敗戦後70年

SPIC Group
会長 芝田 乃丞
敗戦後70年、後世のために真実を明らかに
私は昭和19年10月に横須賀市で芝田家の長男として誕生し、翌年8月15日に日本は終戦を迎えました。
当時1歳にも満たない私は戦争の事も終戦の事も全く知りません。
その後、両親からも祖父母からもこのことについて詳しく聞いた記憶がないのです。
多分、当時は日々の生活や生きること、子供を育てることで精一杯だったのかも知れません。
いや話したくなかったのかも知れません。その後、戦後と共に私は70年間の人生を送ってきました。
日本は敗戦後ザンゲの時代を迎えます。米国の原爆投下で多くの国民の命が奪われ、
今なお被爆による後遺症で苦しんでいる方がいます。
原爆を落とされ、悲惨な目にあったのは、日本が悪かったからだと叩き込まれ、
「もう二度とこのような悪いことはせず、常に後悔を忘れません」、一億総ザンゲの国民と化していきました。
多くの若者が命を捨て米国と戦いました。日本の将来の為、家族の将来の為、
平和な日本を夢見て自分の命を犠牲に戦い死んでいきました。アジアの解放は、アジアの侵略と変えられ、
謙虚に謝罪し、反省しなくてはならないと今でも多くの日本人が考えているのです。
実に悲しいことです。私達の子供や孫がこの「ザンゲの国」に生まれたということであれば、
なんと不幸なことでしょう。先人にも申し訳ありません。敗戦後70年を迎え、間違った認識を取り払い、
日本人としての名誉と自信と誇りを取り戻しておく必要があります。
日本及び日本人は、いったい何について謝罪し反省しなければならないというのだろうか。
台湾出身の評論家・黄文雄氏によると、台湾では大抵の知日派知識人は「日本は悪くなかった。
悪かったことと言えば戦争に負けたことだった」と考えているそうです。
では、なぜ日本人は間違った歴史認識を持つようになってしまったのだろうか、
それは、昭和20年8月15日に敗戦した日本にダグラス・マッカーサーが厚木に着陸したのが8月30日でした。
終戦後、僅か15日後の出来事です。
ダグラス・マッカーサーは
連合国軍総司令部長官(GHQ)として
約6年7ヶ月の長い間、
「日本占領政策」を実行しました。
当時日本の最高権力者であるGHQは中国・韓国に
物が言えない外交、米国の言いなり政治・経済・外交、
更に司法、教育、医療福祉、農業や食、
生活文化に至るまで占領政策を
展開していったのです。
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会長メッセージ
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会長 芝田 乃丞
それは70年後の現在でも続いています。日本が二度と再び戦争で米国を攻めないよう
全てを骨抜きにしてしまいました。日本は他国を「侵略」したのであるから悪い、
日本人は世界に迷惑を掛けたのだから永遠に謝罪し続け、反省を繰り返さなければならない、その為には、
日本の歴史も伝統も文化をも否定し、米国は素晴らしい国家、理想の国家、豊かな国と教え込みました。
そして日本国民に「臆病者」
「卑怯者」を増やし、日本人の「誇り」
「品格」を失わせるプログラム
「戦後民主主義」を国家制度としました。そこには日本国弱体化システムの狙いが隠されていたのです。
しかし、第二次世界大戦までの世界は、
「侵略」は美徳とされていました。
白人による世界規模の植民地支配は植民地の奴隷化に他なりません。日本は欧米の列強の植民地支配から免れ、
祖国防衛にありました。同時にアジアの植民地を開放させることでした。
西洋の植民地支配に苦しむアジア諸国の共感を呼んだが、それに同調しなかったのが中国でした。
逆にアジア侵略の列強と手を結んだのです。これは歴史の事実です。
「大東亜共栄圏」を目指しインドや東南アジア(インドネシア・マレーシア・フィリピン・カンボジア・
ミャンマー・ベトナム・シンガポール等)の独立を達成させたのです。
日本が戦ったのはアジア諸国ではなく、植民地にしていた欧米列強国に対してでした。
後日、マッカーサーは自分の過ちを認める発言をしました。
マッカーサ証言「自衛戦争証言」/昭和26年5月、米国上院軍事外交合同委員会での証言、
「日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、
羊毛が無い、
石油の産出が無い。
錫
(すず)
が無い、
ゴムが無い。
それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もし、
これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを
日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、
大部分が安全保障の必要に迫られた結果のことだったのです」
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マッカーサーは、大東亜戦争は、日本は「侵略戦争」ではなく、
「自衛戦争」だったと証言しました。
この重大な証言を報じた日本の大新聞は当時も今もありません。
マッカーサー自身の回顧録や占領軍内部の記録では、
「占領は秩序正しく、流血なしで行われた」と記されています。だが日本側の調べた事実は逆で、
特別高等(特高)警察の記録によると、
進駐後一ヶ月間で最低44件の米軍による強姦事件が発生した。更に占領期間中には日本本土で
「少なくても2536件の殺人事件、2万件以上の強姦事件が発生した」とされています。
日本のマスメディアはGHQの厳しい報道規制を受け、全てGHQの検閲を受けることになりました。
GHQの検閲は、国内郵便物399万通、外国郵便61万通、電話盗聴1.6万回、国内電報71万本、放送番組6400本、
脚本1.12万本、映画301本、レコード94本、大手日刊新聞40紙、雑誌637誌、
単行本1120冊に達したと言われています。当時の日本には「言論の自由」も「民主主義」も存在しませんでした。
GHQ占領下政策の原型を保ったまま、日本政府に移行されて実行されました。
GHQが日本に強制した政策の骨格や大きな枠組みはほとんど手つかず残ったままです。
その様に考えると一般国民が理解できない多くの問題も不思議も見えてくるような気がしてきます。
GHQの新憲法・日本の尊厳と名誉は私達が守る
昭和21年2月4日、GHQは大日本帝国憲法改正に向けて動き出しました。
マッカサーは厚木に飛来する以前に日本の憲法を改正する案を持っていました。
「マッカーサー草案」を渡されたホットニーは、民生局のメンバーを集めて、
極秘に憲法草案に着手させました。メンバーは24名で構成され、GHQの会議室で「これから1週間、
民生局は日本国憲法制定会議とする」と告げられたのです。
憲法草案作成にかかった期間は、2月4日から日本側に提出した2月13日の10日間と言われています。
22歳、27歳、32歳と若い委員も含まれています。
問題の憲法9条を担当したケーディスは当時40歳でした。
そして一切の情報は遮断され閉ざされた空間で決められてしまいました。
この憲法改正は国民投票が行われなかっただけでなく、担当委員に《憲法の本当の専門家》は皆無でした。
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会長メッセージ
SPIC G roup
会長 芝田 乃丞
会長メッセージ
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会長 芝田 乃丞
この憲法は日本国民自身が簡単に改正できない仕組みになっています。
現行憲法下では、仮に国民投票が行われ、国民の過半数が賛成しても、
憲法改正が即座に行われることはないのです。国民投票後3年も凍結されることになっているし、
反対する政党や国民は「投票無効」を求める訴訟になることは確実です。
日本は今でも「GHQ占領下のシステム」に縛られ、謝罪し続けています。
当時の若いGHQ委員に作ってもらった「日本国憲法」が敗戦後70年を迎えて、日本人自身の手で、
日本の歴史と文化と伝統を元に、将来にわたって、自らの尊厳と名誉と誇りと品格のある自立独立を守る、
理想主義を貫く憲法を創ることが、私達にとって極めて重要な課題だと思います。
よりたか ゆた か
( 我が孫・芝田和尚、豊栄、両君に送る)
《 引用文献及び主要参考資料 》
黄文雄:「中国は日本に感謝し、靖国に参拝せよ」
(史実を世界に発信する会)
山村昭義:
「CHQの日本洗脳」
(平成24年8月株式会社 光文社)
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会長 芝田 乃丞
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