PDFを表示

ツト部鍛え、トッ
ル
中谷幸俊
ξ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
1948年2月,富山県生まれ 1971年東京理科大学工学部経営工学科卒業。同年,日本氾M(株)入社。都
銀'地銀'相銀.信金.証券業界を担当。提案型営業を習得し新規顧客開拓で19給年には営業トップに立
つ0田M欧州本社(パリ)から帰国後,アウトソーシング事業の戦略企画担当部長で認年問の日本田M(株)
勤務を終了0(株)ジャストシステムを経て,劾0年,アクセンチュア(株)に入社。金融.官公庁営業担当デ
イレクターとして活躍する傍ら.中央防災会謡の専門委員を務め,永田町や霞が関ヘの施策提言や大型プロ
ジエクト推進に取り組む。2005年からベンチャー企業の営業支援や提案型営業などのコンサル事業を開始。
ビジネスモデル学会代表幹事。20的年6月より東京理科大学監事を委嘱される。
「社会人になってから現在まで一貫して言
えることは,学生時代にヨット部の集団生活
で得た経験,そしてコミュニケーションカの
大切さと鈍感力です。これまで仕事で苦しい
場面に何度も遭遇しましたが,不思議と力が
湧いてきて,乗り越えてきました」と語るの
は.外資系IT会社で活躍をし,現在では中
央官庁や地方自治体の電子政府推進や政策提
言を行う傍ら,独特の哲学でベンチャー企業
支援などを目途とするコンサルタント会社を
立ち上げた中谷幸俊さん。
富山県八尾町(現・富山市八尾町)で,1948
年2月13日に3人兄弟の長男として生まれ
た。サラリーマンだった父は仕事の関係で転
勤も多く,八尾町から幼児時代の高岡市を経
て3歳のころに東京都練馬区の大泉に移っ
た。 1年半ほどいた後,今度は熊本県八代郡
坂本村(現・八代市)に転居し,ここで小学
校時代(上松第一小学校)を過ごした。球磨
川沿いの山の村で,通学は自宅から毎日40分
かけて歩いた。小学6年生になって,父の転
勤で再ひ凍京(北圓の生活に戻ることになる。
王子中学校に入学し,途中で飛鳥中学校に
転校した。中学時代,当時の定番だったグル
ープ活動で同級生たちといろいろな話題で討
議をし,卓球とバドミントンに興じる少年だ
つた。都立城北高校に入学すると,1年生から
生徒会副会長を務め学園祭などの学内行事を
取りまとめ,2年生ではバレー部キャプテン
を務めりーダーシップをとるようになった。
この年(19悦年)に東京オリンビックが開
催され,女子バレーチームが金メダルを獲っ
た。そして閉会式で,「ブランデージ10C会
長の下にすべての記録が届けられました」と
テレビアナウンサーが強調していた一節に衝
撃を覚えたという。各競技場の選手記録が瞬
時にして1力所に集められ記録としてまとめ
られるとはすごいことだと思ったのだ。この
ことはその後も脳裏から消えることはなく,
意味を正しく理解したのは日本田M(株)に
アクセンチユア幟)本社にて(2012年)
34
入社してからだった。
理大科学フォーラム 2013(1)
31ー、一1ー
大ヂイ云玲
東京オリンピックはオリンピック史上初め
てオンラインによる競技記録の集計が行われ
た大会だった。スポンサーとして,正Mがそ
の開発運用を一手に引き受け大成功だった
が,これは実は日本における初めてのオンラ
インシステムでもあった。当時の経済人たち
がオンライン化こそ将来の企業成長ヘの要で
け教えられ,ま
ずい飯に喉を通
らず閉口した。
徐々に要領を覚
え,新入生が入
部する翌年の春
あると予見し,日本でのオンラインへの投資
手に飯が炊ける
ようになった。
が始まるキツカケとなっていたのだ。中谷さ
んの脳裏に残っていた東京オリンビック閉会
合宿の頃には上
かくして学業
式の気になる一節は,その後の人生ヘの暗示
のために大学に
だったのかもしれない。
通うのではな
く,ヨット部中
三浦半荒崎沖で馴練中
(大学2年の頃・19聞年)
ヨツト部で謁歌した青春時代
1967年,東京理科大学工学部経営工学科に
入学した。「思えば,これまで中学校,高等学
心の大学生活を
校ともすべて志望校は落ちていたんです。大
き起こされた。雨が降ったので艇をひっくり
返しに行けと先輩から言われヤッケを着て帽
学も1年浪人してようやく入った。入試では
ずーつと落第生で挫折の連続だったんです
鈍感力が養われました」と振り返る。当時は
経営工学や管理工学の黎明期にあたり「これ
からは,この分野だ!」と直感して何校か受
験して入学したのが開設して3年目の東京理
科大学工学部だった。
工学部はキャンパスのない神楽坂地区にあ
つたので,海がキャンパス代わりになると思
い,また友人が入りたがっていたのを思い出
し,ヨツト部に入ることにした。このサーク
ルでの経験が,社会人になってから多くの場
面で役立っことになるのである。「1年奴
隷,2年兵隊,3年天皇,4年神様」。これ
がヨツト部ヘ入部して教えられた最初の規律
だったという。待っていたのは,食当(食事
当番)とコーキングと呼ばれるヨット本体の
修理だった。三部戦優勝というめでたい時期
に遭遇した最初のインカレ合宿では,平均30
40人の合宿の食事を3人の1年生がチーム
で担当させられた。生まれて初めてのご飯炊
きは見もので「始めちょろちょろ中ぱっぱ赤
子泣いても火を消すな」が釜炊きのコッとだ
理大科学フォーラム卯13(D
送る日々が始まっていた。神奈川県三浦半島
にある荒崎の合宿では,しぱしぱ夜中にたた
子を被って半分眠りながら走って行き作業を
した0 合宿から東京の下宿生活に戻ると,喫
茶店に入る,学食でランチを食ベる,本を読
む,そんな日常が無性に感動的で合宿生活と
のギャツプの大きさがまた楽しかった。
「学連(全日本学生ヨット連脚活動も楽し
かったですね。いろいろな大学の連中との交
流は肌に合っていたと思います。他大学との
ネツトワーキングは自分を特徴付ける能力の
ーつになっていきました」と振り返る。
学連主催のインカレではチャータした漁船
でレースの監視に加わった。強風のためにジ
ヤイプし,下マークを回りながら風上方向ヘ
向かおうとしてもできず,吹々に沈んでしま
う大学が続出した。スローモーションを見る
ように艇はバランスを失って傾き始め,やが
て海水が入ってきて沈んでぃく。慌てるスキ
ツパー(艇長)とクルーの力などもはや受け
入れる余地のないことを自然は見せっけてく
る0 そんな中,母校のディンギーだけが見事
にジャイブしていくのを体が熱くなる思いで
見ていた。
「とにかくヨット部というサークル活動が
中心となっていた学生時代でしたね」と回顧
する中谷さんの話は尽きない。
あっという間の3年間が過ぎ,大学4年の
卒業研究では「組織論」といった理工系らし
た廩議が即決となった。この手法はその後に
グラムへと進化していった。英国発の全世界
とやりたいと責任者に話したら,「1BMのノ
助教授)研究室に興味を持ち,入った。ゼミ
や論文に明け暮れる中,日本玲M(株)主催
うしてもやりたく,現場の責任でやると反対
を押し切って実行すると好結果となった。こ
のインターン適性試験を受けたことがあった
の手法もやがて日本中のお客様ヘ展開する
が不合格になってしまう。就職は商社にしよ
CPS (C山tomerp
うかと思っていたが,適性試験を受けたため
へと進化していった。
う。さらに部下には「ⅡSten が最も大事な
言葉と繰り返し伝えた。お客様である山種証
券山崎社長の「ほうれんそう(報告・連絡・
相談)の大切さも繰り返し伝えた。組織で
ノ
1
1
A易枇
日本旧M(掬で捉案検討会ミーティング(1983年
Se鉛ion)プログラム
8年半担当したお客様からは,「うちの部
長の次に会社のことが分かっている」と言わ
1讐1、
れ,その部長のアポで伺うと,「終わったら
日本旧M(株)で始まった営業マン生活
雷j"
で展開を始めたプラニング手法を直接お客様
ウハウは外に出せない」と反対を受けた。ど
け,応募したところ合格・内定したのだった。
N冊
多くの金融機関で実施される営業店分析プロ
からぬテーマを研究していた矢野俊介(当時
かⅢMから入社試験を受けないかと連絡を受
ていますよ」と語るほど効果が上がるとい
,Cιι、
動く醍醐味を味わった頃だった。
50歳を意識するようになり,単に業績を上
げるだけではなく社会的貢献のできる仕事を
したいと思、い始めていた頃,官公庁担当営業
への異動話が来た。間接的にでも行政に触れ
4人にフォーカスを当てた。徹底した技術論
られると思い,官公庁相手の世界ヘありがた
を展開し,稼働直後の印TAC1Π情報システ
く飛び込んだ。霞が関の新進気鋭のトップ課
ムとの切り替えに受注成功したことで,その
長を集めた「天城ホームステッド」での勉強
年の日本正M(株)営業のトップに選ぱれた。
会は,インテリジェントシャワ一のど真ん中
汰に最大手の証券会社ヘ200億円の提案を
に飛び込んだ感があった。後にアジア開発銀
した。 5550でMS'DOS (マイクロソフト社開発
行総裁になる黒田氏とりチャード・クー氏の
の0/S)のもと,マルチタスクノマルチLUノウ
真っ向議論など実に新鮮で興味深かった。人
インドウイングの技術を使い複数のアプリの
事院主催の霞が関各省庁の新人課長向け1週
30歳近くになり,「どの競争企業が攻めて
画面を同時に見られる構想だ。ビル・ゲイツ
間の泊まり込み研修に日本IBM(株)として
最後の1週間のホテル泊まり込み研修は,
きてもこのお客様は守れるという自信が芽生
がウインドウズNTを考えていた時期とぶつ
初めて参加した。錫人の当時の仲問はその
最初に「3」という数字の意味を教えられ
え,自信過剰になった自分を発見したんで
かる。ユーザー検討メンバーからはトップ評
後,毎年何回かのテーマを決めた勉強会を始
る。 3は,その研修参加者の平均睡眠時間だ
す。そこで担当替えを決意して,それまで興
価で上申されたが,残念ながらIBMシステ
めた。やがて彼らは審議官,局長,大使と要
つた。無事卒業して一人前の営業マンとして
味のあった新規開拓ヘの配置転換を希望しま
ムの採用は見送られた。
職に就いていく。中谷さんは永久幹事を務め
の活動が始まったが,あの厳しかった研修が
した」と当時の心境を語る。
うちの課に寄ってくれ」と幾人もの待ち行列
晴れて社会人となり,外資IT企業の雄・
ができた。「大変だったけれど仕事は面白
日本IBM(株)に入社してからの16力月の研
く,その上に給料をもらって申し訳ないと本
修は厳しかった。正直これだけ勉強したら東
気に思った」と当時を語る。
大でもどこでも合格すると思ったという。
始める。そんななか,今度はパリのアサイン
課長から官公庁担当営業部長時代
パラダイスに思えたほど背中にのしかかる責
大手地方銀行のUNIVACユーザーヘアプロ
任は重たかった。「月月火水木金金」の意味が
ーチを実施し,提案書には山M製品の説明
19釘年に証券業界担当営業課長に昇格し
事を続けるか迷った末,回だけのチャンス
判った気がした。筆圧で指に炎症が起こり,字
は最小限とし,業務にフォーカスした内容に
た。 1年生営業マンを率いての新規開拓営業
であろうパリを選ぶことに決め,19飾年,家
が書けなくなった時がその日の仕事終了だっ
仕上げた。提案は一旦断られるが,「断るに
課の発足だ。自分の分身を作ろうとWeeRly
族とともに海外勤務が始まった。
た。心臓より1に右手を挙げながら帰宅した。
至る検討を余儀なくさせたわれわれが悪い」
のある仕組みを始めた。部下のやれない事を
パリ滞在中は,欧州進出の日本企業のトッ
入社した最初の年は.個人的に苦手なタイ
と謝りに行くなどドラマチックな展開を経て
やるをモットーに,能力があればその上を力
プとのりレーションシップマネジメントが仕
プのお客様に当たってしまった。お客様の玄
受注ヘ結びつけ,その後にホストシステム全
バーし,能力が足りなければそこまで降りて
事だった。出張はイギリス・ドイッ・ベルギ
関前で「その人が好きなんだ」と暗示にかけ
面切り替えというビッグビジネスへ繋がる第
いった。幸い証券界の好調の波に乗り,次か
て入るよう試みた。不思議なことに数週問も
一歩になった。次の証券業界の新規開拓は,時
ら次と新規開拓に成功,1年生営業マンが中
日本ではなかなか会えない人たちに容易に会
繰り返すうちに,嫌だという感情がきれいに
期が悪くどこをアプローチしても手ごたえが
堅営業の働きをしていた。営業所長になると
えるのは発見だった。パリ日本文化会館館長
消え何でも相談できるありがたい存在ヘと変
なく気分転換にフィリビンへ10日間スキュー
の磯村尚徳氏,指揮者の佐渡裕氏,文化勲章
わった。
バダイビング休暇を取った。まう黒になって
「Mon仕IWAPS (ACC0Ⅲ亀tpla王1血1^S邸ion)」を
中心としたQCの考えを営業活動に徹底して
受章の漆芸術家高橋節郎氏,「ローマ人の物
銀行の端末ビジネスでは実際の支店にビデ
帰国するとIBMマルチステーション佑郭0」
適用した。当初嫌がっていた営業マンたちが
語」執筆中の塩野七生氏などありがたいご縁
オを持ちこみ,テラー(金銭出納係)の動作
製品の発表 Q9部年)が待っていた。これが
その効果に気がつくと空気は一変し,月に1
を得た。
分析を提案し社内の知恵者たちと分析し結果
起爆剤となりある大手証券会社に商機を発見
回の真剣勝負の場ヘ変わっていった。この方
チャールズ英国皇太子がダイアナ妃と日本
をお客様に報告したところ,半年止まってい
し,キーマンと判断した副社長と若き技術者
法は「今でも提案型営業の究極の姿と自負し
を訪問した時に,これから市場経済の世界ヘ
理大科学フォーラム卯13(1)
理大科学フォーラム 2013(1)
メントの話が出た。パリに行くか霞が関の仕
イタリア・スペインなど何回も通った。
飛び込んでくる東ヨーロッパの国々ヘ日本と
賓庁の多くとの縁ができるにいたった現役
ら,これらベンチャーの製品や事業を,それ
起したという。二度とこの失敗を犯さないよ
たちの頑張りであるが,ひそかに自分の貢献
ぞれのネットワークの中で企業役員レベルに
と自負しているという。 e・JaP抑特命委員会
紹介することの出来るもう一方の仲間たちと
う,したたかに作戦を練る癖を強いた。何が
守らなけれぱいけない最低線か,何が確かな
武雄会長だった。仲問の財界人の協力を得
を通じた自民党の議員方との関係が始まっ
の輪作りも始めているという。
ビジネスか,何がチャレンジで,それをもた
て,何年にもわたって東ヨーロッパから1力
た。中央防災会議との縁では,東京電力・東
月間の研修生を受け入れた。マツダのワルシ
京ガス・JR東日本・NTTなど公益企業の防
役に立ったヨット部で得た教訓
らす要因は何か,今年1年で一番大切なこと
は何か,などなどを考えることにした。「優
ヤワ工場進出など東ヨーロッパ進出に興味を
災責任者ヘのヒアリングを通じ日本の防災の
持つ日本企業が出始めていた。そこで東ヨー
実態を体感した。その専門委員の辞令は当時
ロッノ杠T事情について,日本企業向けセミ
の小泉総理のサインの入ったものだった。
ナーをウイーンで開催することを企画した。
アクセンチュア(株)での役割は,大規模
ーーーー、
して指導してもらえないかという話があっ
た。これに応えたのが日本玲M(株)の椎名
中谷さんは,社会人になってからヨット部
れた人が輝いて見える時,その人は見えない
で得た教訓がいろいろな場面で役に立ってい
所で必死の努力をしている」。これもヨット
るという。「代替案なき反対は賛成と見な
で実感したものだ。艇から身を乗り出して,
す」という言葉も,社会人になり経験を踏ん
セールの傾きを抑えながら風を最大限使って
だ頃にお客様向けのプラニング手法のーつと
走りに使う。あの美しいヨット姿の時ほど乗
日本で研修を受けた70名にもこのセミナーの
プロジェクトの新規開拓で,ネ士内でパートナ
オブザーバーとして招待状を送ったところ反
ーと呼ぱれる部長役員クラスの人が会うこと
して教わった。ヨット部では練習で必要なも
つている自分が苦しい時はなかった。この
響は大きく,スロバキアの市長になった人や
の難しい外部要人とのりレーション作りゃ,
のがあれぱ合宿所ヘ戻り,当該部材がない時
えも社会で幾度も体験した。
ベンチャー企業経営者などの大物も参加し
シニア同士の会話が必要なトップコールでの
は「手ぶらでは帰るな,必ず代わりの部材を
「今の学生たちにとって,大切なのは何だ
た。歓迎会で在ウイーン日本公使に歓迎スヒ
場作り,それといろいろ迷いもある若いパー
持って来い」と先輩に教わったが,仕事でも
ろうと最近になって思います」と語る。基礎
ーチをお願いしたところ,最後まで残って東
トナーのメンタリングと理解したという。仕
「そうか,あれと同じだ」と思ったそうだ。
工学部教養部における長万部での1年問の集
ヨーロッパからの参加者と歓談をしていただ
事の傍らネットワーキングには積極的にとり
「集合時間は3分前」か「5分前」だったか
団生活は素晴らしいシステムで,ここで暮ら
いたことが印象的だったという。ウイーンと
組み,今や15件を超える。特に時間を割いて
は正確には覚えていないというが,約束時間
して2年次に千葉県野田キャンパスへ来た時
翌年プラハで開催した日本企業向けの東ヨー
いるのがビジネスモデル学会である。春と秋
の前には着いているという心構えも社会人の
には,心身ともに成長の跡が顕著に表れてい
ロッパ最新IT事情セミナーは民間外交のー
の大会準備やイブニングセッション,エマー
基本だ。
るという。実際,同窓経営者会の新入会員と
石となった。 2年3力月の短いパリ滞在だっ
ジングカントリーに狙いを定めた海外視察ツ
忘れられないのは,ヨット部夏合宿でのレ
して挨拶をした基礎工学部卒の30代半ばの経
た
たが,家族ともどもフランスへ馴染み,また
アーの企画作り等で,今年はミャンマー,昨
ギュラー決定の勝ち残り戦だ。早々にレース
営者は,長万部で鍛えられアクセンチュアに
親しい友人たちも出来て去りがたい思いで帰
年はバングラデッシュへ行き郊外の村でグラ
艇を獲得し,真夏特有の青い空と順風に「な
入社し,数年後独立しマザーズに上場した。
国した。
ミン銀行マイクロファイナンスの現場に立ち
んて気持ちが良いのだ」と感じつつ,セール
「私もそうでしたが,学生時代の人問形成に
会うなど得難い体験をした。
をバタつかせながら次のスタートを待ってい
は集団生活が一番ですね」と学生に勧める。
転職 霞ケ関と永田町 そして今
汰の展開ヘ向けて2005年にITV (1Tバリュ
た。レギュラー戦であることをすっかり忘
最近では,「人生で一番幸せと言える時は
パリから帰って職場に復帰すると,大企業
ーアソシエイツ(株))を設立した。アクセン
れ,その楽しさに身をゆだねてしまい,出発
今であると確信を持って言える自分でありた
から飛び出したいという思いがふつふつと湧
チュア(株)の仕事を主にしつつ,空いた時
のホイッスルの音にハッとするが,いつの問
い」と思い,「小人は縁に気付かず,中人は
いてきてき建という。縁のできた(株)ジャ
間でベンチャー企業支援などを始めた。「あ
にかスタートラインから遠く籬れていた。あ
縁を活かせず,大人は袖振り合う縁を縁と
ストシステム浮川和宣社長の誘いで19船年に
りがたいことに多くの若者たちから相談を受
わててスタートラインに戻り,レースへ復帰
す」という言葉の意味をしみじみ実感してい
転職した。800人ほどのオーナー会社の面白
けます。ベンチャー企業に大切なのは,お金
し帆走したが届かなかった。古い艇と交代し
るという。「之を知る者は,之を好む者に如
さと厳しさを味わった。その後,霞が関の仕
でもなければ経営指南でもなく,お客様を連
再挑戦となったが他のレギュラー艇は速く,
かず,之を好む者は,之を楽しむ者に如か
事をしないかとの誘いで2000年にアクセンチ
れてきて契約いただき,いろいろ商品ヘのり
あせった心では勝てなかった。
ず」という論語をかみしめてくださいと最後
ユア(株)ヘ再転職した。入社の際に目標
クエストをいただくこととだと思い知りまし
午後も戦いは続いたが,学連の会合があり
に語った。長年の経験をもとに立ち上げたば
達成出来ない時は会社を去る」との契約条項
た」と語り,これを立ち上げたrrVのミッシ
東京ヘ向かわざるを得なかった。次のチャン
かりのコンサルタント会社は,まさにこの言
にいささか面くらい,条件を「会社と協議す
ヨンとして,現在10社を超えるベンチャー企
スがあるだろうと言い聞かせ東京ヘ向かった
葉を実践する場になりそうだ。
る」に変更して今年で13年目を迎える。
業の販売支援や事業支援と取り組み始めてい
が,次のチャンスは二度と来なかった。このー
当時の主要客は国税庁と国立国会図書館と
る。どの企業とも何年にもわたってポランテ
瞬の気の緩みがレギュラーの座を遠の力田'た。
私立大学だったが,この10年で郵政,年金機
イアで応援し議論し試行錯誤してきた仲間た
社会人となり営業職に就き,年度ごとの目
構,特許庁と,1T予算ベスト3を含む中央
ちだ。ホームページなどの準備を進めなが
標達成の計画を練る時に必ずこの失敗を思、い
理大科学フォーラム 2013(1)
理大科学フォーラム 2013(D
執筆:山本威一郎(サイエンスライター)
1948年6月.東京生まれ。1g72年,東京理科大学大学
院理学研究科修士課程咽理)修了。
諦