1951年 マッカーサー解任 サンフランシスコ平和条約 公職追放解除

---------- 1951 年 海外 ----------3月
ユーゴスラビアはソ連を非難する声明を出す。
ユーゴスラビアはほとんど自力でドイツの占領をはねのけた経験から、ソ連のス
ターリン主義に同調することは少なく、特にユーゴ建国の英雄で、指導者のティ
トーには「援助もしないで大きい顔をするな」と言う気持ちがあった。1948 年 6
月には、コミンフォルム(=諸国共産党の連絡会議のようなもの)から除名もされ、
ユーゴスラビアは、独自の社会主義路線を行くことになる。この国は 7 つの国と
地域の連合体で、統治が難しく、ティトーの死後、内乱になるが、その時点で、
詳しく説明する。
4月
ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体成立
戦争で荒廃したヨーロッパは、この段階でお互いに物資をやりくりし合う必要があった。この共同体が
将来はヨーロッパ経済共同体=EC になり、ヨーロッパ連合=EU に発展してくのだから、無視できない
歴史的事項だろう。
7月
イギリスとフランスは対西ドイツに戦争終了宣言を出す
8月
アメリカとフィリピンは相互防衛条約を結ぶ
9 月 サンフランシスコ平和条約成立
日本は平和条約と日米安全保障条約(いわゆる日米安保条約)を結び、連合諸国と講和
が成立した。しかしソ連とは成立しなかったので「単独講和」と呼ぶ。中華人
民共和国は戦争後にできた国、韓国は当時「大日本帝国」の中にいた国である
から、講和条約には関係がなかった。サインしているのは総理大臣の吉田茂。
日本社会党は、党内がまとまらず、平和条約にも安保条約にも反対で、それが
原因で社会党は分裂する。この調印によって、日本は「西側=資本主義諸国」に
所属することに決まった。問題点は 2 つで、一つは、朝鮮戦争が継続中だから、
アメリカはこの平和条約より、アメリカ軍の日本本土の駐留問題と、沖縄占領、
および今後のアジアへの覇権をどう調整するかの方が大切だった。もう一つは、
日本にとって、ヨーロッパ諸国への賠償はなかったが、東南アジア諸国の一部へ
は賠償したが、残りは今後の政治的課題になり、80 年代の円高時代に、海外進出
への拠点にすることで「経済援助という間接的賠償」になる。
12 月
リビアがイタリアから独立する。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1951 年 日本 ----------4 月 マッカーサーは解任される。
マッカーサーは軍人で経済には弱く、また日本は「非武装中立」で良い、と考
えていた。しかし朝鮮戦争で日本を「共産主義の防波堤」にするためには、産
業の復興が不可欠、と判断したアメリカ政府は「もう一度日本を仕事に就かせ
るべきだ」
「記録を調べるとマッカーサーの解任は 2 年遅かった」の意見が強く
なった。また大統領の意に反して朝鮮では軍を北上しすぎ、核兵器の使用まで
求めたことにトルーマンは激怒し、解任となった。解任の後、アメリカ上院議会で日本の民主化の見通
しを尋ねられ「日本の真の民主化は始まったばかりだ。この面で欧米諸国が 45 歳の壮年だとしたら日本
は成長盛りの 12 歳の少年だ。見守るべきだ」と述べたことは有名。まあ当たってはいる。さらにスピー
チを行い、その時、マッカーサーは「老兵は死なず、消えゆくのみ」という有名な言葉を残す。
6 月 公職追放解除。約 1 万人が公職に復帰する。
GHQ の公職追放令では、今まで日本を動かしていた各界の有力者のほと
んどが追放になってしまい、その後を埋めた、共産党などの新ソ連の革新
派勢力が大きくなり、かえってアメリカの統治に支障をきたすようになっ
た。そこで GHQ=アメリカ統治に従順なものから、追放を解除するように
なった。すべて「冷戦」への備えである。政治家では石橋湛山などの戦争
に反対した者が 6 月、強硬派だった鳩山一郎は 8 月だった。もっとも石橋
の方が、後にはアメリカの統治方法には反対することが多くなり、鳩山の
方が、まだ従順な方だったように思える。
9 月 サンフランシスコ平和条約成立のウラで「日米安保条約」を結ぶ
サンフランシスコ平和条約は豪華なオペラハウスに 40 か国以上の代表を招
き行われた。最初にアメリカ大統領 トルーマンが演説したが、その中で「日
本はアメリカに対し、さしあたっての日本の安全を保障する目的を持った双
務条約を結びたいと要請してきた」と述べ「この条約のもとで、アメリカは
日本を防御するために当分の間、日本に軍隊を維持する」とした。
ここで日米安保条約が結ばれることが明らかになった。しかし安保条約はサンフランシスコ郊外にある
アメリカ陸軍基地の一室で締結された。日本側は吉田首相だけ、アメリカ側はダレスと他 3 人という変
則的な形だった。つまり手下と親分の契約みたいなものだ。後に首相になる池田隼人も出席しようとし
たが、吉田に「君の経歴に傷がつくかもしれないから駄目だ」と言われたらしい。その吉田も昭和天皇
に説得されて、やっと安保条約を結んだ。1952 年には「日米行政協定」も決まる。
峠三吉が「原爆詩集」
、野間宏が「真空地帯」
、谷川俊太郎が「二十億年の孤独」
、壺井栄が「二十四の瞳」を出す。
「紅
白歌合戦」がラジオ放送される。
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