本文は - 化学と生物

巻頭言
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ボイジャー 1 号の見る景色
安枝 寿
化学と生物 ●
日本農芸化学会
味の素株式会社イノベーション研究所
1977 年 9 月,宇宙探査機ボイジャー 1 号
状の紙に印字された培養液中のアミノ酸濃
が太陽系外惑星および太陽系外探査のため
度の数字を見てようやく実験が成功したこ
に打ち上げられた.そして 2015 年 1 月時点
とを実感し,まさに農芸化学の醍醐味を味
で太陽から約 195 億 km 離れ,それは光速
わった.今でいう代謝工学である.異種微
でも約 18 時間以上かかるところを飛行し,
生物の代謝経路をアミノ酸発酵菌へ“上手
現在も,地球から最も遠くにある人工構造
に”移植することで生産性は飛躍的に向上
物となっている.すでに末端衝撃波面を通
することがわかったが,この“上手に”と
過し太陽圏を脱出したフロンティアフライ
いう点が農芸化学のもつ“妙”とも言えよ
ヤー・ボイジャーの眼前にはいったいどん
う.こうして限界と思われていた生産性の
な景色が広がっているのだろうか.
壁を打破する革新的な製法の可能性をつか
1982 年,生命の神秘を解き明かすことを
み,応用研究領域でも新たな景色が眼前に
夢見て,理学部の遺伝学教室にて私の研究
広がった瞬間でもあった.
人生はスタートした.そこでは大腸菌が保
時代が移り,昨今では,大学においても
持する天然プラスミドの複製制御機構の解
研究の競争的視点が強く浸透し,特に期限
明に向けて取り組んだ.まだ塩基配列決定
付き雇用という重圧のなかで戦っている研
法としては RI 標識を用いたMaxam‒Gilbert
究者も多い.息つく暇もなく実験作業がさ
法しかない時代であり,それも日本で数カ
まざまなキットを利用して盲目的になされ,
所しか実施できない先端技術であったが, また,日々公開される膨大な量の論文や技
自律複製領域の約 2.4 kbp の DNA 断片を決
術情報の波に襲われながら,論文の量産が
定するのに約 1 年かかった.しかし,週ご
急がされているとも聞く.企業でのバイオ
とに現像された X 線フィルム上に浮かび
研究においても,欧米での先進ロボティク
上がるバンドから,数十塩基ないし運よく
スを用いた HTP スクリーニングや評価技
ば 200 塩基ほどを読み取り,それを方眼用
術による物量攻撃にさらされながらも,成
紙のマス目に G, A, T, C と 1 文字ずつ転記
果創出と仕事の時間生産性の向上が厳しく
し,解読した塩基配列が伸長するだけでワ
問われ始められている.ワークライフバラ
クワクした.充実した配列データベースは
ンスが重要であることには間違いないが,
もちろんのこと配列解析用ソフトはなく,
研究者の Work の中に余裕がなくなってお
肉眼でその配列上に出現する奇妙な繰り返
り,脇目も振らずに手元だけを見るのに精
し構造や長い逆位反復配列を見つけ出して
一杯というようになってはいないだろうか.
は,その意味するところを推論し検証し
新たな真の価値の創造には“ゆとり”や
て,それらの特徴づけが少しわかるたび “遊び心”も必要である.そうでなければ,
に,この解明しつつある「自然の仕組み
パラダイムシフトを起こすような研究はも
(理)
」は自分が世界で初めて見ている景色
とより,深みある成果ではなく,予定調和
であり,大袈裟に言えば,この世の創造主
的な作業結果だけが山積されることになり
に近づいているような感覚にさえなった.
はしないだろうか.
その後,理解した原理を応用したいとの
真理の探究から応用科学の世界へと私の
思いに駆られ民間企業へ就職し,そこで
研究遍歴の旅も相当の距離を飛行してきた
「農芸化学」と出会った.当初は農芸化学
が,未踏の世界へのフロンティアを果敢に
の混沌とした世界に戸惑ったが,生物の進
いく学生さんや若手研究者に,
「どんな景
化系統樹のように主課題からどんどん派生
色が見えていますか?」と.ちょっと一息
し変幻自在に展開する学問の面白さを知っ
ついて顔を上げて素直に眺めてみてほし
た.2000 年頃,アミノ酸発酵菌の生産性
い.そして,彼ら・彼女らを大いに応援し
を高める研究にロシアの共同研究者らとと
たい.そこには最前線に立つ者しか見るこ
もに集中して取り組んだ.生産菌での各遺
とができない景色があるはずである.
伝子の発現調整と培養評価を繰り返し,多
忙を極めたが,同時にさまざまな議論を戦
Copyright © 2017 公益社団法人日本農芸化学会
わせつつも時間に縛られない大切な“ゆと
DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.55.1
り”もあった.そして,ある日,レシート
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化学と生物 Vol. 55, No. 1, 2017
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プロフィール
化学と生物 ●
日本農芸化学会
安 枝 寿(Hisashi YASUEDA)
<略歴>1983 年大阪大学理学部生物学科
卒業/1986 年同大学大学院理学研究科生
理学(分子遺伝学)専攻博士課程中退/同
年味の素株式会社入社,中央研究所/1993
年理学博士取得(大阪大学)/2005 年同社
食品総合研究所,発酵技術研究所を経て,
ライフサイエンス研究所部長・主席研究
員/2013 年イノベーション研究所上席研
究員,現在に至る<研究テーマと抱負>よ
り豊かな食資源の拡充に貢献できる微生物
工学とバイオナノテクノロジー<趣味>
オーディオ,音楽鑑賞と美味しいお酒,信
号機と渋滞のない道でのドライブ