GKH019804 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

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9
映画的 《
剰余≫の時代錯誤的な再定義について :
バルトの 《
第三の意味≫と
ムカジョフスキーの 《
非意図性≫
大
〔
要
平
陽
一
旨〕 映画の中には,例えば,肌の肌理,声色,衣装のテクスチャ,光の反射など
のような,映像美に寄与することもあれば,映像美 を台無 しにもしかねない,物語 とは
無関係 な物質的 ・素材的な要素が存在 している。純粋に映像的な要素 と言い換 えること
もで きそうな,こんな要素を 《剰余》 と名付け,ポス ト構造主義的批評 を展開 したのが
ヒースであった。 しか し, ヒースのポス ト構造主義の立場か らなされる 《剰余》論は,
実は,フランス構造主義 を代表するロラン ・バル トのエ ッセイ 「
第三の意味」の強い影
響 を受けて書かれた と推測 される。ただ し,《第三の意味》の定義を初め として,バル
トのエ ッセイには多 くの矛盾がある。 しか し,それでも,ヒースの議論 よりも遥かに具
体的で,多 くの示唆 を含んでいる点で,高 く評価できる。
ヒースの ≪剰余》の概念は,その後 ,3
0
年代 にバフチンによって提起 された 《脱中心
的 ・遠心的なるもの》という概念 と関連づけられることが多い。その結果,操作概念 と
して比較的明解な概念 にで きることは,示唆的である。すなわち,《剰余≫や ≪第三の
意味》 とい うスタティックな概念を,ダイナ ミックな概念 として,作品の中に,統一 さ
れた構造 を志向する 《求心力》 と,それに対立する反統一的な 《遠心力》 との間の緊張
関係 に気づかせて くれるか らである。
しか し,バル トの 《第三の意味》 という概念は,バフチ ンの 《遠心力≫ よりも,4
0
年
代 にムカジョフスキーによって提案 された 《非意図性》の概念 を援用 した方が,はるか
に有効に修整することがで きる。
バル トの場合,硬直 した図式に依拠 し,矛盾 をはらんだ修辞で もって自らの図式に揺
さぶ りをかけようとする。そのため,非常 に分 りに くく,応用が難 しい。一方,四半世
紀以上 も前に,ムカジョフスキーの ≪非意図性》はダイナ ミックな構造観 に基づいた明
確 な概念に到達 してお り,その先駆性 は高 く評価すべ きである。ムカジ ョフスキーの
《非意図性》は,構造主義は過度の合理性,図式性が欠点であるとする偏見 を払拭 して
くれるように思われる。
〔
キーワー ド〕 ヒースの剰余 ;バフチンの遠心力 ;バル トの第三の意味 ;ムカジ ョ7ス
キーの非意図性 ;(
ポス ト)構造主義
は
じ め
(
1
)
に
小論 の 目的は,構造主義 の一派 であ るプ ラハ学派 の中心 メ ンバ ーであ ったチ ェコの美学者 ム カ
ジ ョフス キー
(
1
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9
1
-1
9
7
5
)の仕事 を再評価す るこ とに
- もはや遠 い過去 に属 し,歴 史 的 な
意味 しか持 ちえないム カジ ョフスキーの仕事 が,構造主義 につ きまとう硬直 した図式性 ・合理
4
0
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性 とい うイメジとは裏腹 に,ポス ト構造主義 をある面 において先取 りしていた先駆性 を示す こ
とにある。そのために,統一 された構造の中に,その統一に抵抗 し,構造 に対 して破壊的に作
用する ≪剰余≫が存在 しているとい う,いかにもポス ト構造主義的逆説 に注 目してステイ-ヴ
ン ・ヒースの提唱 した 《剰余≫の概念が,すでにバル トやムカジ ョフスキー といった構造主義
者 によって提唱 されていたことを,二人か らの引用の織物で浮かび上が らせ ることを試 みた
い。 しか も,不必要に難解で唆味なヒースの概念が,バ フナ ンやムカジ ョフスキーの所論 を援
用することで作品分析 の為の実用的な操作概念 とな りうるとい う主張 を, さらには,過去の研
究者の概念の方がむ しろダイナ ミズムを学 んでいて図式性か ら自由であるとい う時代錯誤的な
主張 さえ,あえて しようと目論んでいる。
映画論 にお け るポ ス ト構造 主義
1
9
9
2年 に刊行 された 『映画記号論新語嚢集』 によれば,映画論の分野でポス ト構造主義の立場
か らの批評活動の先鞭 をつけたのは,スティーヴン ・ヒースだ とい 弓'
. ク.
)スチ ャン ・メッツ
の業績 を - ソシュールの言語論や ジュネ ッ トの物語論 の直接 の影響の もとに打 ちだ され,
大枠 と して構造主義 に属す ると考 えて差 し支 えない映画理論 を 一 英語圏の読者 に紹介す る
一方で, ヒースは, 自ら紹介 したメ ッツの映画記号論の幾つかの側面 につ いて批判 して もい
た。例 えば,メッツの場合, コー ドの概念がやや もす る と狭 く限定 され過 ぎて,「ラングな き
ランガージュ」 としての映画 とい うメッツ自身の有名な命題 に矛盾 していると批判するヒース
は, コー ドをもっ とゆるやかに,パラデイグマ ・シンタグマ両面での相関関係 を併せ持つ 「
制
約 の体系」 もしくは 「
可能性 の体系」 と定義 し直す。 この再定義が ロラ ン ・バ ル トの
『
S
/
Z
』の影響 の もとにな された こ とは, まず 間違 いない。なぜ な ら,バ ル トの 『
S/Z』 におい
て,記号表現 は,テクス トを通過す る間に自らと記号内容 とを関係づけるコー ドの支配か ら部
分的に逃れ去 って しまうことが示唆 されているか らだO
他方,ジャック ・デ リダや ジュリア ・クリステヴァのポス ト構造主義の立場か らなされた記
号批判 を採用 しつつ ヒースが示唆する所によれば,分析者 によって捨象 され,構築 された体系
は,切 り捨てを行 っている以上,体系内に破損の痕跡や何かが無 くなったための間隙を残 さざ
るをえないOそのため体系か ら排除 される 「
分析廃棄物」 とで も呼べそうなものが作 り出 され
るのだ という。作品の構造か ら漏れ,テクス ト内部 にある統合 し組織化する力 によって囲い込
まれていないこう した側面 を, ヒースは (ラカンの用語 を借 りて)「
剰余」 と名付 けるO この
1
9
7
5
)の一節 を引用 しよ
用語が初 めて提案 された論文 「
映画 と体 系 :分析 の ための用語」 (
う 。
物語が決 してイメジを汲み尽 くせないのと同 じく,〈同質性》は所与の映画作品のもたらす効果
であって,体系 としての映画の効果ではない。実の所,体系 としての映画こそが,同質性の所産
なのである。そうした同質性は,自らが抑圧する素材的実践の亡霊に取 り潰かれ,この抑圧の修
辞,連続性の形式は,当該作品のテクスチャーの中に破損の形象を 一 破損のへ りというか縁
を - もたらし,この破損が ≪同質性》に揺さぶ りをかける。映画は構造においてこの破損に依
存 しているにもかかわらず,そんな破損を解消せんとのたえざる闘いも,イメジと言説 との調停
の試みも,そして物語 も,決 して映画全体を包含することはできず,映画全体はいつも 〔
整合的
体系 としての映画」とは,少な くと
に組み立てられた〕フィクションを上回る。 したがって,「
「
映画的 《剰余≫の時代錯誤的な再定義 について :
41
」
バル トの 《第三の意味≫ とムカジ ョフスキーの 《非意図性≫
も次のことを意味する :所与の映画作品は,同質的な組織体である限 りにおいては,映画の 「
体
系」を意味するが,と同時に,そうした組織化の操作のため外部に追放されたものの痕跡が刻印
されている素机 そうした組織体 自体への否定として銘記された素材でもあるということ若と
体系,組織,構造 といった概念か ら出発 しつつそ こか ら逃れ去 る側面 に注 目す ることは,作品
のナラテ イヴな諸機能 を説明す ることだけを目指す伝統的な映画批評か らは遠い。それは,物
語が決 してイメジを汲み尽 くせ ない とい う前提 に立 っている。
ただ, ヒースに始 まった 《剰余≫ をめ ぐる議論 において も,構造 な り体系の措定を目指す分
析が全否定 されている訳ではない。議論の眼 目は二種の力の緊張関係 にある。テクス ト内部 に
現前す る力の うちあるものは,観客が構造 を知覚で きるような形で作品 を統一す る方向に働 く
が,他の諸力はこの統一 に抵抗する。後者は,前者の効果 としてもたらされる整合的な相関関
係 に対 して破壊的 に働 くことになる。つ ま り, ヒース以降の 《剰余≫論 は,映画作 品の こと
を,単純 に,統一 を志向する力の所産 とは考 えず,相対立する諸力の安協 的統合の場であ り,
また,その統合の結果で もあるとい うふ うに見倣す。 もっぱ ら首尾一貫 した要素だけが注 目さ
れる訳 で もない し,《剰余≫だけが問題 にされる訳で もないのである。
ヒースの場合 も,《同質性≫ に対立す る概念 として,異種 の ものが交 じり合 った 《異質性》
,『映画記号論新語嚢集』 (1992)がバ
が措定 される。 しか も, この対立 を説明するにあたって
フチ ンの名 に言及 していること -
《同質性≫ について 「テクス トのなかの統合す る,バ ブ
チ ンな らば 『
求心的』 と呼ぶであろ う諸 々の力」 と書 き添 え,≪異質性≫ について も 「
統一 を
'
]'と注釈 を加 えている点は見逃せ ない
分裂 させ,断片化す る力 (
バ フチ ンのい う 『
遠心力』)
(
バ フチ ンの ≪求心的なるもの≫ と ≪遠心的なるもの≫の区別 と対立 については,い ま一度立
0《異質性≫の概念 を打 ちだす ことで もって ヒースは, イメジの もつ物質
ち返 ることになろう)
性が作 品の統一 を超 え,はみ出て しまうことを 一
剰余 としての知覚上の戯れ を生み出す こ
とを示そ うとする。 どんな映画作品 も,その存在 を素材に負 ってお り, イメジやサ ウン ドなど
を素材 として諸々の構造体 を作 り出 し,構造体の構造体 として立 ち現れて くる。だが,その映
画の素材的 ・物質的要素すべてを,エ コノミカルで秩序だった構造の発見- とスムーズに導い
て行 く手がか りに仕立て上げることなど出来 るはず もな く,構造化 のプロセスで行 われた切 り
捨 ての痕跡 としての物質的要素が残 って しまう。
メッツの コー ド理解 を批判す る際 に ヒースが援用 した と推測 され るロラン ・バル ト (
1
91
5
-
,「第三の意味」 (1970) と題 されたエ ッセイにおいて表示義 と共示義の彼岸 に横た
8
0) もまた
わる 「
意味」 について論 じてい る。「
表示義 と共示義 の彼岸」 とは具体 的 には,意図 されたわ
けではない線や色彩,表情,テクスチ ャなどの素材がス トー リーの言わば 「同伴者」 となるよ
うな領域のことoバル トもまた,イメジの物質性が,映画の中の統一性 をもった物語の構造 を
超えると主張 していたのである。 コー ドの理解 と同 じく,《剰余≫の問題 に関 して も, ヒース
はバル トの影響 を受 けていたと考 えていいのだろう,7
7年の刊行 とい うか ら 「
映画 と体系 :分
析のための用語」 (
1
97
5) の執筆後 ではあるが, ヒースは, 自ら編纂 ・翻訳 したバル トの芸術
論集 に 「
第三の意味」 を含めている。
,「第三の意味」 (1970) を
ただ し, ヒースの 「
映画 と体系 :分析 のための用語」 (
1
97
5) は
踏 まえて書かれた と推測 されるにもかかわらず,引かれている具体例が,バル トに比べ説得力
を欠 く憾みがある。要するに,映画作品の中の何が ≪剰余≫ となるか見分ける眼 に関 しては,
バル トの方がはるかに上だ。バ ル トの場合 も,《剰余的なる もの》 についての理解が明確 に定
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義 され,説得力 をもって説明 されているわけではないが,具体例 は当を得 ている し,それ らの
例 は,バル トが映画的 《剰余≫の第-の源泉 を素材的 ・物資的側面 に求めていることを疑問の
余地な く示 している。 この点で も,それ らの物質性が映画 によって抑圧 されねばならないこと
を示唆 し,《剰余≫ を説明す るために精神分析 を援用す る といったふ うに議論が拡散す るヒー
ス よりは, まだ しも理解 しやすい。 もちろん, ヒースの論考は,デリダ, ラカン,そ してクリ
ステヴァの所説 に沿って議論が進め られるか らこそ 「ポス ト構造主義的」 と評 されるのであろ
うが,バル トのエ ッセ イに して も,クリス テヴ ァの用語であ る 《意味生成性≫に言及 してお
1
97
0)は構
り, ラカンの言 う 《想像的なるもの≫ とも決 して無関係ではない。「
第三の意味」 (
造主義の終点であると同時 にポス ト構造主義の始点 とも見倣せ るのではないだろうか。
≪剰余≫ とい ういかにもポス ト構造主義的で逆説的な概念 に注 目しつつ芸術論 を遡 り,ムカ
ジ ョフスキーの先駆性 を再評価す ることが拙文の 目的である以上, ヒースの論文がバ ル トのエ
ッセイ以上に難解で論点がぼやけている上 に,具体例 に乏 しいこと, しか もムカジ ョフスキー
が反心理主義の立場 をとるのに対 して, ヒースがその映画理論 をラカンやクリステヴァの精神
分析理論 に基づいて構築 した事実 を併せ考 えるならば, ヒースではな くバル トの論考 を出発点
にす ることは, さしあた り無難 な選択であろう。言 うまで もな く,それは恋意的な選択で しか
ない。 もっとも大 きな相違点 となる精神分析 を切 り捨てて しまえば,類似性の占める比率が高
まるのは当然のことだが,それに して も,《剰余≫ をめ ぐる議論の出発点がバ ル トのエ ッセ イ
1
97
0) にある事実 だけは動かない。
「
第三の意味」 (
バ ル トの ≪第三の意 味 ≫
「
第三の意味」 (
1
97
0)で, ロラン ・バル トはまずエ イゼ ンシュテインの映画 『イワン雷帝 』
の戴冠式の場面の フォ トグラムを取 り上げ, このシー ンに三つの意味の レベルを区別で きると
い う。第-は作品による直接的伝達の レベルである。
1)情報の レベル。舞台装置,衣装,登場人物,さらにはそれらの関係,(
唆昧にではあって
も)私の知っているエピソー ドに,逸話の中にそれらを組み込むことなどから私が知 りえる全て
)
をこのレベルが集め
(
5
る
。
第二の レベルには,直接の伝達以外 に伝達 しうる共示義が属す。
2)象徴のレベル。このレベルは降り注がれる黄金であ り,それ自身さらに階層化されている。
対象指示的な象徴表現がある :それは黄金による洗礼 という戴冠の儀式だ。ついで物語にかかわ
る象徴表現がある :それは 『
イワン雷帝』における黄金のテーマ,富のテーマであ り (
そのよう
なテーマが存在すると仮定 しての話だが)
,この場面に意味を伴って介入 してくる。さらにエイ
ゼンシュテイン独自の象徴表現がある。最後に歴史的な象徴表現がある。これは意味作用のレベ
(
6
)
ルだ。
伝統的な芸術論で も,構造主義言語学や古典的な記号論で も論 じられて きたこれ ら二つの レベ
(
」 と自問す る。「そ うではない,私 はまだ
ルを指摘 した後,バル トは 「これで全部 だろ うか ?
7
)
そのイメジにとらえ られているのだか ら」 とい う答 は 『イワン雷帝』 に,表示義や共示義の
,
「
映画的 《剰余≫の時代錯誤的な再定義 について :
43
」
バル トの 《第三の意味≫ とムカジ ョフスキーの 《非意図性 ≫
ような上位体 系だけでは汲 み尽 くせぬ ものが何かあることを暗示す る。
3)私は第三の意味 - 明白であるのに不安定で,執掬な意味 を,(
多分,まず第-に)読みと
り,受け取る。それの記号内容が何であるかを私は知 らない,少な くともそれを名付けることは
出来ないが,この - したがって不完全な - 記号 を構成する特徴や,意味作用を行 う付随的
属性 を,はっきり見てとることができる :二人の廷臣たちのメイクアップの濃 さ,片方は厚ぼっ
た くて しつこいメイク,もう片方はなめらかで上品なメイクをしている。前者の 「
間の抜けた」
鼻,後者の細 く引かれた眉,彼のウェーブ していない金髪,生気のない蒼 ざめた顔色,蔓ではな
いかと疑わせる,いかにも気障な仕方でぴった りとなで付けられた髪型o石膏色のファウンデー
ション,白粉での仕上げ。この第三の意味を読み取ることが正当化 されるか -
この意味が一
般化 されうるのか,私 には確信が持てない。 しか し,私にはすでにそれ らの記号表現 (
いま私
が,記述ではないまで も,語ることを試みた特徴)は理論的独 自性 を持 っているように思われ
る。なぜなら,一方において,それはただ単にそのシーンに存在 しているものと混同されること
などあ りえないのだから。その記号表現は対象指示的なモチーフのコピーであることを超えてお
り,問いかけとしての読みを強いるのである (
この問いかけが関係するのは,まさに記号表現で
あって記号内容ではない し,読みであって思惟ではない :それは 「
詩的な」把握である)
。他
方,それはエピソー ドのもつ ドラマ上の意味 とも混同 しえない :これらの特徴が,二人の廷臣の
意味作用 を行 う 「
態度」を (
「
彼 らは単に廷臣として自らの職務 を遂行 しているにす ぎない」)
一 一人の冷ややかでうんざりした態度 と, もう一人の勤勉な態度 を指示 しているに過 ぎないと
(
8
)
述べることは,私 を十分に満足 させてはくれない。
5ペー ジ以上ある 「第三の意味」 をたったこれだけに要約 して しま
ペ イパーバ ックの英訳版 で 1
うとは,ずいぶん乱暴 な話 だが, このエ ッセイでは冒頭で問題提起が なされ,第三の意味 レベ
ルについて さ しあた りの定義が なされた後 は,結局, さまざまな仕方で 《第三の意味 -鈍 い意
味≫が性格付 けられてい くことが繰 り返 され るだけだ。叙述 はいか にも批評 と創作 の統合 を目
指 したバ ル トらしく,知的であ りなが らも官能性 を志 向す る秘儀 的 な魅惑 に溢 れ,矛盾 も多
'
い.そ もそ も 「
鈍 い意味 は記号 内容のない記号表現である]'とい う定義 自体 が形容矛盾 ではな
いか。 しか もバ ル トは,矛盾 した定義 さえ も裏 切 る ように,その先 で 「
記号表現 (
第三 の意
味)が満 た されることはない。それは永続的 な 《虚≫の状態 にある。が,逆 にこの同 じ記号表
現 は空ではない と (自らを空 にす ることは出来 ない) と だろう 一
(
1
0
)
これ もまった く同様 に正 しいの
言 うことがで きるのだろ う」 と述べ ているのだか ら。 この ように矛盾 を季み暖味
に揺れる記述その ものが,不安定 な 《第三の意味≫の特性 を象 っているようで もあるが,凡庸
な読者 にとっては,≪第三の意味≫の特性 の理解 に辿 り着 くことさえたやす くはない。 『
彼 自身
によるバ ル ト』 に,バ ル トは 「
彼 に とっていちばん必要 と思 われる諸概 念 を,彼 は決 して明示
1
Hl
的 に説明 しない (
決 して定義 しない)
」 と書 く。実際,≪鈍 い意味) について も,その定義 は不
可能 だ と言い放つのである。
だが, これ まで引用 した断章か らも察せ られるように,それが どれほ ど暖味で矛盾 してい よ
うと,バル トは, 自らの断言 を裏切 るように, くどいほ ど説明 を重 ねて行 く。そ こには定義 め
いた表現 も少 な くないのだが,互い に矛盾 していて,定義 として機能 して くれない。 に もかか
わ らず,知的なコケ ッ トリーに魅 了 された生真面 目な研究者たちは,それが無粋 な蛮行 である
ことに気づ きなが らも,バル トの矛盾 をい ささかな りとも解消 し,文章の アウラを剥 ぎ落 とし
て まで も近似 的な定義 に近づ き,凡庸 な研究 のための実用 的な概念 に鋳直そ うとする。実際の
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作業 は,再定義 とい うよりも力点のつけ替 え と呼ぶべ きか も知れない。意味 (
記号内容) と分
節 された単位 (
記号表現)が固定 した相関関係 を持つ言語記号 をモデルに して 《第三の意味≫
を説明 しようとす るのではな く,美的テクス トに内在 し組織化 を志向する力 とそれを対立す る
力の動的な緊張関係 に注 目して,《第三の意味≫の ような疑似 的意味作用 一
唆味でゆるやかな相関の結果生 じる記号機能 -
表現 と内容の
をす くい上げようとするのである。
1
9
81
) をもの したクリステ イン ・トンプソンに
『イワン雷帝』 について大部のモ ノグラフ (
(
1
2
)
して も,《第三の意味≫ を 「うま く描写す ることなどで きない。在 り処 を指 し示す ことしか」
と書 くバル トの当を得 た実例 については賛意 を表 しなが らも,バル ト自身の 《鈍い意味》の定
義 には触れず, ヒースによる 《剰余≫の定義 を出発点にす る。彼女の場合 もやは り,固定 され
た構造への統合 に抵抗す る力 とい うダイナ ミックな対立 ・緊張 に注 目す る。《剰余》 も,物語
やス タイルのパ タンと酌齢 をきたす謂わば 「
反記号的な」物質的 ・素材的側面 とされ,反言説
的な物質性が果たす疑似的記号作用 を視野 に入れ られることはない。
バ フチ ンの ≪遠心力 ≫
1
9
9
2) は, ヒースの 《剰余≫ を解説す るにあたって,バ ル トの名 を
『
映画記号論新語嚢集』 (
挙 げない。 ヒースの ≪異質性≫ について も,組織化 に抵抗 し,統一 を分裂 させ るとして,旧ソ
1
8
95
-1
97
5)が 『
小説の言葉』 (
1
9
3
4
35
年執筆)で提起 した
連の美学者 ミハ イル ・バ フチ ン (
《遠心力》 とほほ同一視 しているのは上 に見 た通 りだ。他方,同 じ項 目の中で,「
剰余」 とい
(
1
3
)
う用語が導入 されたのは 「
《象徴界≫内部への 《想像 的なる もの≫の顕現」 に言及す るための
もの としているのは,明 らかにラカン-クリステヴァの理論 を踏 まえている。実は, この表現
と相通ずる 「この第三の レベルは 一 意味作用の レベルではな く 一 意味形成性の レベル
(
1
4
)
である」 との (しか も直後 にはク リステ ヴ ァの名 に も言及 してい る)一節が 「
第三の意味」
(
1
97
0) にも見つかる。だか らこそバル トの黙殺 は不当だ と言 える し,だか らこそ,映画 にお
ける物質的 ・素材的剰余 を理解 しやす くするための再定義が的外れにならずに済んでいる とも
言 える。そ もそ もバル ト自身, ヒースほど顕著ではないに して も,クリステヴァの影響 を受 け
ている。再定義 は,クリステヴァへ と迂回す ることで 《鈍 い意味》のよ り良い (
魅力的な批評
のためではな く,無粋で実践的な理論 にとって有益 な)理解 に到達 したのであろう。
しか も,バル トは 「
第三の意味」の中で, クリステヴァの著作 を通 じて知 ったにちがいない
バ フチ ンの所論 にさえ,それ とな く触れている。
(
1
5
)
る
。
それは駄酒落,悪ふざけ,浪費の一族の一員だO道徳的な,あるいは美的なカテゴリーには無関
心であり,カーニバルの側にあ
《鈍い意味≫が 「カーニバル」 と結 びつけ られる様 は,い ささか唐突の感 をまぬがれ まい。 し
か し,《鈍い意味》が 「
文化,知識,情報の外 に広がっている」 ように見え,「ランガージュの
(
1
6
)
無限に向って開いている」 とい うのなら, クリステヴァの読者が,彼女の紹介による (
バイア
スのかかった)バ フチ ンのカーニバル論 を連想 して も不思議 はない。彼女 こそはバ フチ ンを初
0
年代後半の彼女の著作 はバ フチ ンの影響 を色濃 くと
めて西欧に向け紹介 した研究者であ り,6
どめているのだか ら。
45
「
映画的 《剰余≫の時代錯誤的な再定義 について :
バル トの 《第三の意味≫ とムカジ ョフスキーの ≪
非意図性≫
」
詩の言葉は,多面的な結合が可能であ り,多面的に決定 されていることによって,コー ド化 され
た言説の論理を凌駕する論理にしたがっているのであ り,こうした論理が十分に実現 されるのは
(
1
7
ある
。
公式的な文化の周縁においてで しかない, したがって,バフチンはこの論理の根 を求めてカーニ
)
バルへ と赴 くので
ヒースの 《異質性 ≫ とい う概念 もク リステヴ ァか らの借用 した ものだが,言語社 会 にお け る
《遠心力》の顕現 と してバ フチ ンが しば しば言及す る多様 な言語 の共存 状態 を指す 《多言語
性≫ とい う概念 を連想 させ る。 ただ,《多言語性≫が静態 ではない と して も 《遠心力≫の もた
らす 「
状態」 であ る こ とを考 える と,《異 質性≫ 自体 をバ フチ ンの言 う 《遠心力≫ と同一視
(
1
8
)
し,「
所与 の映画作 品の もた らす効果」 であ る 《同質性≫ を 「テ クス トのなかの統合す る,バ
(
1
9
)
フチ ンならば 《求心的≫ と呼ぶであろう諸 々の力」 と解釈す るのは,す り替 えに見えな くもな
い。『
小説の言葉 』 (
1
9
3
4
-35年執筆)のバ フチ ンの ように,「
現実の階層分化性 と多言語性 は,
言語 の生 の静態 であ るだけで はな く,その動 態 で もあ る」 と明言 し,「
求心 的 な力 の傍 らで
は、言語の遠心的な力 の絶 え間ない働 きが作用 し、言葉 とイデオロギーの中心化 と統一の傍 ら
(
2
D)
では脱 中心化 と分裂の過程が絶 え間な く進んでいるのである」 と丁寧 に説明 して くれるのな ら
,
ともか く 『
映画記号論新語嚢集』 (
1
9
9
2)の記述 には飛躍がある。 に もかかわ らず, ヒースの
《剰余≫ をめ ぐる議論 が,《求心力》 と 《遠心力≫ との対立 ・緊張 とい うダイナ ミックな図式
の導入 によってす っ き りと分 りやす くなることも確かである。極論すれば,括弧 の中で言及 さ
れただけのバ フチ ンの概念の方が説得力 を持 っているのである。 ここには, クリステヴ ァよ り
も以前のバ フチ ンの理論 によってポス ト構造主義 的批評 に修整が加 え られている とい う 「
錯時
的」 とも形容で きそ うな現象が認め られる。難解 で矛盾の多い 《剰余》論が,凡庸 な読者 に も
理解で きるようになるのは,ひとえにバ フチ ンのお陰だ とさえ言 いた くなる。
ただ,《剰余≫ な り 《第三の意味≫ についての議論 でバ フチ ンの 《遠心 的 なる もの≫が援用
される際,バ フチ ンの概念の側 に も一定の変更が加 え られているのではないか。 まず第一 に,
バ フチ ンが 《求心力≫ と 《遠心力≫ を論 じてい るのは,小説の文体論 を創設 しようとい うかな
り狭 く特殊 な試みの中であること。 それは散文の ジャンルを特徴づ けるため に提起 された概念
なのである。詩の ジャンルが言語的 ・イデオロギー的な生 における求心力の方向 に沿 って発達
して行 くの に対 して,「
小説や それ を目指す芸術 的散文の ジャンルは,歴史的 に見 て,脱 中心
)
,
的 ・遠心 的な力の方向 に沿 って形成 されていった」 と 『
小説 の言葉』 に書 かれてい
(
2
1
る
。
その一方で,《求心力≫ と 《遠心力≫ は,主 に作 品 を囲む言語状況や ジャンルの ような作 品
よ りも広い範 囲で作用する力 として捉 えられてお り, ひ じょうにマ クロな概念 と言 える。例 え
ば次の一節 な ど,いかに もバ フチ ンらしいスケールの大 きさを窺 わせ る。
アリス トテレスの詩学,アウグスチヌスの詩学,「
真理の単一の言語」 とい う中世の教会の詩
学,新古典主義のデカル ト哲学の詩学,ライプニ ッツの抽象的で文法的な普遍主義 (
「
普遍文
法」 という概念)
,フンボル トの具体的なイデオロギー主義,これらはそれぞれニュアンスの差
こそあれ,どれも同じ社会 ・言語 ・イデオロギー的生の求心的な力を表現 してお り,ヨーロッパ
の言語の中心化 と統一 という同一の課題を果たすために役立っている。唯一の支配的な言語 (
方
言)の他の言語に対する勝利,諸言語の抑圧,言語の隷属,真の言葉による啓蒙,野蛮人や社会
(
2
2)
的下層民を文化と真理の単一の言語に近付けること,イデオロギー体系の規範化 (… )
4
6
天 理 大 学 学 報
ただ し,《求心力≫ と 《遠心力》の両方が個 々のテ クス トの中にも注 ぎ込 まれ,中心化 と脱 中
心化の過程が言説の中で交差する事態 にも,バ フチ ンは言及 していることは,是が非で も指摘
(
2
3
)
しておかなねばならない。 したが って,作 品内部の問題 に本来マクロな概念 を用いることに問
題があるわけではない し,すでに述べた通 り,結果的に,バ フチ ンによって 《剰余》 をめ ぐる
議論 は理解 しやす くなっていることは認め ざるを得 ない。 とはいえ,《剰余》な り 《第三の意
味》が映画の素材の物質性 とい うミクロな側面 に着 日していることを思い起 こすならば さらには,精赦 な理論 (
史)的な検討 に付すためには -
よ りミクロな概念 と比較で きるな
ら,その方が望 ましいだろう。
ム カジ ョフスキーの 《非 意 図速 写'
《第三の意味≫ を トンプソンは 「
構造体の外側 に横 たわていて,作品の もつ統一化の力に囲み
.バル トを踏 まえていると推測 されると-スの 碩 '
J
A≫
込 まれていない側面」 と定義 し直 し岸 '
,『映画記号論新語嚢集』(1992)は,「《象徴界≫内部への 《想像的なるもの》の顕
論 について
現が,はか らず もさらけ出す, とい うか指 し示すのは,(…)テクス トの中で もその統合す る
力によって囲い込 まれていない側面すべ てなのである」 と述べている。 さらに 《剰余》 との関
連で, ヒースが 「
等質性 であろうカ ー
』
な )力 -
と異質性 -
す なわちテクス ト中の統合す る,バ フチ ンならば求心的 と呼ぶ
すなわち統一 を分裂 させ,断片化する (
バ フチ ンの 『
遠心的
とを区別 している'
J
3'
点 を今一度確認 した上で,ムカジ ョフスキーによって提起
された,芸術 における 《意図性≫ とい う概念 について,そのおお よその定義 を読んで もらいた
い。
芸術作品にあっては意味的統一がきわめて重要な条件であるが,意図性こそが,個々の部分 ・要
素を結び合わせ,その作品に意味を持ち込む統一をもたら羊と
意図性 - すなわち,作品内部で作用 してお り,個々の部分 ・要素の集合体に統一的意味を付
与 し,それら一つ一つに,他の全ての部分 ・要素との間にある一定の仕方で関係づけることによ
って,それらの部分 ・要素の間の対立と緊張を克服することを目指すガと
一読, トンプソンや 『
映画記号論新語童集』が 《同質性≫を語 るところ とほ とん ど変わ らない
ことが了解で きよう。芸術的創造 を反心理学の立場か ら考察するムカジ ョフスキーは,《意固
性≫ を,作 品内部 において所与の構造 に属する個 々の要素間の矛盾対立や緊張 を均す 「
力」 と
見倣 す。それは,記号 の意味面 の統 一 を保 証す る特殊 な意味 「
エ ネル ギー」であ り,《意 固
性≫ によって意味的統一 を達成 した作 品だけが記号 にな りうる とされる。≪意図性≫による芸
術作 品の組織化は,カオス,偶然性,エ ン トロピーの否定 につながる。 しか し,上 に見て きた
ように,美的テクス トの中には,《求心力≫ -
意味作用 にあずかる組織化す るカ ー
に
対抗 して,《遠心力≫ もまた働 いてお り,これ ら遠心的な力は,意味 と情報の論理的で滑 らか
な成層化をたえず阻害 している。つ ま り,芸術作品の中には意味的統一 に抵抗する力が作用 し
,
作品の中でこの統一 に抵抗す る ものはすべ て,作 品の意味的統一 を乱そ うとす る も
てお り 「
(
2
9
)
のはすべ て,受容者 によって非意図的な もの として知覚 される」。それが 《意図性≫の対概念
の 《非意図性》であ り,受容者 にとっては,所与の規範の侵犯 として 一
抗す るもの として 一 姿 を現す。
意味面の統一 に抵
47
「
映画的 《剰余》の時代錯誤的な再定義 について :
バル トの 《第三の意味》 とムカジ ョフスキーの 《非意図性》
」
意図性を受容者の見地から眺めるならば,それは,作品の与える印象の中の分裂の感覚 - あ
る要素が作品構造全体 と意味的に統合されえぬことが,その客観的な根拠 となっている感覚 (
3
0)
として立ち現れてくる。
すでにお気づ きだろうが,ムカジ ョフスキーは,創作者ではな く受容者 を,芸術的創造 にお
ける基本的主体 と見倣す。作品中の何が 《非意図的なるもの》かについての最終的な判断につ
いて も,受容者が下す ほかない と考 える。それ も,《第三の意味》だけが 「
対象指示的なモチ
(
那
)
ーフの コピーであることを超 えてお り,問いかけとしての読みを強いる」 とする詩的な把糧 と
はちが って,≪非意図的なるもの》の知覚が可能 になるのは,作品の意味的統一 ・内的体系性
を認知 しようとする受容者側の積極的な努力があってこそなのだと主張する (このことを逆方
向か ら見れば,《非意図性》だけが意味的統一 に抵抗することで もって,受容者の能動性 を目
覚めさせ る力 を持つ ということにもなる)。 となれば,≪意図性/非意図性》が,基本的には作
者の企図 とは無関係 だ ということにもなるだろう。実際,受容者の側が,作者の当初の意図 と
比較 して,作品中の 《意図性》 を本質的に変化 させて しまう事例 を,芸術史か ら引用すること
(
3
2)
は決 して難 しくはない。
逆 に,未完のまま放置すべ く意図 された彫刻の ように,意識的に作品中に持 ち込 まれる 《非
意図性》 もあ りうる。 しか し,た とえ意図的に作 品中に持 ち込 まれた 《非意図性》であろうと
ち,やは り自然発生的な 《非意図性》同様,意味的統一の侵犯 として観者 に作用する点では変
(
3
3
)
わ りはない。作品構造の中に居場所 を持たず,不安定なまま意味面での責任 を負 うこともない
《非意図的なるもの》は,情報の流れの中の ノイズ として知覚 されることになる。《非意 図的
なるもの》が,少な くとも当初は,エ ン トロピー として知覚 される以上,芸術 とは統一 された
作品 を創造する営みだ と考 え,完全 な秩序 に由来する美的な悦楽 を芸術 の最終 目標 とする見方
,「鈍い
に立つ限 りは,≪非意図的なる もの》は否定的要因で しかあ りえない。 これをバル トは
意味の中にはエロテイスムがあるが,それは美 と対立する物, さらには,そんな対立の外側 に
落ちこぼれるもの,その限界 -
すなわち,倒錯,不安,そ して,おそ らくサデ ィズム ー
N'とやや大仰 に書 くのであろう。バル トよりも半世紀以上 も前 に,シクロフス
を含んでいる'J
,「手法 としての芸術」 (1917)の中で,美的テクス トにおける破壊的要素の積極的で肯
キイは
定的な役割 について語 っていた。
ò
r
de
r
"が存在するが,ギリシャ神殿の円柱に,この "
o
r
de
r
'
'を正確に実現 しているも
芸術には `
のは一つとしてない。芸術のリズムは,散文的なリズム ー 破調のうちにある。く…)問題にな
っているのは,複雑にされたリズムではなく,リズムの破壊,それも予測不可能な破壊なのであ
(
3
5)
る。
バル トやシクロフスキイほど手放 しの評価ではないが,ムカジ ョフスキー も作 品中に対立が存
在す ることを,美的作用 を損 なうもの として否定的に考えてはいない。む しろ,緊張や意外性
を排除すること,既成の見方か らの逸脱 を排除 して しまうこと,あ らゆる要素 を均 して しまう
こ とは,か えって作 品の美 的効果 を弱 める とす る。《非意 図性》が惹 き起 こす不快感 で さえ
「
作品が受容者に生 き生 きと働 きかけていたこととの 一
作品が単 なる記号 よ りも直接 的な
何か として知覚 されていた証 とな りうるのである(T.離劃乳性》の側 も,記号性 と結 びついてい
る 「
美的」感情 と並 んで,非記号的現実 と直面す ることか ら生 まれる無媒介的な感情 を受容者
48
天 理 大 学 学 報
が経験す ることを妨 げは しない。
だが,その語の最良の意味での 「アカデ ミズム」 を体現す るムカジ ョフスキーは,受信者の
観点か ら見 た 《非意図性≫の方が 《意図性≫ よ りも芸術 の本質 にかかわる重要 な力である と考
える行 き過 ぎについて,警告す ることを忘れない。
我々がそこから出発 した基本的な主張を今一度強調 し,注意 を喚起する必要がある :すなわち,
芸術作品は,その本質において記号 一 注意が作品内の組織化にくぎ付 けにされるような自律
記号なのである。そのおかげで,作品のもつ内的組織性 に注 目が集まるのである。 もちろん,こ
の組織性は,作者の見地か らして も,受容者の見地か らしても 《
意図的》なものだ。 したがっ
て,意図性は,芸術作品によってもたらされる印象の基礎 となる,言ってみれば 「
無標の」要因
lコ
71
であ り,非意図性が知覚されるのも,それが背景にあらばこそのことである。
それ故,非意図性は意図性に付随する現象である。いや,それどころか,非意図性は,実の とこ
ろ,ある種の意図性であるとさえ言って良いのか も知れない :非意図性の印象が受容者に生まれ
るのは,意味面で統一されたものとして作品を理解 しようとする努力,芸術的な人為構造物全体
を統一された唯一の意味- とまとめ上げようとする努力が挫折 した場所,場合 においてである。
意図性 と非意図性は,絶えざる弁証法的緊張関係あるにもかかわらず,本質において同 じものな
(
3
8)
のである。
バ ル トの 『テ クス トの快 楽 』
ムカジ ョフスキー に引 きず られる格好 で,な し崩 しに話題が映画の枠 を超 えて しまった ことに
ついて, ここで弁明 しなければな らない。 まず第- に,バ ル トも,映画以外 の分野で 《剰余》
に着 目 した論考 を もの していることを指摘 したい。読書 とい う営みが読み手の中に呼 び起 こす
1
9
7
3)や,声楽 にお いて歌 を生み 出す 肉体
独特 な効果 について書 かれた 『テクス トの快 楽』 (
の物 質性 を論 じた 「
声 の粒」 (
1
9
7
2)がそれであ り, ここに も,ム カジ ョフスキーの ≪非意 図
性≫ に通 じる問題意識が窺 えるのであ る。そ こで, この二 つ をバ ル ト自身の 「
第三 の意味」
(
1
9
7
0)やム カジ ョフスキーの 「
芸術 にお ける意 図性 と非意図性」 (
1
9
47年 口頭発 表) と比較
しなが ら,紹介 しよう。
まず
,『テクス トの快楽』。 このアフ ォリズム集で,バル トは,ムカジ ョフスキー同様 ,テク
ス トの中に (
ムカジ ョフスキーの場合 は,美的テクス トに限定 される訳 だが)対立が存在す る
ことを確認す る。その分 りに くさの向 こう側 にどうにか窺 える所 によれば,テクス トか ら 「
快
楽」が得 られるのは,テクス トが二つの境界,二つの意味 レベルの衝突 として知覚 されている
ため らしい。
ラングは再配分 されるのだ。 ところで,この再配分は常 に切断面から生 まれるのである。二つの
縁の形が描かれる。お行儀 よく,従順で,剰窃的な縁 (
学校や文法書や文学や文化 によって固定
された規範的な状態で,ラングを真似るからだ) と,変わ りやす く,空虚な く…)自分 自身の効
(
3
9
)
果の場で しかないようなもう一つの緑,言語活動の死が垣間見 られる所だ。
「
第三の意味」 (
1
97
0)の場合 と同 じく,バ ル トの眼 は もっぱ ら構造 を破壊 しようと し,統一
「
映画的 《剰余≫の時代錯誤的な再定義 について :
49
バル トの 《第三の意味≫ とムカジョ7スキーの ≪非意図性 ≫
」
に抵抗す る もの - す なわち 《剰余≫ に向け られる。「
体系 はテクス トの中で,乗 り越 え ら
(
40)
れ,解体 される」 と述べ,そうした 「
乗 り越 え」や 「
解体」が,クリステヴァの言 う 《意味形
成性≫の レベルでの出来事であることを確認する。『テクス トの快楽』では,「
快楽」 とい うキ
ーワー ドが,テクス トにおける 《剰余≫ -
すなわち 「あ らゆる (
社会的)機能 とあ らゆる
1
1
(
構造的な)働 きを乗 り越 えているいるもの 'に言及するために用い られる。
しか し,バル トは 「
第三の意味」 よりも一歩進んで,エ ロテ ィックな快楽 を享受するには,
テクス ト内部の分裂がある一定の妥協 によって均 される必要がある とも主張すgo この見解
ち,芸術作品の構造 を全ての要素,全 ての規範,全 ての機能の 「
不安定 な均衡」 として語 るム
カジ ョフスキーを思い起 こさせ る。バル ト自身は 《テクス トの快楽》 とい う概念 を 《第三の意
味》 と結 びつけてはいないにもかかわ らず,前者が後者 を出発点 とし,そこか らさらに考察 を
深めてようとしているのは明 らかだ。それは,璃末 な表現 の一致 にも (
む しろ,その方が良
1
9
7
0) は,《鈍 い意味》 を俳 句 にた と
く)読 み取 れ る。例 を挙 げてみ よう。「
第三 の意味」 (
え,それが 「
意味内容 をもたないアナフォリックな身振 り,意味が こそげ落 とされた深い傷の
(
4
3
)
1
9
7
3)で も,通常の内容や意味 を持
ようなもの」だと説明 した。同 じく 『テクス トの快楽』 (
,
たず,構造 に収 ま りきらない ≪剰余≫ をたとえるのに 「
傷」 とい う語が使 われる。
私が物語で味わうものは, したがって,決 して内容ではない し,構造でさえない。むしろ私がそ
(
4
4
)
の美 しい外被につける擦 り傷だ。
もちろん, これは誤読か も知れない し,過剰解釈 か も知れない。知的な姻態 を示す断章の数々
は,魅惑的な唆昧 さに包 まれてお り,バル トに手玉 にとられているだけの ような不安 を,生真
面 目な読者 は拭 い きれない。何 しろ 《テクス トの快楽≫の定義 は,《第三の意味≫の場合 に も
まして暖昧なのである。が,それに もかかわ らず,両者に共通する何かがあることに疑問の余
地 はない。テクス トが,外界のいかなる具体 的な要素 とも因果関係 によって結 びついてお ら
ず,イデオロギー上 ・芸術上の コー ドに対 して解体するす る力,バ フナ ンの言 う 《遠心力≫ と
して立 ち現れて くるとい う事態が語 られていることだけは,確かなように思われる。
1
9
7
2)では,歌 う声の身体性 ・物質性 にバル トの関心 は
もうひ とつのエ ッセイ 「
声の粒 」 (
向 う。『テクス トの快楽』の前年 に発表 された このエ ッセイで も,《第三の意味≫だけに注 目
し,体系や構造か らはみ出さない表示義や共示義 とそれ との差異 を強調す るだけでな く,《遠
心的≫《非意図的なるもの≫ と 《求心的》《意図的≫なるもの とのアンチノミー も論 じられてい
る。言語 と音楽が出会 う場である歌 曲というジャンルを主題 に したことにも助 けられたのであ
(
45)
ろうか,「
母語 を話す身体 の物質性,たぶん,文字,ほとん ど確実 に意味形成性」 と物質性 に
アクセ ン トを置いて説明 された声の ≪粒》が,数ページ先では次の ように語 られる (
定義は し
説 されるにもかかわらず)0
メッ
それが開いて見せる意味形成性は,音楽と他のものとの摩擦 - この 「
他のものJとは (
セージでは決 してない)ある特定の言語なのであり,それと音楽とのほかならぬ摩擦 をもってす
(
4
6)
る以上には,適切に定義されえない。
『テクス トの快楽』 (
1
9
7
3) を再読す る と,そ こで も声の 《粒》が語 られているのに気づ く。
5
0
天 理 大 学 学 報
声 の粒 とは声色 と言語活動 のエ ロテ ィックな混合物」であ る と定義 し,芸術 の
バ ル トは,「
)
「
素材」 にな りうると言い添 えている。物質的性格 を強調 される声の 《
粒≫が, よ り純粋 な物
(
4
7
質的性格 を持つ (とで も言 えそ うな)声色 と 《象徴界》に属する言語活動 との間の緊張の所産
であ り,かつ芸術 の素材 とな りうるとい う見解の当否は筆者 には判断 しかねる。だが,少 な く
とも,美的快楽 を享受する際,記号表現の素材 となる連続体の うち弁別的機能 を果たさない前
記号的材質 まで もが さらに分節 されて,積極的な役割 を果たす事態 と共通す る何かが論 じられ
ているのは確かだろう。≪剰余》 を通 じて美的機能の問題 を考 える上で重要 な示唆が, ここで
はなされている。
今 ここで,唐突 にムカジ ョフスキーの著作 に帰 ることに しよう。 これ以上バル トか らの引用
を重ねた ところで,理解は深 ま りは しない。何 しろ,彼の著作 は矛盾 を学 んだ同語反復 的変奏
なようなものだ。それは,む しろ快楽 を差 し出 して くれる美的テクス トなのである。今か らム
カジ ョフスキーの美的機能論 に重心 を移 し,バル トの所論 と比較 しつ辿 ることで もって,美的
な記号媒体 においては, どのように素材が重要な役割 を果たすのか, またそれは何故 なの こと
い う問題 について考えたい。
美 的 テ クス トにお ける素材
た とえば,実験詩 を思い浮かべ て も良い。あるいは抽象絵画 を考 えても良いだろう。芸術作品
においては,記号表現面が,実用機能の場合 とは比較 にならないほど大 きな役割 を演 じること
を,我 々は経験 的 に知 ってい る。《第三の意味》や 《剰余》 と呼 ばれ る硯象 につ いて考 える
時,バル トや トンプソンもまた映像の素材的 ・物質的な側面 に注 目する。 どうや ら,美的なテ
クス トにあっては,創作者の仕事 も,受容者の注意 も,表現面の より低 い レベルに集中 してい
るらしい。それは何故 なのか。
芸術的創作 は実用的創作 とちがって作品外 の 目的を追及するわけではない。ムカジ ョフスキ
ーは,美的なテクス トの 自己 目的的な性格, 自己集中的な性格 を強調す る。一方,モノを実用
的な道具 として見ている限 り,その特性の一つ一つは実用 目的 との関連で しか評価 されない と
い つ。
形態と素材,さらには形態や素材の個々の要素は,その目的との関連において評価 され,その目
(
48)
的との関連でのみ我々の注意を惹 く。
だが,決定的転回が訪れることが, -
同 じ実用的なモノを全 くちがった見方で,つ ま りそ
れを自己 目的的な存在 として眺める瞬間が訪れることがある。
実用的な目的とは無関係で,以前は注目されなかった り,それどころか全 く知覚 されなかった
く…)属性が姿を現 して くる。反面,以前は実用上有益なものとして注目の的であった属性 も,
一転,新たな照明を当てられ,モノの外にある目的から解放されるだろう。それらの属性は,モ
ノ自体の内側で相互関係を結び,モノは自らの属性を織 りあわせたもの,それらの属性が互いに
9
)
結びついた唯一無二の統合体,不可分の統合体 として立ち現れてくる
(
4
。
芸術作品は,≪意図性》によって もた らされた組織性 によって,受容者の関心 を作品の内的構
51
「
映画的 ≪剰余》の時代錯誤的な再定義について :
バル トの 《第三の意味》 とムカジ ョフスキーの 《非意図性 ≫
」
成 に向け,あ らためて受容者の注 目を作 品の属性へ と集める。 こうした構成の美や内的組織性
は,小論の主題である 《剰余》や 《非意図的なるもの≫の対極 にあるものだが,それがあ らゆ
る属性 に注 目を集めて くれるお陰で,表現面の比較的低 い レベルが前景化 されて くる。声 の
《粒≫の ような記号機能 とは無縁 に思 える性質が,記号媒体 の素材 となる物質的連続体か ら分
節 され,積極的な役割 を果たす ようになるのである。当然,受容者の眼は,一見 した ところ記
号機能 を果た していないかに見 える,そんな 《非意図的なるもの》 一
例 えば 「
記号内容の
ない記号表現」 と定義で きそ うな,表現面のみ分節 された素材 にも向け られるだろう。一旦そ
うなって しまえば,テクス トの 自己集 中的性格 はさらに高 まり,あ らためて受容者の注意 を自
らの形態へ と向けさせ る。ムカジ ョフスキーの美学理論 は,美的テクス トな り記号媒体の素材
が 《非意図的なる もの≫ として立 ち現れることを排除するどころか,む しろ 《非意図的なるも
の≫がはっきり知覚 されるメカニズムを説明 して くれるように思 える0
「
造形芸術の本質」 (
1
9
4
4
)とい う論文で,ムカジ ョフスキーによってことのほか力 を入れ
て検討 されたのが,非対象絵 画 とい う造形芸術 における究極 の可能性 であ った。彼 の見解 で
は,芸術作品はモノではな く記号,それ も 《自律記号≫ -
それぞれの部分が現実 に対応 し
ている実用的な記号,すなわち伝達 を目的 とする記号 とはちがって,各部分が外界 との間に一
(
5
0)
義的な対象指示関係 を持 たない記号,全体 として機能す る記号 なのである。 この定義 か らし
て,記号 としての芸術作品にとって,具象的か否かは本質的な要件でないことが 了解 されるだ
ろう。 自律記号 といえども,記号である以上は表現面 と共 に内容面 を有する。ただ,その記号
内容が, コ ミュニケーシ ョンのための記号 とは異 なる性格 を帯 びているのである。芸術記号の
意味 とは,現実への接 し方,それ も作品に描かれた現実だけでな く,作品を取 り囲んでいる現
実全体 に対す る接 し方であって, しか もこの現実 に対 す る姿勢 ・態度 は伝達 され るのではな
く,直接受容者の中で呼び起 こされるのだ とい 写'
O
美的テクス トとしての絵画は,《意図性》 によって統合 された きわめて複雑 な意味的構成物
であ り,その意味内容 は,上 に見 た通 り,我々のふつ う考 える記号内容 とは本質的に異なって
いる。明確 な輪郭 を持 たず,分析 な ど受 け付 けそ うにない。同 じテクス トが,時代 によって
ち,社会によって も,受容者 によって も, また同 じ人で も受容の度 に -
いや,受容の間に
さえ変動 しかねない。つ まるところ,テクス トと意味内容 との相関は,種 々の状況に応 じて生
じるのだろうし,それは一時的な もので しかあ りえない。 しか し,こうした場合 にも,表現面
(
5
2)
を個々の構成要素へ と (イエルムス レウにならってバ ンヴェニス トが 「
形成素」 と呼んだ構成
要素 に)分節で きる場合が少な くない。モ ン ドリア ンはもちろん, カンジンスキイの作 品にさ
え,表現形成素の間にシンタクスを思 わせ る結合関係 を見分 け ることがで きは しないだろ う
か。 自律記号は全体 として機能するにもかかわらず,表現面の組織性 はそれ として存在 しうる
のである。テクス ト内の表現形成素,それ らを結合 し,テクス トに仕上げて行 く構成法 を見極
めようとす る努力や,あるいはよ り微視的に,低い レベルへ と降 りて行 き,それぞれの表現形
成素のテクスチ ャなど素材 的 ・物質的特性 を注視 しようとする過程で起 きるのであろう 一
色斑の ような一見 した些細 な要素 まで もが,意味的単位 に変容 を遂げ,作 品全体 としての意味
(
5
3)
を規定す るのだ と,ムカジ ョフスキーは主張す る。彼 によれば,
これらの要素のひとつひとつは,それ自体でも,様々なレベルにある他の要素 と結合することに
よっても,意味の担い手であり,意味作用の要因なのである - それは,その要素によって何
、
S
41
が描かれ,それが結びつ く他の要素によって何が措かれているかに無関係にそうなのだ。
5
2
天 理 大 学 学 報
つ ま り,分節 された素材的連続体の物質的性格や,要素間の空間的関係 をは じめ とした構成上
の特性が,ある意味特性 を獲得す るようになると考 えられている。 しか し,表現面内部の組織
性 は,≪意図性》の効果 にはかな らない。我 々の関心の的 となるのは,む しろ,そ うした上の
レベルに向 う努力 と互いに促 しあ うように同時 に行 われる, よ り低い レベルへの注視の方だ。
そ うした注視の過程でテクス トか ら切 り出 され,分節 された要素 素 としてではな く,微視的な注 目の対象 としての表現形成素 -
テクス トを構成する要
は潜在的に ≪非意図的なる
もの》 になる可能性 を秘めている。あるいは,《非意図的なるもの》≪遠心的》 なるもの と知覚
されるが故 に,素材的性質にまで注視が及ぶケース も少な くないだろう。
それ らの表現形成素は,すでに述べ たことか らも分 るように,典型的な記号の場合のような
内容面 との間で一対一の相関関係 を取 り結ばない,言 わば 「
欠性的な」疑似記号 なのである。
(
5
」
そ こか らバル トの 《第三の意味》 一 何 もの も模写せず何 も表象 していない 「
記号内容のな
5
)
- が連想 されるのは自然だ。表現形成素は必ず しも 《非意図的なるもの》で
い記号表現
あるとは限 らない。 しか し,それが,ムカジ ョフスキーの言 うように 「それ 自体で も意味の担
(
5
6)
い手である」 とすれば,先 にその矛盾 をあげつ らったバル トの逆説 - 「
記号表現 (
第三の意
咲)が満たされることはない。それは永続的な ≪虚》の状態 にある。が,逆 にこの同 じ記号表
現は空ではない と (自らを空 にす ることは出来 ない) と だろう 一
これ もまった く同様 に正 しいの
言 うことがで きるのだろう芋 とい う逆説が,実は,正鵠 を得ていた とい うことに
なるのか も知れない。
しか し,表現形成素の意味作用が コー ドの依存 した言語記号の場合のそれ とひどく異 なるこ
とは,誰 しも気づ くことだ として も,強調 しておいた方が良いだろう。表現形成素は,その物
質的特質で もって受容者の知覚 に,言語記号の場合の ように約束的コー ドの媒介 を経 ることな
しに,直接働 きかけ,ある種の反応 を喚起す るのではないか。その無媒介的な作用は,一定の
約束事 によって規制 されているに しても,文化的なコンヴェンシ ョンよりは知覚の基礎的な仕
組み と緊密 に結びついているため と考 えられる。 とい うことは,表現形成素はやは り典型的な
記号ではな く,疑似的な記号機能 を果たす 「
刺激」 と呼ぶ にとどめておいた方が無難 とい うこ
とになる。 この ような刺激の果 たす疑似的な意味作用 について,ウンベル ト・エーコは次の よ
うに述べている。
刺激によってどのような効果が生 じるかは,決 して完全には予測できないことであ り,特に,刺
激が疑似記号 としてテクス トの中の記号的性格のもっと明確な要素の中に挿入されている場合は
そうである。例えば,話 し手が法廷での修辞の規則に従って説得力のある論述を作 り上げ,聴衆
に哀れみと同情の気持ちを呼び起こそうとしている場合を考えてみよう。話 し手はその文を発す
るのに,むせぶような声を出して言ってみたり,泣き出 しそうだという印象を与えることができ
そうなほとんど聞き取れない程の声の震えを使ってみることができる。このような超分節的特徴
は,もちろんパラ言語的な手法か,あるいは単に話 し手の感情の状態を示 している兆候にす ぎな
いのどちらかであろう。 しか し,もしかすると話 し手が聞き手に対 してある程度の自分 との一体
感を引き起こし,同じような感情の状態- と引きよせようという目的で,自分の論述の中に挿入
する刺激であるかも知れない。話 し手はこのような手法を仕組まれた刺激行為 として使っている
のであるが,それがどのように受け取られ,検知され,解釈 されるかは正確に知 らない。 したが
って,話 し手は刺激行為についてのある種の規則を行使することと,記号論的な手法 として認め
られる (
あるいは,認められない)かも知れない新 しいまだ慣習化されていない要素を提示する
53
「
映画的 《
剰余》の時代錯誤的な再定義 について :
バル トの 《第三の意味》 とムカジ ョフスキーの 《
非意図性≫
」
こととの中間に位置 していることにな岩'.
記号的性格がはっきりしている要素の中に挿入 された刺激 は, (
いつ も必ずではない に しろ)
《非意図的なるもの》 として知覚 される場合が多いだろう。明確 な記号性 をもつ要素 を背景 と
して,それ らの要素の異質 さはより鮮明に感 じられるにちがいないのだか ら。た しか に,エー
コの言 う通 り,≪剰余≫ としての刺激が もた らす効果 は予測不可能であるに して も,だか らと
言って,その効果が弱い とい うことにはならない。明確であるが故 に固定 した 《意図的なるも
の≫ を背景 にして,異質な 《非意図的なるもの》が果たす意味作用の唆昧 さは,暖味で多義的
であるが故 に,受容者側の積極的関与 を促す可能性が高い。少 な くとも,本来 自己集中的な性
格 を持つ芸術作品ではそ うなるはずだ。その場合,受容者 は, 自動化 された解読ではな く,創
造的な解釈がで きるか どうか一種 の挑戦 を,鑑賞者 は受 けることになる。そ う した 《非意図
'
5
闇 の挑戦 を,バル トは 「
問いかけ としての読みを強いるのであるJ'と詩的に表現 したにちが
いない。
今 日の記号論か らすれば,バ ル トは もちろん,ムカジョフスキーにあって も,記号 と刺激の
区別が唆味で,その意味作用 について も十分 な区別が なされていない憾みはあろう。 しか し,
だか らといって,ムカジ ョフスキーが,典型的な記号 と自律記号の意味作用 だけでな く,典型
的な記号の意味作用 と刺激の疑似的意味作用 との差異 について, まった く言及 していない訳で
はない。バル トが r
声 の粒 」(
1
9
7
2)において歌 曲の最下層物質的素材 と見倣 した声色,エー
コがパ ラ言語的な手法の実例 として挙げた声色 について,ムカジ ョフスキー も 「
詩的言語 につ
1
9
4
0)の中で論 じている。
いて」(
にもかかわらず,声色は単なる 「
音声上の」問題ではなく,テクス トの意義に影響を
-
それ
もしばしば決定的な影響を及ぼす。それは,その場限 りの情緒的ニュアンスを表現できるだけで
なく,皮肉のような,体系的性格のある意味 も表現できるのである。(…)したがって,声音は主
(
6
0)
観的で情緒的なニュアンスだけでなく,客観性を主張するような評価をも表すのである。
他の箇所で も昔 と意味 との結びつ きに言及 しているが,す ぐさま 「
昔それ 自体 に込め られてい
る意味,いやむ しろ意味の幻影」 と保留 をつけている点は見逃 した くない。 となると,バル ト
の 「
第三の意味」 とい う用語が気 になって さは しないか。
≪第 三の意味 ≫ は意味 なの か ?
1
9
7
0)は,映画論 におけるポス ト構造主義の先
すでに述べ た通 り,バル トの 「
第三の意味」(
駆 けとなった, しか も読 ませ るエ ッセ イであ りなが ら,《鈍 い意味》 とい う概念 は,生真面 目
な学者たちによって鋳直 される結果 となった。 クリステイン ・トンプソンも 「
第三の意味」 と
い う用語 について
(
6
1
)
「
『
意味』 とい う用語 の選択 は誤解 を招 く恐 れがある」 と して, ヒースの
「
剰余」 という用語の方 を良 しとする。なぜ なら,
作品のそうした要素は,ナラテイヴなものであれ,象徴的なものであれ,意味なるものの創出に
(
62)
参与 しないからにはかならない。
54
天 理 大 学 学 報
ムカジョフスキーの所説 を踏 まえて考えるなら,果た して意味の創出に参与 しない と言い切れ
,「意味」なる語 をどう理解す るか とい
るか どうかは疑わ しい。 しか し, トンプソンの断言 は
う,たった今話題 にしたばか りの問題 について再 び考えさせず にはいない。 トンプソンの言 う
「
意味」 とは,言語記号 における記号 内容 の如 きもの を指 している らしく思 われる。≪第三の
意味)が情報 ・象徴の レベルにない以上
表示義 な り共示義 を持つはずはないが,疑似的な意
味作用 ならあ り得 ることは,すでに指摘 した通 りだ。詩 にあっては,その外側では単 なる形式
的な ものにす ぎない領域 -
すなわち言語記号の表現面 一
でさえ意味で満たされるとの
主張は, ロシア ・フォリマ リズム以来 くり返 されて きた所 である。≪記号》 とい う概念 を,言
語記号 -
それ も伝達の道具 として実用横能が ドミナ ン トになっている言語記号 一
に基
づいて理解す ることは,言語学同様 の客観性 を保証 して くれるかの ような幻想 を与 えて くれ
る。 しか し,こと芸術記号論 に関する限 りは (
恐 らくは,あ らゆる記号論の分野 において も)
自縄 自縛 に陥 り, 自らを貧 しくするだけなのではないか。 まさしくエーコの言 う通 りで
もともと記号などというものは存在せず,存在するのは記号機能だけなのである。(‥.
)二個の機
能体 (
表現面 と内容面のもの)が互いに相関関係 を有するようになれば,記号機能が実現 され
(
6
3)
る。
記号 という概念は, 意味を有する基本的な単位および固定 した相関関係 という混同されると成 り
1
6
11
立たなくなるのである。
トンプソンは,その著書で
,『イワン雷帝』の中の表現面 の物質性 が際立 った例 に関す る限
り,バル トの記述 をなぞる以上のことはほ とんど何 もしていない。それ どころか,バル トよ り
も遥かに禁欲的で,≪剰余》が意味作用 を行 う可能性 はまった く考慮 に入れない。他九
「
エピ
ソー ドの もつ ドラマ上の意ポ )とい うバ ル トの表現 を (
無意識 にか,熟慮 の末 かは分 らない
,
意味」 とい う語 に 「ナ ラテ イヴな」 とい う修飾語 を添 えてい
が)受 け継いだのであ ろう 「
る。暗黙裡 に彼女が依拠 しているように思われる意味作用のモデル ー
との並行性 を厳密 に考 えた意味作用 のモデル t
すなわち,言語記号
,「対象指示的」 と形容すべ き
か らすれば
ところであろう。それを 「ナラテイヴな」意味 と形容す るのは, うがった見方 をすれば, トン
プソン自身,硬直 した記号理解では問題 を扱 い切れないことに気づいていていなが らも,従来
の記号 についての概念が捨て きれず,修飾語 を冠することで折 り合いをつけようとしているよ
うに見 えな くもないO同種の困難 に直面 した と して も,バル トの場合 は,彼一流 の修辞があ
る。記号 と意味についての理解の図式性 は,実例の列挙 と,柔軟 な修辞,うがった逆説で もっ
「
て補 われることになるのである。彼 自凱 快 楽のテ クス ト 射こつ いて》語 る こ とはで きな
い。ただ,それ ≪の中で》,それの流儀 で語 る こ とがで きるだけである'
J
a'と語 ってい る よう
に○ しか し,その逆説 をもって して も,バル トは 「
第三の意味」 とい う用語が所謂 「
構造主義
的」 な記号論か ら受け継いだ硬直 した図式性か ら逃れることはで きず にいる。バル トの矛盾が
は らむ一種のダイナ ミズムはともか く,三項か らなる図式その ものは,美的テクス ト内部 に現
前する二種の対立する力についての真の理解 を妨げかねない。
す ぐ上で指摘 したように,記号 と刺激の区別 にムカジ ョフスキーは無頓着であったが,モ ノ
とも記号 とも決めかねるような両義的なケースについて も,彼は迷 うことな く考察の範囲に含
めて しまう。≪非意図的》 を論 じる際 も,その反記号的性格が美的テクス トの中で果 たす役割
「
映画的 《剰余》の時代錯誤的な再定義 について :
55
バル トの 《第三の意味》 とムカジ ョフスキーの 《非意図性》
」
を積極的に評価 しようとする。受容者 にとって芸術作品は,記号 (
それ も外部の現実 との間に
一義的 ・対象指示的関係 を持たない自己 目的的な自律記号)であると同時にモノで もあると感
じられる し,記号であると同時 にモノで もあるか らこそ作 品は受容者の注意 を惹 くとさえ,ム
カジ ョフスキーは言 う。 さらに彼 は,一般 に記号論の境界 と考 えられているらしい 「
記号 をモ
w)
も平然 と越境 して行 く。
ノか ら,人工的記号 を自然的記号か らそれぞれ分 けている もの(J
芸術上の意図性に注意が集中しているような受容のうちにも,こうした直接的体験へと向う姿勢
の要素が存在 していることに,疑問の余地はない。
(…)観者にとって,芸術作品は,統一を目指す意図によって運び込まれるような自律記号で
あることをやめる。いや,それどころか,そもそも記号であることをさえやめ,「
非意図的な」
(
G
S)
現実へ と変わってゆくのである。
矛盾形容 ? - ダイナ ミックな構造主義
ムカジ ョフスキーは芸術作 品を,対立する諸力の衝突の場であるとして, ダイナ ミックに定義
する。作 品構造が全ての要素,全ての規範,全 ての機能の 「
不安定 な均衡」 として語 られる。
《構造の緊張》 とい う概念 を案出 したことこそ,チェコの構造主義の成 し遂げた もっとも大 き
な成果の一つだろ う。プラハ学派の メンバ ーは,言語学の分野であれ,詩学 の分野であれ,
《揺 れ》や 《変動≫ といった現象 を常 に視野 に入れていた。ムカジ ョフス キー も例外 ではな
い。彼 は,芸術作 品 を,《非意図性》 と ≪意図性》 との緊張関係 のはぎまで,現実のモ ノとし
,
受容の聞 く‥.
)受容者 は
ての性格 と記号 としての性格の間で揺 れる対象 と見倣す。それ も 「
o'
からだ とい うふ うに,あ ら
絶 えず意図性の感覚 と非意図性の感覚 との間で絶 えず揺れている'J
ゆる面で ダイナ ミズムに注 目して,説明 される。
トンプソンは,《剰余》 について語 ることが難 しい理由の一つ,《剰余》が新 しい概念である
為 とす るが (
バ フテ ンやムカジ ョフスキーは新 しいだろうか ?), よ り本質的な理 由 として,
《剰余≫が分析か ら逃げ去 る傾向にあるとの事実 を挙 げる。研究者 にとっては 「
視覚的形象の
質についての議論 は,ある一定の主観性 を運命づけ られている'
J
n)
のは困るらしい。バル トとな
ると,《剰余≫の主観性 などとい う野暮 なことは口に しない。「
鈍い意味は構造的に位置づけれ
れないのだ。意味論学者 な らその客観的存在 を認め ないだろ う」 と言い切 って しまう。ただ
,「では,客観的な読み
とは何 だろ う ?」 とい う修辞疑問文 を括弧の中に忍 び込
(
7
1
)
し,その後 に
ませ ることを忘れない。
それに対 してムカジ ョフスキーは学問的厳密 さと柔軟 さを両立 させ ようとする。そんな彼が
描 き出 してみせた,あ らゆる意味で ダイナ ミックな受容の過程 を 「
芸術 における意図性 と非意
図性 」(
1
9
4
7に口頭発表)か らの抜粋 に読み取 って もらいたい。
意味的統一の原理として時代を超えて存在 しているのが,統-を目指す意味的企図である。(.
.
.
)
この企図は,二つの理由でダイナミックである。ひとつにはそれが,作品の意味的構成体の基盤
にある対立,《アンチノミー》を統一するからであ り,ひとつには,美術作品 も含めて芸術作品
t
T
=
)
の受容なるものが行為である以上,時間の中で起るからである。
受容の際に目指される意味的統一が,ある程度,作品の構造によってもたらされることは言 うま
でもないが,単なる認知に限られる訳ではない。意味的統一は努力 としての性格 も併せ持ってお
56
天 理 大 学 学 報
り,その努力 によって,受容 される作品の個 々の要素の間に相関関係が打 ち立て られるのであ
(
7
3)
る。
統一を目指す努力の結果がある程度,場合によっては相当程度,作品が どのように形作 られてい
るかということによってもちろん規定 されていることは言 うまで もないが, しか し,少な くとも
部分的には受容者に左右 される。 というの も,受容者が (…)作品の どの要素が意味的統一の基
礎 とされるか,すべての要素の相関関係 が どの ように調整 されているかを決定す るのであるか
(
7
4
)
ら。
より明瞭にするために,この意味的統一は徹頭徹尾 ダイナ ミックなものであることを付 け加える
ことにしよう ;したがって,我々は,この統一について語るに際 し,伝統的な美学 において 「
作
(
7
5
)
品のイデア」 としば しば呼ばれているスタティックな意味 は念頭に置おいていない。
意図性の創出における受容者の積極的な参与は,この意図性 にダイナ ミックな性格 を付与す岩'
D
しか も, この ようなダイナ ミックな ≪意 図性 /非意 図性 ) の知覚 その ものが,共時的 な揺 れ を
示 す こ とが指摘 され る。 しか も,その揺 れは異 なる受容者 の間だけで な く,同一の受容者 の中
で も (しか も受容 の最 中で さえ)認 め られ る とい う。
受容者のイニシアチヴの中には く…)
,受容者 (
多分,受容者の集団)が異なれば,同 じ作品に異
なる意図性 を 一 時 として作者 自身がが作品に込めた意図性,付与 した意図性か らも著 しく異
なる意図性 を 一
(
TT)
注入するという可能性が存在する。
受容者の意図が作品構造 との出会い結果,意図性 は変動的で,同一作品の知覚の間にも揺れる。
少な くとも,同一の受容者にあっては,知覚の度 ごとに揺れるのであ岩'。
実 は,ア クテ ィヴな受容 と しての誤解 が創造 的 た りうる とい う点 については, ロシア ・フ ォ
1
91
7)の 中で指摘 してい た。
ルマ リズムの論客 シクロフスキ イ も 「
手法 と しての芸術 」 (
芸術 として知覚 されることを計算 して作 られた表現が,芸術的観賞のために創作 された詩的なも
の として して知覚 される場合が しば しばであることを,我々は知っている。た とえば く…)形容
8世紀 ロシアの詩人たちの手法 に感嘆 したの も,そのような例である。ベ
詞 を名詞の後ろに置 く1
ールイは,何か芸術的なるもの として (
7
9)
もっと正確 に言えば,意図 された技法 と見倣 して
それに感嘆 したのであるが,実のところ,それは当時の言語の一般的特徴であったに過 ぎな
い。
だが, シクロフス キイの場合 ,あ くまで ≪異化≫ を重視 す るが ため に,≪非 意 図的》 なる もの
に しか詩的性格 を認 めず,非意 図性 の知覚 に しか関心が ない。 さらに, イデオロギー批評- の
反発 をばね に して生 まれたばか りの初期 フ ォルマ リズムでは,文学 の社 会的性格 に対 す る関心
は希 薄であった。一方 ,ム カジ ョフスキーの念頭 に置 かれ る受容者 は,個 人 とい うよ りは社 会
的集 団であ り,受容者 の イニ シアテ イヴにつ いて も,個 人的 な もの とい うよ りは, む しろ社会
57
「
映画的 《剰余》の時代錯誤的な再定義 について :
バル トの 《第三の意味≫ とムカジ ョフスキーの 《非意図性≫
」
的なものだ とされる。それは 「
時代 ・世代 ・社会環境等の要因によって大部分が規定 されてい
るのだ とい 写'。 ここでは,受容者の社会的な性格 に加 えて,共時的な揺れか ら当然予想 される
受容の適時的な揺れ も視野 に入れ られている。
さらに,受容の ダイナ ミズムが,芸術上の流派の変遷 とい う問題へ と連結 される点 も見逃せ
ない。作品内部の矛盾対立が不均衡,不安定,不快 など否定的な感覚によって惹起 された場合
で も,美的な受容 に不可欠の部分 をな し,これが美的な規範の現時点での状態 を動態化 し,そ
れが規範の改変につながるとい うふ うに,ムカジ ョフスキーは考 える。芸術史においては,新
しい芸術上の流派が 一
ロシア未来派の ような, リアリズムにはほど遠いグループまで もが
現時点で支配的な流派 に論争 を仕掛け,その中で既成の流派が芸術 か ら現実の感覚 を奪
った結果,芸術 を貧 しい ものに したと非難す ること。そ して, 自分 たちこそはそ うした現実の
感覚 を起 らせ るのだ とい う主張が絶 えず くり返 されて きたこと。それは,要するに,新 しい流
派の論拠 は, 自分たちこそが 「
芸術作 品が切実な意味 を持 った事実 として知覚 されるために必
(
8
1
)
要不可欠 な非意図性 を蘇 らせ る」 とい う主張 に帰結する。受容者 にとって も,斬新 な作 品,蘇
しい流派の作品は,ほ とん どの場合,強い 《非意図性≫の知覚 を伴 い,《剰余》 を鮮烈 に感 じ
させ るもの として登場す るにちがいない。
この点について も,すでにシクロフスキイが同様 の認識 に到達 している。先 に引用 したベー
ルイの誤解 など,後代 の受容者が作者の意図 とは無関係 に,同時代 の人々にはまった く自動化
された知覚 しか生 まない現象 を後代 の受容者が 《非意図的なる もの≫ と感 じる実例 と考 えてい
たのだろう。 さらに,芸術上の新 しい流派が前の世代 にとって ≪
非意図性≫の知覚 をもた らす
とす るムカジョフスキーの見方 も, フォルマ リス トたちが先取 りしていた事実 については,シ
(
8
2)
クロフスキイの有名な比喰 「
桂馬の跳 び」が雄弁 に物語っている。 シクロフスキイは,すでに
「
手法 としての芸術 」 (
1
91
9) にこう書いている。
プーシキンの同時代人にとって普通の詩的言語だったのは,ジェルジャーヴインの高雅な文体だ
った。プーシキンの文体は,(
当時はそう知覚された)その俗調のために,同時代人たちにとっ
て意外に難解なものであった。プーシキンの表現がひどく粗野なために,彼 らが覚えた戦懐 を思
い起こそうではない器と
周知の通 り,プーシキンの詩は今の (
今 もなお) ロシアではもっとも教科書的な詩であ り,ほ
0
世紀初頭で も同様であ り, ロシア
とん ど 《非意図性≫ を知覚 させ な くなっている。それは,2
未来派の詩人たちはプーシキンを, とりわけ 「目の敵」 に した。彼 らは現代性 と現実性の名の
もとに,登場 した当時は難解であったプーシキンンの詩 を否定 し,文学史の権威 を否定す るの
である。彼 らのマニ フェス ト 「
社会の趣味への平手打 ち」 (
1
91
2) は,い きな り次の ように挑
発す る。
我らが新 しきもの,前代未聞のもの,思いも寄 らぬのの読者諸氏に。我々丈 が,我 らが時代の
顔である。時代の角笛は,言葉の芸術においては,我らによって吹き鳴らされる。
過去は窮屈だ。アカデミーやプーシキンは,象形文字よりさらに理解 し難い。
(
8
1)
プーシキン, ドス トエフスキィ, トルス トイなどなどを現代性なる汽船から放 り出せ。
彼 ら未来派の詩人たちが一翼 を担 ったロシア ・アヴァンギャル ド運動 においては, しか し,逮
58
天 理 大 学 学 報
動全体 を主導する役割 を担 ったのは,む しろ絵画であった点 もまた,映画や造形芸術 にアクセ
ン トを置 くここでの議論 には示唆 に富む。 しか も,絵画が先導的訳割 を果た した理由 として,
次の 3点が挙げ られていることは看過で きない。
まず第一に,記号が自律的なものになったことにある。回りの世界との直接的な比較よりも,描
,
意味するもの」,
写コンポジションの要素間の内的関係が重要視されるようになる。第二には 「
物質的な面への志向が強まる。色彩,線,面だけではな く,フアク トウ-ラ,素材加工法,"
筆
跡'
'までもが意味を持つようになる。第三に,ここの要素や意味の結合原理としてのテーマが,
(
8
5
)
もはや指導的な役割を演 じなくなる。
では,ムカジ ョフスキーの 《非意図性》論 は,未来派の よき理解者 ・解説者であ り,理論的ス
ポークスマ ンとしての側面 を (
少な くとも一部のメンバーが)持 っていたフォリマ リズによっ
てすべて語 り尽 くされていたのか と言 えば,そ うではない。初期の段階での彼 らが, イデオロ
ギー的批評への反発のあまり反対方向の行 き過 ぎに走 っていたことは明 らかである。初期 フォ
ルマ リズムが 《非意図性≫に しか関心がな く,その点に限れば,構造主義以前の段階にとどま
っていた とさえ言 えるのではないか。他方,ムカジ ョフスキーは,すでに触れた通 り, フォル
マ リス トともバル トともちが って,《意図性≫ と 《非意図性》 との弁証法的関係 を強調す る立
場 をとる。それを構造主義者の見出 した退屈 な真理 と言 う人がいるのか も知れないが,実はム
カジ ョフスキーの立場の方が先の展開が遥かに面 白いように思 う。
最後 に強調 しておかねばならないのは,ムカジ ョフスキーの言 う 《非意図的なるもの》が,
作 品の意味的統一 に抵抗す る力」 と
《剰余》 よりも遥かに広い概念であることだ。それは,「
い う定義か らして,明 らかである。《非意図性》が現れるのは,芸術作品の素材 だけ,記号論
的材質だけに限ったわけではない。物語論 的 な 《非意図性》 も十分考 え うるだろ う。実際,
≪非意図性》の知覚の歴史的変遷が,チェコ ・ロマ ン派の詩人マ-ハの代表作 『
皐月』 に関す
る批評の移 り変わ りを例 に述べ られているが,そ こで真 っ先 に挙 げ られているのが
,『皐 月』
に硯れる(
「
ある主題上の要素が,同時代人たちの眼 には,他の主題上の要素 と相容れない もの
8
6
)
と映 った」 - つ ま り,発表当時 は ≪非意図的≫な もの と して知覚 された とい う事実 であ
J
'
反物語の典型であることは明 らかな'w 《第三の意轍
るo この指摘 は,「
とは相容れない とさえ
思 えるか も知れない。 しか し,バル トには,初期のロシア ・フォルマ リズムに似 て,物語 に対
す る軽蔑の ようなものがあると考 えた方が,話の筋 は通るように思 う。 フォルマ リズムが作品
のテーマではな く 《文学的なる もの≫ を当初は形式 に求めたように,バル トは 《映像的なるも
のを≫探 ろうとするのである。それは,初期 フォルマ リズムの主張 と同様,修整すべ き行 き過
ぎと考 えるべ きではないか。
一方, トンプソンは,ナラテイヴな不整合 を説明す るのに,やは りロシア ・フォルマ リズム
の初期段階に属す るシクロフスキイの動機づけ論 を援用す る。彼女 によれば
,『イワン雷帝』
の物語や編集が不連続であって通常のナラテイヴな動機づ けを欠いていることを,む しろ美的
な動機づけによって作品が支配 され,構造化 されているとい うふ うに説明する。彼女のモノグ
ラフの狙いがまさに美的動機づ け とい う概念の導入 にある以上,《剰余≫の問題 は物質的 ・素
材的側面 に限定 されねばならないのである。本来,映画の 《剰余≫ を考 える上では,む しろ言
説的なるもの と形象的なるもの との関係の中で考 えるべ きであろうし, トンプソンの 「
美的動
機づけ」 も 《非意図性≫の枠組みの中で再定義すべ きだ と思われる。その意味で,ムカジ ョフ
「
映画的 《剰余≫の時代錯誤的な再定義 について :
59
バル トの 《第三の意味≫ とムカジ ョフスキーの 《非意図性≫
」
スキーの 《非意図的≫ とい う概念 は,発表 されて半世紀以上 たった今 も,アクチ ュア リテ ィを
失 っていない。
ム カジ ョフスキーの 《非意図性≫ とバ ル トの ≪第三の意味≫ とを比較す ることはまた,構造
主義 に対す る偏見 を見直す契機 に もなるだろ う。多 くの著作 は,構造 主義 は もはや時代 遅 れ
で,構造主義者の著作 には歴史的な意味 しか ない とい う偏見 を前提 としてい るo Lか し,バル
トや ヒースの論考が,その難解 さに もかかわ らず,バ フチ ンや構造主義者 ムカジ ョフスキーの
所論 を参照す ることで,凡庸 な読者 にさえ理解可能 な言説 に生 まれ変わる とい う,時代錯誤 的
逆説が実際 にあ りうるのだ。 さらに別の偏見 によれば,構造主義 に基づ く芸術論 は,あ ま りに
も合理的な方法,あ ま りに も形式上の問題 に偏 向 している と, しば しば批判 され る。芸術 の よ
うな複雑 な現象の本質 をめ ぐる問題 に満足のゆ く答 え を与 えるには,あ ま りに も合理的 ・技術
的す ぎる とい うのである。小論が,そ うした偏見 に対す る反論で もあることは,言 うまで もな
い。
注
(1) 直接の課題でないにしても,筆者には理論史上のl
卸し
、
がないわけではない。そのため,ここ
で検討 される主な論考については,それが執筆 されたと思われる年を,煩雑でない程度に (と
いうことは,かなり悪意的に)割注で示す。 したがって,翻訳の場合 さえある出典 とは,多 く
の場合,一致 しないことを断ってお く。
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,52.小論では,ヒースによる英訳から引用する。二種の邦訳の間のずれが
大きく,ことの本質にまでかかわることと,ヒースの ≪
剰余≫なる概念が小論 にとってさしあ
た りの出発点になっていることを考慮 してのことである。ただ,拙訳が二種の邦訳の調停作業
に過 ぎないことは,あえて断るまで もないであろう。
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(7) I
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d"53.
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(9) I
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彼 自身によるロラン ・バル ト』(
佐藤信夫訳,みすず書房 ,1
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(
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」指己号の解体学
(
1
7) ジュリア ・クリステヴァ 「
言葉,対話,小説
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9.
夫訳,せ りか書房,1
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(
22) I
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,84.
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(
23) I
(
24) この先見て行 くように,ムカジ ョフスキーの ≪非意図性》の概念 とバ フチ ンの ≪遠心力≫の
概念 はかな り近い。両者が提起 された時期 を考 えるならば,バ フチ ンか らムカジ ョフスキーへ
の影響の可能性 は考えられない訳ではない。 しか し,バ フチ ンの場合 ,1920年代初頭 よ り,文
学 ・美学関係の著作 を数多 くもの していたにもかかわ らず,当時は ドス トエ フスキーの作 品が
もつポ リフォニー的性格 を解明 した Fドス トエ フスキーの創作 の諸問題』 (
1
9
29) と,数編の
小説の言葉」が公刊
ノ
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、
論 だけが公刊 されただけであ り,1934年か ら翌年 にかけて執筆 された 「
975年 になってか らのことである。確か にモ ノローグ とデ イアローグに
されたの も, ようや く1
関するムカジ ョフスキーの論考が出発点 とした先行研究は,パ プテ ン ・グループの一員であっ
たヴオロシノフの 『
マルクス主義 と言語哲学』 (
1
929) であ ったが,こ と ≪非意 図性》 と 《遠
心力》に関する限 り,バ フナ ンの影響 は考 えに くい ように思 う。
(
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矛盾形容 ? - ダイナ ミックな構造主義」で引用することになるシクロフスキイに
(
32) 末尾の 「
よるプー シキ ンやベ ールイについての記述 (
注82,84) ち,この指摘 を裏書 して くれるだろ
う。
(
33) 参照 :
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ただ し, ここでは1977年 に L
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した。
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(
39) ロラン ・バル ト 『
テクス トの快楽」 (
みすず書房 ,1
977),1
2.
6.
(
40) 同書,5
(
41) 同書,36.
(
42) 同書,1
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テクス トの快楽』,22.
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(
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映画的 《剰余≫の時代錯誤 的 な再定義 について :
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バ ル トの 《第三の意味》 とム カジ ョフスキーの 《非意図性 》
」
(
47) バ ル ト 『テクス トの快楽』,1
25.
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伊藤晃他訳,大
修館書店,1
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,9
9.
(
5
3) 参照 :Mukai
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37.
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5)
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6)
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池上義彦訳,岩波書店 ,1
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池上嘉彦訳,岩波書店 ,1
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9.
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