基礎・基本の中に豊かな学びがある

研究通信
平成27年5月7日
文責:神波
基礎・基本の中に豊かな学びがある
以下に紹介する文は、以前読んで印象に残った本の抜き書きです。小学校教師の今泉博先
生の授業に関するものです。
生徒にとって学ぶ喜びのある楽しい授業をつくっていきたいものですが、これはその手が
かりにつながると思います。ご一読ください。
(
『集中が生まれる授業』今泉博著、学陽書房)
漢字一文字の学習も訓練ではなく〝豊かに〟学べる
例えば「包」という漢字。
これを習熟・トレーニング中心派の教師なら、何回もくり返し書かせ、小テストで確認し
て終わりではないだろうか。むろん、この方法でも習得でき「書ける」ようになるには違い
ない。いくつかの熟語を発表することも、辞書調べをやらせれば可能だ。しかし、これでは
基礎・基本における〝豊かな″学びの姿とはほど遠い。情報化の進行が激しく、刺激に富ん
だ文化環境下にある今日の子どもたちの学びへの興味・関心をひき出すことは困難だ。
私の畏友、小学校教師の今泉博氏はまるで違う。どのように豊かな学びに転換するのだろ
うか、報告したい。ちょうど、2000年9月12日付朝日新聞に、彼の授業を見学した記
者によるリポート記事が掲載されていたので紹介しよう。
黒板に小さな丸が描かれた。
「これは何だと思いますか?」30人の子供たちの手が挙がる。米粒、タネ、人間の頭、
豆。「人間の頭です」と答えて、その頭から右下に曲がった線を書いた。「これは体」。もう
1本、左側にふくれた線は「おなか」で、2本の線の間に小さな丸と棒が書き加えられた。
魚の骨という声も出たが、これは「赤ちゃん」
。
「実は赤ちゃんができておなかが大きくなった女の人を表しています」
先生は絵を少しずつ整えて「包」という漢字にした。丸めた写真を取り出し黒板に張る。
ゆっくりと上から開きながら「何が見えたかな」
。子供たちはどきどきして黒板を見つめる。
赤ちゃんの頭が見え、手が現れた。体を包んでいるのは水らしい。水の中でどうやって息
をしているのだろう。
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おへそだ、へその緒から栄養が送られ、空気(酸素)は血液で運ばれる。写真は羊水に浮
かぶ胎児だった。教室中がしーんとした。科学雑誌で見つけた写真を拡大コピーしたのだ。
「お母さんの水に包まれている」
先生はさりげなく「包む」の用例を示した。その水には海水に似た成分があることを説明
してから、子供たちみんなが「包」をそら書きした。大きくゆっくり筆順も覚えるように。
なんとも強烈な授業だ。美しい胎児の写真で、母親の愛情や生命の尊厳が漢字にしたかの
ようだ。
小学校では習わないが、『くるむ』とも読む。音読みは『ホウ』、包装紙などと使う。「じ
ゃあ練習してください」。子供たちはノートに写した。
習いたての漢字を使った短文づくりでまた手が挙がる。ふろしきに包む、包帯で包む、包
丁。「放送室の放送」と答えた子どもに、先生は「それは違うけれど、そういう間違いはと
てもだいじだね。おかげでみんなも気をつけられる。どうもありがとう」とほめた。
仕上げは、「水のこころ」という高田敏子の詩だった。途中に「水はつつむのです」とあ
って全部で9行。先生が黒板に書き、みんなで声を合わせて読んだ。5回読むと、いくつか
の言葉が消された。また読む。さらに消して読む。行頭の一文字だけ残して消えると「げえ
ーつ」と声が出たが、みんなはちゃんと暗唱できた。
(後略)
ここには暗記中心のトレーニング主義とはまるで異なる、学びの本質にかかわるいくつか
の大きな特徴がある。
その第一は、しっかり〝考える″プロセス、想像力をかきたてる過程を大切にしているこ
とである。子どもたちは、それぞれの生活体験や思考経験を基に、さまざまな予想をする。
イメージをふくらます。そして、それらを次々と発表する。ここでは能力差や習熟度別など
ということとは無縁だ。むしろ、多様な個性が多ければ多いほど多彩な発想が披露される。
楽しいイメージバトンタッチや連鎖が生まれる。
そして、みんなでふくらませ発展させたイメージがピタリと「包」という一文字に集約さ
れた時、子どもたちの感動は頂点に達する。単に正答が「だせた」喜びではない。成り立ち
や意味、人々の生活の息づかいが、「わかった」感動である。最初に「包」を発明した何千
年も昔の人々の喜びと共鳴し合える。この喜びは、そのような先人に対する尊敬心とともに、
人間の知恵や、生き様にもつながり、〝人間信頼〟〝人間愛〟が育つ萌芽さえ含んでいる。
その時の子どもたちの心の充足感はいかばかりだろうか。このプロセス学習においては勉
強のできない子も、できる子も遜色はない。そもそもの原理・原則・生活と文化をたどるの
でどの子にも理解できるからだ。だから、全ての漢字をここまで丁寧に指導しなくてもすむ
のではないか。あとは、この呼吸で子どもたち自身が問題意識を持つだろうし、漢字そのも
のを好きになるかもしれない。身の回りのすべての漢字がいとおしく感じられるかもしれな
い。その時に、よくわからなくても、投げ出さずに、とりあえず暗記しようとしたり、自分
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なりにトレーニングして習得してしまうのかも知れない。
このように、こんなに基礎的な漢字学習を通しても、心の教育が成立するのである。基礎
学力の定着が、実は自分と教室の友達を結びつけ、さらには千年二千年昔の先人たちと心を
交わし結ぶことができる、世界を広げることができるのだ。漢字一文字の学習を通して、自
分を見つめ直し、世界とつながる歴史につながることが可能なのだ。
その喜びは、計算のスピードが上がったとか、「漢検」の3級に合格できたなどという単
純な「喜び」とは全く質が違う。21世紀を世界の人々と平和的に共生できる力を育成す
る感情である。
「考える」プロセスそのものが、社会や世界、歴史と自分自身との向き合いを意味す
るからである。
現代の子どもたちは、このような豊かな学びに飢えているのである。
学びの本質にかかわる第二は、
「考える」過程における「間違い」の見方、扱い方である。
「はい、それは間違いですね。他に正しい答えがわかる人?」
多くの教師がとりがちな、このような対応はとっていない。反対に、「そういう間違いは
とてもだいじだね。おかげでみんなも気をつけられる。どうもありがとう」とお礼のことば
まで口にしている。改めて言われてみると確かにその通り。A 君が間違ってくれたおかげで、
今後「放送」と「包装」を間違う子は少なくなるだろう。これは感謝していいのだ。
このように、間違いを大切にしていること。
これは、トレーニング中心の習熟型の教師からは決して発せられることはないだろう。点
数を悪くするものは排除、克服の対策でしかないからだ。結果が全てなのだから。
しかし、人が学ぶとは、正答のためではない。間違いの方が正答を習得する以上に価値が
あることも珍しくない。偶然性も負けず劣らず貴重であることば、これまでの有名な発見や
発明、新商品の開発等の例がおびただしく証明している。最近の白川英樹氏のノーベル賞も
失敗の産物であることばよく知られた通りである。
このような可能性に富んだ胸がワクワクする基礎学習こそ、深い学力を保障してくれるこ
とは言うまでもない。しかも、間違っても、友達にバカにされない安心感が、学習意欲をさ
らに盛り上げる。また、いじめなどを生むことも少なくなり、結果として人権尊重の雰囲気
が醸成され、どの子も安心して勉強できる教室環境が創り出されることになる。その結果、
全員の学力がアップするのである。
学びの本質にかかわる第三は、対話・討論を多用している点である。一人の発想や意見・
考えが教室の全員に共有され、次々と新しい発言がくり返される中で、一つの着想が豊かに
発展する。そして、最後には一つの真実に到達。教師も含めた全員の知恵の結晶としての正
答。これは、一人個人の口をついて出された正答とは違う厚みと重みがある。全員参加で豊
かに学ぶ授業は学びの共生の場でもある。
第四は、最後に高田敏子の
「水のこころ」 を学習し、全員その場で暗唱していること
だ。一点突破、全面展開の見事な手法で、国語にまで総合的視点を貫いた漢字学習である。
一つの漢字から人間の知恵と歴史を学び、現代詩のイメージでしめくくる。しかも、全員の
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胸に刻み込むために暗唱し終えて教科書を閉じる。見事としか言いようがない。
まさしく、教科学習の中に総合的な視点を貫いた模範的授業といえる。念のため、高田敏
子氏の詩を紹介しておこう。
水のこころ
高田敏子
水は つかめません
水は すくうのです
指をぴったりつけて
そおっと
大切に
水は つかめません
水は つつむのです
二つの手の中に
そおっと
大切に
水のこころ も
人のこころ も
もちろん、このような心まで育つ素晴らしい授業をだれでもいつでもできるわけではない。
しかし、だからといって、トレーニング中心でいいはずがない。10回に1回しか成功しな
くても、教師はこのような豊かな授業の方向へつま先を向けるべきであろう。そうでなけれ
ば、多くの教師が、町の塾のトレーニング力量に負けることになるだろう。後世の人々から
今日の学力対策を振り返った時、学校の信頼を著しく低下させた時期として批判されること
になるだろう。
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