⑥飛鳥の塼仏

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飛鳥の塼仏
塼(せん)とは粘土を雌型の原型に押し当て写し取ったうえ、乾燥させて窯で焼結させ
た浮き彫り状のタイルです。
中国では周時代に塼が建築材として用いられ、漢時代に特に発達した。
塼の表面に仏像をあしらったのが塼仏で最古の遺品は北魏からとみられ、斎・北周・隋・
唐の遺品が多い。
川原寺裏山遺跡出土
三尊塼仏
明日香村埋蔵文化財展示室 収蔵品
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*日本の塼仏は何処から来たの?
発祥は中国で現在製作年代が明らかなものは東魏の興和 5 年(543)銘・観音塼仏、
唐の貞観元年(672)銘・三尊仏塼仏が確認されている。
日本には早くも七世紀後半に伝来されたと考えられるが、玄奘三蔵がインドから経典や
仏像と共に持ち帰った奉納版を基に複製されたのが「印度仏像塼仏」で、玄奘の発願でイ
ンド式仏塔として建立された大雁塔に多く使用されたと考えられる。
653 年第二回遣唐使に同伴した留学僧・道昭は 654 年にインドから帰国した玄奘三蔵
に直接師事し、661 年帰朝時にこの塼仏を招来した可能性が高い。
その頃に創建された飛鳥の川原寺や山田寺で採用されていることが発掘調査により確
認されており、中国の最新の塼仏様式がほとんど時間差なく日本に渡ってきたと云える。
更には道昭の弟子である行基を通じて玄奘の弟子関係で塼仏は日本に伝承されたと考
えられる。
寺院建設の建材として瓦と共に大量生産されたと考えられ、塼仏の生産技法は確立され
飛鳥期から奈良時代にかけての寺院建設で多用されている。
飛鳥以外からの出土例として
伊丹廃寺跡:兵庫県伊丹市緑ヶ丘にある寺院跡で、奈良時代前期の創建で鎌倉時代まで存
続していたと考えられ、法隆寺と同等の伽藍配置と規模を有する寺院
夏見廃寺:三重県名張市夏見にあり、大来皇女が父・天武天皇を偲んで建立された昌福寺
ではないかと推定されており、金堂は飛鳥の山田寺と同等で天武・持統との
結びつきが伺える。
百済寺:枚方市にあり 750 年に百済王敬福により建立されたとされ、薬師寺伽藍配置に
似た二塔式だが新羅の感恩寺と同形式で半島との交流が伺える。
海会寺跡:泉南市信達大苗代にあり 7 世紀後半の創建が推定されるも室町期に廃絶してお
り本来の寺号は未詳、法隆寺式伽藍配置が確認されている
霊山寺:奈良市中町にあり霊山寺真言宗大本山の寺院、寺伝では聖武天皇の勅願で行基と
菩提僊那(ぼだいせんな)による開基とあるが正史には見えない
等が発掘調査で塼仏が確認されており、飛鳥の岡寺の天人塼や南法華寺の鳳凰塼が有名で
ある。
*川原寺の塼仏とは?
川原寺の東面回廊付近から本尊の両側に脇侍仏を配した三尊塼脇侍仏脚部小片が出土
したことで発掘調査を進めた結果多数の塼仏の出土があり塼仏の存在が確認された。
1974 年春に明日香村と橿原考古学研究所との共同調査で、川原寺西北裏山の板葺神社
にある深さ3Mの穴から多量の遺物が発掘されたが、主な出土品は塼仏、塑像片、緑釉塼、
銅製品、鉄製品、貨幣、瓦の破片等であった。
川原寺の塼仏は大型独尊塼と三尊塼の二種類で殆どが三尊塼で千点にもおよび、後述す
る十二尊連座塼の多い山田寺とは明らかに異なっている。
塼仏と共に出土した緑釉波紋塼は波の文様を表現したものと考えられ、表面に緑色釉を
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かけた見事な作品で、これは仏像を安置した須弥壇の上面に敷き詰められ蓮華池を表現し
ているものと推定されている。
更には塑像片も大小さまざま出土しており、大型の丈六とみられる仏像の部品がありこ
れが創建当時のものとすれば我国最古の塑像例と云える。
川原寺の創建は斉明期の飛鳥板葺宮が焼失し、岡本宮再建までの仮宮としての川原宮址
に天智天皇が九州遠征中に逝去した母・斉明供養のため創建されたとされているが、日本
書紀には記載がないため諸説があり「謎の寺」とされている。
しかし当時の四大官寺の一つに挙げられており、その規模は伽藍配置からも伺えるが使
用された塼仏は 661 年に道昭が持ち帰った玄奘三蔵の「印度仏像塼仏」に倣ったものと
考えられ、中国の最新文化の早速の導入は驚異である。
平城遷都で三大官寺は移転したが川原寺は移転せず平安末期(1191年)の焼失まで
はその威勢を保持していたがその後歴史の舞台から姿を消している。
この発掘土坑は寺が火災にあった後片付けとして被災した遺品を埋め戻したものと考
えられ、同時に出土した貨幣からも 1191 年の堂塔炎上を物語るものでしょう。
川原寺の詳細はF飛鳥の寺院シリーズ 参照
*山田寺の塼仏とは?
山田寺の塼仏はそこから出土したものが各地に所蔵されていることが知られており、発
掘調査の結果から六種類あることが確認されている。
仏像一体を中央に配した独尊塼が大小二種類あり、独尊四体を二段二列に並べて一枚の
塼仏とした四尊連座塼は細部の違いから三種類になり、最も数が多いのは独尊 12 体を三
段四列に並べた十二尊連座塼である。
これらは焼き上げた後に表面に漆を塗り金箔を置いているが漆は接着剤とした金箔塼
仏を壁面にずらりと並べて張り付けた寺院内装は見事なものと推定される。
飛鳥期に創建された山田寺は平城遷都後も維持管理されており、平安期に関白職にあっ
た藤原道長が山田寺を訪れ「奇異荘厳」と表現したのは、このような堂塔内部の様相を観
たもので比類の無いものだったに違いない。
これは法隆寺の玉虫厨子の内部や長谷寺の銅板法華説相図にある千体仏等からその様
が想像することが可能である。
山田寺は大化改新期に石川麻呂の氏寺として着工されたが、失脚により放置されていた
が、天武・持統期に建設が再開されたと考えられ、川原寺で採用された最新技術である塼
仏で堂塔を飾ったのは官寺としての扱いをされていた証しでしょう。
山田寺の創建に関しては本シリーズG-3仏頭とは 参照
<註>
大雁塔:玄奘三蔵がインドから持ち帰った経類を収納するために西安に建造された塔
留学僧・道昭:唐での火葬を我国に伝え、我国初めての火葬で埋葬された
緑色釉:唐で流行した唐三彩の技法を併せて伝えられた後に奈良三彩として出現
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