二〇一六年春 の法要 にあたって 転成 宗務総長 里雄 康意 二〇一六年の春の法要にあたりご挨拶申し上げます。 本年の春の法要は、御本尊還座式・阿弥陀堂御修復完了奉告法要を終えた 御影堂・阿弥陀堂の両堂において勤修いたします。 ︵前真宗本廟造営物保存管理専 御修復に携わっていただいた故・伊藤延男氏 門委員会委員長︶は、両堂について﹁外陣の畳からは大地に広がる稲穂が、内 陣からは煌びやかな極楽浄土の世界が想起されます。︵中略︶いわば仏様と私 たち人間の接点、生活の象徴である田園︵此岸︶と仏様の世界︵彼岸︶を表 現している﹂と述べられました。 仏様と接点を持つことは、人間としての生き方を定めます。しかし、世界 の至るところに生まれている社会の歪みは、仏様に向き合う時を持たないこ と、すなわち問われるものを持たない人間中心主義によって作り出されてい るように思えてなりません。 かつて教団問題が苛烈な状況にあった一九八〇年、宮城顗先生は善導大師 の﹁ああ哀れなるかな、恍惚の間に斯の苦難に逢えることを﹂︵観経四帖疏・ 序分義︶という言葉に注目されました。韋提希夫人が阿闍世によって髪の毛 を 引 き ず り ま わ さ れ て、 今 ま さ に、 そ の 刃 の も と に 殺 さ れ よ う と し て い る 場面を釈したものです。 ﹁恍惚﹂とは、物事に心奪われてうっとりしている、 うっかりしているとの意味です。韋提希は一人の人間として分別の限りを尽 くして、その対策に苦慮して一生懸命に生きようとしている。にもかかわら ず、それは﹁恍惚の間に﹂でしかないと指摘されました。人はいかに分別を 尽くしたとしても、その内実は﹁虚仮邪偽の善業﹂であり、﹁雑毒雑心の屍 骸﹂となることを免れないのです。 しかし、海のように底知れぬ人間の闇こそ、如来の慈悲と智慧が本来的に はたらく場であり、如来回向の顕現する﹁本願海﹂の世界であります。 号不思議の海水は 名 逆謗の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 味なり 功徳のうしおに一 ︵ ﹁高僧和讃﹂ ﹃真宗聖典﹄四九三頁︶ 個別に異なるそれぞれの川水も、海に流入することによって同一の海水に なる。このことは罪を消し失わずして、根本的に生き方が転じられていく、 ﹁転成﹂を言い表しています。念仏者は犯した罪に深く頭が下がります。そ れは罪に縛られるということではありません。いかなる出来事も念仏に帰る 大きな縁になるのです。 国のかたちが大きく変わろうとする今、身と土を問い、生まれた意義と生 きる喜びを見出された宗祖の眼に真向かいになり、ともに念仏に帰してまい りたく存じます。
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