財政議論はなぜ二極分化するのか

【パラダイム】
財政議論はなぜ二極分化するのか
北海道大学大学院教授
宮脇
淳
統一地方選後の地方自治体、そして国の現実的な課題は「財政危機」である。危機の深度には自
治体によって違いがあるものの財政危機はこれまでも繰り返し議論され、その病状を悪化させてき
た。今回は、経済社会が構造変化を進めゼロサムあるいはマイナスサムの経済体質を強める中で、
先送りの許されない課題として財政危機の克服が重くのしかかってきている。
財政とは何か。経済学的には、「公権力を持つ公的部門の経済活動」と説明される。そして、よ
り実態的に社会学の面からは、「あらゆる虚飾のイデオロギーを捨てた国家の骨格を表現するも
の」(Ruodoif Goldscheid)、さらに「形づくられるべき数字に凝結された国民の運命」(Gunter
Schmolders)と定義づけられている。そこでは、財政が国民の今日と将来に重大な影響を与える存
在として位置づけられ、
「国家の根幹に関わる源泉」と説明されているのである。
しかし、現実の議会等において展開される財政議論の実態は、財政民主主義をベースとした抽象
的議論、あるいは財政・予算を技術的、局所的、形式的にとらえ現実的な資金繰りを模索する議論
のいずれかであることが多い。そこには、理念と実践的技術に大きく二極分化し分離する姿が存在
する。「実践性無き財政理念」と「理念無き技術論」に、国家の骨格、国家の運命たる財政の議論
を埋没させる結果となっているのである。
なぜ、財政議論がこれだけ二極分化し、理念と実践が分離するのか。それは、財政・予算制度が
政治経済の大きな波によって翻弄され、自らの政治経済に対する制度的主体性を著しく失ったこと
に起因する。経済領域の急激な拡大と複雑化の大きなうねりの中に、憲法で定められている「財政
民主主義」に根ざした財政・予算の持つ意味の重要性が埋没する流れを強めたのである。「国境の
家」という問題提起がある。二国の国境線上に位置する家は、常に二つの国から懐疑的に見られる。
懐疑的に受け止められることで、いずれの国からも批判を受ける。現在の財政議論も、この「国境
の家」に酷似している。理念と技術の二つの視点から国境の家たる財政を見据えた場合、何れの視
点からも現行の財政予算制度は信頼を得るものとはなっていない。このため、「国境の家」の議論
は避け、理念と技術の両方を結び付けて信頼が得られる財政議論を展開しなければならない。
そうした財政議論の実現には、理念と技術を結び付ける「国境の家」の透明化がまず必要となる。
具体的には予算編成・執行プロセスの透明化である。国境の家が積極的に信頼性を確保するには、
自らの実態を透明化することである。この連結器が機能してはじめて、二極分化した財政議論が有
機的に結びつき、理念に基づく技術の展開が可能となる。政治経済に翻弄されてきた財政・予算制
度が自らの予算編成・執行プロセスを透明化することで、政治経済に緊張関係を持つことができる。
加えて、決算や評価結果を次の予算や計画等にフィードバックする途が開ける。
財政・予算制度、公会計に対する発生主義、時価主義等企業会計的技術の導入が進められている。
こうした努力が理念と分離したままであるとすれば、財政危機克服に資することは困難となる。共
通の言語である企業会計の視点から財政の顔を認識し、その上で財政に責任を持つ理念を共有しな
ければならない。そのことは、最終的に国、地方自治体を問わず深刻化している官僚行動の疲弊化
と政策議論をしない議会の体質を大きく揺さぶる要因となるのである。
「PHP 政策研究レポート」
(Vol.6
1
No.71)2003 年 5 月