質問:02。 私の檀家では、般若 心経を唱えないのです が、唱え

質問:02。
私の檀家では、般若
心経を唱えないのです
が、唱えても良いでしょう
か。
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質問:02。
私の檀家の宗派は、般若心経を唱えないのですが、唱えても良いのでしょうか。自力か他力かが関係してい
るのでしょうか。
著者の回答。
仏教以外でも唱えられる程、般若心経は普遍的な経典です。
しかし、その一方で、仏教である「浄土教」を中心とする浄土宗、浄土真宗と、「法華経」を中心とする日
蓮宗が、どちらも般若心経を読まない、というのは、特筆すべきことです。
その理由を私なりに考えて見れば、般若心経は歴史的に「実体が無い空」を説いてい、と言われてきたこと
によると思われます。
確かに、「空が実体が無い」ということになれば、特に「自己の内面に仏の姿を置く法華経」と、「自らの救われ
た結果が未来にあるとする浄土教」の、そのどちらにも大きな矛盾を生じます。
しかしながら、著者は般若心経を解読して、空は「完全性をもつ超実体」であることを明らかにしました。
ですから、実際は般若心経こそ、これらの宗派に最も適切な経典であると言うことになります。
このように、空が超実体であることを明らかにしてみれば、この二者にとっては最も般若心経がふさわしい経
典であると言うことになります。
この立場に立てば、般若心経はこれらの宗派の根本となっている浄土教・法華経の教えをしっかりと支え、自
己の完全な姿と、未来に有る自己の救われた姿をそのまま完全肯定していることが分かります。
これを私は、「完全なる自己の姿を前提に生きる」という観点から、「完全からの出発」と呼称しています。
しかも、この「完全からの出発」だけでは独善に陥りやすいのですが、ここに般若心経の説く「空」を取り入れる
ことで、普遍性を回復し、そのことで信仰をより完成に近づけることになります。
ですからもう、これからはどの宗派も、そして宗教を越えて、安心して、般若心経を唱えることを推奨します。
ですから、ここでの質問に関しては、歴史的な「空」の解釈に問題があったからであり、自力と他力は、関係あ
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りません。
さらに私は、本質的に自力他力の区別は無いと考えています。
「他力の中に自力有り、自力の中に他力有り」なのです。だから、純粋な他力も、純粋な自力も存在しないと私
は考えています。
一般化して言えば、他力も自力も、或る場面では大きな力を発揮しますが、これをただ形式的に行じてしまう
と、独善に成り、他を排斥したり、現状を無視した、原理主義になりやすいですね。
指導者は、原理主義の危険を知りつつ、適用範囲をその都度良く検討する必要があります。
さらにそこに真実の空が説かれれば尚更のこと、実質自力も他力も同じであると言えるのですね。
本来、自力と他力と、二つの方向に分離するのは私の本意では無いのですが、ここには良さもあることを記し
ておきたいと思います。
実は、自力他力という、この立ち位置と方向の違いが宗派の違いとして専門化され、独自の理論と「行」が開
発されてきたことは、歴史的な貢献であり、そこに大いなる存在価値があると理解すべきです。
後から行くものにとっては、同時に両方を学べるのですから、これはよろこぶべきことです。
本質的に同じことを、視点の方向を変えて、両方向から実践することで、より真実に近づけると考えるべきで
す。
浄土教を中心とする浄土宗・浄土真宗と、法華経を中心とする日蓮宗とはそれぞれ他力と自力とに分類さ
れる程、遠い関係のように見えていて、そしてその持つ雰囲気も、まるで異なるにもかかわらず、そこには「完全
からの出発」という根本に於ける共通点があると言うことは特記すべき事です。
そこで、それぞれの宗派が般若心経を唱え、「空」を取り入れることで、普遍性が回復され、さらに共通性が
生まれてきて、雰囲気が違うままで調和し、それぞれの立場が宇宙の中で確立すると思えます。
そしてそこにこそ、般若心経の働きがあると思います。
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2015/08/23。
空不動。
※この原稿は、【献文舎 HP】からダウンロード出来ます。
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