無極流兵法 宝蔵院 胤舜 ︻注意事項︼ このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にP DF化したものです。 小説の作者、 ﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作 品を引用の範囲を超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁 じます。 ︻あらすじ︼ ︶時代劇。 江戸崎から出て来たイナカ者、土子泥之助が、江戸の町で悪党相手 に大立ち回りの本格︵ ﹁小説家になろう﹂にも投稿しています。 ? 目 次 無極流兵法 │││││││││││││││││││││││ 1 無極流兵法 ◆無極流兵法 ﹁うひゃー、これが江戸か、凄い物だ﹂ 土子泥之助は、日本橋の上に立って、溜め息をついた。 享保八年︵一七二三︶春、八代将軍吉宗の倹約令も何処吹く風と、 人々は元禄の頃から続く爛熟し切った文化に浸って、我が世の春を満 喫していた。天下泰平、平穏無事なご時世であった。 常陸の国は江戸崎の、一羽流剣術無手類︵むてのたぐい︶無極流兵 法宗家の二男に生まれた泥之助は、 ﹁冷や飯食い﹂の身分で気楽に暮ら していた。無極流は、師岡一羽の高弟・土子泥之助が編み出した兵法 ﹂と で、二百年余り続いている古流である。彼の名は、流祖から貰ったも のである。 一人暇をかこっていたある日、父・一之助が﹁世間を見て来い 一言、二十両を渡して家から彼を追い出した。さて、追い出されたと ころで、泥之助には外に身寄りが無い。どうせ身寄りが無いのなら、 行き着く所は都しか無い。彼の足は自然と江戸に向かっていた。 江戸へは、つい先程着いたばかりである。 ﹁さてと、何か職にでも就けたらいいのだが⋮⋮。﹂ 何よりも、先立つものは金である。といって、泥之助は侍であり、し かも道場の息子である。出来る事といえば、百姓仕事かやっとう事く らいである。とりあえず、近所の町道場へ出掛けてみた。師範代でも して身銭を貰おうと考えたのである。 しかし、その考えは甘かった。町道場の師範代は、意外とぼろい商 売である。そこに、余所者を受け入れる余地があるはずも無い。全て 門前払いであった。しかも、何処へ行っても精神修養と称して、表面 だけの形稽古ばかりであった。 半日ほど回ってみたが、何ら収穫は無かった。ただ疲れただけであ る。 ﹁参った。まあ、当座は困らないにしても、これは口入れ屋行きか﹂ 1 ! ガックリと肩を落とした泥之助に、小男がぶつかった。 ﹁お、ご免よお侍さん﹂ 小男は、軽く挨拶しただけで、そのまま人混みの中に消えてしまっ た。 ﹁やれやれ、江戸ってのはせわしないのだな﹂ そんな事を呟いているうちに、結局また日本橋まで戻って来てし まった。とりあえず、近くの茶屋の床几に腰掛けて、だんごと茶を頼 んだ。だんごを頬張りながら通りを見る。小ぎれいな町娘、偉そうな 武士、一心太助や大工や商人、様々な人々が続々と往来を行き来して いる。田舎者の彼にとって、このような雑踏を見るのは初めての事で あった。 ﹁娘さん、おあいそ﹂ 泥之助はそう言って、懐に手を入れた。その瞬間、体が強張った。 巾着が無いのである。そこで、はたとあの小男の事に思い当たった。 ﹂ ﹂ いった食い逃げや、借金の踏み倒しも多かった。みすぼらしい身形を した武士は、一様に信用が無かったのである。 ﹁いや、そんな心算は無い。掏られたのに気が付かなかったのだ。本 当なのだ﹂ 泥之助がしどろもどろになって弁解している所へ、後ろから声が掛 けられた。 ﹂ ﹁おいとちゃん、その方はあたしの連れだよ。あたしが払うから、それ でいいでしょう ﹁あ、大仲屋さん﹂ 泥之助がおいとの目を追うと、そこには大店の娘風の、小ざっぱり とした美人が立っていた。年の頃なら十七・八という所か。 2 ﹁やられた⋮⋮ ﹁どうしたんです、お侍さん ﹂ ? 娘は怖い顔をして睨み付ける。この頃、食い詰め浪人が多く、そう ﹁お侍さん、食い逃げしようってんですか ﹁娘さん、すまぬ。巾着を掏られてしまって、今文無しなのだ。﹂ 茶屋の娘が、怪訝そうな顔で泥之助を見る。 ? ! ? ﹁六文でいいの ﹂ ﹁はい。有難う御座います﹂ 美人はさっさと払いを済ませると、泥之助を促した。 ﹁さ、行きましょう﹂ ﹁あ、ああ。どうもかたじけない﹂ 泥之助は、おいとに軽く頭を下げると、美人の後について歩き出し ﹂ た。礼を言おうと泥之助が口を開きかけた時に、娘の方が先に問いか けて来た。 ﹁ねえ、お侍さん、何で食い逃げなんかしようとしたの ていた。 ﹂ ﹂ 恵はそう言って笑った。美しさと気風の良さが、違和感無く調和し そうしてるから﹂ け て ね。あ た し は 大 仲 屋 恵。恵 っ て 呼 ん で く れ て 良 い わ よ。み ん な ﹁江戸は﹃生き馬の目を抜く﹄なんて言われるほどの所だから、気をつ なりえらい目に遭ってしまったでござるよ﹂ 崎から出て来たばかりだったのだが、右も左も分からない内に、いき ﹁本っ当にかたじけない。あ、拙者、土子泥之助でござる。今日、江戸 なっちゃったのよ﹂ なたは、あんまり悪そうには見えなかったからね。つい手助けしたく 言葉を切って、野暮ったい泥之助の姿を見直して、小さく笑った。﹁あ ﹁あら、いいのよ別に。江戸っ子ってそんなものよ。それに﹂娘は一寸 舎者を助けてくれて⋮⋮﹂ 逃げの汚名を着せられる所でござった。拙者の様な見ず知らずの田 も角、本当に有難う。おかげで助かったでござる。だんご一皿で食い ﹁面目無い﹂泥之助は、照れ笑いを浮かべつつ頭を掻いた。﹁それは兎 ﹁あらあら、無用心なお侍さんだこと﹂ のだ。金はちゃんと持っていたのでござるよ﹂ ﹁だから、違うのだ﹂泥之助はムキになって反論した。﹁先刻掏られた ? ﹁大仲屋⋮⋮。という事は、何かの店をやっているのでござるか ﹁そうよ。何か ﹁いや、一体何処の藩のお姫様かと思ったもので﹂ ? 3 ? ? ﹁あら﹂恵は笑った。﹁田舎から出て来た割には、お世辞が上手なのね﹂ ﹁いっいや、別に世辞などは⋮⋮﹂ 恵に言われて、泥之助の顔が朱に染まる。 言葉も反応も、実に正直である。 ︵なんか可愛いな、このひと︶ 恵は、この朴訥な田舎侍が、何となく気に入ってしまった。 ﹁恵殿、本当に有難う。﹂泥之助は軽く頭を下げた。﹁恩に着るでござる よ﹂ ﹁別に気にしないでって言ったでしょう﹂ ﹁かたじけない。それでは失礼﹂ 泥之助はそう言うと、くるりと恵に背を向け、何処かへ行こうとす る。一瞬呆気に取られて身動きも出来なかった恵だが、直ぐに我に返 ると、慌てて泥之助の袖を捉まえた。 ﹁ちょ、ちょっと待ちなさいよ﹂ に、何処へ行こうって言うの ﹂ ﹁いいのっ どうせ行く当てなんてないんでしょ ﹂恵は泥之助をぴしゃりと押さえ込んだ。﹁人の好意は素 ﹁いやあ、そこまで甘えてしまっては・・・﹂ さいよ。当座のお足くらい工面したげるからさ﹂ ﹁ほら御覧なさい。どうせ当てが無いんなら、とりあえずうちに来な ﹁まあ、別に﹂泥之助は方をすくめた。﹁先ずは職探しでも⋮⋮﹂ ? られている、と噂されるほどの客本位の商売人であった。 と言われ、 ﹁良い物を安く売る﹂その商売は、他の同業者からは疎んじ だが、江戸日本橋、呉服の大仲屋と言えば、気風の良さでは江戸随一 恵の父、勘兵衛は、そう言って何度も頷いた。泥之助は後に知るの ﹁そうですか。それはお困りでしょう﹂ そういう事になってしまった。 ﹁│││はい﹂ 直に受けておくものよ。特に困ってる時はね﹂ ! 4 ﹂ ﹁何か ? じ ゃ な い で し ょ。だ ん ご の 代 金 も 払 え な い 一 文 無 し の く せ ﹁何 か ? ? ﹁かたじけない。見ず知らずの田舎侍に、このように良くして頂いて﹂ 泥之助は深々と頭を下げた。結局、十両を﹁ある時払いの催促無し﹂ で借り受けた。本当は﹁返さなくて良い﹂と勘兵衛が言うのを、泥之 助が懸命に頼み込んで、とにかく返す、という形にして貰ったのだっ た。 ﹁まあ、ここは天下のお膝元ですからな。やろうと思えば、どんな仕事 でもありますよ。人の道に背かぬ事ならば、どんな事でもやって見れ ば良いんですよ﹂ 勘兵衛は笑いながら言った。 親父と同じ事を言うなぁ。 知らず、泥之助も笑みがこぼれた。 その時、俄かに表が騒がしくなった。勘兵衛の温和な顔が引き締ま る。 ﹁ちょっと失礼します﹂ ﹂ ﹂ そいつ等は勝手に寄合を作って、値段を決めてるの。それが随分高く してるから、うちでは反対して、なるべく安く売るようにしてるんだ けど。寄合の連中にはそれが面白くないのよ。それで、しょっちゅう その辺のごろつき侍を使っては、うちに嫌がらせをしてくるのよ﹂ ﹁そんな悪い奴が居るのか﹂根が真っ直ぐな泥之助は憤慨した。﹁そん ﹂ な悪い奴なら、お上に訴えて取り締まってもらえば良いのではござら ぬか ﹁何故でござる ﹂ らね。あたし達が一寸騒いだって、お奉行様の耳に入る前に握りつぶ ﹁寄合の方はね、お役人とも仲が良いのよ。お金をばら撒いているか ? 5 勘兵衛はそう言って立ち上がると、部屋を出て行った。 ﹁どうしたのでござるか ﹁あいつ等 ﹁どうせ、またあいつ等だわ﹂ 泥之助がのんびり尋ねると、恵は憎々しげな口調で答えた。 ? ﹁ええ。日本橋には、うち以外にも何軒か呉服の大店があるんだけど、 ? ﹁それがね、そう上手くは行かないのよ﹂ ? されちゃうわ﹂ そう言って、恵は小さく溜め息をついた。今までに何度かそういう 事があったのだろう。 泥之助の胸に、沸々と怒りがこみ上げて来た。理不尽な事は許せな ﹂ い性分なのだ。泥之助はすっくと立ち上がると、小さく呟いた。 ﹁ぶっとばす﹂ ﹁あ、ちょっと待ちなさいよ 恵が止める暇も無く、泥之助は表に飛び出した。表には三人の浪人 者が我が物顔でのさばっていた。土間に反物が幾つも転がっている。 何やらごねて暴れたらしく、店の使用人達は皆怯えて隅に引っ込んで いる。勘兵衛は一人で狼藉者達に対していた。兎に角下手に出て、嵐 が過ぎるのを待っているようだった。 ﹁ふざけるなよ、おっさん﹂刀を肩に担いで、浪人組の頭らしき男が喚 いている。﹁俺達は別に、一両二両の端金を貰いに来たわけじゃねえ んだ。お前らの商売が気に食わねえから、ぶっ潰してやろうと思って 来ただけよ﹂ ﹂ ﹁手前どもは、ご浪人様のお怒りに触れる様な事はしていない心算な のですが⋮⋮﹂ ﹁その口の利き方が気に食わねえっつってんだよ 男は土足を板間に上げて、息巻いた。 ﹁うるせえんだよ、お前は﹂ ﹁いっ痛てぇなこの野郎 ﹂ 頭を小突いた。ごんっと小気味良い音がして、男は仰向けに倒れた。 泥之助は言うなり、勘兵衛の頭の上から鞘ごと刀を伸ばして、男の ! 泥之助の刀は、男が、そして他の侍達が持っている﹁元禄刀﹂と呼ば れる、刃渡り二尺五寸の刀を遥かに上回る、四尺近い長大な刀である。 抜き合わせてみれば、長さで相手が勝る、そう踏んだのだ。 ﹁何だよてめえは﹂ ﹁行き掛かり上、ここで世話になっている者だ﹂ ﹁け、用心棒かよ﹂ 6 ! 男は喚きながら刀に手を掛けたが、泥之助を見て一瞬とまどった。 ! ﹁残念だが、外れだ﹂ 泥之助はそう言うと、再度刀を伸ばした。喧嘩慣れしている浪人 は、間合いを計って退いた。しかし、 ﹁元禄刀﹂の間合いが染み付いて いた彼は見切りを誤り、もう一度同じ場所を小突かれた。しかも今度 はかなり力が入っていた。がんっとかなり凄い音がして、男は白目を ﹂ ﹂ 剥いて倒れた。一撃で気を失っていた。 ﹁てめえ ﹁上等だ、表へ出ろ 残った二人が息巻いて泥之助を睨み付けた。泥之助は黙ったまま 顎をしゃくった。 三人が表へ出ると、ぐるりと野次馬の輪が出来た。 ﹁おいてめえ、許しを乞うなら今のうちだぞ﹂ 浪人の一人が凄んだ。 ﹁何言ってんだ。悪い事をしたのはお前等の方だろう。謝るのはお前 等だ﹂ ﹂ 泥之助は一向に堪えない。 ﹁ふざけんな ﹂ そう言って、泥之助はようやく刀を引いた。浪人二人はすっかり戦 今度こんな事していやがったら、迷わずその首を飛ばすぞ﹂ ﹁こんな馬鹿げた事をやってないで、まともに生活する口を見つけろ。 刀を引かない。 泥之助の問いに、浪人は目で否定を訴えた。しかし、泥之助はまだ 欲しいか ﹁本当は刃を寝かせて首筋︵※1︶を斬るんだが⋮⋮。どうだ、やって 先が、男の喉元につき付けられる。 た。その動きに合わせて、泥之助は一歩踏み込んだ。長大な刀の切っ だけで威圧感がある。だが、気丈にも浪人の一人は刀を振りかぶっ 泥之助はあくまで淡々としながら刀を抜く。四尺ほどの刀は、それ ﹁別にふざけちゃいねぇよ﹂ めきながら広くなる。 業を煮やした浪人二人は、ついに刀を抜いた。野次馬の輪が、ざわ ! 7 ! ! ? 意を喪失して、まだ気を失っている仲間を引きずる様にして、ほうほ うの体で逃げて行った。それを見送ると、泥之助はゆっくりと刀を納 めた。 ﹂ その途端、周りの野次馬から拍手が起こって、泥之助は目を丸くし た。 ﹁およ、何だこりゃ 町人達は、食い詰め浪人達の狼藉にはかなり鬱憤が溜まっていたら しい。そんな浪人を、泥之助が散々に打ち負かしたので、胸がすっと したのだろう。 ﹁土子さん凄いじゃない﹂恵が驚きも顕わに言った。﹁申し訳ないけ ど、あたし、土子さんが浪人達に酷い目に遭わされるんじゃないかと、 はらはらしたのよ﹂ ﹁まあ、拙者の特技はこれだけでござるから﹂ 泥之助は、少し照れながら笑った。 結局、泥之助は大仲屋が手配してくれた長屋に住む事になった。布 団や食器類も、古い物を大仲屋から﹁買い﹂受けた。また、同じく大 仲屋の紹介で、浪人の定番内職、傘張りを世話して貰った。傘張りの 内職は歩合制である。一定数を作る必要は無いので、時間を自分の思 う通りに使える、泥之助にとってはまたと無い仕事であった。 恵は、泥之助がこの長屋へ越して来てからは、ちょくちょくここへ 遊びに来る様になっていた。﹁土子さん﹂だった呼び方も何時しか﹁泥 さん﹂になり、長屋の近所のおばさん連中が、 ﹁あの浪人さんも、隅に置けないねぇ﹂ などと噂をする程であった。 少し間を開けて、恵が長屋へやって来た。店の棚卸しに手間取っ ﹂ て、なかなか時間が取れなかったのである。 ﹁泥さーん、いるー 恵は戸を勢い良く開けると、そのまま止まってしまった。狭い部屋 の中は、子供達で一杯だった。皆丁度昼寝をしているので、静かなも のである。そんな中で泥之助は、部屋の隅に追いやられた様に小さく なって、包丁を研いでいた。 8 ? ? ﹁やあ、恵殿、こんにちは。今昼寝中だから、少し静かにお願いするで ござるよ﹂ ﹁ちょっと、どうしたの、この子達﹂ 恵が声をひそめて尋ねた。 ﹂ ﹁いや、近所のおかみさん方が出掛けている間、ちょっと子守を頼まれ て﹂ ﹁最近、こんな事ばかりしてるの て、恵は微笑みながら言った。 ﹂ ﹁泥さんて、本当に優しい人なのね﹂ ﹁そうかなあ 本人はいたって呑気である。 ﹁オラーッ ﹂ その時である。 た。﹁なぁんか、とっても泥さんらしくて、いいなぁ﹂ ﹁ふうん﹂恵は、泥之助のその呑気さに、一種の憧れに近い感情を抱い ござるよ﹂ おかずを分けてくれたりするのだから、拙者は逆に助かっている位で の延長でござるよ。それに、こんな事をするだけで向こうから晩飯の ﹁当たり。まあ、拙者、田舎ではよく鎌等を研いでいたから、これはそ ﹁で、どうせその包丁も、近所のおばさんに頼まれたんでしょ ﹂ 泥之助は、そう言ってにこにこと屈託無く笑った。そんな彼を見 んでござるよ。たまに小憎たらしいけど﹂ ﹁いやいや、まだ二、三回くらいでござるよ。いやあ、子供は可愛いも ? んぴらが六人程、どやどやと入り込んで来る所であった。畳の上に土 足で上がって来る。その後ろには、氷の様な冷たい目付きをした浪人 が一人、これは表に立ったままで居る。 突然の騒ぎに叩き起こされた子供達が泣き出した。 ﹁やかましい、餓鬼共﹂ ちんぴらの一人が、目をギョロリとさせて凄むと、子供達は泣き声 をひそめた。声を殺して泣きながら、部屋の隅に固まり、怯えている。 9 ? ? がなり声と共に、表戸が蹴り破られ、恵は飛び上がった。見ると、ち ! ﹁ちょっと、あんた達 ﹂気丈な恵が、ちんぴらに食って掛かった。﹁何 よあんた達は。人の家に乱暴に押し掛けて来て。子供達だって可哀 そうじゃないの﹂ ﹂ ﹁うるせえぞ、あま。俺達は、そこの田舎侍に用があるんだ﹂ ﹁何の用でござるか あれ、俺達の家に出入りし 泥之助は、場の雰囲気にそぐわぬ、のんびりとした態度で応じた。 包丁を置いて立ち上がる。 ﹁あんた、こないだお侍さんをのしたろう ている方々でな。ま、お礼参りって奴よ﹂ ﹁ならば、子供やご婦人は関係無いな﹂ だろが﹂ ﹁﹃袈裟まで憎い﹄じゃないのか ﹂ ﹁てめえ、侍の癖に学がねぇな。﹃坊主憎けりゃ皿まで憎い﹄って言う ? ﹁何よ、それ ﹂泥之助がのんびりしている分、恵が頑張る。﹁黙って たのが、こいつらの運のツキってこった﹂ ﹁とにかく﹂ちんぴらは、泥之助の茶々を無視した。﹁てめえに関わっ ? ﹂ 止められたら逆恨みして。男として恥を知りなさい、恥を ﹁黙れ、畜生 ﹁女はすっこんでろ ﹂ らって、恵は子供達の所まで吹っ飛ばされた。 ﹂ ちんぴらが怒鳴りながら、左甲で恵を張り飛ばした。まともに食 ! ! う一人を巻き込みつつ表まで転がり出た。 俺︵・︶は怒ったぞ ! と、巻き添えで表に転がった男の股間を蹴り上げた。男は口から泡を ︵※5︶て、あっという間にのしてしまった。泥之助は表に飛び出す 一人は腹に肘︵※4︶当て、残る一人は投げと同時に胸に肘を落とし も無かった。一人は顔面に三発の﹁中楔︵なかくさび︶﹂ ︵※3︶、もう 泥之助が腹に響く程の声で怒鳴った。何時もの温厚な様子は微塵 ﹁てめえら、ふざけるのも大概にしろ ﹂ ち︶﹂ ︵※2︶がちんぴらの腹にめり込む。ちんぴらは吹っ飛んで、も ちんぴらがそう言った時、泥之助が動いた。右の﹁平︵ひら︶槌︵づ ! 10 ! ? 聞いてりゃ、好き勝手な事言って。自分が悪い事をしておきながら、 ! ! 吹いて倒れた。 ﹂ 泥之助は、そこに立っている浪人を睨み据えた。 ﹁先生、頼ンますよ ﹂ 腹に肘を食らった男が、苦しそうにわめいた。 ﹁ああ言ってるが、どうする 泥之助は淡々と問う。 ﹁身が震えるな﹂ 無理に笑顔を作る。 ﹁長い刀だな。古流か ﹂ 泥之助はぽつりと答えて、恵の手の中から刀を抜いた。 ﹁恵殿の仇討ちも、でござる﹂ ﹁うん。だから、こいつをやっつけて。子供達を怖がらせた罰よ﹂ ﹁大丈夫でござるか ﹂ 泥之助が見ると、頬の赤く腫れた恵が、四尺刀を持って立っていた。 ﹁泥さん、はい﹂ それを見てゆっくりと身構えた泥之助に、刀が差し出された。 文字通り肉斬り包丁である。 浪人、石森正九郎はそう答えると、ぞろりと刀を抜いた。白研ぎの、 ? ﹁イヱイッ ﹂ ぶれた。正九郎はその瞬間を逃さなかった。 でかわした。薄く頬が切れる。小柄を避ける動作で、泥之助の剣尖が 光る物が飛んだ。泥之助の顔を目がけて閃く。泥之助は顔の皮一枚 正九郎が、右に体を捻り、ためを作った。次の瞬間、左手から何か 四尺刀で青眼に構えられるのは、正九郎にとって攻め辛い形である。 な い。そ の ま ま 刀 を 右 八 双 に 構 え る。対 す る 泥 之 助 は 青 眼 で あ る。 正九郎が問うた。泥之助は答えない。正九郎も答えは期待してい ? あった。次の瞬間、彼の足元に何かが落ちた。彼自身の右手首であっ た。泥之助の﹁川止︵かわどめの︶月︵つき︶﹂が︵※6︶決まってい た。正九郎は激痛と恐怖に絶叫を上げた。固唾を呑んで成り行きを 見守っていた長屋の住人達の間から、溜め息ともつかぬ声が漏れる。 11 ! ? 裂帛の気合を込めて打ち込む。彼の用心棒人生最高の打ち込みで ! 泥之助は、肘を入れた男に近寄った。その男の着物で刀の血を拭 う。 ﹁畜生﹂ ﹂ 男は手負いの獣の目で泥之助を睨んだ。泥之助は構わず男の右手 ﹂ を取り、手首を内小手に極める。 ﹁ギャッ ﹁ギャッっじゃねえ。お前等の親分は誰だ ﹁い⋮⋮市松親分だ﹂ ﹂ ﹁馬鹿野郎。その親分に、大仲屋を苛めるよう頼んだ奴だよ﹂ えっ越前屋だよっ 泥之助は更に小手を極める。 ﹁いて、いてててっ ! の力に物を言わせた、傲慢な男であるという。 れた紺屋町にある。恵の話では、寄合の元締はこの越前屋であり、金 翌日、泥之助は朝から長屋を出た。越前屋は、日本橋からは少し離 屋の住人達は明るく茶化した。長屋に再び笑いが戻って来た。 泥之助は赤面して、そのまま硬直してしまった。そんな二人を、長 ﹁っちょっ⋮⋮ど、どうしたでござるか、恵殿﹂ 泥之助を抱き締める。何故か涙が止まらなかった。 ﹁泥さん、泥さん、良かった無事で﹂ 恵は、そう言って笑っている泥之助の胸に飛び込んだ。 を返してくれませんか﹂ 泥之助は役人にそう言うと、恵を振り返った。﹁恵殿、ありがとう。鞘 ﹁やあ、お役人さん、いい所へ来てくれた。こいつ等を頼むでござる﹂ そこへ、誰が呼んだのか、役人が駆けつけて来た。 た。 地面に押し倒した。男は頭を地面に強かに打ち付けて、白目をむい 泥之助はそう言うと、一度極めを緩め、再度小手を極め、そのまま ﹁越前屋ね。判った、ありがとよ﹂ ! ﹂ 泥之助は、この手の弱い物いじめをする輩が大嫌いであった。 ﹁御免 12 ? ! 泥之助は越前屋の暖簾をくぐると、大声で呼び上げた。番頭が、目 ! を丸くして彼を見る。 ﹁あの、何か御用でしょうか ﹂ ﹂泥之助の声が尖っている。﹁それより先に、 ゴタにはいい加減ウンザリしている。潮時だと思って、もうこんな愚 ﹁今後一切、大仲屋には迷惑を掛けるな。他の町人達もその手のゴタ ﹁ようござんすよ﹂ こちらの用件を聞いて貰おう﹂ ﹁何か用でも有るのか 市松がどすの効いた声で言う。いかにも親分然とした様子である。 は会いてえと思ってたとこでさぁ﹂ ﹁まあまあ土子さん、そうとんがらずに。丁度、あっしらもあんた様に 中間あたり、互いに手の届かない場所を陣取る。 言われるまでも無く、泥之助は座った。越前屋と市松、両方の丁度 ん、でしたな。まあどうぞ、お座りなさい﹂ ﹁これはこれは﹂越前屋彦左衛門が、嫌味な笑みを浮かべた。﹁土子さ である事は、一目で判った。 と、目付きの悪い渡世人が居た。越前屋の﹁だんな様﹂と、市松親分 番頭に促されて入ると、そこに不遜そうな顔つきをした商人風の男 ﹁こちらです﹂ 泥之助は、案内されるままに奥へと上がり込んだ。 ﹁だんな様がお会いになりたいそうです。どうぞこちらへ﹂ て来る。 番頭は、顔色を変えて奥へ入って行った。程なくして、番頭が戻っ ﹁は、はい。少々お待ちを﹂ ればお判りでござろう﹂ ﹁何、客だからと言って気兼ねは無用。﹃田舎侍が来た﹄と伝えてくれ たりだ。泥之助は内心ほくそ笑んで、言葉を続ける。 泥之助はかまを掛けて見た。番頭は思わず黙り込んでしまう。当 ﹁市松親分でござるか ﹁だんな様は、ただ今来客中で御座いまして⋮⋮﹂ ﹁うむ。主人を出して欲しいでござる﹂ ? かな事は止めて、大人しくして貰おう﹂ 13 ? ? ﹂ ﹁成る程⋮⋮﹂越前屋は判った様な顔をして頷いた。﹁では、こちらの ﹂ 話も聞いて下さいよ。土子さん、あたしの側に付きませんか ﹁どう言う事だ ? ﹂ 青臭い事の方が好きだ。だから断る﹂ ﹁大金を掴んで、面白おかしく暮らそうとは思わんのか 市松の顔は、心底不思議そうな表情である。 ﹂ ﹁拙者は﹂泥之助は、山吹色の山を見つめながら口を開いた。﹁拙者は、 越前屋の嫌らしい笑みが、泥之助を見据えた。 るだろうね 事を、あやつに知らしめてやるのさ。どうだい土子さん、乗ってくれ 度世間の厳しさを味わわせてやらんとな。この世は所詮金だ、という ﹁客の為だ、人の為だ、などと青臭い事を言っているあの大仲屋に、一 と、山吹色の光が、薄暗い部屋に溢れた。 越前屋はそう言うと、傍にあった手文庫を引き寄せた。蓋を開ける ﹁大仲屋から幾ら貰っているかは知らんが、その倍は出しますよ﹂ も困る事はありませんぜ﹂ んも、さるお役人様も付いて下さってる。金にも力にも、そして女に みたいな人を味方に付けときたいんでさあ。何、こっちには越前屋さ ﹁言葉通りの意味でさあ﹂市松が続ける。﹁あんたは腕が立つ。あんた ? ﹁越前屋さん、よくこんな芝居みたいな展開をする気になったなぁ﹂ 部屋から出ない。 市松の言葉で、郎党は半円形になって泥之助に向かった。泥之助は ﹁残念ながら、交渉は決裂した。おめえら、殺っちまえ﹂ 待ち構えていた。 分が十三人、あと雇われたらしい浪人が五人、既に抜き身を手にして 二人は立ち上がると、庭に面した襖を開けた。そこには、市松の子 ものを﹂ ﹁勿体ねえ。﹂市松は肩をすくめた。﹁その腕なら、楽して一生過ごせた うが、大仲屋や、他の町人達の迷惑になる事は止めてくれ﹂ 惑を掛けてまで手に入れたいとは思わん。だから断る。もう一度言 ﹁勿論金は欲しい。有るに越した事は無いからな。しかし、他人に迷 ? 14 ? ﹂ ﹂市松は怒鳴った。﹁部屋の中じゃあ、奴の刀は抜けねえ。 ﹁やかましい。尾を振らぬ野良犬は叩くまでよ﹂ ﹁てめえら 一気に畳んじまえ その声に、子分三人が脇差を振りかざして向かって来た。泥之助は 迷わず一番左側の男の脇差を内側へ払いつつ、外へ避ける。払われた 男は、横の男とぶつかってよろける。そこへ泥之助は横蹴りを入れ た。二人はもつれ合って倒れる。残った一人は体勢を立て直すと、今 度は真っ直ぐに突き掛かって来た。泥之助は右に体を開くと、突いて 来た相手の手を掛け取り、 ﹁流︵ながれ︶柳︵やなぎ︶﹂を︵※7︶掛 ﹂ けた。極めで肋骨を踏み砕く。その右手には、男の脇差が取られてい た。 ﹁何してやがる。相手は一人だ。とっととやっちまえ の手首の腱を斬った。いちいち一人ひとりを健気に斬り倒していて は包丁を持つようなものである。最初の踏み込みで手の届いた四人 て、泥之助は部屋を飛び出した。四尺刀を扱う泥之助にとって、脇差 あっという間に五人がのされて、子分共はひるんだ。その隙に乗じ げつつ、蹴り足で一歩踏み込み、もう一人の腹に膝をめり込ませる。 の男の膝を正面から蹴り折った。受けた脇差を左手を添えて押し上 かって来た。泥之助は左の男の脇差を自分の脇差の腹で受けつつ、右 市松がわめいた。その声に押される様に、今度は二人が左右から掛 ! 痛い目に遭いたくなかったら、掛かって来 は手間が掛かる。要は戦闘不能状態にすれば、それで良いのである。 ﹂ ﹁てめえら、鬱陶しいんだ るな ! ﹂ 得力が有る。残った子分共は一様に腰が引けてしまう。 ﹁せっ先生方、たのんますよ 引く様子は無い。 ? 泥之助は試しに言ってみた。案の定、浪人達の気は変わらない。 ﹁あんたら、端金でこれからの人生を台無しにする気か ﹂ に驚きながらも、剣の腕には覚えがあるのだろう、それぞれ刀を構え、 市松の声もうわずっている。流石に浪人共は、泥之助の腕には大い ! 15 ! ! 泥之助は怒鳴った。一気に九人を倒した後なので、その言葉には説 ! ﹁やめようや。下手に怪我でもしたら、もう剣客商売なんぞやってい ﹂ られなくなるぞ﹂ ﹁セイヤッ 泥之助の言葉が終わらぬうちに、一人が踏み込んで来た。泥之助は その男に脇差を投げつけた。浪人は難無く払い飛ばしたが、刀が外を 向いた隙に泥之助は相手の懐に飛び込んでいた。強烈な肘当て身を 受け、浪人は最初に立っていた位置まで吹き飛ばされた。そこへ別の 男が斬りつけて来た。泥之助は一歩踏み込んで男の右手を取ると、そ の肘を極めたまま背負い投げ︵※8︶た。倒れた男の脇の下を踏み蹴 り、肩を外す。 泥之助は周りを一睨みし、すぐに掛かって来る相手が居ないのを見 ﹂ ると、ゆっくりと刀を抜いた。四尺の刀を八双に構える。 ﹁ウワリャー は思わねぇが、これからはなるべく穏便にやる事にするよ﹂ 判った、俺も男だ。かたぎには手ェ出さねぇ。まっとうに成ろうと てくるって訳かい。 ﹁│││﹂市松は肩をすくめた。﹁何かしでかしゃまたあんたが出張っ ﹁他の者にもだ﹂ ても敵わねぇ。言う通りにするよ。もう大仲屋には手ェ出さねぇ﹂ ﹁│││判った、判りましたよ﹂市松が苦々しく言う。﹁あんたにゃ、と えれば、そんなに難しい事でもあるまい﹂ 惑を掛けるな、と言っているだけだ。今ここで拙者に斬られる事を考 拙者はお主等を潰してやろうと思っている訳ではない。ただ、人に迷 ﹁もうやめろ。これ以上やっても、お主等が苦しくなるだけだ。別に 松、そして越前屋を睨み付けた。 泥之助は、地面でのたうつ浪人をちらりと見遣ると、踵を返して市 もし引き斬っていれば、浪人の手首は無くなっていただろう。 を振り降ろした。力を抜いていたので、刃は骨に当たって止まった。 之助は﹁虎振︵とらぶり︶﹂を用いて、右に体を開きつつ男の手首に刀 一人が突き掛かった。渾身の力を込めた、必殺の一撃であった。泥 ! ﹁流石は任侠の漢だ。話が早い。﹂泥之助は笑った。﹁で、越前屋、お主 16 ! はどうなんだ 今拙者に殺されたいか ﹂ ﹁うるせえな。判ったよ。大仲屋には手を出さん。これで良いか ? 泥之助を、恵が呼び止めた。 ﹁あ、泥さん泥さん﹂ ? ﹂ 何回かうちの丁稚に長屋まで様子を見に行かせたんだけど、 ﹁でも、あんな事があった後だし⋮⋮。いけなかった ﹂ 居なかった事だし。別にそんなに心配する事は無いでござるよ﹂ ﹁昨日は浅草の観音様までお参りに行っていたでござるよ。子供達も ずっと留守だったっていうから、心配してたのよ﹂ てたの ﹁ところで泥さん﹂恵が、怪訝そうな顔で尋ねた。﹁昨日は何処へ行っ 泥之助はにこにこと屈託無く笑った。 ﹁それは良かったでござる﹂ ﹁ええ、すっかり腫れも引いて、人前に出られる様になったわ﹂ ﹁やあ、恵殿。具合はどうでござるか ﹂ その翌日、魚河岸まで買い物に出たついでに伝馬町までやって来た 泥之助は血刀を懐紙で拭うと、ゆっくりと鞘に納めた。 者も全力でお主等を潰しに来るからな﹂ ﹁そうだ。しかし、また何か良からぬ事をしでかしてみろ。今度は拙 ? ? 泥之助の江戸での生活は、まだ始まったばかりである。今日も、江 恵にそう尋ねられて、泥之助はますます顔を赤らめた。 ﹁どうしたの泥さん、顔が赤いけど﹂ ︵何のためらいも無く、何を考えているのだ俺は⋮⋮︶ 思いもかけずそう考えて、泥之助は赤面してしまった。 達の為に、何より目の前に居る娘を守る為に・・・。 いるのが一番の方法である。金や権力に押し潰されている弱い町人 信した。この太平の世で、剣の腕を役立たせるには、弱い者の為に用 泥之助は、その笑顔を見て、自分の行動に間違いは無かった事を確 恵はようやく納得したように笑った。 ﹁そう、良かった﹂ 夫でござるよ﹂ ﹁いや、ありがとう﹂泥之助は素直に答えた。﹁でもまあ、拙者は大丈 ? 17 ? 戸は活気に満ち溢れていた。 1995・11・04︵土︶了 1995・12・03︵日︶改 2010・12・26︵日︶改 2011・05・15︵日︶改 註 ※1 一羽流剣術﹁疾風︵はやて︶﹂ ※2 平拳。普通の拳による突き ※3 中指拳 ※4 無極流兵法﹁頂︵いただき︶﹂ ※5 無極流兵法﹁地固︵ぢがため︶﹂ ※6 相手の正面斬撃をかわしつつ、低い姿勢から相手の手首を 突き斬る形 ※7 相手の上段を受け掛けつつ、 ﹁虚車﹂の要領で投げを打つ形 ※8 無極流兵法﹁雷公︵いかづち︶﹂ 18
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