F-8 岡寺 *岡寺はどこにあるの? 近鉄岡寺駅の東3kmで多武峰山麓中腹にあり、観音信仰霊場・西国三十三札所第七 番・龍蓋寺(りゅうがいじ)として有名です。犬養万葉記念館近くの石の鳥居が岡寺への 参道になっています。 飛鳥川沿いから東の山腹に朱色の三重塔が望めますが昭和に弘法大師記念行事で再建 されたものです。 *なぜそこに建てられたの? この辺りは明日香村岡と呼ばれているが、天武天皇の皇子・草壁が住んでいた岡宮が在 ったとされ、草壁皇子はのちに岡宮天皇と追号されたことからもその伝承があったのでし ょう。 この岡宮を下賜されて建立したのが岡寺で、飛鳥では宮跡を寺院にした例は多く川原寺 や豊浦寺等があり、現在の伽藍は急坂を登った山腹にありますが、西に隣接する平坦地の 治田(はるた)神社境内も発掘調査により出土した瓦や礎石から創建時の岡寺寺域内で、 - 31 - 神社は後世に豊浦地区から移転してきたものと考えられております。 *岡寺創建時のなぞ? 寺伝にては天智2年(662)に僧・義淵(ぎえん)が開山したとされておりますが、義 淵と共に育てられたとする草壁皇子は662年大海人皇子の子として百済復興のための 九州出兵滞陣中に生れており、その時期に岡宮が存在する訳が無く、義淵も生れ育ちが不 詳で伝説では観音信仰で生れた天才児で天智に養育されたとしているが謎が多い。 草壁皇子が天武の皇太子となり即位寸前に歿した689年に住んでいた宮は万葉集に も詠われている嶋ノ宮であり、かっては蘇我馬子の邸宅だったが蘇我本宗家滅亡で天皇家 に没収され、舒明系の宮として代々使われて明日香村嶋ノ庄(しまのしょう)にあり岡寺 の創建の地・岡と隣接している。 おそらく草壁皇子が皇太子になった時に由緒ある嶋ノ宮に移り、それまで住んでいた岡 宮を高僧・義淵に与えたのではないかと考えられ、岡寺の創建は天武期でしょう。 当時天武天皇は全国統一国家確立の手段として仏教を活用すべく国家仏教として支援 しており、この時期に寺院建設が急増している。 更には七世紀後半から観音像が造られ始めたばかりで観音信仰が普及するのは平安期 以降であり、岡寺が観音信仰の対象になるのは弘法大師の登場を待たねばならない。 しかし義淵は岡寺を開山した頃は当時第一の高僧となっており、その弟子に奈良時代に 活躍した良弁(ろうべん)や行基(ぎょうき)がでており道鏡(どうきょう)もここで修 行して孝謙天皇の庇護で岡寺を増築していることから天平仏教の隆盛の基礎を築いたと いえます。 *開祖・義淵とは? 出生は不詳で百済系渡来人説があり、若くして出家し元興寺(飛鳥寺)に入り唯識・法 相を極めてとされ日本の法相宗の開祖とも称されている。 義淵は続日本紀に4度登場しており、初回は文武3年(699)で学問の業績から稲一 万束を施入されており、大宝3年(703)には我国最初の僧正に任命され、神亀4年(7 27)には聖武天皇から岡連の氏姓を賜り、翌年(728)に没している。 これらの史料から義淵の活躍した時期は藤原不比等の権力掌握時期とラップしており、 不比等と良好な関係を維持する政治的能力にも長けていたと推測される。 従って義淵は728年に没していますがこの頃の作とみられる我国最古の肖像彫刻が 国宝・木心乾漆義淵僧正坐像として伝えられていることからも、当時仏教興隆の功績者と して認知されていたと考えられます。この像は鑑真和上(がんじんわじょう)像のような 肖像性から離れた怪異な表情とする特徴のある表現は聖僧像と考えられ、必ずしも特定の 人物像では無いとする説が有力です。この像は奈良国立博物館で常設展示されていますの で是非拝観されたい。 - 32 - *どうして観音霊場札所になったの? 現在の本堂にある如意輪観音(にょいりんかんのん)坐像を本尊としていることにより ますが、この像は我国最大の塑像で重要文化財に指定されていますが天平後期(8C後半) の作品ですから創建時の本尊にはなりえず、この胎内仏である銅造弥勒菩薩半跏像を創建 時の本尊とする伝承がありますが確定できません。 またこの本尊には壮大な伝承があり空海が学問僧として渡唐したときにインドと中国 の土を持ちかえり日本の土と合わせて三国の土で作り上げた塑像がこの如意輪観音であ るとするもので、勿論時代が合いませんが平安時代に岡寺と弘法大師との関係を伝承する もので現在も真言宗・龍蓋寺として大師堂が配置されている。参照G-9「岡寺の本尊仏」 法号・龍蓋寺の名前の由来は義淵僧正が優れた法力の持ち主で付近の農民を困らせてい た龍を境内の池に封じ込め大石で蓋をしたという伝説によるとされ龍蓋池として残され ている。 この伝説が災いを取り除く信仰に発展し、弘法大師が導入した密教の普及と共に初午の 日の厄除け参りと観音信仰が結びつき厄除け観音の霊場として位置付けされたのでしょ う。 <註> はるた 治田神社:五世紀末に石川盾が豊浦地区を開墾したが雄略に刑死させられ、その地を蘇我 氏が引継いだとする伝承がありこの地神を祭ったのが治田神社で小治田臣の氏族名に 由来 おおあまのおおじ 大海人皇子:天武天皇のことで天智の弟とされているが当時は草壁皇子の宮を造るような 権力は有していない 九州出兵:唐に滅ぼされた百済王子を支援して出兵し、663年白村江の戦で大敗した ろうべん 良弁:東大寺興隆に活躍した高僧で二月堂良弁杉が有名、三月堂の秘仏・執金剛神像は良 弁の念持仏とされている ぎょうき 行基:奈良貴族文化隆盛の蔭で疲弊していた民衆の救済に活躍した聖僧 どうきょう 道 鏡 :弓削一族で蘇我馬子に討伐された物部守屋の末裔、高僧であったが孝謙天皇に気 にいられ政治に介入した為排除され下野に流された - 33 -
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