円安にブレーキがかかったのか

五十嵐レポート
平成 27 年 6 月 30 日
円安にブレーキがかかったのか
黒田発言に揺れた為替市場
6 月 10 日、日銀の黒田総裁が国会での証言で為替相場に言及した。衆院の財務金融委員
会の場で質問に答える形で、
「ここからさらに実質実効為替レートが円安に振れていくこと
は普通に考えるとなかなかありそうにない」と言ったのだ。
この発言に市場は大きく反応した。円相場は「約 15 分で 1 円 50 銭ほど急上昇し、その
後もじりじりと上がった」
(日本経済新聞 6 月 11 日付朝刊)のだ。さらに、円安の経済効
果についても「
『これまで円安でプラスだったので、どんどん円安になったらもっとプラス
になる』というわけでもない」
(同)とも発言した。それまでのドル円相場は、2 週間ほど
の間に 120 円程度から 125 円程度にまで急速に円安が進んでいた。だから総裁にはそうし
た動きを牽制する意図があったのではないかと市場は受け止めたのだ。
この一連の総裁発言は今後の為替相場に大きな影響を及ぼすのだろうか。今回はこの問
題を考えてみたいのだが、最初に、黒田総裁が言及した「実質実効為替レート」
(正確には
実質実効円レート)とは何なのかを確認しておこう。
実質実効円レート
「実質実効円レート」は「実質円レート」と「実効円レート」をミックスしたものだ。
今、円レートが 1 ドル=100 円で(これを名目円レートという)、ハンバーガーの価格が
日本で 1 個 100 円、米国で 1 個 1 ドルだとする。日本でハンバーガーが 1 個買えるお金 100
円を為替市場でドルに換えると 1 ドル、それで米国でも 1 個買えるという状況だ。次に米
国でハンバーガーが 1.2 ドルに値上がりしたとしよう。こうなると、名目円レートが 100
円のままであれば、100 円で日本のハンバーガーは 1 個買えるが、米国では買えない。100
円の購買力が米国で低下したことになる。120 円用意して 1.2 ドルと交換する必要があるわ
けだ。この新たな状況を「円レートが『実質的には』1 ドル=120 円に下落した」と言う。
このように、一般には物価上昇率が相対的に高い国の通貨は実質的に強くなり、相対的に
低い国の通貨は実質的に弱くなる。これが実質為替レートの考え方だ。
あるいは、次のように考えることもできる。通貨安になると輸出の価格競争力が増し、
通貨高になると輸出の価格競争力が落ちるのは常識にかなっていると言える。日米間で、
相対的に見て米国の物価上昇率が日本より高ければ、日本の輸出の価格競争力が増す。と
いうことは、たとえ名目のドル円レートが変わらなくても、ドルが対円で強くなるのと同
じ効果が生じるわけだ。これを実質ベースでドル高円安が進むと言うのである。
一方、実効レートだが、円の実効為替レートとは、「円対海外(主要国)通貨との為替レ
ート」のことだ。例えば円が対ドルで弱くなり、対ユーロで強くなったときに、
「円は結局
のところ強くなったのか、弱くなったのか」を知りたければ、円ドルレートの動きと円ユ
-1-
ーロレートの動きを総合(平均)する必要がある。この作業(計算)の対象通貨を海外(主
要国)通貨全体に広げて、それらの通貨と円との為替レートを集めて平均したものが実効
円レートだ。為替市場における円の総合的な強さを示す指標だと考えることができる。
ということで、「実質実効円レート」とは「日本と海外(主要国)」の物価上昇率の差を
考慮した、円の総合的な強さを示す指標である。円と海外(主要国)通貨との名目レート
(=名目実効円レート)が不変であっても、日本の物価上昇率が海外(主要国)の物価上
昇率を下回っていれば、
「実質実効円レート」には円安方向への力が働くことを意味する。
実質実効円レートに方向感が持てるか
図 1 は実質実効円レートと名目のドル円レートの推移を示している。横道には逸れるが、
大局的にみると、
変動相場制に移行した 73 年以降 95 年頃までの 20 年余りの期間を通じて、
実質実効円レートで見た円高が進行した。この間、均してみれば日本の物価上昇率は海外
の国々よりも低かったから、本来なら実質実効円レートは円安方向に推移していてもよか
ったはずだ。しかし現実には、ドル円レートの推移に象徴されるように、名目ベースで凄
まじい円高が進行したために、実質実効レートではむしろ大幅な円高が進んだのだ。
図 1 名目ドル円レートと実質実効円レート
(2010年=100)
(円/ドル)
160
0
140
50
120
100
100
150
80
200
実質実効円レート(左目盛)
60
250
ドル円レート(右目盛)
40
300
20
350
0
400
70
75
80
85
90
95
(出所)日本銀行「金融経済統計月報」
-2-
00
05
10
15
(年、月次)
一方、95 年以降は逆に実質実効レートには円安の流れが見られる。海外諸国よりも物価
上昇率が低いことがこの流れの背景にあるのだろうが、95 年以前と違ってその流れを打ち
消すような大幅な名目ベースの円高が起こらなかったことがわかる。
結果として、足下の実質実効円レートの水準は 70 年代に付けたレベルにまで低下してい
る。しかし、とはいえ実質実効円レートがこれ以上は円安に進みそうにないとは言えない
だろう。このグラフをいくら眺めても、この先の展開は読めそうにない。
それにもかかわらず、黒田総裁が「ここからさらに実質実効為替レートが円安に振れて
いくことは普通に考えるとなかなかありそうにない」と言ったのはなぜだろうか。後日
(6 月 19 日)にこの発言を振り返って黒田総裁は、
「実質実効為替レートが 1980 年代半ば
と同水準になっているという事実を話した。名目為替レートの水準や先行きについて話し
たわけではない。実質実効為替レートは複雑な計算に基づく。解釈は容易ではなく、為替
レートの今後の動きを占うことはできない」と語っている。
この弁明が本意なら、国会の場で実質実効為替レートについて言及などできないはずで、
「ここからさらに円安には振れそうにない」などと口にするのは、極めて不適切だったと
言わざるを得ないだろう。
狙いは円安のスピードダウン?
さて、そもそも円安の進行は日銀にとっては好都合なはずだ。2%という物価上昇目標が
なかなか達成できない中で、円安で押し上げられた輸入物価が国内に転嫁されて、消費者
物価が上昇するのは日銀にとっては歓迎すべきことだろう。昨年 10 月末に追加金融緩和し
たのも、原油価格の大幅下落によって物価上昇率が低下していることが、企業や家計の「物
価上昇予想」を損なうことを防ぐ意図があったのだ。実際、黒田総裁は 6 月 19 日の記者会
見で以下のように発言している。
「昨年 10 月 31 日の追加緩和は、原油価格の下落で物価上昇率が下がると、せっかく進
んできたデフレ心理の払拭に向けた動きが止まる、あるいは逆流するかもしれないという
懸念に対応した」
(日経新聞 6 月 20 日付朝刊)。
つまり、追加緩和によって円安を進行させて、円ベースでの原油価格の下落を和らげた
かったのだ。そんな日銀のトップが、なぜ円安にブレーキをかけるような発言を今回はし
たのだろうか。
黒田発言の当日(10 日)夕方には、甘利経済財政担当大臣が、黒田総裁は「自分の発言
が市場に大きな影響を与えてしまったが、それは全くそんなことを考えて言っているわけ
ではない」と言っているという話を披露したようだ。しかし黒田総裁は、官僚時代には自
ら 20 数回もの為替介入を指揮した豊富な経験を持ち、マーケットを熟知している人だ。彼
がそんな失言をするとはおよそ考え難いことだ。実質実効為替レートという言葉自体は質
問した野党議員が持ち出したようだが、黒田総裁自身は、ここから先にさらに大幅に円安
が進行するとは考えにくいという思いを口にしたのではないだろうか。
-3-
うがった見方をすれば、円安の進行はもう少し後に取っておきたいと考えているのかも
しれない。昨年 10 月末の追加金融緩和は、円安を引き起こすことを狙ったものだった。し
かし足下では、原油価格が下げ止まりからやや上昇に転じつつあり、労働需給の逼迫が続
く中で賃金が上昇するなど、物価が上昇する環境が整いつつあるようにも見える。ここで
さらに円安が進むと、物価の上昇には効くとしても、景気にはプラスにならない可能性も
あると判断しているのかもしれない。円安による物価上昇という手は、少なくとも当面は
使いたくないと考えているのではないだろうか。
ドル高に困り始めた米国経済
眼を海外に転じると、ドル高の悪影響が米国経済に表れつつあるようにも見える。図 2
は米国企業の海外分の収益とドルの実効レート(逆目盛)の関係を示している。当然のこ
とながら、ドル高の進行が海外収益を減少させている様子がうかがえる。
図 2 米国企業の海外収益とドルレート
(10億ドル)
500
海外向け企業利益と為替の関係
(97年1月=100)
90
450
95
400
100
105
350
↓ドル高
300
110
税引前企業利益(海外分、左目盛)
250
115
実効為替レート(右目盛)
200
120
08
09
10
11
12
13
(出所)BEA、 FRB
14
15
(年、四半期)
一方、図 3 は米国の製造業の輸出受注状況とドルの実効レートとの関係を示している。
時系列で見て必ずしも両者に密接な関係があるとは言えないが、少なくとも最近はドル高
が進行する中で新規の輸出受注額が減少していることが見て取れる。関係者にとっては、
受注の減少はドル高のせいだという思いは強いだろう。
今年の世界経済を展望すると、牽引役を果たしてくれるのは、やはり米国経済だと思わ
れる。連銀が年内にも利上げに踏み切ると見られる中で、それを材料にさらにドル高が進
めば、米国経済にブレーキがかかってしまう恐れがある。円安のせいでドル高が行き過ぎ
てしまうような事態はできれば回避したいと黒田総裁は考えているのではないか。
-4-
図3
米国の製造業受注とドルレート
(中立水準=50)
(97年1月=100)
70
85
65
90
60
95
55
100
50
105
45
110
新規輸出受注指数(左目盛)
40
115
名目実効為替レート(右目盛)
35
120
10
11
12
13
14
(注)受注指数はISM製造業景気指数より
(出所)ISM、FRB
15
(年、月)
円安に進みにくくなった?為替相場
結局、理由は定かではないが、やはり黒田総裁は急ピッチの円安を牽制したかったのだ
と思う。もっとも、為替相場のコントロールは財務省の専管事項だから、総裁の発言は麻
生財務大臣や、さらには安倍首相の意向に反するものではないはずだ。つまり今回の黒田
発言は、政権も了解した「円安牽制発言」だった可能性があるだろう。ただ、直後に甘利
大臣が火消し的発言でフォローしたところを見ると、相場の水準を円高方向に戻したいと
いうよりは、これ以上の円安に歯止めをかけたり、少なくとも円安進行のペースを緩やか
にしたいといった意図があると考えるのが自然だろう。
円相場は、円安であれ円高であれ、必ず利害の対立がある。円安でメリットを享受する
企業にとっては 1 ドル=115 円という水準でも十分利益が期待できるだろう。もっと円安に
進めば利益が一段と膨らむのは確かだが、他方で、逆の立場にある企業の損失がそれだけ
膨らむことを考えれば、円安の進行を単純に国益だとは言えない。実際、貿易取引につい
ては、為替差益や差損が生じるのは外貨建て貿易に限られる。そして外貨建て貿易収支は
年率 18 兆円もの大幅赤字だ。日本では円安が進めば進むほど差し引き純差損が膨らみ、所
得が海外に流出する(国内所得が失われる)ことになるのだ。
原油価格の下落がどうやら止まって、追加的なメリットが得られなくなってきた中で、
世論はこれ以上の円安を望まないという方向に移りつつあることを政権も感じ取っている
のではないだろうか。
(MU投資顧問客員エコノミスト 兼 三菱 UFJ リサーチ&コンサルティング
調査本部
-5-
研究理事
五十嵐敬喜)
MU投資顧問株式会社
登録番号
金融商品取引業者
関東財務局長(金商)
第 313 号
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