7 第36代 孝徳天皇

7
第36代
孝徳天皇
孝徳天皇
第 36 代天皇
在位期間
645 年 7 月 12 日 - 654 年 11 月 24 日
元号
大化
白雉
先代
皇極天皇
次代
斉明天皇(皇極天皇重祚)
誕生
596 年
崩御
654 年 11 月 24 日
陵所
大坂磯長陵
御名
軽
異称
天万豊日天皇
父親
茅渟王
母親
吉備姫王
皇后
間人皇女
子女
有間皇子
皇居
難波宮
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*「孝徳」とは一体何者だったの?
乙巳の変が起るまで歴史上に姿を現さなかった人物が譲位した皇極の弟(軽皇子)と
云うことで一気に歴史の表舞台に登場した。
従って軽皇子(かるのみこ)は即位までの経歴が不明でいきなり大王候補となり、姉
の皇極の出自も謎に包まれておりここから類推するしか無いが既に50歳に達してい
たと推定され、当時としては老齢としか言いようのない年齢で本拠地は和泉国和泉評
(いずみこうり)としているが強力なバックボーンが在ったとは考えられない。
「皇極」から前代未聞の譲位を受けて、一気に「大化」と云う我国初めての年号を定
め、難波遷都を宣言し、改新の詔を発し、公地公民制、薄葬令、新冠位を制定する等と
矢つぎ早な政策を打ち出すためには事前準備が不可欠だったはずである。
乙巳の変の黒幕として軽皇子を挙げる遠山説があり、現に「孝徳」として即位したこ
と、中臣鎌足が和泉評で勢力を張っており以前から軽皇子と通じていたこと、左右大臣
に登用した阿部内倉梯麻呂や蘇我倉山田石川麻呂も和泉評に関係を有していたこと、当
時としては兄弟継承の可能性が高いこと等をその理由としている。
しかし日本書紀の記述から見て矢張り「皇極」の実子・中大兄皇子が歴史の中心人物
であり、クーデターという政変と大王中心の政治体制革新の風当たりを避けるため「孝
徳」を立て、実権は己が握るという手法を取ったとする従来の説が通説でしょう。
*なぜ難波に遷都したの?
当時は大王の代替わり毎に宮=皇居を必ず替えていました。理由は穢説(けがれせつ)
が有力で死や血を忌み嫌って大王が亡くなると次の大王の宮地変更がルールとなって
おり藤原京までは厳重に守られていた。
飛鳥以前は近畿各地に遷都していたが、飛鳥時代の宮地は飛鳥周辺に限定されていた
ため遷都という意識が無かったが、乙巳の変というクーデター直後で飛鳥に本拠地を有
する蘇我本宗家を滅亡に追いやったが一族としての勢力は温存されており、危険回避の
ためと政治体制改新のために人心を一新する必要性もあり早々に遷都を宣言したもの
と考えられる。
難波を選定した理由としては左大臣に登用した阿部内倉梯麻呂の本拠地であること、
上町台地の南端に四天王寺が建立されおり早くから開発が進み半島3国(百済・新羅・
高句麗)や中国との交流のため難波を窓口とした迎賓館が設置されており、仮の宮とし
て活用可能で現に難波豊碕宮が完成するのは6年後で、その間仮宮を転々としていた事
実からも肯ける。
難波は5世紀の仁徳天皇が高津宮を置いたとの伝説があり、難波長柄豊碕宮も昭和中
期まで所在地が不明で幻の宮とされていたが、山根徳太郎氏の努力で発掘調査が進み現
在難波宮史跡公園として保存されて大化の改新虚構論への反証となった。
隣接する大阪歴史博物館の地下一階に発掘調査した現場をそのまま遺構として保存
されていますので見学されては如何?小生は兵庫県立考古博物館開設前までこの遺構
のボランテイアガイドをやっておりました。
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*大化の改新は本当にあったの?
難波宮は8世紀に聖武天皇が副都として建設しており744年に遷都まで実施され、
大極殿跡も発掘調査されておりこれを後期難波宮と呼ばれている。
これまでの発掘調査で大化の改新当時の難波長柄豊碕宮であるとの時代検証が不十
分で大化改新虚構論が残存していたが、平成16年大阪府警本部新築工事現場から採取
された柱材は豊崎宮北限の塀の部材と予想されたが材質がコウヤマキのため「年輪年代
法」で特定できなかったが、平成26年に地球研・大阪府文化財センターが「年輪セル
ローズ酸素同位体比の年代測定法」により7世紀前半採取された柱材で前期難波宮の可
能性大と発表したことで豊碕宮の存在が確認されたといえる。
酸素同位体比は木材の枯死後も変わらず年輪ごとの比率調査で過去の気候変動パタ
ーンが解ることで既知の年代の気候変動パターンと照合し伐採年を1年単位で確定で
きるという新技術で今後の考古学にとって強力な武器になることが期待できる。
これにより大化の改新の遷都が確認出来たが、改新の内容に種々疑惑が生じており必
ずしも日本書紀に記された項目が全て実施された訳では無いことが実証されており改
新虚構論の根拠となってきた。
「大化」と云う年号も我国最初の元号とされるが定着したのは大宝元年からで、改新
の詔(かいしんのみことのり)四条に付いても 1.公地公民制の実施は従来の部曲(か
きべ)や田荘(たどころ)等の私有地は残存しており 2.国郡制度=令制圏の整備も
郡評論争で議論されていたが藤原京北面外濠で発掘された木簡から「郡」の使用は藤原
京からと確認され 3.班田収授の法は戸籍と計帳整備が基本で大宝律令以降と確認さ
れており 4.税制(租・庸・調)も全国実施には至っていないとされている。
薄葬令も「孝徳」自身の陵墓は薄葬で無く従来通りであり、薄葬の典型である火葬は
持統天皇からであるが大臣・大連の廃止で左右大臣制、八省百官制定、冠位制度の改訂
等については実施されたと考えられ全てを否定し去ることにはならないでしょう。
当時は遣隋使・遣唐使の派遣で中国・唐の建国時の基本として活用されていた律令制
度を積極的に取り入れることで従来の有力豪族との合議制を脱却して大王中心の官僚
体制を形成すべく努力していたのは事実でしょう。
20世紀中頃までは日本の律令制度導入の画期と考えられていたが考古学や文献史
学の解析で日本書紀編纂時の潤色として藤原不比等の意向で書き替えられたとするの
が通説となっている。
しかし不十分ながら大化の改新は存在したと考えるのが妥当で日本書紀に書かれて
いる内容の実施は大宝律令以後と考えるべきでしょう。
*なぜ難波豊碕宮を途中で放棄したの?
豊碕宮を放棄したのは中大兄皇子でしょう。当時唐の皇帝は太宗で唐王朝を確立させ
た傑物でしたが次期皇帝高宗は病弱で気の弱い性格のため自分の時代に周辺国を平ら
げて置きたいと考え朝鮮半島3国を支配下にすべく高句麗遠征を自ら出馬しました。
高句麗は642年泉蓋蘇文(せんがいそぶん)がクーデターで権力を握り国家強盛に尽
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力して半島3国の中で突出状態にあったため弑逆(しいぎゃく)の問責の口実で攻めま
した。
百済は高句麗と協定し新羅を攻めたため新羅の金春秋(きんしゅんじゅう)は唐に支
援を要請し、唐の属国として唐の制度を全面的に取り入れ国力を充実させ半島統一の基
礎を築いた。
これらの唐、半島3国の慌ただしい情報が百済・新羅遣日使から詳細に難波に届いて
いたと考えられ、半島征服後の唐軍が我国に押し寄せる脅威を感じた可能性がある。
従って無防備な難波の都を避けて自然の要害の地である飛鳥に戻そうとしたが「孝徳」
が受け入れ無かったため中大兄は皇極上皇以下群臣八省百官等を従え旧都飛鳥に遷都
した。
残された「孝徳」は一年後に難波で孤独死したがその後難波京は副都心として活用は
されていたが686年火災で焼失したのが前期難波の宮であり、奈良時代に入り聖武天
皇が難波に遷都しょうとして建設されたのが後期難波の宮であった。
その後660年に百済が、668年に高句麗が滅亡し新羅が半島統一することになる
が、白村江(しらすきのえ)戦で倭軍が唐・新羅連合軍に敗れ唐の侵攻政策に大津遷都
を余儀なくされ、各地に山城を築いたのは周知の事実である。
<註>
郡評論争:評(こおり)は令を実施する区域で現在の市町村にあたり「郡」と同位で6
C頃まで使用されており何時時点で評から郡に変更したかが問われていた。
元号:我国の年代記録法で現代の平成にあたる、それまでは干支で年代を表記していた
60年で繰り返されるため混乱があり中国の制度に倣ったもので大化が初めて
薄葬令:古墳時代には大王や豪族がその権力を誇示するため巨大な墳墓を建設していた
が費用負担が多大で縮小化傾向にあり墳墓の大きさを具体的に規制した、
特に6C中頃中国で火葬が流行し皇帝にまで及んだ、この情報を得て持統が我
国最初に実施、薄葬令の典型
乙巳の変:蘇我本宗家を滅亡に導いたクーデターを意味し、大化の改新はその結果とし
て政治体制の改革を示すもので別物
遷都:都を移すことで遷宮と区別している、都は宮=皇居と官僚住居や市場、寺院等で
構成される京を意味し、本格的な街つくりを意味する
四天王寺:物部氏討伐戦で聖徳太子が建立を祈願したとされ、推古期に造営された
山根徳太郎:1952年大阪市大定年退官後「難波宮址顕彰会」の中心として20年間
発掘調査継続、幻とされていた難波宮を特定した
年輪年代法:1920年米天文学者A.E.ダグラスが創始
1980年奈文研 光谷拓実氏が日本産データ収集し弥生時代の年代観
を一変させた、法隆寺再建論に終止符で有名
大宝律令:天武の律令制定の詔の集積が大宝律令で701年完成 編者は刑部親王、藤
原不比等、粟田真人等で此処で日本国号が定められた
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大宗:唐第2代の皇帝・李世民でクーデターで兄・皇太子と弟を殺して父・高祖から譲
位され史上最高の名君と称された
高宗:唐大3代の皇帝・李治で第3候補で皇太子となったが即位後武則天を皇后にする
が決断力不足で皇后に実権を握られ没後武則天が国号を周とした
泉蓋蘇文:高句麗王の唐と和解方針に反対しクーデターで王と穏健派を倒して実権を握
り唐の和解案を拒否、太宗の大軍を破って高句麗を守った
金春秋:新羅を守るため高句麗に協力求めるも泉蓋蘇文に拘留され、その後唐の属国に
甘んじるも唐制を導入し強国化して半島統一し第27代武烈王となる
日本書紀には新羅遣日使で我国に渡来時人質にしたとあるが不明
白村江の戦:百済滅亡で復興支援のため倭軍が出兵したが唐・新羅連合軍に完敗し、唐
軍の進駐を受けることとなった
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