1956年 スターリン批判 雪どけ 第2次中東戦争 水俣病確認 もはや戦後

---------- 1956 年 海外 ----------2 月 ソビエト代表フルシチョフがスターリン批判を公表。「冷戦」から「雪どけ」
恐怖の独裁者スターリンが死んで、新しく代表になったフルシチョフも彼を批判した。
政治犯が釈放され、少し言論が自由になったことと、第 4 次五か年計画で軍事の負担が
増え、ソ連国民の生活に支障が出始めたことから、社会主義国と資本主義国との「平和
共存政策」を進めることになった。つまり米ソ互いの覇権の尊重である。この一連の動
きを「雪どけ」というのは小説の名前から。しかし 6 年前にアメリカと朝鮮戦争で戦っ
た中華人民共和国は「共産主義を捨てるのか」と怒ってしまい、中ソ紛争の最大の原因
になった。
6月
ポーランドのポズナニで反ソ暴動が起きる。
規模が小さく、地域も限定されていたので、ポーランド政府だけで鎮圧し、ソ連軍介入は避けることが
できた。
10 月 23 日 ハンガリーのほぼ全土で動乱が起きる。
フルシチョフ自身のスターリン批判と 6 月のポーランドでの反ソ暴動が契機になって、首都ブダペストの
学生や労働者が大規模なデモを起こし、抑えきれなくなった政府はソ連軍に出動を要請し、それを聞いた
民衆暴動は地方に広がり、労働者は全体的なストライキ=ゼネストに入った。ハンガリー動乱を「反革命
的な行為」と断定したソ連は、軍事介入に踏み切り、戦車でブタペストを制圧し、首謀者は処刑された。
この動乱でハンガリー国内では数千人が死亡、約 20 万人が亡命することになった。しかしこの事件はジ
ュネーブ四巨頭会談で確認した「ジュネーブ精神」に疑問をなげかけ、「平和共存」が難しくなった。米
ソ関係は緊張し、それぞれ主導権を狙って核兵器開発競争に再開することとなる。
10 月 29 日
第 2 次中東戦争=スエズ(運河争奪)戦争 勃発
近代化のための電力を求め、エジプトがスエズ運河を国営化しようとした。そん
なこと許すか、とイギリスをフランスが、航路を確保したいイスラエルを誘って
応戦しエジプトは苦戦した。しかし英仏の失敗はアメリカの援助を得られなかっ
たことだ。当時東欧ハンガリーでは動乱が起きていて、ソ連はそれに軍事介入し
た。それを受けてアメリカは「英仏を利することは、自分には損、むしろ中東に
割り込めるチャンスかも」と考えたようだ。欧米諸国も一枚岩でない証拠だ、ま
た、エジプトがあらかじめ根回しをしていた国連総会で、英仏とイスラエルは強
く非難されて、1957 年 3 月に撤退した。イギリスのエジプト支配が確実に衰え
て、ナセルは目標を達した。写真は運河を閉鎖しようと船を沈めているところ。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1956 年 日本 ----------5 月 水俣病の公式確認
水俣病はメチル水銀廃液のまざった海中の生物を魚が食べる→人間が捕った
魚を食べる→発病する、のプロセスを経た、世界初認定の「食物連鎖によって
発生した公害」だった。この水俣病の発見は意外に早く、ミッドウェ-海戦の
あった 1942 年ごろ (昭和 17 年) で、水俣湾に面する月浦村で発見された。当時
は戦争まっただ中で、窒素工場はフル回転だった。1956 年 (昭和 31 年)に「奇
病」として水俣保健所が公表。原因は容易に特定されず、有機水銀説をとる大学や厚
生省に対し、チッソ工場が反論、化学工業界・学界などを巻きこんで論争が長引き、
結果として被害の拡大・補償の増大を招いた。これは「高度経済成長」の時代の「闇」
あるいは「影」の部分だ。2005 年に国の責任を認めた判決がでて決着した。この病気
で亡くなった方のご冥福と、今も苦しむ方にお見舞いを申し上げます。
具体的にどのような偏見かというと、熊本では「水俣の奇病は空気
感染すると言われ、伝染しないように、駅を汽車が通過するとき息
を止めていた」や「水俣の人たちは呪われているからだと教えられ
た」と証言した人がいる。当時の人々は素朴に、真剣にそう思って
いただけだから、自分を責める必要はないのだが、その感情が今で
もしこりを残していることも事実だ。
7 月 「もはや戦後ではない」の言葉が発表され、流行する。
この年に発表された経済白書の内にある文言のこと。前後には「いまや経済の
よう
回復による浮揚力(浮び上がる力のこと)は、ほぼ使いつくされた。なるほど、
貧乏な日本なので、世界の他の国々に比べれば、消費や投資の潜在需要はまだ
しれつ
高いかもしれないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに
減少した。もはや「戦後」ではない。我々は今や異なった事態に当面しようとて
いる。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。
そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可
能となる」と書いてある。なんか予言書みたいだ。このように「高度経済成長」
の兆しが出てきたころで、人手不足になり、農村部から集団就職で来た中学卒業
生を「金の卵」と呼んだ。
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---------- 1956 年 日本 ----------10 月 日ソ共同宣言で日本とソ連は国交を回復
国際連合に加盟する際に、ソ連が拒否権を行
使しないよう、同国との戦争終結と国交回復
の必要があった。さらに捕虜として「シベリ
ア抑留」になっている人たちを取り返す必要
もあった。様々な交渉の後、鳩山首相はモス
クワで、共同宣言にこぎつけたが、北方領土
問題は残った。シベリア抑留については、最
近の漫画 おざわゆき作「あとかたの街」が
中々良い。
12 月 日本は国際連合に加盟
ソ連と国交回復の 2 か月後、80 番目の加盟
国として国際連合に加盟、日本は国際社会に
まもる
復帰した。外務大臣 重光 葵 が演説をした
が、
奇しくも彼は 1945 年 9 月の降伏文書に、
サインをする嫌な役を引き受けた人物であ
る。「もうこれで思い残すことはない」と彼
は言い、力を使い果たしたように、翌 1957
年に死亡している。
12 月
たんざん
石橋湛山が首相に就任する
日ソ国交回復で花道にして鳩山一郎は首相を辞任した。自民党の代表を決める総裁選で
は、岸信介が有利だの大方の予想に反して、最初の投票では岸が過半数を取れなかった
ので、上位 2 人の決戦投票で、石橋湛山が 3 位の人と連合を組み、総裁選に勝利した。
岸は彼の内閣で外務大臣を務める。前の戦争には徹底的に反対し、経済にも強く「植民
地など捨てろ」の「小日本主義」を主張した根っからの自由主義者だった。戦後すぐの
1945 年 9 月には「負けたことが発展につながる」という論文を発表し、来るべき経済
発展を予想し、総裁選後の演説でも「アメリカに言うべきことは言う」とした。しかし
病に倒れ、翌 1957 年 2 月に総理を辞任する。大変惜しい人材である。
5 月には聖徳太子建立とされる飛鳥寺が発掘され、7 月に気象庁が発足している。
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