 38