名県令・楫取素彦(14)県民 キリスト教に関心 楫取素彦・寿子夫妻を後ろ盾に、小野島行薫によって始まった酬恩社運動は全国へ広ま りながらも、その終焉が突然にやってきた。その発展に本山が危惧の念を抱き、 「 教会条例」 を制定し大教社を禁止すると、小野島も第一線を退いたからである。 酬恩社運動がこうした経緯を辿ったからと言うわけではないが、上州人は浄土真宗より もキリスト教に関心を示し、積極的に受容した。寿子夫人が「外国の教になびく人の出来 候も、この御法の有がたき事を知らぬ故なれば」と書き記したのも、群馬県でのキリスト 教の広がりを目の前にしてのものであった。 群馬県は、幕末開港以来、生糸や蚕種が最大の輸出品となったことから、豪農・豪商ら は横浜でそれらを売りさばき、富を蓄積した。彼等は製糸業などを営む産業資本家に成長 するなかで、西洋の精神文明としてのキリスト教を受容するに至った。 県内の教会は、組合教会派(新島襄系)のものが安中・高崎・前橋・原市・吾妻(原町)・ 名久田(高山村) ・沼田・緑野(藤岡)など次々に創設されたほか、桐生では日本基督公会 派(長老派)の、島村(伊勢崎市)では美以教会(メソジスト派)のそれぞれ伝道により 設立された。さらに日本ハリストス正教会もニコライらの伝道により、新川村(旧新里村)、 水沼村(旧黒保根村)、梅田村(桐生市)、須川村(旧新治村)、前橋、高崎と 説教所や教会 が設立された。 楫取県令によって明治十五年(一八八二)に開校した群馬県女学校は、楫取が去ったあ との同十九年三月に財政難を理由に廃校になった。女子教育の重要性は、小野島行薫ら真 せいよう 宗関係者もキリスト教関係者もよくわかっていた。そこで、小野島ら は同二十年清揚 女学 校(前橋)を設立した。これに対して、キリスト教関係者は明治十九年三月英学校(前橋 、 共学)を設立した。校主は熊本バンド出身で同志社に学んだ加藤勇次郎であった。 清揚女学校は校主に県女学校取締役であった芦沢鳴尾、顧問に佐藤與三 知事の母など県 幹部の関係者を迎えたが、二年後には廃校となった。一方、英学校は同二十年に新築移転 し校名も前橋英学校と変更。さらに、翌年には在籍生徒に女子が多かったため前橋英和女 学校とし、同二十三年には「上毛共愛女学校」と改称した。これは群馬県の全てのキリス ト者が支える女学校という意味であった。 二つの女学校の盛衰を見ても、上州人が浄土真宗よりキリスト教に関心を示したことが わかる。
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