自己執着という毒矢を抜く

末期がんの医師・僧侶が病床から贈る
いのちの苦しみが消える
抜
と
︽■一
■qdIJdl
を緩和しない議論︶を話しませんで
した。これを湿舘﹂と言います。
精舎でマールキヤプッ夕修行僧が、
⋮
古典のこごば建⋮”
を
お釈迦様は﹁無執着﹂と言いまし
自己執着が無くなった状態を、
す。
た。無執着といっても、自己執着
輪︶の話は、今回で四回目です。
執
自己執着こそが苦であり、その原
いて︵存在するか否か︶等の暫藺を
しました。
修行僧に対してお釈迦さまは譽
ないことを示しました。毒矢で射
輪を用いて、それらの質問に答え
よる福音書十八章によると、逮捕
されたイエス・キリストはローマ
す。ピラトはイエスに﹁真実とは
して﹁真実﹂という言葉を使いま
を抜く治療が大事なのです。
得る前に死んでしまう、先に毒矢
です。
お釈迦様は、修行僧に自己執着
入院・緩和ケアも行なう普門院診療所を建設、内科医
因が渇愛︵生殖・生存・死への本能
白
られた人が、この毒矢を射た人に
帝国ユダヤ属州の総督ピラトに対
ついて︵身分・名・身長・肌の色・
住所など︶、弓について、弦につい
浬薬は﹁渇愛を制御して無執着
いの角の苦しみを消すことに役立
の利他行を続けられました。
一
になること﹂と聞いても、すぐに
何か﹂と問います。これに対する
たず、逆に妨害になってしまうの
一い︽︽ノ
て、矢について、等がわからない
うちは毒矢を抜いてはならないと
そのようになれるわけではありま
イエスの答えは無記、つまりその
言ったとしたら、その人は答えを
せん。それで次に﹁苦の消滅に至
先の記載が聖書には無いのです。
つまり、修行僧が尋ねたことは、
る道﹂という真実が説かれます。
真実は言葉で議論することではな
という毒矢を抜く治療︵四諦︶を
これは八正道というヨーガです。
﹁無記﹂については、お釈迦様の
く、行為を導くものなのです。
説いて、戯論を禁止したのでした。
ひゆ
﹁毒矢の蓄輸﹂が有名です。祇園
八正道については次回にまとめて
書く予定です。
お釈迦様は、戯論︵いのちの苦
年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、
お釈迦様の最初の説法︵初転法
⋮聯
蕊
と言いますで苦の原因は渇愛なの
﹁浬藥﹂です。原因の渇愛が無く
で、その渇愛が制御された状態が
自己
︾
己執
着 と いう
仏陀
毒
矢を
を一抜ヘ
くノ、仏陀
毒矢
なれば、結果の自己執着も消失し
癖
ます。苦しみの総括である自己執
着が空っぽになることは、苦しみ
が吹き消されたことになるわけで
円田
驚議蕊
たなか。まさひろ/1946年、栃木県益子町の西明寺に
業後、国立がんセンターで研究所室長・病院内科医と
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蝋評連載⑤
’
澗咽細鵬