栃木県 下野市 栃木県 上三川町

④星宮神社
「星宮神社 村の鎮守なり」(日光道中略
記)とある下石橋村の総鎮守。境内には八坂
大神、高尾大神、稲荷大神、八幡大神4社が
合祀されている。宝治2年(1248)10月創建
という。
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星宮神社
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4
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星宮神社入り口の道標
2 夕顔橋の石仏群
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下石橋北交差点
星宮神社入口道標
高さ10尺の石柱
夕顔橋の石仏群
3 下石橋北
真岡
上三川へ
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道祖神
峠や村境あるいは橋のたもとな
どに多く祀られ、別名「さえのか
み」とも呼ばれ、その起源は中国
に求められる。外的や疫病から民
を護ってくれるという素朴な民間
信仰から生まれた神である。交通
安全の意味を付け加えるととも
に、人の一生を旅をたとえて、妊
婦、出産、幼児守護、良縁、和
合、性病の神としての性格をもつ
ようになった。男女の生殖を通し
て、生産性、田の神、山の神的性
格をもつなど、その発展変化は複
雑である。信仰自体は古くからあ
ったが、石造道祖神は江戸時代の
ものがほとんどである。
近世の道祖神は村の辻や街角、
峠路や共同墓地など、近世の石造
物は、供養石や墓石として、各地
域で目にふれることがある。信仰
のあり方、造立者、年代などに目
をむけてみたい。
③旧下石橋村
最初宇都宮領で元禄8年
(1695)壬生藩領となり、文政
年間(1818∼1829)に壬生藩領
と下総佐倉藩の相給地となる。
天保年間(1830∼1844)は22軒
の家があり、立場と高札場があ
った。村の前後の街道には松並
木があった。
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49 小金井宿∼石橋宿
栃木県下野市
倉 井 ∼ 下石橋北
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( 歩行距離 1834m 22分 )
歩く地図でたどる日光街道
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栃木県
下野市
石橋の地名(NO50石橋駅近くに記
載)
「村名の起りも詳かならざれど、
むかし池上明神前の水流に石橋あ
り。今は土橋なれども土人は石の橋
と唱ふ。これ村名の起こるところな
パチンコ
ニューサクランボ りとぞ」また、「此村(下石橋)旅
人の憩所にして、石の立場ともい
ふ」(日光道中略記)
かつて街の南端を流れていた川と
現 在 の 国 道 4号 線が 交 わ る あた り
に、石造りの橋があった。
「下石橋にいたれば千里軒の馬車
の立場あり」(上野下野道の記)江
戸時代は駕籠、明治時代には馬車
と、手段は変わっても交通の中継地
は同じだった。
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23 下石橋一里塚
②夕顔橋の石仏群
レストラン倉井から途切れていた旧道
沿いにある。国道4号と国道352号線の交
差点の手前にあり、享保3年(1718)銘の
地蔵菩薩立像や延享4年(1747)銘の十九
夜塔など10体の石仏が祀られている。
日本橋から23番目の
一里塚。この一里塚は
失われてたと思われて
いたが、最近の調査で
国道4号線西側の雑木
林の中に西側の塚が残
っていることが確認さ
れたが、確認できず。
日光・奥州・甲州道中
宿村大概帳に「木立
杉、但し、左右之塚共
下石橋村地内」とあ
る。
イーアンドエム
石橋消防組合
下石橋
東松園重機部
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このあたりが「下石橋の一里塚」?
庚申塔
人の体内にいる三尸の虫が、60日ごとに回ってく
石橋
る庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に
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告げるため生命をちぢめ良レ留、とする中国の道
time
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石橋の神輿
教の教えがある。庚申の夜には眠らずに現行をつ
お祭りに欠かせないのが神輿だが、
ホーフェル栃木 つしみ、健康長寿を祈念する信仰遊戯が行われる
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ここ石橋町の神輿は全国的にも有名。
ことなった。
栃木県指定無形文化財保持者でもある
道教の信仰が底流にあり、これに仏教的な信仰
小川政次氏の手による御神輿・彫刻山
朝日自動車
が加わって、室町時代には、庚申待をする講が結
下石橋の一里塚
車などが、県内はもとより全国的にも
ばれ、月待ち講による供養塔造立にならった庚申
出荷されている。
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造立が始まる。庚申待の行事や庚申塔造立は、人
の延命招福にあるが、村の講中のものが徹夜で酒
①上三川町(か
coffee
食をとることから、村民の連帯につながった。
みのかわまち)
time
江戸時代には、造形的に多様な類形をとって沖
庚申塔に刻まれた像
農家の店みのり
飛び地になって
縄を除く全国各地で造立されることになった。路
青面金剛、猿田彦大神、大日、阿弥 いる。地名の由来
ドライブイン一休 傍の石仏の中で最も親しまれ、現在も庚申講が維
陀、薬師、地蔵、不動、山王、帝釈 は、当時の河内郡
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1
持されているところもある。室町時代後期の庚申
プリンス
天、観音、道祖神像、仁王、閻魔、一 内にあった三川郷
歯
梁
待板碑には阿弥陀を本尊とするものなどがつくら
猿、二猿、三猿
に由来するものと
れるが、江戸時代には、悪疫を調状する青面金剛
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文字だけの場合は庚申・庚申塔、庚 いわれている。ま
や、道案内にかかわる猿田彦神などを本尊とする
申供養塔二世安楽、庚申供養、庚申供 た、「上之川」で
ようになった。青面金剛の神使である猿が彫られ
養塔、青面金剛、青面王、猿田彦大 「之」をくずして
るのは、見ざる、言わざる、聞かざるという謹慎
神、猿田彦大神、猿田彦命、庚申尊、 書くと「三」に見
態度を示すためのようである。
岐神、大田神、寒神、幸神・孝神、百 え る の で 「 上 三
日月(にちげつ 太陽と月)・鶏・邪鬼を彫刻す
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庚申(号名、題目など)
川」と書くように
るものもあり、日待月待信仰、魔性を圧状する意
形式は板碑型、光背型、板状駒型、 なったという説も
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味からきているものといわれている。庚申塔の造
駒型、山状角柱型、笠付型、丸柱型、 ある。
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立を月別に見ると、11月が断然多く7月が最も少
立体丸彫型、自然石型などがある。
日光街道はここを
ない。村や集落の出入り口にある。
通っていたが、道
庚申塔の時期的変化 ①江戸前期のものは、庚
倉井
は笹藪で遮られ通
申講の結衆の名、舟形、猿だけが刻まれたものが
れない。T字路に
多い。寛文、延宝頃までに造立された。②江戸中
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なっているので、
期のものは、青面金剛が刻まれる。豪華で飾りが
右に曲がり国道に
たいそうにぎやかになる。元禄前後から享保頃に
出る。
造立された。③江戸後期のものは、角形、自然石
型が増加する。簡略化され、文字だけのものが多
今までののんび
くなる。文字そのものにも工夫があって興味深
りした道が右の
い。
レストラン倉井
刻まれた像は青面金剛、猿田彦大神、大日
を過ぎると木に
覆われ行き止ま
右に「倉井」突き当たりを右へ りになる
アクト石原
栃木県
上三川町