パリ史こぼれ話 第1回(11 月 5 日) : エッフェル塔ものがたり 質 疑 応 答 [回答は常体で標記] 1.ロンドンの対抗意識は無かったのでしょうか? エッフェル塔に対するロンドン子の反応のことだろうか。つまり、パリのエッフェル塔 を意識するあまり、ロンドンでも鉄塔を建てる動きがあったかどうか。 これについてはよく知らないといわざるをえない。当時のロンドンの新聞をみれば、ど のような反応を招いたかがわかるだろう。当代随一の人気新聞に‘Illustrated London News’という挿絵入り日刊紙があり、横浜の外交資料館がこれを保有している。これを 読めばロンドン子の反響がわかるだろう。 とにかく、1889 年のパリ万博を訪れた外国人ではイギリス人が圧倒的に多かった。当 時のイギリスでは中産階級の間で外国観光旅行が人気で、挙って海外に出かけた。トマ ス・クックという旅行会社(現存)がそうした流行熱を煽った。19 世紀半ばから世紀末 までのイギリス帝国は世界的規模で影響力を行使した。英領インド、アフリカ植民地、オ ーストラリアやカナダなどの自治領、西インドなど、海外に世界最多の従属国をかかえて おり、そこに旅行に出かけるのが成金たちの間で大流行したのである。 イギリス人はヨーロッパ大陸にも足を伸ばしたが、人気スポットはフランスとスペイン、 イタリアギリシャだった。ドーヴァー海峡の対岸のパリに 300 メートルを超える鉄塔が建 ったと聞いて、そこに興味を示さないはずがない。とにかく、パリ第7区のラップ大通り Avenue Rapp にはパリ観光客向けに数件のホテルが開業したが、宿泊客のほとんどはイ ギリス人というありさまだった。通りの名を Rapp Street に改名したらどうかという冗談 も罷り通るほどだった。パリ社交界で浮名を流したイギリス皇太子で後のエドワード七世 も長く滞在した。だから、エッフェル塔1階のイギリス・レストランなのである。 ロンドンがパリに対抗し鉄塔を建てる計画があったかどうか?-だが、おそらくそれ はないであろう。当て推量で済ますのではなく、まじめに検討してみる価値はあると思う が…。近世・近代はともかくイギリス人はもはや誇り高くなっており、世界がイギリスを 模倣することはあっても、世界の真似をしようとは思わない。ましてや相手が長年のライ バルのフランスである。オスマン都市改造によってすっかり模様替えしたパリに驚嘆した のはまちがいないが、ヴィクトリア期のロンドンでパリ風の建物や文化は何ひとつ生まれ ていない。唯一の例外がフランス人のシェフを雇い入れるぐらいのものであった。 商人国家の伝統を引き継ぐイギリス[注:国家は経済活動に不干渉の原則]では国家や地方 自治体が文化施設をつくるとはいってもその公共性や実用性第一主義を貫き、カネのかか らない(公的財政負担の少ない)方式を採るケースが多かった。よって、虚飾の象徴にも 等しい 300 メートルの鉄塔をつくる構想などは論外であったように思われる。 当て推量はいい加減にし、この質問については暫く預かり、自分で検証してみたい。 1 2.高い建物の一つの門についての質問 Porte de St.-Denis Porte de St.-Martin どうしてこんなに大きな門を何のために造ったのか — 今日の テーマからあまり外れていれば答えなくて結構です — 先日、パリの旅行で見てきた ばかりです。 古代ローマの凱旋門を模したサン=ドニ門とサン=マルタン門は古いように見えて、建立 されたのはルイ十四世治世の最盛期で、それぞれ 1672 年と 1674 年のことである。前者は フランス軍のライン地方の占領を祝してのもの、後者はドイツ、スペイン、オランダ連合 軍に勝利しブザンソン(フランシュ=コンテ)を奪取したことを記念してのものである。 ともにパリ市が造営した門で、ルイ国王の栄光を祝すという目的をもっている。 サン=ドニ門の高さは 24 メートルもあり、エトワール凱旋門が完成する 1836 年までの 凱旋門の中で一番高かった。サン=マルタン門は 17 メートルだが、なぜ同じ高さでないの か不思議だ。おそらく費用のせいではないか。ルイ王の征服はその後も続くであろうし、 それを考えると、市は巨費を次々と注ぐわけにいかなくなったためと推定されている。 思うに 1670 年代というのはフランスにとって軍事的勢威がピークに達した時期である が、以後、1872 年に始まるオランダ戦争が長引き、徐々に国庫を圧迫していく。当時の財 務長官コルベールはルイ王の度重なる征服戦争を快く思わなかったが、このオランダ戦争 だけは例外で、オランダを打ち破らないかぎり大陸征覇はできないとみていた。それで、 オランダ戦争には賛意したが、それに引っ張られ、財政がひっ迫したのは皮肉である。 3. 批判としての商業主義というか、その具体的な例を知りたい。 (i) 当時の物価から類推するに、入場料が異常に高いとか、 ・・・ (ii) レジュメ 16 ページの「第4節 新機軸」①~⑧がそう思われたのか? ともに良い質問であるが、 (ii)についてはわからないと答えるしかない。 (i)については講義で述べるべきであったと思う。たしかに、万博の入場者は 3,200 万もいるのに、エッフェル塔に昇った客は 200 万しかいないのは不思議である。 万博そのものの入場料はウィークデーと祝祭日では違い、また周遊券や鉄道料金と一緒 にチケットが売られるので、一概に言えない。基本的にウィークデーで 1 フラン、祝祭日 はその半額 50 サンチームであって、さほど負担は大きくない。しかし、各パヴィリオン での入場料は別で、そこでケース・バイ・ケースで入場料を取られる。 エッフェル塔は見るだけならタダ(見えるからしょうがない)だが、階段昇りでは 1 フ ラン、1 階までエレベータを使えば 2 フラン、2 階までのエレベータで 3 フラン、3階ま でエレベータで行けば 5 フランを徴収される。当時の労働者の日給の平均が 5 フランであ り、3 階まで家族そろって 5 人が昇れば 5 日間ぶんの賃金がふっ飛んでしまう。つまり、 エッフェル塔はかなり高値の花であったのだ。 2 なぜ商業主義に万博が貫かれたかというと、 前回1878年の万博が大赤字になったため、 次回の万博ではその点において釘を刺されていたのだ。結果的に 89 年万博は大幅な黒字 (800 万フラン:総支出は 4,900 万フラン)となり、エッフェル塔会社も黒字となった。 4.エッフェル塔の経済効果を知りたい — 資料があるとして、特に完成前と完成後の比 較において — 難問である。 「塔」というミクロな対象について建立作業と事業展開の経済効果を推し 量るのはたいへん難しい。この主題についてまとめた著作に接したことがない しかし、これを研究する意味がないわけではなかろう。完成前と完成後の比較について 経済効果を見るとなると、場所と時期を限定して考察しなければならない。パリまたはパ リ地方という広い範囲で ― 宿泊業、土産業、観劇、雇用と収入、他観光施設への派生効 果など ― みなければならず、しかも、鉄道による資材・旅客の輸送となれば、ナショナ ルな範囲でみなければならないだろう。また、 「塔」に経済効果があるといっても、それ が中短期の景気変動の作用とみるべきか、それとも「塔」の作用とみるべきかを見極める のは難しいといえよう。 5.台座を造るのに 25 メートルも掘ったようだが、建設機械のパワーショベルがないの で「人力」か? 人力である。まだ油圧式の機械装置は誕生していないため、ツルハシとスコップで掘る しかなかった。すでにダイナマイトは生まれていたが、トンネルの掘削工事とは違い、爆 発力の大きいダイナマイトで土壁を崩すわけにはいかない。ましてや、現場はパリのど真 ん中、しかも、中産階級の住宅地区である。シャン・ド・マルスは沖積層であり、幸いに 堅い岩盤がなく土質は柔らかくて掘るのにさほど苦労しなかったようだ。授業でも言った が、粗石灰岩に恵まれたパリには石切り場がここかしこにあるにもかかわらず、このシャ ン・ド・マルスの地下にそれがなかったのが幸いした。 エッフェルがかかわった大事業にパナマ運河掘削がある。後に収賄事件「パナマ疑獄」 に発展し、彼も連座するが、彼は構想(閘門式運河)を示したにすぎず、結果的に無罪と なった。その工事は同時期に始まっていた(1879 年から)が、1888 年になると、事実上、 工事は停止している。その元を質せば、掘削が極度の難工事だったからだ。山を削り掘り 進んでいくのはよい。だが、大雨が降ると、切通しとなった両方の山から掘削した穴に泥 水が滝のように流れ落ち溜まってしまう。土砂はトロッコ鉄道で運び出すのだが、そこが ため池になってしまってはお手上げ状態となる。おまけに黄熱病と熱射病で労働者が倒れ た。パナマ運河掘削事業の総責任者レセップスは有罪を宣告され、獄中で精神錯乱に陥っ て死亡する(1894 年) 。スエズの掘削のようなわけにはいかなかったのだ。 (c)Michiaki Matsui 2015 3
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