本文は - 化学と生物

巻頭言
Top Column
“ノウゲイ・カガク・カ ” 讃歌
佐藤隆一郎
化学と生物 ●
日本農芸化学会
東京大学大学院農学生命科学研究科
農芸化学科がほとんどの大学から姿を消
してから 30 年近く経つという.改めて,
私の農芸化学科へのノスタルジーを書き
綴ってみた.
退屈極まりない受験勉強の世界から解き
放たれ,晴れて大学の門をくぐった頃,農
芸化学なる学問領域が存在することなど知
る由もなかった.そもそも自分は何に興味
をもっているのか,何を学ぶべきか,そし
て何を志すのか,人生の指針と言えるもの
は微塵もなかった.開放感のなか,ただひ
たすら名画座巡りをして映画の世界を彷徨
い,小説を読みふけり,クラシック音楽に
身を浸して時を過ごした.かろうじて興味
を感じられる小片を寄せ集めてみると,不
思議なことに“ノウゲイ・カガク・カ”と
いう文字が浮かび上がってきた.学部,大
学院時代を過ごした農芸化学科にはそんな
青春の淡い思い出が常に付きまとう.カ行
と濁音が重なる“ノウゲイ・カガク・カ”
には甘酸っぱい響きを感じる.
こうして過ごした学生時代に感銘を受け
た小説に野上弥生子の「迷路」がある.思
う所があり,最近再び手にした.東京帝大
出の若き主人公が,第 2 次世界大戦へと突
き進む暗い時代に迷路を彷徨がごとく過ご
す様を描いた長編小説(文庫本で上下巻厚
さ 5 センチほど)であるが,第 1 章は「五
月祭」で始まる.小説の筆頭で,久しぶり
に母校を訪ねた主人公が構内で出会うの
が,親友の“農化学実験所にいる小田健”
である.二人して弥生門を出て小田の研究
室へと向かう.正確な表記はしていない
が,紛れもなく農芸化学科なのである.小
説の中で小田は戦地へ赴く前に自殺とも思
える非業の死を遂げる.今でも弥生キャン
パスを歩いていると,農芸化学科の先輩で
ある小田健が白衣に身を包み,研究室へと
急ぐ後ろ姿にふと出会うことがある.70
年続いた平和な世の中が,このまま何事も
なく続いてくれることを切に願わざるをえ
ない,そんな不安な気持ちが年甲斐もなく
ヘビーな古典的小説を読み返す機会を作っ
てくれた.小説の世界では“ノウゲイ・カ
ガク・カ”
(農化学)は永久に不滅だ.
2016 年初頭に 2015 年を振り返ったとき,
最も印象深かった出来事は W 杯ラグビー
での南アフリカ戦勝利である.エディ・
ジョーンズ監督は,他国に比べて体格,体
力で劣る日本チームにハードワークを課し
て基礎体力強化を図った.前半は接戦をし
ても,結局体力が続かず後半に大差をつけ
られてしまうという負け癖を排し,体力強
化により後半も互角に戦えるという「カル
チャー」を選手に叩き込んだと言う.南ア
フリカ戦ではノーサイドまであとワンプレ
イの時点で,スタジアムにいる監督は同点
ペナルティーゴールを望んでいた.しかし
グランドでプレイする選手たちは相手選手
の体力の落ち込みを実感し,無謀にも逆転
トライを選択した.監督の目指した意識変
革の「カルチャー」がまさしく具現化した
震える瞬間である! こうして番狂わせの
歴史的勝利を日本チームは勝ち取った.ど
んな小さな組織にも,そこにはカルチャー
がある.健全で有意義なカルチャーを確立
するには相当な時間を要する.同時に,確
立したカルチャーを継承していくには相応
の努力と気構えが要求される.学会名だけ
に残った感のある農芸化学であるが,その
底流をなす,生命現象を化学的に解析し,
その有用機能を応用展開する「カルチャー」
が毅然と維持される限り,1 万人を超す集
合体としての日本農芸化学会は機能を果た
しうると信じたい.ただし日本チームのよ
うに,その「カルチャー」を共有し,育ん
でいく努力を惜しまないことは言うまでも
ないことであろう.
Copyright © 2016 公益社団法人日本農芸化学会
DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.54.299
Top Column
化学と生物 Vol. 54, No. 5, 2016
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プロフィール
化学と生物 ●
日本農芸化学会
佐藤 隆一郎(Ryuichiro SATO)
<略 歴>1980 年 東 京 大 学 農 学 部 卒 業/
1985 年同大学大学院博士課程修了/1986
年帝京大学薬学部助手/1990 年テキサス
大学サウスウェスタンメディカルセンター
博 士 研 究 員/1994 年 帝 京 大 学 薬 学 部 講
師/1995 年大阪大学薬学部助教授/1999
年東京大学大学院農学生命科学研究科助教
授/2004 年同教授/2009 年同大学総括プ
ロジェクト機構寄付講座「食と生命」代表
(兼任)<研究テーマと抱負>コレステロー
ル代謝調節の分子細胞生物学的解析研究
<所 属 研 究 室 ホ ー ム ペ ー ジ>http://web
park1213.sakura.ne.jp/<趣味>城巡り