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同窓生からの寄稿
第6回 私の履歴書
徳丸 博美(8・増)
輸出不適格の真珠の廃棄(其の二)
輸出組合集荷粗悪真珠の廃業第一回は、昭
和32(1957)年10月、場所は神奈川県三浦三
崎沖(真珠海に還る式典)であった。
私が輸出組合に勤める以前のことであり、
輸出組合団体史「真珠の歩み」を繙くことに
なる。
真円真珠が養殖によて完成され、天然真珠
“真珠祭り”
真珠を海へ還す式典。第2代理事長・横田稔氏
と少しも変らぬ養殖真珠の出現は驚きの眼を
(私が就職した時の理事長)
見張らざるを得なかったのである。
古代からの天然真珠の市場であるヨーロッ
そして、「御木本のパリー裁判」によって、
パへ養殖真珠をもって、進出して来た御木本
全世界に拡まり、さらにその後も御木本幸吉
は、ヨーロッパ宝石業界では、自分らの営業
氏が粗悪真珠排除により、わが国養殖真珠の
を根底からゆり動かす敵として反抗の手を挙
声価を維持する目的を以って行なった「真珠
げ次第に種々の画策をなすに至って来た。
の火葬」によって、一躍世界の隅々までその
先ずは、大正10年(1921)5月4日に、ロ
名を成したのであった。
ンドン発行のスター紙が「某商人が日本産の
御木本の「パリー裁判」「真珠の火葬」に
養殖真珠をば、天然真珠として発売したが、
ついて綴ってみたい。以下養殖真珠の歴史の
それは驚くべき精巧な品物で、切断してみな
一端である。
ければ見分けがつかない、この詐欺物同様の
水産庁︵真珠検査所︶時代。ミキモト・パール
アイランドへ出張︵㊨4回卒堀川先輩と著者︶
真珠の出現のため、市場は大恐慌を来しつつ
ある。これこそ当地の宝石業界をかく乱する
ものである」といった。詐欺事件とまで曲筆
したもので、ロンドンの御木本真珠店には、
新聞記者達が詰めかけ、翌日からはロンドン
だけでなく、全英国の各新聞は競ってこの記
事を掲載し、是々非々の所論を掲げて、ケン
ケンゴウゴウの騒であった。やがえて天然の
ものと養殖のものの間には、何ら本質的な相
違がないということが判然となり終局を迎え
−1−
るのだが、余炎は海を越えてパリーへ移って
私は福井県立若狭歴史民族資料館(鯵本学
行ったのである。当時フランスは第一次世界
芸員)に詳細を知りたく電話で問合せをした
大戦の痛手がなお深刻で奢侈品の輸入を厳禁
が、結局は地元の大牟田市立図書館を通じて、
していたので、真珠の如きものは再輸出する
国会図書館より、㈱ミキモト・真珠研究室 ことを条件としなければ輸入できず、フラン
小松博『縄文前期の真珠の鑑別』(鳥浜貝塚
スの宝飾業界(組合)に、フランス政府は輸
6・1987年)を取り寄せる事にした。
入拒否の権限を委託していたので、この拒否
鑑別の結果を要約すると、年代は
権を濫用して、養殖真珠は模造真珠として宣
5500±40、大きさは16×16×10㎜、淡褐色の
伝し、真珠の輸入を阻止せんとしたが、御木
碁石状の形をしており、底面はうずまき様の
本は仏国国務省にその不当を訴え、その結果
しわがある。照明のあて方によって僅かに光
輸入拒否権が彼等の手から税関に戻された。
沢を出す。光学顕微鏡で表面を拡大すると、
又組合例の不当輸入阻止を民事裁判に訴え、
真珠層構造の表面に、特有の結晶成長横様が
再三の審理の結果、天然真珠と同一の取扱い
認められた。母貝は大型の淡水産2枚貝(巻
を受けるようになったのである。更に、養殖
貝型ではない)で、カワシンジュ・ドブガイ
真円真珠の価値を逆用し、模造真珠を御木本
(ヌマガイ)・カラスガイ・イケチョウガイ
パールだと称して販売する悪徳業者も多数あ
が考えられるが、不明である。但しイケチョ
らわれたので、その中の一人を裁判所に告発
ウガイは現在琵琶湖にしか生息していない。
し、今後かかる詐欺行為をなす者は厳罰に処
以上であった。
せらるべき旨の判決を得た。
現在の日本の淡水真珠養殖は、淡水湖であ
他方、学者の中からも、ボルドウ大学の教
る琵琶湖と茨城県の霞ヶ浦の2ヶ所で、主に
授ブータン博士の如き学者が、きわめて公正
イケチョウガイ・カラスガイの2種の母貝を
な見解のもとに、真円真珠が天然産のものと
利用している。
同一なることを確認し、その所説を学界論と
一方、日本の海水真珠の母貝(小型二枚
し、また著者においても、広く世に紹介公表
貝)、アコヤガイ(Pinctada)は、日本海側
した。すなわち、英国におけると同様に仏国
は福井以南であり、太平洋側では三重(志
においても学問上からも天然真珠と同様の資
摩)以南と、生息海域は広いのだが、アコヤ
格を与えられ、ここにおいて養殖真珠の名声
ガイを出土する貝塚は非常に少なく、九州の
は普く世界の隅々にまで知れ渡ったのである。
鹿児島県に集中している、それは、気温・水
温・水深(3∼6米)の関係があるのではな
いか、日本の周囲は海洋で、潮間帯には無尽
余談 古代史のなかに見る真珠(其の二)
蔵に食用の貝類が多く、全国に散財する貝塚
海外の古代史から、「日本の古代史のなか
は、ほとんどが食用に供された魚介類の残滓
に見る真珠」に移してみたい。なんと言って
である。更に鹿児島県の貝塚(縄文後期4500
も、一番古い真珠(バラ珠)は、福井県三方
∼3000年前・草野貝塚・武貝塚・柊原貝塚
町の縄文前期の遺跡・鳥浜貝塚から発見され
等)には、アコヤ貝の層があったという。そ
た5千5百年以前の真珠だろう。
れに海に潜らないと採れない貝であるから、
−2−
そう簡単に真珠が出てくるわけではないが、
その最たるやかなりの物である筈である。一
体どこに行ってしまったのであろうか。非常
に興味深い。
『魏志倭人伝・後漢書伝』
魏志倭人伝⑵﹁白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅
推測される。アコヤガイだからといっても、
鏡百枚真珠鉛丹各五十斤﹂
意図的に海水真珠を採取していた事が容易に
註釈かた手に、細かに読んでみた。量的に
はさして長文ではない。中国・三国時代の史
に興味深くびっくりしたのは、真珠は現代の
実を記した正史で、晋の陳寿撰(233∼297
真珠と言う漢字が使用されていることである。
年)・「魏志」の最終巻30・東夷伝の倭人の
又『後漢書倭伝』と見ると、「白珠・青玉を
条で、一般的には『魏志倭人伝』と呼ばれて
出し」とあり『魏志倭人伝』との違いがある
いる。後漢書の方が先史書であるが5世紀に
が、むしろ私は、白珠は真珠を意味するもの
入って完成している。(中国正史で、他にも
であり、間違えたと理解する。なお、珠は海
例がある)両者の内容は重複部分が多く『後
から産するものであり、玉は山より産するも
漢書倭伝』が『魏志倭人伝』を模として記述
のである。『倭人伝』の真珠の部分を要約す
されていることがわかる。卑弥呼や邪馬台国
ると、「倭の国には、海で真珠を産し、山で
が出てくる、誰でもが知っている日本古代史
は青玉(せいぎょく)を産する。倭の水人は
に関する最古の資料で、邪馬台国は何処かが
体に入墨をし(サメ類を避けるため)、水は
最重要課題であるが、実は日本最古のアコヤ
浅くても深くてもいとはず、魚や鮑を好んで
ガイ真珠の記録書である。
とる」。次に驚いたのが「親魏倭王卑弥呼に
『魏志倭人伝』には倭国(日本)の特産物
勅を下す。男生口四人・女生口六人(セイコ
が列挙されているが、その冒頭に「真珠と青
ウとは奴隷の意味)・木綿の布地を持って遠
玉を出だす」となっている。私にとって非常
方より朝貢に使を遣はしたのは、あなたの忠
魏志倭人伝⑶﹁男女生口三十人貢白珠五千孔青
大句珠二枚﹂
魏志倭人伝⑴﹁出真珠青玉﹂
−3−
孝であり、私は大変貴方をいとしく思う・金
禁止の古墳「天皇陵」には大漁の真珠が存在
印紫綬し、親魏倭王となすと勅を下した。」
する可能性がある。中国及び日本では、第5
その上、数々の引き出物(白絹・銅鏡百枚・
回余談(其の一)でも一寸と触れたが、元来
五尺刀2口、真珠五十斤等々)なで頂戴し更
基地には真珠もともに埋葬する慣習があり、
に倭の国の人々に示しなさいとある。又私が
「飯含」(古代の葬礼で、死者の口の中にふ
驚いたのは、この真珠である。日本から持参
くませる玉)も行われていたようだ。大化改
すべき貢物を魏から貰ったと言うことである。
新(645年)の翌年薄葬令を出し、真珠の副
恐らく『古代史のなかに見る真珠』(其の
葬等を禁じているが、その証拠となるような
一)に綴った孔子の著書「書経」で記述する
墳基の「飯含」「副葬品の真珠」は発掘され
貢物用に供した淡水真珠であろう。中国には
た事例はなかったが、又8世紀に入ると仏教
淡水真珠を産出する湖沼はたくさんある。
の伝来と共に火葬も実施されるようになった。
そして、3番めは登場する真珠の記述は、
ところが、1979年(昭和54年)古事記の編
卑弥呼が逝去し、宗女壱女が魏に使節を送り
纂者太安麻呂(723年没)の墓が、奈良市北
朝貢する。内容は男女生口三十人、白珠五千
瀬町の茶畑から出土した。そして四粒の真珠
孔、青大句珠二枚(まがたま)、異丈雑錦二
が発見された。当時大きな話題となったが、
十匹とある。「白珠五千孔」とは、私は「孔
青銅板の墓誌と四粒の真珠だけだった。骨は
穴真珠五千粒」と解して、連用穴明真珠と訳
焼かれていたが、真珠は焼かれていなかった。
したい。
「飯含」ではなく、副葬品という事になると
日本の3世紀から5世紀は古墳時代と言わ
思うが、真珠は遺体焼却後、横に添えられて
れるが、副葬品としての真珠は発見されてな
いたことが推測される。
い。当然真珠は採取されているわけであるか
昭和54年2月に橿原考古学研究所から、鑑
ら、時の豪族達の手には、真珠があった筈で
定を依頼され、真珠検査所の木村所長、金井
ある。「古事記712年」・「肥前風土記715
輸出紹介理事長等は、現地に出向いて、次の
年」・「日本書記720年」等にも海水アコヤ
ように鑑定した。
ガイ真珠に関係する記述はある。例えば真珠
㈠ 4.5ミリ程度の球状形のアコヤガイ天
に関する最も古い記述は、上記古事記には、
然真珠で、明らかな真珠層を認める。
玉依昆売命(タマヨリヒメノミコト)御歌と
㈡ 産地は詳らかではないが、伊勢志摩
して、あかだまは おさえひかれど しらた
地方には、古くからアコヤガイが生息
まの(欺民多麻) きみがよそいし とふと
し、天然真珠を産出していた。記録も
く ありけり とある。
あり、この真珠も志摩産のものと推察
大宝律令(701年)によれば真珠を取り扱
される。
う役人もおり、祖税として真珠が徴収されて
このことは、マスコミにより大きく報道さ
いた風習が広がり、需要が増したようだ。
れた。約1,300年以前の真珠であり、地中の
東大寺本尊の宝冠・法隆寺金利容器、又正
墓という劣悪な条件に置かれ、なお真珠層の
倉院宝物の中には、刀子の飾り・仏具品・装
輝きが失せてないのには感動したとい言う。
飾品として真珠があるが、数が少ない。発掘
木村所長の話には記憶に残っている。
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