昭和1X年の春、S大学山岳部の部室では久保恭一ら若い部員が

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安川茂雄「霧の山」
昭和1X年の春、S大学山岳部の部室では久保恭一ら若い部員が、前穂高北尾根奥又白の岩
尾根にあるV状バットレスへの挑戦を熱心に議論していた。すでに戦争の足跡は若者たちにも
及び、一人ふたりと工場や軍関係に動員されている。こんな世相のときも彼らは山への情熱は
失せてない。東京から谷川岳や上高地、穂高、槍に行くにも、汽車のキップの手配や食料など
の調達に苦労する。それに非常時にザックを担ぎ登山靴を履いた若者をみると、憲兵がこっぴ
どくこらしめた。それでも彼らは山に向かう。
徳沢園では恭一は宗方弘一と知り合う。宗方は若い女性の佐田美穂を伴っていた。恋人かと
思ったが違った。弘一を兄のように慕う山が大好きな女学生、将来は舞台女優を目指している。
恭一はなんとなく美穂に引かれてゆく。こんな時代にも山男たちは、山と同じように女性に憧
れる。久保恭一と宗方弘一は山を通じて親友になる。そしてあのV状バットレスに2人で挑戦
する。だが岩壁は厳しかった。数日間チャレンジを繰り返したが、結局敗退してしまった。
美穂が恭一に語った言葉は当時の女性が山男を恋人持つた感情だろう。
「山っていいわね。本当に素晴らしいと思うわ。それだけに人間を不幸に…。結局、山の好き
な人って素朴な悪意のないエゴイストじゃないのかしら?。だから女の人は、その人に悪意
をもたなくても、知らないうちに不幸せになるのじゃないかしら…。そんな気がして…」
恭一のS大学山岳部の部員、先輩、後輩、知り合いの街の山岳
会。若者たちはそれぞれ山への思い入れを残し、つぎつぎに山
を去って戦争に巻き込まれていく。
「俺の骨は穂高が見えるところに埋め墓を立ててくれ」
「俺の灰は富士で撒いてほしい」
。
宗方弘一も陸軍に徴兵され南方戦線に向かった。そして敵機の
襲来を受けて戦死する。死の直前に書かれた遺書が恭一に届い
た、それには二人で挑戦したV状バットレスのこと、戦争が終
わったらまた一緒に挑戦したいとあった。すでに戦死していた
宗方弘一の山への情熱を思い恭一は涙を流した。彼は徳沢園近
くの楡の木の下、V状バットレスが見える場所に弘一の墓碑を
建立した。
長い暗い戦争は終わった。山仲間の一人は神国日本の敗戦を信じられず、8月末に谷川岳に
向かう。恭一たちはそれが敗戦を悲観した自殺に思われた。谷川岳岩場一帯を探して遺体を見
つけたが、自殺ではなく遭難だったのが救いであった。そして骨や遺品を富士山の山頂から散
骨するべく冬富士に登る。その帰途にホワイトアウトで遭難、吹雪の雪の中で死の一歩手前で
救出された。
岳友もだんだんと外地から引き上げてくる。恭一もリハビリしながら再び山に戻る準備をは
じめる。ようやく日本も戦後から脱し高度成長期に入る。S大学山岳部もOB、現役らが山岳
部室に集合して復活再出発。目標はヒマラヤである。 そして現役の岳友がヒマラヤへ先遣調
査に船出をする。 そのを桟橋で見送る久保恭一、佐田美穂。二人はどちらからともなく肩を
寄せる。
この長編小説は安川茂雄「霧の山」である。
彼は作家であり登山家でⅡRCC所属のクライマーでもあった。日本ペンクラブで井上靖とも
交流があり、鈴鹿市の岩稜会が昭和31年1月3日、前穂高東壁で起こしたナイロンザイル切
断事件を井上靖に教えた。そして石岡繁雄と石原国利を井上靖に紹介、これがきっかけで名作
「氷壁」が誕生した。
「霧の山」は「氷壁」の以前に出版された。新田次郎の山岳小説が出たのはずっと後である。
文学的評価は低いが、あの過酷な戦中から戦後の時代にひたすら山を愛し続けた人々、これを
真摯に描かれた姿をぜひ知ってほしい。