100年後のリンゴ 千古高風 6 リンゴ事始め う りんご熟れ肩くっきりと津軽富士 ほく と 板柳町中心部の遊歩道〈アップルモール〉に建つ高井北杜(1912 ~ 2009・ 徳島県)の句碑である。津軽富士・岩木山を望む「リンゴの里」板柳は、今年 も実りの秋を迎えた。 板柳の「リンゴ事始め」は、『板柳町誌』によると明治9年となっている。 先覚者の並々ならぬ努力を礎に今日の隆盛があるが、明治 41 年には県下一の リンゴ園が板柳に育っている。安田元吉(1861 ~ 1933)の安田園がそれで、 実に 26 町歩(東京ドーム 5 個分以上)の広さを誇ったという。 文豪・徳冨蘆花(1868 ~ 1927・熊本県)が板柳を訪れたのがその頃である。 蘆花の名作『不如帰(ほととぎす)』は、多くの人々の涙を誘った明治のラブスト ーリーである。明治 43 年秋、安田元吉の弟、歌人・安田秀次郎(1878 ~ 1926) を訪ねた蘆花は、次の短歌一首を詠んでいる。 あけ まるめろ さん か 林檎朱に榲桲黄なる秋の日を岩木山下に君とかたらふ 「板高新聞」に書いたように、明治 43 年 10 月 6 日、朝日に映える「桔梗の 色」の岩木山に心打たれ、蘆花は弘前から安田秀次郎が住む板柳へと向かう。 岩木山をめぐる秋の田は一面に色づき、マルメロの黄色が輝く村やリンゴの赤 色が映える畑を過ぎ、2 時間ほどして「岩木川の長橋」を渡り、「田舎町には家 並の揃ふて豊からしい板柳村」にたどり着く。出迎えた秀次郎に、蘆花はイギ リスの画家・ターナー(1775 ~ 1851)の水彩画帳を贈り、「林檎朱に~」の短 歌一首を書きつける。美しい秋の農村風景の中、文豪と「草深い田舎町」板柳 の歌人との短い交友が見事に表現されている。(この短歌も、表記を一部変え てアップルモールの文学碑となっている。) 100年後のリンゴ 先日、本校調理部の「乾燥リンゴ」の開発が陸奥新報紙に掲載された。記事 の冒頭に、「『さくっ』、口当たり軽く―」とあるように、この乾燥リンゴはこ れまでにない軽い食感が特徴で、アップルパイのような風味が味わえるという。 乾燥の温度設定やリンゴの厚さなどに約 1 年間研究を重ねてようやく完成させ た労作である。これまであまり普及が進んでいなかった乾燥リンゴだが、田中 部長の「手軽に食べられる自信作。町の名物になってくれればうれしい」とい うコメントが頼もしい。 徳冨蘆花が板柳を訪れた頃、リンゴ作りはまだ新興産業であった。それから 100 年以上たった今、「リンゴの里」として繁栄するここ板柳で、若い力がリン ゴの「新しい」商品を開発し地域の人々にも喜びを与えている。 本校の校章にデザインされているリンゴの枝は、学校を取り巻く豊かな〈自 然の恵み〉と〈人間の努力〉、北極星は〈未来の躍進〉と〈希望〉の象徴であ るが、試行錯誤を重ねて開発されたリンゴの新製品は、校章に込められたイメ ージを体現するものであり、「100 年後の夢」の小さな実現の一つでもある。実 りの秋の快挙と言ってよい。 食欲の秋・芸術の秋・スポーツの秋・読書の秋……、いい季節を迎えた。バ スケットボール部をはじめとする運動部の活躍・善戦、国内外の被災地等への 募金支援、クラフト小径のボランティア活動、地域活性化のためのマップ作成 など、多くの活躍を嬉しく思う。 明治 9 年の「リンゴ事始め」以来、リンゴ栽培に関わってきた方々の「血の にじむような努力」に思いを馳せつつ、様々な方面での豊かな「実りの秋」を 期待する。 ○参考 板柳町『板柳町誌』、板柳町教育委員会『町を築いた人々』、「陸奥新報」2015.9.19
© Copyright 2024 ExpyDoc