5-新增東國與地勝覽と于山島

独島の真実‐5
‐新増東国與地勝覧
と于山島‐
世宗大学独島総合研究所編
1.『新増東国輿地勝覧』
1530年に発刊された朝鮮の公式地理書である『新増東国輿地勝覧』には、「于山
と鬱陵は本来一島」と記録されており、日本の学者たちの批判を受けてきた。原文
は以下の通りである。
于山島、鬱陵島
武陵とも言い、羽陵とも言う。二島は県の正東海中にある。3つの峰がまっすぐに
そびえて天に届き、南の峰がやや低い。天気が晴れれば、峰の頭の樹木や山の下の
砂浜がありありと見え、追い風なら2日で到達できる。一説に于山と鬱陵はもとも
と一島と言い、地方は100里である。
『新増東国輿地勝覧』巻45、蔚珍県于山島鬱陵島条
文章の初めには「于山島」が正確に記載されているが、説明文の中で「3つの峰
がまっすぐにそびえて天に届き、南の峰がやや低い。天気が晴れれば、峰の頭の樹
木や山の下の砂浜がありありと見え、追い風なら2日で到達できる」という部分は
すべて鬱陵島に関する説明である。
ここで于山国に関する説明文は、「一説に于山と鬱陵はもともと一島と言い、」
という部分だけである。鬱陵島も見る角度によって3つの峰がよく見えるし、峰の
頭の樹木や砂浜は独島にはないものであり、追い風なら陸地から2日かかるという
のも、鬱陵島についての叙述である。
『新増東国輿地勝覧』とその添付地図である「八道総図」
ところで『新増東国輿地勝覧』とその添付地図である「八道総図」を見ると、韓
半島の東に、于山島と鬱陵島がはっきりと描かれている。そのため本文に書かれた、
「一説に于山と鬱陵はもともと一島」という言葉は文字通り「一説」、つまり「風
聞」に過ぎないと言える。
ところが「八道総図」を見ると、元来は鬱陵島の東になければならない于山島が
鬱陵島の西に描かれている。この「八道総図」を指して日本側は、「韓国は于山島
(=独島)の位置を正確に知らなかった。韓国の言う于山国は架空の島であり、鬱陵
島を誤って記述したものとみられる」と主張する。
八道総図
「八道総図」の于山島、鬱陵島部分
この問題を解く鍵は、その時までに出版され「于山島」に言及した古文書には、
于山島と鬱陵島の位置関係について記述したものがなかったという事実にある。さ
らに朝鮮は1511年を最後に、それ以降1694年まで約180年にわたって鬱陵島捜索を
しなかった。つまり鬱陵島に約180年間船を送っていなかったのである。
このため、太宗と世宗の時代には明らかになった于山島(=独島)に関する知見が
薄れてしまった。その結果が『新増東国輿地勝覧』とその添付地図「八道総図」に
表れた不明確な「于山島」である。
ところで1530年の朝鮮の状況がそうだったなら、日本の状況はどうだったのだろ
うか。日本は同じ時期に、正確な日本地図を残したとでも言うのだろうか。
下は8世紀以降16世紀まで日本の公式地図として使用された「行基図」である。
この地図は、8世紀に行基という僧侶が日本全国を歩き回りながら作成した地図で
ある。これを見るとまず、日本の北西の境界は隠岐の島となっている。独島は日本
の領土から除外されているのが分かる。
行基図 (8世紀)
そしてこの行基図は時代が進むにつれて、さらに日本図とは見なせない形態を持
つようになる。下は16世紀の代表的な行基図である。
行基図を基に作成された「大日本正統図」(16世紀半ば作成)
行基図を基に作成された「大日本正統図」は16世紀半ばの作品で、同様に公式地
図として使用された。ところで、この地図は日本列島の上下に、実際には存在しな
い大陸を描いた。つまりこの地図は、鬱陵島と于山島(=独島)の位置を誤って描い
た「八道総図」以上の大きな誤りを犯した地図なのである。これを日本は当時、公
式地図として扱っていた。
この地図では日本列島の形態自体が実際とはとても大きな差を見せている。この
地図と比較すると、「八道総図」はむしろましな方である。日本側は、他国の地図
の誤りを指摘する前に、自国の地図の大きな誤りを先ず「反省」しなければならな
いだろう。