“TheEnd"vs “Things"

“
TheEnd"v
s“
Things"
-UrsulaK
.LeG
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nと救いの構築
士必
大槻
良R
惨キーワード
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s・滅び・救い・連続.t
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V要
旨
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.LeGuinの短編 "
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"は、一度 "
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eEnd" として発表された後にこの題に変更
されているが、この事実はテクストの核心部分に関わるものと考えられる。“T
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" は終末を
迎えた世界における一つの救済を描いた小説であり、“t
h
i
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g
s
" (モノ)は、一度否定的に示され
たうえでその意味が見直され、最終的には滅ぴを乗り越えて救いを導くモチーフと捉え得るか
らである。小論はこうした理解のもとにテクストにおけるモノの役割を検証し、モノを積み重
ねてゆく行為が、それに共振する連続性とともに不足を補う流れを作り出しながら、物語の展
開上のみならず、それを支える表象上も、結末の救いに向けた道筋を作り上げていることを示す。
o
.序
U
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.LeGuinの短編集、 TheWind'sTwelveQu
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1975、以下 WTQ) に収められ
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"は
、 1
9
7
0
年の発表時点では“TheE
nd" と題されていた o それがこの短編集収録時
に、もともと作者の念頭にあったらしい "
T
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g
s
" という題に変更されたのである。 WTQには
それぞれの短編ごとに作家の覚書が付されているが、ル・グウインはそこでこの作品の題を変
更した経緯について、うろ覚えだがと断わりつつも、そもそも最初に "
T
h
eEnd" にしたのは、
" というとまるで深夜 TVに登場する何かの化け物のようで、それを編集者が嫌ったの
“百世唱s
6
1、以下引用頁は括弧内に示す)。しかしいうまでもなく、
ではなかったかとしている (WTQ1
より重要なのはル・グウイン自身がもう一度題を改めたという事実である o そのことは何を意
味するのか。
"
T
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s
" は一つの終末を描いた作品で、あり、その題が“TheEnd" であったとしても何ら不
“
TheEnd"v
s"
T
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g
s
" (大槻)
-87ー
思議はない。だがなぜそれをあらためて“官官唱s
.,にしたのか。そこに作者にとってのあるこ
だわりを読み取れるように思う。 "
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" (以下、主に「モノ Jと表記)は作中の重要なモチー
フだからとも述べているが、おそらくそれだけではない。“由民g
s
" は、作品の要素というにと
どまらず、“t
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n
d
" に対立する一方の軸を成すものであり、物語はそこへ帰結するとも考え
られるのである。とすれば題の変更は、物語の方向性を暗示するものではないか。
しかし話はそれほど単純ではない。ル・グウインはモノに言及しつつ、あたかもそれを否定
するように語っているからである。一方物語のテクストでは、モノが救いを支えているように
みえる。モノこそが、作家が必要だとする“al
a
s
ts
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e
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"(
1
6
1
) を用意するようにみえるのであ
る。このずれは何を意味するのか。あるいは、覚書にいうモノと、我々がテクストに見るモノ
とは違っているのだろうか。違うとすればそれは何なのか。そこにはあり得る救いに向けて、
ある種の弁証法的手続きがあることが予想される。以下、 "
T
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n
g
s
"におけるモノの描き方をた
とeってみることにする。
1. 解 釈
まず‘'
T
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g
s
"が最終的に我々をどこに導くのかを見定めなくてはならない。
ル・グウインは主に SFないしファンタジーとされる作品を書いているわけだが、一般にこ
うしたジャンルを読む場合、読者はその設定となる約束事、いわゆる「文法」を理解すること
を強いられる o 物語は我々の歴史に連なるものなのか、それとも異世界の話なのか。あくまで
「現実Jとして、多少の延長があるとしても科学に基づいて考えてよいのか、あるいは科学では
説明しがたい力の支配する世界なのか。ル・グウィンは総合的に共通した原理を用いて虚構世
界を構築する作家として、「ル・グウインのファンタジーの徹底的な統一性J(金原 8
1)、「世界
をやはり規定せずにはおさまらない作家J(井辻 9
6
) などと評されているが、中には短編“百l
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W
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"(
19
8
2
) のように、上述の判断の壁を逆手にとった作品もあって油断はならない。
そこでは「妻Jとは狼であり、「夫」は狼男であることが明らかになるのである。
ル・グウィンの Forewordによれば、 WTQは拾遺集的な性格を持つもので、そこに含まれる
短編は過去に書かれた SF長編に連なるもの、初期のファンタジー、また彼女が“psychomyths"
(
x
) と呼ぶ寓話的なものなどに分かれる。つまりそれぞれの短編は、ショートストーリーサイ
クルのように同じ時空や背景を持つわけではない。したがってまず“百世1
9
s
"の状況を把握す
る必要がある。
覚書で“psychomyth" (
16
1
) とされている“官出1
9
s
"は、“百l
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"のようにアイデ
アで戯れることもなく、基本的にリアルな描き方をしながら、一方で何かしら超現実の趣きを
漂わせてもいる。舞台は海に臨む町で、科学文明というようなものは見えず、船や樹すら知ら
れていない世界である。そのどこか古風で神話的ともいえる雰囲気は、直接「魔法Jなどの記
述がないにもかかわらず、日本で「ゲド戦記Jとして知られる E
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aシリーズを思わせるも
のがある。 WTQの中では、“TheWordo
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" と“TheR
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fNames"が E
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1
)、
“psychomyth"と銘打たれた"Things
"
リーズの初期段階に属すると述べられており (WTQ7
はとりあえずこれと区別されるべきだろうが、似た印象を与えるのはたしかで、やはり E
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シリーズの一部であってもおかしくはない。
-88ー 龍 谷 紀 要 第3
7
巻(初 1
6
) 第 2号
そこではしかし、何がしかの滅びが近いことが了解されている。何故、どう滅びるのかは語
られていないものの、それは絶対的な不可避なるものとしてある。
こうした設定自体に、ル・グウィンの刻印を読み取ることができるかもしれない。究極の状
況における人問。ル・グウィンの「極」へのこだわりは、 T
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tShoγ'
e(
19
7
2
)、The
BeginningP
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19
8
0
) といった作品の題からも窺えるもので、評論集にも D
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初。 α
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19
8
9
) がある o そしてその状況に作家の哲学が加わる。“p
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"が
生まれるのである。“Things" では、不可避の終末が現前し、それにどう処するべきかが問いか
けられることになる o
町の人々の多くは、絶望のうちに祈るか、あるいは滅びを促進するかのように破壊行為に向
かう。これに対して主人公の煉瓦職人 L江は、未知の可能性に賭ける。目の前の世界に望みが
ないなら、その「外Jに出るしかない。船を知らない彼は煉瓦を集め、これを海中に積み上げ
て、噂や夢でしか知らない「島 Jへの道を拓こうとする。不可能としかし Eえない試みだが、そ
の不可能に一抹の希望を託すのである。
はたして救いは得られたのだろうか。小論の主張に入る前段階として、このテクストがある
種の暖昧さを伴うことを確認したうえで、土台となる読みを示すことにする。
結末では L
i
fとこれに同行する寡婦母子が溺れかけるところで突然船が現れる。それについ
ては、あっさり“ab
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" と述べる B
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lなど、特に疑念
もなく L江らを救うものとみなす読みが一般である (
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3
7
)。
しかし一方では、 C
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" と留保を
して、船についても“t
付けるように、ことは必ずしも明白ではない (
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fNamiaなどと違い、川o
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" と述べているが、都合よく救われる保証はないのである (
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6
)。船は果た
して本物なのか。 L
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fが見たと描写されてはいても、他にその現前を示すものはない。寡婦は
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" とされていて、彼女が実際に船を見た記述はない(17
2
)。
“
とすれば、追い詰められた L
i
fが最後に船の幻を見るという解釈は成り立たないのか。そもそ
も島の存在自体も、その根拠は l
噂と L
i
f自身の夢だけで、確定したものではない。
つまり「文法」は十分とはいえず、我々の解釈も不確かさを内包したものにならざるを得な
いのである。しかしそこにむしろ作家の狙いを読み取れるかもしれない。そもそも物語が、ル・
グウインが“p
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" と呼ぶ象徴的、寓話的なものなら、必ずしもここでリアルな救済を
描く必要はない。問題にされているのがむしろ人々の態度であって、敢えて可能性を信じるこ
とに意義を見出すのであれば、実際に救いが訪れたとしても、あるいはこれが L江の内面のド
ラマを映しただけのものとしても、大きな違いはない。我々にとっては、ここに希望へと向か
う動きが感じ取れればそれで十分なのだ。するとここからの作業は、そうした道筋を実際にテ
クスト上にたどってみるものになるだろう。以下、可能性に賭ける L江の仕事ぷりと、それが
生み出す力、いわば救いを呼び込む流れを検証する。
“
TheEnd"v
s“甘由1
9
S
" (大槻) ー
8
9ー
2
.空 白
物語の描写に付いて回るのは、空白ないしは断絶のモチーフである。来るべき滅びを考えれ
ばそれも不思議はない。そしてこれを乗り越えようとするものがあるとすれば、それはまずこ
の空白を埋め、あるいは切れている線をつなぐという形で現れることになるだろう。
町の最初の描写で、人気のなさ、物が片付けられて空っぽにみえる家々の様子が示される。
終わりを間近にした人々はもはや物を作ろうとはしない。彼らは“t
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・-とされる 2グループに分かれ、後者は物の破壊に熱中する。煉瓦
を保持しているLifに対して叫ぶのは前者の一人である 0 ・明白1
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" と表現され
る両者の絶望。いずれにも与しない L江も、“h
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th山唱ry" (
16
2
) と描写され
る。つまり描かれているのは、物質と精神の両面での不在、否定、喪失である o
Lifが語り合う唯一の相手は、名前を示されずにただ寡婦 (
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h
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i
d
o
w
) とされているが、こ
れも一つの不在である。夫がどうなったのかは語られない。
L
i
fが海の道を作る作業に夢中になっている聞に、町から人の気配が消える。みんな行ってし
まったと語る寡婦に、 L江は思わず“Wh
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" と問うが、寡婦は肩をすくめるだけ
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d,Lif?"と別の質問を返す。そしてその新
で直接答えず、逆に“Wh
たな問いにLifもすぐには答えられず、聞を置いたのちに“Tot
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s
" と答える(16
9
)。こ
うして会話の流れが途切れる描写にも、滅びの運命の重さが託されているようにみえる。人々
の行方も、凶の仕事の今後も、終末を前にした状況下で、行き場=答えを見出せない断絶の形
で示されているのである。
L江が笑っても寡婦が笑わないという描写が二度 (
1
6
7,1
6
9
) あるのも同様の効果を担うだろ
う。だが二度目は上の会話で「島へj と答える L江への反応であって、あり得ない夢想を告げ
る結果になって自ら笑う L
i
fに対し、その可能性をわずかでも信じようとする寡婦の思いの現
れとみなすことができる。つまり滅びを暗示する断絶のイメージの一方、欠落を埋めることに
希望を託すかのような描写も読み取れるのである。いうまでもなくその最も中心的なものが、
煉瓦で島までの道を作ろうとする L
i
fの行為である。
3
. 二つのモノ
ここであらためてル・グウインの覚書を見てみよう。既に述べたように、 L
i
fの煉瓦のような
「モノ Jについて、ル・グウインは必ずしもこれを認めないような語り方をしている。
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.(
16
1
)
-90ー 龍 谷 紀 要 第3
7
巻 (
2
0
1
6
) 第 2号
“
B
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"以下の、モノだけでは不足とする部分を否定的に捉えるなら、作家の立場は先にヲ l
いた
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l"のメンバーの「モノを捨てよ」という言葉とさほど変わらない
ようにみえる。だがテクストの流れがそれを肯定してはいないのは明らかだろう。一見モノと
“
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" とが背反するル・グウインの言葉は、おそらくモノだけに依存する限界をいう言
い方で、あって、これを全面的に否定するものではない。モノに関わる営みの大切さは、テクス
トからも、また他の場でのル・グウインの言葉からも明らかだからである。とすれば我々の短
編は、モノをめぐる二つのあり方を検討し、それらを止揚する手続きを伴うものになるのでは
ないか。
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"のテクストに描かれているのは、モノを作り、かつそれら
前提としていえるのは、“T
を重んじる世界だということである。“W
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"など、通りの名前が職人を表しているの
1
6
3
)。
も、そうしたコミュニテイの有り様に照応する (
しかしそこに終末が予告されて、人はモノを作ることをやめる o つまり“t
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に対照されているのである。近づく終末への反応としてモノを破壊する“R
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" も、モノか
らの解放を叫ぶ“W
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" も、モノを排斥する姿勢においては共通している。一方で L江が海
の道を構築するのは、彼らに対するアンチテーゼである。
L
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fが処分するモノについても、まず扱いにくさという否定的な側面が述べられている。
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.
(
16
2
)
この描写はしかし、モノの厄介さをいうよりはむしろその可能性を見出す言い方ではないか。
モノは人間の歴史、生活の営みの土台としてあり、堅固で重い煉瓦はそれを代表するかのよう
だ。そしてこれに続く L江の仕事場の描写。
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.(
16
2
)
道具一つ一つの価値を丹念になぞるような筆である。
そもそもル・グウィンは、「機械がほとんどない世界、道具を使って暮らす世界」である
E
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aを思い起こしても(清水 1
4
)、物を作り物を使う場面を含め、日常の営みを丹念に描
いてテクストに生活の匂いを織り込む作家であり、そこに我々は平凡さの中の魅力を見出すこ
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" においても、たとえば L
i
fが寡婦に招かれてともに「食べる」描写、ある
とになる o "
いは彼が寡婦の子どもと「遊ぶ」描写は、好ましい印象を与えている。
L
i
fの道作りもまた、作業自体は容易なものではないにしても、そうしたいわば手作りの喜び
を感じさせる。船を知らない彼がそれを作ろうと試みる様子、煉瓦を運んで海底に置く姿、泳
ぎを覚えようとする描写などは、学ぴ、考え、築き上げる、という人の生の歴史を映したもの
である。
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"(大槻)
-91ー
こうしたおそらくは無益な労働を続けるLifに対し、また彼を見守る寡婦に対して、テクス
トの描き方は何かしら共感めいたものを含んでいるようにみえる o 結末でいよいよ海に入ると
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き、覚悟を示すように彼らは寡黙だが、 L江に答える寡婦の言葉、 "We
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" は、静かでも誇らしげな信頼の言葉である(17
1
)。そして海水の身を切る冷
たさが語られたのちには、“t
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"(
17
1
) と述べられる。彼の
煉瓦がそうであるように、それを作る L江もまた、冒頭から確固たる存在として描かれていた。
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.
"
(
1
6
2
)
“
ここでモノを代表する煉瓦は、その堅固さと具体的な手触りによって人が拠り所とするべき
ものを象徴している。とすれば "
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" も、観念ではない具象として日常の地道な営為の価値
を背負うことで、人間にとって滅びとは対極のものを示しているとはいえないだろうか。「モノ
を捨てよ j という言葉が表すように、モノは一つの負性として捉えられており、あるいは何が
しかの形で滅びの元凶であったかもしれないことが窺える。しかしモノの別の一面が、決定的
とみえる終わりの前で、希望あるいは祈りを映して人を支えるようにみえるのである。
ル・グウインは様々な場で、ここでのモノに相当するものについて、ある種の称揚ないしは
共感の言葉を語っている。 B
r
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nMawr大学の卒業講演(19
8
6
) では、文学、芸術とは、すなわ
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"であると述べ、その具体例として冶訂ryinga
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" というごく平凡な日常の行為を挙げて、
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さらに家事そのものを芸術と呼んでいる (D
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5
4
)。この考えは、彼女が創作について述
べたエッセ- "
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19
7
5
) で、物語は“r
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" を描くもの
であるとして、そのための具体性を強調していることともつながるだろう
(
L
α
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ge1
0
2
)。
それはまた、ル・グウィンを高く評価するスコールスが、ルイスの「ナルニア」と対比しなが
ら、即物性とも呼ぶべき E
a
r
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s
e
aシリーズの特徴を指摘していることにも通じている (
S
c
h
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l
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s
3
7
)。それらは「生きた人間」の在り方をいうものであり、そのときモノは人間の生の根源にか
かわるのである。
さらにいえば、こうした日常の細やかな事物に対する眼差しは、フェミニストとして知られ、
ネイテイプ・アメリカンとの関わりも深いル・グウインのマイノリテイに対する意識とも連動
しているだろう。 E
a
r
t
h
s
e
aシリーズの日本語翻訳者である清水真砂子は「ゲド戦記」の魅力の
αlesfromEα
,付 加m
ーっとして「名もない人びと Jの描き方を挙げ、シリーズの外伝である T
∞
(
2 1
) から“Allt
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" (Tales71) という
一文をヲ│いている(清水 4
2
)
0Gedがそうであるように、“Things
" では "
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"
(
1
6
6
) と描かれるはも、百四 h
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"(
17
0
) を持つ寡婦
も、ともに黒人であることが示唆されている。
さて、これまで確認してきたのは、モノが一方で人を縛り、ときには滅びへと導き得る要素
だとしても、それは同時に人間の生活に根差した肯定的な価値を担い得るということである。
モノは二面的なのである。たとえば大橋洋ーは、直接には TheL
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f
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α.
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d0
1Dαr
k
n
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s(
19
6
9
)
について、二項対立にみえるものをさらに崩す形で対立項が設定されていると指摘しているが
(大橋 1
0
0
01
)、そもそもル・グウインは二項対立に収まる作家ではあるまい。
だがモノだけでは十分ではないと“百世1
9
s
" の覚書はいう。最後の一歩が必要だと。我々が
-92ー 龍 谷 紀 要 第3
7
巻 (
2
0
1
6
) 第 2号
知ったのは、その一歩を踏み出すにしても、土台としてモノの蓄積、支えが欠かせないという
ことである。では一歩の踏み出しはいかにして可能なのか。我々はここで、連続という要素に
注目することになる。モノが一度は否定され、あるいはその単純な持続が滅びを招いたとして
も、テクストにはそれとは別にある種の漸層性を伴った連続のモチーフがある。それがいわば
一歩を跳躍にすら変える駆動力を生み出しているのである。
4
. 連続と跳躍
連続から一歩へ。それはまさに L江のとった行動をいうものにほかならない。しかし結果は
auseway構築の試みそのものは絶望的なものであったようにみえる。物語が救済の
ともあれ、 c
寓話を成すものなら、そして L
i
fの行為がその象徴性を担うためには、これに連動する要素が
テクストに埋め込まれていなければならない。そしてひとたび連続性という視点を得れば、救
いにつながる流れがいくつも見出されるのである。
まず伸びゆくもののモチーフがある。“t
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" とされる寡婦の赤ん坊は、
ほとんど子供が生まれなくなったとされるこの世界において、終末の一つの表現としてあるだ
ろう。一方で“j
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" として、あるいはまだ数少ない歯でパンを食べよう
3
)。むろん子供の成長はこのような
とする様子などに、その成長もまた描き込まれている(16
状況下で、あっても当然とみなし得ることだが、「覚える Jのは子供だけではない。どうやら船も
航海術も知られていないこの世界において、いかにして海を渡るかに四苦八苦する L
i
f自身も
また、我流にせよ船を作る技術を学ぶのであり、またその過程で、おそらくこの土地の者とし
ては初めて、泳ぎを覚えてゆく。あらゆる成長物語においてそうであるように、何事かを習得
する過程は読者にある種の喜びを与えるものだろうが、それも何より前へと向かう流れを作り
出すゆえである。
「
木Jもまた伸びる存在である。“t
h
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n
g
s
" といえば広義には植物をも含むだろう。物語の叙述
fのいる土地には木が生えず、人はその存在を知らない。 L江が木に相当するも
からすると、Li
のを思うとき、それは "
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dwood" (
16
4
) のように表現されている。
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一方で、木はル・グウイン文学においては特別な重要性を担うものである。ル・グウィン自
身が木へのこだわりを吋、h
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"への覚書に記している。
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1
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t(
1
9
7
6
) といった作品の題にも窺える。森の担う隠験的
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nWatsonが分析するように人間精神の神秘にも通じるだろうが (
W
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s
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n4
7
5
4
)、木
意味は、 l
あるいは森の重要性は、まずそうした深さや豊かさを生み出す有機性にこそあるのではないか。
とすれば、 L江の住む世界が木を知らず、一方彼が夢に見る理想郷が木々で覆われているという
事実は、モノの二面性に示唆を与えるものである。 滅びの原因は明示されていないものの、木々
の持つ有機的な深さ、成長につながる奥行きをないがしろにして目先の機能を求めた結果が滅
"TheEnd"v
s"
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g
s
" (大槻) -93ー
ぴを招いたとも考えられるのである。 L
i
fが海を越える手立てとして木に思いを巡らすとき、薮
しかない世界にあって、木はいわば不在の表象となる o より高いものとして木を求めることは、
連続のモチーフを増幅するだけではなく、空白を埋める意味合いも持つのである。
「高いもの Jのイメージは星や丘などにも現れているが、まっすぐに高みを求めるようなもの
ではない。モノからの解放を訴える "
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g
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"の人々に抗うように、 L江は海へ「降りて j
ゆく。しかしそれも滅びから否定を経て最終的に高みに至ろうとする過程の必然、であって、高
>低>高、というその道筋は、観念>モノ>一歩、という物語の展開と重なり合うものである。
ル・グウィンが駆使する文体もまた、形式の上で連続性を作り出していることに注目したい。
AandBandC、ないしは A,B,C、Ao
rBo
rC、といった連なりが多く見受けられるのであ
る。あるいはこれを作家ル・グウインのスタイルそのものであるとみなすこともできるだろう。
個々のモノを尊重するというル・グウインの思想は、その点を強調すればしばしばこの形を取
ると考えられるからである。だが WTQの他の短編に比べても“明白tgs" における並列は際立つ
たものであり、それは固有の強度を以ってモノと連続のテーマを支えていると考えられる。
たとえば L江の煉瓦についての“t
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sandl
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1
6
2
) といっ
た連なりは、形の連続を成すだけでなく、内容的にも物事(曲面g
s
) の多様性、複合性、その
担い得るさまざまな可能性を表す効果がある。彼の扱う一個一個の煉瓦が一つ一つの生活の営
為、人間の小さな営みを表象すると考えれば、文体にもそれに照応するものがあるのであって、
ここでは煉瓦、生活の営み、言葉の区切りの三者が相互に連携しているといえるだろう。
若干の差異がある並列のパタンについて、それぞれを検討してみよう。 Aa
ndBandCは個々
の構成要素を提示する。A.Bのように聞に接続詞を伴わないものは、勢いと同時に物事の重層
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16
3
)、
"u
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性、複合性を示すものといえる。たとえば“al
16
5
) など、マイナスの合意を持つ形容詞をプラスのそれと組み合わせるも
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rBo
rCは、複数の可能性を示しつつ、選択、あるいは決断へと誘導する
のがある o 一方 Ao
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16
1
)、あるいは廃櫨になろうとする町の運命を語る..whatm
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"(
16
2
)。次は、それぞれ AandBandC及び A,
been,o
Bという語の連続の前後に“s
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" という意味上の空白が置かれ、その空白が充填を呼び込
む例である。
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.(
1
7
0
)
言い換えれば不在のものに向けて読者を意識づけるのである。これら並列の文体が生む律動、
テクストに前に進む流れを作り出す効果はけっして小さなものではない。
ル・グウインの覚書にいう「最後の一歩」は、物語では L江と寡婦とが限界まで歩いた末に
踏み出す一歩になる。無謀とみえるこの行為は、しかし絶望を意味するのではない。出発前、
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" と答え
これが終わりか、という L江の間いに寡婦は、“No,[…]T
1
7
0
)。滅びとそれを待つこととは違うのであり、その聞には希望、あるいは何らかの救い
る (
-94ー 龍 谷 紀 要 第3
7
巻 (
2
0
1
6
)第 2号
が入り込む余地がある口そして海に呑まれるようとするまさにそのとき船に救い上げられるの
は、それまで築き上げられた連続の到達点にみえる。連続の蓄積によって勢いが生まれ、欠落
があればそれを埋めようとする流れが既にできているのだ。モノの連鎖はいわば助走路となっ
て断絶を越える跳躍を導く。かくして何もないはずの場所に“thel
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"(
1
7
2
) が踏み出さ
れるとき、その空白に必然のように手が差し伸べられるのである。あるいは我々はここで、
Earthseaシリーズ第 4巻 Teh
α
ηu (
1990) における龍の飛来の場面を思い起こすだろうか。そ
れは人間と龍との狭間で苦悶する少女 Therruの歳月が描かれたのち、やはり絶望と希望の亀裂
α?ω276-77)。
に顕現する圧倒的な瞬間であった (Teh
最後に主人公の名前について。 L江という聞き慣れない名前は、馴染みの英単語を連想させっ
つ、同時にそのことで欠損をイメージさせている。その末尾に tを補えば l
i
f
t、そして eを補え
ばl
i
f
eである。
l
i
f
eから一部が欠けていると捉えると、 L
i
fの名前は終末前の、いわば生きる屍としての彼の
生を暗示し得るだろう。これに e、すなわち endが加われば、その「終わり」によって L
i
fの人
生は欠落を抜けだし、逆説的に完結をみることになる。
一方これを tが抜け落ちたもの捉えるなら、それは t、すなわち thingsの力のうえに跳躍しよ
i
fの生き方を表わすといえるのではないか。
うとする L
i
此"の語がテクストに登場するのは、最初と最後にそれぞれ一度だけである。
直接“l
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江
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] stoodlookingout overthe long foarn-lines f
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)
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" が、結末ではLi
f自身の描写に使われてい
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fは“ t
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" を積み重ね、不足を補うべく“nos
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"へと果断な一歩を踏み出し、そし
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て船に引き上げられ(凶t
)、生き延びる (
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Works Cited
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~I:辻朱美「原型とミセス・ブラウン
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あるいはアニメ映画というファンタジー Jユリイカ
K'ル = グ ウ ィ ン - 閣の左手j から
f
ゲド戦記』までj、青土社、
総特集アーシュラ・
2
0
0
6
年 8月臨時増刊号、 9
0
9
9
頁
。
r
大橋洋一「帰還の物語・物語の帰還ーアーシュラ・ K・ル・グウイン『所有せざる人々 jの時間と構造(1)
J英
語英米文学J2
2
、中央大学英米文学会、 1
9
8
2
年 3月
、 9
1
1
1
0
頁
。
r
金原瑞人「モダンファンタジーの現代性ーアーシユラ 'K'ル・グウインの場合 J 武蔵野英米文学J2
0、武蔵
野女子大学英文学会、 1
9
8
7、7
5
8
7
頁
。
清水真砂子
rゲド戦記Jの世界』、岩波ブックレット 683、岩波書宿、
-96ー 龍 谷 紀 要 第3
7
巻 (
2
0
1
6
) 第 2号
2
0
0
6
年
。