後輩にそう言われて初めて、自覚した。 かみのけと僕 ﹁髪の毛が薄い﹂ 一 心当たりはあった。 僕は外国へ旅行をするのが趣味、というより現実からの逃避手段になっていて、大 学に入ってからは毎年色々な国を回っている。 四年生になった今年も、ミャンマーに行き、寺院を見たり、エーヤワディー川の 旅行の後半から、髪の毛が抜けるのが止まらなくなった。風呂に入る度、ゴソっ と抜けていく。生活環境の変化からくる新陳代謝だ、と思い込んで無視し続けた。 日本に帰ってからも、僕の髪の毛は抜け続けた。旅行から帰ってきても結局卒論 は進まなくて、教授にゼミで叱責される。ストレスが、無形の圧力を僕の頭皮にか け続けた。 ある日、サークルの後輩に久しぶりに会った時、彼は僕の頭頂部の写真を撮りな がら﹁コレあかんやつや!﹂と叫んだ。 ようやく、自覚。 そばを歩いてたら女の子の格好をしてる若い子たちに声を掛けられて写真をとって もらったり、スコールに行動を阻まれまくったり、と非常に良い体験をした。 僕は、禿げ始めていた。 原因にはすぐに思い当たった。去年までと今年と明確な違い。 あれが始まりだったのだ。 そういえば、とミャンマーで髪の毛がゴソっと抜けた事を思い出す。 フサフサで逞しい毛根を保ち続けていて、だから多分遺伝でもない。 絶望より先に、何故、と思う。僕はまだ成人したばかりだし、父親も祖父も未だ て多分今までなかったけれど、ひと目で薄いと分かる。 慌てて下宿に戻り、頭頂部の写真を撮って確認する。自分の頭頂部を見た事なん その一方で、今年の長期休暇は今までのように遊び呆けているだけではいけない、 卒論を進めないといけないという事実からひたすらに目を背け続けていた。 進捗は、芳しくない。というか、ほとんど進んでいない。僕は経済系のゼミに所 属している。卒論では、シミュレーションのプログラムを作らないといけない。プ ログラミングが苦手な訳ではないけれど、今のところ良い結果が出せていない。行 き詰まりを感じたままにミャンマー行きのチケットを取って、国外脱出。 なので、観光している間もずっと、暗闇からチクチクと言われようのない罪悪感 に苛まれていた。 それが、原因だったんだと思う。 一 卒論が、ゼミが、教授が、僕の知らないうちに、僕の大事な髪の毛を毟りとって いったのだ。 二 禿げを自覚してから数日。焦りから卒論は進まず、僕は禿げ続ける。来る日も来 る日も居間でぐるぐると歩きまわりながら延々と考えこんでいた。 そんなある日、ネットでAGA︵男性型脱毛症︶の広告を見かけた。 天啓だった。それから数日は卒論を放ったらかして、ずっとAGAとその治療薬 について調べていた。 男性型脱毛症とは、 ﹁主に男性に見られる脱毛の状態であって、典型的な経過では 脱毛はこめかみの上から始まり、生え際の後退により特徴的な﹁M字﹂パターンと なる。また、頭頂部の毛髪は細くなり、薄毛や禿髪となる。﹂というもの。 治療薬については、日本で売られているのはPという薬がメジャーで、これは一 錠100円もする。禿げ薬は一度飲み始めたらずっと飲み続けなければいけないの で、学生には辛い。 匿 名 巨 大 掲 示 板 の ハ ゲ ス レ を 読 み 漁 る と、 ど う も F と い う 薬 を イ ン ド か ら 個 人 輸 毛には代えられない。すぐに注文した。 商品の到着までに、気になる記事を見つけた。 ﹁男性型脱毛症治療薬の性的機能への副作用は不可逆的﹂ どうも、例のPという薬に勃起不全、鬱病および無性欲症との関連が認められ、ご く一部の症例では薬剤を中止した後も症状が持続していた、という事らしい。 書き忘れていたが、僕には多淫症の気があって、多分一般的な大学生よりも非常 に強い性欲を内に秘めながら暮らしている。自慰は一日に何度もするし、部屋には 男の娘を題材にした成年向け漫画が溢れている。 僕も人間であるから、性欲とは切っても切り離せないし、僕のアイデンティティ の大部分を占めている事は間違いない。男根はいつまでも元気だし、心にはいつま でも男根を生やしておきたい。 そんな僕だから、性欲がなくなるなんて事は想像もできなかったし、マヤ暦の終わ りだか ら 十二 月二 十一 日に 世界 に隕 石が 落ち てき て人 類が 滅 亡す る事 より もあ りえ ない事だ。この記事を見つけた時も、僕には関係ないだろうと心配していなかった。 でも、やっぱり少しは怖かった。 ﹁個人輸入した薬剤で被害を被っても日本政府は何も助けてくれないから、Fを飲 出せる。 剤自体は普通で、一日に一錠、いつでもいいので飲む。 輸入は面倒なので、大量に頼んだ。少なくとも、一年は飲み続けられる量だ。錠 一週間程で、薬が届いた。 三 むやつは低学歴ハゲ﹂というレスを見かけたが、無視する事にした。 ネット上の評判で実績があることは確認していたから、ようやく安心する事が出 入するのが安いらしい。一錠18円。これならお金にあまり余裕のない僕でも手が 二十代前半で禿げ薬を使うだなんて、とも思うけれど、そんな恥ずかしさも髪の 二 せていて、だからこの白い錠剤もすんなりと僕の喉に飲み込まれていった。 た歴史があって、これからもそうしていくんだろう。僕はその歴史に強い信頼を寄 禿げは怖いけれど、人類にはこれまで科学を使っていろいろなモノを克服してき 来た。 自慰もしていない。忙しさとは真実の罪だ。 最近は忙しくて、成年向け漫画をあまり買っていない。家にも帰れていないので、 僕はただずっと、男の娘のちんぽを舐めていたいだけなのに。 分からない。 クリスマス・イヴには、友人に手錠をかけてもらってとらドラ! を観た。 上手く回るようになってきた気がしている。 しかし、薬を飲んでいるという安心感からか焦りから解放され、いろいろな事が 禿げ薬の方については、未だ特に効果はない。 論を片手にゼミで頭を抱えながら教授に怒られたりしていた。 しそうにしている。もちろん僕もその渦の中にいて、ようやく進みを見せてきた卒 薬を飲み始めてから二週間が経った。暦の上ではもう年末で、どこもかしこも忙 れど、愛着も沸いてきているし、なにより効果が出てきている事に楽しさを感じる。 あの時、注文を躊躇わずに良かった。これからも薬は飲み続けないといけないけ 嬉しさがこみ上げる。去年の心配事は卒論と頭頂部が全てだったが、どちらも解決。 初の1枚と比較すると頭皮がほとんど見えなくなっている。 飲み始めてから一週間に一度、頭頂部の写真を撮って保存していたのだけど、最 ようやく、禿げ薬の効果が現れてきた気がする。 しぶりにのんびりした気持ちで休みを過ごしている。 僕は文系だけれど大学院に行くから、特にこれまでと変わるような事もなく、久 卒論は本当の本当にギリギリで提出する事が出来て、無事卒業となった。 その日は、久しぶりに安心して自慰する事が出来た。 とらドラ! のDVDは自分で持っているんだけど、その事について考えるだけ 春休みになった。 で頭が痛くなる。アニメで表現しうる最高の青春劇だとか言っていた奴が居たけれ ど、僕は本当にダメで、単語を見るだけでゲロを吐きそうになってしまう。今年は サークルの友人に﹁最近、アナルとか言わなくなったけどどうしたん?﹂と言わ だひたすら現実に流されるように生きるようになった。 だが、あまり焦燥感はない。大人になるにつれ、感情の振れ幅が小さくなり、た 授がそれを許さず、非常に厳しい生活を送っている。 一ヶ月半が経った。卒論提出直前で、妥協すれば書き上げられそうな状況だが教 卒論提出祝いに買った成年向け漫画は、あまり読む気がしなくて開けずに積んでお ていた。 ナルの事を語りすぎて怒られたくらいなのに、忙しさに負けて何も考えられなくなっ 去年までは男の娘のアナルが頭の中に開いてるといってもいいくらいに友人にア そういえば、そうだった。アナル。 友人が僕に手錠をしてくれていたので、暴れても人に迷惑をかけずにすんだ。 人生で一番楽しいとされる大学生活でさえこうなのに、その先に待っている人間 いてある。部屋も狭くなってきたし、一気に処分してしまってもいいかもしれない。 れた。 の悪意を詰め込んだ塊のような世界に身を投じる事がどうして楽しみにできるのか、 三 更に一年が経った。 かしむように学部時代の思い出を掘り返していた時、彼が言った。 安い居酒屋で、お互いの研究や、就職してしまった友人の近況について話す。懐 少しして、ハッと気付く。 に、過去の自分が考えていた事がまったく理解できない。 溢れ出る性的な単語の数々。なんだコリャ、と思う。たった二、三年前のはずなの 男の娘・男根・状態変化・アナル・剥製・女児⋮⋮。 どんな事をツイートしていたのか、自分の投稿を遡る。 ウントは、残っていた。 友人と別れて家に帰った後、携帯からTwitterにログインしてみる。アカ のかも分かっていない。 いた。僕ももう二年ほどアクセスしていないし、そもそもアカウントが残っている 体が挟み込まれるようになるなどの改悪が続き、最近ではすっかり廃れてしまって 三年前まではSNSの主流ともいうべきサービスだったが、運営の迷走や広告媒 Twitter。 何を根拠に、と聞くと、自分のTwitterアカウントを見てみろ、と言われた。 ているらしかった。 僕はまったく自覚がなくて、単なる冗談だと思ったけど、彼は真面目にそう言っ ﹁お前、変わったよな﹂ 僕はもうすぐ修士二回生で、結局就活はしなかった。 文系博士。文系でアカデミックな道に進むのは自殺行為なのは百も承知だけれど、 やっぱりサラリーマンになるよりは学術に関わっていたい。 最近は研究も結構上手く進むようになってきていて、四六時中研究の事を考えて いる気がする。 髪の毛はもうフサフサだ。今はもう、感謝の念と共に薬を飲み込んでいる。飲む 頻度は減ったが、こういうところから宗教が生まれるんだなと思う。 成年向け漫画は、年末の大掃除で纏めて実家に送った。部屋が倍くらい広くなっ て、すっきりした。あまり自慰もしなくなった。 博士になって初めての年末。冗談でヒゲを伸ばし始めたら、ゼミで長老と呼ばれ 始めてしまった。 研究は今のところ上手くいっていて、論文も一本だけだが出せた。 教授にも最近気に入られていて、このまま上手くいけば、今のゼミにポストを貰 えるかもしれない。頑張りたい。 友人たちはもう大体が就職して、社会の奴隷になってしまっていて、やっぱり資 本主義はなんとかせねばならんと思う。学部時代にマルクスマルクス言って煙たが を 観た友人も博士 に進学してい れてたのが懐かしい。あの時から僕は成長できたんだろうか。 四 三年前のクリ スマス ・ イヴに一緒 にとらドラ! て、今日、久しぶりに会えた。 四 僕は、いつの間にか、心の男根を失っていた。 もう僕には男の娘のおちんちんを舐めたいという本能も、男の娘のアナルの中で 暮らしたいという欲望も、状態変化した女の子に対する興奮も、女児の足裏に貼り 付く妄想も、なにもない。 なにも、なくなっていた。 愕然とする。いつから、僕は変わってしまっていたのか。 思い返してみれば、最後に自慰したのはいつだったかすら思い出せない。性的な 事を考えた覚えもない。男の娘漫画を読んでもいないし、そもそも勃起した記憶が ない。 最初は忙しさと疲れで性欲がなくなってしまっただけだと思っていて、放置した。 気がついたら、それが当たり前になっていた。 ﹁男性型脱毛症治療薬の性的機能への副作用﹂ 今も薬は飲み続けていた。まったく疑う事なく。 多淫症であったはずの僕が、自覚なしに、無性欲な人間へと変えられてしまって いたのだ。 一気に襲ってくる、目の前が暗闇で塗り潰されるかのような絶望。動悸が激しく なる。 自分の人格が、自分で気付くことなく変化させられてしまっている。昔だったら、 成年向け漫画の題材として喜んで読んだようなシチュエーション。 今はただ、いつの間にか世界をすり替えられて、気がついたら自分までも偽物に なっていたという、恐怖。 逃げ出すようにPC画面へ向かい、男の娘画像を検索する。 未だにpixivは健在で、エロ画像も無尽蔵に蓄えられ続けている。良質の男 の娘画像のサムネイルが画面に表示される。評価の高いものからクリックする。拡 大。少しして、次の画像へ。次へ。次。次。 失った自分を探し求めるかのように、順に見ていく。見続ける。何百枚と。 五 半日、PC画面に向かっていた事に気付く。 いつからか、涙を流していた。止まらなかった。 結局、僕の男根は勃起することはなかった。 どんなに良質なエロ画像でも、どんなに自分で刺激を与えてみても、だめだった。 髪の毛と引き換えに僕は、心の男根も、本当の男根も、両方を失ったのだ。 それから、薬を飲むのをやめた。でも、ダメだった。 ﹁性的機能への副作用は不可逆的﹂ 僕の男根が再び立つ事はなかった。 五 何もかも信じられなくなり、学校にも行かなくなった。研究もしていない。自分 がどういう身分なのかも今は分からない。 いつから間違ってしまったのか。多分、僕はもっと、自分の男根に自覚的である べきだった。いくら悔やんでも僕から性欲は消えてしまったし、僕の髪の毛はフサ フサになってしまった。 もう、なにもかも、戻らない。 ※※※ 上記の記述は、筆者の友人のH氏の体験を、筆者がフィクション形式として纏め たものである。 ﹁彼が変わった事を指摘した﹂友人であるところの筆者を呼び出し、長々と語っ た彼は、その後しばらくして精神病院に入ることになった。 自分と男の娘との境界が曖昧になっている状態である、との事だった。 し み 了( 現在も彼は隔離病棟の一室で、不能になった自分の男根を一心不乱にこすり続け ている。 ほ 見 星 著 者 ) 六
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