A―10 「火葬」の起源

A―10
「火葬」の起源
この飛鳥が我国の火葬発祥の地であること知っていますか?
野口王墓
檜隈大内陵: 天武天皇・持統天皇陵
*火葬の始まりは?
文武四年(700)に唐留学僧・道昭(どうしょう)が遺言で火葬されたことが「続日
本紀」に「弟子等遺教を奉じ栗原に火葬す、天下の火葬此れより始まる也」と記されて
いることから知られる。
この「栗原」は明日香村栗原の地があてられ高松塚古墳とキトラ古墳の中間地点にあ
る栗原寺跡が火葬候補地です。
この記事に続いて大宝二年(702)条に持統太上天皇を飛鳥岡に火葬したと記され、
更に慶雲四年(707)条に文武天皇も火葬されたとあります。
*なぜ火葬したの?
我国では昭和時代まで土葬の習慣が残されていたように宗教的観念から火葬への変
遷は画期的な事件であったはずで一般には仏教の影響によるものとされています。
しかし飛鳥史に詳しい網干善教先生は新羅仏教と王室の関係説を採っており、「新羅
本記」によると半島統一新羅を達成した第 30 代文武王(681)から第 54 代景明王(92
3)まで火葬による薄葬を行っており、そのキッカケは新羅僧・義湘(ぎしょう)が唐の
薄葬令(はくそうれい)に習い火葬にしたこととされている。
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留学僧・道昭も玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)法師から法相宗(ほっそうしゅう)
を学んでいた頃に義湘と交流があり、唐の薄葬令による火葬の情報を文武朝に持ちかえ
り自らが火葬第一号になったと考えられ、更には天武朝では統一新羅との交流が密接に
なり毎年新羅使が訪日しており新羅王室の火葬を伝えていたはずとした網干説に説得
力があります。
*天皇まで火葬したの?
我国では古代の大王の時代から大王が歿すると殯宮(もがりのみや)を建てて故人の
遺業を偲んだ後巨大古墳に土葬するのを常としてきており、この文武朝は古墳時代の終
末期にあたり横穴式石室に贅(ぜい)を凝らした古墳に土葬していた。
大化改新で薄葬令が出されているがこれには大王は除外されており天智や天武も立
派な八角墳に土葬されている。
持統が天皇として初めて火葬にされたが文武、元正で途絶え平安時代 842 年に嵯峨天
皇で再開されたとするが、天皇は陵墓に土葬するのが当然と考えられていた当時に火葬
されたのは謎であり、持統天皇の強い意思が働いたものと考えられ遺言で火葬とした後
天武陵に合葬されている。現在の天武・持統陵は宮内庁指定陵墓で発掘調査出来ないが
それ以前の調査資料(阿不幾乃山陵記)があり石室内に天武の棺と持統の蔵骨器が並べ
られている。
持統は天武の遺志を継いで律令国家体制確立推進のため唐の皇帝の事例や統一新羅
王室の火葬に倣い薄葬令の徹底を率先垂範で示したのではなかろうか?
*火葬は普及したの?
高僧・道昭に引き続き天皇の火葬が官人社会に影響を与え、八世紀以降の火葬による
薄葬の普及につながって行くことになったのだろう。
持統八年(694)に遷都した藤原京は京内での埋葬を唐・長安に模して禁止したため
火葬が流行し、道教思想による京の東北=艮(うしとら)にあたる初瀬山が藤原京の葬
送地となり、万葉集の挽歌に登場するが
「こもりくの 初瀬の山の 山の間に いさよう雲は 妹にかあらむ」
に詠われた雲は火葬の煙のことであり、初瀬山の丘陵地帯で金銅製蔵骨器が多く発掘さ
れており、初瀬川の川原が庶民の葬地の可能性がある。
火葬は墓地が小型化されることもあり識別のために墓誌(ぼし)を収める習慣が発生
したと考えられ、我国の古墳では出土例の僅かな墓誌が火葬墳では十数例発見されてい
る。火葬の墓誌として著名例は太朝臣(おおのあそん)安万呂、威奈眞人(いなのまひ
と)大村、行基(ぎょうき)等がある。
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<註>
どうしょう
道 昭 :孝徳朝の遣唐使として鎌足の長男・定恵と共に学問僧として入唐、三蔵法師
に師事、天智朝には帰国しており天武朝で高僧として迎えられ東南禅院に住ん
だ
「続日本紀」:日本書紀は持統天皇で終わり、文武天皇からスタートする国史
持統太上天皇:持統が譲位して文武に皇位を継がした後、太上天皇として文武を輔佐
した
統一新羅:半島の百済は 660 年滅亡し、高句麗も 668 年に滅亡後唐の植民地化に対
抗して唐の勢力を追出し半島統一に成功し 936 年まで続いた
八角墳:終末期古墳に出現する舒明系皇族の特徴ある古墳で封土を八角にしている
大化改新で薄葬令:大化改新で王以下の位に応じて墓のサイズや作業人工数を制限し
た
太朝臣安麻呂:「古事記」を編纂した人物として記されている
行基:仏教を貴族のモノではなく民衆に普及させ、社会事業を展開した天平期の高僧
阿不幾乃山陵記:1235 年の高市郡村人の掘削行為記録が 1880 年に発見
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