小金井4 22 小金井一里塚 小金井駅 蒸気機関車の動輪 C57蒸気機関車の動輪が保存されてい ます。C5738は、昭和13年製造。北陸線 ・室蘭線などを走りました。同型の動輪 は大田原市「ぽっぽ公園」や兵庫県三田 市「はじかみ池公園」にも保管されてい るそうです。 小金井駅は明治26年(1893)開業、昭 和41年(1966)小山電車区開設と、小金 井駅がある旧国分寺町は鉄道開通ととも に発展した町でもあります。 この動輪は、鉄道との深い関わりを示す モニュメントでもあるわけです。 小金井一里塚 coffee time 日本橋 から22里の一里 塚。明治初年の道路改修工 事の際、旧日光街道の直ぐ 東側に国道4号が開通した ため、取り残される形で旧 道をはさんみ左右両側の塚 が様子をとどめている。 国指定の史跡となってお り、江戸時代の一里塚の様 子がよくわかる。発掘調査 が行われ、塚と塚の間から 江戸時代から明治時代の砂 利敷きの道路跡が見つかっ ている。 西側の塚には榎、東側に は榎と櫟(くぬぎ)が生え ているが、日光・奥州・甲 州道中宿村大概帳には「木 立、左杉、右松」とある。 現在は史跡公園として整備 されている。 天平文化を今に伝える しもつけ風土記の丘 今から約1300年前の天平年間 (729~749)に聖武天皇の発願によ って建てられた下野国分尼寺があ る。周辺には県立しもつけ風土記の 丘資料館や県埋蔵文化財センター、 民俗資料館などが整備された。 この下野国分尼寺に近い南方から 下野薬師寺方面に向かって、古代の 官道(幹線道路)である東山道(と うさんどう)が延びていた。 小金井駅交差点 栃木県 下野市 「しもつけ風 土記の丘資料 館」・「天平 の丘公園」へ 県道44号線の交差点 栃木県 小山市 阿部金物 関商店 大塚鮮魚 矢田貝金物 スタジオ大越 井上金型 こぐま生花 川中子 国分寺タクシー エミネンス 住建コンクリート工業 水沢久夫雄 理容セレクト 永吉油店 山口新聞 スズキ販売 川中子自動車 駅東1 山田呉服 カンセキ 寿司割烹 山田理容 46 新田宿~小金井宿 宇都宮国道出張所 栃木県小山市 栃木県下野市 セキウン 高橋自動車 東京から 三条工測 ファミリーブック 酒 静谷酒店 グリーン針灸院 プラトン 姫路屋石材 Honda cars チャイニーズレストラン龍鳳 長工業 大蔵 古菅石材 伊藤商事(イトーキ) セブンイレブン 歯 細野歯科 新田宿 ~ 小金井 ( 歩行距離 2170m 27分 ) 歩く地図でたどる日光街道 http://nikko-kaido.jp/ [email protected] 川中子 旧 川中小村 の集落は 日光街道の西2 ㎞、姿川の西岸の台地にある。日光道中 略記によれば「村の中央を流るるによ り、川なかこ村と名付づけしを、いつと なく川なかこ村と呼ならはせり」とあ る。川中子村は長さ7町14間で家はなく すべて並木である。 オートアールズ 85 km アメリカン倶楽部 薬 東邦薬品 44 神戸自動車 ホンダ エムシー アメリカンクラブ 新田宿北口の石仏群 駅東2 健盛工業 柏屋美容室 上野モータース 羽川 太田製作所 JR小金井運転区 魚鱗亭 AU書店 旧日光街道跡 うえきや 駅前 ニチエー 石田鉄工 足利小山銀行 江原写真 大橋電気工業 しまつけ風土記の丘へ行く交差点 野沢塗装店 小金井 橋本接骨院 歯 高橋歯科 小金井5 大栗屋 メガトン書店 日本橋から85㎞ 須藤モータース 寿興業 日光街道は直線だっ 佐藤金物 たが、通行できなく なるので、再び国道 4号線に出る。 蛸屋 小金井5 小金井6 松屋 県営羽川住宅 しらゆり 羽川ホール 歯 川中子歯科医院 小金井一里塚 104 海老原医院 JA小山 山田酒店 酒 酒 甲賀屋酒店 足利銀行 高橋自動車整備工場 サンデリカ ドーイチ セブンイレブン マクドナルド ファミリーマート 永井書道 農産物直売所 焼肉飯店龍城園 モスバーガー 若寿司 和風レストラン 高橋建材店 和楽 川中子 シティハイミドール ドラッグスセイムス 日光街道の旧道 小山市と下野市との境界付近から小金 井一里塚のすぐ南まで、現在の国道4号 線の西側約30~200m付近を南北900mに わたって残っている小道が日光街道の旧 道。明治16年(1883)から翌年にかけて 行われた道路改修によってすぐ東側に新 道(陸羽街道)が開通した。 このあたりから 小金井宿が始ま る coffee time 一里塚について 日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河 の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最 初と言われている。室町時代の一休(或いは一休 に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の 一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌 を詠んでいる。 一里塚は道の両脇に1里ごとに印として木を植 えた塚。里程については、6町=1里、39町=1 里、42町=1里とまちまちだが、織田信長が36町 ごとに一里塚を築き、榎(エノキ)を植えたことが記 録に見え、豊臣秀吉は5間四方の塚を36町=1里 として一里塚を構築した。1丁は約109メートルで、町 とも書く。 一里塚が全国的に整備されたのは江戸時代であ る。慶長9年(1604)2月4日、江戸幕府は日本橋 を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう 指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指 揮の元に行われ、10年ほどで完了した。一里塚に は榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取 れるように配慮されていた。また現存する一里塚 の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に 対で設置されるのが本来の姿である。 一般的に榎を植えた一里塚が多い。榎木は根が 深く、広がって塚を固め、塚が崩れにくいためで ある。19世紀末の天保年間の調査、日光・奥州・ 甲州道中宿村大概帳によると、榎が一番多く、過 半数を占める。次に松が4分の1強、ついで杉が1 割弱で他の栗、桜、檜、樫は数本程度しか植えら れていない。
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