第四回(5月18日) - Seesaa ブログ

道徳教育(他学部)
5月31日(金)4限
第6回「教育の道徳的側面~隠れたカリキュラム~」
前回の感想より①
• カマラとアマラが人間の子どもとして生まれてきた以上、人間として
人間社会で人間の感じる幸せを享受しながら生きていくことのできる
権利をもっているのは忘れてはいけないと思います。義務ではない以
上、彼女たちはその権利を行使することも放棄することもできたと思
うけれど、シング牧師は選ぶ権利を奪ってしまいました。だけど私は
彼の子とも非難できないように思います。彼は自分の暮らす世界が正
しいと思ってしまったけれど、普通の人が自分の住む世界を疑うこと
はほとんど無理だと思うからです。(文学部)
• まず最初にアマラとカマラの幸せを彼ら以外の者が決めるのはナンセ
ンスであり、それについて私たちは断定できないと思う。ここからは
完全に個人的な想像として彼らの幸不幸を扱いたい。彼らは人間の姿
をした狼だったのか、狼のような人間だったのだろうか。どちらの立
場を取るかで考え方は大分異なってくる。前者の立場を取る人は。狼
のコミュニティにおける生活を壊され、愛するものと引き離されたか
ら彼らは不幸であり、シング牧師は非道徳的だったと語るだろう。一
方、後者の立場を取る人は本来人間として生きることができたものが
そのように生きられなかった(人間として生きることで得られる善い
ものを得られなかった)のは不幸であり、そこから救い出そうとした
シング牧師は道徳的だったと考えるだろう。カマラが完全に人間本来
の取り戻したわけではないということがこの問題を難しくしているよ
うに思えた。(文学部)
前回の感想より②
• アマラとカマラは最終的には幸せだったのではないかと思う。始め
は狼の価値観だから決して幸せではなかったと思うけど、死んでし
まう前は人間としての価値観に近づいていただろうし、その状況が
苦痛であったなら逃げ出していると思う。人間としての生活に慣れ
て、逃げ出さなかったということはその状況の方がよかったという
ことだと思う。話が大分脱線して「道徳的って何?」という話に
なったが、要するに道徳的は結果として自分の利益になるかどうか
という考えを聞いた。一見、どうなの?と思うし、私自身好きな考
えではないけれど、一本筋の通った考えでとても参考になった。
(理学部)
• 話し合いの中でシング牧師の行動全般の根底にある「他の動物(自
然)よりも人間の方が勝っている」という考え方は近代化の進んだ
西欧で広く会ったものであり、宗教のみでなく。時代背景も考慮に
入れるべきではという意見を聞いて、なるほどなと思いました。し
かし、それを考慮してもアマラ、カマラの視点から見ると、シング
牧師は親・兄弟の敵であり、故郷から自分たちを引き離した誘拐犯
であるということは事実であるから、道徳を考える上で見逃しては
ならないことだと思います。どうしても行動と結果だけを見ると大
変一方的にとれてしまうのです。(文学部)
前回の感想より③
• 子どもの道徳を考える上でやはり重要なのは人間としての考え方、人
間という種族の特殊性を認識して行動することだと思う。狼に育てら
れたからといって人間を狼と同一視し、狼としてそのまま育つのを放
置していると、確かに「狼としての幸せ」を得られるかもしれないが、
人間を保護する、しないというのは当人の幸せだけで判断できるもの
ではない。脳に障害を負った子どもをどう扱うかということにもかか
わるし、人間社会に適合しない者は人間ではないということになって
しまったら様々な弊害も起きるだろう。(科目履修生)
• カマラとアマラへの「人間らしい」生活を取り戻す教育を数学教育に
置き換えると、アマラの夫人への好意のようなものは、時々数学で感
じる達成感かもしれない。それが好きでより勉強する可能性もカマラ
にはあったと思う。(園芸学部)
• 人間的な文化を押し付けるということと、人間扱いすることを切り離
して考えるならば、少なくとも人間扱いすることは善かったと思いま
す。カマラの立場を考えれば狼のままでいたいゆえに狼扱いの方がよ
いという考えもあるともいますが、母親狼が殺されているように、そ
もそも狼扱いでは生かすことができません。捉えられた後に死刑が
待っているか、更生プログラムが待っているか、そんな違いだと思い
ます。(理学部 生物)
前回の感想より④
• 人が人に教育するとき、教える側は一方的に自身の教えたいこと、人
間はこうあるべきだという価値観を押し付けているように思える。し
かし、そういった教えられた価値観などを基準のものさしとして他の
ことを人は良いこと、悪いことと考えることができる。人間は基準が
なければ目の前の事象は浮遊したものでしかなく、取り入れることも
捨てることもできない。そういったものさしとしての基準を押し付け
る形でも人間に植え付けることは必要ではないかと思う。そういう意
味では教育は避けられないことだと思う。しかし、牧師の行動が善か
悪や言われると、必要であったことだと思うので、善悪では言えない
ように思う。(園芸学部)
• 人間には差別をせずに教育をするということは道徳的に善いことだと
は思いますが、このような状況では必ずしもそうは言いきれないと思
います。なぜなら教育とは 人間として生きていくにはこうあるべき
ということを教えることだからです。教育をしてほしいかどうか答え
ることすらできない彼女たちに牧師の教えを押し付けるのはどうかと
思います。また、最後に「研究」という言葉がありましたが、彼女た
ちをただ研究対象として見ていたのだったらかわいそうだと思いまし
た。(園芸学部)
前回の感想より⑤
• 私は動物に幸せという感情があるのかということにとても興味があり
ます。犬は悲しい、うれしいとしっぽなどで表現します。そのことか
ら見ると、犬は感情があるのではないかと考えられます。しかし、人
間の言葉を知らない犬に幸せという感情があるのか定かではありませ
ん。人間としての教育を受けたアマラとカマラは様々なことを経験し、
人間の考える幸せという感情を分かるようになり、幸せを感じたので
はないかと思います。(園芸学部 応用生命化学科)
• おそらくは「幸せ」を感じる、「悲しみ」を感じること自体が「教
育」の内にあったと思うので、最終的には「幸せ」を感じる(感じさ
せる?)というところに至っていたとは思う。ふろしきを広げて考え
ればアマラとカマラのケースというのは虐待されている子どもを親元
から離すのは必ずしも善なのか、未開の土地に侵略して文明的生活を
させるのは善なのかということにも地続きな問題であると思う。教育
というものを一つの社会の中で適応できる術を身につけさせるもので
あると考えるならば、アマラとカマラの世界が別の社会に飲み込まれ
てしまった時点で、教育することは道徳的に正しい行為であったと考
えるしかないと思う。(文学部)
前回の感想より⑥
• カマラが多少人間的になったことはシング牧師によって強制的に人
間らしくなることを選択させられたからであり、いつまでも狼の家
族を失くした悲しみに浸ったままでは生きてゆけないため、“人間”
という新しい群れに入ったように思います。(園芸学部)
• 人間の世界に連れてこられたときはすごくかわいそうだと思いまし
たが、カマラが亡くなるとき、自分が不幸だと嘆いていたわけでは
ないと思います。人間の視点からの意見ですが、人間は環境が変
わったら順応できるものだと思うし、相手と高度な技術で心を通わ
せ、感情を分かり合うことができるのが人間の優れた点であり、幸
せだと私は思っています。カマラはシング夫人や子どもたちといっ
た大切な人をつくり、ともに楽しい時間を過ごすことができたと思
います。シング牧師の日記を読んだだけなので、カマラが人間に狼
の家族を殺され、自由を奪われたことを恨んでいたのかもしれませ
ん。でも、人とかかわり、人を好きになり、一緒に時間を過ごす経
験をできたことは幸せだったのではないかと思いました。(工学部
デザイン学科)
前回の感想より⑦
• 私たちがペットとして犬や猫を始め、様々な動物を飼うのはその実、自
分の子どもとして育てているものと大差がないようにも感じられます。
つまり、人間が子どものような愛情をもって動物を養うのと、狼が(お
そらくだが)子どものような愛情をもって人間を養うのは何ら変わらな
い気がするのです。だとすれば、狼が育てていた人間を保護して育てる
のはペットとして育てられてきた動物を野山に返して野生に戻してあげ
ることと一緒です。僕は善いことだと思います。(理学部 数学科)
• 私は今の生活をよりよいものに、生活をより幸せなものにしていくのが
教育だと思っています。だから暮らす環境や状況、立場が違えば必要な
教育も変わると思います。町で生きていくなら学術的教育が必要だし、
狩猟・最終の生活なら効率的で確実な獲物の獲り方を教えることが教育
だ。だから牧師が二人の狼っ子にしたことは教育ではなかったと思いま
す。その子に必要な教育はその子の育った環境・状況などのあらゆる要
素を考慮して見極めるべきだと思います。牧師がいけなかったのはそう
いうものを無視して自分の線引きを二人に押し付けてしまったところで
はないかと思います。二人はきっと母狼と子狼との洞窟での生活に何の
不便、不満も感じてなかったのではないか。(文学部 日本文化学科)
• 必要だから教育するのであって、教育するのに必要だからという理由で
何らかの犠牲を払わなければならないような手段はどうなのだろうか。
(文学部 日本文化学科)
前回の感想より⑧
• なぜシング牧師の行為がよくないことに見えるかといえば、やはり
アマラとカマラを連れ出す際のためらいのなさ、思慮のなさが原因
であると思います。問答無用で母親狼を殺し、ほぼ強制的に連れて
きてしまったからだと。まず対話が成立するかを試してみるなど、
もう少しやり方があったのではないかと思います。人間側に連れて
くるか、放置するか、選択肢は二つではなかった気がします。(理
学部 地球科学科)
• この話は極端すぎて現代の子どもへの教育に一般化できないのでは
ないか。現代の子どもは将来自分に施された教育が正しかったのか
判断できるが、アマラとカマラはそれを伝達する手段がないからだ。
この点を無視して教育は施される側が「善さ」をわからなくてもす
ることに意味があるとは言えないであろう。(法経学部 経済)
• アマラとカマラの例と比較すると、現代の教育は教育者自身が子ど
もと同じ立場を経験したことがあるというのが大きな違いだと思う。
これのおかげで教育者の判断はただの憶測ではなく、ある程度の実
体験をもとにした指導になるため、決定を許される範囲が広がると
思う。(理学部 数理情報学科)
前回の感想より⑨
• 人間は“知る”ことで本当に幸せになるのでしょうか?何も知らない方が
思いわずらわない方がよかったということもあるはずです。学ぶことが
本当に彼女たちにとって幸せなのか、また、子どもたちにとって幸せな
のか、さらには人類にとって幸せなのか、私にはわかりません。人間ら
しく生きることが幸せなら人間らしさとは何でしょう?私は基本的に人
間が嫌いです。食事会だコンパだ飲み会だと集まっては、気持ち悪くな
るほどお世辞を言い合ったり、恥をさらし合ったり、共通の嫌な人を
作って悪口を言ったり・・正直疲れます。こうして暮らすのが人間なら、
社会人なら、私は社会に出るのが恐ろしいです。(理学部)
• 個人的に考える上でテーマとしたのは人間の生活は実際に幸せなのかと
いうことです。詳しくは忘れましたが、「○○のパラダイム」というのが
あるのですよね?その範囲の中で考えて真であれば、その世界では真で
あるというもの。例えば天動説が信じられていた時代は天動説が真理
だったわけで、流動的な真理を認めようというのが「○○のパラダイム」
でした。カマラは狼として生活しているとき、狼の世界しか知らないわ
けで、その時は母狼の愛情に触れていたかどうかはわからないが、上の
説に従えば幸せだったと思います。しかし、シング夫妻に引き取られた
ときはまたそれで人間の愛情に触れていて、これは想像だが、狼だった
頃の生活を理性的な思考で思い起こし、それと比較することはなかった
と思うので、幸せであったように思います。(理学部 数理情報学科)
隠れたカリキュラム
• 今日のテーマは学校の中で直接教えられずに学んでいる
こと。
• 学校で子どもが学んでいることは、教師が意図的に教え
ようとしていることばかりではない。
• 教師の意図を超えていて、子どもにとっても無意識的に
学ばれていることがある。
• その中で、学校教育という制度によって要求される教室
での生活がもたらす、子どもの社会化(社会に適応させ
ること)の機能を果たすものをアメリカの教育学者の
フィリップ・ジャクソンはhidden curriculum(隠れたカ
リキュラム)と名づけた。
• 隠れたカリキュラムは、子どもに産業化された社会にお
けるふるまい方、対人関係のあり方などを無意識の内に
学ばせる機能をもっている。つまり、隠れたカリキュラ
ムには善くも悪くも道徳的な意味があると考えることが
できる。
Philip Jackson
“Life in Classrooms”
• 教室の中で日常的に行われていること、当たり前になっ
ていることの中にどんな意味があるかを考える。
• そのために、教師や子どもたちの学校生活をつぶさに観
察し、そこで行われていることが子どもや教師にとって
どのような意味をもっているかを解釈する。
• 教室での生活で行われることの一つひとつは何気ないこ
とだが、それが繰り返されることにより、子どもは(多
くの場合、無意識的に)学校の中で正しいとされる振る
舞い、評価を得るために求められることなどを学んでい
る。
• 家庭と社会の間に位置する学校で学ばれる隠れたカリ
キュラムは、社会生活で求められることを代弁する側面
がある。
日常的な行為に潜む意味
• 教師も、子どもも、親も、学校について聞かれると、
学校の日常ではなく、特別なことに目を向ける。(ex
学校行事、テストで100点を取ったこと、子どもの
問題行動について)
• しかし、学校で日常行われている何気ないこと(ex
授業中や学校生活の規則、教師と子どもの日々のやり
取り)にも大きな意味があり、そこに目を向ける必要
がある。
• なぜなら、日常的な行為は子どもが学校生活を送る中
で日々繰り返され、何百万回という単位で繰り返し行
われるから。
• 隠れたカリキュラムは、このように何気なく繰り返さ
れる日常的な行為の中にこそある。
学校は監獄や精神病院に似ている?
• 学校という場所の制度的特徴を考えていくと、
実は監獄や精神病院と似た性質があることに
気がつく。
• 学校は望むか、望まないかにかかわらず、行
かなければならない、数少ない場所の一つ。
• 学校で過ごすことは子どもにとって基本的に
は避けられないことであり、子どもは学校が
彼(女)に求めるものと、自分の欲求とに折
り合いをつけることを学ばなければいけない。
隠れたカリキュラム①
群れ(crowd)の中で生きること
• 子どもたちが集団で生きる教室の中で、教師は好むか好まないかに
かかわらず、社会的な交通整理の役を担わされている(ex 誰が話
し、誰が話さないかを決める、資源の分配、教室の役割分担の割り
当て、タイムキーパー)。
• 子どもはその中で「待つこと」を(ex 話す順番、宿題を見てもら
う順番)学ぶ。「待つこと」は時に子どもにとって意味があるが、
時に無駄に待たされることもある。
• 時間で動くことを学ぶ。これは時に、子どもの興味が乗る前に活動
が始まり、興味が消える前に終了することを意味する。
• 子どもは時に、群れの中で一緒に過ごす人を無視して、一人でいる
ことを求められる(ex 個人作業の時、教師が話している時)。隣
の人に話しかけたくても話しかけてはいけないことがある。
• 総じてこれらのことは、子どもに「辛抱強さ(patience)」を求
める。「~すること」よりも「~しないこと」を学ぶ。行為と感情
を状況に応じて切り離すこと、欲求の表現とそれを抑制することと
のバランスを学ぶ。
隠れたカリキュラム②
評価し、評価されること
• 子どもが自分の特性について評価を受けるのは、学校だけに限らない。
しかし、学校での評価は他の場所にはない特殊な特徴をもっている。
• テストでの評価は学校における評価の代表的なものだが、それだけに
尽きない。この他に、少なくとも①学校という制度が期待することに
どれだけ適応しているかの評価、②人格的な特性の評価、という二つ
の評価がある。
• 評価の主体は教師だけではない。クラスメートも評価に参加する。ま
た、子どもによる自己評価もある。子どもは他者に評価されるだけで
はなく、自分も他者を評価することを学ぶ。
• 評価は必ず価値を伴う。従って、評価をする人や評価が行われる教室
によって、いい評価、悪い評価が異なる。教師とクラスメートの評価
が矛盾することはよくあること(ex 教師にとってはいい子でも、仲
間からは教師に媚を売ってると見られる)。
• 子どもはよい評価を獲得し、悪い評価を避けること、よい評価を公に
示し、悪い評価を隠すこと、教師とクラスメートの両方からいい評価
を得ようとすることを学ぶ。また、時に評価に対して無関心になり、
感情的に距離を取るようになることもある。
隠れたカリキュラム③
不平等な権力関係
• 子どもが生まれてから最も早く学ぶものの一つが他者の願いにいか
に従うかということ。子どもは物心が着く頃には、大人の権威とい
うものの存在を学ぶ。
• 子どもは、学校の教師より前にも親の権威に直面するが、両者は性
質が違う。
• 親との関係が親密で長く続くが、教師との関係は親に比べると親密
さに欠ける。教師は相対的なストレンジャーとして子どもに権力を
行使する初めての人。
• 親の権威は「~しちゃ駄目」という形で表現される(危険な衝動の
制限)ことが多いのに対して、教師の権威は「~してはいけない」
と同じ程度に「~をしなさい」という形でも表現される。
• 教師は子どもが人生で出会う初めての「上司(Boss)」。学校で
good workerになることは、子どもが卒業後に工場やオフィスで
good workerになることにもつながる。
• しかし、誰もがgood workerになれるわけではない。自己嫌悪を感
じながら教師にゴマをする子どももいれば、教師の権威から距離を
取ることでトラブルを避けようとする子どももいる。
隠れたカリキュラム まとめ①
• 隠れたカリキュラムはそもそも隠れてはいなかった。近代の学
校教育の成立当初は、より明示的に学校で社会的な道徳や価値
観の伝達が目指されていた。
• 隠れたカリキュラムが隠れるようになったのは、上記のような
目的が自然に達成されるようになったから。現在では、隠れた
カリキュラムは子ども一人ひとりの人格形成や能力の開発と
いった目的の陰に隠れながら機能している。
• 隠れたカリキュラムとオフィシャルなカリキュラム(ex
数
学、理科、社会)は学校の中で一体になっている。
• オフィシャルなカリキュラムよりも隠れたカリキュラムの方が、
子どもの困難や問題につながっていることが多い。学業の問題
に見えることが、隠れたカリキュラムの学習の失敗に原因をも
つこともある(ex 数学の時間に「やる気がない」子どもは数
学が嫌いなのではなく、隠れたカリキュラムに反抗しているの
かもしれない)。
隠れたカリキュラム まとめ②
• オフィシャルなカリキュラムと隠れたカリキュラムが両立する
か、矛盾するかという問題に共通の答えはないが、個々の場面
で考える必要がある問題である。
• 隠れたカリキュラムは自分の欲求を表現することと、他者の願
いに従うこととのバランスを求めるもの。これは、学校の外で
の生活に直結している。幼稚園の入学から子どもは「会社(The
Company)」での生活がどのようなものかを学び始めている。
• 隠れたカリキュラムへの対応は人それぞれ。従順にそれを受け
入れる子どもいれば、明確に反抗する子ども、心理的にそこか
ら距離を取る子どももいる。
• 隠れたカリキュラムの存在は学校という制度の中で生きる以上、
ある意味では避けられないもの。教師はその存在を自覚した上
で、自分が追求する教育や、子どもの幸福のために何ができる
かを考え、実践していく必要がある。
グループワーク
• みなさんは、隠れたカリキュラムを学んだと思いますか?隠
れたカリキュラムに対してどのような態度を取りましたか?
ジャクソンが挙げたものとは違う隠れたカリキュラムを思い
つけますか?隠れたカリキュラムはみなさんの人格形成にど
のように影響したでしょうか?
• ジャクソンは、隠れたカリキュラムを学校という制度の中で
生きている人がある程度共通に直面するカリキュラムだと考
えています。教師が違えば、隠れたカリキュラムは変わるで
しょうか?変わるとすればどのように変わるでしょうか?ま
た、学校の中で直接教えられることなく、学んでいることの
中には、隠れたカリキュラム以外にも教師一人ひとりが無意
識に発しているメッセージがあると思います。それについて
も考えてみて下さい。
• この授業の中で隠れたカリキュラムや、講師(吉國)が無意
識に発しているメッセージがあると思ったら教えてください。
• その他、考えたことを自由に話し合ってみて下さい。
感想シート
• 今日の授業の中で考えたこと、疑問や質問、グループ
ワークの中で話し合ったこと、授業に対する要望、なん
でもかまいません。
• 必ず、名前、所属、学籍番号を書いて出してください。
(所属は空きスペースに分かるように書いてください)
• 授業中に伝えきれなかった質問、意見はメール、もしく
はブログを利用してください。
[email protected]
http://moral-education.seesaa.net/
参考文献(前の分も合わせて)
第四回(5月18日)
• 津守真 『子どもの世界をどう見るか-行為とその意味-』
NHKブックス
• 津守真 『保育者の地平』 ミネルヴァ書房
第五回(5月25日)
• J.A. L.シング(中野善達・清水知子 訳)
『狼に育てられた子ども』 福村出版
• 西平直 『教育人間学のために』 東京大学出版会
第六回(今日)
• Phillip Jackson Life in class rooms.
Teachers Colledge Press