1952年 李承晩ライン 日米行政協定 保安隊設置

---------- 1952 年 海外 ----------1 月 大韓民国は一方的な国境を海に設定する。
「李承晩ライン」と言う。サンフランシスコ平和条約に参加できなかった腹いせらし
い。アメリカが講和条約の時に設置したラインを無視して設置した。大韓民国の代表
の李承晩は日本嫌いで有名だったうえに、当時の韓国は国際法の知識が不足している
と同時に、自国民のうけも狙っており、かなり勝手にこういうことをやる。そのライ
ンを越えた日本船は捕獲(拿捕という)される事件が相次いだ。漁民はたまったものでは
ない。この時に竹島もライン内に入れたことが、もめる原因になる。
7月
エジプト革命
23 日に、ナセルやサダトの率いる将校団がクーデターを起して国王を追放し、当時
国民に人気のあった上級軍人を初代大統領にかつぎ出した。エジプトは 1922 年に
「独立国」となっていたが、イギリスがスエズ運河を支配するなど形式的なものだ
った。国内でやっと確立された立憲君主制も国民とつながるものがなく、モノカル
チャー経済が支配し,国民は飢える寸前だったこともある。
10 月
イギリスが原子爆弾を保有する。
10 月
ソ連で「第 5 次 5 か年計画実施」
11 月 マーシャル諸島で初の水素爆弾実験が行われ、アメリカは水爆の保有に成功する。
水爆 1 発で広島,長崎型原爆の 100 倍以上はある。そんな危ないものを作ったらも
っと危なくなると思うが人類はあまり賢くはない。1949 年 9 月のソ連 原爆実験成
功を知ったトルーマン大統領は、反対派を退けて水爆開発を推進し、史上初の水爆
の実験が行われた。実験では島は海上から消滅し、海底には直径 1600m 深さ 70m
の巨大なクレーターができた。こうして、核兵器は水爆の時代に移行していく。マ
ーシャル諸島ではこの後も数多くの核実験が行われ、環境はあまり良くないらしい。
アメリカが詳しい調査報告を出していないのは、後ろめたいに違いない。
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---------- 1952 年 日本 ----------2 月 日米行政協定(現在の日米地位協定のこと)が結ばれる。
特使ダレスの発言自体は 1951 年で、朝鮮戦争およびソ連の進出に備えての
ものだった。ダレスは大正中期のアメリカの外交官ランシングの甥。確か
に当時の日本は「軍備」と呼べるものはなく、アメリカに頼るしかないが、
日米安保条約は表向きで、本当はこっちの「行政規定」の方が大事だった。
今でもこの協定は生きていて、日本の陸・海・空をアメリカ軍が自由に使
える。だから阪神大震災の時に「日本のヘリが航空法の制限で被災地に飛
べないのなら、米軍に頼んでヘリを出してもらおう」というブラックジョ
ークがあった。
4月9日
日本航空の「もく星号」が伊豆大島の三原山に墜落する。
東京 羽田発 名古屋・伊丹経由 福岡行きの便だったが、離陸して直後に消息を絶
ち、 翌日の朝に山腹に墜落しているのが確認された。乗客は全員死亡。終戦から
6 年、1951 年に就航した旅客機で、戦後初の民間航空機だったが、初の民間航空
機の事故でもあった。ようやく富裕な日本人なら利用可能な航空機の登場だった。
機体や操縦するパイロットも、アメリカからの借り受けで、日本の空は占領統治下にあ
り、航路もアメリカ空軍の関係者によって統制・管理されていた。残された会話から、
どうやらパイロットも管制官も「三原山」の標高どころか、その存在も把握していなか
ったことが原因らしい。また調査はアメリカ優先のため、実は真相はあまりよくわかっ
ていない。
4 月 28 日 プレスコードが解除される
プレスコードとは連合国軍総司令部=GHQ による報道統制で、正式には「日本に与う
じゅんそく
る新聞遵則」。1945 年 9 月 21 日に発布で、この年サンフランシスコ平和条約発効で解
除になった。占領軍について破壊的な批判や不信、怒りを招くおそれがあることは書
いてはダメ、など 10 項目があり、
「事前検閲」で合格したものしか出版できず、検閲
の跡すら残らないから、その存在を普通の日本人は知らなかった。違反について GHQ
内の民間検閲支隊が調べ、支隊は日本人の協力者を大勢かかえていて、給料は大変良
かった。つまり日本人を日本人が監視していたわけで、それが嫌で雑誌社を辞めた人
も結構いる。このコード有効期間は、原爆の被害写真も公開できなかった。特に、9
月 13 日の朝日新聞は投下後の悲惨な写真を初めて掲載したことが、プレスコード設
定の直接のきっかけかもしれない。
「ラジオコード」もあり「真相はこうだ」という「こ
の戦争で日本が何をしてきたか」という解説番組で、敗戦から 7 年間、徹底的に日本
人には、何でもすべて日本が悪かったという意識を植え付けられた。まだそれが解け
ていない人もいるようだ。これを「洗脳」という。原爆攻撃に匹敵するほどの、野蛮
な行為で、アメリカのどこが文明国なのか、疑う。
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---------- 1952 年 日本 ----------5 月 血のメーデー事件が起きる。
敗戦後,皇居前広場は「人民広場」と呼ばれ、集会などに使用されていたが、
1951 年の労働者の集会=メーデーではアメリカ軍の指示で、使用禁止となっ
た。講和条約発効後、東京地裁がこの措置を違法としたが、政府は禁止を続け
たため,メーデー会場は明治神宮の外に移された。このメーデーでは、明治神
宮の外から出発したデモ隊は、日比谷公園で解散せず、約 6000 人が皇居前の
警戒線を突破,5000 人の警官隊と衝突する事件になった。
7月
破壊活動防止法の制定
略して「破防法」という。団体活動として暴力主義的破壊活動を行った場合の規制と刑罰を定め,公共の
安全の確保に寄与することを目的とした。予防的な性格が強く、言論・表現の自由を脅かすとして強い反
対があった。終戦当時の治安維持を重視した日本政府は、共産党絡みの事件で起訴したがいずれも「差し
迫った危険はない」として無罪になった。そこで他の法律、殺人あるいは公務執行妨害の予備・陰謀を適
用することが多くなった。
9 月 映画「風と共に去りぬ」が上映され、大ヒット。他にも多くが製作される。
前年 1951 年にはジョン・ウェインの「駅馬車」
、次の年 1953 年にはチャップリン
の「ライムライト」、1954 年にオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」が続
けて上映される。「映画の黄金期」の始まりで、その中でも「風と共に去りぬ」は
1939 年に製作費 600 万ドル、今の日本円なら約 20 億円かかる大作で、オールカラ
ー「総天然色」が誘い文句だ。現在でも「世界中で必ず、どこかの町で上映されて
いる」という伝説がある。2007 年に AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)がま
とめた「アメリカ映画ベスト 100」では、6 位だ。ちなみに「スターウオーズ」が
13 位、「サウンドオブミュージック」が 40 位、
「ロードオブザリング」が 50
位、
「羊たちの沈黙」が 74 位だった。日本での一般上映はこの年だったが、
太平洋戦争初期の段階に、占領地でこの映画を入手した軍や映画の関係者は
「こんな映画を作る国に勝てるわけがない」と思ったぐらい、衝撃的だった。
「風と共に去りぬ」は南北戦争で没落した貴族の令嬢が、女性としての弱さ
をさらしながらも、故郷で強く生きていこうとする姿が、当時の日本人、特に女性
の心を打ち、大ヒットした。メイン曲のタラのテーマや、ヒロインの最後のセリフ
「After all, tomorrow is another day.」は、英語を本格的に勉強している人なら知
らないと、恥ずかしいほど有名だ。以前は「明日は明日の風が吹く」と訳したが、
最近では、原文に近い「明日という(別の)日がある」と訳すことが多い。
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---------- 1952 年 日本 ----------クー・クラックス・クラン
映画の評価は変化しないが、映画の白人出演者のほとんどが、 K K K を支持する黒
人差別の点については、批判が上がってきている。KKK は「白人至上主義」をかか
げ、20 世紀前半はかなりの勢力を持った政治集団で、1925 年ごろ 500 万人の構成員
を持ち、白人以外の人種に対するエスカレートした暴力行為が有名だ。現在では小さ
くまとまっているが、カモフラージュだ、という説も根強い。彼らの衣装は 1979 年
の「ルパン三世 カリオストロの城」でパクられている。
日本映画(邦画とも言う)は、沖縄戦で戦死した、女子看護学徒隊を描く「ひめゆりの
塔」の初映画製作が始まった(公開は 53 年)。監督は「青い山脈」の今井正。1968 年
と 1982 年にも、リバイバル製作されている。写真は 1982 年製作のもの。戦場に
いるのに妙に明るいな~と思うが、人は笑いを忘れることはできないし、ひょうき
ん者が、何かと仲間を笑わせるのが、当たり前の年頃だから、自然だ。
しかしこの種の映画は、国民の気分が「右寄り」なら「女神だ」、「左寄り」
なら「犬死だ」と評価されるが、当時の価値観を、現代から評価することが、
そもそも変だし、勇敢だった彼女たちの責任ではない。その意味では、もは
や「永遠の存在」である。でもまさか自分たちが、映画の主人公になるとは
考えてもいなかっただろう。未来ある若者は「将来のためにとっておく」べ
きなのに、
「使い捨て」にしたから、国は信用を失い、今も続いている。負
けたことより、そちらの責任の方がはるかに重い。
NHK のラジオ・ドラマでは、
「君の名は」が放送され、その時刻になると、
自宅で聞くために、特に銭湯の女湯はガラガラだった、という伝説が残っ
ている。翌年製作された映画を見て、主人公の名前から取った「真知子巻
き」のマフラーが流行ったぐらいだ。
最後に、教養として知っておきたいのが、この年に封切られた、もう一つの日本映
画 黒沢明監督の「生きる」だ。しかし一言で言って「地味」
。30 年間の市役所勤務
で、無欠勤のまじめな、しかし無気力な 50 代の男性公務員が、癌であと数か月の命
と知った。すこしやけになった彼は、さまざまな人と出会うことで、それまでの事
なかれ主義的生き方に疑問を抱き、最後に市民のための小公園を建設しようと奔走
する。完成直後の公園で、凍死状態で彼は発見される。その前の晩に「いのち短し 恋
あか
くちびる あ
ち し お
せよおとめ 朱き 唇 褪せぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを」
と「ゴンドラの唄」を歌いながらブランコに乗っているところを目撃さ
れていたから、自殺か、寿命による死亡か、と葬儀の時に議論される。
その小公園を建設した手柄は、市役所幹部に横取りされているが、本当
の功績は彼にあることを、多くの人が知っている…以上の筋書きで「ヒ
ューマンドラマの傑作だ」と絶賛する人と、
「黒沢の映画は『生きる』以
外はすべて好きだ」とか「技巧的すぎる」との酷評もある。ある程度、
年齢を取り、人生に疲れたなあ、と思う時に見るのが良さそうだ。映画
や本は待ってくれるが、その存在を知っておかないと思い出すこともで
しちにん
きないからだ。黒沢はこの後、1954 年に傑作「七人の侍」で、映画界に
おける地位を不動のものにする。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1952 年 日本 ----------10 月 警察予備隊は保安隊に組織改編される。
なかなか決着がつかない朝鮮戦争のため、アメリカは日本にさらに軍備を許すことに
した。
「隊」であるのは「アメリカ軍日本方面守備隊」だからという説もある。なおこ
の年の 8 月に 写真誌 アサヒグラフが原爆の被害写真を初公開する。プレス・コード
が解除になったからだが、まだまだ日本が、かなりアメリカに気を使っている。
52 年 11 月の衆院本会議で池田通産相が「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、そ
れが倒産して、倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないという
ことははっきり申し上げます」と答弁。野党がこの発言を問題にし、翌 28 日に池田氏に対する不信任案を提出、池田
は辞任した。しかし、12 月には日本の国民総生産=GNP が 36 年~38 年の水準に戻った。
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