ダウンロード

先週講壇
贈り物を携えて、見通しのない旅路を行く人々、そ
夜の旅路、キリストに出会うために
ういう人々だったのです。
2015年12月13日夕礼拝 第三アドベント
関伸子副牧師
ミカ書5章 1~5節
マタイによる福音書2章1~12節
Ⅱ.人生の旅
Ⅰ.東方の占星術の学者たち
マタイによる福音書のクリスマス物語には、救い
主の誕生を祝うためにはるばる東方から旅をして
きた占星術の学者たちのことが語られています。言
うならば諸国の代表として神に呼び集められた人
たちです。占星術の学者たちが何人であったかは、
聖書には書いていないのですが、捧げものが三つで
あったことからおそらく三人であると考えられ、さ
まざまな伝説が生まれました。それぞれカスパル、
メルキオール、バルタザールという名前があてはめ
られ、絵画などでは、当時知られていた三大陸を代
表させてヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人とし
て描かれ、更に各世代を代表させて老年、壮年、青
年として描かれてきました。
さて、この物語を読んでいくと、学者たちは救い
主への贈り物として黄金、乳香、没薬を携えてきた
と伝えられています。これらはいずれもその時代に
あっては高価な品物で、薬品や化粧品、また薬味と
しても用いられたといいます。ところが、この学者
たちにとっては、いささか困ったことがありました。
それは、贈り物を携えてきたにもかかわらず、実は
自分たちが「いったいどこのだれにこの贈り物を献
げるのか」ということが最後まで、はっきりと分か
らなかったということです。
彼らは自分たちがどこに行くのかということす
ら知りませんでした。これは不思議なことであり、
不自然なことです。人に出会うために旅に出た人間
が、自分の目指している相手がどこのだれなのかも
わからないということがあるのでしょうか。この学
者たちの旅はあまりにも頼りない旅だったと言わ
なければなりません。けれども、実際に聖書の中か
ら読み取ることのできる「東方の学者たち」とは、
だれに出会うかも分からないまま、その人のために
さて、そうはいうものの、実は目的の定かではな
い旅路を歩むという点に関していえば、この東方の
学者たちの姿と、私たち一人ひとりの人生には、一
脈相通ずるところがあるように思います。人生を旅
にたとえることは、キリスト教のみならず、さまざ
まな宗教や哲学、また文学などの世界でも行われて
きました。旅というものは、ふつう目的地や旅程が
決まっているものです。目的も、見通しも、計画も
はっきりしないまま歩き出さなければならないよ
うな旅は、私たちを困惑させます。けれども、実に
困ったことに、実際の人生の旅とは、そういうたぐ
いの旅にほかならないのです。
私たちは目的や見通しや計画を立てた上で、この
世に生まれてきたわけではありません。
「気がつい
てみたら生まれていた」というのが実態です。
「気
がついてみたら旅に出ていた」のです。私は幼い頃
から母に手を引かれて、妹と共に教会学校に通いま
した。途中で教会生活を中断しましたが、20 歳の
時に洗礼を受けました。服飾デザイナーになること
を夢見たこともありましたが、一般企業で働き、結
婚、再びしばらく教会を離れた時期を経て、教会に
戻り、その後、夜学の神学校に通い、牧師として神
さまと人びとに仕える道が開かれました。イエス・
キリストに出会ったことで、単に職業が変るだけで
はなく、本質的な意味で、いわゆる、生き方が変り
ました。私だけでなく、キリスト者になった、とい
う時点で、そういう意味では皆、生き方が変ったの
です。みなさんも、主イエスに出会ったことにより、
生き方が変わり、
「自分だけのため」から「すべて
の人のため」へと変えられ、今の仕事、ボランティ
アなど様々な奉仕へ召し出されたのだと思います。
そして、その働きを通して、共に働く仲間が与えら
れてきたのではないでしょうか。
Ⅲ.夜の旅路
さて、マタイによる福音書の東方の学者たちの物
語には、ひとつの星が登場します。目的地も、旅程
を携えていたといいます。この贈り物については、
も、贈り物を贈る相手すらも分からないこの頼りな
その当時の価値あるものを献げて救い主の誕生を
い旅路を行く学者たちを、この星が導いたというの
お祝しようとしたのだという解釈がふつうですけ
です。星が導くというからには、おそらく、この人
れども、ある説によると、これらのものは実は学者
たちは夜しか旅ができなかったのではないでしょ
たちの商売道具だったともいいます。それは、彼ら
うか。暗く見通しのきかない中を、足下も不安定な
のそれまでの人生を象徴するもの、彼らのそれまで
まま、つまずいたり転んだりしながら一歩一歩進ん
の生き方そのものをイエス・キリストの前に献げた
でいくのが、彼らの夜の旅路です。人生の旅を進む
ということであり、さらにいえば、そうした過去の
ために、私たちは闇の中で目を凝らし、知恵と力を
生き方を清算しようとしたことを表しているので
振りしぼって先々を見通しながら、この世の荒波を
はないでしょうか。
泳ぎわたっていこうと努めます。人生の旅を進んで
エルサレムを出発してベツレヘムに向かう彼ら
いく時、私たちはただひたすらに前を見つめ、がむ
は、故国で見た星を再び目にして喜びます。星の下
しゃらに闇の中に進むべき道を探そうとします。
では幼子が母マリアに抱かれています。この幼子こ
けれども、このクリスマス物語の中で聖書が語っ
そ闇に輝く光です。彼らの喜びは幼子との出会いに
ていることは、ただひたすらに前を見るということ
おいて最高潮に達します。それは、真に礼拝するこ
ではなく、まず「星を見る」
「天を仰ぐ」というこ
とのできるものを発見し、身を献げるものに出会う
とです。詩編の中でひとりの詩人は、天を観ながら
ことのできた者の喜びです。
こう歌いました。
「あなたの天を、あなたの指の業
人を生かす王に出会った彼らは、もはや人を殺す
を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置
王のもとには戻らず、
「別の道を通って」帰途につ
なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださる
きます。幼子と出会い、彼を礼拝することによって、
とは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何もの
占星術の学者たちは幼子が示す新しい道に向かっ
なのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
」
(詩
て歩み始めたからです。彼らは、キリストと出会い
編 8:4~5)
たいと願うすべての人たちの代表です。確かに星は
変わることなく大きく開かれた天、そこにちりば
輝いています。
められた星々に、昔の人々は神のみわざを見たので
クリスマスに立ち会うということは、私たちがこ
す。
「天を仰ぐ」ことによって、この詩人は、世界
れまでの自分自身の生き方を清算すること、新たな
とその中に生きているすべてのものを支えたもう
生き方へ踏み出すことにつながっています。クリス
神の大いなる恵みを見たのです。人間の手のわざで
マスの夜。私たちも天を仰ぎ、星を見つめながら、
はなく、神のわざに目を注ぐこと。それは「天を仰
それに導かれて夜の旅路を進んでいく学者たちの
ぐ」ということであり、
「星に導かれる」というこ
姿を思い浮かべてみようではありませんか。アドヴ
とです。
「天を仰ぐ」ことは、自分自身と人間に対
ェントから始まる新しい年を、成長の年、決断の年、
して絶望しても、神に対して絶望しないことを告白
出発の年としましょう。洗礼のこと、召命のことも。
する、信仰者の姿であるとさえいえるからかもしれ
神さまは私たちを招いておられます。新しい年、目
ません。それは、私の人生が、恵みと憐れみに富む
を上げれば希望の星が頭上に輝いているのが見え
神の手の中にあることを信じ、感謝する信仰者の姿
るはずです。私たちはそれを見たからこそ、喜びに
なのです。
あふれ、こうして、ここに救い主を拝みに来たので
す。お祈りいたします。
Ⅳ.クリスマスに立ち会うということ
さて、先ほども触れましたが、星に導かれて歩ん
だ東方の学者たちは黄金、乳香、没薬という贈り物