密教の風水観

密教の風水観
2015.3.17
密教は内容が煩雑で非常に難解である。今回、私自身の風水観とも類似性があるので、密教の
風水観について考察したい。密教は何となく風水思想をも含有している様な気がするし、その様
な話も読んだり聞いた事があり、興味は有るのだがよく意味が分からない、という人間がほとん
どだろう。此れを一読されれば、”私の密教観”がよく伝わる事でしょう。風水理論(私が思う。
中国風水と違うし密教風水である保証など何も無い)に基づいて考える事が、一応誰でも出来る
様になる。
まずは、「密教は精緻に構成されている」、という事が大前提です。密教の修行は、即身成仏を
目指す、五段階の修行階梯である「五相成身観」による修行法を確立している。
一、通達菩提心
二、修菩提心
三、成金剛心
四、証金剛身
五、仏身円満
教義的な「精緻さ」というのは、例えば、菩提「心」、金剛「心」、金剛「身」…、といった
具合に、心と身という字を分けて使っていますが、それが意図的に構成されている、という事で
す。金剛心とあり後に金剛身とは、上の階梯になると(心→身)に変わっているので、何か意味有
り気です。「精緻ではない」というのはこの逆ですから、心と身を大した考えも無しに配置した、
等の事と定義します。修行を積んで上階に上がっていく、密教の「上下観」が読み取れる。四の段
階より二の方が下位という事で、空海の著作もそのような感じです。ここで、「何故五相なの
か?」という単純な疑問も湧いて来る。十階梯にしてもいいのに、五階梯にしているのは何故か?
…密教教義内において「五」という数字に連想するのは、まずは五仏である。大日如来、阿閦如
来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来です。更には方位、東西南北中央であり、大日如来を
中央に配置し東西南北に四仏を置く。方位という考えは風水に於いて極めて重要です。東西南北中
央とは、世界、宇宙、大自然の事なので、各方位に仏を配置するという事が其のまま、「大宇宙
との合一、大自然との合一、仏との合一」という密教の教義内容を示している。自然の構成要素
は密教では、火水土風空ですので、厳密には「地水火風空」です。精緻ならば、火水土風空ではな
く地水火風空である事に意味があるので、考えるに、土とせず地とは大地、下方を示している。
地の上に水があり、その上に火、その上に風、そして空と、自然其の儘の順序、上下観を表して
いる事に気づきます。自然観法として、ありのままに自然を見よ、という密教の姿勢を垣間見る。
密教では自然をありのままに見れるのは高僧です。修行者が合一するのだから、「五相成身観」
とは、「身は五相で成っていると観よ」と素直に読み、身も「地水火風空」の五相で成っている
事は重要。同じ構成要素であるもの同士が合わさると理解し、合一なのだから、このように解釈
するのが単純明快ではないか。五相成心観としてもいいような気がする。心を育んでいく事が重
要だからです。しかし、五相成身としているからには、即身成仏という単語にただ合わせただけ、
という事でもないだろう。物質(身)五相を強く連想する。
以上が、密教の基本的な教理と私は理解します。よく密教の特徴を表している、と思う。では、
「自然の構成要素(地水火風空)を自然(五方位)に配置して構成しましょう。」何故各方位の
如来に例えば「火」等を当てるのか?、と疑問を抱かれるかもしれません。確かに、各方位の如
来は五相(地水火風空)で構成されているだろうし、火だけではない。要は、“部分であって全体
である”という意味と解釈出来る。”大乗仏教的(一元論的解釈に基づく私見)”です。こう考える
と曼荼羅思想の調和と整合性が取れる。各方位に火水土風空を配置しなければ風水にはなりませ
んので、ここで風水も「地形を見て、方位を考え、自然要素を関係付ける学問」と定義しておこ
う。
配置する際には、「地水火風空」の考察により得た「自然をありのまま見る」という考え方が
重要です。そういう考え方をしているのだから、それに基づいて配置するのが密教的に妥当ではな
いか。縦一列の五相配置から十字型に切り替えて配置しなければならない。まずは中央配置から
考える。真中に置くのはどれが相応しいか、大乗仏教的に考えると中核思想である「空」を中心
に置く事が妥当。他の四相を中心に置く理由が判然としない。仏の名前からしても「空」を北位
の不空成就如来には当てないだろう、と思う。不空を成就するのに空を当てるのは相性が悪いの
では?と、「不空成就如来はさとりの体得、涅槃を示している、という密教の教義」なので、つ
まり、北を最上方と解釈出来よう(これは四方の等位性を崩すものではない)。上方が定まれば、
南が下方という事になる。つまり、南の宝生如来 に「地」を置くのが良い。名前からしても宗祖
空海が大日如来と強固に結縁している事からも、空を中央に配置する事に特に違和感を覚えない。
中央が大日なので、日は火の王であるから、中央に火を置くのがよいのでは?という意見もあろ
う。中央に修行者を置き四方を見た場合、修行者が空じていく過程が大乗仏教的な修行と解する
のが妥当であるので、又自然観法上、火の王である日は東から上って西へ沈む。密教では護摩火
を焚いて聖なる儀式を始める事からも、点火は東、つまり東に火を配置するのが良いだろう。日
以外の火だと東西定まらず又あえて「日」よりも注視する理由も無い。又日は中央(大日)で頂
きに上る。あとは、水と風だが、これらを中央に置く理由も弱いので中央はやはり「空」で確定
させ残りの北と西を考える。胎蔵曼荼羅の中台八葉院に表される胎蔵四仏は北の方位として天鼓
雷音を配置している。雷が鳴り風も吹くだろうがそれよりも雨を強く想起させる。雨は上から
降って来る。(自然環境として雨雲より上方でも風は吹いているが、昔は雨雲の上方へ飛行機で
行って確認する、などという事は無い)、又は坊主(尊い仏法「僧」)の事を雲水と呼ぶ。又は、
密教では高僧は招雨法を扱う。更には、灌頂儀式では頭上より水を注ぐ。修行者の上方から
「水」で四方が四大海であり方位を示していると解釈出来る。以上より、北は「水」が妥当であ
ろう。ゆえに西には「風」を置く事になる。東西は同列だが、西に水を置くと、水と火は弱め合
うだけであり、風と火だと、風は火を消し去りもするが強める事もある。中央の空を挟み適度な
風を入れる事で火をより盛んにする(という考え方は宅地風水に応用されよう)。相性の良いも
の同士を同列に並べるのが良い。
*事実行者は、火の前で座禅をしたり火渡りしたり滝行したり、と自然行に励んでいる。
*五仏配置とは劣中勝三種と解す。
密教の風水観 <了>
2015.3.17