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【移民研究】
【Immigration Studies】
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戦後沖縄社会と南洋群島引揚者 −引揚者団体活動に注目
して−
大原, 朋子
移民研究 = Immigration Studies(6): 23-44
2010-03
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/16687
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者
一引揚者 団体活動 に注 目 して大 原 朋 子
Ⅰ.は じめに
Ⅱ. 戦後沖縄 における南洋群島再移民要請活動の展開
Ⅲ.引揚者在外事実調査票か らみ るサイパ ン島引揚者 の生活実態
Ⅳ.戦後沖縄社会-の定着 - 「
引揚者 」 か ら 「
沖縄県民 」 -
Ⅴ.おわ りに
キー ワー ド :南洋群島引揚者 ,南洋群島帰還者会,南洋移民,遺族,サイパ ン戦
Ⅰ.は じめに
現在 のサイパ ン島,テニアン島な どを含む 旧南洋群島 (
現 ミクロネ シア)は第一次世界大
戦後 に 日本の委任統治領 とな り,製糖業 を中心 とす る産業-の就 労を 目当てに, 日本人移
民が,特に沖縄か ら大量に渡航 した地域である 1
)
。同地域 にお ける一般邦人の常時約 6割
が沖縄 出身者 であった と言われてお り,1
943年時には邦人約 1
0万人の うち,約 6万人
が沖縄 出身者 だった ことになる。彼 らは 「
南洋は儲かる」 とい う評判 を頼 りに,沖縄の困
窮 した生活か ら新天地を求 めて移民 した。
しか し,彼 らの行 く先 に待 っていたのは,つかの間の 「
豊か」 な生活 と,南進 とい う国
策そ して戦争であった。サイパ ン島,テニアン島で繰 り広げ られ た 日米戦に多 くの沖縄移
民が巻 き込まれ,犠牲 となった。そ して生き残 った者 も家族や財産 を失い,身一つでそれ
ぞれの故郷 に引揚 げていったのである。戦後沖縄へは旧南洋群島か ら約 3万人が引き揚げ
た と言われている 2)。
戦後沖縄 には,約 1
7万人の海外引揚者 が帰還 した といわれ ているが
, この中で最 も
3)
多いのが,南洋群島引揚者 であった 4)。
本稿 は, この南洋群島引揚者 に焦点 を当ててい る。彼 らは戦後南洋群島帰還者会 (
以下
帰還者会 とす る)を結成 し,引き揚 げてきた地域-の再移民 を 目指す とい う特異な活動 を
展開 した。本稿 ではそ うした南洋群島引揚者 の戦後史 を,彼 らが結成 した帰還者会活動に
注 目しなが ら明 らかに したい と思 う。
南洋群島引揚者並びに帰還者会の戦後 を扱 った先行研究には今泉裕美子の研究がある 5)。
ここで今泉 は旧南洋群 島か らの引揚 げの実態並び に帰還者 会 の組織化や敗戦直後の活動
を明 らかに している。今泉 は同論文で帰還者会が同地-の再移民 を 目指 して結成 され,積
極的に活動 していった ものの,沖縄がそ してかつての南洋群島 である ミクロネ シアが太平
・23・
「
移 民研 究 」 第 6号
2
01
0.3
洋上の重要な米軍基地- と仕立て られてい く中で,活動の変更を余儀 な くされ た結果,再
移民実現か ら慰霊や ミクロネ シア との交流 を 目的 とす る団体- と変化 してい った と指摘
している。
本稿で も南洋群 島引揚者 に よる同地-の再移民要請活動 に注 目し,新たな資料 を用いる
ことによ り,なぜ この活動が始 ま り,支持 され,展開 していったのかを明 らかに したい。
そ して戦後 6
0年 にわたる帰還者会の活動 とその変化 を読み とくことで,戦後沖縄 におけ
る南洋群島引揚者 のあゆみ を明 らかに したい。
Ⅱ.戦後沖縄おける南洋群島再移民要請活動の展開
1.敗戦直後 における南洋群 島引揚者
サイパ ン ・テニアン戦が終了 し,約 1年間に及ぶ収容所生活の未,旧南洋群島か ら沖縄
945年 の 1
0月であった。故郷沖縄 に到着 した南洋群島引揚
-の引揚 げが始まったのは ,1
者 は,まず沖縄戦 によ り難民化 していた沖縄住民 と同様 に収容所 に収容 され,その後米軍
の施策によ り各々の本籍地- と送還 された。
戦後沖縄 における引揚者政策 の特徴 は,引揚者 に向けた特別な施策がほ とん ど見 られ な
い とい うことにある
6)
。
GHQ の援護方針 自体が,生活困窮者全般 に対す る施策 を趣 旨 と
7) とい うものであったが,そ もそ も
してお り,引揚者であるか らといって特別扱い しない ・
戦後沖縄 では住民全体が難民化 していたが故に,全住民に対す る公平な無償配給 を旨とす
る 「
島 ぐるみ救済 」が必要 とされ るよ うな社会状況があったか らである。
しか し,その後救済の対象 は縮小 され
,「
可動能力者
8)
」 がいない世帯のみが救済対
9)
象 とな り,引揚者 も他 の住民 と同様 に引取 り人 も しくは本人 に相 当の資産がある場合 には,
救済対象 にな らない とい うこ とになった
10)
。通常引揚者 は引揚げによって経済的
・社会的
基盤 の一切 を喪失す る とい う事情 を背負 っているが故 に,
特別 な援護 が必要 とされ るが Il),
戦後沖縄 自体が沖縄戦 による社会経済的な破壊 を被 り,沖縄住民 も難 民状態 に置かれてい
たため,引揚者 であろ うとも戦災被災者 であろ うとも救済措置は均一の条件 の下に講 じら
れ たのであった。
この よ うに特別 な援護 を適 用 され なか った引揚者 たちの戦後 の生活の立て直 しに貢献
を した と考 え られ るのが,米軍の施策 によって行 われた土地の割 当である。
この土地割 当とは,沖縄戦 によ り地籍原簿の消失や地形 の変形 な どによって土地所有関
係 の不明が生 じ,さらに敗戦後の混乱 と農業生産の減退 に対処す るための応急措置 として
1
946年 3月 に米軍か ら通達 ・実施 され た ものである。その内容 は,土地の所有者 に関係
な く,農耕地 を分配す る とい うもので,これ によ り本籍地に送還 された引揚者 は,他の住
民 と同様 に土地の分配 を受 けた。
以上の よ うな土地割 当に よって,故郷沖縄 に土地を持 たない多 くの引揚者たちが一時的
・24・
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
ではあるが 自作可能な土地 を持つ ことができたのである。そ して この農地を足がか りに,
引揚者たちは戦後の生活 を立て直 してい くことになった と考 え られ る。
ちなみに,沖縄社会 に とって南洋群島引揚者 は, どのよ うな存在だったのだろ うか。前
述 した通 り,戦後沖縄 は本島人 口 3
0万人に対 して 1
7万人 とい う引揚者 を受 け入れてお
り, 「
引揚者 」 とい う存在 は決 してめず らしい ものではなかった と思われ る。 また沖縄戦
-の動員の結果,20歳か ら 49歳の人 口,特 に男性 が極 めて少 な くなっていた戦後沖縄社
会 に とって 12),そ うした年齢層 を多 く含む南洋群島引揚者
13) は,貴重な労働 力で もあっ
た と思われ る。
また南洋群 島引揚者 は,
-南洋で沖縄住民 よ りも先行 して米軍統制下での収容所生活 を体
験 していた。収容所生活や軍作業で得た経験や英語の知識 な どは,同 じく米軍 占領下に置
かれた沖縄社会 に とって も,今後の社会の行方を見通す上で重要 な情報源 にもなった と考
え られ る。そ して引揚者個人 に とって も,旧南洋群島での米軍 占領下での生活は,皮肉に
も戦後沖縄社会 を生 きてい く上で役 にたった一面 もあった と思われ る。各市町村で発行 さ
れた 自治体史では,南洋群 島引揚者 が,収容所生活で身 につ けた経験や知識 (
主に英語な
ど)を活か して軍作業で活躍 した とい う証言 を多 く目にす ることがで きる。
以上のよ うに南洋群島引揚者 は,他の戦災被災者 と同様 に地域社会の復興を担 う一員 と
して,戦後沖縄 での生活 をスター トさせたのであった。
2.南洋群島帰還者会の結成 と再移 民要請活動の展開
引揚 げか ら約
3年が経過 し,引揚者各 々の生活 も少 しずつ落 ち着 き始 めた 1
9
48年 に,
南洋群島引揚者 はサイパ ン島時代か らの有力者 である仲本興正
1
4)を会長 とし,南洋群島
-の再渡航要請 を主たる 目的 とした南洋群島帰還者会 を結成 した。帰還者会設立当時の規
約 は不明であるが,沖縄海外協会発行の
1
9
49年 1月 31日付 け 「
海外協会便 り」 によれ
ば同会は,(
D満 1
7歳以上の南洋群島帰還者 を以て組織 され,②南洋群島の資源 を南洋群
島帰還者及一般沖縄人の手 によって開発 し,以て沖縄人 口問題 の解決及び沖縄産業発展に
貢献す る とい う目的を持 って組織 されている 15)。
この旧南洋群島-の再移民 とい う話 は,戦後突如出てきた ものではな く,引揚げ以前か
らあった ものだった。米軍によるテニアン島 占領後,米国企業が全労働力を沖縄 出身者 と
する 「
大農 園計画 」 をたて,テニアン島の沖縄県人指導者 たちも合意 したが,最終的には
まず沖縄 に引揚 げて家族 の安否 を確認 してか ら再度渡航す ることにな り,企業側 か らは,
半年か ら 1年以 内にテニア ン島 に沖縄 出身者 を呼び寄せ たい とい う意 向が伝 え られ てい
た 16)。帰還者会は,この よ うな話 を前提 としつつ結成 され,再移民要請活動 を展開 してい
った。
48年の結成以降帰還者会 は,GHQの琉球局長が来島 した際 に,群島知事 を通 じて南洋
-25-
「
移民研究」第 6号 201
0.3
移民実現の請願書 を提 出 した り,旧南洋群島のカ トリック宣教師 を通 じて在 グアム島南洋
●
群島高等弁務官に陳情す るな ど,様 々な機会 を捉 えては再移民実現 を求 めて請願活動を展
開 していった 17)。しか しなが らその請願 に対す る米国か らの返答 のほ とん どが,再移民の
願意 は理解できるが,米国のみで措置す ることは出来ないため しか るべ き時期が来 るまで
待つ よ うに とい うもので,なかなか活動が進展す ることはなかった。
帰還者会が主導 した この旧南洋群 島-の再移民要請活動 の特徴 の一つ として,-引揚者
集団の活動 に とどま らず,沖縄全体 を巻 き込む活動- と展開 した こ とがある。この背景に
は,過剰人 口対策 としての戦後移民論があった。戦後沖縄 では,前述 した よ うな引揚 げに
よる急激な人 口増加 に よ り,未曾有 の危機感 が もた らされ ていた 18)。さらにこの危機感 を
強 めたのが,爆発的な人 口増 に もかかわ らず ,戦禍 による土地の荒廃や米軍による土地接
収 によ り,耕地可能な面積 が戦前の 3分の 2にも至 らない とい う土地の減少 であった。
950年 3月に沖縄海
この過剰人 口の解決策 として挙げ られ たのが,海外移民である。 1
7万人が海外移民 を希望 していることが
外協会 19)が実施 した海外移民希望者調査では約 1
明 らか となった
20)
。 この人数 は引揚者数 に相 当 し, 1
950年 当時の沖縄人 口の約
24%に
当たる 21
)
。こ うした大量の移民希望者 を受 け入れ ることができる地域 として真 っ先 に挙が
って きたのが東南 アジア とミク ロネ シア,つ ま り旧南洋群 島であった 。 その理 由は,地
理的近 さ,沖縄移 民が活躍 した とい う歴史的経緯 ,そ して同地の統治権 を沖縄 と同 じく米
国が握 ってい るとい うものであった 22)。この よ うな戦後沖縄 の特殊 な状況 を背景 に,旧南
洋群島-の再移民要請活動 は,琉球立法院や移民促進大会
23) な ど帰還者会以外の場で も
積極的に論 じられ ていったのである 24)。
しか しなが ら,以上のよ うな沖縄社会側の移民熱があ りつつ も,当時琉球政府が独 自に
移民を実現す ろことは不可能 であった.それ は,琉球政府 には移民希望者 に渡航資金 を貸
し付 ける財源 がな く,そ もそ も海外移民に関 して外国政府 と交渉す る権限がなかったか ら
である。また,沖縄住民は旅券 を 日本か らも米国か らも発行 して もらえず,無国籍状態で
あった。そのため,沖縄か らの海外移民を実現す るには米 国か らの援助が必要不可欠 であ
った 25)0
そ うした中,米国の全 面的な支援 を得て戦後初の大規模移民 として実現 したのが,1
954
年のボ リビア移民である。ボ リビア移民実現の背景 には,米軍基地の恒久化 に向けた新た
な土地接収 と土地 を奪われ た沖縄住民の不満 の捌 け 口として,海外移民を積極的に推進 し
よ うとした米 国側 の思惑があった 26)。ボ リビア移民の実現過程で,それまで暫定的にス ウ
ェーデ ン駐 日代表部が発行 していた沖縄住民の身分証明書が,正式 に米国民政府か ら発行
され るよ うにな り 27),移民希望者 の啓蒙活動 を担 う沖縄海外協会の機関紙 『雄飛』が発刊
953年 には移 民希望者 -の経済的支援策 である移民金庫法
され, 1
移民支援の制度が整 え られ ていった。
・26-
28)が公布
され るな ど,
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
そ して,しか るべ き時期 が くるまで待つ よ うに といわれ ていた 旧南洋群 島への再移民が
突如 として大 き く進展 し始 めたのが 1
953年 であった。旧南洋群 島-の移 民問題 に関 して,
米 国民政府 か ら琉球政府 に対 し,実現可能か ど うか確 かめるた め調査す るよ うに指示 され
たのである 29)0
琉球政府 か らこの調査依頼 を受 けた帰還者会 は,南洋群 島引揚者 の現況 な どの調査 を行
った
。.
そ して この調査結果 は,米 国民政府 に提 出 され, さらにその後極東 軍司令部 に提 出
され る運 び となったのであ る 30)。 この調査では,南洋群 島引揚者 2
2,
888人 (
4,
061戸)が
対象 となってい ることか ら,約 3
3,
000人 の南洋群 島引揚者 の うち約 88%が この調査 に協
力 した ことになる 31
)
。そ して この調査 の結果 ,対象者 2
2,
888人 4,
061戸 の うち,約 94%
が再渡航 を希望 してい る とい う結果が導 き出 され た 32)0
この時期 に旧南洋群 島- の再移 民 について米 国民政府 か ら調査依頼 が きた背景 は何 か。
その背景 の一つ と して, 同 じ時期 に始 ま っていた新 たな土地接 収 の動 きに注 目 したい。
1
953年 4月 には,土地収用令 が公布 ・施行 され ,翌年 に 「島 ぐるみ闘争 」 を巻 き起 こす
米軍 による新たな土地接収 が始 まっていた。 こ うした状況 を鑑 み る と,ボ リビア移 民が実
現 した論理 と同様 に,旧南洋群 島- の再移民が,新 たな土地接収 に よ り,土地 を追われ た
住 民たちの居住地確保 と不満 の捌 け 口として位置づ け られ た可能性 が考 え られ る 33)。しか
しなが ら,この点 については,米 国側 の資料 を基 に改 めて研 究す る必要があるため,本稿
ではその可能性 を指摘す るに とどめたい。
では,なぜ 南洋群 島引揚者 の 9
4%が再移 民 を希望 したのか。戦前 に旧南洋群島-大量
の沖縄住民が移民 した理 由には, 「ソテ ツ地獄 」 と言 われ る厳 しい経 済的 な困窮 があった
が,戦後 に再び南洋- の移 民 を希望 したの も,そ うした経済的な理 由に よるものだろ うか。
ちなみ に同調査では,引揚者 に各 自の生活状況 について も質 問 してお り,その結果 ,坐
活状況 を 「
豊か 」 としたのが約 7%, 「
普通 」が 5
3%,そ して 「困ってい る」 と答 えたの
が約 4
0%であった。一方,南洋在住 時の生活 については約 48%が 「
豊 か」,「
普通 」が 51
%
とな り, 「
困ってい る」 としてい る としたのは,約 1
%であ り,多 くの引揚者 が南洋 と比
べて沖縄 での生活 は 「
困 ってい る」 と感 じているこ とがわか る。
では南洋群 島引揚者 た ちが南洋時代 よ りも 「
困ってい る」 と感 じていた沖縄 での生活実
態 とは実際 どの よ うな ものだ ったのだろ うか。その生活実態 を明 らか にす る新 しい資料 と
して 「
引揚者在外事実調査票 」 (
1956年,厚生省 実施 ,沖縄県福祉援護課所蔵)を用 い,
なぜ彼 らが再移民 を希望 したのかについて検証 していきたい。
Ⅱ.引揚者在外事実調査票か らみ るサイパ ン島引揚者の生活実態
1. 資料 の締介 とその有効性 と限界
南洋群 島引揚者 の生活実態 を明 らかにす る資料 と して用 い るのは, 1
956年 (
昭和 31
ー27・
「
移 民研 究 」第 6号
2
01
0.3
午)に在外財産問題審議会の資料 とす るために厚生省 によって調査 された 「
引揚者在外事
実調査票 34)」 (
以下 「
調査票 」 とす る)である。
この調査票の集計 ・分析か ら旧南洋群島にお ける沖縄県出身者 の世帯 と就業 を明 らかに
した宮内久光 によれ ば,この調査票は戦前 に旧南洋群島に在住 していた沖縄県出身者 の約
8割 を捕捉 している資料である とい う 35)。
この調査票 は,1
945年 8月 9日現在,外地 にあった世帯の世帯員 について世帯主が代
表 して記入す ることになってお り,当時の世帯主が既 に死亡 している場合や未帰還の場合
または内地で軍人,軍属 とな りそのまま終戦時まで外地 にいた場合 は,配偶者 .千,父,
母,孫,祖父,兄弟姉妹 の順位 によ り代表者 を選定 して,その代表者 が調査票 を記入す る
ことになっている。
記入項 目は①世帯代表者 の氏名,現住所 ,本籍地,引揚後最初 の住所,現在 の職業及び
勤務先,在外年数,②世帯員 の状況その Ⅰ(
生存)の氏名 ,続柄,性別,生年月 日,外地渡
航午月,引揚出港地,上陸地,生活保護 の適用の有無,現住地都道府県,③世帯員の状況
Ⅱ(
死亡)の氏名,世帯主 との続柄 ,性別 ,死亡時の年齢 ,死亡年月 日,死亡場所,④在外
中の世帯主の職業状況(
9恩給受給状況である.
今回は,旧南洋群島の経済的な中心地であ り,在留邦人数が最 も多 く移民の中心地でも
あったサイパ ン島の引揚者 3730世帯 を抽 出 し,分析 した。調査票 の原本 よ り転記 してき
た項 目は①世帯代表者 の現住所 (
市町村名 まで)②本籍地 (
市町村名 まで)③性別④生年⑤
世帯数⑥現在 の職業,勤め先⑦在外 中の世帯主の職業⑧生活保護 の有無の 8項 目である。
この調査は,残念なが ら再移 民要請活動が最 も盛 り上がった 1
953年か ら 3年経過 した
1956年に実施 され てい るため,ここか ら浮かび上がる生活実態 は,53年時当時の生活状
況を正確 に反映 してい るとは断言できない。 56年 当時の生活実態 は,5
3年 と比べて向上
している とい う可能性 も大いにあ りうる。 また, この調査票で明 らかになる生活実態は,
世帯主のみであ り,サイパ ン島引揚者 の約 5割程度 であること,そ して 2
0代な ど若い世
代のサイパ ン島引揚者 が少な い とい う資料的限界 もある。 しか しなが ら,以上のよ うな限
界 を持 ちつつ も,この調査票 は現段階 において南洋群島引揚者 の戦後の実態 を集団 として
掴む ことのできる貴重な資料 である といえる。
この Ⅱ章では,1
956年 当時の生活実態 を明 らかにす るために,調査票か らサイパ ン島
引揚者の職業分布,居住地域 ,そ して生活保護 の適用率 を分析す る 36)。そ してその生活実
態 を行政主席官房情報課
『1
957年度版琉球要覧』(
琉球政府 ,1
957年)や沖縄県商工労働
部 『沖縄県労働史第二巻一九五六∼一九六五年』 (
沖縄県, 2
003年)といった資料 を用い
て当時の沖縄 の社会状況 と照 らし合わせ ることで,サイパ ン島引揚者 の位相並びにその特
徴 を明 らかに したい。
調査票の分析 に入 る前 に,1
956年 にお ける沖縄 の社会経済状況 を概観 してお きたい 37)0
・28・
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して - (
大原朋子)
1
956年は,島 ぐるみ闘争や比嘉主席急逝 による当間重剛(
元那覇市長)
主席誕生,革新派
の瀬長亀次郎那覇市長 の誕生な ど,
r社会的 ・政治的な変動が多 く見 られた年であった。
一方,沖縄経済の状況は,所得水準に関 しては,米国か らの援助や米軍基地建設及び基
地関連収入の増加 によ り,戦前 (
1
934-1
936)の所得水準を 1
00とす ると,既 に 1
27に達
す るまで回復 していた。 しか し,沖縄経済は基地建設 を中心 とした建設業 と第 3次産業が
中心 とな り,就業者の約半数以上を占める第 1次産業や製造業は縮小 している とい うバ ラ
ンスを欠いた構造 になっていた。こ うした状況の中で勤労者世帯の家計収入 における世帯
主収入は実収入の約 7割 に留ま り,勤労収入が支出を下回 る とい う赤字の状況であった。
1
956年 当時は,前述 した よ うに統計上では所得水準が戦前以上になっていたが,沖縄 の
1人 当た りの県民所得 を 日本本土 と比べた場合,それ は 6割弱 しかな く沖縄住民が生活の
豊か さを感 じられ る段階ではなかったのである。
では以上のよ うな沖縄 の社会経済状況下で,サイパ ン島引揚者 の生活実態 とは どのよ う
なものだったのか見ていきたい。
2.引揚者在外事実調査票 の分析 -サイパ ン島引揚者 を対象 として
調査票の対象者 はいったい どの よ うな人々なのだろ うか。男女比 を見 ると,サイパ ン島
,
730人の うち 2,
822人 (
約7
6%)が男性,908人 (
24%)が女性 となっている。
引揚者 3
0歳か ら 49歳 までの年齢層が最 も多 く(
1
,
1
22人),次いで
次に調査対象者の年齢層 は,4
50歳か ら 59歳 (
828人) 30歳か ら 39歳 (
808人)
,6
0歳か ら 69歳 (
375人),20歳か
,
9歳 (
280人), 1
0歳か ら 1
9歳 (
1
00人),70-79歳 (
56人)1歳 ∼9歳 (
1人),80ら2
89歳 (
1人),不明 (
152人)である。
では,調査対象者 が 1
956年時に どの よ うな職業についていたかを見ていきたい。サイ
,
730人か ら 1
4歳以上の就業世帯主 3,
1
88人
パ ン島引揚者全世帯主 3
38) を抽 出 し,産業
.
5%,軍雇用が 1
0.
8%,(
沖縄全体では軍雇用
大分類 を基準に集計 してみ る と,農業が 62
がサー ビス業の中に含 まれている と思われ る。軍雇用 とサー ビス業
39) を合わせた割合 は
1
4.
9%になる),卸小売 ・金融保険不動産が 6.
7%,建設業が 4.
0%,製造業が 0.
1
%,運
輸通信その他公益事業が 3
.
6%,漁業及び水産養殖業が 3.
3% となっている。 ここか らサ
イパ ン島引揚者 の 1
956年 当時の職業分布 については農業従事者 が 6割 と最 も多 く,つい
で軍関連 を含むサー ビス業が多い とい う特徴 を指摘す ることがで きる。
一方, 1
956年 12月における沖縄全体 (
1
4歳以上の就業者 35,
800人)の産業分布 を見
2.
5% と最 も多 く,次いでサー ビス 1
6.
7%,卸小売 ・金融
てみ る と農林業が全就業者 の 5
2.
4%,建設業が 3.
6%,製造業が 5.
3%,運輸通信その他の公益事業が
保険不動産業が 1
3.
6%,漁業及び水産養殖業が 1.
5%,その他 2.
5% とい う割合 になっている 40)。沖縄全体
を見て も農林業が半数以上 を占める とい うのが最大の特徴 と言 えるだろ う。
-29・
「
移民研究 」第 6号
2
01
0.3
2つの結果 を比べてみ ると,サイパ ン島引揚者世帯主の方が,農業の割合が沖縄全体 よ
りも高 くなってい るこ とがわか る。この理 由として,彼 らの多 くが元々同島で農業従事者
であった とい うこと,さらに引揚 げによ り戦前の職業に継続 して就業できない者が農業と職業を変更 した ことが考 え られ る 41
)
。
農林業 ・漁業 ・養殖 ・水産業),第 2次産業 (
建設 ・製造),第 3次産業
また第 1次産業 (
(
その他)それぞれ の就業比率 を比較 してみ ると,沖縄全体では第 1次産業が 5
4.
0%,第 2
次産業が 1
0.
7%,第 3次産業が 35.
2%であるのに対 して 42),サイパ ン島引揚者 は第 1次
産業が 65
.
8%,第 2次産業が 4.
2%,第 3次産業が 29.
8% となっている。 ここで も第 1
次産業-の就業比率が沖縄全体 よ りも高い。 さらに第 2次産業に関 しては 6
.
1% ,第 3次
産業について 2
.
1%沖縄全体の数値 と比べて低い。以上の こ とか ら,沖縄全体 と比べてサ
イパ ン島引揚者世帯主の農業従事率の高 さ,そ して第一次産業-,特 に農業-の偏 りが指
摘できる。
次にサイパ ン島引揚者世帯主の居住地域 について,南部,中部,北部の地 区ごとに集計
,
730世帯 中 1
,
752戸 (
約
してみると,中部地区に居住 しているサイパ ン島引揚者世帯が 3
47%)
,南部が 1,
069戸 (
29%),北部が 843戸 (
27%),その他 が 66戸 (
約 2%)となって
お り,約半数が中部地区に居住 してい ることがわか る。一方,沖縄全体の居住分布 をみ る
63,
1
82世帯の うち中部地 区が 50,
723戸 (
約 31
%),南部が 62,
386戸 (
約 38
%)
,
と, 1
北部が 2
7,
098戸 (
約 1
7%)となってい る。ここか ら,サイパ ン島引揚者が沖縄全体 と比べ
て中部に集 中 して居住 してい ることがわか る。この中部地 区-の集住 は,前述 したよ うに,
米軍の政策 によ り本籍地 に送還 された ことによる 43)。 ちなみに他 の引揚者 の居住地域 は,
台湾引揚者 は宮古郡が最 も多 く,フィ リピン引揚者 は中部,中国引揚者,朝鮮半島引揚者
ともに那覇市が最 も多 くなってお り 44),引揚者集 団毎にその居住地分布 に特徴があった こ
とがわか る。
では,サイパ ン島引揚者世帯主の半数以上が従事 していた農業 は当時 どのよ うな状況に
1
957年度版琉球要覧』 (
琉球
置かれていたのだろ うか。資料 として行政主席官房情報課 『
政府 ,1
957年)を用いて,当時の農家経済状況 を,特 にサイパ ン島引揚者 が多い中部地区
に注 目しなが ら見てみたい。
955年度 の数字で全沖縄農家 91
,
667戸中 自作農が 51
,
706
まず,自小作別農家戸数は 1
戸(
56.
4%),小作が 11
,
498戸 (
12.
5%), 自小作
45) が
28,
463戸 (
31
.
1%)と自作農の 占
勤 め先 」欄 が 「
現
める割合が高かった 46)。この結果 は,調査票でほ とん どの農業従事者 の 「
住所 」 となっていた こととも合致 している。次 に経営規模 であるが, 5反未満 の農家戸数
.
2%を占め, 1町歩未満 は 1
7.
6%, 1町歩以上はわずか 9.
7% と
が最 も多 く,全体の 72
なってお り, 1農家 当 りの耕作面積 は 4
.
8反であった。これ は戦前の 6.
5反 に比 して 1.7
反の減 となっている 47)。 また農家経営規模 を地区別 に見てみ る と, 1
954年 当時北部が 1
・3
0-
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
戸当た り 3
.
5反,中部が 2.
2反,南部が 4.
9反 となってお り,基地が集 中す る中部地区
が最 も少ない 48)。さらに,中部地区の中で も軍用地面積 の割合 の多い北谷嘉手納村,読谷
秤,越来村,宜野湾村 な どでは,中部地区の平均耕地面積す ら大 き く下回るよ うな厳 しい
状況 49) であった 50)0
こ うした耕作面積の逼迫 は当然なが ら農家経済にも大 きな影響 を与 えていた。農家の経
済状況 を同調査か ら見てみ ると,1
957年 1月分の沖縄全体 1戸 当た りの農業収入 51
)は
平均 3,8
34円であったが
52), これ を地区別 にみ ると,北部
3,405円,中部 2,244円,
南部 4,
045円,宮古 6,635円及び八重 山 5,272円 となってお り 53),サイパ ン島引揚者
が集住す る中部地 区の農業収入は他地域 と比べて低い ことがわか る。
収入の低 さは当然なが ら経済余剰 にも大 きく影響 を与 えてお り,全沖縄 1戸当た りの農
,
607円の赤字であったのに対 して,最 もマイナスが大 きい北部の
家経済余剰 は平均で -1
-2,798円についで,中部 は 2番 目となる-2,678円 とい う状況であった 54)0
農業収入が全収入の 25
.
9%だったため, もはや農業だけでは家計 を支 えることができ
ず,兼業を余儀 な くされ ていた ことがわかる。 この よ うに専業農家が漸減 し,
.
兼業農家,
それ も農業が主要収入ではない,第 2種兼業農家
55) が増加す る とい
うのは戦後沖縄農業
全体の特色である 56)。
以上の ことをま とめる と,サイパ ン島引揚者世帯主の就業率が最 も高かった農業は,米
軍基地による耕作地の減少 を受 けて,その経営は農業外収入 を もって しても赤字状態であ
った。特 に米軍基地の集 中す る中部地区の農家は土地接収 の影響 を最 も大 きく受 け,耕地
面積 は南部,北部 と比べて最 も少な く,これ によ り農業収入 も最 も低い地域であった。そ
して農業だけでは生活できないために,おそ らく賃金労働者 として基地関連経済に取 り込
1
,75
2
まれていった と考 えられ る。そ うした中部地区にサイパ ン島引揚者世帯主の 47%(
人)が集任 していたのである。
最後 にサイパ ン島引揚者 の生活保護適用率を見ていきたい。 この生活保護適用欄 は,引
揚者在外事実調査 日前 1箇月 (
1
956年 6月)に生活保護 を受 けていた場合 には有 とし,受
けていなかった場合は無 とす ることになっている。
ちなみに沖縄では米軍 占領下での島 ぐるみ救済を経て,1
953年 1
0月 に本土法に準 じた
生活保護法が公布 されている 57)。この生活保護法は困窮 のため最低限度 の生活 を維持す る
ことのできない者 に対 して適用 され ることになってお り 58),
つま りはこの生活保護適用率
は,サイ/i
.
ン島引揚者 の生活水準 を示す一つの指標 だ と言 える。
48世帯 を除いた 3,582世帯
調査票の分析 か らは,生活保護適用の有無が不明だった 1
中 3,487世帯つま り約 97%が生活保護 の適用を受 けてお らず,適用 されているのは 95
世帯つま りは約 3%であるとい う結果が出た。 この適用率が低いのか高いのかは,沖縄全
体の生活保護適用率 と比較す る必要があるが,行政主席官房情報課 『
1
957年度版琉球要
・31・
「
移 民研究 」 第 6号
2
01
0.3
覧』(
琉球政府 ,1
957年)に記載 されている全琉球世帯数 1
63,1
82戸を分母 とし,生活保
護 を受 けている世帯 8
,
6
00戸 59)を分子 とす る と,その適用率は約 5%となる。ここか ら
サイパ ン島引揚者 の生活保護適用率 は全体 と比べて低 い傾 向にあるかあるいは全体 と大
差ない とい うことが指摘で きる。
3.調査票 の分析結果
本節では これまでの分析結果 を総括 し,そ こか ら導 き出 されたサイパ ン島引揚者 の生活
実態か ら彼 らが再移民要請活動 を支持 した理 由を改めて考察 したい。
サイパ ン島引揚者世帯主 3
,7
3
0人分の調査票分析か ら,農業従事者が半数以上を占め
るとい う職業分布や生活保護 の適用率は,沖縄全体の数値 と大差ない とい うことがわかっ
た。この結果か ら,サイパ ン島引揚者 が他の沖縄住民 と比べて著 しく困窮 していた とは考
えづ らい。 また約 9
7%のサイパ ン島引揚者が生活保護 を受 けていなかった とい う数値か
ら,彼 らが公的な立場 か ら必要最低限の生活以上であった と見な されていた とい うことが
分か る。
つ ま りサイパ ン島引揚者 が戦後沖縄 で生活す ることは 「
豊か」 な ものではないに しろ可
能 であ り, 1
95
3年の調査 で南洋群 島引揚者の半数以上の者 が生活程度を 「普通 」 とした
彼 らの現状認識 も,調査票か ら明 らかに した生活実態 と対応 してい る とい うことができる。
全財産を喪失 した うえ,外地で築いた地位や人脈 な ども失 った引揚者 とい う特殊の事情
を背負 っていたに も関わ らず,それが他 の沖縄住民 との大 きな生活程度の差 に繋が らなか
った理 由は,彼 らが引き揚 げた先が, 日米の地上戦 によって社会的に も経済的にも徹底的
な破壊 に晒 され,さらに米軍 占領下 とい う特殊 な状況か ら戦後が始 まづた沖縄 であった と
い う事情 によるだろ う。 こ うした点は,東京や神戸な ど大空襲を受 けた地域や広島 ・長崎
といった原爆被害 を受 けた地域 を除 き,徹底的な破壊 を受 けるこ とな く敗戦 を迎えた本土
地域- と引き揚げていった外地 引揚者 の状況 とは大き く異なる点である。
ではなぜ必ず しも困窮 していたわけではないにもかかわ らず ,9
4
%もの南洋群島引揚者
が,ある程度生活ができた沖縄 か ら出て,再移民を望んだのか とい うことが再び問題 とな
って くる。
ここで注 目したいのは,サイパ ン島引揚者 の多 くが米軍基地建設 のための土地接収の影
響 を最 も大 きく受 け,耕地面積 は最 も少 な く,これ によ り農業収入 も最 も低い地域であっ
た中部地 区に集任 していた とい う点である。前述 した数値 か らも分かるよ うに,サイパ ン
島引揚者 の多 くが農 業経営 とい う観 点か らみ る と沖縄 の中で も最 も厳 しい状況におかれ
ていた。それ は 「
豊かな」南洋 の状況 とは似て も似つかない状況であっただろ う。おそ ら
く彼 らは,職業はなん とか確保 でき,当面は暮 らしていけるとして も,それ らに対 して不
満や不安感 を持っていた。そ うした不満 ,不安感 を解消す るために,再び 「
豊かな」 南洋
・32-
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
-渡航す ることを求めたのだ と思われ る。第 Ⅰ章で も用いた 「
南洋帰還者調 」 か らも,渡
.
5%が農業や水産業 といった,かつての 「
豊か」 な南洋時代 に就い
航 を希望す る者の 52
ていた と思われ る,第 1次産業-の就業 を希望 していたのだった。
そ して も う 1つは,基地労働者 としての生活不安である。生活費の補填のため,サイパ
ン島引揚者 もなん らかの形 で兼業 していた と思われ るが,地域的な状況か ら見て,米軍基
地労働者 として働 いていた者 も多かっただろ う。た とえ本人が働 いていなかった として も,
家族な どが米軍基地関連 で働 いていた可能性 は高い。米軍基地経済に依存 した歪な経済復
興を遂げる沖縄 の中で,生活 してい くことはできるものの,このまま基地労働者 であ り続
けた ら自分たちに未来はない といった不安感,そ して地に足 をつけた生活 として語 られ る
移民先での農業経営-の希望は,移民促進大会で も繰 り返 され る言説 である。
そ して特 に 1
953年 当時には彼 らに関連す る 2つの土地問題が発生 していた ことも指摘
したい。その土地問題 とは,新たな土地接収問題 と割 り当て土地問題である。
多 くのサイパ ン島引揚者 が居住 していた沖縄県中部地区は米軍基地が集 中 していたが,
そ こに住んでいるとい うことは,米軍によってわずかな土地 さえいつ奪われ るかわか らな
い とい うよ うな状況に晒 され ていた とい うことである。
そ して も う 1つの土地問題 とは, 1
950年の土地所有権の認定によって問題化す ること
となった割 当土地に関す るものである。それ らの土地は,前述 した よ うに土地の所有権 と
は関係 な く割 り当て られ たが, 1
950年 に開始 された土地所有権認定の結果,割 当土地利
用者 が所有者 か ら土地譲渡の請求 を受 けるケースが方々で見 られ るよ うにな り社会問題
化 していった。結局,膨大な数 にのぼる土地所有権のない割 当耕作者 を,所有権 を盾 に駆
逐す ることは事実上不可能である し,実行 したな らば社会的混乱 は必須だったため●
,割 当
地耕作者 を保護 しつつ も,土地所有者の所有権行使 に対 して も一定の条件でこれ を認 める
方向 となった 60)。この米軍の施策 によって行われた土地割 当は,敗戦直後 においては引揚
者や沖縄住民の生活 の建 て直 しに大 きな成果 をもた らした ものの, 1つの土地 に対 して,
所有者 と耕作者 が異なる とい う不安定な状況をつ くることとなった。
以上の よ うにサイパ ン島引揚者 は米軍による土地接収問題 そ して割 当土地問題 とい う 2
つの土地問題 に関係 し,土地 に関 して極 めて不安定な立場 にいた と考 え られ る。こ うした
状況の中で南洋群島引揚者 の 94%がかつての居住地-の再移民 を希望 したのである。
Ⅳ.戦後沖縄社会への定着 -
「引揚者 」か ら 「
沖縄県民」へ
1.再移民要請活動の停滞
帰還者会 は 1
953年 に調査結果 を提 出 した後 も,引き続 き積極的に再移民要請活動 を行
958年 には米国民政府か
っていったが,その後大 きな進展 はなかった。そ して とうと う 1
ら琉球政府-南洋群島-の再移民不可の回答がもた らされ ることとなった。米国民政府 は
ー33-
「
移 民研究」第 6号
201
0.3
「
1.〔旧南洋群島が〕 国連 の信託統治領 で米国の一存だけでは解決 できない。 2.米国国
務省 が管理 し現住民の福祉 を考慮 している。3.海軍基地 は国務省 〔
ママ〕管轄下である。
4.沖縄人 を許せ ば 日本か らの進 出 も考 えられ る 61)
」 とし,旧南洋群島-の再移民は困難
であると琉球政府 に通達 したのである。
この再移民不可が決定 された米国側 のプ ロセスについては,この論文で明 らかにす るこ
とは難 しい。戦後 ミクロネ シア と呼ばれた旧南洋群島は,米国の信託統治下に置かれ,核
実験 な どの軍事戦略の地 として使用 されていたため, 1
96
0年代 まではアメ リカ人 を含む
一般外国人の渡航 が制限 され るな ど外部か ら遮断 され る状態が続いていた 62)
。
1
96
3年 に
ワシン トンに提出 され た ソロモ ン レポー ト 63) による と,米国による信託統治は明確 な 目
的をもたない唆味な ものだった とい う 64)。今泉が指摘 した よ うに,旧南洋群島-の再移民
は米国による ミクロネ シア政策 との兼ね合いの中で最終的 には実現 しなかった。また一方
で沖縄社会 において も,土地闘争の終息 とい う状況の変化があ り,こ うした変化が海外移
民に よってその批判 の矛先 をかわそ うと した米 国民政府 の戦略 に影響 を与 えた可能性 も
考 え られ るだろ う。
1
95
8年 の この回答以降, 旧南洋群 島-の再移民要請活動は豚着 していった。 も し南洋
群島引揚者 が,経済的な理 由だけで再移民を希望 していたな らば,その 目的を達成できる
他の移民先 を選んだだ ろ う。 しか しなが ら,最終的にそ うは しなかった。つま り,移民で
きるな らば どこで も良かったのではな く,かつて居住 した南洋 だったか らこそ,彼 らは移
民を希望 した とい うことだろ う。
また南洋-の再移 民要請活動の進展 を待っている間に,南洋群島引揚者 も年 をとり,吹
第に再移民が現実的な選択 ではな くなっていった。既 に沖縄社会 に定着 している若い移民
2世世代 に とって も, 旧南洋群 島-の再移民は魅力的な選択肢 とな り得ず,その活動を引
き継 ぐことはなかった。
このよ うな移民熱 の低下は,南洋群 島引揚者 だけではな く, 1
960年代以降 日本本土の復帰運動 に大 き く傾 いてい く,
沖縄社会全体 も同様であった。1
95
0年には人 口の約 24%
が移民を希望 していたのに対 し,
既に
1
957年の時点で人 口の 1
0%しか移民希望者 はいな
かった 65)。日本本土-の復帰が現実味 を帯び,本土-の出稼 ぎ とい う選択肢が現れ たこと
によ り,敢 えて言葉や生活習慣 が全 く異なる海外 に移民す る必要性 がな くなったのだった。
そ して
1
966年 には本土復帰 に先立 ち,沖縄住民の海外移住及び渡航 に関 しては,米国
ではな く日本政府 の責任 で行 われ ることにな り,米 国民政府 との共 同歩調 で勧 め られてき
た沖縄海外移民事業が,完全 に 日本政府- と移管 された。 この際 に,琉球政府 は旧南洋諸
島-は進 出できない事情がある として,別地蟻-の移民 を促進 していきたい 旨を 日本政府
に伝 えてい る 66)0
1
9
48年 か ら官民一体 とな り実現 を 目指 した旧南洋群島-の再移民であ
ったが, この時点で既 に琉球政府 は同島-の再移民を断念 していた ことが窺われ る。
・34・
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
2. 「
遺族 」 としての戦後
旧南洋群島-の再移民を 目的 とした帰還者会は 1
958年の同島-の再渡航不許可の返答
以降,その活動が停滞 していった。同会の 目的が達成不可能 となった今,活動の停滞は当
然 といえよ うが,さらに再渡航要請活動の先頭 にたっていた帰還者会会長仲本興正が体調
を崩 した ことも,その ことに拍車をかけた よ うである。
こ うした中,帰還者会の活動 と入れ替わるよ うに して 1
958年 には 「
外地 よ り引揚げた
者 の福利 と厚生を図 る 67)」ための沖縄外地引揚者協会 (
以下引揚者協会)68) とい う新たな
引揚者 団体が結成 され,在外資産獲得運動に加 えて,海外墓参実現 に向けて 日本政府並び
に米軍-の陳情活動を展開 していった。
引揚者協会が帰還者会 とは異な り,引揚げによって生 じた困難 な状況 に対す る補償 を 日
953年 の戦傷病者遺族援護法が沖縄 に
本政府や琉球政府 に対 して求 めていったのには, 1
適用 され たことによ り,・
日本政府か ら補償 を得 る とい う選択肢が現実的 となった ことが背
景 として考 え られ るだろ う。在外資産補償運動の結果,南洋群 島引揚者 を含む沖縄 の引揚
者達は,戦後初 めて 「
引揚者 」とい う特別 な括 りの中で援護対象 となっていったのである。
しか し,引揚者協会の活動 を振 り返 ると,それ ほ どの求心力があった とは思われず,荏
外資産補償運動が停滞 してい くにつれ て,引揚者達の協会-の関心 も低下 していった よ う
だ。そ して再移民 とい う目的を失 った後,南洋群島引揚者 たちを強 く結びつけたのは,「
引
揚者 」 としてではな く, 「
地上戦体験者 」 そ して 「
遺族 」 とい う点だった。そ して, この
遺族 」 である とい うことが,再移民の道 を閉 ざされ た南洋群 島引揚者
「
地上戦体験者 」 「
の戦後沖縄社会 における定着 を促進 させた一つの要因 ともなったのである。
南洋群島引揚者 の多 くが体験 したサイパ ン戦 ・テニアン戦での 「
集 団 自決 」や 日本軍に
よる沖縄移民の虐殺 といった住民犠牲の様相 は,沖縄戦のそれ と共通 していた。その共通
性 によ り,南洋群島引揚者 は 自らを沖縄戦体験者 と連なる地上戦体験者 として,そ してそ
の遺族 として強 く認識 し,沖縄戦体験者 による遺族活動 に合流 してい くのである。
こ うしたサイパ ン ・テニアン戦体験者 が持つ沖縄戦体験 との共通性 は,戦後沖縄社会の定着 に大 きな役割 を果た した と思われ る。それ は沖縄戦体験 を持 たない者 は, うちなんちゅではない と感 じるほ どに,戦後沖縄社会のアイデ ンテ ィテ ィー構築に沖縄戦体験が
大 きな影響 を与えていたか らである。ある台湾引揚者 は,戦後沖縄 を生 きてい く中で,こ
の沖縄戦体験がないゆえの生 きづ らさがあった と語 る 69)。米軍統治に対す る抵抗や平和活
動な ど戦後沖縄社会が取 り組 んできた活動の根底 には,沖縄戦体験があった。沖縄戦体験
を持たない ものは,当事者 としてそれ らの活動に関われない一方で,南洋群島引揚者 はた
とえ長 く沖縄 を離れて生活 していた,あるいは南洋で生まれ,戦後初 めて沖縄で生活 をは
じめた として も,サイパ ン ・テニアン戦 とい う地上戦体験 を持 っているとい うことは, う
ちな-んちゅとしての 「
資格 」を満 た してお り,戦後沖縄社会が取 り組 んできた活動に当
・35・
「
移民研究」 第 6号
201
0.3
事者 として参加できたか らである。
また,南洋群島引揚者 の遺族活動 を沖縄戦の遺族活動-連動 させていった,そのひ とつ
の要因になったのが,戦傷病者戦没者遺族援護法 (
以下援護法)の適用である。 1
95
7年の
援護 法改正時 には,一般住 民であって も,「
戦闘参加者 」 に該 当すれ ば同法 を適用す るこ
ととしたが,その住民被害の類似性 によ り,サイパ ン ・テニアン戦遺族に対 しても同様の
措置が講ぜ られた。沖純戦遺族援護 の根幹 となる援護法 に南洋群 島引揚者 も含 まれ ること
になった ことで,沖縄戦遺族 とサイパ ン ・テニアン戦遺族 との同調 をよ り一層促 していっ
た と思われ る。
また,沖縄 では, 1
965年 に 「
慰霊 の 日」 が
6月 2
3日- と改め られて以降,遺族 に と
96
3年 に那覇市識名霊園内に南
って同 日が特別な意味 を持つ よ うになるが,帰還者会 も 1
洋群島沖縄県人戦没者並びに開拓殉難者慰霊碑 を建立 して以降, 1年 に 1回 「
慰霊の 日」
である 6月
2
3日にあわせ て,式典 を行 うこととしたのである。
記録 」 とい う分野で も南洋群島引揚者 は沖縄戦 の遺族活動 に組み込ま
さらに,「
記憶 」 「
れていった。 1
97
0年後半以降に展開 した沖縄戦記録活動の中で,サイパ ン戦 ・テニアン
戦は断片的に記録 され始めたが,ここで も住民被害 とい う両者の共通点が強調 されたこと
によ り,サイパ ン戦は沖縄戦 の記憶の中に大 き く組み込まれ るのである 70)。
また沖縄 では,1
982年 の教科書検定で 日本軍による沖縄住民虐殺 に関す る記述が削除
され るとい う事態 に対 して,戦争の事実が埋 もれ て しま うこと-の強い抗議か ら,自らの
戦争体験 を書 き残す活動が活発化 したが,サイパ ン ・テニアン戦体験者 もそれ らの活動に
連動 し, 1
986年 にサイパ ン戦体験者 の戦争体験 を中心 とした体験記録集 『サイパ ン会誌
想 い出のサイパ ン』を発行 した。ちなみ にサイパ ン戦の記憶が沖縄戦 の記憶 に組み入れ ら
れているのを象徴す るかの よ うに,『サイパ ン会誌』が発行 されたのは,沖縄戦終結の 日
とされ る 「
慰霊の 日」 つま り 6月
23日であった。
法的に も,慰霊活動の面で も,そ して記憶 ・記録の面で も,サイパ ン ・テニアン戦体験
者 と沖縄戦体験者 は連動 してい くことによって,遺族 としての一体感 を強めていったのだ
った。
3.帰還者会の再組織化 と活動 の転換 一移 民 2世 に よる慰霊活動
帰還者会 は, 1
96
3年 の慰霊碑建立以降,年
1回慰霊の 日にあわせた慰霊祭 を行 うが,
それ は再移民実現 を 目指 して大 きく盛 り上がったかつての活動 とは異な り,会員同士の交
流が主な 目的 とした穏やかな活動であった。 しか し,この慰霊祭 を通 じた会員 同士の交流
が,その後新たな組織化 を促す ことにな り,そ してその担い手は再移民要請活動を主導 し
た移民 1世世代か ら移民 2世世代- と移 っていった。
この移民 2世達の活動は,彼 らの生活が安定 し始 めた
-36・
1
96
0年代 に,帰還者会 とは別組
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
織 になる各々の出身学校 の同窓会結成か ら始 まった。 1
96
0年初 めには南洋庁サイパ ン実
後 にテニア ン会の母体 となるテニア ン専修学校の同窓会
業学校やサイパ ン高等女学校 71),
964年
が結成 され,学校単位以外で も,南洋群島引揚者が最 も多かった具志川市では, 1
に同市出身の引揚者 による南十字会が結成 されている。
以上の よ うに,沖縄 での生活が落 ち着 くとともに南洋群島引揚者がそれぞれに親交を潔
めなが ら,那覇市識名霊園での慰霊祭 を中心 とした遺族活動 を続 けていったのである。
そ して帰還者会の活動 に大 きな変化が現れたのは, 1
97
0年代に入 ってか らであった。
移民 2世世代 を中心に,南洋墓参 を 自分たちの手で行お うとい う声が上が り始 め,ここか
ら南洋墓参の主催 実現 とそのための各 島の会結成 とい う新 しい動 きが起 こって くるので
969年の 日米 による ミクロネシア協定
ある。移民 2世たちの こ うした発案 の背景 には, 1
締結 によ り,それまで立ち入 りが制限 されていた ミクロネシア-の 自由な渡航 が許可 され
ていた ことがある。 この協定締結以降, ミクロネシア-の 日本の遺骨収集団や慰霊団,観
光客,漁船員な どの渡航が増加 していった
72)が,南 洋墓参 自体は, こ うした涜れの中で
968年 に引揚者協会 による陳情の結果実現 していたのである。
既に 1
1
97
3年か らは,主催が引揚者協会か ら沖縄県遺族連合会,沖縄県,沖縄県県議会- と
移 り,南洋墓参は続 け られていたが 73), 1
970年代後半にはいって,南洋群島引揚者たち
はこの墓参 を 自らが行 うため,その組織 固め として南洋群 島の各島の会の結成 を始 めた。
前述 した よ うに,こ うした動 きの中心 となったのは,引揚 げか ら既 に 3
0年が経 ち,4
0代
あるいは 5
0代 となった移民 2世世代 の南洋群島引揚者 であった。
1
978年 には,テニアン会が結成 され 74),1
980年 にロタ会,1
982年 にサイパ ン会,1
984
年にパ ラオ会が,そ して 1
986年 にボナペ会が結成 された。 この よ うに島 ごとの組織化が
980年か ら南洋群島慰霊墓参は沖縄県,沖縄県遺族連合会 と並ん
進 め られ ると同時に, 1
で帰還者会が主催者 とな り,以降南洋群島墓参に組織的に関わってい くこととなった。
1
982年 に結成 されたサイパ ン会の会則 ではその事業 目的を 「
会員相互の親睦 と友愛 を
深 めるとともに相互に発展す ること 75)」 とし,その事業 と して 「
戦前,戦時中にわたる開
拓殉難者及びサイパ ン島海陸 において太平洋戦争の犠牲 とな られた方々の慰霊 76)」を挙げ
てい る。他 の会 もサイパ ン会 と同様 に,会員相互の親睦 ・発展 を 目的 とし,事業 に慰霊 を
挙げている。そ して 1
983年 には,1
95
4年 に再移民を 目的 として改定 された帰還者会の
会則が,戦没者並びに開拓殉難者 の慰霊 と旧南洋群島 との親善友好 を 目的 とした会則- と
改定 された。帰還者会 は, この会則 の変更によって名実 ともに慰霊組織 として再出発 し,
その活動 を結成 当時の再移 民要請活動か ら慰霊事業- と大 き く転換す ることとなったの
である。
・37・
「
移民研究」第 6号
2
01
0.3
Ⅴ.おわ りに
南洋群島引揚者 は,引揚 げに よる過剰人 口問題 と米軍 に よる土地接収問題 を背景 として,
戦後再び 旧南洋群 島-の移 民 を 目指 して活動 を展 開 した。本稿 ではその理 由を, 「
引揚者
検証 した結果,その理 由は,
在外事実調査票 」とい う新 しい資料 を用 いて生活実態 を分析 ・
経済的な困窮 よ りも,米軍基地が集 中す る中部地 区-の集住やそれ ゆえに困難 を極 めた農
業経営,そ して米軍基地労働 ,それ らによる生活不安 にあった と指摘 した。
しか しなが ら,沖縄全体 をも巻 き込んだこの旧南洋群島への再移 民要請活動は,米国の
ミクロネ シア戦略 との兼ね合 いで最終的に実現せず,一方再移民 を支持 した移民 1世世代
自身 も活動が進展 しない中で,高齢化が進み,米軍基地経済 とい う不安定要素があるもの
の, 日々生活 を成 り立たせ るこ とが可能 な中では,困窮か ら逃れ るための唯一の方法 とい
って も過言ではなかった戦前 の状況 とは異な り,移民をあえて再選択す る絶対的な必要性
がなかった と思われ る。
また,過剰人 口問題 の解決や米軍基地経済か らの 自立を 目指 して,旧南洋群 島-の再移
民要請活動 を支援 した沖縄社会 も,日本本土復帰 による米軍基地経済か らの脱 出 とい う新
しい選択肢 が現れ た ことに よ り,再移 民熱は急速 に低 下 してい くことになった。そ して,
帰還者会 も移民 1世 を中心 とした再移民 を 目指す団体か ら,移民 2世 を中心 とした慰霊活
動 を行 う団体- と変化 していったのだった。
南洋群島引揚者 の戦後 を明 らかにす ることは,引揚げによって,社会的 ・経済的な基盤
を全て失 うとい う特別 な事情 を持 っていたに もかかわ らず,南洋群 島引揚者 たちの戦後が,
他 の沖縄住民 と同 じスター トライ ンか ら始まった とい うことそれ 自体が,沖縄社会を徹底
的に破壊 した 日米 による地上戦,そ してそれに続 く米軍 占領 とい う戦後沖縄の姿を改めて
浮 き彫 りにす るものだった とい える。
戦後沖縄社会の形成 には,南洋群島引揚者以外 にも,台湾や フィ リピン,中国な ど様々
な地域か らの引揚者 たちが深 く関わっていた。今後 こ うした引揚者 とい う視点か ら,戦後
沖純社会 を照射 しなおす ことで,新 たな姿が見えて くるのではないか と思 う。
また本稿 で使用 した引揚者在外事実調査票は,厚生省 によって全 国の引揚者 を対象 とし
た調査で使用 され た ものであるため, この調査票 を用いれ ば,戦後沖縄の台湾引揚者
77)
や フィリピン引揚者 は もちろんの こと,日本本土の引揚者 の生活実態 を明 らかにす ること
や,引揚者 間の生活実態の比較 も可能である。引揚者 の戦後の生活実態は,本稿で も明 ら
かな ように,所属す る各 々の社会 に大 き く規定 され てい るため,引揚者 とい う視点か ら研
究す ることによって,新たな戦後史 の一面が明 らかにな るだろ う。
・38・
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
付記
この論文は,2
007年 に一橋大学社会学研究科 に提 出 した修士論文 を加筆 ・修正 したも
のである。この修士論文 を作成す るに当たって,ご指導いただいた一橋大学大学院教授 中
野聡先生,一橋大学大学院教授吉 田裕先生に改めて感謝 申 し上げます。また調査 にご協力
いただきま した沖縄県福祉 ・援護課 な らびに琉球大学移民研究セ ンターの皆様,そ して南
洋群島引揚者 の皆様 にも厚 く御礼 申 し上げます。
注
1
)1
943年 には,96,670人 (
現地住民人 口 52
,1
97人)の 日本人が在住 していた。
2)沖縄 では 1
952年末までに沖縄本島を中心に約 17万人 (
本島人 口約 3
0万人)の引揚者
を受 け入れている。
3)安仁屋政昭 「
戦後の海外 引揚 げ」沖縄市企画部平和文化振興課 『イ ンヌ ミか ら 5
0年 目
の証言』沖縄市役所, 1
995年, 1
2貢。
4) 琉球文教局 『琉球史料第 四集』の中の 「
海外帰還者調 」 では地域別 の外地引揚者人数
,892人,フィ リピンが 5
,2
48人,台湾が 4,841人,朝鮮が 1
38人,
が南洋群島が 25
満州が 1
,966人 となってい る。
5) 今泉裕美子 「
南洋群島引揚者集団の団体形成 とその活動 一 日本 の敗戦直後 を中心 とし
(
て-」 『史料編集室紀要』 30号,2
005年。
6)ただ し,引揚者 は当座 の生活資金 として,引揚時に一般邦人 1人につ き 1
000 円とい
う制限つきの携帯金が許可 され,沖縄の流通通貨 と 1対 1の割合で交換 された。台湾
引揚者 はこの携帯金 の交換 ができなかったため,一時特別 な措置が講ぜ られたが, こ
れす らも社会事業の中では特異な事項だった とい う。琉球政府文教局 『琉球史料第五
988年,5貢。
集社会編 Ⅱ』那覇 出版 , 1
7)木村健二 「
引揚者援護事業の推移 」 赤津史朗ほか 『年報 日本現代史 1
0号』現代資料出
版,2
005年, 1
32貢。
8)中野育男 『米軍統治下沖縄 の社会 と法』専修大学出版局,2005年,52貢。
9)「
可動能力者 」 とは,1
7歳 ∼61歳の男女 を指 し,8歳以上 も しくは 4歳以下の子 ども
がいた として も,子守がいれ ば可動能力者 とされ た。 また非可動者 は 3歳以下の子持
ち,または妊婦,「
不具廃失者 」 とされた。
1
0)琉球政府文教局,前掲書,5貢。
ll)本土-の引揚者 に対 しては,厚生省や地方引揚援護局,恩賜財団同胞援護会な どによ
る援護 が行われていた。詳 しくは前掲木村 2
005を参照の こと。
1
2)新城俊明 『高等学校
琉球 ・沖縄史』編集工房東洋企画,2
38貢。
1
3)「
在外事実調査票 」 を集計 した結果,旧南洋群 島の中で最 も人 口の多かったサイパ ン
・39・
「
移 民研 究 」 第 6号
2
01
0.3
島か らの引揚者 の年齢構成 は ,1
946年 当時 にお いて沖縄 には少 なかった年齢層 であっ
た2
0歳 か ら 49歳 までの層 が最 も多 い こ とが明 らか にな った。
1
4)同会 の初代会長 である仲本興正 (
1
891
-1
968)
は,那覇市出身者 で,沖縄 で警察官 を
務 めた後 に,1
923年 に南洋庁 に出向 し,サイパ ン ・ボナペ島で警察官 を勤 めた。その
後 も同県県人会長 な どの要職 を務 めなが ら泡盛業,料 亭業,新 聞社 な ど事業 を拡大 し,
南洋群 島の有力者 となった人物 である。沖縄 -引揚 げ後 も那覇 の浮島ホテル を経営す
るな ど,著名 な実業家であっ冬。
1
5)那覇市市民文化部歴史資料室 『那覇市史資料編第 3巻 5』那覇 市市民文化部歴史資料
室,2
002年, 21
4頁。
1
6)今泉,前掲論文 , 2005年 , 1
6貢。
1
7)仲本興正 「
南洋移 民問題 の経緯 (
3)
」『琉球新報』 1
953年 12月 1
8日,朝刊。
1
8)安仁屋 ,前掲書 , 12貢。
1
9)1
948年 に引揚者 が主体 となって結成 され た。戦争 に よ り自然解 消 した沖縄海外協会
が再興 され た もので,移民事業 の促進 と民政府 との協力 ,移 民実現に向けての基礎調
査 ,移民 に対す る教育の付 与,海外諸 国 との連絡提携 な どが事業 として掲 げ られ た。
20)琉球政府文教局,前掲 書 , 1
08貢。
21)1
950年 1
2月 の国税調 査 では当時の沖縄 人 口は 69万 8,
827人 となってい る。 国際
協力事業団沖縄支部 『沖縄 県 と海外移住』 1
980年 , 63貢。
22)琉球政府文教局,前掲 書 , 1
08貢。
23)移民促進 大会 は,沖縄海外協会 の ほか,帰還者会 を始 め とした引揚者 団体 ,市町村議
長会,琉球商工会議所,社会大衆党,民主党 な ど様 々な団体共済 の元, 1
953年 に第 1
回, 1
957年 に第 2回大会 が開催 され た。
24)移民促進大会 の様子 につ いて詳 しくは,社 団法人沖縄海外協会 『雄飛』 (
琉球大学図
書館蔵)を参照。 また筆者 の修 士論文 では,移 民促進 大会 の言説分析 も行 ってい る。
25)雨宮和子 「ボ リビア沖縄計画移 民の 50年 」 山里勝 己ほか 『戦後沖縄 とアメ リカ ー異
文化接触 の総合 的研 究』琉球 大学 , 2
005年 ,336貢。
26)同上。
27)国際協力事業団沖縄支部 『沖縄 県 と海外移住』, 1980年, 62-63貢。
28)移民金庫法 とは,移民資金 が用意 で きない者 に対 して,必要 な資金 を貸 し付 ける法律
である。 ボ リビア移 民を念頭 において交付 され た ものだが, 旧南洋群 島 もこの法律 の
対象地域 になっていた。貸付金 の元金償還期 間は東 南 ア ジア ・南米 ・北米諸 国が 1
0年
間であったのに対 して,南洋群 島諸 島は 6年以 内 とされ ていた。この法律 は 1
960年 7
月 に解消 され てい る。
29)立法院議事録 に よれ ば,この調査依頼 はネ ブ ラスカ州選 出共和 党議員 のエー ・エル ・
・40-
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
ミラー (
Ar
t
hur・
Lewi
s・
Mi
l
l
er
/1
892-1
967)国内並び に島喚 問題委員 (
Commi
t
t
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l
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i
orandI
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ul
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f
ai
r
s
)委員長 が依頼 した ものであった。
30)仲本興正 「
南洋移 民問題 の経緯 (
3)
」『
琉球新報』 1
953年 12月 18日,朝刊。
31)『沖縄 県史資料編 17旧南洋群 島関係 資料』 (
2003)
0
32)同上。
33)一方沖縄側 では,軍用地問題 の解決策 として 旧南洋群島- の移 民が議論 されていた こ
とが,琉球政府立法院 の議事録 で判 明 してい る。1
955年 に琉球政府 立法院で議論 され
た 「
内南洋- の沖縄移 民送 出請願決議 」 において,西銘順二 は,軍用地の拡大 に伴 っ
て移民の問題 が考 え られ てい るだか ら, この決議案 は軍用地 問題 と関連 させ て作 り直
すべ きだ とい う主張を展開 してい る。「
第 6回定例第 8回内南洋 -の沖縄移民送 出決議
案 」『琉球立法院会議録』 目録番 号 032
71,沖縄公文書館蔵。
34)この 「引揚者在外事実調査票 」 は沖縄県福祉 ・援護課 に原本 が保管 され てお り,同課
協力の元,修士論文執筆 に当たって この調査票の転記 を行 った。
35)宮内久光 「
旧南洋群 島にお ける沖縄県人の世帯 と就業 一引揚者在外事実調査票 の集計
と分析 - 」 科学研 究費補助金基盤研 究 (
B)(
2)
研 究成果報告書 『旧南洋群島にお ける沖
縄県出身移 民 に関す る歴史地理学的研 究』 2
000-2003年 ,63-64貢。
36)なお修 士論文 では,戦前戦後 の職業移動 の様態 ,年齢別 の職 業分布 ,居住地域別 の比
較や分析 ,台湾 引揚者 との比較 な ども行 ってい る。
37)沖縄 県商工労働部 『沖縄 県労働 史第二巻一九五六∼一九六五年』(
沖縄 県,2
003年)0
38)3,730世帯か ら家事 207人 ,不明 302人,学生 30人,14歳 以下 3人 を引いた人数。
39)サー ビス業 の中に,医療 1
0人,飲食店 22人 を含 む。
40)行政主席官房情報課 『
1
957年度版琉球要覧』,行政主席 , 1957年 ,217貢。
41)特 に漁業関係者 が戦後農業- の転換 を余儀 な くされ たケー スが多い。
42)沖縄県商工労働部 「
第 1章 1
956年 (
昭和 31年 )
」『沖縄 県労働 史第二巻一九五六∼
一九六五年』沖縄 県, 2
003年 , 1
47頁。
43)旧南洋群 島-移民 には,沖縄 中部 に位置す る現在 の具志川 市 出身者 が多かった。
44)沖縄外地 引揚者協会 「昭和 32年 引揚者給付金等支給法 に基づ く受給者数 」 (
大嶺真
三氏所蔵)に よ り作成。 出典 :琉球大学法文学部 『戦後沖縄 にお ける台湾 引揚者 の生活
史』 (
琉球大学法文学部 ,2
002年 , 112貢)
45)「自作 」 とは,全経営耕地が 自己の所有地で,小作 は全経営耕 地面積 が借入地 に よる
もの, 「自小作 」 は所有地,借入地 の両方 を兼ねて経営 してい る ものである。
46)行政主席官房情報課 ,『1
9
5
7年度琉球要覧』, 1957年 , 218頁。
47)同上,217-218貢。
48)与那 国蓮 『戦後沖縄 の社会変動 と近代化-米軍支配 と大衆運動 のダイナ ミズム』沖縄
ー41・
「
移民研究」第 6号
2
01
0.3
タイムス社 ,2
001年 , 72-7
3頁。
49)北谷 嘉手納村 の 1戸 当た りの耕地面積 は 0.
9反 ,読谷村 1
.
9反 ,越来村 1
.
2反 ,宜
野湾村
1
.
8反 であった。
5
0)与那 国,前掲書 , 72-73頁。
51
)農業収入 の主 な ものは,甘藷収入 (
1
,2
88円),稲作収入 (
777円),畜産収入 (
587円)
な どとなってい る。
52)行政主席官房情報課,前掲書, 47貢。
5
3)同上書, 52頁。
5
4)同上書,47貢。
55)兼業農家 は兼業部 門の収入 の大小 によって,農業 を主 とす る第 1種兼業農家 と,農業
を従 とす る第 2種兼 業農 家 とに分類 できる。
56)与那 国,前掲書 , 75貢。
57)生活保護法は公布 と同時 に施行 され るが,実際 には生活保護 法 を運用す る基本方針や
保護の実施機 関 と しての福祉事務所 が整備 され た 1
95
4年後 半か ら制度 が動 きだ した。
詳 しくは, 中野育男 『米 国統治下沖縄 の社会 と法』専修大学 出版 ,2
005年 ,65頁。
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2
0
59)行政主席官房情報課,前掲書,326頁。 この 8
,6
00戸 とい う数字 は 「第 2表 生活
956年 あ るいは 1
957年
扶助費家族構成類型別調 」か らとった。この統計上の戸数が 1
の何月 の ものかは不 明であ る。 しか し,「
第 3表
保護 の種類別扶助人身 ・割合及び被
1
956年 6月 の生活保護法被保護者 実数 が 24,
642人 となってい る。こ
の人数 が前述 した 「
第 2表 」の人員人数 2
4,566人,戸数 に して 8,6
00戸 に近いため,
保護人員 」 では
1
95
6年 6月 当時 の被保護 戸数 もお よそ同等 の 8
,6
00戸 にな る と考 え, これ を採用 し
た。
6
0)松 田賀孝 『戦後沖縄社 会経 済史』東京大学 出版, 1
981年, 1
57貢。
61
)琉球政府文教局 ,前掲 書 , 1
08頁。
62)′
J
、
林泉 『アメ リカの極秘文書 と信託統治 の終蔦
ソロモ ン報告 ミク ロネ シアの独立』
東信堂, 1
99
4年 , 1
5貢。
63)ソロモ ン レポー ト(
正式名 称 :
太平洋信託統治領 -の合衆 国政府調査団報告書)は 1
96
3
年 にハーバー ド大学 の A・ソロモ ン教授 に よって行 われ た ミク ロネ シア現地調査 に基
づ くものである。
6
4)小林 ,前掲書 , 53貢。
65)「一九五七年九月 移 民希 望者調査結果 統計基準課 」ROOOO8928
B,沖縄県公文書
館所蔵。
66)「移住事業 の本 土 との一体化 について 」ROO5
348
B,沖縄県公 文書館所蔵。
・42-
戦後沖縄社会 と南洋群島引揚者 一引揚者団体活動に注 目して- (
大原朋子)
67)「
沖縄外地引揚者 協会関係綴 」 沖縄県公文書館所蔵。
68)この沖縄海外 引揚者協会 の前身 は,1
955年 に設立 され た在外資産獲得期成会である。
この期成会 は在外資産補償請求運動 を展開す るために結成 され た。初代会長 は,南洋
群島帰還者会会長 で もある仲本興正であった。1
957年 に引揚者給付金等支給法が制定
されたが,在外資産その ものの補償 には当た らない として さらに この間題 の解決 を 目
指 しての活発 な運動- と展開 していった。沖縄の期成会 もこ うした動 きを受 けて,1
958
年 に沖縄海外引揚者協会- と発展的に組織 を解消 した。
69)ある台湾引揚者 は,戦争体験 を持 っていない ことに対す る負 い 目と感 じてい る といい
次の よ うに述べてい る。「
戦争体験 を していない人 と,沖縄 で生 き残 った人 の こっち (
※
自分の胸 に手 をあてて)の中は も う,違 うんだな あ。 そ うい うい ろんな苦 しみ を体験
しなかったために罪悪感 がある。 (
中略)申 し訳 ないって気持 ちよね。苦労を ともに し
なかったってい うね。 (
中略)ま あこれ は外地,外地引揚 げ者 はみんなそ うい う気持 ち
を持 って る。」
70)筆者 は,津 田塾大学学芸学部国際関係学科 に 2005年 に提 出 した卒業論文 『戦後沖縄
にお けるサイパ ン戦体験記録活動の展開- 『サイパ ン会誌』 の分析 を通 じて』 でサイ
パ ン戦体験記録活動の展 開を考察 した。
71)新沖縄 フォー ラム 『け- し風 32号』新沖縄 フォー ラム刊行会議 ,2001年 ,23貢。
72)桜井均 『ミクロネ シア ・リポー ト非核 宣言 の島々か ら』日本放送 出版協会,1981年,
206-207頁。
73)財団法人沖縄県遺族連合会 『還 らぬ人 とともに』若夏社 , 1982年,234貢。
74)沖縄テニアン会 『記念誌 はるかなるテニアン』テニア ン 2001年, 279貢。
75)サイパ ン会誌編集委員会 『 サイパ ン会誌心の故郷サ イパ ン第二号』サイパ ン会,1994
年, 1
0貢。
76)同上。
77)台湾 引揚者 の戦後 については,琉球大学法文学部 『
1
996年度社会学実習 Ⅰ・Ⅱ報告
書 :沖縄 にお ける台湾引揚者 の生活史』琉球大学法文学部 , 2
002年 を参照。
(
おおは ら
ともこ ・財団法人 日本漢字能力検定協会)
・4
3・
r~a:iiJf~J
m6 %
2010. 3
Repatriated People from Micronesia in the Postwar Okinawa Society
Tomoko OHARA
The Japan Kanji Aptitude Testing Foundation
(The contemporary history in Japan)
Keywords: Repatriated People from Micronesia the Postwar Okinawa Society, Immigration to
Micronesia, The war bereaved, The battle in Saipan
This paper aims to argue about repatriated people from Micronesia (former administrated islands
by Japan in the pacific sea) in the postwar Okinawa society, especially focusing on a group made up to
request of re-emigration to Micronesia. A Group, called "NANYO GUNTO KIKANSYA KAI
(Returners society' from Micronesia) ", organized by repatriated people in Okinawa 1949. It set up its
purpose to re-emigrate to Micronesia and exploit resources of it by Okinawa people including
themselves, thereby solving the population problem in Okinawa. This group, however, has changed its
main activity from urging re-emigration to memorial activity for war victim. The reasons of this change
are main issue of this paper.
The first issue is the reason why repatriated' people strongly wished re-emigration. This paper
approached it by analysis on a survey report by Japanese Ministry of Health and Welfare about living
condition of repatriated people. It showed that they are not in poorer state of the economy than the other
Okinawa People, so economic poorness can not be regarded as persuasive reason necessarily. Rather,
re-emigration request came from conflict with the US military base. Their residence districts were the
area that many military bases -located, so they were suffered from some anxieties about, for example,
condemnation of land etc. Re-emigration was an efficient idea to solve that sort of problems at one time
for them.
The re-emigration project was, however, not achieved finally because of US Military strategy
about Micronesia. The Aging of first generation, who were leading people of previous emigrants and
also ardent advocates of re-emigration, encouraged this trend. Additionally, Okinawa's reversion to
Japanese administration let them lose motivation. In this way, commit of memorial activity for war
victim became main issue for KIKANSYAKAI conducted by new generations instead of re-emigration
request.
·44·