~かんのみね通信~ №2

~かんのみね通信~
№2
古の「かんのみね」(「下伊那写真帳 伊那谷今昔」原守夫著より)
右の現在の写真と比べて樹木が少なく岩山といった風情が
あります。往時の山城もこのような感じであったと思われます。
(出典写真集の発刊が大正4年のため明治後期から大正初期の
写真と思われます)
◎「かんのみね」の「みね」はどちら?
その3
同じところにある看板でも・・・・
作成者のこだわりが感じられます。
◎ 「かんのみね」の歴史
その2 周辺の発展 1
室町時代中期に神之峰へ本拠地を移した知久氏は周
辺の整備に取り掛かります。特に「知久十八寺」と呼
ばれる寺院群の大半は神之峰を北から東を経て南まで
囲むように建てられていました。これらの寺院では雪
岫瑞秀、その弟子で玉川寺を中興した梅室智精など臨
済宗妙心寺派の僧侶が中心となって都との往来の中で
仏教と文化を広めていました。
このように文化的に発展した神之峰周辺ですが知久
十八寺は建設立地上、天文二十三(1554)年の武田氏の侵攻に巻き込まれ、そのほとんどが兵火により焼失
し、現在では再建された玉川寺と興禅寺が残るのみとなっています。
◎「知久氏」とは
その 2 諏訪大社とのつながり
諏訪大社上社本宮脇にある案内看板
法華寺と神宮寺跡を紹介している。法華寺は建物が残り、吉良義周の墓も現存しているが神宮寺は
建物がなく写真の鳥居の右方交差点に「神宮寺」の名が残るのみである。
文永寺に五輪塔を建立した知久敦幸、次代敦信は諏訪大社上社本宮にあった神宮
寺(神社に付属して建てられた寺院)に五重塔、普賢堂、鐘楼を寄進しています。普賢堂の本尊普賢菩薩は
諏訪大社上社の主神建御名方命(たけみなかたのみこと)の本地仏(※)であり、玉川寺の本尊でもありま
す。また、五重塔は高さ十六間一尺四寸五分(29.52m)といわれ、法隆寺五重塔に匹敵する大きさであり
ました。これらの建物は江戸時代末まで残っていましたが残念なが
ら明治の廃仏毀釈で取り壊されてしまい、現在ではマレットゴルフ
場の中に礎石の一部が残っているのみです。このように多くの建物
を寄進した知久氏の財力はどこで蓄えられたものなのか興味は尽き
ません。
※
本地仏
日本の神々は仏が人々を救済するために仮に現れた姿であるとする本地垂
迹(ほんちすいじゃく)説に基づく神と仏の関係を示したもの。
神宮寺跡に残る墓碑
右より武田信玄、坂上田
村麻呂、知久行性入道(敦幸)
◎「かんのみね」伝説
その 2 じたじた峠
国道 256 号線の掘割バス停から柿野沢方面へ登
る小道を進んだ先に「じたじた峠」があります。
天文二十三年神之峰城に攻め寄せた武田信玄の武
将山本勘助はまず水の手を止める作戦を行いまし
た。しかしこの峠から城の様子を窺うと山頂で馬
を洗っているのがみえたため城内に水がたくさん
あると思い、作戦が失敗したことを悟って地団太
を踏んで悔しがったことから「じたじた峠」と呼
ばれるようになりました。いまでも勘助が地団太
を踏んだ場所は草も生えないといいます。実はこ
のとき城方は馬に米をかけて水のように見せてい
たといわれています。知恵比べは知久頼元の勝ちでした。
このような話は全国各地の城攻めの話でも伝わっていますが、中には馬にかけた水にスズメが寄って
きて見破られたというような話(石川県七尾城等)もあります。神之峰城内には井戸もあったため実際
にこのような作戦をとる必要があったのでしょうか?
◎「かんのみね」百景
山頂から西の方角を望みます。三遠南信自動車
道が大鹿から下久堅・龍江方面へ伸びていくのが
わかります。今、知久頼元がこの光景を見たら武
田の大軍が城下に迫るのを見たとき以上に驚く
ことでしょう。道路が開通したのち、上久堅はど
のように変わっていくのでしょうか。
戦国時代から現在そして未来の景色が一望で
きるひと時が楽しめる空間です。
◎「かんのみね」はどちら?
いまでも地区内のあちらこちらにかつてウォーキングに
使われた案内の柱が残っています。これらを手直しすると
ともに、柱の位置や史跡などが載ったマップ等を整備して
地区内の散策に活用す
る方策を探りたいもの
です。
◎ 「かんのみね」といえば
神之峰と知久氏を紹介する本としてはこの「神之峰
はるか」が知られています。平成8年に刊行されたこ
の本は小説という形をとっていますが神之峰そして
知久氏、なかんずく神之峰落城の様子などを知るには
うってつけの入門書となっています。もちろん小説な
ので「自分の聞いていることとは違う」ということも
あるかもしれませんが改めて調べなおしてみるのも
一興ではないでしょうか。 読んでいない方はもちろ
ん読んだことのある方にもぜひ一読をお勧めしたい
一冊です。
(小沢さとし著
郷土出版社刊)
◎ 「かんのみね」の鬼門
鬼門とは北東(艮・うしとら)の方位を指し、鬼が出入り
するとして忌避されています。かつての権力者は都市や城
からみたこの方角に寺や神社を建てて鬼門避けとしてい
ました。平安京における比叡山延暦寺、江戸城における東
叡山寛永寺などが知られています。また、下久堅知久平城
でも鬼門の方角に山王社が祀られています。そこで神之峰
から艮の方角をみるとちょうど勘助物見の松の方向に当
たります。この方向には知久十八ケ寺のうち実に六寺(法
新院、板尾寺、新慶寺、龍源寺、普門院、興禅寺)が点在
しています。知久氏は鬼門避けにもかなりの力をつぎ込ん
だことになりますが天文二十三年にはこの方角からも武
田の軍勢は侵攻してきました。知久氏と神之峰城にとって
このときの武田軍はまさに「鬼」だったのです。
◎「かんのみね」雑話
城といえば「石垣」
、
「天守閣」が頭に浮かびます。実際国宝になっている城は皆石垣と天守閣を持つほか、
有名な城は復元天守閣や石垣を備えたものが多いようです。では神之峰城ではどうか。天守閣があったとい
う話は聞きません(領主の館はあったようですが)し、石垣があった様子もありません。それでも神之峰城
は弱い城だったのかといえば実はそうでもありません。神之峰の急峻な地形は高い石垣に匹敵する防御力を
備えていたのです。
編集後記
暑い日が続きますがお元気にお過ごしでしょうか。
先の観光協会の総会にも話題になりましたが神之峰の公園整備には多方面にわたる調整
から始める必要があり、具体的な計画の作成と合わせて時間をかけて一つ一つ解決しながら
◎ 掲載の記事は主に「上久堅村誌」を参考
にして作成しています。
進めていくことになりそうです。
発行
平成25年8月
編集
上久堅観光協会
(不定期)
(上久堅自治振興センター内)