公爵令嬢の嗜み - タテ書き小説ネット

公爵令嬢の嗜み
澪亜
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
公爵令嬢の嗜み
︻Nコード︼
N1337CN
︻作者名︼
澪亜
︻あらすじ︼
公爵令嬢に転生したものの、記憶を取り戻した時には既にエンデ
ィングを迎えてしまっていた⋮。私は婚約を破棄され、設定通りで
あれば教会に幽閉コース。私の明るい未来はどこにあるの?
※書籍化します※
1
バッドエンディングなのだけれども。
⋮⋮⋮痛い。
初めに感じたのは、痛覚。それまで微睡みの中にいたのが、その痛
みによって覚醒し“自分”を取り戻した瞬間だった。
⋮もう少し、早く覚醒したかったけれども。
大勢の人の前で床に転がされて、しかも数人の男に取り押さえられ
ている状況では、私でなくても乙女ならば誰もが思うだろう。
これが誘拐とかであれば、もしかしたら白馬に乗った王子様が助け
てくれるかも⋮なんて甘い夢を見れるのだけれども、いかんせん今
この場は“私の断罪をする場”なのだ。被害者ではなく、加害者側
に立たされているのだから救いようがない。
さて、今この状況を私自身が整理する為にも、もう少し私という存
在について説明しよう。
私の名前は、アイリス。アイリス・ラーナ・アルメニア。この国タ
スメリア王国筆頭公爵アルメニア公爵の第一子。花も恥じらう16
歳の少女だ。父は宰相、母は将軍の娘で文武官僚トップの家柄を両
親に持つ私は、国の中でも王家に次ぐそりゃあ血筋が宜しいお嬢様
です。
なんでこんなに第三者目線で語れるのかと言えば⋮それは“私”が
別の人間だからだ。正確に言えば、今の“私”はアイリスとそれ以
外の人格がミックスされた状態。アイリスとは別の⋮もう半分のワ
タシは“ニホン”という国で普通に働いて30過ぎで死んだ女性の
人格だ。仕事一筋でその日は夜遅くまで働いて、会社帰りに事故で
2
死んでしまったワタシがさっきの痛みで覚醒⋮⋮物語によくある前
世を思い出した瞬間の発熱とかの類はなく、すんなりワタシと私は
融合して今に至る⋮というワケだ。⋮⋮そんな発熱なんてしている
余裕が今の状態でないだけかもしれないが。
さて、私とワタシが融合して“私”の今までの過去を振り返ってみ
て思ったことが1つ。⋮⋮これってワタシがやってたゲームの世界
そのままじゃない!ということ。
仕事一筋、恋愛している暇なんてあるか!というワタシだったけれ
ども、それでもトキメキたいと思うのが乙女心。そんなワタシは前
世で乙女ゲームというものに見事に嵌った。
休憩中とか夜とか、あのトキメキに随分と癒されたものだったっけ
⋮⋮なんて、いかんいかん。そうではなくて⋮⋮。今この世界は、
正にワタシが昔にしたゲームの世界観とそっくり同じなのだ。
ゲームのタイトルは﹁君は僕のプリンセス﹂略して君プリ。話は中
世ヨーロッパの世界観のもので、男爵令嬢という貴族社会では底辺
に位置する令嬢が、貴族の子女・子息が集まる学園の中で貴族社会
のトップに位置する青年達と繰り広げるシンデレラストーリー⋮⋮
なんていう、ありふれたものだ。攻略対象は、第二王子、騎士団長
子息、宰相子息、そしてダリヤ教教皇の子息。オレ様・熱血漢・ク
ールそして不思議ちゃんという性格の彼らは、正にこの手の物語で
はテンプレのキャラクターだ。
さて、この手の物語では勿論ライバルキャラというのが存在する。
それが、公爵令嬢にして第二王子エドワード・トーン・タスメリア
の婚約者である私だ。
3
プレイヤーである男爵令嬢が、エドワードをターゲットとすると婚
約者としてしゃしゃり出てきて彼との逢瀬を邪魔し意地悪をすると
いう彼女。
ただ、貴族の令嬢とはいえ所詮小娘⋮⋮私なんかができる意地悪と
いえば、まあ学園で嫌味を言うだとか誹謗中傷を流布するぐらい。
プレイヤーとしてゲームをしていた時は、ライバルキャラである彼
女のことを忌々しく思ったこともあったが⋮⋮よくよく考えれば、
嫌味は﹃身分に相応しい振る舞いを﹄とか貴族にとっては当たり前
の忠告だったし、誹謗中傷も忠告を受けてなお、振る舞いを改めな
かったからこそ⋮⋮なのよね。それでエンディングで彼女が自宅謹
慎からのダリヤ教の修道女として教会幽閉というコースになったと
ころでハタと我に返って“そこまでする必要はないんじゃ⋮⋮”と
思わず同情したものだった。
だって、よくよく考えたら婚約者がいるのに近づいていって、それ
で横恋慕するんだ⋮⋮普通に考えたらその主人公の方が悪者じゃな
い?誰だってそんな相手を憎々しく思うだろうし、それにアイリス
がしたことなんて可愛いものでしょ。
⋮⋮とはいえ、今のこの状況ではそんな釈明も聞いてくれないだろ
うし、味方もいない孤立無援な状態だ。
既にゲームでいうエンディングを迎えてしまっていて、私は主人公
とその取り巻きであるイケメン達にこうして断罪の場へと引きずり
降ろされてしまっている。
⋮というかこういう転生ものって、普通幼少の頃に前世を思い出す
のではないの?これじゃ、どんなに頑張ったって盤面は既に詰んで
るじゃないか。
4
﹁申し開きがあるなら聞こう、アイリス。ユーリにした数々の嫌が
らせについて﹂
エドの固い声が、この場に響く。見下ろす視線は、蔑むものそのも
のだ。
﹁⋮⋮⋮離して下さらない?﹂
私は、彼の言葉を無視して私を取り押さえている男に声をかけた。
騎士団長子息であるドルッセン・カタベリアは力が強く、本当に触
れられた肩が痛い。
ドルッセンは、私の言葉を無視して逆に力を強めた。
﹁痛いから離して下さい。⋮⋮力弱き者の為の騎士団の長を務める
ドルーナ様のご子息である貴方が、このような力弱い女を力任せに
取り押さえるのは如何なものかと思いますが﹂
ここまで言って、彼はピクリと反応を示した。やっぱり騎士の教え
は何処でも共通なのね。
﹁⋮⋮貴方が、か弱い子女?冗談も、休み休みに言ってください﹂
鼻で笑って言ったのは、私の弟であるベルン・ターシ・アルメニア。
ああ、姉に向けるとは思えない冷めた視線と、皮肉げな口元は本当
に私をイライラさせる。
とはいえ⋮例え今この盤面が詰んでいても、苛つきに任せて態々悪
手を選ぶつもりはない。
5
﹁⋮⋮⋮私は、確かにユーリ・ノイヤー男爵令嬢様に嫌がらせをし
ましたわ。認めましょう﹂
﹁⋮⋮随分あっさりと認めるんだな?﹂
﹁そうですね。わかり切ったことの為に態々このような場を作り、
皆様のお時間を割いてしまったのですから。私なりの誠意ですわ﹂
﹁⋮⋮⋮何故、彼女に嫌がらせをしたんだ⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮“何故”、と貴方が問うのですか⋮⋮⋮﹂
激昂していたエドが、一瞬怯んだ。覚えがあるのだろうか。⋮⋮否、
主人公に骨抜きになっている彼はきっと頭の中が恋愛脳になってい
るというのはアイリスの記憶にあるから、きっと煙に巻かれただと
かそんな彼の都合の良い解釈に頭の中で変えられてしまっているだ
ろう。
6
恋は冷めるもの
⋮⋮こんな茶番に、これ以上付き合ってらんないわ。所詮、これは
エドとその愉快な仲間たちのフラストレーションを吐き出す場。そ
して、彼女を被害者として正当化する為の場。こんな場面を迎えて
しまえば、私は最早自宅謹慎は免れない。⋮⋮この場でできること
は、もうない。
後は教会に幽閉されることを免れるかどうか⋮⋮でもそれは、父と
の交渉次第。重ねて言うが、この場ではもうすることがない。
﹁⋮⋮以後、私は皆さんにお会いすることはないでしょうから、こ
の場をお借りして挨拶させていただきますわ。皆様、今までありが
とうございました。同じ学生としてこの学園に通ったこと、皆様に
良くしていただいたこと、感謝に堪えません。皆様、御機嫌よう﹂
今後社交界というものに出ることはないだろうし。この学園に戻っ
てくることもないだろう。
﹁アイリス、待て⋮⋮!﹂
良い感じで〆て、この場を去ろうとしたのにエドが私を引き止める。
空気が読めないわね⋮⋮“私”、何故こんな男を好きになったのか
しら。
﹁去る前に、ユーリに謝れ﹂
ほんっっとうに、何故こんな男を一時でも好きだと思ったのかしら
?ああ、もう⋮⋮聞き間違えかと思って思わず変な間を空けちゃっ
7
たじゃない。
公爵令嬢たる私が、男爵令嬢に皆の前で謝れと?声を大にして問い
詰めてやりたいわ。
⋮⋮これは、私のプライドだけで憤然としている訳ではない。たか
が子女、されど子女。私の行動は、それ即ち公爵家ひいては貴族社
会に大きな影響を示す。つまり、私が謝るイコールアルメリア家が
男爵家に頭を垂れるということ。筆頭公爵家が男爵家に頭を垂れる
なんて前代未聞、というかそれではウチだけでなく侯爵・伯爵の立
つ瀬もなくなってしまう。新興貴族が増長して貴族のパワーバラン
スが崩れる事態だって起こり得るというのに⋮⋮。ああ、本当に頭
の中が恋愛脳になってしまっているのか。
というかそもそも、元婚約者である貴方がそれを言う?自分の胸に
手を当てて良く考えなさい!⋮⋮というこの想いは、私だけではな
くこの場にいる野次馬⋮もとい関係のない他の生徒たちも思ったら
しく、先ほどまで針の筵だったのに幾分か視線は和らぎ、寧ろ同情
の気持ちが向けられているのを感じた。
⋮⋮これを逃す手はないかも。
﹁⋮⋮謝りませんわ。私は私の矜持に従って行いましたもの。例え
行き着く先がこの身の破滅であろうとも、私は私を曲げません﹂
それだけの覚悟をもってやったのよ、と言外に仄めかす。
﹁⋮⋮ユーリ様。貴方様は、これ以上私の何を奪うというのでしょ
うか。私の婚約者、私の地位⋮⋮﹂
8
ここで、ホロリと涙を流す。気分は悲劇のヒロインだ。お、良い感
じでこの場の流れが私の方に向いてきた。さっきまで完全に悪役だ
ったのが、今じゃこちらが被害者になっている。
﹁ですが、私を私たらしめるモノは私だけのもの。矜持もその1つ。
謝罪をするということは、私が自分で自分を踏みにじることと同意。
ですから謝りませんし、これ以上、私は貴方がたに何も奪わせませ
ん﹂
言い切った⋮⋮ああ、スッキリした。そんな晴れ晴れとした気持ち
で、私は部屋を後にした。エドは何だか不満げな表情のままだし、
渦中の主人公は頭の中がお花畑だからなのかハテナマークを飛ばし
てキョトンとしているけれども。
私はその場から離れると、学園の外へと出た。⋮⋮変なところで準
備の良い弟を信用しての行動だったけれども、予想通り弟は家に使
いを出して既に迎えを寄越していた。
豪奢な馬車に、身一つで乗り込む。⋮⋮どうせ荷物は、後で家の者
が纏めて家に持って帰るなり、処分したりするだろう。
これで、学園ともお別れか。もう、ここに来ることはない。それは
物語通り私が身分剥奪の上幽閉だった場合は勿論、その他の結果を
勝ち取ったとしても。お父様が、私を学園から離すために。
ふう⋮⋮と溜息を吐いた。茶番は終わり⋮⋮。ここまでの私は物語
に沿ってきただけ。これより先に筋書きはない。そして何より、次
はいよいよラスボスたるお父様との対面。正直さっきよりも緊張し
てきた。
9
気持ちがどんどん重くなる中、馬車はゆっくりと王都にあるアルメ
リア別邸へと走り出したのだった。
10
家での悪役令嬢
アルメリア公爵家別邸⋮⋮ここは、王都にある我が家で、宰相とい
う役職上王都を離れることができない父とそれにくっついて来た母
が暮らしている。その為、別邸とは思えぬほどの豪奢な造りであり、
前世の知識からすると、これでも十分豪邸といえるものだ。
家に入ると、まずは私の部屋に入った。そして椅子に座り、心を落
ち着ける。なにせ、夜にはラスボスとの対面だ。緊張を和らげたい。
﹁⋮⋮お嬢様⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮⋮あら、ターニャ。ただいま﹂
涙ながらに入ってきたのは、私付きの侍女であるターニャ。平民の
出ながら完璧な礼儀作法を身に付け、尚且つ美しい顔立ちをしてい
る。
﹁何故そんなに落ち着いているのです⋮⋮!私はもう、悔しくて悔
しくて⋮⋮﹂
ボロボロと涙を流す彼女を見ていると、心がホッコリ温まる気がし
た。それと同時に、随分心配を掛けてしまったのだと申し訳ない気
持ちになる。
ターニャは平民の⋮それも、所謂スラムの出で、私がお忍びで街に
出た時に拾った少女。その頃は公爵子女という肩書きが重く感じて
いた時だった。家の中もそうだし、貴族社会の中でも我が家程の家
格だと中々気軽に話せる相手というのはいなかった。街に出て道で
11
倒れている彼女を拾った時も、“もしかしたら、この子なら私の話
し相手になってくれるかしら⋮⋮”と打算的な想いで拾ったのだ。
けれども彼女はそれ以来恩義を感じているらしく、私にそれはそれ
はとてもよく仕えてくれている。
私からしても、ターニャは家族と言っても過言ではない存在だ。
﹁落ち着いて、ターニャ。今はまだ、悲しみに浸って泣く時ではな
いわ﹂
﹁⋮⋮そうですね。失礼致しました。旦那様は、夜にはお戻りにな
られるそうです﹂
ターニャは頭の回転が良い。そして、すぐに事態に対応することが
できる。今も、それまでの涙はどこに行ったのか、落ち着きを取り
戻していた。
﹁⋮⋮そう。では、何か落ち着ける飲み物をちょうだい﹂
﹁畏まりました﹂
﹁⋮⋮ターニャ﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
﹁僭越ながら、お嬢様。私はアルメリア公爵家に仕えているのでは
なく、お嬢様にお仕えさせていただいているのだと思っております。
ですから、例え王族の方であろうと、お嬢様を裏切ったエドワード
12
様を決して許すことはありませんし、これから旦那様とのやり取り
も私は全てお嬢様のお味方にございます﹂
﹁私は、幸せ者ね﹂
﹁いえ、私の方こそ。そして、この館には私以外の者も同じ想いで
いる者がいるということを、どうかお嬢様はお忘れないように﹂
そう、実はターニャの他にも私が拾ってきた者というのはいる。私
は大分幼少期から変わっていて、プレゼントはいらないからとター
ニャのような身寄りのない子を拾っては、その子達を側にいて貰え
るようにして欲しい⋮⋮などと親に強請ったものだった。恐ろしい
ことに、プレゼントといえど、平民の子供を養うことぐらい寧ろ後
者の方が安上がり。親も渋々了承して、毎年1人ぐらい同じ年の身
寄りのない子供を私は拾っていた。この辺りはゲームの設定にもな
いし、もしかしたら思い出していなくとも前世が影響しているのか
もしれない。
彼らとの語らいは、私にとって公爵令嬢というのを忘れることがで
きるとても貴重な時間だった。年を経るごとに、互いの立場という
ものをハッキリさせないといけないという周りの圧力から、ターニ
ャのように主人・使用人という立場になってしまっているが、それ
でも私にとって彼らは特別な存在。
﹁⋮⋮だけど、ターニャ。貴女は貴女の幸せを1番に考えてちょう
だい﹂
私の言葉に、ターニャは怪訝そうな表情を浮かべていた。いや、実
際は無表情なんだけど⋮⋮長く共に過ごしたお陰で、大体どんな気
持ちなのかはそれで伝わってくる。
13
﹁私の我儘で、貴女達をこの様な窮屈な世界に引きずり込んでしま
ったわ。貴女達が望むのであれば、いつでも自由になって貰って構
わない。寧ろ、これから先のことを考えるとその方が良い⋮⋮⋮﹂
﹁お嬢様、それ以上は仰らないでください﹂
ターニャが、珍しく私の言葉を遮った。
﹁私は、あの時死ぬはずでした。それを救って下さったのは、他な
らぬお嬢様です。あの時から私の命は貴方様のもの。私が貴方様の
お側を離れる時は、私の命が亡くなる時か⋮もしくは、貴方様が私
を不要と判断した時のみです﹂
﹁まあ。それではターニャは、死ぬまで私の側を離れられないわよ﹂
﹁それに勝る幸せがございましょうか﹂
﹁⋮⋮⋮貴女の気持ちはよく分かったわ。やっぱり、私の方こそ幸
せ者ね。だけど、ターニャ。幸せは決して1つではないのよ。だか
ら先ほどの私の言葉も忘れないでね﹂
﹁⋮⋮⋮お嬢様がそう仰るのであれば﹂
渋々といった体で、ターニャは頷いてくれた。⋮⋮もしも身分剥奪
からの教会幽閉コースになってしまったら、やっぱりターニャには
ついて来てほしくない。それだけ、大切だからね。
でも、何だかこの調子だとついて来ちゃいそうだな⋮⋮⋮。ああ、
やっぱり何としても父様に勝たなければ。
14
そんな決意を新たに、ターニャが淹れてくれたお茶を飲む。⋮⋮う
ん、美味しい。
﹁⋮⋮⋮お嬢様﹂
気持ちが落ち着いたところで、別の使用人が扉をノックしてきた。
﹁どうぞ﹂
﹁⋮⋮失礼します﹂
入ってきたのは、侍女頭のリーメだった。寸分の隙もないメイド服
の着こなしは、これぞ本物と見せつけているかのよう。
﹁⋮⋮お嬢様。旦那様がお呼びです﹂
﹁あら、もう?確か父様は夜にならないとお戻りになられないと⋮
⋮﹂
﹁お嬢様の件で、早めに切り上げられたそうです﹂
﹁⋮⋮⋮まあ⋮⋮⋮﹂
ふう、と溜息を吐く。ああ、さっきの誓いは何処へやら⋮何だか胃
がキリキリしてきた。
﹁⋮⋮僭越ながら、お嬢様。私は今回の件、お嬢様には何ら落ち度
がないと思っております﹂
15
厳しいリーメからのまさかの味方宣言に、私は驚いて思わず目をぱ
ちくりさせてしまった。
﹁この館の者は、皆お嬢様のお味方です。ですから、堂々と旦那様
にお会いなさって下さい﹂
⋮⋮物語では悪役として描かれているアイリス。けれども、実はア
イリスは家では使用人達と良好な関係を築いていた。勿論、貴族出
だろうが平民の出であろうが関係なく。⋮⋮つまり、物語で主人公
を男爵令嬢の癖に云々と蔑み誹謗中傷するのは、本当にエドワード
をそれだけ好きで、嫉妬に駆られてしてしまったことなのだ。
改めて、アイリスに同情する⋮⋮と、いけない。今は私がアイリス
なのだ。私は私の為に、アイリスを幸せにしなければ。
覚悟ができたところで、リーメに先導されて父様の書斎へ。後ろに
は、ターニャがついててくれている。
﹁⋮⋮それでは、お嬢様﹂
﹁ええ、ありがとう。リーメ。ターニャも此方で待っていて頂戴﹂
﹁畏まりました﹂
さあ、戦いの場に着きましたよ。
重厚な扉を前に、生唾を飲みつつ息を整え⋮⋮それからノックした。
16
17
対決
﹁⋮⋮⋮入れ﹂
﹁失礼致します﹂
重々しい雰囲気の中、私は父の正面の席に座る。怜悧な面持ちの彼
は、現役の宰相職に就いているだけあって眼光が鋭く、そして纏う
雰囲気が常時硬い。⋮⋮それが今では通常の2割増しでそうなのだ
から、対面している私は居た堪れない。
﹁⋮⋮本日はお時間を取ってしまい、申し訳ございません﹂
﹁ほう。自分がそれだけのことをしたと、分かっているのか﹂
﹁いいえ﹂
ピクリと父の顔面の血管が動いた⋮⋮気がする。だから、怖いって。
﹁宰相職である父にも、公爵である父にも迷惑はかけたと思ってお
りません。私が謝罪すべきなのは、父としての父様だと思っており
ます﹂
﹁ほう⋮⋮?それは、何故﹂
﹁第一に、私のしたことと言えば流言と小さな悪戯ばかり。それも
状況証拠のみですから、宰相職である父が出るほどの案件ではない
かと。⋮⋮何より、あちら側は公爵家を蔑ろにした上に、一方的な
婚約破棄をしておりますから強くは出れない筈。学園の中でも、大
18
分私の方に情状酌量余地があることを印象付けましたから、この問
題を大きくできないでしょう。エドワード様がどんなに喚こうとも、
大方厳重注意のみかと﹂
﹁⋮⋮学園でのやり取りは既にこちらも聞いている﹂
﹁そうでしょうね。それから、公爵である父様に対しての謝罪です
が⋮⋮そもそも父様は、私とエドワード様の婚約を反対していたの
では?﹂
﹁何故、そうだと﹂
﹁私の血筋というのは、王家と婚姻を結ぶ場合、王家のパワーバラ
ンスを崩しかねないからです。何せ筆頭公爵家であり宰相である父
様と将軍家の1人娘である母の血を引いているのですから。第一王
子と婚姻を結ぶのならまだしも、第二王子ではいずれ国を2分化し
かねませんもの﹂
私の言葉に、父はここにきて初めて表情を浮かべた。⋮⋮とはいえ、
ニヤリという効果音が出てるような意地の悪い笑み⋮⋮当人にとっ
てはそんな意図は全くないのだろうけれども⋮⋮だから、やっぱり
私は怖く感じる。
﹁そうだとして、では何故私はお前とエドワード様の婚約を許した
と思う?﹂
これに関しては、私もここに来るまで随分考えた。状況から言った
ら、私なら前者を絶対選ぶ。
﹁⋮⋮どちらでも、良かったのでは?﹂
19
﹁それは、どういう意味だ?﹂
﹁私が第一王子と婚約した場合は、弟も第一王子に仕えさせて第一
王子の地盤を盤石なものに。私の婚約者が第二王子であれば、弟は
第一王子の陣営に。その場合、私が第二王子側の動きにおかしなも
のがないかを見張りつつ手綱を握ることを期待して。まあ⋮前者の
方が手間暇もない上、非常にシンプルですから父様としては前者の
方が良かったでしょうけれども﹂
実はこの物語、ゲームだと第一王子にそんなにスポットが当てられ
ていない。むしろ、第二王子が次期王様になるみたいだなぐらいに
描かれている。有りがちなことに第一王子は亡くなられた正室の子
供、第二王子は現在唯一の妃にして側室の子供。正室腹の第一王子
が次期王に決まっていると思うが、そこはそう問屋が卸さない。
側室は我が家とはまた別の現在力を付けつつある侯爵家の娘であり、
正室の家は伯爵家のため家格でいえば側室に劣る。王が殊の外正室
を愛していたが為に反対を押し切って王妃を正室に添えるという力
技をしてしまったが故に、このような微妙なバランスとなってしま
った。
そしてその微妙なバランスの上に成り立つ貴族社会も、ここから先
揺れに揺れるのは目に見えている。
ゲームだとこんなドロドロとしたところは描かれてなくて、ザック
リと第一王子は国外に留学しているという設定で終わっていたから、
そうなんだ⋮程度にしか思っていなかったけれども、やはり現実は
厳しい。
20
そして父様は、王家ではなくこの国に仕えていると言っても過言で
はない程、徹底して宰相職として王家のいざこざには中立の立場を
取っている。今回第一王子寄りの陣営なのも、あくまで国法に基づ
き下した判断であり、もしも第一王子が暗愚な人物であれば国の為
にならないとすぐに切り捨てるであろう。⋮⋮王家の争いがあった
場合、収まるまで行政はストップするであろうから、正しい反応と
いえばそうだ。
﹁とはいえ、弟は完全に第二王子寄り。であれば、今回の父様は私
と第二王子の婚約破棄を狙っていた筈。良かったですね、父様﹂
最終的に私の一件があっても、父様ならば私を正室として捻じ込め
た筈。それだけの力が、ウチにはある。けれどもそうしなかったの
は、他ならぬ父様がそれを願わなかったからだ。
﹁ふははははっ﹂
父様は、楽しそうに笑った。けれどもその笑い方、悪役のそれにし
か見えないわ。第三者が見たら、完全に萎縮するでしょう。
﹁そうだな。確かに、私はお前と王子の婚約破棄を願っていた。ア
レには散々第二王子と距離を取るよう言い含めていたのだがな⋮奴
め、己が役目を忘れて完全に今では第二王子の取り巻きと化してい
る。⋮⋮⋮だが、アイリスはそれで良いのか?第二王子に惚れてい
たではないか﹂
﹁恋は病のようなもの。冷めてしまえば、それまでですわ。⋮⋮私
としても、早々にこうなって良かったと思っております﹂
アレじゃ、100年の恋も冷めるものでしょう。
21
﹁⋮⋮ふむ。だが、アイリス。此度のことは対外的にはお前の失態。
故に、ケジメはつけてもらわなければならない﹂
﹁⋮⋮そうですか⋮⋮﹂
やっぱり身分剥奪、勘当からの教会幽閉コースは免れない⋮か。タ
ーニャは付いてきそうだけど、何とか残るように説得しなければ。
﹁お前には、領地に戻り謹慎とさせてもらう。無論、王都より遠く
離れた地だから、お前が何をしようとも私のあずかり知らぬところ
だがな﹂
﹁⋮⋮⋮え?﹂
それって、何してもオーケーってこと?え、幽閉はなし?
﹁それと、ただそこにいるのは勿体無い。お前には領主代行の地位
をやるから、恙無く、領地を治めよ﹂
22
親の心、子知らず
領主代行?⋮⋮それってつまり、父様の代わりに領地を治めるって
ことよね。
こう言うのを何て言うんだっけ⋮⋮棚からぼた餅?猫に小判?ああ、
どっちも違う!何だか混乱し過ぎて訳の分からない言葉しか浮かん
でこないわ。
﹁⋮⋮領主代行は、普通、嫡男である弟の役目では?﹂
﹁やったところで、どうせ領地に行かないだろう。彼奴は今、お前
の言うところの病に夢中なようだからな﹂
⋮⋮まあ、確かに。ユーリ男爵令嬢に夢中な為に、距離を取らなけ
ればならない筈の第二王子のもろ取り巻きと化しているし。
きっと長期休暇も王都に残ってキャッキャウフフの展開を繰り広げ
ていることだろう。⋮⋮彼女は第二王子のモノになったのだから、
それこそ距離を取れば良いのに。多分弟の中じゃ好きになった人の
幸せを見守るだとか何とかで自分の立ち位置を美化しちゃってるん
だろうな。
﹁⋮⋮⋮承りました。王都が“どんな状態に”なろうとも揺らぐこ
とのない領にしてみせます﹂
私かそう言うと父様は満足気に頷き、そして下がって良いとのジェ
スチャーをしたため、部屋を出た。
23
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の名前は、ルイ・ド・アルメニア。アルメニア公爵にして、宰相
の地位を賜る者だ。
さて、今日は随分様々な事が起きた日であった。
まずは、我が娘アイリスの学園追放と婚約解消。⋮⋮これは私から
したら、既定路線を辿っただけのもの。そもそも、娘の動向を知っ
た時から諌め止めることはできた。けれども、そうしなかったのは
全て婚約解消をさせるため⋮これに尽きる。逆にもしも、娘が愚か
な事をしなくとも、病気を理由に早々に婚約破棄をさせていた。そ
して何れにせよ、教会に幽閉という形で貴族社会から一歩引いて貰
おうと思っていた。⋮⋮どうせエドワード第二王子に惚れ抜いてい
24
た娘のことだから、何を言ってもきかないだろう、丁度良い。そう
思っていた。
そして娘に会ってみれば、惚れた男に屈辱的な別れを切り出された
にも関わらず、随分スッキリとしていて落ち着いた様子。オマケに、
私の考えを見事に当ててきた。
⋮⋮面白い。そう思った。
仕事を理由に私はあまり娘息子と触れ合わず、妻に甘やかされた2
人。娘は己が手で出来ないことは何もないという典型的な貴族に成
り果てていた。因みに息子は己が力を過信し、爪の甘い若造に成り
果てたが⋮城勤めが始まったらこちらは徹底的に私が扱こうと思っ
ている。
それは兎も角、そんな娘がある種の悟りを開いたように私と話し、
こちらの考えを物の見事に当てた。⋮⋮現時点で悲しいことに、息
子よりも世の流れを見る力があり、かつ、己の分を弁えていた。
まるで人が変わったようだと思ったが、そう言えばこの子は偶に可
笑しなことを仕出かしていたな、と彼女の話を聞きながら思い返し
ていた。その最たるは、平民の子を拾っては、側に置いていたこと。
高価なプレゼントを強請る代わりに、平民の子を拾ってきては側に
いれるように取りはからえと言ってきた。⋮⋮自分の子飼いを作る
つもりかと、最終的に了承したものの、そのような素振りを見せる
ことはない。
やはり奇天烈な娘だとその時は終わったが⋮⋮さっきの娘は、そう
言いだした時の顔によく似ていた。
25
ただで置いておくのは、勿体無い。気がつけば、領主代行の地位を
やると言っていた。酔狂なことだと、我ながら思う。だが、領地に
はセバスがいるし、早々可笑しなことにはならない。であれば、ア
イリスがどんなことを仕出かすのか、それを見るのも一興。
だが、ただ1つ。彼女が言い当てられなかったことがある。それは、
第二王子婚約の許可のくだり。⋮⋮宰相の私は、第一王子と婚約さ
せた方が良い思っていた。けれどもそれでも第二王子との婚約を許
可したのは、単に娘がそれを願ったから。
私も所詮、人の子ということ。娘に甘い父の1人。最終的に、娘が
言った通り第二王子の手綱を握るという名目の上に婚約にこぎ着け
てしまった。そして⋮⋮娘が婚約を決めてからは中立の立場を捨て
王族の動向に心を砕き、調整してきた。
私も息子のことは言えない。自分なら何とかできると己の力を過信
していたのだ。
⋮⋮けれども、私の願いとは裏腹に時期王の座を巡る争いは水面下
で激化。遅かれ早かれ、娘は争いの渦中に投げ込まれる。あの娘に、
それを切り抜けられる才覚も期待できず。
故に、ほとぼりが冷めるまで貴族社会から下がらせるしかないと判
断した。勿論、ゴタゴタが収まったら手元に戻すつもりで。
けれども今日の様子だと、あれは最早私が手を引き守るだけにおさ
まらない。
逆に荒波を自ら越えていけるのではないかという期待すら持てる。
26
⋮⋮どのような動きをするのか。今後が楽しみだと思った。
27
現実
⋮おはようございます。
さて、私アイリスは父様の指示を受けてからアルメニア領に移り、
今日がその初日です。朝日が眩しく、領地を照らしています。
そんな朝早くから私がやっているのは、ヨガ。朝一の運動は目がさ
めるし、何より健康に良い。⋮⋮いや、ね。私の身体、少しポッチ
ャリめなのですよ。そりゃ公爵令嬢という大層な地位にいるので、
食事が豪華・ハイカロリーなものを好きなだけ食べて良いというも
のだから、太りもしますよ。なので、ダイエットも兼ねて朝から精
を出しております。
﹁お嬢様、おはようございます。⋮って、キャア!﹂
﹁⋮あら、ターニャ。おはよう﹂
ターニャは、何に驚いているのかしら?あ、勿論ターニャも私に着
いてアルメニア領についてきました。幽閉コースじゃなかったし、
まあ良いかということで。
﹁おはよう、ではありません。お嬢様、一体そのような格好で何を
していらっしゃるのですか﹂
﹁そのような格好って⋮⋮﹂
私は自分の姿を見る。⋮⋮ちょろっと調達してきた下働用の麻のズ
ボンと上着。運動にはピッタリだと思うのだけど?
28
﹁私、これから朝は健康の為に運動をしようと思って。動き易い服
を選んだのだけれども、ダメかしら?﹂
﹁お嬢様が、運動を?﹂
ターニャは怪訝そうな表情を浮かべる。確かに、貴族のお嬢様が運
動って、あまりイメージないわよね。
﹁ええ。身体を動かさないと、健康に良くないって本で読んだのよ。
これかは毎朝やるつもりだから、驚かないでちょうだいね﹂
﹁畏まりました。⋮⋮失礼致しました﹂
﹁良いのよ。⋮⋮汗をかいたから、湯浴みの支度をして貰える?﹂
﹁勿論です﹂
それから、ターニャが準備してくれたお風呂に入って朝食をいただ
く。⋮運動した後なので、朝はガッツリ食べた。勿論、バランス良
くいただきましたよ。
﹁⋮⋮これからのことをセバスと話し合いたいの。約束を取り付け
て貰えないかしら﹂
﹁畏まりました﹂
優秀なターニャは、それからすぐに約束を取り付けてくれて、昼前
にセバスとの面談という運びになった。セバスは、我が家の家令に
29
して執事。執事と言っても、我が領の運営を実質的に任せられてい
るスーパー執事なのだ。
入ってきたセバスは、どこかリーメと同じ匂いをしている⋮つまり
は、キッチリと燕尾服を隙のない着こなし、キビキビとしていてそ
れでいて見る人に慌てた印象を持たせないという綺麗で無駄がない
動き⋮まさに執事とはこうあるべきと言った姿の白髪が眩しい男性
です。
﹁⋮⋮⋮お忙しい中、お呼び立てしてしまって申し訳ないわ﹂
﹁いいえ。本来であれば、私めから挨拶に向かうべきところを申し
訳ございません﹂
﹁では、早速。ここ3年の領地の収支報告書全てと現状の行政の仕
組みをレポートに纏めて持ってきてくれないかしら﹂
﹁畏まりました。しかし、それをどうするのですか?﹂
﹁勿論、全て読むわ。私は、曲がりなりにも現公爵から領主代行を
承ったのですから。だけど、現在恥ずかしながら領がどのような運
営をされているのか、市井がどのような状況なのか詳しく分かって
おりません。だから、私に1ヶ月くださらない?﹂
﹁1ヶ月ですか﹂
﹁ええ。全ての資料を読み、尚且つ視察を行うに当たってそれぐら
いの日数が必要だから﹂
30
﹁畏まりました。ですが、視察するには色々と前準備が必要ですの
で大凡1週間くらいお時間が必要かと﹂
﹁今回は、より現状を把握する為にお忍びで視察をするつもりよ。
だから、同行して貰うのは最小限の人数。その人員は私の方で確保
するので、セバスの手を煩わせはしないわ﹂
﹁出過ぎた質問、失礼致しました﹂
﹁いいえ。これから運営していくに当たって、貴方のことは重用さ
せていただくわ。何なりと、意見なさって﹂
セバスが去った後、ターニャを呼びつける。
﹁ターニャ。ライルとディダそれからレーメを呼んできてくださら
ない?﹂
﹁畏まりました﹂
それから数分ぐらいでターニャと共に入ってきた3人は、幼い頃か
ら私と共にいる3人⋮⋮つまりは、私が拾ってきた3人だ。
ライルは金髪の美しい髪を持ち貴公子な顔つきなのだけれども、体
つきは王国騎士団と比べても見劣りしないほどのガッシリと戦う為
の体型となっている。一応、私の護衛という扱いだ。
ディダも、ライルと同じく私の護衛。飄々とした雰囲気でお調子者
だけれども、その実力は折り紙付き。
レーメはメガネをかけた少女で、本好きが講じて我が家の図書室の
31
司書の役割を担っている。公爵家の図書室といえば、前世でいう中
学校ほどの規模の蔵書があるから彼女の役割はとても大切なものだ。
﹁久しぶりですね、皆さん﹂
3人は学園にまで役割上着いてくることができなかった為に、王都
には来ず、この領地でそれぞれ働いてくれていた。
自由にして良い⋮と言って私はこの領を離れたのに、相変わらずこ
の家にいてくれて嬉しいと思うと同時に申し訳なさを感じる。
﹁久しぶり、我らが姫様﹂
1番に返答してくれたのは、ディダ。いつものように軽い返答で、
にこやかな表情を浮かべている。
﹁ディダ。お前はまた、アイリス様にそのような口調で⋮﹂
﹁良いのよ、ライル。皆は私にとって、家族のようなもの。誰もい
ない時ぐらい、昔のようにしてくれていた方が私も嬉しいわ﹂
﹁ですが、アイリス様⋮⋮﹂
﹁お願い、ライル﹂
﹁⋮⋮⋮分かった﹂
ライルは、大きな溜息を吐きつつも了承してくれた。
﹁皆も知っての通り、私はエドワード様から婚約破棄をされ、この
32
領地に戻ってきました﹂
﹁私、納得できないですー。何故、アイリス様が婚約破棄をされて、
しかも謹慎処分を受けなきゃならないんですかー﹂
ターニャと同様、悔しそうに涙を浮かべているレーメ。見た目との
ギャップがすごいけれども、彼女の喋り方はいつもこんなのんびり
とした口調だ。
﹁本当にな。全く、見る目がない坊ちゃんだ﹂
﹁ありがとう。でも、これは決まったこと。それに私としては、こ
の領でまた皆と共に暮らせて嬉しいというのが本音よ。⋮⋮それで、
本題なのだけど。皆も知っての通り此の度私は、この地の領主代行
を任命されました。それでまず始めに各地を視察するつもりなんだ
けど⋮⋮それに皆もついてきて下さらない?﹂
﹁承りました﹂
﹁姫様の護衛かー。腕が鳴るなあ﹂
ヤル気を出してくれた2人に対して、レーメは少し難しい表情をし
ていた。
﹁2人は護衛だから分かるんですけれどもー。私はどうして同行を
?﹂
﹁それは勿論、貴方の知識が欲しいからよ?﹂
﹁へ?﹂
33
﹁貴方は我が公爵家のありとあらゆる本を読み尽くしているでしょ
う?その中には、郷土史やら地理についての本もあるわよね。そう
いった本で得た知識を、私は欲しているの。実際見に行った時に予
備知識があるのとないのでは大分違うから﹂
ウチって本当に蔵書量が凄いことになっている。単に貴族だからと
いうよりも、代々宰相職を務めてきたからなのだろう。この館のど
の部屋よりも広いそこが、全て本で埋まっている。ジャンルは本当
に様々。物語は勿論、代々当主の趣味の本だとか、政治・地理・法
律等々様々。それを全て読破しているレーメの知識もそれはもう凄
いことになっているだろうと私は思う。
﹁⋮⋮そういうことなら、分かりましたー。お役目、頑張って果た
しますねー﹂
34
勉強です
﹁視察は2日後からを予定しています。各自、必要なものがあった
らターニャに言ってね。ターニャ。準備を宜しくお願いします﹂
﹁畏まりました﹂
﹁それから、誰かモネダと連絡は取れない?﹂
﹁モネダ、ですか?﹂
﹁ええ、そう。確か、商業ギルドで働いているのよね?﹂
商業ギルドとは、名前の通り幾つかの商店で集まった組織。日本で
言うところの戦国期の座とほぼ同じものだ。
モネダも、私が拾ってきた子の1人なのだけれども、私が学園に入
学する時に商業ギルドに入った。
﹁ええ、確か今は会計を行っていると言っていたような⋮。連絡は
取れますよ﹂
﹁じゃあ、ライル。連絡を宜しく。できれば、旅程の最後の方で約
束を取り付けて﹂
﹁分かりました﹂
それから、視察の細かい内容を詰めて3人は退出。丁度良いタイミ
ングでセバスからお願いしていた資料が届いたので目を通す。
35
実は私、日本で生きていた頃は税務事務所で働いていたのよ。お陰
で、収支報告書とか会計関係の数字を読むのは得意な方。特に苦に
もならずに数字を追っていける。
﹁⋮⋮⋮お嬢様。昼食のお時間ですが﹂
﹁⋮⋮あら。もう、そんな時間?﹂
時間が過ぎるのは早いもので、あっという間に昼ご飯の時間。にし
ても、準備して貰えるのってありがたいわー。正直昔は結構忙しさ
にかまけて食事とか適当だったしね。
ご飯をさっさと食べて、また仕事に戻る。⋮あ、しっかりと噛みま
したよ。ダイエットは忘れません。忙しいと、空腹を忘れるので丁
度良いわね。
36
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の名前は、ターニャ。下の名前はない。平民の、それもスラム街
の住民は大抵氏というのを持っていないかったから気にしたことは
なかった。
そんな私は、何故か公爵家の令嬢に仕えている。食うものに困り、
明日をも知らぬ我が身がまさかこのようになっているとは⋮⋮当時
はそんなこと夢にも思わなかった。
私が仕えるアイリスお嬢様は、貴族のお嬢様らしく気高く、けれど
も時折見せる天真爛漫なところが愛らしい女性だ。
国内屈指の名家に私が何故仕えることができるようになったかと言
えば、単にお嬢様の気まぐれ。けれども、気まぐれで良かった。の
たれ死ぬところだったこの命を救って貰ったのだ⋮⋮それだけで十
分。
なのに、お嬢様は事あるごとに私を“大切”だと言ってくれて、恐
縮な事に友人のように扱ってくれる。⋮⋮だからこそ、私はお嬢様
に誠心誠意仕えたい。そう、思った。お嬢様は、取るに足らない存
在だと思っていた私に、生きる理由まで与えてくれたのだ。
さて、その私の大切なお嬢様は此の度あの憎い男に婚約破棄をされ
た。
あんな奴が王家の男とは、本当に理解し難い。
37
お嬢様の素晴らしさが分からないのもそうだし、男爵令嬢に現を抜
かして公爵令嬢たるお嬢様を蔑ろにし、あまつさえ大勢の人間の前
で取り押さえるという屈辱を与えたなど言語道断。許し難い。
なのに肝心のお嬢様は、別邸に戻ってきた時には既にスッキリとし
た様子。あれ?あんなにお慕いしてます!というのが前面に出てた
のに、どうしたのだろうか⋮⋮とも思ったが、あんな男にお嬢様が
未練を残す必要はないと特に深く聞くことはなかった。
旦那様の沙汰がどのようになるか分からなかったからなのか、お暇
を出すようなことをお嬢様は仰られていたが、全力で拒否。例え地
の果てでもお嬢様に着いてお嬢様仕えしたいというのが私の願いだ
った。
幸いなことに、お嬢様は領での謹慎のみでお咎めは特になかった。
けれども安堵するよりも早く、それに付随して言い渡されたことに
驚愕する。⋮⋮お嬢様が、公爵領主代行?
旦那様も、一体何を考えているのやらと聞いた時には耳を疑った。
私の大切なお嬢様は、貴族らしく気高くその名に恥ずかしくないよ
うな教養を積んでいらっしゃる。けれどもそれが実務に繋がるのか
と言われればそうではないような気がした。
何せ、お嬢様のスケジュールといえば幼少期はマナーが中心で、学
園では算術と詩や文学それから歴史と地理といった一般教養。
果たして、お嬢様はどのようにするのかと思えば⋮⋮⋮。
38
次々と私に指示を出され、今はセバスさんから受け取られた資料を
読み漁っている。
私もチラリと中を拝見させて貰ったが、数字がギッシリと詰まって
いる小難しい書類を本当に読んでいるのかという早さで目を通して
いた。
時折手元のノートに何やら書き込みをしているところを見ると、本
当に読んでいるのだろう。
お嬢様は、やはり私如きには計り知れない。そう思った。
けれども一先ず、どうやら集中し過ぎると周りのことが見えなくな
るらしいお嬢様に、あまり根を詰め過ぎないように時折様子を見る
ことを誓った。
39
スカウト
2日で資料を読み終えた私は、予め目星をつけていた領内各地を見
回る。領都は勿論、領の隅の村まで。
勿論全てを見ることはできないから、今回は特に税収が落ちている
南の方と特に税収が多い東を見て回った。
ライルとディダには申し訳なかったが、今回の視察の大半の時間で
ある旅程では賊に遭遇することなく旅程は至って順調。時折村では
レーメに教えを乞いつつ、現在の状況把握に努めた。
そうして貰った1ヶ月もほぼ終わり⋮最後にモネダとの面談。実は
私にとって、彼との面談が最初の難関なのだけれども。
私たち一行は、商業ギルドの応接室に通された。商業ギルドは貴族
のそれとは違い、無駄に豪華で煌びやかな内装ではなく、落ち着い
ていて重厚なものとなっている。見る人が見れば価値あるものがお
いてある、といったところか。
﹁お久しぶりですね、アイリス様﹂
後から入って来たのは、メガネをかけた爽やかな青年⋮⋮とは言っ
ても、私にはその笑顔がどうしても胡散臭いものに見えて仕方ない
のだけど。
﹁久しぶりね、モネダ。ああ、そんなに畏まらないでちょうだい。
今日はあくまでお忍びなのだから﹂
40
﹁いえ、これは仕様なので﹂
﹁そうね。貴方は確かに昔からそうだったわ﹂
﹁それで、ご用件は?﹂
早速切り込んできたか。昔を懐かしんで場を温めるとかないのね⋮
⋮。まあ、モネダはそれこそ昔からこんな感じだったかも。
﹁まあ、モネダ。久しぶりに会うと言うのに。それで、モネダ最近
調子はどう?﹂
﹁私の調子ですか?まあ、至って順調ですよ﹂
﹁でしょうね。流石は、商業ギルドの副会計長。であれば、私の動
向も当然ながら知っているでしょう?﹂
﹁まあ⋮⋮そうですね﹂
モネダは苦笑いを浮かべていた。噂や情報を掴むのが早いのは、商
人の特徴。流行り廃りが分からないというのは、商いをする以前の
問題だしね。つまり、金を多く落とす貴族の動向なんかも当然把握
している訳だ。
﹁貴方も知っての通り今回の騒動がございまして、私は領に戻って
きたのよ。ところで、モネダ。最近ギルドの動向はどうかしら?﹂
﹁それも順調ですね﹂
﹁あら、そうなの?随分王都の方への交易が減ったように思います
41
けれども?﹂
ピシリと、それまで和かだった表情が凍った。
﹁まあ、ダメね。そんなに顔に出していては、直ぐに相手に懐を探
られてよ﹂
ほほほ、とお嬢様笑いをして場を和かなムードに戻せるかと思った
けれども、モネダの表情は固いままだ。
﹁モネダ、ごめんなさいね。カマをかけただけなのよ。けれども、
やはり我が領からの王都への交易は減っているのね﹂
そりゃ、政情が不安な王都への交易は減るか。とはいえ、まだまだ
本当に微々たるものだろう。それこそ、毎日帳簿と睨めっこしてい
ないと分からないぐらい。
因みに私が彼に問いかけたのは根拠も何もなく、本当にカマをかけ
ただけ。政情が少しずつ読み難くなった今は、それまでよりも慎重
にならざるを得ない⋮⋮私が商人だったらそう考えるなというだけ
のこと。
﹁⋮⋮やられましたね。参考までに、何故そうだと思ったのですか﹂
﹁今の政情を見れば、自ずと分かります。とは言え、モネダ。私は
貴方に意地悪をしに来た訳じゃないのよ﹂
﹁それで、ご用件は?﹂
話の流れが、元に戻った。ただ今回は、先ほどとは違うと感じた。
42
最初に切り出された時は、あくまで対等⋮ないし話の主導権は向こ
うが持っていたのに対し、今回のは此方が主導権を握った上で切り
出してくれた。少しは此方のお願いも聞いてくれるかもしれない。
﹁モネダ。もっと大きなお金を動かしてみたくないかしら﹂
﹁もっと大きなお金ですか。私を公爵家に雇って下さると?﹂
﹁ええ。ただし、公爵家に仕えるのではなく、公爵領に仕えて欲し
いの﹂
﹁⋮⋮それは、どういった意味ですか?﹂
﹁今後、公爵領の領制は改革が進められます。行政と我が家を分け
るのもその内の1つ。つまりは、貴方にこの領の予算の管理及び運
用を行なって欲しいのよ﹂
﹁何故、それを私に?公爵家にも人材がないわけではないでしょう
に﹂
﹁より現場を知る貴方だからこそです。それに、今回の改革は中長
期で行い、抜本的な改革を推し進めるつもりだから⋮今の知識は不
要なの。勿論、ある程度素地は必要だけど⋮それもその若さで副会
計長をしている貴方なら大丈夫でしょう。何より、貴方なら私は信
頼できる。信頼は、お金を動かす上で何にも勝るものじゃないかし
ら﹂
﹁ははは、随分壮大な話ですね。それが事実ならば、今後の公爵領
が楽しみです。⋮⋮けれども失礼ですが、貴方にその任命権はある
のですか?﹂
43
あ、信じてないな。大方、父様辺りが着想していてそのお使い⋮も
しくは自らの手柄の為に引き抜こうとしているとでも思っているの
かしら?
という訳で、ここで最後のカードを切る。
﹁勿論。私は、この度領主代行の地位を承りましたから﹂
一緒に、任命された時に渡された書状を見せる。これは、領に来る
ときに父様に渡されたものだ。
⋮実は私、まだ領主代行に任命されたことを大々的に発表していな
いのよね。これからも、あまり大きく発表しないつもり。ここぞと
いう時にのみの方が、効果デカそうだし。⋮⋮今みたいにね。
私がまさか領主代行に任命されていると思っていなかったのか、モ
ネダは驚いたようにそれを見ていた。
しかもこの領主代行、領主である父様は一切の責務を私に引き継が
せる代わりに、権限はほぼ領主と同格という破格なものなのだ。つ
まり父が反対しようが弟が後から何と言って来ようが、私は私の行
いたいことを押し通せてしまえるという何とも仰天な状態なのです。
その旨も書状に書いてあるのだから、そりゃ驚きもするでしょう。
⋮⋮父様も、何を考えているのだか。
役に立つものだから、私にとってはありがたいけれども。
44
45
勝敗
﹁⋮⋮ありがとうございました﹂
そう言って、モネダは書状を恭しく返却してきた。
﹁で、どうかしら﹂
﹁喜んで、承らせていただきます﹂
﹁まあ、随分早い決断ね。もう少し、検討するかと思っていたのだ
けれども﹂
﹁決断力も商人にとっては重要な能力ですから﹂
﹁私にとってはありがたいわ。それで、今後の話を細かくしたいの
だけれども⋮いつ、私のところに来てくれるのかしら﹂
﹁3日お待ち下さい。今の仕事を全て引き継がせますので﹂
﹁それは重畳。では、3日後、我が家に来て下さいね﹂
﹁畏まりました﹂
はあ、荷が下りた。モネダを無事引き込むことができたし、3日あ
ればセバスに細かい確認ができるわね。
一仕事終えた私は、皆を引き連れて無事公爵家に戻ることができま
した。
46
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕の名前はモネダ。アルメニア領商業ギルドの副会計長を務める。
副会計長がどんな役職かと言われれば、それは要するに本部の会計
職。
そもそも、商業ギルドとは人材の斡旋・商家同士の仲裁等々、所謂
商家の取り纏めを行っている組織。
商家は商業ギルドに必ず加盟しなければならず、その庇護を受ける
代わりに商家は税を納める。副会計長職とは、商業ギルドに加盟し
ている商家から上がってくる税金の管理や商業ギルドの運営に対す
る資金の管理を任せらる。
仕事は忙しいが、中々やりがいがあって楽しい。
そんな最中、ある面談が入った。相手は、アイリス・ラーナ・アル
47
メニア。僕が住むアルメニア領領主のご令嬢で、孤児であった僕を
拾ってくれた大恩ある方だ。
けれども正直、最初は面倒だな⋮そう思っていた。確かに恩はある
けれども、仕事の話は別。公私混同はしない。婚約を破棄されて戻
ってきていたことは商家のネットワークで知っていたから、どうせ
厄介な事を頼まれるのでは⋮そう疑っていたのだ。
⋮⋮なのに。
﹁そうなの?随分王都の方への交易が減ったように思いますけれど
も?﹂
用件を聞こうと思ったら、まさかの爆弾を投下された。
何故そのことを知っているのか⋮1番に浮かんだのは、そんな疑問
だった。確かに分かる人には、分かる事。けれどもそれは、あくま
で毎日帳簿と睨めっこをしていればの話だ。
そんなこととは無縁の彼女が⋮それも王都で貴族の坊ちゃん嬢ちゃ
んに囲まれていた彼女から出る言葉ではない。
これは、舐めてかかれば喰われる。昔から第一線で働く実力者を前
にするのと同じ緊張感が僕の中で走った。けれども、気づくのが遅
かった。既に話の主導権は彼女に握られている。
初戦に負けた僕は再び話を切り出すと、ここぞとばかりに彼女は“
お願い”を口にしてきた。やはり、攻めるべきタイミングを窺って
いたのか。
そのことに驚くと同時に、彼女のお願いにはもっと驚かされた。
48
領制の改革?中長期的な改革?まさか、そんなことをお嬢様が言い
出すとは思わなかった。
面白い、そう思った。昔の彼女が言い出しても、何を絵空ごとをと
思っただろうが、彼女は現状を把握した上で言っているのだと、先
ほどの会話で嫌っと言うほど思い知らされている。けれども、あく
までそれだけ。繋ぎをつけ、検討させて貰おうと思った。何故なら、
彼女に人事権があるとは思えない。つまり、具体的な今後の道筋が
見えなかったのだ。
ところが、彼女はそれすらもクリアーしてきた。
まさか、彼女が領主代行なんて!
最後にして最強のカードを切ってきたのだ。もう、検討する要素が
ない。
⋮⋮そこからは早かった。すぐに了承し、彼女が帰った後、引き継
ぎに移る。
3日後、彼女がどんな計画を口にするのか。それを、楽しみにしな
がら。
49
会議は踊らない
さて、あっという間に3日は過ぎ、約束通りモネダはウチの門を叩
いた。と言うわけで、第一回会議の開催。まずは私の考えを内輪に
理解してもらわなきゃね。
﹁今日は皆さん、集まってくれてありがとう。第一回会議を始めま
す﹂
とはいえ、今いるのは私が信用を置ける人たち⋮⋮つまり、視察に
一緒に行ったメンバーとモネダ、セバス、それからセイ。セイはや
っぱり子どものときに私が連れてきたメンバーで、今はセバスにつ
いて館の管理と領の実務を行っている。
﹁⋮⋮まず、私の考えを述べさせて貰うわ。ここ1ヶ月領内を周り、
セバスから事実確認もさせてもらったけれども⋮我が領は他の領に
比べ、豊か﹂
これは、本当にそう。王都より南部にある常春の我が領は農耕も盛
んだし、海にも面しているから交易も行っている。この国第二の首
都と呼ばれているのも、あながち間違いではないと思う。
﹁けれども、私が実際見て感じたのは⋮⋮この領は、熟れた果実の
ようです。今は食べ頃ですが、やがて腐り朽ちていく。そのように
感じました﹂
周りは予想していなかったのか、私の感想に目をパチクリさせてい
た。特にセバスとセイはね。
50
﹁⋮⋮富める者に富が集中し、貧する者は這い上がれず。真新しい
商品のない店先、停滞した空気﹂
日本という資本主義の国で暮らしていた私は競争社会には肯定派だ
し、富がある程度集中するのも仕方ないと思っているのよ。けれど
も、この領は違う。そもそも競争すらできない。
上は余程下手を打たなければ上のままだし、下は這い上がる機会す
らない。
﹁民が富まなければ、領が富むことはありません﹂
そういうことなのよ。限られた市場では、やがて衰退してしまう。
つまり、民を富ませることで経済を活性化させなければこのままや
がては流れで我が領も衰退してしまうと思ったわけよ。
ふと、周りを見渡せば、何人かはハテナマークが飛んでいた。
﹁⋮⋮つまりね。分かり易く言うと、昔の貴方達のような境遇の子
どもを、作らないような領にしたいのよ﹂
納得が言ったのか、皆が笑みを浮かべながら頷いた。
﹁大きな目標は、そんなところ。100年先も我が領を発展させる
ことができるよう、まずは民の生活の質を向上させること。その為
に、幾つかの改革を推し進めます。まずは我が公爵家とこの領運営
の資金の財布を明確に分けること。それから銀行の設立と政務の集
中化、税制改正、街道の整備、義務教育⋮⋮﹂
51
﹁⋮⋮あ、あの。ギンコウとは何ですか?﹂
私が話している最中に、恐る恐るといった程でセイが口を挟んだ。
﹁あら、失礼。つい熱中し過ぎて、話を端折り過ぎたわね。銀行に
ついては、セバスとセイそれからモネダに携わって貰おうと思って
いるから、後でみっちりその構想について話すわ。⋮⋮ただそれも、
まずは我が家が領民の税に頼らずとも生活を維持できるような体制
にしなければ実現できないのだけれども﹂
﹁つまり、貴方は領民からの税はあくまで領の運営に使うべきであ
り、公爵家の維持は別のところから資金を調達したいと?﹂
﹁そうよ、モネダ﹂
﹁具体的には、どうするつもりですか?﹂
﹁まず、商売を始めるわ﹂
私のその一言に、一瞬会議の空気が凍った。
52
商品化
﹁⋮⋮商売、ですか⋮⋮﹂
セバスとセイは反対なのだろう。少し、表情が曇っているわね。
﹁慣れないことをして、家が傾いたという例は多くあります。それ
は止めておいた方が良いのかと思いますが﹂
商業ギルドにいたモネダも反対っぽい。でも、金を稼がなければ本
当に私の構想は絵空ごとになってしまう。
館の維持やら私たちの無駄に豪華な服に、それから食事⋮⋮この先
予算をそれに割くのであれば、その分公道整備とかに使いたい訳で
すよ。
けれどもだからと言って公爵家の体面を考えると、あまりウチに回
す金も削れないというわけで⋮思い至ったのが、商売。ちょうど視
察で面白いものを見つけたしね。
﹁まあ、モネダ。話を聞く前に、止めてしまうの?儲けることがで
きるかもしれないのに﹂
私の言葉に、モネダは怪訝な表情を浮かべる。
﹁なんて、ね。私は所詮、貴族の令嬢。市場という商人達の戦場に
立ったことのない私が、いきなり商売を始めるなんて言ったところ
で、その反応は正しいわ﹂
53
﹁⋮⋮いえ、失礼しました﹂
﹁良いのよ。で、差し当たってなのだけれども。私、この商品を売
りたいのよ。レーメ、あれを出してちょうだい﹂
﹁分かりましたー﹂
レーメが取り出した袋の中から出てきたのは、茶色の実。
﹁⋮⋮これは⋮⋮?﹂
それを見たことがなかったらしいセバスとセイは、得体の知れない
それを凝視していた。
﹁これは、カカオという実ですー。南部の熱帯地方で取れる実でし
てー、地元の人は時折砕いて飲み物状にして飲むそうですよー﹂
そう、カカオ。我が領は南北に伸びていて、領都は常春の街なんだ
けれども、南部の一部は亜熱帯の気候なのよ。というわけで、カカ
オが成っている地区もあったの。
﹁⋮⋮聞いたことがあります。でも確か、苦過ぎて飲めたものじゃ
ないと⋮⋮﹂
流石はモネダ。こういった産物に関しては、商業ギルドにいただけ
あって知っていたのね。⋮⋮まあ、視察の時にレーメが知っていた
事の方が驚いたけれども。この子、本当に何でも知っているのね⋮
と。何せ、このカカオの原料から地元の人が作っている飲み物状に
するところまでの工程まで知っていたのよ。驚きもするでしょう。
54
﹁やっぱり製品化はされていないのね。今のモネダの話を聞いて、
安心しました﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂
まさか、これを売るつもり?それもそんな自信満々な表情で言うつ
もりか?なーんて、思っているのだろう。
でも、私は結構自信あるのよね。何て言ったって、甘味って貴族の
中じゃ重要なものだし。⋮ほら、お茶タイムとかあるから。
﹁⋮⋮ターニャ。扉を開けて﹂
﹁畏まりました﹂
扉をターニャが開けると、そこには控えていた我が家の料理人の1
人であるメリダが立っていた。因みに、メリダも私が子供の頃に拾
ってきた1人。ターニャ・ライル・ディダ・モネダ・レーメ・セイ
そしてメリダ、この7人が私の拾ってきた子供たちの全て。
メリダは料理がしてみたい、ってことで我が家の料理人になった。
私の料理は彼女が作ってくれていて、ダイエット中の私は色々注文
をつけるのだけど、それに見事に応えてくれる素晴らしい料理人だ。
﹁これは、メリダにカカオから作って貰った甘味よ﹂
出てきたのは、もちろんチョコレート。私からしたら馴染みのある
ものだけれども、皆不思議そうにそれを見ていた。
﹁食べてみて﹂
55
皆、未知の食べ物に恐る恐るといった程で口にする。
﹁⋮⋮⋮美味しい!﹂
けれども一口、口にしてみれば異口同音で好評価の言葉が出てきた。
﹁これは、カカオから作られているんですよね。確かにこれなら⋮
因みに価格設定は?﹂
﹁砂糖を使っているから、少し高めに設定するつもりよ。ターゲッ
ト層は貴族だから、ふんだんに高級食材を使って売り出そうと思っ
ているの。ゆくゆくは、より多くの人に買って貰えるように価格設
定が低い商品も作っていこうとは思っているけれども。それから、
メリダ。もう1つの方も出してみて﹂
﹁畏まりました﹂
さっき出したのは、何の変哲もない板状のミルクチョコレート。次
に出したのは、ダークチョコレートの板状のものと、それから所謂
生チョコとトリュフが出てくる。
﹁これは、さっきと同じくカカオ豆から作られているのだけれども、
味は全く別のものよ。食べてみて﹂
今度は皆、先ほどよりも躊躇いがなさそうに食べた。
﹁うわー、美味しい!私はこの丸っこいのが好きですー﹂
﹁私めは、この少し苦めの方が食べ易くて好きです﹂
56
皆、好みによってそれぞれ好きなものは分かれた。けれども概ね全
て好評価のようで安心する。
﹁このように、アレンジは様々。どう?モネダ。つい最近まで商業
ギルドにいた貴方としては﹂
﹁今までにない商品⋮⋮宣伝さえ上手くいけば、すぐにでも軌道に
乗るでしょう。それだけの魅力があるかと思います。ターゲット層
も明確なのが良いですね﹂
﹁ありがとう。と言うわけで、セイ。貴方には私の手となり足とな
り、この商品販売の販路を築き上げて貰います﹂
﹁⋮⋮私、ですか?僭越ながら、モネダの方が宜しいかと⋮⋮﹂
﹁モネダには、先ほど言ったように銀行の設立に携わって貰おうと
思っているのよ。此方はいずれ商業ギルドと交渉する場が多々ある
でしょうから、その方が良いかと。それに、貴族をターゲット層に
するのであれば、この公爵家で私たち家族を相手にしている貴方な
らばすぐに対応できるようになるはず﹂
﹁⋮⋮⋮畏まりました。ご期待に添えるよう、頑張ります﹂
﹁では、そういうことで。この商品を中心に商会を軌道に乗せると
ころからスタートさせます。まずは、セバス。カカオ豆を栽培して
いる村との契約書を作成して。それから、ライルとディダは村と我
が家の街道の治安維持の為に必要な人数を考え、報告して下さい。
道の様子はこの間視察の時に通ったから覚えているでしょう?﹂
57
﹁畏まりました。すぐにでも取り掛かります﹂
セバス、ライル、ディダは席を立った。
﹁メリダはこの試作をもう少し数を揃えてちょうだい。後で、他に
も考えたレシピを渡すわ。それからターニャはお母様に手紙を書く
のでその準備を﹂
﹁⋮⋮奥様に、ですか?﹂
﹁ええ。お母様ほど宣伝が上手い方はいらっしゃらないわ。商品を
送れば、宣伝してくれる筈﹂
﹁畏まりました﹂
﹁モネダは商会設立の手続きを。その際は、セイを引き連れてね。
できれは、この商品を作る場所の確保もしてきてちょうだい。⋮⋮
この3ヶ月間まずは、この商会の盛り上げからしたいから、申し訳
ないのだけれども此方を手伝ってくださらないかしら?﹂
﹁勿論です。このような面白いこと、見逃す手はありません﹂
﹁ありがとう。レーメには、幾つか確認したいことがあるから残っ
てちょうだい。市場の主な産物の平均的な価格を、貴方ならば知っ
ているわよね?﹂
﹁はいー。ここ15年のものなら、何でも聞いて下さい﹂
﹁では、各自仕事を宜しくお願いします。必ず、何かあったらすぐ
58
に私に報告と相談を﹂
59
商会設立
さて、そんな感じで始まった我が商会。商会の名前は、アズータ商
会。優秀な皆は持ち場でそれぞれ遺憾無くその能力を発揮し、すぐ
に商品販売まで漕ぎ着けた。
お母様に試作を送ってみたところ思いの他好評で、すぐにお茶会や
ら手土産として持って行ってくださったらしく、あっという間に貴
族の間でブームに。現在生産が追いつかないぐらいで、商会もウハ
ウハだ。
転生知識バンザイ。
すぐにでも生産ラインを増やして対応するべきだ、との意見も出た
が、それは却下。ターゲット層があくまで貴族のため、無理に増産
するよりも希少価値を持たせた方が良いだろうという考えだ。それ
に合わせて、よりブランドのイメージを確固とする為に、箱やチョ
コレートには必ず百合の文様を刻印するように徹底させた。⋮⋮何
れ競合他社が出来た時の備えだ。今のところ、まだ現れていないけ
れども。
それから現在、別途貴族ラインとはまた別に平民用のラインを作る
ことも動き始めている。
具体的にはチョコレート自体はまだ高級品の為、チョコレートクリ
ームを使ったクレープや、果物をチョコレートでコーティングした
ものの販売をするカフェを検討中。⋮⋮というか既に場所は確保し
たし、食材の流通ルートも確保しているので、稼働はもう間近とい
ったところだ。
60
セイはとてもとても忙しそうに走り回っている。
とは言え、私ものんびり構えているという訳ではない。徐々に商会
が軌道に乗り始めた今、商会の運営と同時並行で領の運営改革の準
備に乗り出している。
目まぐるしいスケジュールだけれども、何と無く懐かしく思う。前
世でもこんな感じだったしね。
さて、そんなことを考えているうちに早速最初の予定。まずはセイ
との打ち合わせからだ。
﹁⋮⋮現在の状況は、お手元の資料の通りです﹂
﹁貴族ラインは相変わらず好調なのね。働き手の確保はどう?﹂
﹁それについてもご安心を。現在多くのシェフが、我が商会を訪れ
ております。未知なる食べ物⋮それも話題の品物とあっては、その
作り方を学びたいのでしよう﹂
﹁なるほど。であれば、この前話した休暇制度を導入してちょうだ
い。それからメリダと話してあるのだけれども、彼女のお眼鏡に適
った人物には、これから始める別ラインの方のお店を任せたいのよ。
そろそろ其方の打ち合わせをしたいから、彼女に確認して私のとこ
ろに連れて来るように取り計らって﹂
﹁畏まりました﹂
﹁それから、今後既存の商品も王都のみではなく他の都市にも流通
61
させたいわね。その流通経路の確保と人員が必要⋮⋮一層の事、運
送部門も独自に立ち上げてしまおうかしら?ターニャ、レーメとモ
ネダを呼んできてちょうだい﹂
ターニャは言われた通り、すぐにレーメとモネダを呼んできてくれ
た。
﹁⋮⋮モネダ、普通商家はどのように流通を確保しているのかしら
?﹂
﹁そうですね⋮中小商家であれば店主が自ら動いているところが多
いかと。大きなところであれば、護衛を雇ってやはり自らかもしく
は部下にといった具合でしょうね﹂
﹁⋮⋮であれば、やはり運送業というのは中々良いかもしれないわ。
レーメ、すぐに地図を引っ張り出してきて。それからこの国内の道
の中で、より平坦・より気候の寒暖差が少ない道をピックアップし
ておいてちょうだい。それから、各領に着くまでの時間を計算。ラ
イルと話し合って、護衛はどのぐらい必要か、その費用も合わせて
計算しておいて﹂
﹁はーい!今度は何を始めるんですかー?﹂
﹁今の輸送業の発展版、というところかしら?後でその構想は紙に
認めるから、費用と勘案して実現可能か検討するわ。では、セイ。
まずは先ほど伝えた働き手の雇用形態の草案の作成と、メリダとの
話をつけておいて。レーメも早速作業をお願い。ターニャはセバス
を呼んできて。それからモネダはこのまま残って、銀行の構想を練
りましょう﹂
62
矢継ぎ早に述べる私の話を、皆はよく汲み取ってくれて動いてくれ
る。というか、そろそろ此方の人員も増やしていきたいわよね。徐
々に増やしてはいるのだけれども⋮指示する側が圧倒的に足りてな
い。セイもこのままじゃ倒れちゃうだろうし⋮中々上手くいかない
ものね。
と、頭の切り替え切り替え。
﹁⋮⋮じゃあ、モネダ。この前までのところで何か質問はあるかし
ら?﹂
そろそろ本格的に領制の改革も推し進め始めようかと思い至った為、
この前はとりあえずモネダに銀行の構想を伝えた。
現在市場では金は流通しているものの、そのコントロールをする機
関はないとのこと。また、これにはビックリしたのだけれども⋮現
在領民達は金をタンス預金にするか、もしくは商業ギルドに預けて
いるらしい。何でも商業ギルドはそういう機能も持っているらしく、
商業ギルド内であればどの支部であろうが預けた金額を引き出せる
という大変便利なものとなっている。
ただし、商業ギルドはそれが本職ではないため、本当に預かってハ
イ終わりという具合だ。
﹁と、ここまでで何か質問はあるかしら?﹂
﹁いえ。ですが、よくこんなもの考えつきましたね﹂
まあ、私が考えたのではないけれどもね。と言いたいところだが、
63
言えないのでそのまま笑顔でスルーした。
﹁取り敢えず、銀行用の建物を買い取っておいて。それから、近日
中に商業ギルドにギルド長と主だった商会の会頭を私の名前で集め
て会えるようにしてちょうだい﹂
﹁分かりました﹂
64
会合
それから数週間の間、銀行設立に向けて奔走した。建物の確保、備
指定された場所は、アルメニア公爵領支部商業
品の確保⋮相変わらず、やることは山ほどあった。そして、約束の
会合の日がきた。
ギルドの本部。モネダに会った時も思ったけれども、相変わらず重
々しい内装に威圧されるわ。
﹁⋮⋮⋮さて、皆さん。本日は忙しい最中お集まりいただき誠にあ
りがとうございます﹂
まずは、私からの挨拶。ここにいるメンバーはそれこそ1秒1秒の
スケジュールがビッチリ埋まっているのだから、本当に今日ここに
集まって貰えて感謝。
﹁いやいや。私どもとしても、ここ最近話題の商会の会頭である貴
方にお会いできることを、楽しみにしておりましたぞ﹂
ギラリと光る鋭い眼光。さ、流石⋮迫力満点だわ。
﹁今日はアズータ商会会頭ではなく、我がアルメニア公爵領領主代
行として皆様にお会いしに来ましたの﹂
﹁ほう⋮領主代行様としてですか﹂
﹁ええ。でなければ、皆様をお集めすることなんて、できませんわ。
我が商会は未だ新参者ですし﹂
65
﹁ご謙遜を。その活躍はよく耳にしております﹂
﹁まあ⋮⋮お褒めの言葉として、受け取らせていただきますわ。そ
れで、今日の用件なのですけれども⋮﹂
ピシリと空気が一瞬凍った。
﹁まず、我が領に銀行を設立致しました。是非、皆様にもご利用い
ただきたいですわ﹂
﹁⋮⋮銀行、ですか?﹂
﹁ええ﹂
﹁失礼ですが、それはどういったもので?﹂
﹁簡単に言えば、現在の商業ギルドにある資金部門の発展版ですわ。
主な業務はとしては預金業務・為替業務・融資業務といったところ
でしょうか﹂
﹁預金業務⋮?融資業務⋮⋮ですか?聞いたこともないのですが⋮
それに何の意味があるのでしょう?﹂
﹁まず、預金業務。今までの商業ギルドの資金部門では商会・個人
関わらず、資金を預けることができていました。それを銀行で行う
ようにします。商業ギルドで資金部門の為に雇っていた護衛の維持
費が丸々不要になるだけでも、商業ギルドにとっては利点でしょう
?更に銀行では資金決済を口座間でできるようにします。例えば、
互いに銀行に預金をしていた場合、態々現金を持ち歩かなくても銀
66
行の口座間で資金を移動させれば良いのですから﹂
預金業務に関しては、日本のそれと同じにしようかなと。つまり通
帳と印鑑。ただ、手続きは口座開設時の書類を保管している拠点で
しか取引できないのが難点。そこを考えると商会向けに当座預金も
あると良いわね。地方への移動ってよくあるだろうし、その場合は
小切手や手形で対応して貰うようにするのもありかな。
もしくは、今後戸籍を作成させようと思っているから、それと合わ
せてIDを作成させるのも良いかしら。それで、IDの裏面にその
人専用の印鑑を押してそれを証明とするとか。何も日本と全て同じ
にする必要はないのだし⋮とはいえ、これは思いつきだから後で詰
めよう。どうせ戸籍作成はまだまだ時間がかかるから、これに関し
ては銀行設立後、後々導入させるというのも良いわよね。
印鑑に関しても、漢字がないこの世界ではやはり貴族のように紋に
すべきか。今までどうしていたのかを聞きつつ、そういった細かい
ところはモネダと要相談。
為替業務も同様、口座開設時の拠点のみの取り扱いを考えている。
機械ないし。方法としては顧客が保管しているのとはまた別にそれ
ぞれ顧客の帳簿を銀行側が保管し、それをもとに決済するって方法
かな。
因みに現在護衛業を生業としている者は、うちが纏めて雇うつもり。
銀行にも護衛が必要だし、運送業を始めるなら尚更⋮ね。勿論、我
が優秀な護衛達に扱いて貰ってからじゃないと実際練度がバラバラ
で使えなさそうだけど⋮そこは初期投資ってことで。
﹁⋮⋮なるほど。ですが、本当にそれは安全なのでしょうか。大切
な資金を預けるのです。危険があってはならない﹂
67
﹁勿論、我が家の庇護下に置くのです。配備する警備員の質は良い
ということを言っておきましょう。逆に不正を行うようであれば、
その牙は勿論犯人に向きますので悪しからず﹂
﹁ふむ。で、融資業務とは?﹂
﹁融資業務とは、集めた資金で融資⋮つまり、お金を貸すというこ
とです。無論、厳しい条件は課されますが⋮皆さんもそれをクリア
ーさえすれば、新規事業を始める際など資金が必要な時にお金を借
りることができますよ?﹂
﹁それは面白い﹂
﹁いつでもお金を預けて、必要な分だけ引き出すことができる。資
金決済はより手軽なものになる。また、必要な時は資金を借りるこ
とができる。我が家の庇護下にあるため、“我が家”が取り潰しに
でもならない限り我が家の潤沢な資金が保障をしてくれる。⋮どう
でしょう?先の商会経営を褒めて下さいましたが、皆さんにちゃん
と領主として利益は還元しようと思っておりますよ?何せ、領分を
侵したのですから﹂
とはいえ、領としてできるのは銀行の信用に対する保障までで、特
に目の前の人たちの商会に直接投資をすることなんてできないんだ
けどね。何て言ったって、領民からの税金を投入するのだから。最
も、ウチの商会が成功しなかったら税金の運用はこれまで通り公爵
家の維持にほぼほぼ費やしちゃっていただろうから、ウチの商会が
利益還元しているというのは強ち間違いではないわよね?
68
﹁その交換条件として、私たちに何を求めるのですか?﹂
﹁銀行設立に関しては、何も求めるものなどないですよ。我が領の
お金の廻りが良くなればそれが一番なのですから。あ、ですが商業
ギルドには今まで資金部に務めていた人たちを銀行にヘッドハンテ
ィングさせて貰ってよろしいですか?覚えることが沢山あるでしょ
うが、素地がある方が良いですし。それから、本店は此方で準備し
ていますが、他の拠点はまだなので、商業ギルドの支部に間借りさ
せていただけると、ありがたいですね﹂
﹁まあ、それぐらいなら。初期費用を其方で持ってくれる上、我が
ギルドの中でも赤字分野であった資金部門の肩代わりをしてくれる
のだ⋮喜んで、協力させて貰おう﹂
よし、銀行設立の目処は立ったな。
﹁⋮⋮では、次に。これから商会の皆様にとっての“本題に”移り
ましょうか?﹂
一度緩まった空気が、再び張り詰めたものに変わった。ここで終わ
りにする訳がなかろうに。⋮⋮この秒単位でスケジュールが詰まっ
ている人たちを集めたのだ⋮まさか、これだけで終わりにするなん
て勿体ないことする訳がない。
﹁先ほどお話した銀行ですが、預かった領民の税で我が領土の道路
の整備に投資することが決定しております。そして、もう1つ。“
学園”の設立にも﹂
﹁学園⋮ですか?王都にあるような?﹂
69
﹁あんな実にならない学園を、税を使ってまで態々作ろうとする訳
がないでしょう。作ろうとしているのは読み書きを覚える初等部と
より高度な専門分野を教える高等部⋮⋮。初等部は義務教育として
領民には必ず通って貰うことになりますので、我が領の税金で設立
させます。皆様に噛んで欲しいのは高等部です﹂
﹁どのように噛めと?﹂
﹁率直に言えば、投資して欲しいですね。資金でも良し、備品・資
材の提供でも良しですし﹂
﹁先ほどの銀行とやらに融資をさせれば良いのではないのですか?﹂
﹁銀行の信用は、我が公爵家の資金と領税に裏付けられたもの。過
度な融資は、収支のバランスを崩しあっという間に銀行の経営が火
の車になってしまいますわ﹂
﹁一理ありますな。であれば、学園の創設を待てば良いのでは?﹂
﹁できれば、学園は早期に開設したいのです。人もまた、我が領の
大切な資源です。磨かずに放っておくのは勿体ないでしょう﹂
﹁⋮⋮ふむ。その学園の、具体的な構想は?﹂
﹁今から配ります資料をご覧下さい﹂
共についてきていたセバスが、皆に資料を配る。この数週間で準備
していた資料だ。⋮おかげで最近、寝る暇すらなかったぞ。
70
﹁まず、目玉は医薬科の設立。後は領官科・会計科を考えています﹂
﹁医薬科です⋮か?﹂
商会の会頭達は驚いたような表情を浮かべる。それもその筈。この
世界では医者とは王侯貴族に召し抱えられ、その知識はあまり一般
に流布されない。その知識の価値は如何程なものか⋮商会の者なら
ば誰でも分かるであろう。普通なら、高い給金を蹴って知識を広め
る為に雇われることなんてない。⋮そう、“普通”なら。私もよく、
あの人達を雇用できたなあっと思う。我が家の医者2・3人連れて
無駄に顔広いしな、あの人。何でも、田
行こうかと思ってたんだけど、この話を何処で聞き及んだのか母様
から紹介があったのだ。
舎でのんびりしたかったこと、それから後進を育てたいと丁度思っ
ていたらしくすぐに了承してくれたそうだ。私としてはその医者も
そうだけど、今後商会の人として母様の交渉術を是非とも商会で活
かして欲しい。
因みに、農科の講師はそれを研究している学者と農家の人たち。座
学と実技⋮ってね。学者の人たちは、これまたお父様とお母様の人
脈をフルに使って集めた人たちだ。後はレーメにも講師として立っ
て貰おうと思っている。
71
お嬢様の交渉
﹁知識も財産の1つ、ですか⋮﹂
﹁ええ﹂
﹁ですが、今の医者というのは数が少ないからこそ希少で価値があ
るのです。もしも数が増えればその価値は下がるかと⋮﹂
﹁何を仰いますか。今でも足りてないですよ﹂
民達は、街に住んでいれば町の医者にかかることができる。とはい
え、あまりちゃんと教育されていない為、効果は期待できない。そ
して辺境の地域となると、町医者すらいないため、怪しげな呪い師
に頼ることも少なくないという。
﹁薄利多売とまでは言いませんが⋮民達皆も医者に通うことがで
きるような環境になれば、医者の器具や薬を取り扱う商会は儲かる
筈。また、その研究機関で新薬が開発されればそれはより期待でき
るでしょう﹂
見れば、医薬系を取り扱う商会の会頭はウズウズしている。うん、
少しは興味を引けただろうか。
﹁領官科と会計科は、将来の我が領をより豊かにするため、人材を
育て上げることを目標とします。⋮特に会計科は皆様に関係が出て
くるかと思いますよ?﹂
72
﹁領官科は何となく分かりますが⋮会計科というのが我々に関係す
る理由とは?﹂
﹁資料の3枚目をご覧下さい﹂
﹁これは⋮⋮﹂
﹁これは、アズータ商会の帳簿の一部を抜粋したものです﹂
﹁これが、帳簿なのですか!?﹂
皆が驚いたようにしげしげと、それを見ていた。この世界、何と未
だに複式簿記がないのよ!あんな便利なものがないなんて、信じら
れない。﹁複式簿記は人智の産んだ最も立派な発明の一つである﹂
と言われている程だというのに。更に信じられないことに、形式が
全く統一されていないのだ。ある商会では単式簿記を使っているし、
ある商会では記帳法や口別商品勘定を使っていたり⋮というような
形になっている。資本主義形式を推し進めたい私にとって、これは
いただけない。
﹁これは入りと払いがすぐ分かるようになっております。他にも、
こちらは貸借対照表と言って現在の資産負債がすぐに分かるように
なっておりますし、損益計算書では収益と費用がすぐに分かります。
これによって、“定量的”に商会を見ることができますの﹂
商人の勘と経験によって舵取りされるのも良いのだけと思うけれど
も、今後の事を考えると今統一すべきであろう。まあ⋮会計に関し
73
ては前世の私の仕事もあって明瞭であって欲しいと切に思うのもあ
るけれども。
﹁銀行の融資を受けるときにはこの書式を提出いただくことを必須
としますし、何より今後税制の改革後は人頭税を無くす代わりに、
この帳簿によってどれだけ利益を上げているのかというのをキッチ
リ報告してもらい、それに見合った税率で収めていただくようにな
ります。勿論、税制には抜け道もありますから、税制に明るい方が
いれば資産の圧縮を通して節税ができそうですわね。ということを
考えますと、皆様にとって大きな助けになるかと思いますよ﹂
﹁⋮⋮貴方に、税の改正まで権限があると?﹂
﹁ええ。私はただの領主代行ではありません。この書状に書いてあ
ります通り、領の運営に関しては私が役職を降りるまで、領主と権
限が同等ですわ﹂
﹁⋮⋮学園に入れば、貴方の商会の帳簿の形式が学べるのですね?﹂
見る人が見れば、この帳簿の形式の価値に気づく筈だと思っていた
けれども⋮正しく、商会の会頭たちはこの帳簿の価値に気づいてく
れたようだ。
﹁ええ、勿論﹂
﹁参った⋮⋮餌が大きいと、鞭もそれだけ大きなものになることは
多々あるが⋮﹂
﹁ええ。旨味は他にもありますわよ?例えば農科で今の野菜や穀物
の品種改良を研究して貰い、それでできたものは今回出資をしてく
74
ださる商会にその権利を移譲します。どうです?美味しいでしょう
?﹂
﹁ああ、美味しいな﹂
﹁さて、これより先は出資をして下さる商会のみにお話をさせてい
ただきましょう。関係のない方々のお時間までいただく訳にはいき
ませんから﹂
私の提案に、けれども席を立ったのは2人だけだった。あら、半数
ぐらいはいなくなるかと思ったけれども。
﹁随分残りましたわね⋮⋮。こう言っては何ですが、良かったので
すか?﹂
﹁アイリス様。我々は“商人”の前に“一流の”と、つけることが
できると自負しておりますぞ?目先の利益に囚われず、先々の大き
な利益を得るために動くのが商人。大きな利益には、それだけのリ
スクがあるのも当然。そのリスクとリターンを勘案し、決断を下す
のが我々の頭の使い所。そして、その大きな利益の好機を前にして、
見逃す手はない﹂
﹁まあぁ⋮⋮それもそうですわね﹂
﹁貴女がただの貴族のお嬢様であれば、夢物語として切って捨てて
たでしょう。ですが、貴方は既に己が手で商会を切り盛りし、僅か
の間に我々と同じ格⋮いやより高くまで押し上げた。そんな貴方の
手腕を、我々は買っているのですよ﹂
﹁⋮⋮私もまた、貴方達を誇りに思います。貴方達一流どころが、
75
我が領を盛り立ててくれているのでしょうから﹂
76
馬車にて
﹁⋮⋮それにしても、アイリス様は肝が据わっていますね﹂
帰りがけの馬車の中で、モネダがそんなことを口にした。現在馬車
に乗っているのは、私とモネダそれからセバス。馬車の外にはディ
ダが御者と共に座っている。
﹁あら、失礼ね。私だって、随分緊張したのよ﹂
﹁全然そんな風に見えなかったですけれどもね。大体、あのメンバ
ーに商談を持ちかけるなんて当初は思いもしなかったですよ﹂
﹁じゃあ、モネダは何の為に私が彼らを呼んだと?﹂
﹁そりゃ、銀行設立の報告かと⋮﹂
﹁したじゃない﹂
﹁いや、そういうことを言っているのではなくてですね⋮﹂
思わず、笑ってしまう。私だって随分緊張したし、いかにか細い綱
を渡っている状態だったのかも分かっているつもりだ。何せ、作っ
た資料はびっちり3週間使い、かなり細かく詰めたつもりではある
けれども⋮完全なる新規事業だ。どんなことを問われるか、どんな
ことを突っ込まれるか気が気じゃなかった。
﹁けれども、本当に何故学園創設に銀行の預金を使わないのですか
77
?それこそ、道路整備を後にしてでも⋮﹂
﹁交易に流通は切っても切り離せない。物の廻りをよくすることで、
金の廻りも良くなる⋮⋮であれば、早めにそれに取り掛かること、
そしてその事業によって民に資金が廻れば、子供達が学園にも通い
易くなるでしょう?﹂
無論、初等部は完全無料とする。けれども、だからといって希少な
働き手を喜んで出すとは思えない。それが特に辺境の地であればあ
るほど。であれば、道路建設という“公共事業”によって民に金を
行き渡らせ、景気を活発化させることでそれを黙らせる一手となり
得る。
﹁聡い彼らは、道路整備が飴の1つだと気づいているでしょう。物
流は良くなり、工事中に必要な用具の受注・働き手達の食事⋮⋮彼
らの懐も事業によっては大分潤う筈。その潤った分で投資を行い、
公爵家に恩が売れて、尚且つ新商品の権利まで譲渡される。⋮こう
考えれば、食いついてくれるかなとも思っていたのよ。あとは、私
が食い尽くされないように踏ん張るだけ﹂
﹁お嬢様、そこまで考えていたのですか⋮﹂
﹁あら、何も考えてないとでも思った?﹂
﹁いや、流石にそこまでは言いませんよ﹂
﹁そう?じゃあ、モネダ。帰ったら早速貴方は銀行本部にて銀行を
開業して。預金の受け入れ、口座の作成、諸手続きは以前予行した
通りよ。それから、道路整備の為の資金を確保。⋮⋮つまりね?モ
ネダ。これかは暫く貴方に休日はないと思っていてちょうだい。忙
78
しくなるわよ﹂
﹁望むところです﹂
﹁セバスも忙しくなるわよ。レーメと話し合い、工事の順番を決め
て、それからより効率的な道路を作るように。それと工事整備の費
用の計算、申請書類の準備を﹂
﹁畏まりました。レーメ殿との話し合いは既に済んでおり、費用の
計算まで済んでおります。後は、申請を出すだけです﹂
﹁流石ね、セバス。その申請書は私に提出して。すぐに目を通すわ。
良ければ、モネダに回してすぐにでも始めるわよ﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
私の名前は、セバス。氏はない、が⋮代々アルメニア公爵家にお仕
えする由緒正しい家だと自負している。
さて私の仕事と言えば館の管理と、日頃宰相として王都におられる
当主様の代わりに領の管理を行うことである。私のお使えする公爵
様の領は広大で、かつ豊かな土地にある故、そこまで管理に労した
ことはない。⋮なかったのだが。
お嬢様が領主代行についてからは、その穏やかな生活が一変した。
⋮一言で言えば、忙しい。これに尽きる。私とて、館の管理と領の
79
管理を並行して行っていたのだ⋮同じ使用人仲間からは“一体いつ
休んでいるのか”と問われることが、多々あったものだった。そん
な私が、お嬢様の働く量にはただた感服するばかりだ。
正直に言うと⋮お嬢様が帰ってきた当初、お嬢様は私に全てを一任
してしまわれるのであろう⋮そう思っていた。けれども帰還された
お嬢様は、まず私に会計報告と領制のレポートを提出させると、物
凄い速さで読み上げ、精力的に視察に出られた。
その後は、商会を立ち上げると瞬く間に財を成し、現在は領制の改
革にと奔走している。⋮一体いつ休んでいるのか、寧ろ確りと眠っ
ているのかと疑問に思う程だ。
その仕事量と的確な指示には、驚きを通り越して感動すら覚える。
この方の為であれば、老骨に鞭を打つことも厭わない。⋮この方を
支え、辿り着く未来がどんなものなのか、楽しみですらある。
1つ懸念事項と言えば、お嬢様が最近おやつれになっていることだ。
本人は減量中だから⋮と仰っていたが、あれは単に減量だけではな
く、疲れからではないか⋮そんな心配が浮かんでくる。今のお嬢様
の肩には、間違いなく我が領の未来が懸かっている。それだけ、お
嬢様の存在感は日に日に大きくなっているのだ。
お嬢様がお倒れにならないよう、確りと支えなければ。
料理長に伝えて、今日はお嬢様の好物を用意させよう。⋮そう、商
業ギルドの帰り道、1人考えていた。
80
81
美意識は世界共通
⋮⋮さて、銀行設立から半年が経った。この半年の間に、公共事業
第一弾である道路整備は稼働を始め、着実に整えられている。
銀行にも、まずは商会の者たちが商会名義で口座を作り、預金し
ていった。するとその商会に関係する者が個人で口座を作り、それ
が更に広まり⋮と、都市部では大分銀行の存在感も大きくなってき
た。それに伴い、モネダも忙しそうにしている。課題としては、ど
う都市以外にも広げていくか⋮なのよね。
学園建設は資金も無事溜まり、現在建設中。出来上がればすぐに
稼働させる予定だ。とはいえ、高等部を優先的に建設させているか
ら、初等部に領民の子供達全員が通えるようになるまでは、まだま
だ道のりは遠い。
私の仕事は減ることはなく、寧ろ増えていく一方だ。流石に最近は
ちょっとオーバーワークかなとも思うので、領政を担う官僚たちを
集めることを急務としている。既に我が家の中でも領政に携わって
きた者たちは、所属を其方に移させて仕事に当たらせていた。
現在ある部門は、財務・文部・民部・工部・法務。その上に、私
という領主代行がいるという体制にしている。
因みに財務は税務と兼任になっており、各部が出した案の費用を
計算し実現可能か天秤にかけ、了承が出たら銀行から費用が出ると
いう形式。また、税務面では、今後の税収の改革も共に話し合う存
在だ。
文部は日本で言うところの文部科学省と同じような仕事。学園で
教える内容の制定、それらの費用の勘案・それから学園の人事権な
んかもそこの管轄だ。
民部は領民を管理する部門で、現在は戸籍を作るために各地を奔
走している。⋮何れは、社会福祉もここに担って貰おうかななんて
82
考えている。
工部は道路の建設・公共設備の設立なんかを一手に担う部署。つ
まり道路整備を大々的に行っている今、最も忙しいといっても過言
ではないかもしれない。
法務はその名の通り、領の法を整えることが仕事。今は現在の慣
習法から体系づけ、法として整えるという作業を行っている。
と、疲れたし湯浴みでもしようかしら。
﹁お嬢様、どうされたのですか?﹂
﹁珍しく時間が空いているし、少し疲れたからお風呂に入りたいの。
準備して貰える?﹂
ターニャに伝えると、ターニャはすぐさま準備を始めてくれた。最
近ターニャはえらく過保護。⋮そんなに私、疲れているように見え
るかしらね?
﹁⋮⋮何だか今日はとても嬉しそうですが、何かあったのでしょう
か?﹂
﹁あ、やっぱり分かっちゃうかしら?ふふふ、欲しいものがやっと
手に入ったのよ﹂
ふふふ⋮半年間忙しい合間をぬって研究に研究を重ねて漸く出来上
がったもの。それを今日、試してみようと思うのよ。
ゆっくりお風呂に浸かり、疲れを癒すと早速それを使ってみた。は
ああぁ、ローズの良い香りがする。
83
上機嫌のままお風呂から上がると、ターニャは私の身支度を整える
べく控えていた。
﹁失礼します、お嬢様。御髪を整えますね⋮⋮って、え!﹂
ターニャは私の髪を見て、驚いたように固まった。ふふふ、凄かろ
う?普段顔色が変わらない彼女がここまで表情に出すのだから、効
果は上々だろう。
﹁御髪がとても綺麗⋮まるで輝いているようですね。失礼ですが、
お嬢様。これは一体どうしたのでしょうか⋮⋮﹂
﹁ふふふ⋮コレを使ったのよ﹂
私が出したのは、小瓶。中には薄黄色の汁がたくさん入っていた。
﹁これは、何ですか?﹂
﹁リンス、と言ってね。髪の毛を艶やかなものに整えてくれる大切
なものです﹂
じつはこの世界リンスが存在しない。皆、普通に石鹸で洗って終わ
りらしい。この半年間、どれだけ我慢したことか。因みに最初の3
ヶ月間はそこまで頭が回らなかった為、気づかなかったけれども。
気づいたら気になり出すのが人の性。⋮⋮シャンプーだけだと髪が
傷む。それを分かっていながら、シャンプーだけで終わらせる苦痛。
アイリスの髪がこれまたお母様譲りの美しいプラチナだったからこ
そ、余計ストレスだった。
84
前世で手作り石鹸やらシャンプーリンス、化粧水等々を作ること
にハマっていたけれども、流石にこの世界で作るのには時間がかか
ってしまった。
どうせ作るであれば⋮と拘り抜いた一品。香り付けに我が家自慢
の薔薇を香料として使っている。
﹁⋮⋮⋮凄いです、お嬢様⋮⋮⋮﹂
うっとりと私の髪を見ながら呟くターニャ。やっぱり、美容製品
てどこの世界の人をも虜にしちゃうものね。
﹁⋮⋮ターニャにも、あげましょうか?﹂
﹁え、そんな良いのですか?﹂
﹁作ればすぐにできますし﹂
始めの1つを作るのに時間がかかってしまったが、レシピが確立
された今、そんなに時間はかからない。
﹁それでは、少しだけ⋮⋮⋮﹂
ターニャは嬉しそうに受け取った。⋮喜んでもえたなら嬉しい。
ターニャには、本当にお世話になっているし。
けれども、話はそれだけで終わらなかった。私の髪を見た女
性の使用人が、何か特別なものを使っているのか、使っているので
あれば何処で手に入れているのか、とターニャに次々と詰問。ター
ニャは健気にも黙っていたけれども、それを目撃した私があっさり
85
とリンスの正体を明かすと、次々と欲しいという声があがった。
その効果を知ると、男性陣が“これは商売になりますよ”と提
言。それによりアズータ商会で早速製品化を進め始めた。
これにより、私の仕事が更に増えたのは言うまでもない。
86
お母様は、チート
早速商品化したものをお母様に送ってみたところ、お母様はそれ
らをえらく気に入ってくださったらしく、あちこちで宣伝してくだ
さった。その結果、貴族の中では勿論、少々高めな値段設定ながら
平民の間でも人気商品としての地位を確立しつつある。⋮⋮本当に、
お母様は宣伝上手だ。密かに私の中ではお母様を宣伝部長と呼ばせ
て貰っている。
もっとも、商会の規模が拡大すれば拡大するほど、当然のことな
がら私の仕事量は増えていく。徐々に従業員の人数も増やしている
し、権限も可能な限り与えてはいるのだけれども、どれもこれも稼
働してから1年も経っていないものばかりで、まだまだ私も直接携
わっておきたいのだから仕方ない。⋮健康には気をつけねば。
﹁⋮⋮アイリスお嬢様﹂
﹁あら、セバス。どうしたの?確か、貴方との話し合いは午後から
よね?﹂
﹁それが、奥様が午後にお帰りになられるとの知らせがございま
して⋮﹂
﹁え?お母様が?この前の手紙にそんなこと一言もそんなこと書
いてなかったのに⋮﹂
﹁兎も角、ご指示を﹂
﹁そ、そうよね。とりあえず、使用人達に玄関周りとダイニング
87
ルーム、それからお母様のお部屋の清掃をさせて。普段から綺麗に
してくれてるけれども、改めて。それから、玄関に飾ってある花を
変えて。先日お渡しした商品と同じ薔薇にしましょう。あとは⋮料
理はデザートに新商品であるフォンダンショコラをお出ししようと
思うから、それに合うように献立を立ててちょうだい。フォンダン
ショコラが濃厚な分、少しあっさりしていた方が良いわね﹂
﹁畏まりました﹂
﹁それから、お茶はハーブティーをお出ししましょう。詳しくは
アズータ商会の喫茶ラインの面々が知っているから、そこで聞いて﹂
因みに、喫茶ラインとは新しい呼び名。それまで貴族ライン・平
民ラインとしていたが、その呼び方もあまり良くないかなという私
の考えと、富裕層や貴族達も来店できるような喫茶店も開店させ始
めてるからね。
そのため、現在チョコレートでは喫茶ラインと製菓ラインという
ように分かれている。
あ、でも貴族ラインは貴族ラインでそのまま残していますよ?
彼らって特別対応大好きだし。会員制にしてみたら、会員になりた
いという希望が出るわ出るわで嬉しい悲鳴があがってる。
その会員となると、王都と領都にある専用の店に来店できる資格
を得る。そこでは、我が商会が扱う商品“全て”を見ていただくこ
とができるという仕組み。
つまり、製菓に限らず最近取り扱いを開始した美容製品もね。美容
製品だと、お好みの香料で香り付けしたオリジナル美容液等々が売
れ筋。製菓も注文対応しているし、その場で食べれるよう別ブース
で喫茶店も併設してある。
⋮そんなことより、お母様が来るならスケジュール空けなきゃ。と
88
我に返り、スケジュールの確認。最近ターニャが私の秘書と化して
いる。本当にありがたい。
そして、何とかスケジュールを調整してお母様の帰りを待つ。あ
えて言うのならば、ごめん⋮皆。皆の負担が大変なことになってし
まって本当に申し訳ないので、到着したという知らせがくるまで細
々とした事務を行う。数字の確認とかね。
﹁奥様がご到着されました﹂
﹁ありがとう、セバス﹂
私も早速玄関に向かう。おお、廊下もいつも以上にピカピカ輝いて
いるわね。
﹁お帰りなさいませ、奥様﹂
主だった使用人と共にお母様のお出迎え。
﹁おかえりなさい、お母様﹂
扉の方から現れたのは、プラチナの髪が輝く絶世の美女。ああ、我
がお母様ながら本当に美しい⋮⋮。社交界の華と呼ばれるお母様は、
今尚貴族の中でも憧れの存在であり、社交界で多大な発言力を有す
る。⋮それもあって、アズータ商会の宣伝部長としてこれ以上ない
方なのだけど。
﹁ただいま帰ったわー。突然ごめんね、アイリスちゃん﹂
性格は温厚。家族に向けてはこんな喋り方だけど、勿論外では全
89
然違いますよ。なんて言ったって社交界の華⋮完璧な貴婦人と称さ
れていますから。
﹁いえ、私もお母様に久しぶりに会えて嬉しいです﹂
﹁まあ、可愛いこと言ってくれちゃって。でも、アイリスちゃんが
こっちに来る時ゆっくりとお話できなかったから、本当に嬉しいわ﹂
﹁でも、良かったのですか?まだシーズン中ですよね?﹂
﹁大丈夫よー。公式行事は全部終わったし、仲の良いお友達には知
らせてあるし⋮⋮ああ、そういえば騎士団団長の奥様からお茶会の
お知らせがあったけど、行く気ないしねえ﹂
⋮⋮お母様、流石です⋮と思いつつも、口にはしない。きっと今頃、
騎士団団長の家の人たちのお顔は真っ青になっているだろうなあ⋮。
なんて、思ったり。
なにせ、お母様が出席するのとしないのとでは、その催し物の格
が変わると言われている程である。
正直そこまで?と思わなくもないが、これが本当のこと。公式行
事は別として、各家が催す催し物は“どのような人物を集めること
ができるのか”で格が変わる。で、社交界の華と言われているお母
様が出るのと出ないのでは、大きく差がある訳だ。
仮に出席して貰えても、お母様が席を立つタイミングがいつにな
るか主催者側は気が気ではないらしい。お母様があんまり早いタイ
ミングで帰られるのが続くと、センスがないわねっとなってしまう
のだと。
夜会だとか茶会って夫人の力量が試される訳で⋮王家の催し物だ
って、公式なものでなければ王妃の力量が試される場なのです。出
席さえすれば、失礼に当たらないし。
90
本当、お母様って存在自体がチートなのよ。
⋮⋮それは、兎も角。ドルッセンざまあと思った私って性格悪いわ
ね。でも、全く申し訳ないと思わないのよ。
91
お母様は、チート︵後書き︶
誤字のご指摘ありがとうございます。
早速直させていただきました。
感想も大変嬉しく思います。
未熟な面が多々あるかとの思いますが、今後とも宜しくお願いしま
す。
92
お母様、お怒りのようです
﹁まぁ、アイリスちゃん。もう仕事をしているの?﹂
朝方、私が書斎で仕事をしているとひょっこりお母様が顔を出され
た。
﹁お母様、ごめんなさい。朝食のお時間でしたわね﹂
﹁良いのよ、気にしなくて。それより、アイリスちゃんの体調の方
が心配だわ﹂
﹁大丈夫です。半年続けて、倒れたことはありませんし。それに、
結構楽しんでいるのですよ﹂
﹁そう?それなら良いけど⋮﹂
﹁もし宜しければ、朝食を先に食べてください。私はもう少しかか
りそうですし。今日の朝食はチョコクロワッサンを準備させていま
すよ﹂
﹁チョコクロワッサン?聞いたことがないわね﹂
﹁アズータ商会の新商品です。チョコレートが練りこまれたパンで
すよ﹂
﹁まあ、それは美味しそうね。でも、折角だからアイリスちゃんを
待つわ﹂
93
﹁分かりました。なるべく早く終わらせるよう、頑張りますね﹂
ターニャが、それとなくお母様にお茶を淹れて差し上げる。できる
秘書、それがターニャです。
朝方、それぞれの関係部署から上がってきた報告書に目を通す。あ
あ⋮まだ先は遠い。
道路整備は順調、学園の校舎も高等科と領都の初等科はどんどん
進んでいるけれども。
﹁セバス、これは計算が間違っているから直させて。それから、
この予算申請も却下。費用の計算が甘いわ。もう少し、切り詰めら
れるところは切り詰めさせて。この予算でいくのなら、工部に納得
できるエビデンスを一緒につけさせてから持ってきてちょうだいと
伝えて。あ、工部と言えば例の件、どうなっているのかしら?﹂
﹁ええ。道路整備と共に、各所に役場を作る準備は順調に進んでお
ります。資材運搬が同時にできますので、時間とコストカットにつ
ながっているかと⋮﹂
﹁その状況を知りたいから、是非私に報告書を提出させて。それか
ら、戸籍作成は最優先事項だと民部に伝えて。せめて領都の分は、
道路整備が終わる前にしてしまいたいの。これは今後、最も重要な
資料よ。他の仕事を進めるのなら、先に戸籍作成を進めさせてちょ
うだい﹂
﹁畏まりました﹂
先に見ておく資料は、これで終わりかしら?後はじっくり検討した
り、話し合ったりするものの資料で⋮⋮うわ、山がまだ2つあるわ。
94
そんなことを考えながら書類を仕分けをしていたら、部屋にノック
音が響く。
﹁入ってちょうだい﹂
﹁失礼いたします﹂
入ってきたのは、商会を担当しているセイだ。
﹁奥様、アイリス様、おはようございます。⋮アズータ商会の朝の
報告書をお持ちしましたが⋮﹂
﹁目を通すから、ください﹂
机に置かれた書類は、山1つ。少ないと思うか多いと思うか、判断
に迷うところ。それをパラパラとめくって目を通す。大事そうなと
ころには自作の付箋もどきを貼り付け、とりあえず先に進める。一
通り目を通し終えたら、付箋のところに戻る。⋮速読できて本当に
良かった。
﹁⋮⋮各ライン、概ね好調ね。この美容製品ラインの新商品なのだ
けれども、サンプルを後で持ってきてちょうだい。中だけじゃなく
て、容器の方もね。それから、原料に試してみたいのが幾つかある
のよ⋮後で開発者のところに行くと伝えておいて﹂
﹁試したいもの、ですか?先にお伝えいただければ、物をご準備致
しますが﹂
﹁そう?なら⋮このメモに書いてあるのを、午後までに持ってきて。
95
それからついでに、各店舗の帳簿を確認したいから持ってきてちょ
うだい。後で見るわ﹂
﹁畏まりました﹂
⋮と、朝の打ち合わせはこんなところで良いか。
﹁お母様、お待たせ致しました﹂
﹁良いのよ。それにしても、このハーブティーというのは、本当に
美味しいわね﹂
ニコニコお母様は微笑まれている。かなりお待たせしてしまったの
に、お母様は本当にお優しい。
﹁気に入ってくださったのなら良かったです。現在アズータ商会の
喫茶店ラインでも、好評の一品なんですよ﹂
﹁そうなのね。是非、家でも飲めるようにしたいわね﹂
﹁そうなんですが⋮今はまだ、喫茶店でしかお出しできていない状
態なんです﹂
この世界は紅茶が主流で、試験的に喫茶店で出してみたら、これが
大当たり。茶葉を購入したいという声をいただいているのだが、ま
だ生産が追いついていないのが現状だ。⋮これについても、対策し
なければ。午後の打ち合わせで、ついでに喫茶店ラインにも顔を出
そう。
96
﹁そうなの。是非購入できるようになったら、教えてちょうだい。
今度のお茶会で出してみるわ﹂
﹁その時は宜しくお願いします﹂
流石は宣伝部長。最早頼まなくても、仕事をしてくださってる。
それから、お母様と朝食を食べてゆっくりとお茶タイム。こんな穏
やかな時を過ごすのも久しぶりかもしれない。
﹁⋮⋮そういえば、向こうの家の様子はどうですか?﹂
﹁ん?今まで通りなーんにも変わらないわよー。相変わらず馬鹿息
子は、長期休暇でも帰って来ないし。大方、第二王子とあの女の取
り巻きをしてるんでしょうね﹂
お母様の声が、後半冷ややかなものになった。美人なお母様がそ
んな声を出されると、迫力満点。
﹁お、お母様⋮⋮﹂
﹁アイリスに言っておきますけれども、今回の件で私は勿論貴方の
味方だわ。ベルンに対しても⋮私、怒っているの﹂
く、口調が変わってるー!!完全に外仕様だ。冷ややかな口調と笑
97
みは、私の背筋をぶるりと震わせた。
﹁⋮⋮正直、実の息子でなければ、さっさと潰していたわね﹂
口元には笑みを浮かべているけれども、お母様、だから怖いですっ
て。
﹁⋮⋮そ、そういえばお母様。王都とか城内の様子はどうなんです
か?﹂
私が話題を転換させると、ふうーと溜息を吐いて再びお母様の
纏う雰囲気がふんわりとなった。
それにホッと私は詰めていた息を吐く。べ、別にお母様の雰囲
気が恐ろしくて話題を転換させたんじゃないのよ?気になっていた
ことだもの。
⋮勿論両陣営のことは、私もある程度は把握している。けれ
どもお母様が持っている情報量って凄いし。
因みに私が把握しているのは、現在、第一王子の陣営と第二
王子の陣営は膠着状態。そりゃ、そうよね。現王は健在だし、あま
り大きな手を打つのは得策ではない。
肝心の当人達はといえば⋮⋮第一王子は、一応留学中とはな
っているが、甚だ怪しい。どこに行っているのか、とか公表されて
いないんだもの。表舞台に出てきてないから、一切その消息は私に
は分からない。
第二王子は学生として相変わらずの生活を送っているらしいけれ
ど、学園生活までは調べてないから分からない。
98
99
閑話
僕の名前は、セイ。氏はない。元々スラム街の出で、お嬢様に拾わ
セバスさんの下で、公爵家執事見習いとして館で働いて
れて以来、アルメニア公爵家で働かせていただいている。
けれども
いたのが今はもう、遠い昔のようだ。
事の発端は、お嬢様が領主代行となられてから。お嬢様は商会を
立ち上げ、同時に僕を商会の担当とした。それ以来、執事としての
仕事は何処へやら⋮お嬢様の目となり口となり、各担当者との打ち
合わせ、お客様の対応等々⋮仕事は山ほどある。今も、伝書鳩よろ
しくお嬢様からの伝言を伝え、指示を出してきたところだ。
﹁あら、セイさん。お疲れ様です﹂
﹁お疲れ様です、ターニャさん﹂
すれ違ったのは、同じ身の上のターニャさん。彼女もまた、侍女
としてお嬢様の手となり足となり働いている。
﹁どうですか?最近は﹂
﹁相変わらずですね。ターニャさんは?﹂
﹁私も、変わらずです。そういえば、この後のご予定は?﹂
﹁少し休憩して、お嬢様のところにお迎えにあがろうかと﹂
﹁でしたら、どうです?お茶でも飲みませんか﹂
100
珍しいターニャさんからの誘いに乗って、僕は使用人の休憩室に行
った。
﹁どうぞ﹂
適当な椅子に座った僕に、ターニャさんはお茶を出してくれた。薄
い黄色のような緑色っぽいそれは、最近商会でも力を入れ始めたハ
ーブティーというやつだ。
﹁これは、ローズマリーのハーブティーです。疲れた時に、とても
良いんですよ﹂
﹁ありがとうございます。⋮いただきますね﹂
一口飲んで、ゆっくりと息を吐く。
﹁美味しいです。⋮⋮僕、そんなに疲れているように見えましたか
?﹂
﹁いいえ。ですが、お疲れでしょう?﹂
﹁はは、は⋮まあ、そうですね。でも、僕なんかまだ良いんです。
お嬢様の事を考えますと⋮﹂
﹁私も、それが心配なんです。お嬢様がお休みされているところを、
私はここ最近とんと見なかったですから﹂
﹁そうなんですよね。あの方を見ていると、僕もまだまだ頑張んな
きゃなって思いますよ﹂
101
僕の仕事は、確かにお嬢様が帰ってきてからとても増えた。けれど
も、嫌だとは思わない。寧ろ、あの商会がどこまで大きくなるのか
⋮その助けをさせていただくのが楽しみですらある。
それと何より、お嬢様の方が自分の倍以上働いているのを見て
いると、自然と頑張らなきゃなって思うんだ。
﹁お嬢様を基準にしちゃダメですよ。あの方は、もう中毒ですから﹂
﹁ははは、言い得て妙ですね⋮⋮と、そろそろ行かないと﹂
﹁今、お嬢様はお母様とお話をしていらっしゃいます。恐らく、
まだ手元を片付けることができていないかと⋮﹂
﹁そうですか。じゃあ、もう少し時間を置いた方が良いかな。⋮⋮
それにしても奥様が今回いらっしゃったのは、もしかしてお嬢様を
心配されて⋮﹂
﹁恐らくそうでしょう。館の様子は、時折ヤイルから報告が行って
るでしょうから﹂
ヤイルさんは、この公爵家の第二執事。今は、セバスさんがほぼ領
政に掛かり切りだから、実質第一執事の仕事もしている。
﹁お嬢様の為されていることはとても大切な事だというのは理解
しております。けれども私にとっては、領のことよりもお嬢様のこ
との方が大切なのです。お嬢様もこれを機会に、適度にお休みをし
て下さると良いのですけれども⋮⋮﹂
ターニャにとって、お嬢様は命の恩人。ターニャは僕たちの中で
102
も人一倍その想いが強く、もしもお嬢様に命を差し出せと言われれ
ば、喜んでそうしそうなほどだ。
﹁そうですね。⋮⋮あ、ターニャさん。もう一杯、このお茶を下さ
いませんか?﹂
﹁喜んで﹂
もう少し、ゆっくりしてから行こう。お嬢様の珍しい休憩を邪魔
しないように。
﹁⋮⋮お、久しぶりじゃん。こんなところに2人揃ってるなんて﹂
﹁ディダさん。久しぶりですね﹂
ひょっこりと顔を出したのは、ディダさん。お嬢様の護衛を務めて
いるこの方は、けれども最近はお嬢様の指示で領内を転々としてい
る為、会うのも久しぶりだ。
﹁ディダさんも、お飲みになられます?﹂
﹁それ、最近話題の茶だろ?飲む飲む﹂
ターニャはすかさず、ディダさんにもお茶を淹れる。ディダは最初
物珍しそうにそれを見るが、一口飲むと嬉しそうに笑っていた。
﹁あー美味いな、コレ。俺は普通の紅茶なんかよりも好きだ。お
嬢様もこんなの次々と開発しちまうんだから、スゲーよな﹂
103
﹁ははは、確かに。ところで、ディダさんは最近何をなさってた
んですか?﹂
﹁ん?ライルが訓練した新人達を引き連れて、彼方此方の街道の警
邏﹂
お嬢様は治安警備隊の強化と増員をさせて、その強化の訓練はラ
イルさんとディダさんが担当している。公爵家の護衛官って本当に
質が高いことで有名だから、これ以上の適任者はいないだろう。
特に、ライルさんとディダさんは王室近衛兵という騎士団の中で
も憧れの職務への勧誘を蹴ってここに居座っているということで、
有名な人たちだ。
﹁どうですか?治安の方は﹂
﹁至って良好だよ。景気も良いしな。アイツの訓練の方がキツ
イって新人達も漏らしてたよ﹂
﹁ははは、良いことではないですか。それで、今日はどうして此
方に?﹂
﹁アイツからの呼び出しだよ。何の為かはさっぱり知らねえが。
⋮ま、久しぶりにこっちに帰って来たんだ。少し暴れても良いかも
な。あ、ターニャ。お前俺の訓練に付き合えよ﹂
﹁ご遠慮させてもらいます﹂
ターニャさん、実は武術にも明るい。奥様のご実家の方に、幼少期
104
からみっちり扱いて貰ったそうだ。それも、お嬢様をお守りすると
いう一心で。
﹁私の収めた武は、一撃必殺。相手を殺すために磨いた技術です。
貴方とは根本的に違うので、お相手にならないかと﹂
﹁ははは、コエー侍女だな。だが、俺が負けると?﹂
﹁いえ、そうは言ってません。ただ、性質があまりにも違い過ぎる
と言いたいんです﹂
﹁ま、そうさな。しゃーね。また、アイツと訓練するしかないか﹂
ディダさんは、最後の一口を飲むと立ち上がった。
﹁これ、ごっそさん。またな﹂
﹁お疲れ様です﹂
﹁お疲れ様です⋮⋮さて、僕もお嬢様のところに行くのはもう少し
後にしても、少し仕事をしてようかと思いますので失礼します﹂
⋮⋮僕も、頑張ろう。お嬢様も、皆も自分のできるところで頑張っ
てるんだ。
仕事のことで頭の中がゴチャゴチャしていたけれども、スッ
キリとした気持ちで持ち場に戻れる。やっぱり、休憩って大事だな。
お嬢様にも、今は確り休憩を取っていただこう。そう、思った。
105
106
お祖父様の登場
﹁⋮⋮⋮王都の様子は変わらないわねー。けど、城内はちょっと微
妙ね﹂
﹁⋮⋮微妙、とは?﹂
﹁あの女が最近妙に調子に乗って色々やってるみたいなのよー⋮。
大方、あの男爵令嬢にのせられちゃっているのだろうけれども。王
もシャリアがいなくなってから、腑抜けになってしまったのも悪い
わね。⋮⋮だからあの時、私とアイーリャ様はあの女との結婚を反
対したのに﹂
あの女、とは王の側室であるエルリア様。お母様は昔っからエル
リア様のことが気に入らないみたい。逆に、正室であったシャリア
様とは仲良くしていたみたいだけれども。
それと、アイーリャ様とは現王のご生母⋮⋮つまり、王太后様。
この世界の女性の中でも最も地位の高い方だ。現在は隠居されて、
離宮の方にいらっしゃる。けれども、その影響力は勿論今も絶大。
因みにお母様は、そのアイーリャ様に、それはとてもとても昔
から可愛がられている。アイーリャ様が実の娘のように思っている、
と言って憚られないほど。アイーリャ様が隠居された今も、偶にお
母様は離宮に遊びに行っているらしい。
﹁⋮⋮男爵令嬢にのせられて、と仰いましたが⋮⋮私、てっきりエ
ルリア様はユーリ様とエド様の婚約を反対しているかと思っていま
したが⋮⋮﹂
今後のことを考えたら、ねえ⋮⋮男爵令嬢なんかよりも、エルリ
107
ア様としても、もっと他の家とエド様を縁続きにさせたいと思って
いたのだけれども。
﹁あの男爵令嬢⋮名前、何て言ったかしら?﹂
﹁ユーリ・ノイヤー様ですわ﹂
﹁ああ、そうそう。ユーリ様はねえ⋮とても、お上手なのよ。相手
の自尊心を擽るのがね。だから、あの虚栄心の塊であるエルリア様
が落ちるのも頷けるわ﹂
﹁⋮⋮お母様、ユーリ様にお会いしたことがあるんですか?﹂
﹁ええ。今、彼方此方に顔を出しているみたいで偶然会っちゃった
のよー。アイリスちゃんがいなくなった途端、第二王子が連れ回し
ていてね﹂
﹁そう、ですか⋮⋮お会いになられて、どうでしたか?﹂
﹁どうもこうも、私はアイリスちゃんの味方だからねー⋮⋮けれど
も、そうでなくてもあまりお近づきになりたくないかも。苦手なの
よね、あの現実を見ないところが﹂
﹁夢見がち、ということですか?﹂
﹁ううーん⋮上手く説明できないわー。けれども、アイリスちゃん
は近づく必要ないから良いのよ﹂
お母様はこれ以上話してくれなさそうだけど⋮⋮気になるわね。実
はあんまり接点なかったから、彼女自身のことってよく分からない
108
のよ。エド様を通してはそりゃあもうよく知っているけれども。
﹁じゃ、じゃあ⋮お母様。第一王子はどんな方なんですか?﹂
﹁あら、アイリスちゃんは会ったことなかったかしら?﹂
﹁ええ⋮﹂
全く記憶にない。もし会ってたなら、王族だもの⋮ちゃんと記憶し
ているのだと思うけど。
﹁そういえば、アルフレッド様は随分早くから表舞台から引っ込ん
じゃったからねえ⋮その後すぐに留学してたし﹂
﹁何故、そんな早くから?﹂
てっきり留学が先だと思ってたのに、まさかのその前に表舞台から
消えてたなんて。
﹁シャリアが亡くなって、その後色々あってね⋮別に彼本人が悪か
った訳じゃないのよ?なんて言ったって、彼は旦那様に似たとって
も素敵な方だもの﹂
﹁お父様に、ですか?﹂
﹁ええ。あ、顔は似てないわよ。でも、雰囲気がとっても似てるの。
この国にいるから、いつか貴方も会えるかもしれないわね﹂
﹁そうですか、この国に⋮って、えぇ?﹂
109
留学してるんじゃないの?!というか、お母様何故それを知ってい
るの?
﹁あら、知らなかった⋮⋮?じゃあ、これは内緒ね﹂
いやいやいや⋮とてもそんな軽く内緒ね、で済む問題じゃないです
よ、お母様。
﹁一体、何故彼は出てこないのです⋮⋮﹂
﹁久しぶりだなー!!メリー、アイリス!!﹂
私の言葉の途中で、豪快に扉が開いたかと思えばお祖父様が登場し
た。⋮って、え?
﹁お祖父様!何故、ここに⋮⋮﹂
﹁メリーが帰ると聞いてな。儂も丁度良いと思って来たのよ﹂
ガゼル・ダズ・アンダーソン。お母様のお父様であり、この国の
将軍職を務めている私のお祖父様だ。
アンダーソン家は、侯爵家なのにお祖父様は貴族の世界は固っ苦
しいとか言って軍部に入隊。素質があったのかメキメキと頭角を現
し、30年前のトワイル戦役と呼ばれている隣国トワイル国との戦
争で、部隊を引き連れ大勝利を収めたことで将軍職に任命された。
今でも騎士団や軍籍にいる者の中では憧れの存在とされている。
ここで騎士団と軍の違いを説明しておくと、騎士団は要するに王
族と城の護衛が主な任務。所属する者は、末端ながら貴族かもしく
は貴族の推薦を受けた者。
110
そしてその中でも更に王家の者を護衛する為の部隊を、近衛兵と
呼ぶ。近衛兵は、万が一何かが起こった時に王の盾となり鉾となる
ことが任務だから、騎士団の中でもより強い者が任命される。ライ
ルとディダは一度この近衛にならないか、という打診が来ていたが
⋮それは、お祖父様に鍛えられた2人の強さを見込んでのこと。推
薦なんて、後からお父様からでも、お祖父様からでも貰えただろう
しね。⋮⋮結局2人は蹴っちゃったけど。
軍は、主に戦争が起きた時に戦地に直接赴く組織。所属する者は、
入隊すればどの地位であろうが問われない。平時では、警備隊がな
い代わりに王都や王国全体の治安維持部隊として仕事をしている。
ここまで説明して分かって貰えただろうが、本来侯爵家の一人息子
であったお祖父様が士官するのならば、騎士団の方。なのにお祖父
様は、まさかの軍に志願したのだ。
⋮まあ、確かにこうして見ると、グレーの髪はぼうぼう伸ばし放
題ついでに髭も伸ばし放題、ガッシリした身体つきも相成って、侯
爵家当主というよりも本当に武人にしか見えない。
因みに、メリーとは私の母親の愛称。本名はメルリス・レゼ・ア
ルメニアだ。
﹁アイリス、大変だったのう⋮顔を見せるのが遅くなって悪かった﹂
﹁いえ!お祖父様も色々とお忙しいでしょうし。私は気にしてませ
んわ﹂
﹁ははは、儂ももう当主は息子に引き継がせたし、国もまあ戦争が
起こるほどの危機は陥っておらぬからの。暇なもんよ﹂
111
⋮⋮でも確か、お祖父様。お祖父様の訓練を求めて、日々人が集ま
ってるって聞いてたけれども⋮⋮。
﹁それにしても、アイリスはメリーに似てきたのう⋮﹂
そんなことを言いながら、目を細めて私をお祖父様は見つめる。
﹁そ、そうでしょうか⋮⋮﹂
お母様に似ているなんて、とんでもない。⋮きっと孫可愛さに言っ
てくれたのね。
私とお母様が似ているのは、プラチナの髪だけ。瞳は私が濃い青
で少しキツめなのに対し、お母様のそれは春の青空を思い出させる
ようなアクアマリンの色で本当に柔らかな雰囲気がよく現されてい
る。
﹁無理に嫁に行く必要なんて、ない。お前はお前の好きなことを
して、ずっと居てくれれば良い。行くところがなくなったら、儂の
ところに来れば良いしな﹂
⋮⋮そうね。それも、良いかも。弟が帰って来て公爵家継いだら、
私行くところなくなっちゃうし。そしたら、お祖父様のところに行
くっていうのもありだな⋮⋮。アズータ商会の指示は、どこからだ
ってできるしね。
﹁まあ、お父様。聞き捨てなりませんよ。アイリスちゃんに行くと
ころがなくなる、なんてこと起こる訳ないじゃないですか。むしろ
ならば、あの馬鹿息子を引き取ってください﹂
112
113
お祖父様の登場︵後書き︶
誤字脱字や改行について、これから少しずつ直していきます。
ご指摘ありがとうございます。
114
お祖父様とのお約束
﹁これこれ、ベルンを連れて行くわけにはいかぬだろうて。ルイ殿
が困ってしまうわ﹂
﹁さあ⋮⋮旦那様も別に良いと仰られると思いますよ?﹂
﹁むむ⋮⋮まあ、そうさなあ⋮⋮﹂
2人の会話に、頭が痛くなるような気がした。あの子、相変わらず
盲目なのね。
﹁あの子、あっちでそんなに色々やらかしちゃってるんですか?﹂
﹁見事に動いておるよ。エドワード様にとっては、だがな。いや⋮
あの男爵令嬢にとっては、か⋮﹂
⋮⋮ああ、何を仕出かしているのか怖くて、これ以上聞けない。と
いうか、公爵家に戻って来て欲しくないわ。
﹁そんなことより、アイリス。儂も暫く此方に滞在して良いか?﹂
﹁勿論ですわ、お祖父様。あ、でしたら⋮お願いがあるのですけれ
ども⋮﹂
﹁何だ?﹂
﹁2つありまして⋮1つは、現在我が領に新しく警備隊を設立させ
ましたの。そちらの新兵達に訓練をしてあげて欲しいんです。勿論、
115
お祖父様の滞在中だけで良いので﹂
﹁勿論、良いぞ。丁度ライルとディダと遊ぼうかと思ってたところ
だしな﹂
﹁え?じゃあ、あの2人はお祖父様が来ることを知っているのです
か?﹂
﹁近々、とは伝えておったがな⋮まあ、彼奴らも慣れているから予
想ぐらいはしておるだろうて﹂
⋮⋮お祖父様、アバウト過ぎです。それじゃ、2人も私に伝えよう
がないわよね。いつか確定してないんだから。
﹁それで、もう1つは?﹂
﹁あの⋮⋮⋮その、ですね⋮⋮﹂
﹁ほれ、言うてみ﹂
﹁⋮⋮私を、市井に連れて行って貰えませんか?﹂
私の願いが予想外過ぎたのか、お祖父様は目を丸くしていた。
﹁それはまた構わないが⋮何でまた?﹂
﹁あの⋮街の中を歩きたいんです。視察、という訳ではないのです
けれども⋮⋮今、街がどんな様子なのか、民がどんな風に思ってど
う暮らしているのか、街の人たちに紛れて自分の目で見て感じたい
んです。だから、あんまり人を多く連れ歩きたくなくて⋮お祖父様
116
なら、誰1人文句は言わないでしょう?﹂
この前の視察だって、領の一部とはいえ沢山見たわよ。でも視察っ
て形ではなくて、街の人として歩いてみたいの。馬車を使わずに、
護衛に囲まれずに、もっと直接的に。それこそ、昔みたいにね。そ
う考えたら、お祖父様って物凄く都合が良いのよ。
第一に、お祖父様ほど強い方が一緒に行ってくださるのであれば、
安心安全だし、ライルやディダからも反対されないでしょう。
第二に、お祖父様と歩いていればカモフラージュになる。言い方は
悪いが、お祖父様の見た目って本当貴族に見えないから。
第三に、今あんまり私の我儘で家の人を動かしたくないのよ。ライ
ルとディダにはそれぞれ仕事を割り振っていて、そちらを優先させ
て欲しいし⋮他の護衛だとぞろぞろ連れてかなきゃ、まだ実力的に
不安だし。これらを考えると、お祖父様って本当に適任なの。
﹁別に良いぞ?じゃ、明日早速行くか?﹂
﹁本当ですか!?宜しくお願い致します﹂
わーい。何しよっかなー⋮買い食いしたり、ウィンドウショッピン
グしたり楽しもうっと。
丁度その時、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。
﹁⋮⋮失礼致します。アイリス様、午後の打ち合わせの時間ですが
⋮⋮﹂
そう言って遠慮がちに入って来たのは、セイだった。
﹁まあ、もうこんな時間⋮⋮?﹂
117
﹁アイリスちゃん、私たちのことは気にしないで。勝手知ったる家
ですもの﹂
﹁そうさな。儂もそろそろライルとディダと遊んで来ようか﹂
﹁でしたら2人とも、私は此方で失礼しますわ。何かございました
ら、お呼びください﹂
書斎を後にすると、道すがらセイから午前中に指示したことの進捗
を聞く。⋮あ、そういえばハーブティーの茶葉販売について計画立
てなきゃ。
﹁そういえば、セイ。報告書にユーリ男爵令嬢のことが書かれてた
んだけど⋮⋮﹂
﹁ああ、彼女のことですか。会員になりたいと申請してきたので、
却下しました﹂
﹁あら、エド様は文句を言って来なかった?﹂
﹁“正式に婚姻を交わし王族となったのなら兎も角、現段階では会
員になれない”と伝えました。“現在我が商会では多くの貴族が会
員になれるのを待っている状態であり、貴方様よりも身分の高い方
でも順番を待っている状態だ”と案内したら、彼女も納得されまし
たよ。第二王子は色々言ってましたが、彼女が最後は第二王子を説
得していました﹂
﹁そう⋮大事ないなら良かった﹂
118
﹁⋮というか、あの人たち何なんですか?アズータ商会がお嬢様の
持ち物だと知っていてあんなにデカい顔をしていたのなら、神経疑
いますよ﹂
﹁⋮⋮知らなかった、というより最初から私になんて興味がなかっ
た⋮というのが正解でしょうね﹂
うん、そんな気がする。私は過去の人⋮⋮もう記憶の片隅にあるか
どうかぐらいのレベルなのだろう。彼らにとって、互いが一番大切
でそれ以外周りは目に入らないモノ⋮あら、こう言ってみると、彼
らって台風の目という表現がピッタリね。
﹁もしあの人たちが何の関係もない方だったとしても、質が悪いで
すよ。第二王子は権力を振りかざして喚き散らしましたし、彼女は
彼女で特別待遇なんて良くないわなんて⋮それに申請している貴方
は何なんですかって感じですよ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
思わず、重い溜息を吐いてしまった。
﹁セイ。もし、私のことを気にしているのであれば、普通に申請を
通してくれて構わないわ。それより、エド様がああだこうだ言って
介入して来る方が面倒だもの﹂
﹁今のところ、本当に順番待ちが発生しておりますので。彼女の番
になったら、よくよく検討しますよ﹂
﹁それなら良いわ﹂
119
それからセイと各所を周って打ち合わせをしていたら、すっかり夕
暮れ時になってしまっていた。
⋮⋮この後は、セバスと打ち合わせだ。
そんな事を考えながら、1人のんびりと散歩がてら歩いた。広大な
敷地を有する公爵家では、現在主屋とは別に幾つか庭園と別宅があ
る。因みにアズータ商会本部は、その別宅の中の1つを借り上げて
拠点としていた。
試作品はその建物から出してはならないと取り決めされている為、
私も試作品とかを見に行く時はそっちに行ってる。良い運動になる
し、家の敷地内だしね。
書斎に入ると、すぐにターニャがお茶を淹れてくれた。
﹁そういえば、ターニャ。明日昼時の予定って調整できる?﹂
﹁何かご予定でも?﹂
﹁ええ。お祖父様が街に遊びに連れて行ってくれるの﹂
﹁ガゼル様がですか?それは良うございましたね。早速空けさせて
いただきます﹂
﹁宜しくね﹂
これで、良し。明日が楽しみだなあー。
120
お嬢様、街に行く
さあやって来ました、お祖父様との約束の日です。
この日は打ち合わせをして、朝ごはんをさっさと食べると支度を開
始。今日は街中歩くから、やっぱりそれらしい格好にしなきゃねっ
てことで、いつもよりも少し質素な格好。⋮とはいえ、最近機能性
を重視していたから、そんなに変わらない気もする。
玄関でお祖父様を待とうと向かったら、何故か同じく変装をしたタ
ーニャが待っていた。
﹁ターニャ⋮あえて聞くけれども、その格好はどうしたの?﹂
﹁私もご一緒させていただきます﹂
﹁でも、ターニャ。私は今日、あんまり人を連れて歩きたくないの
だけれども﹂
﹁2人も3人も変わらないでしょう﹂
いや、そうかもしれないけれどさ⋮。
﹁お嬢様。もっと御身を大切になさってください。ガゼル様のお力
は確かなものです。ですが、万が一の時⋮お嬢様をお守りしながら
では戦い辛いでしょう。ですから、せめて私1人でもお連れくださ
い﹂
﹁けど⋮﹂
121
﹁良いではないか、アイリス﹂
﹁お祖父様⋮⋮﹂
﹁ターニャも心配しているんだ。その気持ちを汲み取るのも、主の
役目というものよ﹂
⋮⋮確かに、私に万が一のことがあったとしたら色々大変よね。折
角少しずつ商会も領政も体制が整い始めているんだもの。あんまり
我が儘は言えないわ。
﹁分かりました。じゃあ、お祖父様。ターニャ。行きましょう。そ
れとお2人とも、街中では私のことをアリスと呼んでくださいね﹂
念押しをしてから裏門の方から出て、ゆっくりと街道を歩く。うー
ん、天気が良くて気持ち良い。常春の我が領は、歩いていて寒すぎ
ず暑すぎず丁度良い。
街の中心に行けば行くほど、往来の人の姿が増えていく。茶色い煉
瓦造りの建物が並び、日本とはまた違った趣があった。活気付くメ
インストリートを歩きながら、お店をチラホラ眺める。そういえば、
ウィンドウショッピングって何時ぶりだっけ⋮⋮。
﹁わあ、可愛い。おばさーん。この花は何の花ですか?﹂
店先に並んだ苗鉢が気になって、足を止める。紫の花弁が可愛らし
い花だった。
﹁アジュガの花だよ。この時期に咲く花なんだ。割と育てるのは簡
122
単な方な花だね﹂
﹁へー⋮⋮これ、いくらですか?﹂
﹁咲いているのは1000ベルだよ。種からなら1袋500ベルだ﹂
﹁じゃあ、種の方を下さい﹂
﹁あいよ。ありがとうね﹂
お金を払って、袋を受け取る。やっぱり自分で買い物って楽しいわ
ね。
﹁そちら、どうされるんですか?﹂
﹁書斎の窓際で育てようかなって。何だか重苦しい感じがするでし
ょう?あの部屋﹂
﹁はっはっは⋮やっぱり女の子は細かいところで気配りができて良
いのう﹂
暫く歩いたところでお腹が減った気がして、私たちは少し道を外し
たところにある食堂に入った。勘で入ったお店は中々の人気店だっ
たらしく、もう少しで満席というところだった。
﹁いらっしゃいませ。どうぞ、空いてる席にお座り下さい﹂
木でできた椅子に腰掛け、壁に掛けられたメニューを眺める。色々
品揃えは豊富のようだ。
123
﹁じゃ、儂は肉焼き定食で﹂
﹁えーっと、私はシチューとパンのセットで﹂
﹁私も同じものでお願いします﹂
店員さんが私たちのところから離れて行くと、また店の中を見渡す。
人の出入りが激しく、雑多な雰囲気が賑やかで楽しい。
﹁はい、お待ちどー。先にシチューの方から。お嬢ちゃん達、見
ない顔だな﹂
さっきの店員さんとはまた別の人が届けてくれた。
﹁王都から来たの。引っ越してから少し経つんだけど、バタバタし
ちゃってずっと街に顔を出せなかったからね﹂
﹁そうかー。王都の方からかい﹂
﹁この街の様子はどうですか?﹂
﹁ん?そうさな、王都に負けず劣らずの良い領だぜー。特に最近、
俺らが暮らし易いようにと少しずつ色々変わってきてな﹂
﹁それは良かった﹂
おじさんの感想に、私は嬉しくなった。私のしていることが、無駄
じゃないんだって思って。時々、怖くなるのだもの。⋮私のしてい
ることは、正しいのかなって。勿論、正解も不正解もないんだけど
124
さ⋮⋮いや、ないからこそ欲しくなる。明確な“正しさ”というの
が。
それはさて置き、食べた料理はとても美味しかった。やっぱり、こ
ういうのも良いわよねー⋮普段固っ苦しいし。お祖父様の気持ち、
分からなくもないわ。
美味しく食事をいただいて、店を出て再び歩く。そろそろ、帰ろう
かしら?そんな風に思っていたら、小さな子供が1人座り込み、1
人がキョロキョロとしていた。
﹁どうしたの?具合、悪いの?﹂
服は清潔さを保っているものの、着古している感がある。そして、
その身は全体的に痩せていた。
﹁⋮⋮迷子になっちゃったの﹂
キョロキョロと辺りを見回していた女の子が、涙目になってそう言
った。
﹁まあ、それは大変ね。お父さんとお母さんとはぐれちゃったのか
しら?﹂
﹁ううん。先生達と住んでるの﹂
何処から来てたか分かってたのなら、迷子になんてならないし⋮さ
て、困ったな。
125
﹁おじょう⋮⋮アリス様。この子達は、もしかして院に住んでいる
のでは?﹂
今⋮ターニャ、お嬢様と呼びそうになってたでしょ。⋮と、そんな
ことよりこの子たちのことね。
﹁院、とは?﹂
﹁親を失った子供達を引き取って育てる下町の施設です﹂
﹁まあ、なんて素敵な活動なのかしら。とりあえず、この子たちを
そこに連れて行ってみましょう﹂
座り込んでいた女の子はお祖父様が抱き上げ、もう1人の子と私は
手を繋ぎながらターニャに連れて行って貰う。
徐々に整然とした街並みは、ゴミゴミしていて薄汚れた印象を感じ
さるものに変わってきた。正解だったのか、子供達の目が輝いてい
く。教会らしき建物が見えてきたところで、子供達は其方に駆け出
して行った。その建物の前には、子供達を探していたのか女の人が
キョロキョロと顔を曇らせて辺りを見ていた。そして、子供達を見
つけると一瞬驚いたように目を丸め⋮やがて今にも泣き出しそうに
顔を歪める。
﹁全く⋮⋮!心配したでしょう⋮⋮一体何処に行ってたの⋮⋮!﹂
﹁ごめんなさい、ミナ先生。探検してたら、迷子になっちゃったの﹂
﹁まあ⋮⋮兎に角無事で良かった⋮⋮﹂
126
子供達をミナ先生と呼ばれた女のひとはギュッと抱き締めた。⋮⋮
あの時声を掛けて良かったわ。
﹁⋮⋮あら、この方々は⋮⋮?﹂
私たちに気がついた女の人が、不思議そうに私たちを見ている。何
て答えようかな⋮と思っていたら、子供達が口を開いてくれた。
﹁ここまで私たちを連れてきてくれたのー﹂
﹁まあ⋮⋮!ご迷惑をお掛けしまして、申し訳ございません﹂
﹁いえ、良いのですよ﹂
﹁さしたるお礼もできませんが、どうかお茶でも⋮⋮﹂
私はそれを固辞したが、結局子供達が一緒に遊ぼうよと誘ってきた
のにのってお邪魔させて貰うことになった。
中は見た目と同じく少し古めかしくて、あちこち修繕が必要そう
だったものの、隅々まで清掃が行き届いてキレイだった。
﹁本当に、今日はありがとうございました﹂
﹁いえ⋮何だか寧ろすいません。あ、申し遅れましたが、私の名前
はアリスと申します﹂
﹁私の名前は、ミナと申します。⋮アリスさん、あの子達は何処に
いたんですか?﹂
127
﹁メインストリート脇ですね。場所で言うと、アズータ商会の近く
ですか﹂
﹁ああ、やっぱり⋮﹂
﹁やっぱりとは⋮?﹂
﹁いえ、こんなことを言ってしまうとお恥ずかしいのですが、アズ
ータ商会のチョコレートというものの話を子供達が何処から聞いた
みたいで。1度食べてみたいと言って聞かなかったものですから﹂
﹁まあ⋮それであんな遠くまで⋮﹂
﹁元気が有り余ってますからね。目を離すとすぐ何処かに行ってし
まいますから﹂
﹁ところで、ミナさんは何故ここで子供達の面倒を?﹂
﹁⋮⋮実は、私もここで育てられた1人なんです。私の育ての親は
ダリヤ教のシスターでして、ここの教会の管理を行っていました。
そして、私と同様孤児を拾っては育てていたんです。シスターが亡
くなった後は、私がここを引き継いでいるんです﹂
﹁⋮⋮なるほど。失礼ですが、お金とかはどうされているんですか
?あの⋮それだけの人数を養うとなると⋮⋮﹂
﹁前は教会への寄付を使っていました。ですが、シスターがいなく
なってからは寄付も減りましたし⋮⋮﹂
128
うーん⋮ま、今の状況ってダリヤ教と直接関係のある人っていない
ものね。今現在も寄付している方々って教会への寄付というよりも、
皆孤児達への寄付のつもりで寄付をしているんだろうな。かと言っ
て、ミナさんが働きに出ることもできなさそうだしなあ⋮。
というか、この問題って私の取り組むべき問題よね。家に帰った
らすぐにセバスと話を詰めましょう。
﹁⋮⋮まあ⋮⋮⋮﹂
﹁暗い話をしてしまってすいません。どうか、ごゆっくりとなさっ
て下さい。私は、夕ご飯の支度をして来ますから﹂
いやいやいや!これ以上お世話になることはできないって!そう断
ろうと思ったのに、ミナさんはさっさとこの場を離れてしまった。
⋮というか、今会ったばかりの私を子供達と一緒にいさせるって無
用心でしょう。
そんなことを考えつつ周りを見てみれば、お祖父様は子供好きなた
め、庭で子供達の相手をしている。⋮お祖父様、訓練を施そうとし
てませんか?
それからターニャは女の子に髪の結い方を教えてあげている。うー
ん、ターニャ意外と子供の扱いが上手いのね。
⋮さて、困ったことに私の周りにも子供達がワラワラ集まってきて
いた。女の子も男の子もいるが⋮何をしようか。子供って可愛くて
好きだけど、あんまり相手をしたことがないからどうすれば良いか
分からないのよ。
129
というわけで、私は子供達に童話を話して聞かせた。日本では誰も
が知るような童話を。子供達が段々目を輝かして聞くものだから、
調子にのって幾つも幾つも話した上、演劇したことがないのに無理
に演じて話してみた。
⋮⋮おや?いつの間にか子供達が更に集まってるけど。始め3人ぐ
らいだったのが、今は8人に増えていた。他2人ずつお祖父様とタ
ーニャのもとにいる。というかお祖父様、その木刀はどこから出し
たの⋮⋮?
とりあえずその疑問を頭から振り払って、引き続き子供達に話聞か
せてた。⋮⋮何だかんだ木刀持たされている子供達も、楽しそうだ
し。将来役立つかもしれないからって頭の中で誰に対するでもない
言い訳をして、見なかったことにしたというのが本音。
そういえば、この世界って絵本ないのかしら?ないのであれば、ア
ズータ商会で早速手掛けましょう。子供の教育にも良いし、収益を
寄付するようにするのも良いわね。
そんなことを考えていたら、いきなり怒鳴り声が外から聞こえてき
た。
﹁いるのは分かってんだ!さっさと出て来い!!﹂
⋮⋮な、何?
野太い男の声で、何度も何度も出て来いとの言葉が発せられる。子
供達は当然のことながら怖がって、縮こまっていた。ついに、ガシ
ャンという音と共に、石が投げ込まれた。
130
﹁⋮⋮皆!大丈夫?﹂
音を聞きつけたミナさんが、慌てて部屋に駆けつけた。
﹁これは一体どういうことですか?﹂
ターニャが、問いかける。いつもながら無表情だが、少し怒ってい
るなと私は感じ取った。
﹁⋮⋮実は、お恥ずかしながら立ち退きを求められていて⋮⋮﹂
﹁何故ですか?﹂
﹁シスターがいなくなり、後継者が来ないここからダリヤ教が手を
引きました。そこで、彼の方達の主人がこの土地を買ったらしいの
です。ですが、私たちには立ち退いた後の行く場所なんてありませ
んし⋮⋮﹂
それで揉めている内に、こうなったと。うーん⋮⋮向こうの手段は
褒められたものじゃないけれども、正当性はあるような気もするし。
ここって下町ながら一応メインストリートには近いから立地条件は
まあまあ良いし⋮。
とりあえず、怒鳴り声が大きくなったので私は外に出た。
途中、ターニャから﹁お止め下さい﹂という声を背中越しに聞いた
が、そうも言ってられないでしょう。ターニャだと問答無用で叩き
のめしそうだし、お祖父様は出て行っただけで威圧しているように
取られてしまう。
131
﹁あ?なんだお前⋮⋮﹂
厳つい男の人2人が、私の登場に訝しんでいた。
﹁私はここに礼拝をしに来た者です。⋮⋮どうやら、久しくミサを
やっていないようでしたが。ですが、曲がりなりにも此方はダリヤ
教の教会です。石を投げるなんて、感心しませんね﹂
﹁あ?ここは俺らの雇い主が買い取ったんだよ﹂
﹁まあ、ではもうダリヤ教のものではないのですか﹂
﹁そうだ。なのに、ここに住み着いたガキたちがいるもんで、俺ら
が追い出してるところなんだよ﹂
﹁そうですか。⋮ですが、やはり教会に石を投げるなんて野蛮な行
為は信者として認められませんわ。ご自分の者だと正当性を示すの
であれば、役所に行って権利書を提示なさい。然るべき措置を取る
でしょう。力なき者たちに暴力で従わせるなど、言語道断ですわ﹂
﹁うるせえな!﹂
﹁これ以上騒ぐのであれば、警備隊を呼びます﹂
﹁⋮⋮そもそも、子供達が出て行かないのが悪いと思うがね﹂
2人の後ろから、何処に居たのかもう1人男が現れた。男たちが従
っている様子を見せるので、恐らく最後に現れたその男が雇い主な
のだろう。ここ辺りでは少し上品そうな服を着ているが⋮雇ってい
132
るのがこういう男たちなのだから程度が知れている。
﹁そこは認めますわ。ですが、だからと言って暴力行為に及ぶのは
良くないと思いますの。権利を主張するのであれば、役所にお伝え
なさい﹂
﹁ふん。此方は買ってから奴らに不法占拠されている間の滞在料を
水に流すと言っているんだ。その上出て行って貰うのに、そんな面
倒なことしていられるか﹂
言ってることはまあ確かに頷ける。うーん⋮⋮とはいえ、いきなり
出て行けなんて言われてもどうしようもないしねえ。オマケに、滞
在料って何よ。
﹁⋮⋮それとも、お前が滞在料の代わりなのか?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
いやいや、何言ってんの?“私が滞在料を支払うのか”ではなくて、
“私が滞在料の代わり”?つまり、私を売れと?
﹁お断りしますわ。⋮というか、何ですか。その交渉は﹂
﹁お前なら、良い値段が付くだろう。いや、すぐに売るのも勿体無
いか⋮⋮﹂
﹁だから断ると言っていますでしょう﹂
﹁はっ。ガキどもを庇いたいんだろう?良いことずくめじゃないか。
ガキどもは滞在料をチャラにできる、お前は綺麗な服を着て美味し
133
いものを食べれる。俺は稼ぎが入る。よし、お前ら。こいつを連れ
て行くぞ﹂
134
街での収穫
男の1人が手を伸ばした瞬間、私を庇うようにターニャが間に入っ
た。その様子が、私の目にはまるでスローモーションのように映る。
﹁⋮⋮それ以上、近づくな﹂
いつの間に出したのか、ターニャの手には小型のナイフがあった。
そのナイフは男の首元に添えられている。薄皮一枚のところで止ま
っているらしく、男の首元からはツウと紅い血が垂れていた。
﹁な、何だよお前は⋮⋮﹂
突然の事態に、男たちは若干驚いたようだった。けれどもやがて立
ち直ったのか、雇い主は鼻で笑う。
﹁おや、暴力は良くないと言いながら、貴方達は暴力で訴えるので
すか﹂
﹁貴方達が強硬な態度だからですわ。暴力には暴力で応える。それ
だけのことです﹂
いや、本当はそんなこと全く思ってなかった⋮ようは、咄嗟の言い
訳だ。ターニャ、我慢できなかったのね。けれども助かったのだか
ら、感謝。
さて、どうしたものか。ここで身分を明かして、始末させるのは簡
単。でも欲を言うのなら警備隊に捕まえて欲しいのだけれども。治
安維持の為に働いている、機能しているという良いアピールになる。
135
今後同じような輩が出ないよう、彼らという存在ができれば抑止力
になって欲しいもの。あくまで、ウチの護衛ではなくて市民を守る
為の警備隊がその抑止力になることに、意味があるし。
﹁大丈夫かー?﹂
絶妙なタイミングで、お祖父様登場。新手に⋮しかもお祖父様とい
う腕っ節の強そうな男の登場に、男たちのムードが段々諦めムード
になってきた。
﹁⋮⋮っ。行くぞ﹂
ついに雇い主は決意すると、2人の男を引き連れて去って行った。
﹁⋮⋮お嬢様!!何故、あんな危ない真似をなさったのですか!﹂
﹁あらあら、ターニャ。お嬢様って呼ばないでって﹂
﹁そんなこと言ってる場合ではないでしょう!私、肝が冷えました
よ。ガゼル様がお止めにならなければ、すぐにでも出て行きました
ものを⋮﹂
﹁だって貴方、私がここに出る前から怒ってたでしょう?﹂
﹁お嬢様を危険な目に合わせたのです。当たり前でしょう﹂
﹁そんな怒って⋮冷静に話し合いなんてできなかったでしょうが。
お祖父様は出ただけで威圧感ありますから、余計に話が抉れそうだ
136
ったし⋮そうしたら、あの場で出て行くのは私が1番適任だったか
なって﹂
﹁⋮⋮ですが⋮⋮っ﹂
﹁私の掲げた目標は、初めに会議で話した通りよ。ここの子供達も、
私の守るべき民達。ならば、私は動くことを厭わない﹂
強くそう言ったら、納得はしていない様子だったけれども、ターニ
ャはようやく黙った。
﹁ここのことは、帰ってから議題に挙げるわ。個人的ではなく、領
として行っていくべきことだもの。⋮⋮さ、そろそろ帰りましょう﹂
それから、大変恐縮していたミナと元気を取り戻した子供達に別れ
を告げて再び歩き始めた。
﹁⋮⋮アリス﹂
メインストリートまで、もう少しといったところでお祖父様が突然
名前を呼んだ。
﹁どうしましたか?お祖父様﹂
﹁走れ。⋮ターニャ、分かっているな﹂
﹁勿論です﹂
するとターニャは委細承知と言わんばかりに、私の手を握り動き出
137
した。
﹁ちょ、ターニャ!!﹂
﹁アリス様、黙って走ってください﹂
ターニャに連れられてメインストリートに出ると、そのまま街の警
備隊の詰所に行った。
﹁助けてください!﹂
事態がよく分からない私は、頭の上にハテナマークを飛ばしながら
ターニャのやり取りを見守る。
﹁どうされましたか?﹂
﹁あっちで、男たちに襲われて⋮⋮たまたま通りがかった人に助け
られたんですけど⋮⋮でも、多勢に無勢であのおじさんが大丈夫か
心配でして⋮⋮﹂
普段からあんまり表情に変化のないターニャだけど、それが今は余
程怖かったんだなって思わせる効果がある。⋮⋮っていうか、男た
ちに襲われてってまさかお祖父様⋮⋮。
﹁それは大変だ!すぐに行こう﹂
警備隊の人たちは3人出てくれて、私たちについて来てくれる。⋮
⋮とはいえ、3人揃っててもお祖父様の方が断然強そうな気がする
⋮とは思いつつ共に行った。ターニャと私も付いていく。ターニャ
は案内として必要だし、私は離さないと無言の圧力を繋いだ手から
138
感じるしね。⋮⋮詰所なら1人でいても大丈夫だと思うんだけどな
あ。
そして、先ほどのところに戻ってみたら⋮⋮十数人の男たちが倒れ
ていた。一瞬死んでいるのかと思ったけど、単純に気絶しているみ
たい。
お祖父様は、その倒れている男たちの真ん中でのんびり手持ち無沙
汰そうに立っていた。⋮っていうか、この数をあんな一瞬でって⋮
お祖父様、流石です。
﹁あ、貴方は⋮⋮お疲れ様です﹂
見事な敬礼。そういや、昨日と今朝で領都にいる警備隊全員に訓練
を施しているから、お祖父様の顔は分かるか。
﹁うむ。今日1日知り合いの嬢ちゃん達の護衛を頼まれていてなあ。
まあ何でか分からんが突然襲われて、ちとやっちまったわ﹂
なるほど⋮私たちはあくまで他人で通すのね。確かにお祖父様は顔
を出しているけれども、私が領主代行にして公爵令嬢って知ってい
るのはアズータ商会の開発部と一部の領官のみだものね。
﹁ご協力、感謝致します。こいつらは、私どもが引き取らせていた
だきますので﹂
﹁では儂は退散させてもらおうか。嬢ちゃん達を送るからな﹂
﹁畏まりました﹂
139
⋮そこからは、特に何事もなく公爵家に戻った。因みに襲ってきた
のは、やっぱりあの雇い主の一派だった。あの場で退散したのはた
だ仲間を呼ぶ為だけだったみたい。人身売買に手を染めていたとい
うことで、即刻逮捕。人身売買はウチの領では禁止されているから
ね。これは私が提案した訳でもなく、昔からウチの領にあった決ま
りなので、特に詮議はなし。
それより、家に帰ってからライルとディダにそれはもう怒られたわ。
お祖父様は後ろで笑ってたし。⋮けれども、今後も定期的に街には
出ようと思う。楽しいし、何より沢山収穫があったもの。その1つ
として、絵本の商売を始めてみた。あとは、子供向けの童話とかね。
院にも、商品をプレゼント。そしてその収益で新しく領主体で院を
設立。今後も絵本の商売で得た収益は院への寄付を行うこととした。
⋮勿論、私の仕事が増えたのは言うまでもないが、今まで以上に自
分の目的が確りしたので充実感を感じる。
私のやっている事には、正解も不正解もない。⋮けれども、私には
力がある。あの小さな子供達を守る助けができる。否、もっと沢山
の人達の手助けができる。ならば、私は信じて進むだけだのだ。そ
う思ったら、迷いも吹っ切れた気がして仕事に精が出る。⋮さて、
今日も仕事を頑張りますか。
140
弟登場
さて、それから更に半年が経った。⋮つまり、私が前世の記憶を取
り戻してからもう少しで2年を迎える。
アズータ商会の利益は変わらず、良い。競合他社が出て来始めては
いるんだけれども、たった1年ちょっととはいえ、ウチの商会の名
がブランドになっているというのが大きいかな。
領政の改革はボチボチ。銀行も普及してきているし、街道の整備は
もう少し。高等部は開校されて結構生徒が集まっているとのこと。
⋮⋮医療科では町医者とかも積極的に通ってくれてるし、会計科は
予定通り商人の子供達も複式簿記や経済論なんかを学びに来てくれ
ている。農耕科も少しずつ人が集まってきてくれているとのこと。
それから、初等部も開校済。あの院の子供達も通ってくれているみ
たいで、この前遊びに行った時は逆に絵本を読み聞かせしてくれた
わ。そういえば、あの事件で逮捕した人達は強制労働という名の下
それはもう遠慮なくこき使っている。逮捕した後、ただ牢獄につな
ぐほど税金も余裕ないしね。
目まぐるしく時は進み、色々な事が変わり種を撒いたのが芽吹いて
いる。
⋮⋮そう、時は経っているのだ。なのに、何故かお母様とお祖父様
は未だウチにいる。いや、良いんだけどね?お母様はその高いセン
スでアズータ商会の開発に色々と進言・提案して下さるし、お祖父
様の訓練のおかげで警備隊の練度上ってるし。良いんだけど⋮⋮2
人とも大丈夫?って感じ。だって2人とも、それなりにお付き合い
があるだろうし、それぞれの生活もあるでしょう?そんな事を考え
141
つつ、然りとて帰れとも言えない訳で⋮まあ当人達が良いならそれ
で良いかと放置していた。
⋮そんな、ある日の出来事だった。
﹁お母様!一体、どういう事ですか?﹂
休憩兼優雅なお茶タイムをお母様と庭でしていたら、突然乱入者が
登場。⋮⋮私の弟、ベルンだった。最後に会った時と全く変わって
いないわ。
﹁⋮⋮騒々しいわね。追い出してちょうだい﹂
お母様は一度もベルンのことを見ずに、ただただ冷たくあしらった。
ああ、お言葉遣いが変わってる⋮⋮と内心冷や汗をかく。
使用人達はお母様の迫力に押されながら、けれども嫡男相手にそ
んなこともできずにどうしようかとオロオロしていた。⋮その中で
ただ1人ターニャだけがそれを実行しようと動き始めていたけれど
も。
けれどもその前に、ツカツカと此方に近づいてくると、それはもう
えらく剣幕な様子で口を開いた。
﹁誤魔化さないで、理由をお聞かせ下さい﹂
﹁理由なら、手紙で書いたでしょうが。私は体調が優れないから長
閑な領で静養中、だから欠席すると﹂
﹁ふん⋮こんな普通にお茶を飲んでいて、誰が体調を崩しているの
ですか?それに、王族からの誘いを蹴るとは⋮我が公爵家を窮地に
142
陥れたいのですか﹂
きっとベルン⋮今、お母様に対して優位に立ったとか思っているん
だろうな⋮というドヤ顔。でもね、残念。お母様はそれぐらいじゃ、
言いくるめられないと思うわ。その証拠にお母様は、カップを置く
と冷たい視線をベルンに向ける。
﹁⋮⋮口が過ぎます。我が公爵家?爵位を継いでいない貴方が、ど
の口で言うのですか﹂
強烈なパンチでした。いや、確かに正論ですが。ベルンもそんな風
に言われるとは思っていなかったのだろう⋮一瞬、顔を崩した。
﹁⋮⋮いずれ継ぐ者として、今から公爵家のことを考えての発言で
す﹂
﹁お黙り。公爵家のことを考えて?⋮ふん、ならば長期休暇中に領
や旦那様のところに帰って来て実務を行わないのには、それなりの
理由があるのでしょうね?まさか、第二王子とあの男爵令嬢と一緒
にいて、己の責務を放っているなんてことないわよね﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁第一、此度のパーティを欠席することは、王太后様より許可をい
ただいております。貴方は、王家の決定に反論するほど偉くなった
つもりですか﹂
﹁⋮⋮⋮っ﹂
うーん、これはお母様に完全に軍配があがったな。そもそも、王族
143
主催であろうが欠席は自由。⋮まあ、滅多にやらないけどね。その
上、王太后様がお母様の意思を支持しているのだ⋮⋮例え王族でも、
あれこれ言えないだろうな。
﹁そもそも、婚約を破棄された女性の母に、新たな婚約者との婚約
パーティに出席しろなどと、品位を疑うわ。それも、1年と少しで
婚約をするなんてね。王太后様も、それは心を痛めてくださったわ。
何なら、宰相である旦那様にも出なくても良いと。ですが⋮⋮お父
様は役職上、出席をするでしょう。それで、我が公爵家は十分なは
ずだわ﹂
あー⋮⋮ついに、男爵令嬢とエド様も婚約するのか。もうすぐあれ
から2年⋮あんなラブラブしてた2人が2年待ったのは結構我慢を
頑張った方なのかなーとは思うけどね。
﹁だいたい何ですか。顔を見せるなり、喚き散らして。⋮貴方の品
位を疑うわ。やはり共にいる者に品位がないと、染まってしまうも
のね﹂
ベルンの顔が一気に赤く染まる。あ、怒ったなー⋮やっぱりユーリ
男爵令嬢のことを言ったからかしら。
﹁お母様。いくらお母様でも、言って良い事と悪いことがあると思
いますが⋮⋮?﹂
﹁ふふっ⋮ここにいる母のことも、糾弾しますか?姉にしたことと、
同じように﹂
精一杯、ベルンなりに反撃したんだろうけれどもお母様には何にも
通じない。そりゃお母様を糾弾しようにも、第二王子とその取り巻
144
きじゃ太刀打ちできないもの。そもそも、王太后様が黙ってなさそ
う。
﹁最近の貴方には、失望しております。旦那様も勿論、同じ意見で
す。このまま貴方が態度を改めなければ、廃嫡することも厭いませ
ん。貴方の姉が立派に領地を治めていますから、何の心配もありま
せんしね﹂
お母様は、ここで初めてニッコリと笑顔をベルンに向けた。ああ、
でもその笑顔が今は怖い。
﹁良かったわね。大好きなあの男爵令嬢とずっと一緒にいられるも
の。ああ、でも⋮貴方から地位を取ったら何の魅力もないから、捨
てられてしまうかもしれないわね﹂
﹁⋮⋮そんなこと、ありえない⋮⋮。大体、何故あの姉が領主代行
になったんですか。やがて王族となる方に無礼を働いたのですよ。
即刻身分剥奪の上、流刑でしょう﹂
﹁⋮⋮先は知らないですけど、今の段階では男爵令嬢。たかが男爵
令嬢が公爵家に牙を剥くなどと、そもそも言語道断。あの時第二王
子という王家の者と貴方という我が家の汚点がいなければ、即刻我
が公爵家はあの男爵令嬢の家を取り潰しにかかったでしょうね﹂
うーん⋮⋮第二王子に遠慮してだけかと思えば、ベルンのことも考
えてか。そりゃ、そっか。苦言を呈するにも、その相手方に自分の
家の者が関わっていたのだ。自分の家の者が自分の家の者を糾弾し、
それを剰え抗議するなんて恥ずかしくてできないわね。
﹁旦那様が譲渡した領主代行の権限は領主と同等。つまり、領政に
145
関わっていない貴方がいくら文句を言ったところで何もなりません。
そもそも、自分の分も弁えず、公爵家の為にならない者など不要で
すから﹂
﹁認められません⋮⋮!姉に会わせていただきましょうか﹂
会わせて、と言ってもね⋮⋮目の前にいるのだけど。さっきから私
の存在を無視しているのかと思えば、どうやら違ったらしい。え、
私⋮姿すら忘れられているの?
﹁会ってどうすると言うのですか?領地代行の地位を渡せと?⋮⋮
貴方にそれを言うだけの権限はないのに。そもそも、貴方にアイリ
スを姉と呼ぶ資格はありませんわ﹂
お母様が、ふっと息を吐くと再びお茶を飲んだ。少し冷めちゃった
だろう。ターニャに淹れさせよう。
ふと、ターニャの方を見ればその瞳には疑問の色が映っていた。恐
らく、何故あんな目に遭わせた弟を目の前にして、しかも内容が元
婚約者の婚約パーティで怒りださないのか⋮不思議に思っているの
だろう。
私も、目の前にしたら詰って罵倒して叩いて⋮そうするのだと思っ
た。けれども実際目の前にいる今⋮何にも、思わない。一言で言う
なら、無。最早、道端の石ころ並みに彼の存在はどうでも良い。私
とベルンはあの時に他人になったのだと、もう既に心の中では彼の
存在を消し去っているぐらい。ああでも、頭がお花畑な彼に領政を
引き継がせたくないから帰ってきて欲しくないなーと頭の痛い思い
をすることは多々あるけれども。
146
147
弟登場︵後書き︶
前の章を投稿後読み返して修正してます。修正前に読んだ方、申し
訳ありません。
148
弟の見学会
﹁⋮⋮失礼致します。お嬢様、そろそろセイとの打ち合わせの時間
でございますが﹂
ターニャが、気まずい雰囲気が流れる中私に声を掛けてきた。⋮も
うそんな時間、か。ベルンの登場で、ゆっくりできなかった。
﹁お母様、そろそろ私行きますわ。お母様はごゆっくりなさってい
て﹂
﹁ええ、そうさせて貰うわ。あ、アイリスちゃん。この馬鹿息子も
連れて行って貰えない?﹂
﹁⋮⋮⋮え?﹂
この馬鹿息子って、ベルンですよね?何で⋮⋮?
﹁貴方の仕事ぶり、見せてその馬鹿息子を黙らせてちょうだい。そ
れでも文句を言うようなら叩き出して良いし。ターニャ、その時は
宜しくね﹂
﹁⋮⋮畏まりました﹂
ベルン﹂
ターニャなら、間違いなくやるだろう。まあ、煩かったら追い出せ
ば良いし⋮良いか。
﹁そういうことなら⋮⋮行きますよ、
149
﹁⋮⋮え?お姉様⋮⋮ですか⋮⋮?﹂
ベルンが私のことを驚いたようにマジマジと見てくる。やっぱり、
私の姿を忘れてたのかしら?
﹁そうですよ。他に誰がいると言うのです。時間がないので、さっ
さと行きますよ﹂
すぐさま、書斎に行った。中には、既にセイが待機している。セイ
は、私の後にくっついて来たベルンの姿を見て眉を顰めていたけれ
ども、すぐに頭を切り替えて私に報告書を出した。
私もまた、それに目を通す。
﹁⋮製菓ラインが少し下がっているわね﹂
﹁少しずつ、同商品を扱う店が出ていますので。ウチよりも値段を
下げて販売をしているようですし﹂
﹁⋮⋮安易に値下げはする必要はありません。消費者は、本当に良
い物であれば購入してくださいます﹂
﹁原材料を下げさせるという案も出ておりますが⋮﹂
﹁却下です。仕入れ値を見ても、この価格は適正よ。これ以上、下
げさせて生産者との関係を悪くさせるよりも、このまま良好な関係
を築き、良質な物を仕入れるルートを確保した方が良い筈﹂
商会を経営する以上、利益は追求しなければならない。けれども、
領主として生産者達の利益を圧迫させたくもないのよ。高い値段を
150
吹っかけられているなら兎も角、適正価格だと私は思っているし。
﹁それより、値段以外に何か原因がないか調べて。他社の商品ライ
ンナップを調べ、ウチの商品をもう一度見直しを。それから、来週
から始まるケーキの進捗は?﹂
﹁予定通り、来週より始められるよう準備は整っております。バー
スデーケーキというものの存在をいかに庶民に浸透させるかという
ところでしたが⋮元々ケーキ自体は喫茶店のおかげもあり、受け入
れられていたため宣伝は順調。現在問い合わせも殺到しているとこ
ろです﹂
宣伝の謳い文句は“特別な日を特別なケーキ”で、というもの。誕
生日とか、結婚記念日とかね。予約を入れて貰い、幾つかのサンプ
ルから形やクリームを選んで貰い更にデコレーションもオーダーが
できるというもの。
﹁それならば良かった。問い合わせ内容を私のところまで持って来
てちょうだい﹂
﹁それは此方に﹂
渡された書類を、ざっと読む。
﹁⋮⋮内容は、概ね予約方法といつから販売が開始されるかという
ところね。⋮⋮これが稼働されれば、少しは製菓ラインの売上も上
がるでしょう。それから、在庫の管理はどう?﹂
﹁お嬢様の指示の通り、前デザインのものや在庫として残っている
ものは少しずつ値引きをして売っております﹂
151
﹁そう。⋮理想は、在庫が出ないようにすることよ。これからも引
き続き販売の数字を見て、生産数をギリギリまで落とし込んで。特
にシーズン限定物は少なくすることで希少価値が出るぐらいが丁度
良いわ﹂
﹁畏まりました﹂
﹁美容ラインは、相変わらず好調ね。この前のヘアパックは生産が
追いついていない状況⋮か⋮﹂
﹁ええ。どの店舗も売り切れ状態でして⋮⋮﹂
﹁美容品の生産を第一にして。それから、シリーズ展開はどう?﹂
﹁其方も、着々と進んでおります。現在蜂蜜シリーズと薔薇シリー
ズを販売中。次は百合とラベンダーですね﹂
このシリーズというのは、それぞれ美容液・シャンプー・リンスで
例えば蜂蜜シリーズなら蜂蜜、薔薇シリーズなら薔薇が全てに使わ
れているというもの。パッケージや容れ物にも拘っている。
﹁そう。肌の体質によって向いている物が違うことの宣伝と、肌に
合わない場合はすぐに止めるようにという注意喚起を徹底させてね﹂
﹁畏まりました﹂
﹁後で、全店舗の報告書を私のところに持って来て。会計報告と定
期報告両方よ。夜の間に見ておくわ﹂
152
ベルン、静かだわね⋮と思って振り返ってみれ
心得たと言わんばかりにセイは一礼すると、部屋から出て行った。
⋮⋮そういえば、
ば、予めターニャが口を布で縛っていた。けれども、それも必要な
かったんじゃないかなとも思う。なんかずっと目を見開いて呆然と
しているし。
取ってあげて、という気持ちを込めてターニャを見れば、ターニャ
はすぐに察して⋮けれども嫌そうにその布を取った。
﹁そんな呆けた顔をして、どうしたの?﹂
﹁⋮⋮お姉様が、商会の経営を?﹂
﹁私が発案して設立したから、ね﹂
その会話のすぐ後に、書斎の扉からノック音が聞こえた。
﹁⋮⋮どうぞ﹂
入って来たのは、モネダだった。モネダもまた、ベルンの姿を見
て一瞬眉を顰めたもののすぐにいない存在として無視し始める。
﹁幾つかご相談したいことがございます。ターニャに確認したら、
この時間なら大丈夫と伺いまして⋮﹂
﹁大丈夫よ。それで、相談というのは?﹂
﹁現在のこの領での物価調査です。ご覧の通り僅かに物価が上がり
続けている状態です﹂
153
﹁微々たるものね。徐々に貨幣価値が下がり、物価が上がっている
というところでしょう﹂
﹁ええ。そこで、いつから金利を上げるかというものですが⋮﹂
﹁私はまだ不要かと。上昇しているといっても微々たるものだし、
今はまだ、市井の物価を安定させることが第一。市井の消費が拡大
し、商会も銀行からお金を借りて経営を拡大させている風潮。金利
を上げてしまえば、折角勢い付いている商会の経営拡大に水を差し
かねない﹂
﹁なるほど⋮良いことが聞けました﹂
﹁もう一度、会議を開いて話し合って。今のを説明した上でそれで
も金利を上げたいというのなら、私も納得できるよう説明をお願い
ね﹂
﹁分かりました、ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮あの、姉様⋮⋮﹂
﹁何でしょうか?﹂
﹁銀行というのは、最近我が領に設立された金融機関ですよね?そ
のトップの方が何故お姉様に⋮⋮﹂
﹁聞けばなんでも答えが返ってくると?それぐらい、自分で調べれ
ばすぐに推測できるでしょうに⋮貴方のその立ち位置で知らなかっ
154
たは許されない筈です。本当に、公爵家当主を継ぐつもりはあるの
でしょうか﹂
モネダの物言いに、無礼者と怒鳴りつけるかと思えば、流石に正論
だった故かベルンも反論しなかった。
﹁まあ、今回は特別に質問に答え差し上げましょう。銀行設立の発
案者は、貴方のお姉様⋮アイリス様です。故に私が質問しに来るの
も当然のことでしょう。⋮さて、アイリス様。早速私は今の内容を
会議で報告しますが、宜しいでしょうか﹂
﹁勿論よ。報告を楽しみにしているわ﹂
モネダが去った後、入れ代わる様にセバスが入室してきた。
﹁お嬢様。領政について、今回の会議で纏まった内容を報告させて
いただきます﹂
﹁ええ、待っていたわ。まずは、財務の方の調整はどうなったのか
しら?﹂
﹁関税を緩和した際の影響に対して、まずは話し合いが進みました。
まず、我が領の産物に関して。現在、我が領の主な生産物は穀物・
畜産・カカオや幾つかの果物類。カカオ・果物類は他の領では未だ
我が領ほど生産ができていない状態ですし、穀物は高等部の研究成
果により品種改良が進み現在豊富な備蓄を確保しています。もし仮
に関税を緩和しても、極端に衰退するほどではないかと考えられま
す﹂
﹁⋮⋮そう。逆にメリットは?﹂
155
﹁我が領では、鉄鋼の生産ラインが整っておりません。それらを安
く輸入することができるというのは大きなメリットになるかと考え
られます。また、現在お嬢様の指示通り海での貿易を活発化させて
います。中には我が国では生産されていない食品も数多く存在し、
それらを国内中に売ることで我が領の商会の利益が上がるかと﹂
﹁⋮⋮分かったわ。先に、所得税の草案についての会議の内容の報
告書を私に提出しておいて。どのタイミングで導入していくかは、
追って指示を出すから﹂
﹁畏まりました﹂
﹁それから、民部。戸籍の作成が終わったのであれば、今後は土地
の調査をさせて。誰がどの土地を所有しているのか権利関係を明確
化させたいの。それに関しても戸籍同様領の正当な資料として今後
編纂させ残すものだから、キッチリとさせて﹂
﹁はい。現在既に民部の者たちにその知らせを各地の領民達にして
おります。正式な領の政策の為協力するように、と。実際に調査に
移るのも、もう少しで開始させます﹂
﹁それは重畳。それから、各地の初等部の稼働率は?﹂
﹁随分と増えて来ました。なにせ、無償で通えるのですし。まだ開
校になっていない地区もありますから、今後はそれが課題でしょう﹂
﹁そこの調整は工部とやって貰いましょう。教科書については?﹂
﹁幾つかレベルに分けています。現在、7∼12才の子供達に同一
156
の授業を行っていますが、いずれ年齢ごとに分ける又は習得度によ
って分けるというので議論が交わされています﹂
﹁入学の年齢は、7歳で統一。通常はそのまま1年経てば上の学年
に上がる。ただし、入学時及び年度末に試験を開催し、その成績で
飛び級を認めるのはどうかしら?﹂
﹁早速提案して参ります﹂
﹁じゃあ、さっきの所得税の草案についてだけは書類を持ってきて
ちょうだい。⋮⋮ああ、そうだ。お母様に、ベルンに仕事を見せて
やりなさいと言われたのよね⋮⋮財務に行くときに一緒に連れて行
って、ちょっと各地から上がってくる税の収支報告について纏める
のをやらせておいてちょうだい﹂
ずっとさっきからギラギラと鋭い目で見られて疲れちゃったのよね。
さっさとこの場から、退場いただきたい。それに一応学園では常に
座学の成績1位を取っているのだから、計算ぐらいできるでしょう。
﹁⋮⋮という訳だから、ベルン。早速行ってちょうだい。⋮⋮学年
1位の秀才ぶりを、遺憾無く発揮してちょうだい﹂
﹁⋮⋮勿論です﹂
フラリと立ち上がると、そのまま生気のない目をしてセバスについ
て行った。
⋮⋮はあ、やっと落ち着いた。
﹁⋮⋮良かったのですか?﹂
157
ターニャがお茶を淹れながら、私に問いかける。
﹁何が?﹂
﹁あの男を、領政に関わらせてです﹂
﹁別に良いわよ。領政は情報統制するつもりないから。セバスも付
いているし、変なことにはならない筈。流石に、アズータ商会の方
はあまり見せられないけれどもね。それもあってセイは既に公に告
知している内容しか議題に出さなかったのだろうし﹂
自分の弟ながら、私は彼を一切信用していない。だからこそ、商売
であるアズータ商会には触れさせられない。⋮領政は、一部の軍事
や機密に関して以外は“見える政治”をモットーに特に情報を秘匿
しているわけではないからねえ。
﹁⋮⋮それに、これからライルが来るわ。警備隊とはいえ、武力は
とってもセンシティブな内容だから。あの弟がうっかり第二王子や
その取り巻きにここで話し合っていたことを漏らされても困るから、
いなくなって貰うには丁度良い口実だわ﹂
﹁そうですね﹂
コンコン⋮丁度そのタイミングでノック音が鳴り響く。
﹁どうぞ﹂
158
159
弟の見学会︵後書き︶
ご感想、ありがとうございます。
序盤の修正は、もう少し進んで落ち着いたらしていこうかと思いま
す。
皆さんの感想がとても励みになります。質問や疑問もいただいてい
ますが、これから徐々に出てくるのもあるかと思います。
今後ともよろしくお願い致します。
160
コミュニケーション
今日の予定は全て消化し、後は書類の整理と確認のみとなった。夕
ご飯を弟と食べる気はしなかったし、今日は仕事が立て込んでいた
為軽食をターニャに持ってきて貰った。お母様もターニャも何も言
わない辺り、気持ちを汲み取ってくれているのでしょう。
外はすっかりと暗くなって、部屋もランプの光でぼんやりと照らさ
れている。⋮⋮そろそろ本当に眼鏡を掛けようかしら。普段細かな
字ばかり見ているものだから、目が悪くなるのもしょうがないかも。
コンコン、と部屋にノック音が響く。どうぞ、と声を掛けて入って
来たのは、ベルンだった。
﹁何か用かしら﹂
﹁⋮⋮まだ、仕事をされているのですか﹂
﹁そうね。見ての通りよ﹂
﹁⋮⋮いつも、こんなスケジュールなのですか﹂
﹁お母様とお祖父様が来てからは、少し抑えている方よ。最初の頃
は、それこそ1日中仕事をしていたから﹂
⋮⋮こんな風に弟と話すのって本当に久しぶりかも。2年近く離れ
ていた訳だし、学園にいた頃は何時の間にか弟は取り巻きになって
いたからコミュニケーションのコの字もなかったもの。
161
﹁⋮⋮そうですか⋮⋮﹂
﹁私からも1つ聞いて良いかしら﹂
﹁何でしょうか﹂
﹁⋮⋮何故、あの時貴方は第二王子に加担したの?﹂
﹁⋮⋮何故⋮⋮?それは、姉様がユーリを⋮⋮﹂
﹁非難したから、有る事無い事流言したから⋮なのね。その結果起
こることを予測し、覚悟をして行った?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もし、今後お父様の後を継ぎ宰相となりたいのであれば、考えな
さい。自分がする行為の結果を、それに対する影響を。⋮⋮私は、
王都での貴方の行動を詳しくは知らないわ。聞きたくもない。けれ
ども、評判が良くないのは知っている。今の貴方には領主を引き継
がせたくはないし、宰相なんて夢のまた夢でしょう﹂
﹁⋮⋮王族の方の願いを叶えるのは、臣下の務めでしょう﹂
﹁宰相の役目は、王のご意志に沿い国を動かすこと。だけど、王が
誤っている時は身を以て諌めるのも務め。⋮⋮それに、王族の方の
願いを叶えると言ったけれども、他の感情はない?﹂
宰相の役目云々は、お祖父様が仰られていたことだ。“ルイ殿は見
事に熟しておる⋮だが、ベルンはなあ⋮”とも漏らしていた。
162
﹁⋮⋮感情を持つことと、感情のままに動くことは違うわ。私は、
醜い嫉妬に駆られて感情のままに動いた結果があのザマ。味方を減
らし、学園から追放された。貴方はあの時糾弾する側に立っていた
というのに、今、同じ穴の狢になろうとしてはいないかしら﹂
脈々と続いた我が家の宰相としての地位を、ここで途切れさせるの
は惜しい。まだまだ中央での力は欲しいし。そう考えたら、何とか
弟の軌道修正をしたいのだけれども⋮⋮。
﹁私からの話は以上よ。まだ何か、貴方に聞きたいことはある?﹂
﹁⋮⋮いえ⋮⋮﹂
﹁そう。ならば、退出して。私もまだ仕事があるから、これ以上貴
方の相手はできないわ﹂
ベルンが退出すると、私は深く溜息を吐いた。何だか、疲れたわ⋮
⋮。あの子がいると、その後ろにエド様やその他取り巻きたちの影
がチラついて必要以上に気を張ってしまう。
コンコン、と再び扉がノックされた。今度は誰かしら?
﹁⋮⋮失礼致します﹂
﹁あら、セバス。どうかした?﹂
﹁部屋に明かりが灯っているのが目に入りまして。お嬢様、そろそ
ろお眠りになられてください﹂
﹁もう少し、待って。高等部の成果報告に目を通しておきたいの。
163
セバスが昼間言っていた、農耕科の成果を。⋮凄いわね、皆。確り
研究して、成果を出してくれているのだもの⋮見ていて楽しいわ﹂
﹁やはりそれまで独自で行っていたものを持ち寄り、話し合い、実
験するという場が与えられたことが大きいのでしょう。私めも今後
の発展が楽しみでなりません﹂
﹁そうね。私が知らなかったこと、思いつかなかったこと⋮こうし
て見ると、本当に驚かせられてばかりだわ﹂
﹁⋮⋮お嬢様にも、知らない事があるのですね﹂
﹁あら、セバス。それは当たり前でしょう。会計科の内容は兎も角、
農耕・医療はてんでダメよ。だから専門家の人たちに任せるべく、
高等部という研究の場を作ったのよ﹂
私1人じゃ、限界がある。その道はその道のプロに盛り立てて貰う
のが1番。
﹁⋮⋮そちらは⋮⋮﹂
﹁財務の報告書よ。もう、目は通したわ。もう少し、話を詰めない
とダメね﹂
その性質状、長期的なスパンでそれが齎す影響を考えなければなら
ない。見ていて、少し頭がこんがらがってきてしまった。⋮頭の整
理の為にも、誰かしら相談役というか議論を交わす人材が欲しいと
いうのが現在の本音。
164
﹁そうですね﹂
﹁⋮⋮ところで、セバス。ベルンはどうだった?﹂
﹁与えられた仕事は見事に熟していましたよ﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁⋮⋮これは独り言ですが⋮⋮財務に行く間に、お嬢様のことを聞
かれました。姉は、いつもあんなに仕事をしているのか。何故、あ
の姉があそこまで仕事をしているのか﹂
﹁⋮⋮何だか失礼な質問ね﹂
﹁それだけ驚いたのでしょう。学園でベルン様は秀才の名を欲しい
ままにしていました。なのに、ここではそれは一切通用しない。そ
れに、書類に囲まれてお嬢様が仕事されるのを見て衝撃を受けてい
られるようでしたし﹂
﹁よくベルンの想いが分かるわね﹂
﹁幼い頃から見守らせていただいておりますし、何よりベルン様の
表情は分かり易いですよ﹂
まあ、確かに。セバスは私たちが生まれる前からウチに仕えてくれ
ていて、私たちの成長をずっと見てくれていたのだ。ある意味、親
と同じだものね。
﹁⋮⋮それに、お嬢様も気づいた筈ですよ。ベルン様にじっと見ら
れて、視線を感じたでしょう﹂
165
﹁まあ、そうね﹂
おかげで仕事をしていて、いつも以上に疲れたもの。
﹁あれは、お嬢様のことをずっと観察されていたのですよ。部屋か
ら出る時には、衝撃が強過ぎてフラフラでしたが﹂
﹁まあ。少しは身になったかしらね?﹂
そこで衝撃を受けたのならば、是非お父様に教えを受けて貰いたい。
切実に。
﹁そうだと思いますよ﹂
⋮⋮お母様、これを狙ったのかしら?あの子プライド高いし、分か
りやすいものね。後は王都に戻った後、第二王子やその他のメンバ
ーに接触してまた頭の中がお花畑にならないか心配だけれども⋮⋮
弟はまだ学園がある以上、王都に戻るしかないし。
﹁⋮⋮楽しい話をありがとう。少し、希望が持てそうよ。さて、セ
バスの言う通り、そろそろ寝ましょうか﹂
166
告白紛いなスカウト
さて、弟はそれから数日滞在して帰って行った。お母様への説得は
諦めて。
⋮まあ、お母様や王太后様が出席しなくても、パーティは予定通り
開催されて何事もなく終わったみたい。⋮⋮2人が出ないことで、
盛況とは言い難かったみたいだったけれど。
これで、名実共に男爵令嬢はエド様の婚約者となったワケだ。
王都では第一王子は相変わらず表舞台に出てこない。
そして、第二王子は今年で卒業。
姿を見せない第一王子よりも、派手に動き回っている第二王子の方
が話はよく此方に入ってくる。
それに、第二王子側の陣営って見事に貴族の中でも貴族という輩⋮
まあ要するに血筋は良く、かつ茶会・夜会への出席が多いという人
達が多いから余計かも。因みに、
第二王子の陣営に入っている大半の家の家計は火の車。消費多いし、
自領でこれと言った産業発展させてないし。これは我がアズータ商
会から得た情報だ。
つまり、有り体に言えば血筋だけの家が多いという何とも微妙な陣
営。
対して第一王子側の陣営は、己の功績で家を興した新興貴族や地方
にて領地経営に専念している貴族が多い。
という訳で、王城でもド派手な第二王子側の陣営が幅を利かせてい
るみたい。
お父様、胃に穴が開いてないか心配だわ。お父様と言えば、お母様
も婚約パーティが終わって暫くしてから王都に戻られた。お祖父様
は相変わらず我が家に残っていらっしゃるけれども。
167
私はといえば、これと言った変化もなく日々忙殺されている。
﹁だからね、ディーン。私のモノにならない?﹂
私が切り出した何度目になるか分からない言葉に、ディーンは眉ひ
とつ変えずに微笑む。
﹁ありがたい言葉ですが⋮﹂
これで同じく何度目になるか分からないけれども、撃沈。ああ、悔
しい。
さてこの会話だけを切り取ってみれば、まるで告白⋮否、女主人が
若い男を誑かしているような少々危ない会話に聞こえるだろう。し
かも、ディーンは金髪にエメラルドグリーンの瞳が美しい見事な美
形。体型も鍛えているらしく、それはもう見栄えが良い。そんな美
形を懸命に口説いているようにしか見えないが⋮⋮まあ、ある意味
口説いているのか。
﹁はあぁぁ⋮分かったわ。でも、諦めないわよ。とりあえず、今週
1週間もお願いね﹂
﹁勿論です﹂
何を1週間かと言えば、私の補佐として領政への参加。
⋮⋮事の始まりは、お母様が帰られる前のことだった。偶に商業ギ
ルドの人材派遣の機能を利用して、特に忙しく人手がいる時に人材
を短期契約で迎え入れている。ディーンも、それで契約したうちの
168
1人だった。初めは、失礼ながらそんな末端の末端の人まで全員把
握し覚えることなんてできないので、彼の存在なんて知らなかった。
ところが、彼の有能さは現場でとても評判となり私の耳まで入っ
てきた。
ならば⋮と仕事を個別に与え、それも見事に彼は熟し、次にもう
少し重い内容の仕事を与え⋮と繰り返している内に、ついに私の補
佐をするようになった。
お母様もディーンに会ったことがあるのだけれども、﹁この人なら
安心して任せられる気がするわー﹂なんて言ってた。お母様の人を
見抜く力に私は全幅の信頼を置いているので、有能さは勿論なんだ
けど安心して補佐に抜擢したという次第。
⋮⋮兎に角、楽なのだ。私が指示したことに対して、その目的を察
し、自ら方法を考えて実行してくれる。全てを説明する手間が省け
る分、私は他の業務に時間を捌ける。正に1を聞いて10を知ると
はこの事だと彼を見ていて思うぐらいだ。
さて話を戻すと、私がさっき告白紛いなことを口にしたのは所謂ス
カウトだ。⋮⋮私としては正式に領官として雇い日々業務に当たっ
て欲しいのだけれども⋮彼は、短期契約しか応じてくれない。
何でも、実家の手伝いもあるからだとか。なので1週間此方で働き
2週間から3週間ぐらい実家に戻るという生活をしている。
そんな彼だが、有能過ぎて手放すのが惜しく私も彼が来る度に契
約を交わしつつこうしてスカウトしているのだ。
⋮お母様の
怪しいと疑うべきなのかなあと思う事もあるが、領政はあまり情
報の秘匿をしていないし、問題ないかなっとの結論。
お言葉も大きいが。
﹁はい、此方各学園の収支報告書と来年度の予算申請書です﹂
169
﹁⋮⋮あら、書式が整っているわね﹂
﹁少し修正はしてあります﹂
﹁ありがとう。初等部は全地域に開校済⋮次は職業訓練として中等
部を開校させたいと私は思っているのだけれども﹂
﹁現段階の予算では難しいですね﹂
﹁まあ、そうよね。やっぱり、安定した税収入へと切り替えないと
ねー⋮⋮﹂
﹁とは言え、消費税は時期尚早かと。税の基本は公平・簡素・平等。
現在まだ教育は初等部が開校され徐々に識字率が上がっている段階。
民の理解が得られないでしょう。大きな商店は兎も角、小さな店な
どではまだまだ難しいでしょう﹂
﹁そこよね⋮﹂
﹁とは言え、斬新な考えかとは思います。もう少し識字率が上がり、
かつ、算術の普及がされた後には是非とも導入したいものですね﹂
﹁うーん⋮⋮⋮やはり、此方から進めるべきかしら?﹂
パラパラとめくったのは、所得税の草案だった。
﹁人頭税を廃止し、所得税への移行ですか⋮⋮。私としては、それ
も疑問なのですが。先ほども伝えた通り、税の基本は公平・簡素・
平等。人頭税は全ての民に領に参加していることを意識づける上で
170
も良いものかと﹂
﹁平等過ぎて問題でしょう。支払い能力がない子供にまで税を課す
なんて。働き手を欲している民達にとっては枷でしかないわ﹂
そう、人頭税って税の上では理想的だと思うのよ。
簡単だし、平等だし。でも平等過ぎて公平に成り得ていないと思う
のよ。それに、実際問題支払い能力がない者にまで課されているせ
いで、徴収できない上に重荷になってしまっている。
﹁⋮⋮確かに、そういう見方もありますね﹂
﹁現在出ている草案では、個人の所得に対して税を課すのだけれど
も⋮まあ、農家とかは所得からの計算が難しいでしょうから、暫定
的に持っている土地で“みなし収穫”を役所の方で計算し、そこか
ら税を徴収する方法﹂
﹁その為に民部で土地の権利関係を明確化させる作業を積極的に行
わせていたのですか?﹂
﹁そうよ。⋮勿論、それだけではないけれども﹂
﹁なるほど。そうであれば、各年ごとの気候等による収穫の変動も
勘案する方が宜しいかと﹂
﹁ううーん、確かに﹂
﹁それから、その計算を行う役所の人員は確保できるのですか?﹂
﹁現在財務に在籍している者には、交代で高等部の会計コースに参
171
加させているわ。財務の人員は勿論、そこの卒業生を使うつもり。
いずれ民達の学力が向上され、彼らに自ら税の申告をして貰えるよ
うになるのが理想なのだけれども﹂
﹁⋮⋮それは長い時がかかるでしょうね﹂
﹁まあ、すぐには期待していないわ。いずれ、ね。それから、個人
に対してだけではなく、商会に関する税も整備しなければ。今のと
ころ、商会と会頭さんの収益がごっちゃになって税を計算している
⋮なんていうのもあるみたいだから、商会から会頭も給与として受
け取っていた場合と、商会と個人収入が同一として取り扱われる場
合で分けさせること、そこから更に商会は商会専用の税率で適用さ
せましょうか﹂
﹁⋮⋮商会からの反発はどうしますか?﹂
﹁関税の緩和を同時期にさせるのは?現在領内であっても、何を輸
出・輸入するにもそれぞれの都市に入ったり出たりする度に支払わ
させられている。それを今後は他領・国外からの輸入時と輸出時の
みとし、かつ税率も引き下げさせる。⋮⋮そうすれば、物流も増え
るでしょう﹂
﹁確かに、それとセットであれば幾分か反発は和らげられそうです
ね。各商会は現在会計コースで複式簿記を学ばせているため、各自
で計算し提出してくれる。⋮⋮此方側の負担もそこまで大きくなら
ないでしょう﹂
﹁そういうこと。今の話を詰めて、順番・時期等をもう一度財務の
人間達と話し合いましょう﹂
172
173
お嬢様、倒れる
ディーンがいることで領政に割く時間が短縮できたことで、最近よ
く街に繰り出している。やっぱり街に出ると、リフレッシュになっ
て良い。
﹁あ、ディーン!最後に孤児院にも寄って良いかしら﹂
﹁アリス様が望むように﹂
因みに、街に繰り出す時にはディーンを誘ってる。考えたこととか
思いついたこと、その場で言うとやっばり意見を返してくれるし⋮
話が早くて良いんだもの。最初、ターニャは大反対だったけれども
ね。“得体の知れぬ者を連れて行くなんて”と。けれどもお母様の
口添えと、お祖父様が同行してくれるからってことで強行突破。
因みにディーンが子供相手にするのはあんまり想像つかなかったけ
れども、結構扱いが上手い。おかげで、私よりも子供達の人気が高
い。⋮⋮悔しいと僅かに思うけれども、子供達と戯れている姿を見
ていると眼福なので我慢している。
﹁おにーちゃん、おねーちゃん。また来てくれる?﹂
上目づかいでそう問われてしまえば、くらりとくる。ああ、可愛い
⋮⋮!
﹁勿論よ。ね、ディーン﹂
﹁ええ。ですから、良い子にして待っていて下さい﹂
174
日暮れどき、十分満喫した私は帰路についた。うーん、今日は楽し
かったわ。また明日、頑張ろう。
お母様が来て以来、休憩を取るようにはなったけれども、相変わ
らず休日というのはなかった。けれどもつい最近、ディーンが働い
てくれる間は1日休日として街に出てくるようにしている。
というか、ディーンのおかげで予定よりも仕事が早く終わるので、
結果手持ち無沙汰になって1日ぐらい空けても大丈夫になる。けれ
どもやっぱり休日って大切ね。
﹁⋮⋮アリス様は⋮⋮﹂
﹁もう敷地内だから、アリスでなくて大丈夫よ﹂
私のツッコミに、ディーンは軽く笑った。
﹁失礼。お嬢様は、何故あそこまで働かれるのですか?﹂
思ってもみなかった質問に、暫し思考が止まる。
﹁貴方だって、働いているじゃない﹂
﹁私とは違いますよ。私が働くのは、生きる為というのもあります。
ですが、お嬢様は違う。公爵令嬢として、宰相の娘として⋮働かな
くとも生きていけるでしょう?﹂
まあ、確かにそうよね。貴族の中でも、女性が働くことなんて極々
一部。家を守り、盛り立てることは奥様の領分だとは思うけれども
⋮大抵は前までのウチのように、執事達使用人が家や領の管理をす
るというのが殆ど。
175
﹁でも、私はお父様より領主代行の地位を賜っているもの。その地
位に恥じぬように働くのは、貴族だからこそじゃない?﹂
﹁大変失礼ながら⋮私がイメージしていた貴族とは、ただただ領民
から税を搾取し、それで生きているものだと思っていました。それ
に、お嬢様はセバスさんに旦那様と同じように統治を委任すること
もできた筈です﹂
﹁その方法が、思いつかなかったという訳ではないわ。でもやっぱ
り、折角与えられた仕事だから⋮未熟な身でも、精一杯やろうって
思ったの。それが、キッカケ。でも今は⋮⋮﹂
そっと私は自分の手を見る。⋮小さな小さな、手。領民全ての命と
未来を握り、守るのにはとても分不相応だと、自分で見てて笑って
しまう。
﹁あの院の子達と会って、私でも⋮ううん、私だからできることが
あるって、そう思ったの。私が頑張ることで、少しでも民の笑顔が
増えるのであれば⋮民が幸せになれるのであれば、それってとても
素晴らしいことではない?﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
美形に微笑まれて、一瞬見惚れてしまった。⋮危ない危ない。デ
ィーンの笑顔って破壊力抜群だから、本当、気をつけないと。少し
気恥ずかしくなって、私は館に帰ると皆に礼を言ってそそくさと部
屋に戻った。ああ、もう⋮こんなのキャラじゃないわ。
176
⋮⋮それから、2日後。今回のディーンの契約終了日に、私はここ
に来てから初めてぶっ倒れた。今まで健康第一に過ごしてきた筈な
のに⋮何故。
けれども高熱のせいで、そんなどうでも良い事を考えているほど余
裕もなく、只管眠っていた。
次に目を開けた時、部屋は既に薄暗くなってしまっていた。⋮⋮1
日中、眠っていたのか。
﹁⋮⋮はぁぁ⋮⋮﹂
体調管理は、仕事をする上で基本中の基本。ぶっ倒れて、1日中寝
てしまうなんて⋮私もまだまだダメね。
﹁⋮⋮ターニャ﹂
少し声がかすれているが、喉に異常はないみたい。⋮⋮とにかく、
喉が渇いたわ。汗をかいて衣服がピットリくっついているのが、気
持ち悪い。
呼べば、部屋で待機していたターニャはすぐに私の枕元まで来てく
れた。その表情は、少し怒っているようだったし、泣きそうでもあ
った。
﹁⋮⋮お水を、ちょうだい。それから、水に浸して絞ったタオルも。
身体を拭きたいわ﹂
﹁畏まりました﹂
177
予め準備してあったのだろう。すぐに私は水が入ったグラスを持た
され、それを飲み込む。⋮うん、渇いた喉に染み渡るわ。
それから、ターニャがテキパキと濡れタオルで身体を拭いてくれた。
⋮⋮明日、仕事がどれだけ溜まっているのか⋮考えるだけで恐ろし
い。今日の午前中にディーンは実家に帰っちゃってるし。ああ、昨
日休みなんて取らなければ良かった⋮なんて思うけれども、後の祭
り。兎も角今日は、ゆっくり休もうということで、再び眠りについ
た。
翌朝、少し重い身体を引きずって書斎に行った。ああ、どれだけ書
類が溜まっているのかしら⋮と思って、扉を開いたら机の上にはい
つもと同じ量⋮否、いつもより少ない量のものが置いてあった。
﹁あら⋮⋮?﹂
そのタイミングでノック音がしたかと思えば、入って来たのはディ
ーン。
﹁ディーン!どうしたの?貴方、昨日の午前中までじゃなかったか
しら?﹂
﹁お嬢様こそ、お身体はもう大丈夫なんですか?﹂
﹁ええ。昨日1日休ませて貰いましたから。それより、この量⋮﹂
﹁私の権限で廻せるものは廻しておきました。此方にあるのは、お
嬢様の最終の承認が必要なものと報告のみです﹂
178
﹁そう⋮⋮ありがとう。でも、ディーン。貴方良かったの?日にち
が過ぎてしまったけれども﹂
﹁お嬢様のお具合が悪くなったのに、放っては行けませんよ。明日
には出させて貰いますが﹂
﹁⋮⋮迷惑を掛けて、ごめんなさい﹂
﹁良いんですよ。私が勝手にしたことですから。では、此方に目を
通して置いてください﹂
ディーンはそれから書類を置いて行くと、部屋を出て行った。彼が
出てから、ざっと机に置かれた報告書に目を通す。⋮特に、問題な
い。問題がないからこそ、困る。
﹁⋮⋮はぁぁ⋮⋮﹂
思わず、重い溜息を吐いてしまった。⋮⋮このままじゃ、ダメ。こ
のままじゃ、私は彼に依存してしまう。仕事の面でも、それ以外で
も。⋮⋮今だって、そう。彼がいることで、安心してしまっている。
頼ってしまっている。⋮⋮側に、いて欲しいと願ってしまっている。
でも、ダメ。⋮もう、嫌なの。エド様の時に、思い知ったじゃない。
いつか人は裏切るって。だからこそ、私は自分の足で立たなければ
ならないと思おうと。
いつだって、そうだった。助けては貰う。頼ることもする。この人
なら任せられると、信頼もする。けれどもその反面、ここまでなら
任せられるだとか⋮ここまでなら信頼できるだとか、線引きしてい
る。それこそ、いつ裏切られても良いという心算でいた。
⋮なのに、彼はそれを壊そうとする。勝手に心の奥底の線引きを越
179
えようとしてきて、全てを任せたくなってしまう。だから⋮⋮怖い。
私はその考えを否定するように、首を大きく横に振った。⋮もう、
この事は考えないようにしよう。考えないで、蓋をして⋮そしたら、
何時の間にか消えている筈だ。
180
閑話:第二王子と愉快でない仲間たち
僕の名前は、ベルン。ベルン・ターシ・アルメニア。アルメニア公
爵家の嫡男にして、宰相であるルイ・ド・アルメニアの息子です。
﹁おはようございます、エドワード様。ユーリ様﹂
﹁ああ﹂
﹁おはようございます、ベルン﹂
前を歩いていた2人に声を掛けた。エド様は、第二王妃であるエル
リア様の髪の色である鮮やかな紅色の髪の毛と漆黒の瞳が特徴的。
少し目が釣りあがっているため、キツイ印象を与えがちだが、ユー
リ様と共にいる時はその目尻が下がってお優しい表情になる。僕の
姉であるアイリスがエド様の婚約者だった時は、このような表情を
1度も見たことがない。本当に彼女のことが愛しくて愛しくて仕方
がないんだろうなと、そう思う。
その横にいるユーリ様は、茶色のフワフワとした髪の毛を編み込ん
でいる。滅多に見ない髪型なので、とても印象的だ。大きな緑色の
瞳は美しく、コロコロと変わる表情はとても愛らしい。まるで、陽
だまりのような人だと僕は思う。
﹁おい、ベルン。また遅くまで勉強していたようじゃないか﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
181
﹁まあ、ベルンはまた無理をしているのですかー?﹂
﹁いえ、無理はしていません。少し勉強したいことがあるので、大
丈夫ですよ﹂
心配げなユーリ様の表情に、僕の胸はホッと温かくなった気がした。
僕が⋮恐れ多いことにだが⋮ユーリ様のことをお慕いするキッカケ
となったのは、やはり勉強だった。
“ベルン様、凄いですー”初めて声を掛けられたのは確かそんな言
葉だった。その時は、彼女に興味なんて全くなかったから、確か冷
たくあしらった気がする。というか、何がスゴイのかが分からなか
った。僕が1位を取ることは“当たり前”のことだったし、周りも
そんな風に捉えていた。けれども、彼女は座学で1位を取り続ける
のが如何に凄いことなのか、そして自分に勉強を教えて欲しいと懸
命な様子で何度も伝えてきた。
何となくそれが心地良くて、気がつけば何時の間にか彼女に勉強を
教えるようになっていた。教えていて、懸命なその姿と少しずつ僕
の教えで成長する彼女を見て、何だか心が温まる心地がした。
“ベルン様、見て下さいー。ベルン様のおかげで、こんなに成績が
上がりましたよー”元々中の中だった彼女の成績が、上位になった
時は嬉しそうに僕にその成績表を見せてきた。それを見て、僕も自
分のことのように嬉しく感じた。⋮何時の間にか彼女のその高い声
に心地良さを感じて、側にいると癒された。
⋮何度かアプローチしたけれども、今までそんなことした事がなく
て。結局上手くいかず、エド様と彼女は結ばれてしまったけれども。
それでも、彼女が幸せならばそれで良いと⋮⋮彼女の側で見守り続
けたい⋮そう、思ってた。
182
それは兎も角、何時の間にか僕は、自分は凄いのだ⋮そう思い込ん
でいた。1位の座を譲ったこともなければ、大抵一度聞いたことは
覚えることができる。だから、だった。
けれどもその考えは、この間見事に粉々に壊された。壊したのは、
我が姉のアイリス。
彼女は、学園ではそんなに出来の良い生徒ではなかった筈だった。
けれどもこの前領地に戻ってみれば⋮姉は今をときめく商会の会頭
として舵取りをし、領主代行として領地を治めていて。
そのため山のように積まれた書類と格闘しているかと思えば、僕の
分からない単語を交わしつつ会話をし、相談を受け、そしてまた書
類と格闘して。僕のことを諭したと思えば、再び仕事をして⋮目ま
ぐるしいほどに仕事に打ち込んでいた。
その様を見て、衝撃を受けたと同時に⋮ショックだった。自分は凄
いのだと驕っていたけれども⋮それは一体、何を以ってしてなのか。
知識もなければ、経験もない。
彼女に比べれば⋮僕はただの頭の廻るガキ。否⋮彼女だけではなく、
本当はもっといるのかもしれない。僕が見ようとしなかっただけで。
だから最近、僕は父のもとに通い教えを乞うようになった。このま
まじゃいけない、そう思って。何より、悔しくて。
父のもとに行くと確り扱かれて、そしてその上どっさり課題を渡さ
る。それをこなすために、結果夜遅くまで起きているのだ。
ふと前を見れば、校舎の入り口にドルッセンがいた。相変わらず筋
肉質な身体と短髪はよく目立つ。
﹁⋮⋮おはようございます﹂
﹁おお、ドルッセン。おはよう﹂
﹁おはようございます、ドルッセン。何だか疲れているようだけれ
183
ども⋮⋮大丈夫?﹂
﹁はい。少し昨日訓練で揉まれただけですので。自分は、平気です﹂
いつも寡黙で無表情な彼だけれども、そう言われてみれば確かに今
日は僅かに疲れているような表情だ。本当に言われてみれば、なの
でいつもと差異はないが。
﹁そう⋮⋮あまり無理しないようにね﹂
﹁ありがとうございます﹂
確かドルッセンは、最近妙に騎士団の訓練で扱かれている。キッカ
ケは、ドルッセンの父・ドルーナ様が“性根を鍛え直す”とか言っ
て強制的に参加させたことだったと思う。⋮⋮お母様がドルッセン
の家⋮カタベリア家の茶会どころか催し物を悉く欠席した上、公式
行事ではそれはそれは冷たくあしらったから⋮というのがドルーナ
様がドルッセンを引っ張り出した理由。つまり簡単に言えば、お母
様の報復のせい。
⋮このキッカケも裏話も、お父様のところに向かうようになって始
めて知ったことだったのだが。その時はお姉様の“影響を考えなさ
い”という言葉を、妙に思い出したものだった。
教室につくと、皆が此方を向いて挨拶をする。⋮まあ、第二王子と
その婚約者がいるのだ⋮身分を考えて挨拶するのは当然か。
僕たちが席に着いて、そろそろ始業のチャイムが鳴るかといった時
に、再び扉が開いた。
﹁⋮⋮おはよー﹂
184
﹁おお、おはよう。ヴァン﹂
遅刻ギリギリで教室に入ってきたのは、ヴァン・ルターシャ。ダリ
ル教教皇の子息だ。ダリル教は国教のため、代々その教皇を務める
家系ともなると扱いは貴族。そのため、子息であるヴァンも、この
貴族のみの学園に在籍している。
﹁ヴァン、相変わらず遅いですよー。遅刻ギリギリじゃないですか
ー﹂
﹁僕としては随分早くなった方だと思うけどね。それより、ユーリ
様の髪美しくなりましたね﹂
﹁ありがとうございますー。なんて、ヴァンに褒められても、あま
り褒められた気はしませんけど﹂
ヴァンの髪は、金髪の長髪。その髪は、女でも中々ないようなサラ
サラで艶やかな長髪だ。細長い瞳が特徴の中性的な顔立ちだ。
﹁そんなことないよ。本当に、綺麗だ﹂
﹁あ、ありがとうございますー。きっと、アズータ商会の美容品の
おかげですね﹂
﹁ああ、あそこの﹂
﹁はいー。そういえば、やっと会員になれたのですよー﹂
﹁高々一商会が俺の婚約者を待たせるなんてな⋮﹂
185
忌々しげに、エド様は舌打ちをされつつ仰られた。
﹁エド様、そんなことを言ってはいけませんよー。皆さん待ってい
るのですから、平等に私も待たないと﹂
﹁ユーリは優しいな﹂
けれどもユーリ様に諭されて、コロリと表情を変える。
⋮というか、ユーリ様会員になれたんだ⋮と内心驚く。あんな事が
あったのだ。お2人が会員になれなくても全く驚かない⋮というか、
その方が納得できる。けれども“あの”お姉様のことだから、王族
と揉めるのは商会の運営上宜しくないと感情を押し殺して了承した
のだろうな⋮。きっと、お姉様を慕っている使用人達にとっては、
煮え湯を飲まされるような想いだったろう。
﹁あそこの商会、本当に人気がスゴいよねー。僕もまだ待っている
状態﹂
﹁そうですねー。きっと、その会頭さんが凄い方なんでしょうね。
私、尊敬します。一度お会いしてみたいですー﹂
﹁ユーリがそう言うのであれば、今度王城に登城させようか。きっ
と、向こうも栄誉なことだと喜ぶに違いないぞ﹂
﹁それは良い考えですねー﹂
⋮⋮絶対、来ないと思う。そもそも、我がアルメニア領の者は、現
在第二王子に対してかなり怒りが溜まっていた。僕が行った時、お
186
母様だけでなく⋮お姉様から離れた途端使用人達からは総無視を喰
らい、最早針の筵状態だったから。きっとお姉様ではない他の人⋮
例えばセイやセバス辺りが会頭でも行かなかったと思う。
﹁⋮登城と言えば、この前お話しした件どうでしたかー?﹂
﹁ああ、あの教会での炊き出しな。勿論、承認は得ているぞ。なあ、
ヴァン﹂
﹁はい。ダリル教も喜んでお手伝い致しますよ﹂
﹁それは良かったですー。皆さん喜んでくれると良いですね﹂
﹁ああ。勿論、ユーリがやるなら皆が喜んでくれるさ﹂
⋮⋮ユーリ様は、お優しい方だ。こうして民の為に炊き出しを行お
うとエド様に進言され、エド様も精力的に動いていらっしゃる。
けれども。⋮度重なるその行為に、予算の方が圧迫されているのは
ご存知だろうか。
それは、当たり前のことだった。王族の方の暮らしはそれまでと
同じ⋮というか、支出が増えている。というのも、エルリア様はご
自身の為に、エド様はユーリ様へのプレゼントだとかなり散財され
ているとのこと。なのに、税収は変わらない。
“民への施しをするのであれば、自分の生活を見つめ直して貰いた
いものだ⋮あの婚約者殿も、エド様のプレゼントを喜ぶのであれば
それを売り払うなりして勝手に施しを行えば良い。その上彼女はプ
レゼントを強請るのだから質が悪い”とお父様はいたく憤慨されて
いた。
187
施しも、1度や2度であれば問題がなかろうが、度重なるその行為
に国庫の方が圧迫されつつある。
お父様を始めとした臣下は反対しているのに、エルリア様とエド様
が強行させる為、備蓄や人件費が徐々に削られるほど。
しかも、炊き出しが行われるのは王都。⋮本当に助けが必要な人
々には行き渡らない、ただの人気取りだとお父様はボヤいていらっ
しゃった。
人件費が削られるということは、民達の生活する為の収入が減る。
結果、それまで中間層にいた筈の民達までもが困窮する。
今までユーリ様は何てお優しいのだ⋮と思っていたけれども、僕は
何も見えていなかったのかもしれない。
﹁⋮⋮現在施しを複数回行うのは、国庫への負担になります。今回
は、見送られた方が良いかと思いますが?﹂
﹁どーしてベルンはそんな事言うの?民達の生活を助けることが、
最優先じゃないの?皆が喜んでくれるんだもの、良い事に決まって
るのに⋮﹂
﹁良い事ですが、度が過ぎれば良くありません。ユーリ様、あまり
エド様には無茶を言わないよう⋮﹂
﹁エド様は、この国の王子様よ。王子様は何だってできるでしょう
?国の予算が足りないなら、税金で取れば良いじゃないー。あ、そ
れか軍を無くせば?うん、それは良い考えねー。この国は平和なん
だもん、軍なんていらないわよー。ね、エド様?﹂
ユーリ様は妙案だと言わんばかりに、笑みを浮かべられた。僕はそ
188
の言葉に、驚きを隠せない。
まるで、小さな子供のようだと思った。子供のように無邪気で⋮⋮
残酷。少し考えれば、国防の面から言っても治安の面から言っても
それはできないことだし、何よりそれで職を失った人達にどうしろ
と言うのか。⋮炊き出しに並ぶ未来に一直線だ。
﹁ああ、ユーリは賢いな。⋮⋮ベルン。お前は頭が固いな。どっか
の臣下みたいだぞ﹂
﹁⋮⋮差し出がましい口、失礼致しました﹂
エド様に睨まれ、口を噤む。⋮⋮ああ、またお父様は怒りを爆発さ
せるだろうな。否、もうされているか。僕も止められなかったとい
うことで、怒られるのであろう。
189
お祖父様への感謝
﹁⋮⋮もう、あの子も卒業なのね⋮﹂
﹁⋮⋮アイリス様、どうかなされましたか?﹂
ふと漏らした言葉に、ターニャが反応する。
﹁うーん⋮ベルンももう卒業なのか、と思って﹂
私があの学園を離れて2年が過ぎた。あのメンバーももう学園を卒
業かと思うと、感慨深いものがある。
ここでゲームの説明をすると、入学してから1年で主人公は攻略対
象者の誰かを攻略するとハッピーエンド。エド様ルートだと私を糾
弾して学園から追い出し、その後末長く幸せに暮らしましたとさ⋮
みたいな感じだった。勿論、誰も攻略しなければノーマルエンドで、
今現実に起こっているようなハーレムエンドはゲームに用意されて
いなかった⋮筈。とは言え、私は攻略本とかサイトを見ずに自力派
というスタンスだった上に、第二王子のみしか攻略していないので、
そこのところはどうなのかは分からないが。まあ⋮知っていたとこ
ろで記憶を取り戻したのはゲームで言うエンディングの時だったか
ら何の役にも立たなかった訳だけれども。
因みに今更だが、私とベルンは年子。私が早生まれで、ベルンが遅
生まれなので私と同学年⋮つまり、エド様たちもベルンと同じタイ
ミングで卒業という訳だ。
﹁⋮⋮お嬢様、学園がお懐かしいですか?﹂
190
﹁懐かしいと言えば懐かしいけれども⋮まあ、それだけね。追い出
されてからの日々が濃くて、あんまり思い出す事もなかったし﹂
﹁左様でございますか⋮﹂
﹁彼らが卒業することは、吉と出るか凶と出るか⋮⋮。ベルンを彼
らから引き離すことができるという点では、まあウチにとっては良
いわよね﹂
﹁別にあの者のことを、お嬢様が心配する必要はありません﹂
ターニャ、ベルンは一応ウチの跡取りなのだけれども⋮⋮。見事に
言い捨てたわね。
﹁だって、国が存続するのならば領にとって中央とのパイプは欲し
いもの。お父様が宰相を退くのは、何もなければまだ先でしょうけ
れども⋮将来の事を考えると、ベルンには宰相を継ぐ準備だけはし
て欲しいわね﹂
﹁⋮⋮お嬢様のお言葉ですと、この国が滅ぶようですけれども?﹂
﹁先の事は分からないもの。第二王子が卒業したら本格的に争いは
始まりそうだから、余計ねえ⋮﹂
ゲームのハッピーエンドのように、彼らは末長く幸せに暮らしまし
た⋮で終わるだろうか。何せ、本当に第一王子と第二王子が争いを
始めて激化してしまえば、国はかなり疲弊するだろうし。
﹁そういえば、旦那様から手紙が来ていましたね。如何でしたか?﹂
191
﹁うん?⋮何だか、感謝されたわ。ベルンがお父様のところに行く
ようになったんですって。私は特に何にもしたつもりはないから、
感謝するならその機会を与えたお母様にと返信したけれどもね﹂
正直なところ、ベルンのことは本当にどうでも良い。有り体言えば、
使えそうなら使いたい駒⋮ぐらいの想いだ。
﹁けれどもお嬢様、差し出がましいようですが⋮それにしては、あ
の手紙を読んだ時に随分と沈んでいらっしゃったようですが⋮﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮ちょっとエド様とかの話も書いてあったから﹂
本当に、ビックリしたわよ。何がビックリしたかって、まずはベル
ンがエド様たちがどんな話をされているのか学園での話をお父様に
するようになった事よ。でも、それ以上に驚いたのが、その内容。
何でも、国庫の負担になるとベルンが⋮あのベルンが!と思ったけ
れども⋮言ったら、まさかの軍を無くせば?という発言。
お祖父様もお父様から聞いたらしく、ブチ切れてたわよ。﹁軍は無
駄な予算など貰ってない。減らすなら、騎士団を減らせば良かろう
に﹂とのこと。まあ、確かに国内はまだ今のところ安定しているし、
お祖父様が戦功を立てた隣国トワイルとの戦い以降、他国との戦も
ないけれども⋮トワイル国とは正式な停戦ではなく、あくまで休戦
だから安心できないし。その話の流れで少し軍が心配とのことで、
お祖父様も王都に戻った。
﹁⋮⋮本当に、忌々しい﹂
ポツリ漏らしたターニャの言葉に、我に返る。無表情でそんなこと
言うから、本気で怖かった。
192
﹁ターニャ、別にエド様のことを思い出してだとかエド様のことを
想って沈んだ訳じゃないのよ。ただちょっと、書いてあった内容に
驚いただけ﹂
﹁ですが、お嬢様に心労を与えるなど言語道断です﹂
﹁心配してくれて、ありがとうターニャ﹂
気持ちはありがたいので、素直にお礼を言っておく。
﹁⋮⋮さて、仕事に戻りますか﹂
お茶タイムを終わりにし、書斎に戻る。お祖父様が帰られて、何だ
かこの屋敷が広くなった気がした。⋮お祖父様って、存在感あるし
ね。
﹁あら⋮ライル、ディダ。どうしたの?﹂
廊下を歩いて、バッタリ書斎の前で遭遇。
﹁私は、ご報告に﹂
﹁俺は手持ち無沙汰だったんだ﹂
﹁⋮⋮だからお前は⋮お嬢様に何て口の聞き方だっ﹂
飄々と答えるディダに、ライルの睨みがいく。にしても、このやり
取り何度目かしらね。そんな事を思いつつ、椅子に座った。
193
﹁良いのよ、ライル。それで、警備隊の方はどう?﹂
﹁中々良いですよ。ガゼル様がいらっしゃる間、毎日訓練を見てい
ただいてましたから﹂
うーん、辛口なライルがそう言うんだから、結構な出来なのかな。
﹁そうそ。俺らと剣を合わせても、まあ保つようになったし﹂
﹁まあ⋮それは素晴らしいですね﹂
珍しく、ターニャが手放しで褒める。うん、ライルとディダと剣を
合わせることができるようになったなんて、相当腕が上がったわね。
前にチラリと訓練をお忍びで見た時は、ライルとディダ、訓練相手
に剣を抜きすらしてなかったし。
⋮というかライルとディダ、どれだけ強いのよ。お祖父様が帰られ
る少し前に、“あの2人に負けたわ!儂も年か”とか言ってたこと
があったもの。⋮お祖父様、今まで負け知らずだったから少し悔し
かったみたい。でも、それ以上に楽しいと子供のように目を煌めか
せながら、帰るまでそれこそ毎日ライルとディダと模擬戦をしに行
ってたのが印象的だったわ。
﹁お嬢様⋮2人と剣を合わせることができるということは、少なく
とも騎士団や軍の中でも実力者と呼ばれるレベルです﹂
﹁それは、確かに素晴らしいわね。引き続き頑張ってちょうだい﹂
⋮⋮お祖父様、ありがとうございます。と、内心お祖父様に感謝し
た。お祖父様がウチの警備隊をどうしたいのか少し疑問だが。⋮ま
194
あ、今後国に何かあった時も含めて我が領を守る為にも彼らに力を
付けてもらうことは重要な事だしね。
195
閑話:それぞれの思惑
﹁そういえば、アルフレッド。何だか最近ルディとよく出かけてい
るみたいね﹂
孫のアルフレッドに声をかける。私の名前は、アイーリャ・フォン・
タスメリア。この国⋮タスメリア王国王太后の地位にいる。目の前
にいるのはアルフレッド。私の孫にして、第一王子。その脇にいる
のは、ルディ。アルフレッドの幼馴染にして補佐役の者。
﹁ええ、お祖母様。私も何かと忙しいので﹂
微笑みながら答えているけれども⋮我が孫ながら、この子は本当に
表情から感情が読み取れない。張り付いたような笑顔は、けれども
自然過ぎる。長く社交界という権謀術数が蔓延る世界に生きていた
私でも、共に住んでいなければ分からなかったでしょう。
﹁私だって、知っているわよ。エルリアとエドが色々やらかしてい
るのを、宰相と共にフォローしているのでしょう?﹂
残念なことに、我が国は現在も30年前のトワイル戦役の負債が残
っている。とはいえ、返済は徐々に行っているので、下手な事をし
なければ特に問題ない筈だった。なのにエルリアとエドは見事にや
ってのけてくれている。民への頻繁なる炊き出しや、いつ着るんだ
か分からないエルリアの公式行事用のドレス、エドの新しい婚約者
の子のドレスも婚約者だからと言って買っていたらしいし⋮あと、
その新しい婚約者の子⋮確かユーリとかいう令嬢だったかしら⋮が
エドとリゾートに旅行に出かけた時の“ここは素晴らしいところだ
わ。もっと皆が楽しめるようになるといいわね”という言葉を誇大
196
解釈したエドがそのリゾート丸々開発しようとした⋮なんてことも
あったらしいわ。最後のは宰相が見事に反対し切ったみたいだけど
⋮随分聞き分けのないことを言うもんだから、結局ユーリの衣服作
成の反対をし切れなかったみたいね。
⋮本来ユーリの衣装を、王家の予算で作ること自体おかしいのだけ
れども。エルリアと彼女に甘やかされたエドワードの増長も困った
ものだわ。
国の予算は、王家のものと国家運営のためのものに分けられる。
王家のものは、王家の生活やプライベートの為の資金。
国家運営のためのものは、その名の如く国家を運営するにあたって
使用される資金。例えば私の場合、普段に着る服は王家の予算から
出されるが、公式行事に出る時の衣装はそれ自体が国家の運営上に
必要な資金として国家予算から出される。身の回りの世話をする侍
女への給金は私個人の資金⋮つまり王家の予算から支払われる。け
れども、王太后としての私の身の回りの世話をする女官は国家運営
の予算から出される。
こうして言うと、あまり侍女と女官の違いが分からないかもしれな
いけれども⋮例えば、手紙を“私”の名前で出す時は、侍女で良い
のだけれども、王太后として出す時には女官の確認や手助けが必要。
何故なら、華押の位置まで細かな規定があり、その時々にあった内
容なのか過去の事例も確認しつつ手紙を出さなければならないから。
衣装で言うと、私を着飾らせるのが侍女の仕事に対し、女官は私の
その格好がその行事に合った服装なのかを確認する。
と話はそれてしまったけれども、王家の予算と国家運営は時と場合
によってどちらにかかってくるかという決まりがある。
ただ、いずれにせよ⋮まだユーリはただの婚約者。王家の予算も国
家運営の予算も何れも通常であれば使わせる訳ないというのに。
﹁ええ、金銭面でも色々やらかしてくれていますが、城内でも色々
197
やらかしてくれてますからね。主に王妃の実家である侯爵家とその
一派が。おかげで、良い人材がいつまで経っても日陰に追いやられ
ています。その結果が、今のこれですね﹂
﹁頼りの王は、元々シャリアがいなくなってから無気力だったけれ
ども⋮ここに来て、病床の上。情報統制をしているから、未だ外部
にはバレていないけれども⋮やがてそう遠くないうちに露見するで
しょうね﹂
﹁ええ。だからこそ、侯爵家側も勢い付いているのでしょうけれど
も﹂
﹁⋮⋮アルフレッド﹂
穏やかに微笑むアルフレッドを見て、忠告の意味も込めて咎めるよ
うに名前を呼んだ。
﹁⋮⋮ええ、分かっています。僕はまだ、死ぬつもりはありません
ので。もう暫く、表舞台に立つことはできませんね﹂
﹁分かっているのなら良いです﹂
﹁全てを終わらせる準備が整うその時までは、今のままひっそりと
しておきますよ﹂
﹁役に立つ人材を自分のもとへ引き入れ、膿を切り捨てる準備が整
うまでということですね﹂
﹁⋮お祖母様には、隠し事ができませんね﹂
198
肯定はしてくれなかったけれども、その答えに満足だわ。アルフレ
ッドなら、やってくれると信用できるもの。
﹁あら、ならば⋮最近ルディと共に出かけているらしいじゃないの。
レティシアが寂しがっていたわ。その話はしてくれないのかしら﹂
レティシアは、アルフレッドの同母妹。エドよりも年下ながら聡明
な彼女に、私はアルフレッドと同じように目をかけている。
﹁⋮⋮それは、いずれ話させていただきますよ﹂
アルフレッドはまた、感情の読めない笑みを浮かべた。⋮⋮これ以
上、本当に話すつもりはないということね。
それから、幾つかの話をしてから、アルフレッドはルディと共に部
屋を退出して行った。
﹁ふふ⋮⋮﹂
部屋に1人残された私は、先ほどまでのアルフレッドとの話を逡巡
する。そうしたら、つい嬉しくなって笑みがこぼれた。
アルフレッドはああ言ってたけれども⋮大体彼等の行き先は把握し
ている。彼方此方行っているけれども⋮数度、アルメニア公爵領に
赴いているということを。
私の思惑を、実現させることができるかもしれない⋮否、それがで
きると思ったらついつい嬉しくなってしまった。
199
私の思惑は、公爵家令嬢と王家の者を結婚させるということ。⋮と
いうのも、私、本当にメリーのことが大好きなの。あの人形みたい
な可愛らしい顔立ちをした女の子を見た時から、是非とも娘にした
いと思ってたわ。でも、当時既にメルリスは公爵家の嫡男⋮ルイと
婚約していたし、メリーは小さな頃からとてもとてもルイの事が大
好きだったから、泣く泣く諦めたの。無理強いをして、メルリスに
嫌われたら本末転倒だからね。
けれども、それで完全に諦めた訳じゃなかった。メリーが女の子を
産んだら何が何でもウチの孫の婚約者にさせようと思ったの。
それで、私にとっての待望の女の子が生まれたとルイから聞いて、
嬉しすぎて名前をアイリスと名付けさせたわ。私⋮アイーリャの“
アイ”とメルリスの“リス”を取って。まだ顔も見てないのに時期
尚早だったかしら⋮と思ったけれども、メリーが連れて来た幼いア
イリスを見て、私はまた惚れ込んだわ。メリーソックリな顔立ち。
瞳の色はルイに似て深い蒼色だったけれども、それはそれで趣があ
って良い。
絶対に私の孫にする⋮⋮できれば、エルリアの息子であるエドより
も、アルフレッドの方が政治的に言っても良いわ⋮と思ってんだけ
ど、シャリアが亡くなって、アルフレッドとルティシアに色々とあ
ってバタバタしてた間に、エドワードと婚約してしまった。
一度王家に嫁がせない?とそれとなく打診はしていたのだけれども、
私は何方ととは言っていなかったし、言わなくてもエルリアを嫌っ
てるメリーならエドとは婚約させないかと思ってたのだけれども⋮
⋮まさか、肝心のアイリスがエドに惚れるとは。
娘大好きな2人は、アイリスが言うのなら⋮と了承してしまったし。
⋮まあ、最終的に私の孫になるのだから良いかしらと私も渋々納得
していたところで、まさかの婚約破棄。
それを聞いた時には、またもや思惑を外されたと思ったのだけれど
も⋮⋮よくよく考えたら、これは私にとってのチャンスなのよね。
200
今度こそ、アルフレッドとアイリスを必ず結婚させて⋮あの可愛ら
しい子を孫にしてみせる。2度あることは3度あると言うけれども
⋮絶対、そんなことさせない。何が何でも結婚させて、あの子を孫
にするの。
⋮そのために、私も動かなくてはなのだけれども⋮⋮さて、まずは
“社交界から追放された”アイリスを社交界に戻さないと。
いざ私の思惑通りになったとして、彼女が社交界から出たままでは、
彼女の為にならないもの。
アイリスは、学園を追放させられた時から一切社交界には顔を出し
ていない。⋮出たところで、婚約破棄をされた者など笑われ者とさ
れる。
けれども今の彼女は領地で見事な経営をしているし、人気商会の会
頭⋮⋮寧ろ、そんな彼女を手放したというエドの方の失態が浮き彫
りになるでしょう。
後は、社交界に顔を出させるキッカケを作り出すだけ。
さて、私も動き出しましょうか。
201
発見
﹁⋮⋮めでたし、めでたし。今日のお話はこれでお終いよ﹂
開いていた本を閉じ、皆に宣言すると子供たちは不満げな表情を浮
かべた。
﹁えーもっともっと!﹂
﹁次、この絵本を読んで﹂
ああ、癒される。きっと今の私の表情、見るに耐えないような崩れ
た表情をしているのでしょうね。
言われるがままに、読んであげたいという衝動をぐっと堪えた。
﹁ごめんなさい。私、今日はもう帰らなきゃ行けないの。また今度、
必ず来るから許してね﹂
﹁えー⋮⋮﹂
﹁いつ来てくれる?﹂
寂しげな子供の声色に、できればずっといたいわなんて言える筈も
なく⋮⋮。
﹁いつかは分からないけれども、必ず来るわ。ね?約束するから﹂
﹁分かったよー﹂
202
﹁⋮⋮また、今度来たら、絵本読んでね﹂
﹁ええ、勿論﹂
子供達に別れを告げ、ミナ先生に挨拶をしてから院を抜けた。
⋮⋮はあ、帰りたくない。
将来引退したら孤児院で働こうかしら⋮⋮と、最近本気で考えてい
る。
結婚は⋮王家に婚約破棄をされた私には望めたものではないし、あ
んな事があって結婚への夢は私の中でも崩れているもの。
いずれ私も商会や領政から退く時がくる。その時がきたら、こうし
て子供達に囲まれながらひっそりと暮らしたい⋮というのが、私の
想い。
本当に、癒されるのだ。⋮本格的に子育てしたことがないから、き
っと大変なことは色々とあるでしょうけれども⋮けれども今のよう
に、心が冷えることを感じる時があるという事はない筈。
利害関係、駆け引き⋮⋮商会は勿論、特に領政はそういったものが
常に付き纏う。国や他領とのやり取りは1番神経使うし。私は聖人
君子ではないし、他のことに目を向けて大切なモノを守れないなん
てことはしたくないから、時には何かを切り捨てなければならなく
なったら心を鬼にして切り捨てるでしょうし、利用できるものはな
んでも利用しなければならないと思っている。
私は、私の領地とそこに住む全ての民、そして私の大切な父母と祖
父母、そして私と共に働いてくれている仲間を守らなければならな
いのだから。
203
けれども、私だって疲れるものは疲れる。体というより、心が。な
んかの本で書いてあったっけ⋮王者とは、常に孤独だと。
私は王様ではないけれども、私の最終決定で何人もの人の未来が変
わるのであれば⋮どのような形であれ、その責は私のもの。
そんなこと考えてたら、やっぱり重いわよね。
自分で引き受けると決めたのだし、やることやりきる⋮とは言え、
私もやがては老いるのだから、ずっと続けることが不可能な以上、
いずれ適当な人が私の後を引き継ぐでしょう。
その時が来たら、こうして子供達に囲まれて穏やかに暮らして⋮っ
てあら、気が早いかしら。
まあ、そんな穏やかな将来を手に入れる為にも今は働かなくちゃよ
ね。
お祖父様がアルメニア公爵領から去られて、半年経った。ベルンや
第二王子は無事学園を卒業し、ベルンは現在お父様に付いて執務の
勉強中。他の取り巻きたちも、それぞれの親元で修業中。エド様も、
城内にて執務の勉強中とのこと。まだユーリ様とは正式な結婚はさ
れていない。いつするのか、まだ発表も出ていないけれども、近い
うちにされるのでしょうね。
さて、家に帰るとすぐさま書斎に戻る。まずはざっと商会の内容に
目を通し、次に領政へ。
﹁お嬢様、お帰りなさいませ﹂
そのタイミングで、入って来たのはディーン。1回ぶっ倒れて以来、
仕事に余裕があっても私とディーン2人共同時に外出することは止
めた。休日はそれぞれ別の日にして、どっちかがいれば、何かあっ
204
ても対応できるようにね。
﹁ただいま、ディーン。早速だけど、報告お願いね﹂
﹁はい。⋮やはり、関税の緩和を行ったことで輸出入が増えていま
すね。それぞれ商会も利益が上がっているようですし﹂
あれから、関税の緩和と人頭税から所得税への切り替えを施行した。
導入期は多少混乱を見せたものの、少しずつ収まってきているとこ
ろ。
さて、アルメニア公爵領についてのおさらいをもう一度ここでする
と、アルメニア公爵領は、王都の南東に位置する縦に細長い領。気
候は常春⋮一部南は亜熱帯。東は海に面しており、幾つかの港も有
している。
アルメニア公爵領って恵まれた位置にあると思うわ。気候は温暖だ
し、港町もあるし。他国と海を間に挟んで隣にあるというのは、戦
争が起こった時を考えるとリスクだけど、今のところ利益の方が大
きい。それに、これが王都北西だと、トワイル戦役で有名なトワイ
ル国と陸続きで隣だから、それと比べると格段に良いというもの。
話を戻すと、我が領には港町があり、そのため、かつてよりそこそ
こ貿易はあったようだ。領主代行の地位についた時、東の税収が多
いので視察行ったけれども、港町があるからというのが大きな理由
だった。
現在、関税の緩和により他国との貿易も更に増えている。前の関税
って物品を出す時と入れる時両方にかかっていたし、かつ、国や領
205
地を跨ぐ時だけではなく、同じ領内の街から街でもかかっていた。
それを今回輸出時の関税を撤廃、輸入時の税率引き下げを施行。今
後も商品品目によって税率はその時々の情勢に合わせて見直しをし
ていく。
それは兎も角、関税の緩和を行ったところ、輸出入の量が他領・他
国共に増えつつある。
商会も取り扱う商品が増え利益が増えつつあり、次回の商会の所得
税⋮個人とは別枠なので商会税という名前にしたのだけれども⋮も
楽しみなところ。
⋮一応、アズータ商会も国外で販売を開始して、少しずつ増やして
いる。
さて、流通量が増えて面白いものを発見した。それは絹。
もとの世界では、確かローマ時代にはヨーロッパに絹が入って来て、
そこから上流階級に親しまれていたようだけれども⋮何故か、この
世界・この国にはまだ絹は来ていなかった。主に麻や毛織り物、そ
れから綿。綿が先に流通しているなんて面白いなと思いつつ、なら
ば絹は元々ないものなのかしら⋮なんて思ってたら、貿易量を増や
したところ、つい最近になって発見しました。
いずれは蚕の養殖からして、アルメニア領を産地にしたいものだけ
ど⋮まあ絹が何から出来ているのかは知っていても、それがどう出
来ているのかは正直分からないので、長いスパンが必要になるでし
ょうね。と言うわけで、いずれ税収が落ち着いてから領の庇護下に
置いて試行錯誤してもらいましょう。
206
207
いざ、王都へ
﹁⋮⋮なんで、こんなものが私のところに来るのよ⋮⋮﹂
今の私の手元にあるのは、1つの招待状。⋮建国祭の日に王城で行
われるパーティへのそれだ。
公式行事だから、デビューをした貴族なら通常、誰もが出席する。
そう、通常ならば。
けれども私は追放された身の上だから、出席も何も学園を追い出さ
れてから1度も招待状は届いていなかった。それが当たり前のこと
だったし、寧ろ今更ながら届いたことの方が不思議だ。
﹁⋮⋮⋮ですが、お嬢様。此度のパーティは、王族からの招待。無
下に断ることなど出来ないでしょう﹂
そう言ったセバスも、何処か不審そうにその招待状を見ているよう
な気がする。
﹁そうね。⋮⋮腹を括りますか﹂
﹁領のことはご心配なく。丁度ディーンがいますし、何かございま
したらすぐに早馬を出しますから﹂
﹁ええ。セバス、宜しく頼むわね﹂
それから数日後、久しぶりに領から出て王都の別邸に向かう。約3
年ぶりの王都、久しぶり過ぎて最早感慨深い。
208
﹁お帰りなさいませ、お嬢様﹂
使用人総出で私の出迎えをしてくれた。その筆頭にいるのは、ここ
の侍女頭であるリーメ。
﹁久しぶりね、リーメ﹂
﹁はい。再びお嬢様にお会いできたこと、これに勝る喜びはござい
ません﹂
﹁大袈裟なんだから﹂
そうして使用人達が並ぶ間を歩き、奥へと目指す。
﹁⋮⋮久しぶりだな﹂
﹁お帰りなさい、アイリスちゃん﹂
奥には、両親と弟が立って待っていた。
﹁お久しぶりです。お父様、お母様、ベルン﹂
﹁息災のようで何より。ゆるりと、過ごすが良い﹂
普段は厳しいお父様が柔らかな表情を浮かべてくださった。それだ
けで、少し嬉しくなる。
﹁ええ、そうさせていただきますわ﹂
﹁何でも、また新商品があるんですって?セイに聞いたわ。楽しみ
209
にしているわよ﹂
﹁まだ商品化はできていません。ですが、今回は試作をパーティで
使おうと思いますので、楽しみにしていてください﹂
﹁まあぁぁ。後で私にコッソリと見せることは?ダメ?﹂
﹁明日の楽しみにしてください﹂
私がそう言うと、少し残念そうにしつつも納得してくださった。
﹁姉様⋮本当に、明日のパーティに出られるのですか?﹂
﹁仕方ないでしょう。王族からの招待なんだもの﹂
﹁⋮⋮ですが、エド様もユーリ様も出席されるのですよ﹂
ベルンの言葉に驚いて、ついつい変な間を開けてしまった。
﹁⋮⋮ビックリだわ﹂
﹁何がですか﹂
﹁貴方が私の心配をしてくれるなんて﹂
私の感想に、ベルンの表情は少し暗くなる。
﹁それは⋮僕が確かに貴方のことを考えるなんて今更と思うかも知
れませんが⋮⋮﹂
210
﹁いいえ。ありがとう﹂
それから、私は部屋でのんびりする。最後にここに居た時は、お父
様との交渉前でとても緊張していたし、会った後は会った後で色々
準備で忙しかったから、あんまりこの部屋の記憶ってないのよね。
だから、余計懐かしく感じる。
そんな風に寛いでいると、部屋にリーメが来た。
﹁⋮⋮お嬢様、旦那様がお呼びです﹂
﹁まあ、お父様が⋮。すぐ行きます﹂
部屋に行くと、お父様は書類に囲まれた椅子に座っていた。⋮⋮何
だか、自分の姿にかぶって見えるわ。
﹁⋮来たか﹂
﹁ええ。失礼致します﹂
﹁⋮⋮どうやら、領地では上手くやっているようだな﹂
﹁まあまあですわ﹂
﹁謙遜するな。⋮まあ、それは良い。それより、今回の事は本当に
済まなかった﹂
﹁今回の事とは、パーティのことですか?﹂
﹁ああ。私もメリーも探りを入れてみたのだが⋮王家及び公式行事
211
を管理する部内からは王族からの招待だからの一点張りだった﹂
﹁私なんかを出席させてどうするつもりなんでしょうね?何もメリ
ットはないかと思いますが﹂
﹁寧ろ、お前にとっては辛いことだ。一度社交界を追放された者に、
貴族は厳しい﹂
﹁まあ、それは覚悟を決めましたわ。逃げることができない以上、
どうしようもないことですもの﹂
﹁救いは当日、王が不在による混乱があるかもしれないということ
だな﹂
﹁建国記念パーティに、王が出席されない?何かあったのですか?﹂
だって、国をあげてのパーティですよ?王が出ないなんてこと、余
程のことがない限りあり得ない。
﹁⋮半年前より、王が倒れたのだ﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
あまりの重い事に、私は思わず溜息を吐いてしまった。このタイミ
ングで、まさかの王が不在。どう考えたって、国の混乱はこの先激
化する。
﹁倒れられた時点では、それほど重病と呼ぶほどではなかった。だ
が今現在では、徐々に悪化していることは傍目から見てすぐ分かる
ほどだ。恐らく、明日のパーティが引き金となって国中に伝わるだ
212
ろう﹂
まあ、そうでしょうね。王がいなかったら誰だって不審に思う筈だ
もの。そして、それはあっという間に広がるでしょう。
﹁ならば、一公爵令嬢なんかよりもずっと其方の方が話題になりま
すね。明日を凌げば、私の存在は皆にとって記憶の彼方に飛ぶでし
ょう。私は、さっさと領地に戻ってこれまでの生活に戻りますわ﹂
﹁ああ、そうだな⋮﹂
﹁お父様、これまで以上にパーティ以降は激務となるでしょうが、
お身体をご自愛ください﹂
﹁お前もな。聞いたぞ?一度倒れたらしいではないか﹂
﹁1日だけですわ。あれ以降、肩の力を抜くことも覚えましたもの﹂
﹁そうか。仕事は身体が資本。⋮お前も、あまり無理はしないよう
に﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
⋮翌日は見事な快晴だった為、いつもの日課のヨガを庭で行ってみ
た。ターニャは、麻のTシャツとスパッツというこの格好で行うこ
とには諦めたみたいだけど、流石にまさか外でやるとは思わなかっ
たのか、私を見つけ出した時は随分慌ててた。
⋮ごめんなさいね、ターニャ。でも、王都にしては温かくて見事な
213
快晴だったから思わずやっちゃったの。
ターニャと同じタイミングで私を見つけたお母様は、ヨガに興味を
お持ちになられたので、明日の朝教えることをお約束した。
今日はパーティがあるから、そろそろ支度を開始させないと。
シャワーを浴びて、支度を開始。ターニャに手伝って貰って服を着
るのと、彼女にメイクと髪の毛を結んで貰うのを行った。
因みに⋮今回の試作品とは、このドレス。これは、発見された絹で
仕立ててもらったものだ。流石、絹⋮素晴らしい光沢だわ。ターニ
ャもうっとりとこのドレスをさっき見てたし。
⋮さて、支度はバッチリ。気合いも十分。いざ、戦場に行きますか。
214
ある貴族の考察
⋮今日は建国記念日であり、王城では貴族が集まる王家主催の公式
パーティが開催される。私も伯爵家当主として、このパーティに招
待された。
次々と入ってくる面々は、公式行事故のドレスコードに従いつつも
美しく装っている。かく言う私も、この日の為に1着仕立てさせた。
一瞬、会場が騒めく。⋮どうやらエドワード様とユーリ様、そして
ダリル教教皇の子息であるヴァン様がいらっしゃったようだ。エド
ワード様は、深い緑色のスーツを見事に着こなしていらっしゃる。
その横⋮エドワード様と腕を組んでいらっしゃるユーリ様は、ピン
ク色のドレス。上半身には花が彼方此方に縫い付けられていて、彼
女の瑞々しいばかりの若さを見事に引き立てている。パニエで広が
るスカート部分は、切り込みが入っていて、その下からは薄い白色
のレースと薄いピンク地の布が当てられており、動くたびにそれが
チラリチラリと見えるような形になっていた。
ヴァン様は、ダリル教子息だけあってダリル教の礼服を着ていらっ
しゃる。
彼らが現れると、この場にいた者たちは次々と挨拶に向かう。王族
の者が現れたのだから、それは当然のこと。
⋮⋮ただ、中にはその様を少し離れたところから見ているだけの者
達もいる。現在のこの不安定な情勢では、それもまた有りかと。私
も積極的には挨拶に向かわず、とりあえず近くに来たら挨拶をする
という方を選択した。
にしても⋮エドワード様は主催者側ではなく、出席者側として来た
のか。てっきり、まだ王位を継いではいないが、エルリア様とその
ご実家の圧力で、前者になるとばかり思っていたのだが。まあ、当
人はユーリ様と仲睦げに会話をされていらっしゃっていて、特に気
215
にしていないのかもしれないな。
そんな事を考えていたら、エドワード様が現れた時と同じように騒
めく。入って来られたのは、宰相であるルイ・ド・アルメニア公爵
様とその奥方であるメルリス夫人。相変わらず、メルリス様はお美
しい。今日は瞳の色に合わせた薄い水色の流行りの型のドレス⋮濃
い青のローブを纏われていらっしゃる。本当に、社交界の華と呼ば
れるのも頷ける美しさだ。
何人もの人々が男女問わずお二人に挨拶をする。お二人とも慣れて
いらっしゃる為、卒なくそれを返されていらっしゃるようだった。
それからすぐ後に、先ほどまでよりも一層入り口付近が騒めく。私
も、目線を公爵と公爵夫人から其方の方へと向けた。
そこには、公爵子息のベルン・ターシ・アルメニア様と、彼がエス
コートする女性が1人。その彼女に、会場中の視線が集まっていた。
かく言う私も、彼女に見惚れた内の1人。
⋮⋮美しい。その一言が、頭の中を占めた。銀髪の髪の毛は艶やか
で、光を受けて輝いて見える。目鼻立ちが整った顔立ち、白磁の如
き白い肌。深い青色の瞳は、極上のサファイアのようだ。そして彼
女が身に纏うのは艶やかな光沢のある布でできたドレス⋮⋮あれは
一体、何の布だろうか。少なくとも私は、あのような生地は見たこ
とがない。そして薄いベージュのような白色のその生地でできたド
レスは、今この場の女性達とは似ても似つかぬタイプだ。まず、パ
フスリーブのついた砂時計の形ではなく、まるでS字のようなカー
ブラインのような形⋮⋮要するに、ボリュームのあるスカートでは
なく、細型のスッキリとしたラインのスカート。細身の彼女に、そ
の形はよく似合っていた。そしてその裾には青色と銀糸で精巧な刺
繍がなされている。そして、サッシュには彼女の深い青色の瞳によ
216
く映える同色のものが巻かれていた。
明かりに照らされて光り輝く、か細く儚げな彼女を見て⋮まるで、
月の女神のようだ。そんな感想を抱きつつ、目か離せない。
⋮一体、彼女は誰なのだろうか。あんな美しい女性、一度見れば忘
れられないだろうに。
彼女は会場中の視線を一身に浴びて、奥へ奥へと入って来る。そし
て、ピタリとアルメニア公爵夫妻の前で立ち止まられ、そのまま談
笑を始められた。
⋮アルメニア公爵家に所縁のある方、なのか⋮⋮?そういえば、メ
ルリス夫人に似ていらっしゃるような⋮⋮。まさか、アイリス・ラ
ーナ・アルメニア公爵令嬢様か?否、彼の方とは姿形が違い過ぎる
⋮⋮それにアイリス様はエドワード様に婚約破棄をされ、とてもじ
ゃないがパーティに出る事なんて出来ないはずだ。では、彼の方は
⋮⋮?
そんな疑問符を並べていたら、今度は別の扉が開かれた。入ってき
たのは、王太后様⋮王太后様?王ではなく、王太后様が何故⋮⋮?
けれどもその時ふと、主催者として登場された彼の方を拝見して、
私はかつてのことを思い出した。
彼の方は、かつて女王としてこの国に君臨されていらっしゃった。
というのも、兄上である皇太子を亡くされ唯一の王族の直系となら
れたからだ。とはいえ、女性が王位に就くのは前例がなかった為に
公爵家から婿を迎え入れ王とし、共同統治という形に収まったが。
その時代に、こうして幾度も彼の方は主催者として、また、女王と
して同じように登場されていらっしゃっていた。それ故、今のこの
光景には懐かしさを感じる。
その後彼の方の旦那である前王が亡くなられ、息子である現在の王
が成人されるとアッサリと王位を退かれる。
217
その後暫く王太后として王宮に留まっていらっしゃったが、伯爵家
のご令嬢と王が結婚された時に隠居され離宮に移られた。
それ以来、全くこうした催し物には参加されていなかったのだが⋮
果たして、何かあったのだろうか。
誰もが自然と昔のことを思い出し、頭を垂れる。私も、その内の1
人であった。
彼の方は我々の礼を笑顔で受け取り、王族の席に座られた。それと
同時に音楽が再び鳴り響き、パーティーが開かれる。
談笑しつつ、目線はベルン様に連れられた謎の女性か王太后様に集
まっていた。
ふと、その謎の女性が動き出す。どうやら、王太后様に呼び出され
たらしい。彼女が歩き出し王太后様の席近くまで行くと、最早我々
はそれぞれの会話を忘れて、その2人の会話に耳を傾ける。
﹁アイリス・ラーナ・アルメニア公爵令嬢。私は、今日、貴女に会
えるのをとても楽しみにしておりましたわ。こうしてパーティに出
席してしまうぐらいに﹂
王太后様の言葉に、我々の中で衝撃が走る。やはり、彼女はアルメ
ニア公爵家の長女にして、“あの”話題の女性だったのか⋮と。
そしてそれ以上に、彼女の為に出席されたという風にとれるその言
葉に驚きを隠せない。
一体、王太后様は何を考えているのか⋮。
﹁アズータ商会の会頭として見事に成功を収め、その一方で領主代
行として立派に領主の仕事をされている貴女の話を聞くのが、今の
私の楽しみでしてよ﹂
けれどもその疑問も王太后様のその御言葉で吹き飛び、更なる衝撃
218
を受け取る事になった。
彼女が“あの”アズータ商会を取り仕切っている?しかも、同時並
行で領主の仕事まで!
アズータ商会と言えば、今をときめく国内でも1・2を争う程の大
商会。設立は僅か3年と少し前ぐらいだったが⋮それでも類を見な
い商品ラインナップと見事な経営でのし上がってきた注目の商会だ。
私も彼処の商会のチョコレートは大の好物であり、家族は彼処の美
容液を使用している。
﹁⋮色々大変なことがあるでしょうが、困ったことがあったら何な
りと私に相談すると良いわ﹂
﹁⋮⋮身に余る光栄に存じます﹂
彼女はキレイな動きで礼の所作をすると、下がった。僅か3つか4
つの会話だったが、主催者は様々な者たちと話をしなければならな
いので、それぐらいが丁度良いとされている。
現に彼女が下がると、次の人が呼ばれていた。
そして彼女は、再び壁の花と佇む。恐らく本人としてはひっそりと
したいようだが⋮けれども誰もが視線をやる。
今のやり取りだけでも、彼女の価値は測り知れないものとなったか
らだ。
まず、アズータ商会の会頭としての魅力。潤沢な資金とその資産は、
無視できない存在。
けれども何より⋮彼女の王太后様への影響力。我が国の貴族の中で
真っ先に彼女を呼び出し、しかも何からあったら相談しろとの御言
葉付き。王族の⋮それも今この場にいる者の中で最も影響力を持つ
方の後ろ盾を得たも同義だ。
こうなると、何故エドワード様は彼女との婚約を破棄されたのか⋮。
何せ、その美貌・才覚・血筋・後ろ盾⋮どれを取っても、彼女は魅
219
力的だ。寧ろ本当に王位に就きたいのであれば、彼女は絶対引き入
れるべき存在の筈だ。そんな彼女を蔑ろにし、婚約を破棄した上に
すぐに別の女性と婚約したとなると心証が悪すぎる。
少なくとも中立の者たちには内心冷笑されることまず間違いがない
し、第一王子の陣営はほくそ笑んでいる筈だ。そして、第二王子の
陣営の者たちは逃した魚のデカさに、まるで自身のことのように歯
噛みをしているだろう。
現に誰もが彼女とお近づきになりたいと、声を掛けるタイミングを
見計らっている。ところが、彼女は常に家族の誰かと談笑を交わし
ている為、中々タイミングを見つけることができない。
﹁あれ、久し振りですねー﹂
そんな駆け引きの最中、空気を読めていない発言が彼女に向けられ
た。
220
王太后様の助け
さて、私は今、混乱の最中にいる。
⋮事の起こりは、建国記念のパーティー。そもそも呼ばれたこと自
体がおかしいんだけれども、腹を括って会場入りをしてみれば、冷
たい視線ではなく、興味津津といった好奇心の視線に付きまとわれ
て。この時点で、あれ?思ってたのと違う⋮なんて内心オドオドし
てた。
その後、王太后様に呼び出されたかと思えば、まさかの応援してま
すという御言葉。あれ?もしや私を呼んだのは王太后様⋮なんて思
いつつ、今日最大のミッションは終わったと、後は静かに端っこに
いようと詰めていた息を吐き出したのに。
まさかの目の前に、ユーリ様がいらっしゃった。⋮⋮しかもその横
には、不機嫌そうなエド様と、不思議そうに此方を見ているヴァン
様まで。
﹁⋮⋮お久しぶりに存じます﹂
ひとまず、私は笑顔で答える。⋮⋮引きつっていないわよね?
﹁アイリス様、学園にいらっしゃらなくなってから随分経ちますも
のねー。元気そうな姿を拝見できて、良かったですー﹂
え、嫌味?嫌味なの?それとも、これは単純に、私のことを本当に
気にかけてたのかしら?ユーリ様相手だと、判断に迷うわ⋮⋮。
﹁ユーリ様もお元気そうで、何よりです﹂
221
一先ず、当たり障りのないことを言ってみた。
﹁⋮⋮おっどろいたー。本当にアイリス様だったなんて﹂
横から、そんなヴァン様の言葉が入ってきた。
﹁ほら、言ったでしょう?私、人の顔を見分けるの得意なの。それ
に、ベルンが一緒にいる人と言えばやっぱりアイリス様かなって﹂
得意げに言うけれども、ユーリ様⋮⋮貴女、あの時あの場にいたで
しょうが。ベルンは一緒にいるどころか、思いっきり貴方側につい
て私を追い出してたでしょう!
﹁にしても、変わり過ぎだって。僕、気づかなかったよ﹂
﹁ユーリは賢いな﹂
﹁ふふふ⋮ありがとうございます、エドワード様﹂
⋮⋮はいはい。相変わらず、キャッキャウフフの桃色空間ですね。
元婚約者の前でその空気を出してくるなんて、本当に配慮に欠けて
るわ。もう、ユーリ様については色々諦めたけれども⋮エドワード
様ってこんなにお目出度い方だったかしら?と疑問に思ったものの、
最後の学園での台詞を思い出して即座にその疑問も彼方へやった。
﹁⋮⋮ところで、アイリス様はどうして本日此方にいらっしゃるん
ですかー?﹂
まさかのユーリ様からのパンチに、一瞬私の顔から笑顔が剥がれか
222
けた。
﹁どうして、とは⋮⋮?﹂
﹁だってアイリス様⋮﹂
﹁どうして、などと分かりきったこと聞く必要なかろう。お前は、
ここに出席できるような立場でなかろうに﹂
ユーリ様の言葉を遮って、エドワード様が剣呑たる目で私を睨みな
がら言った。そんなに睨まなくても、取って食いやしないのに。
﹁立場も何も⋮﹂
﹁ユーリは優しいからな。お前の立ち位置を態々忠告してあげたの
だ﹂
って、人の話を聞きなさい!それに、何でそんな得意げなの。
﹁⋮⋮忠告?﹂
一方ユーリ様は、エド様の言葉がしっくりこないのか、頭の上にハ
テナマークが飛びかかっているようだった。
﹁⋮⋮私が此方に罷り越しましたのは、王太后様よりご招待があっ
たからですわ。立場も何も、私は臣下としての役割を果たしただけ
にございます﹂
﹁なっ⋮⋮!お祖母様が⋮?﹂
223
エド様は、驚いたように目を見開かれている。さっき私が王太后様
にご挨拶をしたところ、見てなかったのかしら?
﹁いや、まさかな⋮。お前のような不道な輩に、お祖母様から招待
状が届くわけがなかろう。嘘をつくなら、もう少しマシなのをつけ﹂
1人納得されているけれども⋮元婚約者に向かってその言い方はな
いでしょう⋮と、ムッとなって言い返そうとした時、私よりも先に
ユーリ様が言葉を発せられた。
﹁⋮⋮あのー。お2人が何を話されているのか、イマイチよく分か
らないんですけれどもー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮は⋮⋮﹂
ユーリ様の言葉に、その怒りが削がれて呆気に取られる。よく分か
らない?そもそも貴方が始めた会話でしょうに。
﹁私が聞きたかったことはですねー⋮⋮どうして此方に来られたの
か⋮⋮もしかしてアイリス様、今日はそのドレスの宣伝にいらっし
ゃったのかなーって思ったから聞いたんですー﹂
﹁⋮⋮宣伝?﹂
﹁はいー。だって、アイリス様、アルメニア公爵家の方でしょう?
アルメニア公爵領といえば、アズータ商会です。もしかして、アズ
ータ商会の方に頼まれて、そのドレスの宣伝にいらっしゃったので
は、というのを聞きたかったんです﹂
頼まれたも何も、私がアズータ商会の会頭しているけれどもね。や
224
っぱり、彼処の会頭を私がしているなんて知らなかったのか⋮と、
かつて目の前の2人がアズータ商会の会員になりたいと騒いだ時に
セイと話したことを思い出しつつ思った。
﹁いえ⋮宣伝という程ではございませんが⋮新しい商品であるこの
ドレスの生地のお披露目ではあります﹂
﹁まあ、やっぱりー!美しいですね。私もこの生地で仕立たドレス
が欲しいです。何処で買えるのですか?﹂
最早エド様は置いてきぼりにして、私とユーリ様の会話が進む。
﹁まだ数が揃えられていないので、販売はしておりません。いずれ
数が揃い、生産ラインが整えば販売されるでしょう﹂
﹁あら、そうだったんですかー。とっても素敵だったんで、私も是
非欲しいなあ⋮なんて思ったんです。どうにかなりません?﹂
﹁お言葉は非常に嬉しいのですが⋮何分、まだ時間が必要ですので、
ご容赦くださいませ﹂
何せ輸出国から、結構な値段をふっかけられているのよ。絹だから
仕方ないかなーとも思うんだけど、輸送費などのコストを考えると
赤字。というわけで、商会で大々的に販売するのはまだまだ先にな
りそう⋮。布地だけ高値で販売するにしても、まだ数が揃ってない
上に今回使っちゃったからドレス作れる分ないと思うし。
﹁えー⋮でも⋮﹂
225
﹁そ、そうだぞ。次期王族のユーリが望むのだ。栄誉なことと、即
対応するのが商会の務めであろうが﹂
﹁そう仰られても、無理なモノは無理なのです﹂
﹁ぶ、無礼な⋮⋮!﹂
エド様は顔を真っ赤にされて仰る。幸い他の方々は、楽団が演奏し
ている音楽と、それぞれ会話に夢中になられていたおかげで聞こえ
てなかったみたいだけれども⋮それでも、やはり近くにいた人たち
は何事かと此方を見ているわ。ああ、面倒。
﹁⋮⋮騒がしいですわね。どうされたの?﹂
ふと、後ろから私の母がやって来た。
﹁あ、アルメニア公爵夫人。お久しぶりですー﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
ユーリ様の会話を華麗にスルーされて、私のところにやって来た。
﹁大丈夫かしら?﹂
﹁ええ⋮大丈夫ですわ、お母様。お騒がせしてしまいまして、誠に
申し訳ございません﹂
﹁アルメニア公爵夫人!﹂
226
先ほどと同じ声色で、エド様がお母様を呼ぶ。あ、お母様の眉間に
僅かにシワが寄っているわ。
﹁あら、殿下。パーティーの最中にそんな大きな声を出されて、ど
うされたのですか?﹂
﹁どうしたもこうしたも⋮何故、今貴方はユーリを無視したのだ!
事と次第では、不敬罪であるぞ﹂
﹁まあぁ、殿下。お戯れを。⋮⋮よもや、宮中の作法を忘れた訳で
はございませんよね?﹂
お母様は、お持ちになられていた扇子で口元を隠される。きっと扇
子の向こうでは、大きな溜息を吐いていらっしゃるのでしょう。
﹁身分の下の者が気軽に上の者に話しかけるなど、周りの者に品位
を疑われますわ。もし、ユーリ様が貴方の妃となるのであれば⋮い
え、だからこそ、そうした作法に明るくなくてはならないでしょう﹂
じっと、お母様はエド様とユーリ様をご覧になられる。
﹁だが、ユーリは私の婚約者であるぞ﹂
﹁ええ、そうですわね。婚約者は未だ正式に婚姻されていない⋮つ
まり、嫁ぐ家の者ではございませんわ。ですから、それまでと同じ
身分。⋮婚姻する前に、何があるか分からないですしね﹂
チラリと、私の方をお母様はご覧になった。ええ、そうですね。現
に私、婚約破棄をされましたし。
227
﹁身分とか、関係ないと思います。挨拶されたら、挨拶を返す。こ
れが当たり前のことなんじゃないんですかー?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
お母様も私も⋮否、この周りにいる人たち皆が唖然。いや、エド様
とヴァン様は唖然としていないけれども。
当たり前のこと⋮ね。貴族の世界って確かに格式張っていて、無駄
に作法が多くて大変よ。でも、それは王をトップとして、その下に
ピラミッド状に存在する貴族の秩序を保つ為でもあるのに。
日本だったら、挨拶をしたら挨拶を返すのが礼儀。でも、その挨拶
の仕方や返し方に様々な作法があるのと同じように、こっちの世界
もそれが作法があるのだ。
﹁ユーリ様。王家の者となるのであれば、それらしい振る舞いが求
められますわ﹂
﹁メルリスの言う通りです﹂
また新しく人が来たかと思えば、まさかの王太后様だった。
﹁お祖母様⋮!?﹂
﹁王太后様、彼方の席にいらっしゃらなくて宜しいのですか?﹂
エド様が殊更驚いたようにするのに対し、お母様はのほほんとそう
聞いた。
﹁良いのですよ。挨拶は大体済みましたし。と言うわけで、アイリ
228
ス。彼方でゆっくり最近の貴方の話を聞かせてちょうだいな。メル
リスも来ますか?﹂
﹁ええ、行きますわ﹂
﹁そう。アルメニア公爵、彼方でアンダーソン侯爵も貴方の事を待
ってます。お話し相手になってちょうだい﹂
﹁畏まりました﹂
﹁1人残すと言うのもアレですし、ベルンもアルメニア公爵に付い
てなさいな﹂
﹁はい﹂
話が纏まりかけたところで、再びエド様の言葉がそれに待ったをか
ける。
﹁お祖母様⋮⋮!﹂
﹁何ですか、騒々しい。⋮このパーティーには、他国の方々もいら
っしゃるというのにその体たらくは。貴方達は、下がって頭を冷や
しなさい。その様では、我が国そのものの品位が疑われます﹂
けれども王太后様は冷たくあしらうと、そのまま私達4人の先頭に
立ち、歩き始めた。すれ違いさま、エド様たちの表情をチラリと見
てみたけれども⋮エド様とユーリ様は呆然とした表情を浮かべてら
した。
それから、王太后様は再び王族の席に戻られる。周りには他国から
229
の賓客の中でも特に地位や役職が高い方々や、お祖父様を始めとし
たこの国の武官最高の地位にいる方々、そして宮中の中でも重職に
就いている面々等、にこやかに笑っていながらもどこか迫力のある
錚々たる顔ぶれが揃っていた。
パーティー自体に出席するにしても、王太后様のお近くにこれだけ
のメンバーが揃うということは、それだけ王太后様のお力が今尚健
在だということを示している。
私、来て良かったのかしら⋮なんて思いつつ、あの場にいたくもな
かったので、大人しく王太后様のお話し相手を務めた。
230
それぞれの思惑
弐
﹁⋮⋮あれが、落とし所でしたかね﹂
目の前のアルフレッドに、先日のパーティーの経緯を話していると
ころ。それにしても、パーティーに出席なんて久しぶりだったから、
随分と疲れたわね。
﹁エルリアと彼女の実家があの場で出てきてくれれば、もう少し面
白かったのだけれども。エルリアは貴族の方々への挨拶⋮もとい、
自身の勢力への勧誘に夢中で気付かずにいましたし、侯爵家もそれ
と同じ﹂
アルフレッドは、満足そうに頷く。
﹁欲張り過ぎても良くないでしょう。他国がいる前で、大々的に我
が国のゴタつきを見せる訳にもいきませんし。それでも第二王子派
の勢力を削ぎ⋮そして、中立派の者たちへの牽制。流石ですね、お
祖母様﹂
﹁私は何にもしていないわよ。敢えて言うなら、エドワードの自滅
⋮と言ったところでしょうか。それにしても、あの子はあんなに浅
慮でしたっけ﹂
﹁さあ⋮⋮。元々、我が強いというのは見受けられましたが。さし
ずめ今の様子を表すのであれば、“ストッパーを失くし、暴走状態
”というところでしょう﹂
アルフレッドの言葉に、確かに⋮と私は頷く。言い得て妙だわ。
231
﹁そのストッパーを取り払ったのは、あの男爵令嬢⋮ですか。どん
な方か、貴方の事だから調べたのでしょう?﹂
﹁ええ、勿論。⋮⋮ルディ﹂
﹁はっ﹂
アルフレッドの脇に控えていたルディが反応し、一歩前に出て来た。
﹁調べましたところ、令嬢はノイヤー男爵家当主の私生児でありま
した。相手は、王城に仕えていたメイド。彼女は、退職すると同時
にノイヤー家に入りました。そしてユーリ令嬢を身籠ると同時にノ
イヤー男爵家から離れました。ノイヤー男爵は、彼女の行方を捜し
ていたようですが、十数年間見つからず、学園入学前に見つけ出し
引き取ったとのことです﹂
見つかるまでの間、彼女は市井で暮らしていたということかしら?
それにしても、十数年間見つからずにそれでも捜し続けていたとい
うことは、余程男爵にとって重要な人物だったということ⋮⋮?
﹁そう⋮⋮。他に何か情報は?﹂
﹁申し訳ありません。今は他に情報はございません﹂
﹁分かったわ。引き続き調査をさせておいてちょうだい﹂
﹁畏まりました﹂
232
﹁⋮とは言え、貴方にとってはストッパーが外れていた方が、都
合が宜しいのでしたね﹂
﹁⋮⋮さて、何のことでしょうか﹂
問いかけてみれば、アルフレッドは惚ける。本当に、己の手の内を
晒さないわね。
﹁第二王子派の中で、確かに今回の件で引いた者たちもいるでしょ
うが⋮“担ぐ神輿が浅慮であればあるほど操り易い”と喜んだ者た
ちもいる筈。そうした者たちを炙り出すのに、エドワードがそうし
た姿を見せれば見せるほど具合が良いもの。だから、貴方にとって
は都合が良いでしょう?﹂
﹁⋮彼が良い餌になると思っていることについて、否定できません
ね﹂
アルフレッドは苦笑いをしてそう言ったけれども、私は大いに同意
する。民を先頭に立って守る⋮⋮そんな、かつての貴族の矜持とや
らを持つ家というのは、殆どない。寧ろ、どれだけ自分の家を繁栄
させるか⋮己の自己満足の為に位を誇り、己の私利私欲の為に利権
と勢力の奪い合いを繰り返すのみ。そういう者たちは、王家ですら
利用する対象でしょう。⋮そうなるとエドワードほど、良い主君は
ない。何せ、適当に持ち上げておけば、その裏で何でも好き勝手で
きそうですもの。
この先、あの子を利用せんと第二勢力に与する者も出てくる筈。⋮
⋮アルフレッドが表に出ていないからこそ、それは余計に。何せ、
アルフレッドはもう10数年表舞台に立っていない。貴族の子供等
が通う学園ですら、王族の名前を隠して通ったほど徹底していたわ。
幼子の彼を覚えている者はどれだけいるだろうか。名すら挙がらぬ
233
第一王子より、利用できる第二王子⋮と。そう思う輩だとているで
しょう。
けれども逆に、今はそういった輩を一掃できるチャンスでもある。
あの子が、昨日のパーティーのように振る舞えば振る舞うほど。
﹁⋮⋮それで?貴方の中で、今後の筋書きはできているのかしら﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
問いかけてみたけれども、案の定無言。ただただ笑みを浮かべてい
るだけ。本当に我が孫ながら、考えていることや感情が読めないわ
ね。
﹁まあ、良いわ。貴方の筋書きがどうであれ、私はそれに乗ったの
だもの。結果がどうなろうとも立派に道化を演じるだけね﹂
ユーリ男爵令嬢がいる限り、エドワードには期待ができない。それ
はこの前のパーティーでもよく分かったわ。一瞬あの子を立てて私
が実権を握るというのも考えなくはなかったけれども⋮障害もリス
クも大き過ぎる。それならば何を考えているかは分からなくとも⋮
この国の未来を託すことができる者は、目の前のアルフレッド一択。
仮にアルフレッドが私の期待外れだとしても、あの子よりはマシだ
わ。
﹁⋮⋮そういえば、今回はアイリスをパーティーに呼んだの。とて
も美しく成長していたわね﹂
私がそう言えば、ピクリと僅かに反応を示した。⋮すぐに元の何の
感情も読み取れない笑顔に戻ってしまったけれども。
234
﹁お祖母様。何故、彼女を態々呼んだのですか?﹂
少し棘があるその声色に、嬉しくなってしまう。彼女のことを、随
分気にかけているということですもの。
﹁あら、私は頑張る女の子が大好きなのだもの。一度会いたいと思
うのは当然でしょう?﹂
思い出せば、つい笑みが溢れてしまう。メリーに似た顔立ちとアル
メニア公爵の血を感じさせる雰囲気。ふふふ⋮メリーが大輪の薔薇
だとすれば、アイリスは百合のように凛とした清廉な美しさ。趣は
違えど、私好みの彼女。
﹁それに、アイリスにとってもプラスでしょう?彼方此方から招待
状が届いているとメリーが言ってたもの﹂
﹁⋮⋮目端が利くものは、彼女に近づかない訳がないですからね﹂
﹁そうでしょうね。彼女の経歴、実績、容姿、そして血筋⋮どれも
魅力的だもの。アルフレッドもそう思わない?﹂
﹁そうですね﹂
アルフレッドは、飄々と答える。ああ、もう。もう少し表情を崩し
てくれても良いと思うのだけど。そう思いつつ、じっとそのままア
ルフレッドを観察していたら、その視線に気付いてまた困ったよう
に笑みを深めた。
﹁何か、言いたそうではなくて?﹂
235
﹁いいえ?特に何も﹂
これ以上は揺さぶりをかけても仕方ないかしら。まあ、アルフレッ
ドの動揺を僅かばかりでも見れたから良しとしましょう。
﹁そう言えば、アルフレッド。貴方の目から見て、アルメニア公爵
家はどうかしら?﹂
﹁それは、どういった意味でしょう?﹂
﹁領政や、体制のことよ。⋮他意はないわ﹂
﹁一言で言えば、面白い⋮でしょうか。様々な施策を行っています
し。1つ気になったことと言えば、その成長力と戦力ですかね。私
は100年後、国全体よりもアルメニア公爵家の方が栄えていたと
しても、不思議に思わないでしょう﹂
﹁やはり、そうですか。本来1つの家が力を持ち過ぎることは喜ば
しくない事。⋮⋮とは言え、国の発展には、各領の発展も必要不可
欠。そこの匙加減は常にままならないものね﹂
﹁そうは言っても、お祖母様のことですからあの家に対しては何も
横槍をしないでしょう。王族親衛隊のそれと変わらぬ練度を誇るア
ルメニア公爵家護衛を放って置いているのが良い証拠ですよ﹂
﹁まあ、そうね。今代も含め歴代当主が宰相として国全体を支えて
くれているということ⋮そして他の貴族よりも、国に貢献する貴族
らしい貴族ということを鑑みれば⋮現状、特に何もする気は出てこ
ないですわね﹂
236
宰相としても良い働きをしているだけでなく、アルメニア公爵家っ
て割と王家に貢献してくれている家なのよ。下手に力を削いで他の
ところに行ってしまうより、信用のあるあの家に力がある方が良い
もの。
それから、実務の面の話を幾つかした。既にアルフレッドは裏から
少しずつ王が不在であり、エドワードが色々とやらかしている穴を
宰相と共に埋めてくれている。私も最近は隠居を一先ず置いて事に
当たるようにしているの。昔取った杵柄⋮⋮という奴ね。
﹁⋮⋮それでは、お祖母様。私はこれで失礼します﹂
話すべきことが終わると、アルフレッドは一礼をして切り上げて行
った。
237
王都を奔走
ああ、懐かしい⋮。思わず、少し先に見える領都の風景を見て、感
慨に耽ってしまった。王都での暮らしは、領での暮らしとはまた違
った意味で怒涛の日々だったもの。
それは、遡ること十数日前⋮。
﹁あら、随分と招待が来たわね﹂
建国記念パーティを終え、その日は1日オフとして家でゆっくりと
お茶を飲んでいた。身体はそうでもなかったんだけど、精神的に疲
れていたしね。その時、お母様とお茶をいただいていたのだけど、
傍に控えていた執事がザッと招待状を寄越してきた家の名前を言っ
たのだ。
﹁モンロー伯爵やらルドルフ侯爵やらエルリアの実家の腰巾着が私
にねえ⋮⋮行く訳ないでしょうに﹂
﹁奥様だけでなく、お嬢様にも招待状が届いております﹂
﹁ますます意味が分からないわ。まあ⋮昨日のパーティーを見て、
繋ぎを作りたいと思うのは分かりますけどね。アイリスちゃん、行
きたい?﹂
﹁まさか⋮そんな事微塵も思ってないですよ﹂
私が第二王子派の家の茶会に?絶対嫌に決まってる。そもそも、今
更深める親交も何もないわよ。
238
﹁そうでしょうねえ﹂
お母様はふうっと溜息を吐きつつ、お茶を口にする。
﹁あ、他の家で何処か行きたいところ、あったかしら?﹂
﹁⋮⋮ダングレー侯爵家です﹂
﹁ダングレー侯爵家?ああ、確か彼処のご令嬢とアイリスちゃん、
同級生だものね﹂
﹁はい。学園で親しくさせて貰ってたので﹂
ミモザ、どうしているかしら⋮⋮?ほんの少し手紙のやり取りはし
たけれども、もう2年以上会ってないわね。
﹁なら、ダングレー侯爵家は決まりね。他には、何処か行きたい家
はあるかしら?﹂
﹁うーん。お母様は、何処が良いと思いますか?﹂
第二王子派閥の家を除いたとしても、結構な数の招待が舞い込んで
きている。けれども私はあまり長く領を空けてはいられない為、全
ての家に行くことは不可能。とは言え、折角機会を貰えたのだ⋮他
の家との繋がりを持ちたいと思うのは相手も私も同じ。それを踏ま
えると、“何処に”行くのかが重要になってくる。時間がないから
こそ、効率的に⋮ってね。そういう家同士の付き合いは、私よりも
お母様の方が詳しいからこその相談。
239
﹁メッシー男爵家かしら。あとは、ドランバルド伯爵家も﹂
﹁ドランバルド伯爵家は、確かお母様と彼処の奥様のご親交が深い
のでしたよね?﹂
記憶の片隅に、お母様がよくドランバルド家に行くわなんて言って
いた時があった気がする。
﹁ええ。あそこの夫人は、とてもセンスがある上、話していてとて
も面白いわ﹂
﹁お母様が仰るのでしたら、相当ですね﹂
﹁ありがとう。⋮それでね、ドランバルド家自体が中立派の家だか
ら、茶会を開くとなると、主に中立派の方達が集まるの。アイリス
ちゃんが王都での派閥争いを知りたいのならピッタリじゃないかし
ら?﹂
流石です、お母様⋮なんて思いつつ、私はドランバルド家の茶会に
出席することを心に決めた。
﹁アイリスちゃんが行くなら、私も行きましょうっと﹂
﹁一緒に行きましょう、お母様。それで、メッシー男爵家は何かあ
るのですか?﹂
﹁メッシー男爵は、かつてトワイル戦役でお父様と共に戦った方な
の。その武功で爵位を賜ったのだけれども⋮トワイル国に隣接した
地域でね、普段は国境を守る為にということもあってシーズン中で
も殆ど領地を出る事のない方なの﹂
240
﹁メッシー男爵⋮ああ、マーベラス様ですか?かつてお祖父様に聞
いた事があります。なんでも、お祖父様の親友の方でしたっけ﹂
﹁そうよ。そしてお父様の右腕とも呼ばれるほどの優秀な副官だっ
た方。かつて、トワイル戦役でお父様の部隊が活躍したのは知って
いるわよね?﹂
﹁ええ。それはもう﹂
当時五分五分⋮否、若干劣勢だったその流れを覆し、タスメリア王
国に勝利を齎したのがお祖父様。それ故お祖父様は将軍に任ぜられ、
現在でも軍・騎士団関係なく下の者達から慕われているのだ。⋮⋮
その事をお祖父様に昔根掘り葉掘り聞こうとして、お祖父様は照れ
て黙ってしまったっけ。
﹁そう。その辺りは歴史書にも載っているから、詳しい事は省くわ
ね。それで、その時のの恩賞でマーベラス様も爵位を賜り現在にも
至る⋮ということかしら﹂
﹁確かに、そういう事なら1度お会いしておいた方が良いかもしれ
ませんね﹂
滅多にない機会だ⋮1度会っておいた方が良いかもしれない。
﹁ええ。それに、メッシー男爵は第一王子派で、当然集まりにも第
一王子派の家が集まるのよ﹂
﹁それは益々行くべきですね﹂
241
﹁そういう事。⋮⋮モンロー伯も何度も催し物を開く暇があるのな
ら、メッシー男爵のように普段国境を守る事に注力すれば良いのに﹂
﹁⋮⋮ああ⋮⋮﹂
お母様の言葉に、頭の中にタスメリア国の地図を引っ張り出した。
そういえば、モンロー伯爵家ってメッシー男爵家と領地が隣り合っ
ていて、トワイル国と我が国の国境付近に領地があったわね。それ
も、確かトワイル戦役の主戦場じゃなかったかしら。穀倉地帯だか
ら、その作物を狙っての開戦だったっけ。我が国より北に広がるト
ワイル国は全体的に土地が細いとの事で、国を狙ったのも我が国の
豊かな作物がお目当て。常春の我が国では、全体的に肥沃な大地と
いうことも相まって、作物ができやすいもの。モンロー伯爵家はタ
スメリア王国の中でも北の方にあって、けれどもだからこそ四季が
あり、四季折々の作物が取れるのだ。
﹁モンロー伯爵家は、そんなに領地を空けているんですか?﹂
﹁ええ、それはもう。大抵例年はシーズンが始まる前からずっとは
王都にいるわね。彼方此方のパーティーに顔を出しているし、逆に
かなりの回数開催もしているわ﹂
﹁そう、なんですか⋮﹂
場所が場所なだけに、少し不安。トワイル国とはあくまで休戦協定
を結んだだけで、停戦ではないからね。とはいえ、そこは私がどう
しようもない領域なので、そういう懸念事項があるのだと心に留め
ておくだけだけれども。
242
﹁それは兎も角。今回アイリスちゃんは時間がない訳だし、それぐ
らいが良いかと思うのだけどどうかしら?﹂
﹁はい⋮お母様が仰る通り、この3家のみ出席します﹂
﹁そう。じゃ、早速返答をして⋮1番日程が近いのは⋮﹂
﹁ダングレー侯爵家のものです。日程は明後日ですね。此方は、催
し物というより、私的なものでございますが﹂
さっと、控えていた執事が答えた。
﹁そう。じゃあ、アイリスちゃん。早速明日から支度を始めましょ
うか﹂
﹁はい、お母様﹂
こうして、久方ぶりのパーティー巡りが開始した。⋮とはいえ、た
った3つだけど。
243
再会
一先ず始めに、ダングレー侯爵家への訪問。
此方は私的な集まりとの事で緊張はない⋮と思いきや、やっぱり久
しぶりにミモザに会えるということで、思いっきり緊張していた。
ダングレー侯爵家の使用人一同に出迎えられた後、私は応接室に案
内される。
﹁⋮⋮お久しぶりですね。アイリス様﹂
中には、既にミモザが座って待っていた。
﹁本日はお招きいただき、ありがとうございます﹂
私も挨拶を返し、そして座る。そのタイミングで、ミモザは1人の
侍女を残して他の使用人達を部屋から退出させた。
﹁⋮⋮挨拶は、ここまでにして⋮⋮アイリス、本当に久しぶりです
ね。貴方が元気そうで本当に良かった⋮⋮﹂
先ほどまでの厳かな雰囲気はどこへやら、素の彼女になった。ミモ
ザ・ダングレー。私の学園でのクラスメイトにして親友。とっても
穏やかな彼女は、少し垂れ目がちの可愛らしい顔立ちの少女。私の
顔が少しキツめだから、足して2で割りたいと切実に思う。
﹁心配かけてごめんね、ミモザ⋮⋮﹂
﹁本当よ。私が風邪で休んでいる間に、まさかの貴女は退学⋮⋮だ
244
からあれ程、あの方々には気をつけなさいと言ったでしょうに﹂
ミモザは散々、私に注意をしてくれた。ユーリ男爵令嬢に近づき過
ぎるな、関わるなと。それでも私がエドワード様に近づく彼女に手
出しをした結果、手痛いしっぺ返しを食らったのだ。
﹁反省しているわ。あの時は、まさかあそこまでの事を彼方側が仕
掛けてくるとは思わなかったのだもの﹂
﹁そうねえ。昔の彼らなら、あそこまでの事をしでかさなかったで
しょうけれども。あの子と関わるようになってから、随分変わった
もの﹂
﹁ええー⋮⋮ミモザ、気づいていたの?﹂
﹁貴女がエドワード様にぞっこん過ぎて気付かなかっただけよ?片
鱗は、貴女がいる時から見せていたわ。ねえ、アイリス⋮⋮私は正
直、あの子が怖いわ﹂
﹁⋮⋮怖い?﹂
私は笑いかけたが、それにしても彼女の顔が真剣で、結局その笑み
は引っ込めた。パーティーで対峙した時は、まるで子供のように無
邪気でそれ故分別がつかないような女の子、くらいにしか思わなか
ったけれども。
﹁何を考えているのか分からない事が怖い。それに、子供のように
無邪気さを装っているけれども⋮それだけではないような気がして
ならないの。だって、あの方々だって⋮あの子に会う前までは、そ
の身分に相応しい教育を施され、それらしい立ち振る舞いをしてい
245
たのよ?利用される立場だと理解しているからこそ、警戒心だって
人一倍あったはず⋮⋮それなのに、あの子にあっさり落ちたかと思
えば言われるがままに動いて。その状況を彼らに気付かせないほど、
あの子の言動は巧みなのかもしれない。あの傍若無人な行動だって、
何か意図があるのではないかなんて勘ぐってしまうわ﹂
﹁⋮考え過ぎではないかしら?だって、あの子の言動はあの子自身
の首も締めているのだもの﹂
このままでは、あの子の首も自分で締めかねない。立場を考えると、
ね。⋮⋮とは言え、完全に否定できない自分もいた。学園で唯一ユ
ーリ男爵令嬢を危惧していたミモザの言葉だからというのが1つ。
もう1つ、思いついた事があるのだけれども⋮流石に突拍子もなさ
過ぎて、私はその考えを一先ず頭の隅に追いやった。
﹁⋮⋮そうね⋮⋮。もう、この話は止めましょう﹂
ミモザは納得しないながらも、それ以上反論する言葉が見当たらな
かったらしく、渋々と同意したようだった。
﹁それより、アイリス。貴女、最近はどうなの?﹂
気持ちを切り替えたらしいミモザは、穏やかな笑みを浮かべて言っ
た。ミモザって本当、何と言うか⋮女性らしいんだけれども、それ
も母性を感じさせるような雰囲気なのよね。
﹁⋮⋮どうと言われても⋮特に、手紙で送った通りよ。商会の切り
盛りをして、領政に首を突っ込んで⋮というところかしら﹂
﹁そこの所を詳しく聞きたいのよ。凄いじゃない。王都で大きな販
246
売店を出しているし、1番人気のカフェもアズータ商会の系列でし
ょう?お母様も私も、あそこの美容品の大ファンだし、チョコレー
トを使った製菓も大好きよ﹂
﹁それはありがとう﹂
﹁それに、こんなにキレイになって⋮何か良い事でもあったのかし
ら?﹂
目元をうっとりとさせつつ和かに笑う彼女を見て、私は少したじろ
ぐ。
﹁べ、別に何にもないわよ。そんな暇もないしね。⋮⋮ミモザこそ、
何か良い事はあったの?﹂
﹁私も何もないわよ?元々⋮学園を卒業した後、婚約者のいない私
は、王都に残って相手を見繕うまで花嫁修業⋮という事だったのだ
けれども、今のタイミングで相手なんてすぐに見つけられないし⋮
だから、少し退屈しているわね﹂
﹁ああ⋮﹂
妙に、納得してしまった。特に、後半部分。今みたいに派閥争いが
ある中で、相手がどう転ぶか分からない以上、下手に婚姻という繋
ぎを作れないものね。
﹁まあ、良いのだけどね。まだ結婚って全く想像もできていないの
だもの。自分を見つめ直す良いチャンスだわ﹂
何もなければ、ミモザなら沢山の縁談があるだろうに⋮と思うと少
247
し残念に思うわ。きっとミモザだけでなく、中立派の家って今婚約
相手を見つけにくいわよね。
ふと、お茶をいただいて茶請けをその流れでいただこうとして手が
止まる。スコーンやサンドウィッチなんかと一緒に、馴染み深い百
合の刻印がされているチョコレートがあった。
﹁ごめんなさいね、アイリス。貴女のお店のなんだけど⋮さっきも
言った通り、私の大好物で﹂
﹁謝る必要なんて、ないわよ。貴女がそこまで気に入っていてくれ
て嬉しいわ。そういえば、今度王都の店に視察する予定があるのだ
けれども⋮ミモザも一緒に行く?﹂
﹁それって、アズータ商会のお店ということ?﹂
ミモザの目が輝く。
﹁系列も含めて全部だから、少しハードだけど。何せ、私王都にい
るのも後少しだから⋮この機会に全部様子を見ておこうと思って。
勿論、視察だから人数を絞って行動しなければいけない以上、警備
の面を考えて行けないというのならそれはそれで仕方ないわ﹂
流石に視察でゾロゾロと人を連れて行けないし。でも、そうすると
貴族の令嬢である以上、少し警備の面で家族にミモザは反対されて
しまうかもしれないわね。
﹁何人まで連れて行って宜しいのかしら﹂
﹁2人まで⋮ね。此方からはライルとディダ、それからターニャが
248
帯同するわ﹂
﹁ライルさんとディダさんが一緒なら、お父様も反対されないと思
うわ﹂
﹁あら、2人に随分信頼があるのね﹂
﹁それはそうよ。王国でも屈指の方達と言われているのだもの⋮そ
の力への信頼は篤いわよ﹂
﹁そういうものかしら。⋮もし、許可を貰えたら、手紙を送ってち
ょうだい﹂
﹁ええ、勿論。いつまでに送れば良いかしら?﹂
﹁今週中までで﹂
﹁分かったわ﹂
それから私達は、日が暮れるまで学園時代の話や王都での流行など
取り留めのない話を続けた。楽しい時間というのは本当にあっとい
う間で、ターニャにそろそろ⋮と言われなければ、そのままどっぷ
り夜までいたかもしれないわね。
249
考察
﹁⋮⋮お嬢様。先ほど、何かミモザ・ダングレー様に言いかけてい
ましたよね?﹂
帰りの馬車の中にて、ターニャにそう切り出された。ぼんやりと外
の風景を眺めていたが、視線をターニャに向ける。
﹁⋮⋮先ほど、というのは?﹂
﹁ユーリ男爵令嬢の話になった時です。差し出がましいですが、妙
にお嬢様が何かを一瞬考え込んでいらっしゃるご様子でしたので﹂
﹁⋮⋮⋮驚いたわ。ターニャ、良く見ているのね﹂
﹁主の仰りたい事を察するのも、侍女の役目です﹂
ターニャはキッパリと言い切ったが⋮本当に凄いと思う。なるべく
顔に出さないように努めていたつもりだったのに。
﹁⋮⋮お嬢様自身、ミモザ様が考え過ぎだと思ってないご様子でし
たが⋮⋮﹂
﹁そうね。でも、本当に突拍子も無い事なのよ?﹂
根拠も何もない。寧ろあまりにも非現実的過ぎて言葉を引っ込めて
しまったそれ。⋮でも、ここで話すのも良いかもしれない。ターニ
ャなら誰にも言わないって信頼があるし、何より口にすることで案
外考えって纏まるものなのよね。
250
﹁もし宜しければ、そのお考えをお伺いさせていただいても⋮?﹂
﹁ミモザにはああ言ったけれども⋮本当に、自分の首を絞めている
だけかしらって思ってしまったのよね﹂
﹁と、言いますと?﹂
﹁まず、炊き出しの一件。貴族や官僚からは無理に推し進めている
と批判されているけれども⋮民からしてみれば、歓迎されるわよね
?“自分たちのことを考えてくれている”って﹂
お父さまから聞いた話から推測するに、炊き出しを長く続けること
はできない。この国に、それだけの体力はない。戦争への負債が残
それにそこまでお金をかけて単発で何度
っている現状、本来ならば先に多少引き締めをしてでも財務を健全
にすべきだと私は思う。
も炊き出しをするぐらいならば、もっと別の事に使うべきだと私は
思うのだけど。
それに、民達は現状の国の財政を知らない。知る由もない。つまり、
国の財政がそこまで圧迫されている事を知らないから、もし仮に税
金が上がった時には、あくまで国への印象が悪くなるだけで、第二
王子への印象ってそんなに変わらないと思うのよね。
﹁こう考えると、民を味方につけているとも取れるのよ。⋮ユーリ
令嬢の行動って。貴族についても、そう﹂
﹁炊き出しの事ですか?﹂
﹁いいえ。あのパーティーでの言動よ﹂
251
﹁聞いた限り、パーティーでの言動は、寧ろ第二王子派閥の方々も
引いてしまうようなものだったと思いますが⋮⋮?﹂
﹁ええ、そうね。大抵の貴族はそうだと思うわ。だけど、都合が良
いとも取れない?﹂
﹁都合、ですか⋮?﹂
﹁そう。もし私が、既得利権を維持するだけでなく、更なる利権や
権勢を得たいと思うのなら⋮存在の知れない第一王子よりも、第二
王子の方が良いと思うわ。だって、第一王子がどのような方なのか、
どのようにお考えになられているのか⋮ここ十数年表に出られてい
ないから分からないもの。エド様なら適当にユーリ令嬢を持ち上げ
ておけば話が通り易いかなって印象だったし﹂
﹁“操り易い”という事ですか?﹂
﹁平たく言えばそういう事ね。普段のユーリ令嬢の傍若無人な様子
だって、それを更に印象づけるポーズなのかもしれないし﹂
﹁⋮⋮なるほど⋮⋮﹂
﹁とは言え根拠も何もないから⋮やっばり私の考え過ぎかもね﹂
うん、考え過ぎのような気がしてきた。そうまでして得るものって、
少ないもの。単純にエド様を王位に付けるだけなら、そんな事する
より、正攻法だって十分勝負ができた筈。
態々エド様の、頭の中がお花畑ぶりを見せるという⋮王族の隙を見
せて、貴族というハイエナを呼び寄せつつ、かつ民を引き摺り込む
252
⋮なんていう国の対立を深めるような事を選ばないでしょう。
﹁ですが、お嬢様。念の為、注意されておいた方が宜しいかと﹂
﹁そうね。⋮⋮一先ず、今後王族や王都での取引ややり取りは慎重
に慎重を重ねるわ。何せ、今代の王がこのタイミングで病に倒れる
のですもの⋮正直、不安で仕方ないわ﹂
アズータ商会では、元々王都に集中化し過ぎないように、各領に直
接支店を開店させているし、最近では諸外国とのやり取りが増えて
いる。収益に響くのは仕方ないとして、最悪これ以上混乱が増した
ら王都からの撤退も視野に入れないと。
他、領内の商会も同様の対策を取っている筈。そもそも、私が初め
てモネダと会談した時には既に、王都への通商を減らしていたみた
いだったし。
後は領の治安維持よね。混乱が酷ければ此方に飛び火しないとも限
らないし⋮⋮まあ、警備に関しては前々から着手しているから、後
はライルとディダと要話し合いというところかしら。
﹁私は、なるべく情報を集めるように心掛け致します﹂
﹁そうね⋮⋮お願いするわ﹂
家に帰ると、私はそのまま部屋でのんびり。明日は1日フリーだし、
ウチの商会以外で王都の中でも探索しようかしら。久しぶりに、学
園を外から眺めるのも良いかもしれない。何だか、ミモザに会って
懐かしく感じたし。何て事を考えながら、その日はそのまま眠りに
ついた。
253
254
奥様方の茶会
さて、本日はドランバルド伯爵の訪問の日。前回のダングレー侯爵
家に行った時とは異なり、今回は様々な方々がお呼ばれしているら
しい。⋮ということで、物凄く緊張していた。
﹁アイリスちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫よー﹂
ただ今回は心強い事に、お母様が一緒。本当に心強い。次回のメッ
シー男爵家は1人なので、今回で何とか感覚を取り戻したいところ。
ドランバルド伯爵家に到着すると、玄関先で使用人総出のお出迎え。
そして、そのまた燕尾服を着た男の人に案内をされた。着いた場所
は、緑が美しい中庭だ。
﹁ようこそお越し下さいました。メルリス夫人、アイリス様﹂
丸テーブルの中央にいた女性が、立ち上がって、笑顔で私たちを出
迎える。柔らかな淡い金色の髪が、光を浴びてキラキラと輝いてい
る。少し丸みを帯びていて、けれども朗らかで優しそうな方⋮⋮そ
れが、ドランバルド伯爵夫人だった。
﹁本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。娘共々、
本日をとても楽しみにしていたのですよ﹂
お母様の口調は外行き用。いくらドランバルド伯爵夫人と仲が良い
と言っても、他にも出席された方々がいらっしゃるというのが理由
だろう。
255
﹁まあ、メルリス夫人にそう仰っていただけるなんて、光栄ですわ。
どうぞ、そちらの席にお掛けになって﹂
ドランバルド伯爵夫人は笑顔でそう言うと、空いている席を指す。
既に燕尾服を着た男性がそのすぐそばでスタンバイしていた。
﹁では、お言葉に甘えますね﹂
私たちは、それぞれ空いている席に向かった。
手入れが行き届いた庭園は、緑に溢れている。その中で白色のクロ
スが掛けられたテーブルは、周りの景色を活かしつつよく目立つ。
そしてそれよりも目立つのが、今回出席された方々のドレスだ。薄
いピンクや薄い黄色そして薄い青⋮皆、パステルカラーのそれら。
恐らく出席者を花に見立てて、セッティングしたというところだろ
うか。なるほど、今日のドレスカラーがパステル系でと招待時に指
定されていたのは、これが狙いかと納得した。
﹁ご紹介致しますね。こちら、レメディ・カルディナ伯爵夫人﹂
﹁宜しくお願い致しますわ﹂
私から見てドランバルド伯爵夫人の左横にいた夫人が軽く会釈した。
それを見て、私もゆったりと頭を少し下げる。
﹁そちらの方が、ドーラ・ダナス伯爵夫人﹂
﹁メルリス夫人とアイリス様にお会いできるのを、楽しみにしてお
りました﹂
256
レメディ夫人の横にいた女性もまた、そう言って軽く頭を下げた。
私も首振り人形のように頭を再度縦に振った。
﹁それから、その横の方がサリナ・ミネス男爵夫人﹂
﹁お会いできて光栄です﹂
⋮そうして全員の紹介がされた。そろそろ名前と顔の一致が怪しく
なってきた⋮というところで終わったのでありがたい。
そこから茶会がスタート。テーブルに盛られた甘味をいただきつつ、
淹れてもらったお茶を飲む。うーん、美味しい⋮。勿論話について
いけなくなるのは困るので、耳は会話に傾けているが。
﹁先日のアイリス様のお召し物、とても美しかったですわ。あれは、
どちらでお求めになられたのです?﹂
ドーラ夫人から、そんな質問がきた。
﹁あれは、東方との貿易で得た布を使っております。まだ、数が確
保できていないため、本格的に販売されるのは先のことです﹂
﹁まああ、そうなんですの。あの布も素敵でしたが、ドレスの型も
新しくてとても素敵でした。あのドレスのデザインは何方が⋮⋮?﹂
﹁アルメニア公爵領の衣服店に、お願いして作って貰いました﹂
﹁じゃあ、あれはアイリス様がデザインされたのです?﹂
﹁いえ、デザインと言うほどの事は⋮⋮。私は、こんなのが良いと
257
大体の構図を説明しただけです﹂
楽をしたかったというのは、とてもじゃないが言えないな⋮。なん
せ、仕事している間はほぼ楽な格好でいたから今更コルセットでギ
ュウギュウに締め付けて、重い重りのようなヒラヒラのスカートを
着たくなかったんだもの。
衣服店のデザイナーさんに散々無理を言ったおかげで、あまり重く
ないドレスが出来上がって満足だった⋮ぐらいにしか思っていない。
﹁そうなんですの。ですが、あのドレスはこれから流行ると思いま
すよ。ですわよね、レメディ夫人?﹂
﹁ええ。あのパーティーであんなにも注目されていたのですもの。
今頃、衣服店では注文が殺到していると思いますわ﹂
⋮⋮そんなものなのかしら?もしそれが本当ならアルメニア公爵領
の衣服店を売り込むチャンス?
そんな事を考えていたら、いつの間にか場の話は変わっていた。今
の流行だとか、それぞれの家の様子だとか。
話の中心は主催者であるドランバルド伯爵夫人とお母様。ドランバ
ルド伯爵夫人がそれとなく話を皆に振り、そして場を和ませている。
お母様も主催者を横に出しゃばらず、けれども場を明るくするよう
に心がけているのが見て取れる。
﹁⋮⋮そういえば、モンロー伯爵家なのですけれども。最近随分と
羽振りが良いとの噂が出ておりますが、ご存知でして?﹂
258
レメディ夫人が、そんな話題を口にした。
﹁いえね、最近モンロー伯爵家が随分と催し物を開くことが多いの
ですよ。夫人はそれはもう大きなダイヤモンドのネックレスをおつ
けになられていたかと思えば、翌々日の催し物では大きなエメラル
ドのイヤリングとネックレス。宅に宝石商が来た時にそれとなく聞
いてみたら、随分とモンロー伯爵が宝石やドレスをお求めになられ
ているようですよ?アズータ商会にも、随分芦毛なく通われている
とか﹂
﹁私はアズータ商会の経営のみで、顧客の管理等は別の担当の者が
行っているのでそこまで知りませんが⋮お話を聞いていると、凄い
ですわね﹂
目線が此方に来たので、とりあえず答える。私は基本全体的にしか
見ていないから、それぞれの顧客管理というのはセイや現場の人に
任せていて、それぞれの家がどれだけ買ったとかまでは把握してい
ない。まあ、知ってても言わないけれども。
というか、レメディ夫人の話が本当なら、モンロー伯爵はどうして
そんなに羽振りが良いのかしら?元々?否、確か彼処って穀倉地帯
よね。何か急に事業を始めたとかは聞いていないけれども⋮⋮。
﹁そうでしょう?パーティーでも、話題になっていたのですよ﹂
﹁羨ましい限りですわね。宝石と言えば、ドーラ夫人。先日パーテ
ィーで付けていらっしゃった宝石は、何処でお求めになられたの?
とても美しくって、私一目で魅了されましたよ﹂
259
ここでお母様が話題を転換した。もう少し聞いてみたいとも思うが、
ここ辺りが引き際かしら。というか流石お母様、よくパーティーで
人の事を見ていらっしゃるなと思う。
﹁あれはですね、トパーズなんですの。あの赤みがとても美しくっ
て、私も一目で魅了されて旦那様におねだりしてしまいましたわ﹂
﹁女性のおねだりは男性の方々の甲斐性を示す良い機会ですわ。ダ
ナス伯爵も喜ばれたのは?﹂
レメディ夫人のお言葉に、そうなのかな?と疑問に思ったが、取り
敢えず口は閉じたまま。生まれ変わる前は旦那様いなかったし、今
世では婚約者がいたにはいたけれど⋮⋮お買い物に付き合って貰っ
た時、エドワード様は大分面倒くさそうな顔してたわよね。
﹁いえ、夫は宝石に疎くて⋮⋮﹂
﹁宝石に疎くても、きっとそれで着飾ったドーラ夫人を見て、きっ
とダナス伯爵も惚れ直した筈ですわ。ねえ、メルリス夫人?﹂
﹁ドーラ夫人は若々しく、お可愛らしいお方ですもの。寧ろダナス
伯爵はパーティーの間気が気じゃなかったのでは?﹂
お母様のお言葉に、キャッと皆が黄色い声を挙げた。そこから何処
何処のお宅の誰々がカッコいいだとか、そんな話が飛び交う。娘を
持つ夫人は、どんな人を旦那にして欲しいかなどの夢を語る。その
辺りは、話に入れなかったので聞き役に徹した。
⋮⋮お母様も、私に誰かに嫁いで欲しいとそう思っているのかしら
?エド様とあんな事になっちゃったから、私に嫁ぎ先はないも同然。
260
今もお母様は私に遠慮しているのか、娘にどんな旦那が欲しいかと
いうのは口にしていない。⋮とは言え、それが有難いのだけど。
﹁⋮⋮アイリス様はどう思われます?﹂
レメディ夫人の言葉に、私は我に返った。ダメね、茶会中に考え事
に熱中しちゃうなんて。
﹁すいません、今少しぼんやりとしてしまっていて⋮⋮何をですか
?﹂
﹁将来の旦那様ですよ。どんな方が宜しいと思っていらっしゃるの
ですか?﹂
﹁私、皆様もご存知の通り婚約を破棄された身ですから。大人しく
領地にて終生を過ごしたいと思っておりますの﹂
将来の夢は、孤児院か何かで子供達に囲まれて生活。⋮良い将来設
計ではないか。
﹁まあ⋮アイリス様、ご冗談を。アルメニア公爵家のご令嬢にして、
領主代行と商会経営という華々しい経歴の持ち主であり、更には王
太后様が特別目を掛けてくださっている貴女には引く手数多ですわ
よ?﹂
﹁⋮⋮そうなんですか?﹂
261
﹁ええ。我が家が公爵家でしたら、是が非でもお申し込みさせてい
ただいていましたわ﹂
レメディ夫人は残念そうに溜息を吐いた。それに同調するように、
サリナ夫人が頷く。
まさかそんな風に見られているとは思ってもみなかったので、少し
驚いた。⋮とはいえ、じゃあ何処かの人と結婚するかと問われれば、
今のところその考えはないのだけど。
⋮それから日が沈む少し前ぐらいまで、会は続いた。緊張したけれ
ども、終わってみればとても楽しい会だった。それも、皆を楽しま
せようとするドランバルド伯爵夫人のお力故だろう。
ホストになった事はなかったし、今後もあるかどうか分からないが
⋮いずれこうした奥様方の会を開く立場となったら、私もドランバ
ルド伯爵夫人のような優しい雰囲気の会⋮⋮もしくは、やはりお母
様のような洗練された会を開けるように、少しずつ修行をしようっ
と思った。
262
王都散策
さて、本日は王都の散策。ミモザから同行できるとの返事も来て、
ずっと楽しみにしていた。
﹁⋮⋮お嬢様、そろそろお支度を﹂
日課のヨガをしていたところで、ターニャから声がかかった。あら、
もうそんな時間なのね。そこから急ぎシャワーを浴びて支度を開始。
今日は街に出るから、“アリス”の格好に着替える。
﹁ミモザ様がお着きになられました﹂
﹁じゃあ隣の部屋で待ってて貰って。すぐに行くから﹂
支度が完了すると、私の部屋の隣の部屋へ。隣のその部屋も私の部
屋なんだけれども、さっきまで着替えていたところがプライベート
な空間だとすると、その隣の部屋は私専用の応接室という感じだ。
﹁おはよう、ミモザ。朝早くからごめんなさいね﹂
﹁おはよう、アイリス。あら⋮よく似合っているわね﹂
﹁ミモザこそ﹂
ミモザも本日は街にお忍びで出るということで、いつもより大人し
めな格好。商人のお嬢さん、といったところかしら。
﹁それから、この格好での私はアリスよ﹂
263
﹁なあに?それ﹂
ミモザは興味津々といった感じだ。
﹁偽名よ、偽名。街で私の名前を大っぴらに出すのもねえ⋮。それ
に、まずは形からって言うでしょう?名前を変えただけでも、随分
気持ちも変わるものよ﹂
なんと言うか、女優な気分。その名前で呼ばれることで、役に入っ
た⋮みたいな感じかしら。
﹁なるほど⋮⋮じゃあ、私の名前はミーシャでお願いするわ﹂
﹁分かったわ。それじゃ、ミーシャ。早速行きましょうか⋮⋮と、
その前に紹介するわね。ターニャは知っているでしょうけど、この
2人は今日の護衛役を務めるライルとディダよ﹂
後ろに控えていた2人は、わたしが紹介をするとスッと頭を下げる。
ライルは分かるけれど、ディダって普段飄々とした感じだから何と
なく違和感を私は感じた。
﹁初めまして⋮だけど、名前はよく聞いていたから、初めての気が
しないわね。今日は宜しくお願いします。それから、こっちが私の
護衛のハリーとダンよ﹂
ミモザの側に控えていたハリーとダンそれぞれ頭を下げる。
﹁ハリー、ダン。宜しくお願いしますね﹂
264
私も2人に挨拶。ハリーとダンはこれぞ護衛!って感じで、少し厳
つい感じ。取り敢えず、私服らしきものを着てくれているから、ま
だマシかしら。
﹁それじゃ、時間もないしサクサク行くわよ﹂
まずは、王都にある喫茶店に向かってみた。ここでは、チョコレー
トのお菓子やデザートなんかを食べることができる。後は、ハーブ
ティーが売りかしら。
覗いてみれば、盛況な様子。人が列を作って並んでくれていた。な
るべく価格を抑えるようにしているから、貴族ではなく街の人たち
が多い。
﹁さ、並びましょうか﹂
﹁⋮⋮失礼ですが、アリス様。ここは、名前を出して入れて貰うべ
きでは?﹂
そっとターニャが進言してきた。皆同じ事を思っているのか、頭の
上にハテナマークが並んでいる様子。
﹁それでは、何も知らせずに来た意味がなくなるでしょう?どんな
接客をしているのか、出している品はどんな感じになっているのか、
来店している人はどんな様子なのか、客として見てみないと。並ぶ
時間も込みで、今日は1日取っているの﹂
﹁出過ぎだ真似、失礼致しました﹂
﹁ミーシャ。そんな感じだから、今日は結構歩いたり待ったりする
265
けど宜しいかしら?﹂
﹁ええ。歩いたら歩いた分だけ、お腹も空くから丁度良いですわね﹂
﹁なら、良かったわ﹂
それから、私たちは結構な時間を待って、やっと店内に入れた。⋮
⋮これは店を拡充するべきか。店の中の様子を見て考えましょうっ
と。
店内は2つのスペースに区切られていて、片方はお持ち帰り用の店。
もう片方が喫茶店のスペースとなっている。
うーん⋮⋮最早、持ち帰り用の販売場所を別のところに建てようか
しら。結構なスペースを取って販売しているから、普通の製菓販売
店と変わらないし。とは言え、食べた後に買って帰ろう⋮なんて考
えている人もいるでしょうし。それなら2つ纏めて大きな土地に引
っ越させる?それとも、2号店の出店?ううーん、悩む。
﹁いらっしゃいませ。何名様ですか?﹂
﹁7人です﹂
﹁申し訳ございません。席が2つに分かれて良ければ、すぐにご案
内ができますが⋮⋮﹂
﹁それで良いです﹂
と言うわけで、席は別々。見たら席同士は割と近かったので、私・
ミモザ・ライル・ターニャで、後1つがハリー・ディダ・ダンの組
266
み合わせ。最初、ターニャはバランスを考えて私と別テーブルにし
ようとしたんだけど、ターニャは難色を示した。私と席が離れるの
は⋮⋮と。そしたら、ミモザがハリーと変われば良いと言ってくれ
た。警備上、それもどうなの?と思ったが、ミモザ曰くライルとデ
ィダがいるだけで心強いとのこと。⋮⋮何だか凄くウチの警備2人
は信頼されているのね。
私はケーキセットを、ミモザはフルーツの盛り合わせチョコレート
ソースがけのセットを頼んだ。そして注文を終えて後は来るのを待
つだけとなり、私とミモザは軽くお喋りをしていた。
この喫茶店のシステムは、ウェイトレスが注文を受け取ったらそれ
を紙に書き出し、厨房にオーダーを通す。その紙を番号の書かれた
木札に挟み、会計用のカウンターに保管。その番号は全てテーブル
の端に置かれている木札の数字と同じもの。そして、テーブルの木
札は表面が剥き出しの木だが、裏面は白く塗られている。全ての注
文が揃ったら白色にして、追加注文があったらまた元の方に戻す。
勿論、追加注文を受けたらオーダーを通す前に会計カウンターの紙
に書き加える。⋮というなシステムとした。
また、会計の時には計算が大変⋮とのことだったので、算盤を導入
してみた。日本にいた頃、小学生の時には算盤のを習っていて良か
った⋮と思う。従業員の子達も最初こそ戸惑っていたようだが、今
では手慣れたもんだ。暗算も速くなったと好評。喫茶店だけでなく、
寧ろ領の初等部の授業で習わせるのも良いかも⋮とこの頃検討中。
話しながら頭の中でそんな事を考えていたら、いつの間にかオーダ
ーした物が届いた。
﹁わあ⋮美味しそう⋮⋮!﹂
267
ミモザは嬉しそうにそれを眺めながら食べ始める。私の場合、新製
品をここの料理人かメリダが考案した時には必ず試作品を食べさせ
られているので、真新しさというのはない。とは言うものの、やっ
ぱりお店で食べるのと家で食べるのって何か感じが違うわよね。
﹁⋮⋮んー!!美味しい!﹂
ミモザは満足そうにそう言ってくれた。何だか、自分の事のように
嬉しい。
﹁それは良かったわ﹂
忙しいだろうが、接客も提供された物も雑になってない。本当に、
従業員皆も頑張ってくれているのだと嬉しくなる。
﹁そういえば、どうして喫茶店を始めようと思ったの?﹂
ふと、ミモザがそう聞いてきた。気がついたら彼女の目の前の皿は
スッカリ綺麗になっていた。
﹁別に、これと言った理由はないのよ。ただ、うちに良い原材料が
あったから⋮⋮それだけよ﹂
﹁それでこれだけ人気店になったっていうのだから、驚きね﹂
﹁私の場合、周りに恵まれていたからね﹂
置かれた環境もそうだけど、小さい頃からの仲であるターニャ達。
⋮本当に、恵まれていると思う。
268
﹁⋮⋮さて、そろそろ出ましょうか﹂
そうして会話をしている間に私も食べ終わったので、会計を済ませ
ると店を出た。
﹁じゃ、次は美容品店ね。ゆっくり、王都見学をしながら行きまし
ょうか﹂
喫茶店と美容品店は少し離れたところにあるので、結構歩く。途中、
店を見つけたら中を見て、王都の大体の物価を見ることも忘れない。
﹁⋮⋮あら?﹂
ふと、途中で私の足が止まる。
﹁どうしたの、アリス?﹂
﹁今、ユーリ令嬢を見た気がしたのだけれども⋮﹂
人混みに紛れて、よく見えなかった。それに、いつもは取り巻きと
化した人々を引き連れていたので、それはもうよく目立っていたけ
れども⋮今は、1人か2人だった気がする。
﹁見間違いじゃない?彼女が1人で来る事は絶対ないでしょうし﹂
﹁⋮⋮それも、そうね﹂
この前ミモザと会った後に彼女の事をターニャと話していたからか
しら。その存在が頭から離れていなかったのかもしれない。
269
気を取り直して、次の店へと向かった。
270
王都散策
弐
美容品店では喫茶店と同じく並んで店に入り、中の様子を見回った。
ミモザがあれもこれも欲しいと言っていたが、どうせこの後会員制
の店も見るのだから⋮と、自重して貰った。
会員制の方では、流石に貴族しか入れないので私もミモザも素性を
明かすしかない。応対は全て個室だけど、他の貴族の方々にバッタ
リ店内で会う可能性があるし。
店の中に入れるのは、会員1人につき付き人を含めて3人までなの
で、私・ターニャ・ライルで1組、ミモザ・ハリー・ダンの1組で
入る。⋮制限かけないと、やたらめったら侍女や護衛達を皆引き連
れて来て、店の中がゴミゴミしちゃうため、そういう措置を取って
あるのよ。そのため、店の一角には待機する護衛達の為の控え室も
用意してある。⋮ディダはそこで待機せず、店の入り口や周囲の警
備をしておく⋮と言っていた。
そして、いざ店内の中へ。⋮王都・貴族が別邸を構える区画にこの
店はある。空いていた館を丸々買い取ったので、庭もあり、敷地の
中に入ってから実際に店内に入るまでの道のりは長い。まず、門で
会員証を提示。そして館まで続く道の周りは緑溢れる美しい庭園を
眺めつつ、店内に入った。中に入ってからも、まずは執事に出迎え
られて会員証を提示する。そして、それぞれ個室に案内される⋮と
いう訳だ。
﹁⋮⋮アイリス様。ようこそ起こし下さいました﹂
出迎えた執事は、私を見ても取り乱さない。因みに彼の名前は、バ
271
ラット。前職はとある商家の家で執事をしていた。
﹁あら、驚かないのね﹂
﹁王都にいらっしゃる事は存じ上げておりました。それ故、いつか
いらっしゃるのでは⋮と思っておりました﹂
﹁まあ、それじゃあここに抜き打ちの視察はできませんね﹂
冗談めかしてそう言うと、バラットはニヤリと笑った。好々爺然と
していたのに、その笑顔は妙に迫力があった。
﹁恐れながら、アイリス様。ここは貴族の方々が連日いらっしゃる
店でございます。些細な事でも大事に至るやもしれないと思うと⋮
一時も気を抜けませんよ﹂
﹁そう。それなら、中を見るのが楽しみだわ。貴方とは少し話した
いから、ミモザを先に案内してちょうだい﹂
﹁畏まりました。ミモザ様、それではご案内致します﹂
﹁お願いしますね﹂
﹁バラット。私はそこで待つから、案内が終わったら迎えに来てち
ょうだい﹂
﹁畏まりました﹂
バラットとミモザを送り出し、私は入り口から離れてとある部屋に
入る。入り口近くのこの部屋は、特に用途の決まってない部屋。広
272
い館なだけあって、部屋数はかなりあるのよ。
2階は、基本的に客達の応対をする個室。1部屋につき1人、従業
員兼使用人の人たちが付いて、客たちの望むモノを提供したり新商
品の案内を行うようになっている。そして1階は商品の在庫置き場
と従業員達の休憩所がある。今私がいる部屋のように用途が決まっ
てない部屋も1階には結構あるので、もし今後ここも混み合うよう
なら活用しようかななんて考えている。
﹁いらっしゃいませ﹂
あら、誰か来たみたい。入り口から近くにあるこの部屋では、玄関
先での声が聞こえる。
﹁今日は連れもいてな。宜しく頼むぞ﹂
そっと扉を開けて伺い見れば、戻ってきていたバラットが応対をし
ている。誰が来たのかなと思ってその向こう側を注視していたら⋮
⋮あら、あれモンロー伯爵じゃない。少し離れているけど、あので
っぷりとした体型とくるんと金髪の前髪がカールして額を隠してい
るあの姿⋮間違いないでしょう?噂をすれば⋮というやつかしら。
連れの方という人に目を向ける。奥様かご子息か⋮と思ったら、全
く見覚えのない人。女の人だったら愛人かなとも思ったんだけど、
特に特徴のない方。でも、連れというからには使用人や護衛はまた
違うだろうし⋮誰かしら?なんて思っていたら、2人は上へと上が
って行ってしまった。
﹁お待たせ致しました、アイリス様﹂
ぼんやりとしていたら、ノックの音がしてバラットが入って来た。
273
﹁大丈夫よ。それより、バラット。モンロー伯爵はよく来るのかし
ら?﹂
﹁はい、仰る通りです。1週間に1・2度は必ずいらっしゃいます
ね﹂
﹁そう﹂
割と多いわね。⋮店としては嬉しいことなのだけど。
﹁どういった物を購入されていくの?﹂
﹁多いのは、伯爵は菓子類でしょうか。後、最近当店のオーディコ
ロンもご購入いただいています。それから奥様やご子息の方を伴っ
てというのも多いですね﹂
普通と言えば普通⋮なのかしら?とは言え、この店の価格設定自体
高いから、量にもよるけど。
﹁へえ⋮⋮奥様とご子息の方々はどんなものを?﹂
﹁奥様は、やはり美容関係でしょうか。ご相談を受けることも多い
ですね。ご子息の方はやはり伯爵と同じチョコレートを。お二人分
だと結構な量になりますので、毎回馬車に詰め込むのに多少時間を
いただいています﹂
結構な量ね⋮それって。どうやって消費しているのかしら⋮と一瞬
思ったけど、モンロー伯爵って結構パーティーを開催しているみた
いだからそこで振舞っているのかしらね。
274
﹁アイリス様⋮⋮?﹂
考え込んで黙っていた私に、バラットより声がかかった。
﹁あら、ごめんなさい。話というのは、そんな大きな事ではなくて、
ただ単に困ったことがないかとか改善したいと思っていることとか
⋮そういうのが何かないかを直に聞きたいのよ。勿論、貰った報告
書は確り毎回確認しているわよ﹂
どうせ名前を明かしているのだから、現場の声を聞きたかっただけ。
それに、ここは貴族を相手にしている以上、何か困った要求をされ
るだとか気苦労とか、他と比べて多そうだし。
﹁左様でございますか。今のところ、特に問題ありません。強いて
言うのであれば、もう少し従業員を増やしていただけるとありがた
いですが⋮⋮﹂
﹁従業員、ね。どこの?﹂
﹁まずは料理人を。ここで注文されて食べていかれる方も多くなり
ましたので﹂
﹁そう⋮ただ、料理人に関しては結構研修期間を長くせざるを得な
いから、新しく採用しても待ってもらうしかないと思うけれども⋮
早急に対応するわ﹂
家に帰ったら、早速もう一度ここ最近の売り上げと見比べてみよう。
﹁ありがとう。それじゃ、私も部屋に案内してちょうだい。ここか
275
らは、客としてこの店を見させて貰うわ﹂
﹁畏まりました。それでは、案内させていただきます﹂
それから、客として対応して貰って視察は終了。特に問題はなかっ
たので、あれこれ言わずに出た。
⋮⋮ミモザ中々出てこないなあ⋮なんて思いつつ彼女の事を待つハ
メに。出てきた時には大分満足げな顔だったから、中々良い買い物
ができたのだろうと思う。⋮詳しくは聞かなかったけれども。
そんな感じで、今日の視察は終了。後少しで王都の滞在も終わりか
と思うと寂しいような、早く領地に帰りたいような⋮⋮。
﹁今日はありがとう、アリス﹂
﹁此方こそ、本当にありがとうミーシャ﹂
⋮⋮そんな複雑な気持ちを感じつつ、私は家に帰った。
276
王都散策
弐︵後書き︶
前話で出てきた“精算”ですが、会計のことです。直しました。従
業員の人たちがやっているのは、客たちの会計のみなので、算盤で
計算しているのは足し算・引き算のみです。分かりにくくてすいま
せん。
感想ありがとうございます。少しずつ誤字脱字は直していきます。
今後とも宜しくお願い致します。
277
夜会
もう少しで、王都の滞在期間も終わる。そして、今日はメッシー男
爵家に訪問する日。お母様が集めた情報によると、メッシー男爵は
シーズンオフより一足早く領地に戻るらしい。そのための、パーテ
ィー。要するに、お別れ会というヤツだ。
第一王子の陣営のメンバーで地方に領地を与えられている者は、基
本、領地経営に専念している者が多い為、一同が集まる機会が少な
い。逆に、こうしたシーズン中のパーティーでは、出席率は高いと
のこと。
そんなパーティーに、私が出席して良いものなのかしら⋮?と思わ
なくもない。
朝、ヨガで精神統一。横では、ヨガにすっかりハマったお母様が、
お揃いの服でヨガをしている。
﹁まあ、アイリスちゃん。表情が硬いわよー。今からそんなんじゃ、
疲れちゃうわ﹂
﹁そうでしょうか⋮?﹂
﹁ええ。折角身体を解しているのだから、表情も解してー⋮⋮そう
そう、そんな感じよ﹂
ヨガを終えると、シャワーを浴びて着替える。今日のパーティーは
夕方からだから、今はまだ普段着。
278
少し時間に余裕があるので、セイやセバスから上がってきた報告書
を眺めつつ、指示が必要な物については早急に返事を送る。うーん
⋮やっぱり現場にいるって大事よね。手紙が届くまでの時間を考え
ると、私が状況を把握する頃には状況が変わっていることもあるし。
こういうのを見ていると、余計な感傷は捨ててさっさと領地に戻ら
なきゃなんて思う。
書類と格闘していたら、ノック音がしてターニャが部屋に入ってき
た。
﹁お嬢様。そろそろお支度の時間です﹂
あら、もうそんな時間?やっぱり集中すると、時が経つのは早いわ
ね。
遅れる訳にはいかないので、すぐに支度を開始。今日は夜のパーテ
ィーなので、この前のドランバルド侯爵のそれよりも、少し公式行
事の時に近い感じのドレス。とはいえ、やっぱり重いドレスを着る
気にはならないので、スッキリとしたデザインだ。
ターニャに、髪をアップに纏めて貰っている間に、私はアクセサリ
ーを付ける。今日のドレスは私の瞳の色に合わせた濃い青色のドレ
ス。アクセサリーも、私の髪色が銀髪のため、白とかだと映えない
のでサファイアと青色。そのため、ドレス全体に施されている銀糸
の刺繍が結構目立つ。
支度を終えたら、結構良い時間。女の支度に時間がかかるのは世の
常と言うけれども、ドレスだと余計時間がかかる。そもそも、誰か
に手伝って貰わないと着れないし。
279
そのまま馬車に乗って、男爵家に向かう。ふう、緊張するなあ⋮⋮。
同じ王都⋮それも貴族が館を構える区画にウチもメッシー男爵家の
家もあるので、あんまり距離はない。とはいえ、やっぱり緊張して
いるからか妙に距離を感じる。
緊張感でガチガチになりつつメッシー男爵家に着くと、そのままホ
ストであるメッシー男爵にご挨拶。
﹁本日はお招きいただきまして、ありがとうございます﹂
﹁こちらこそ出席していただきまして、ありがとうございます﹂
メッシー男爵は、流石軍に在籍されていた方なだけあって、均整な
体つきをしている。⋮それなのに、1つ1つの動作が美しくて粗野
なのに感じが全く見受けられない。素敵なロマンスグレーのおじ様、
というのが私の中での印象。
﹁お祖父様も残念がっていましたわ。今回の会に参加できなくて﹂
お祖父様は出席したがっていたけれども、生憎の欠席。何でも、他
にご用があるのだとか。その用事については詳しく話してくれなか
ったけれども、酷く残念がっていた。⋮まあ、私なんかよりお祖父
様の方がメッシー男爵と関係が深いもの。
﹁恐れながら、私も非常に残念に思っております。是非、また次の
機会にいらして下さいとお伝え下さい﹂
﹁はい。必ず﹂
ホストへの挨拶を終えて、私は会場を見回わした。まあ、凄いわね。
280
⋮それが私の中での最初の印象。あちらこちらで名の通った方ばか
りなのだもの。貴族で言えば、何らかの功績をたてて貴族に取り上
げられる方々。後は平民ながらその技術力を買われている方や芸術
性に期待を寄せられている方。官僚として第一線で働き、お父様か
らその名を聞くような方々。そんな有名な方ばかりの集まる会なの
だから驚くのも仕方ないことだろう。
﹁⋮⋮アイリス令嬢、お久しぶりに存じます﹂
﹁まあ⋮サジタリア伯爵、お久しぶりです﹂
サジタリア伯爵は、この国の財務大臣を務めていらっしゃる。平た
く言えばお父様の部下なので、私も面識があった。確か伯爵はその
力量を買われて王太后様が女王であった頃にその地位に抜擢された
方。今は好々爺然しているけれど、あの王城内で一癖も二癖もある
人々達と渡り合っているのだ⋮とてもその見た目通りだとは私には
思えない。
﹁まさかサジタリア伯爵がいらっしゃってるとは、思いもしません
でした﹂
国の行政の中でも、重要なポジションにいる彼がまさか何方かの王
子に肩入れするとは思ってもみなかった⋮これが、私の本音。
﹁私のような一介の官が王位のあれこれに口を出すことはできませ
んよ﹂
まあ、直接的には言えないだろうけれどもね。影響力はかなりある
だろう⋮王国の財布の紐を握り続けているのだ。それなりの発言力
はあって然るべし。
281
﹁ですが、王国にとって何方の方が国のため⋮ひいては民のために
なるのか。それを考え行動するのが、官民の役目だと私は思ってい
るだけのことです﹂
﹁なるほど。貴方にとってあの御方こそが、国のためになると﹂
サジタリア伯爵は、私の言葉にただ笑みを深めるばかりだった。
﹁そういえば、アイリス令嬢。今宵のお召し物も、とても素晴らし
いものですな﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁それも、東方との交易で⋮?﹂
﹁いいえ。これは、単に私の領の衣服店に注文したものです﹂
﹁ほう。アルメニア領には、逸材が揃っておるのですな。海に面し
ているのも、羨ましい。塩の精製、他国との交易で得る外貨⋮海に
面しているというのは、それだけで領を富ませることができるので
すから。交易の方は量を見る限り順調そうですな﹂
﹁え、ええ⋮まあ。民達のおかげです﹂
流石、サジタリア様。各領の動向はしっかり把握されていらっしゃ
るのね。
﹁ご謙遜を。少なからず貴女の指示によるところも多いのだと、私
は伝え聞いておりますが?﹂
282
取り敢えず、私はその問いに笑みだけを返す。何というか、言葉に
詰まってしまった。痛くない腹だけど、探られているようで少し面
倒。
﹁他、領政においても随分活躍されているのだとか。税制の見直し、
孤児の保護それから強兵政策の類にも着手されているらしいですね。
⋮一体貴方は、最終的にどこを目指しておられるのか﹂
平たく言えば、交易で外貨獲得し、他領からも商業で金を集め、自
領では軍隊を作り上げて何を企んでいるんだ?というところかしら。
私も今考えてあら、ビックリ。これじゃサジタリア伯爵でなくても
何考えているんだか警戒するだろう。
﹁私の目標は、民達に安心して暮らして貰えるようにすること。よ
り細かく言うのであれば、身の安全・生活の安定を保証できる領と
いったところでしょうか。そんな目標⋮いえ、理想と言った方が合
ってますね。その理想にどこまで近づけることができるのか。これ
は永遠に追求するより他ないかと⋮ですから“最終的に”などない
のです﹂
﹁なるほど⋮⋮。私、とても感動しました。民の為の政ですか⋮貴
方はお若いと言うのに、既に公僕であろうとしているのですね。で
すが、お気をつけ下さい。今の貴女の発言は、民の為なら国にすら
牙を剥くと捉えられかねない﹂
﹁ご忠告、感謝致しますわ﹂
国に反旗を翻すつもりはないわよ。私自身はうっすいけど一応これ
283
でも我がアルメニア公爵家は王家に忠誠を誓っているのだもの。
けれども、私はそれ以上に民を守らなければならない。だから、状
況によっては国と対立する可能性だって勿論ある。最後の札で、最
も切りたくないカードとしてその選択肢は私の頭の隅に。⋮とは、
流石に言えないけどね。
284
夜会
弐
﹁アルフレッド王子も、貴女の腕を評価されていました。幾つか行
われているアルメニア領の施策は、国としても行っていきたいと﹂
﹁まあ⋮アルフレッド王子が﹂
﹁⋮⋮驚かれないのですね?﹂
﹁あの御方がこの国にいるという事は、既に聞いておりますもの。
何より、こうして派閥があるからには、そのトップと所属している
方々は密に連絡を取り合っている筈でしょう?﹂
実際、ここにいる方々って有能だけど何だか個性的そうな方がチラ
ホラ。そんな方々を集め、かつ纏め上げているのだもの⋮実際トッ
プがいなければ話にならないでしょう。特に、こんな難しい局面で
は代理の人を立てることも難しいでしょうし。
﹁そして、ここにいらっしゃる方々があの御方を支持しているので
あれば⋮私の領のことも伝え聞いているでしょう﹂
何せ財務大臣であるサジタリア伯爵を筆頭に、沢山の官僚がここに
はいる。彼らが付き従っているのであれば、それなりに政務を行っ
ているというのは想像に難くない。
﹁あの御方が我が領の領政を評価して下さっているとのこと、とて
も光栄ですわ。ただ、それが国に合うかは分かりかねますが⋮﹂
私があそこまで改革を推し進められたのも、トップが私のみだから
285
というのが大きい。この国は領主の権限が大きいから、もし仮に国
単位で改革を進めるとなると、それぞれの領主との交渉から調整等
々かなりの時間と手間を要するだろう。
﹁あの御方なら、成し遂げるでしょう。既存の体制を変え、真に1
つの王国として﹂
私の意図を読み取ってか、サジタリア様は笑って言った。けれども、
最後の一言に私はひっかかりを覚える。既存の体制を変えて、真に
1つの王国として⋮⋮?
サジタリア伯爵は、まるで悪戯っ子のようにニヤニヤとした表情を
浮かべている。まるで、私がどんなことを考えているのか測ってい
るようだ。
さっきも言った通り、この国の領主の権限は強い。基本的に領が1
つの国家というイメージでその上に国があるというような形。その
ため、税法や立法はあくまで国法に反しない限りでの裁量が認めら
れている。私が好き勝手できているのも、これのおかげ。唯一の例
外は王都で、これは王国の直轄地とされている。
さて、既存の体制を変えるという言葉がもしこの体制を変えるとい
う意味であるのなら⋮⋮それは、王権の強化ということかしら?領
主の権力を削ぎ、王族に集中させる⋮⋮確かにその方が王国として
体制を整え易いのかもしれない。けれども、反発が大きいのは想像
に難くないわよ。本当に、そんなことが可能なのかしら?
⋮⋮それ以前に、何故サジタリア伯爵はそんな事を私に今、言った
のかしら?私はこの場にいるとはいえ、第一王子派に所属している
と明示していないのに。
286
そこまで考えて、ふと私の中でさっきの会話が思い浮かんだ。
“最終的にどこを目指しているのか”。
まさか、さっきの話に繋がるということ?もし、仮に⋮本当に可能
性は低いけれども、その体制ができたとして。私は“どうするのか
”⋮それを聞きたいということかしら。反発し、独立をするのか⋮
それとも国に従うのか。お父様でなく、領主代行として実際に領主
の業務を行っている私の考えを探っておきたい⋮と。
﹁⋮私は、あの御方にお目通りが叶っておりませんから、どのよう
な方か分かりません。なので⋮私には測りかねます。ですが、もし
仮に叶ったとして⋮それが民のためになるのであれば、私にとって
これに勝る喜びはありません﹂
アルフレッド王子に会ったことがないから、何とも言えない。これ
が、私の本音。だから今は、支持するともそうでないとも明確には
言えないわ。
﹁そうでしょう。⋮⋮いやはや、面白い。いずれ、あの御方の横に
貴女が並び立つ姿を見たいと思うほどに﹂
﹁まあ⋮⋮。お戯れを。並び立つ、など恐れ多いことですわ﹂
﹁これは失礼。悪戯が過ぎましたね﹂
それからサジタリア伯爵と別れた後、幾人の方とご挨拶をして、休
憩がてら端に置いてある椅子の1つに座った。
こうして見ると、この場にいる面々って本当凄い方ばかり。サジタ
287
リア伯爵との会話をしていた時を筆頭に、少し気を張り過ぎて疲れ
たわ。
そんな事を考えつつグラスを傾けていたら、何と今日のホストであ
るメッシー男爵が私の側に来た。
﹁今日の会は如何ですか?﹂
﹁とても楽しませていただいてますわ﹂
ニッコリ、笑みを貼り付けて応対。気を緩めれば、疲れが顔に出そ
うだわ。
﹁⋮⋮そういえば、メッシー男爵。1つ、聞かせていただいても?﹂
﹁何でしょうか?﹂
﹁何故、貴方は領地に早くお帰りに?ここにいる皆様方⋮王城で官
僚をされている方を除いて⋮シーズン中は皆様王都に残られると仰
ってました。てっきり、皆様方ももうお帰りになられるかと思って
いましたので⋮⋮﹂
結構踏み込んでしまったかな、と思ったもののメッシー男爵は口を
開いてくれた。
﹁それが、私の与えられた任務だからです﹂
﹁⋮⋮任務、ですか?﹂
﹁ええ。アイリス令嬢は、ガゼル様にトワイル戦役のことは⋮⋮?﹂
288
﹁勿論、聞いております。ですが、私の知識は書物にあるものとそ
う変わらないでしょう﹂
﹁十分です。⋮⋮貴女が聞いた通り、私はかつてトワイル戦役でガ
ゼル様の下で戦った者。そして、その戦役での武功により、爵位を
賜りました﹂
そう説明するメッシー男爵は、遠い目をされてる。
﹁ですが、私はあくまで軍籍の身。爵位を賜っても、それは変わり
ません。そして、トワイル国との休戦は締結されていないのですか
ら⋮私は国境を預かる者として、あまり領地を空ける訳にはいかな
いのです﹂
⋮⋮確かにそうよね⋮と思いつつ、けれどもやっぱり釈然としない。
まあ同じ国境の領を治めているモンロー伯爵とは、“軍出身だから
”メッシー男爵の方が警戒心が強いというのは分かるけれども。で
も、それにしても早いような気がする。何せ、公式行事である建国
記念パーティーの開催前ギリギリにいらしたかと思えば、終わって
すぐ帰られて。本当に開戦間近だと思えてしまって仕方ない。
﹁今尚私の中では戦時中であり、そんな私が貴女に絶対大丈夫であ
るから、心配は不要と言えません。ですから、注意しておいて下さ
い⋮とだけ言っておきましょう。向こうも、すぐに戦いに持ちかけ
ることはないかと思いますが、あの国は常に我々の国を狙っている
ので﹂
﹁豊富な穀物や資源故に⋮ですか﹂
289
﹁ええ。それに加えて、30年前の戦争の憎悪も残っているかと﹂
だからと言って気を抜くなとい
⋮⋮戦争、ね。アルメニア領はトワイル国と間逆の方にあるため、
かなり距離があるのだけれども⋮
うことか。
一度開戦すれば、様々な面で領に負担は降ってくるのだから。
﹁ご忠告、ありがとうございます﹂
﹁こちらこそ、このようなパーティーで無粋な話題、失礼しました。
それでは、私はこれにて失礼させていただきます﹂
﹁とんでもございませんわ。とても、為になったと思いますもの﹂
290
報告と不安
それから程なくして、私は帰らせて貰った。今まであまり交流のな
かった方々とお話ができたし、成果は上々かしら。その日の夜、私
はぐっすりと眠った。⋮これで王都ですべき事は終了。後は、父に
挨拶をして帰るだけ。
﹁⋮⋮⋮アイリス様﹂
翌朝、書類の整理をしていたらターニャに声をかけられた。
﹁どうしたの?ターニャ﹂
﹁2つ、お耳に入れたい事がございます﹂
﹁何かしら?﹂
﹁1つ目、ユーリ男爵令嬢についてです﹂
その名前に、私は手を止めて彼女を見る。
﹁あれから、彼女について調べました。まだ調査は続行しておりま
すが、優先順位の高い事だと思いましたので、分かった事だけでも
先にご報告させていただきます﹂
﹁ええ。それで、何が分かったのかしら?﹂
﹁まず、彼女の生い立ちについて。彼女の母親は元からノイヤー男
爵家に仕えていたのだとばかり思っていましたが、違いました﹂
291
﹁あら、てっきり仕えていた主人との間に関係ができたのだと私も
思っていたわ。それで、元々何処にいたのかしら?﹂
﹁王城です﹂
﹁⋮⋮王城⋮⋮。そこで、その方は何を?﹂
﹁王城で侍女として働いていたそうです。ノイヤー男爵とどのよう
に知り合ったのかまでは分かりませんでしたが、彼女は退職と同時
に男爵家に入っています﹂
﹁出会いは王城、ということかしら⋮。男爵が王城に上がることは、
それなりにあるしね﹂
出逢う可能性はある。でも、そんな関係を持つまでになるのかしら
?とはいえ、現実に結ばれているのだから何とも言えないけれども。
﹁かつての彼女を知る者達に聞いて回りましたが、どうやら同僚の
中でも見目が整っているという事で中々有名だったそうです﹂
流石、ヒロインの母親というところね。ユーリ令嬢はヒロインなだ
けあって本当に可愛らしいし。
﹁別れた後ですが、これは調査が難航しています。母親が生きてい
た頃の話は結構上がっているのですが、彼女1人になった後は中々
足取りが掴めず⋮⋮﹂
﹁女1人で⋮それも見た目的に言ってあんなに目立つような子の足
取りが掴めない⋮ね⋮それで、何か気になることは?﹂
292
﹁母親が生きている頃に、その近所の者が“女1人で子供を育てる
のは大変だろう。身を寄せるところはないのか”と聞いたそうなん
ですが、それに対して母親は“ない”と答えたそうです。ですが、
母親が亡くなった後に親族を名乗る者が現れたらしく⋮﹂
﹁それは、ノイヤー男爵の事かしら?﹂
﹁定かではありません﹂
﹁⋮⋮その親族の者の特徴は?﹂
﹁これと言って、特徴がなかった為に覚えていないとの事でした。
男だったというのだけは聞いているのですが⋮⋮﹂
﹁そう⋮⋮﹂
身を寄せるところがなかったのに、親族を名乗る者が現れた⋮⋮?
それも、母親が亡くなってすぐに?考えられるのは2つ。
1つは、母親が何らかの理由で家と縁を切っていた場合。母親はそ
の理由のせいで実家に頼ることができなかったが、亡くなってユー
リだけを保護したという可能性がある。⋮もしこの考えが正解だっ
た場合、それなら彼女の母親の実家が何処なのかが気になるところ。
そしてもう1つは、単純にお忍びでノイヤー男爵自身が迎えに行っ
ていたか、もしくはその使いが来ていた場合。1番この考えがあり
得そうなんだけど⋮それなら何故ユーリの存在をギリギリまで公表
しなかったのかというのが疑問に残る。
293
どちらにしても、怪しさ満点だわ。
﹁そういえば、ノイヤー男爵はどうやってユーリ令嬢を自分の娘だ
と判別したのかしら?証明も何もないのに﹂
﹁何でも、母親に与えたペンダントで分かったと。何より彼女は母
親にうり2つということも大きかったようです﹂
DNA鑑定等々科学的な証明ができない以上、状況証拠のみになる
のは仕方ない。逆に顔を変える手段というのもないから、顔が似て
いるというのは1番の証拠になるわね。
﹁それでも10年以上探すなんて⋮彼女はノイヤー男爵に余程愛さ
れていたということなのかしら﹂
﹁その理由も定かではありません。今後も調査は行っていく予定で
す。以上で、ユーリ男爵令嬢のご報告は終わりです﹂
﹁そう。宜しくお願いするわね。それで、2つ目はの報告は?﹂
﹁はい。お嬢様が以前確認しておくよう指示を出されていた、モン
ロー伯爵の件です﹂
﹁ああ、あれね﹂
この前アズータ商会の店で会った時から気になっていたので、取り
敢えずターニャに指示を出しておいた。お茶会で聞いた、モンロー
伯爵の話。それから、あのモンロー伯爵と共にいた男の事も。
﹁⋮⋮あの日、モンロー伯爵と共に来店されていたのは、ディヴァ
294
ンという男です。何でも、モンロー伯爵に客人として滞在している
ようでして、よくモンロー伯爵が出かかる時には度々同行している
ようです。アズータ商会にも確認を取りましたが、目撃証言は多数
ございます﹂
﹁客人⋮⋮。一体何処の誰なのかしら﹂
﹁アイラー商会の会頭とのことです。調べたところ、確かにアイラ
ー商会というのは商業ギルドに加盟しています。主に、食料品を取
り扱っている商会です。ですが⋮⋮取引に関してはそれ以上調べる
ことができませんでした﹂
﹁⋮⋮顧客情報を開示しないのは、仕方のないことだわ。でも、あ
の伯爵が一商会の会頭とそこまで懇意にしているなんて。最近あの
家の羽振りが良いのは、その商会のおかげということかしら?﹂
﹁⋮⋮おそらくは﹂
それ以外の要因が考えられない。⋮⋮あの地域は、穀倉地帯。そし
て、アイラー商会が取り扱っているのは食料品。モンロー伯爵の領
地で仕入れて、販売するのは何らおかしなところはない。でもじゃ
あ、それは“何処に”売っているの?
﹁ターニャ。至急、そのディヴァンという男を調べてちょうだい。
アイラー商会のことも、より詳しく。特に、何処に売却しているの
か、またその量についてもね﹂
﹁畏まりました﹂
ああ、嫌な予感がする。昨日のパーティーといい、情勢は目まぐる
295
しく変化している。領に閉じ篭っていた時も気にはかけていたけれ
ども、この王都に来て自分は如何に引き籠っていたのかがありあり
と分かったわ。
王都から領地に帰りたい。でも、この件は放ってはおけない気がす
る。⋮⋮私の知らないところで、着々と何かが進んでいたような⋮
そんな気がしてならない。
296
報告と不安︵後書き︶
それぞれの思惑弐を修正しています。お読みになった方、申し訳あ
りません。
297
閑話:夜会が始まる、少し前
﹁⋮⋮あーあ。何で俺たちまで出なきゃなんねえんだよ﹂
思わずボヤく俺の隣にいるライルは、俺の言葉に眉間に皺を寄せて
いた。
﹁仕方ないだろう、ディダ。師匠たってのお願いなんだ﹂
﹁とは言っても、今日の訓練、俺ら全く関係ないじゃん?﹂
今日の訓練とは、軍部対騎士団の模擬戦闘。それぞれの代表者が勝
ち負けを競い合う。俺ら全く関係ないっつうのに、ガゼル師匠に無
理やり駆り出された。今日お嬢様がメッシー男爵の夜会に出席され
るから、そっちについて行きたかったのに。まあ、メッシー男爵家
なら警護は心配ないし、お嬢様には俺たちと師匠の訓練を受けた警
備隊がついているから心配ない。いざとなったらターニャもついて
るし。⋮最近、ターニャが何処を目指しているのか疑問に思うのは
俺だけじゃない筈。
それは兎も角、野郎ばかりの汗だくな場にいるのならどっちに行き
たいかといえば前者だ。
﹁関係ないが、騎士団と軍部の力が如何程のものか身を以て知るの
は良いことだ。折角の機会、無駄にするなよ﹂
﹁それは良いけどよー。何も今回呼ばなくても良かったじゃねえか。
居心地悪いこと間違いねえもん﹂
今回の模擬戦は所謂ガス抜きってやつ。騎士団と軍部は仲悪いから
298
なー。軍部は騎士団に対して、“実戦を知らないお坊ちゃん”と下
に見てるし、騎士団は騎士団で軍部を“身体を動かすだけが取り柄
の頭のない奴”と下に見てる。俺からしたらどっちもどっちなんだ
けどなー。そのため、こうして時たま交流を兼ねて模擬戦をしてい
るという訳だ。
それもこれも、騎士団からも軍部からも慕われている師匠がいるか
らこそ実現できたものらしいんだけど。師匠としては、自分の腹心
の部下だったメッシー男爵の夜会に行きたいだろうに、今の軍部と
騎士団のビミョーな関係をみるに放っておけないとのことで泣く泣
くこっちに参加するらしい。メッシー男爵は男爵で、何やら重要な
任務があり、これ以上王都に残ることはできないってことで予定的
に今日しか夜会を開く日がなかったとのこと。
不運が重なった師匠には同情するけど、俺らまで巻き込まないでほ
しいと切実に思う。
ってか、軍部と騎士団の模擬戦をただ眺めていろと?退屈そうじゃ
ん。
王城の側にある訓練場では、既に騎士団と軍部の連中が集まってい
た。ってか、師匠まだ来てねえな。
関係のない俺らが来たことで、軍部の連中も騎士団の連中も不審げ
に俺らの方を見ている。⋮ああ、帰りてえな。
﹁おう、お前らも来たか﹂
後ろから、師匠が来た。師匠が来た瞬間、全員が師匠の方を向く。
師匠、流石だな。
﹁ガゼル将軍。失礼ですが、彼等は⋮﹂
299
﹁俺の弟子でなあ。丁度王都に滞しておったから呼んだ﹂
﹁ガゼル将軍の弟子⋮⋮﹂
師匠の言葉に、さっきとは違う視線が俺らに向けられる。挑戦的⋮
いや、見定めるような視線ってやつ?師匠って人気者だなあ。まあ、
師匠の訓練を受けたいという奴は後を絶たないらしいが、それ故に
個人レッスンを受ける機会がない。という訳で、こんな視線を寄越
してくるのだろう。
﹁さあ、始めようか。騎士団長殿﹂
﹁はい。胸をお借りしますぞ、ガゼル将軍﹂
騎士団長⋮確かドルーナ・カタベリアだっけ?ふーん、こいつの息
子がお嬢様と同じ学園に通ってたってことか。
そこから、1対1の試合開始。それぞれ選り抜きの奴らなだけあっ
て試合は中々見応えがあった。
軍部と騎士団の力量は五分五分。ただ、少数精鋭を謳っている騎士
団に選り抜きの奴らとはいえ、軍部の奴らが喰らい付いているのに
は中々驚いた。
4人ずつ出て、次が最後の試合。騎士団の方からは騎士団長の息子
が出てきた。そして軍部からも1人出てくる。
﹁ちょっと待ってくれんか!﹂
今から試合が開始しそうな空気の中で、師匠がそれをぶった切る。
300
﹁今回の試合は2対2としてもらえんか?﹂
﹁2対2⋮⋮?﹂
誰もが師匠の言った言葉にはてなマークを飛ばしていた。
﹁そう!最終試合に出るものが組み、ここにいる俺の弟子と戦って
もらえんか?﹂
急に回ってきた話に、俺は“は?”と呆気に取られてしまった。隣
のライルは予想していたのか、それともただただ呆れているのか無
表情だ。
﹁ガゼル将軍の弟子⋮⋮それは面白そうですな﹂
意外にも、軍部の奴がさっさと乗ってきた。いやいや、今回の試合
は軍部と騎士団の蟠りに決着をつけるためなんだろ?今、お互い2
勝2敗で勝負ついてねーじゃん。観客達も、興奮したような雄叫び
を挙げるな。
頼みの綱の騎士団長とその息子も、同意を示した。⋮あーあ、退路
を絶たれた。
﹁⋮⋮行くぞ、ディダ﹂
﹁はいよ﹂
ライルは静かに立ち上がって、闘技場に登っていく。そして俺も、
仕方なくその後をついていった。
301
302
ドルッセンの振り返り
俺の名前は、ドルッセン・カタベリア。騎士団団長のドルーナ・カ
タベリアの息子。そのため、俺は昔から武芸の稽古を課されていた。
将来、お前は王家の方々をお守りするのだと言われながら。
俺はその言葉に誇りを感じていたので、訓練も熱の入ったものとな
っていた。そんな環境にいたため、正直なところ、学園に入るのは
面倒だとすら感じていた。学園に入るよりも、家にいて、現役の騎
士団の方々に師事していた方がよっぽど為になると。けれども学園
に入るのは、貴族の嫡男である以上、仕方の無いことだった。
入ってみて、元来の無口さも手伝って、やはり学園には中々馴染め
ず。特に気にはしなかったが、こんなことならやはり学園に入った
のは無駄だったと思った。⋮そんなある日、俺は一人の女生徒に出
会った。名前は、ユーリ・ノイヤー。ノイヤー男爵令嬢だった。出
逢ったのは訓練所⋮殆ど使われていなかったが、申請すると生徒は
好きにそこを使うことができて、俺はほぼ毎日そこで自主練をして
いた。
﹃すごいですねー﹄
彼女の第一声は、それ。
﹃⋮⋮何だ?﹄
﹃あ、すいません。私⋮毎日この裏手に来ているんですけどー⋮同
じく毎日やって来る貴方が何をしているのか気になって⋮﹄
﹃⋮⋮裏手?﹄
303
確かこの裏手には、花壇があるぐらいで、それも人通りがない為、
ほぼ雑草だらけの場所だった筈。
﹃ええ。折角大きな花壇があるのに勿体ないので、そこで好きなお
花を育てているんですよー。あ、勿論学園には了承得てますから﹄
﹃そんなに慌てなくても、学園に報告しようとは思わん﹄
﹃あ、いや⋮それもあるんですけどー⋮ほら、あまり褒められたこ
とじゃないでしょう?令嬢が土を弄るなんて。だから、あまり広め
ないで欲しいかなーっと﹄
﹃ああ⋮別に、人に迷惑を掛けているわけではないだろう?俺はと
やかく言わん﹄
﹃良かったですー。それで、貴方は毎日何をしていらっしゃるので
すかー?﹄
﹃⋮⋮見て分からんか?﹄
﹃訓練しているのは分かるんですけどー⋮一体何でかなーって。だ
って、ドルッセン様は武術の授業常に主席を取られているのに﹄
武術は選択授業で、主に俺のような騎士団所属の子供達が受けてい
る。後は単純に身を守る為とか、貴族の次男・三男で将来騎士団員
になりたいと思っている奴とか。
﹃別に、俺は授業の為に訓練している訳ではない﹄
304
﹃⋮⋮そうなんですかー?﹄
﹃ああ。俺は、この国と王家の方々に剣を捧げる為に訓練している
んだ﹄
キョトンとしていた少女が、俺のその言葉に花が綻ぶように微笑ん
だ。
﹃素敵ですねー。貴方のような努力をされる方が守ってくださるの
なら、どんなに心強いことでしょう﹄
その言葉と笑顔は、いつまでも俺の中に残った。⋮⋮それから、訓
練をしていると時々彼女は俺のところに訪れるようになった。大抵、
ほんの少し会話を交わして去る。始めは特に何にも感じていなかっ
たが、何時の間にか俺は彼女が訪れてくれるのを何よりも楽しみに
していた。当たり前のことだと思っていた事を、彼女は凄いと、そ
して素晴らしいことだと何度も口にする。その言葉達が、励みにな
って益々訓練に熱が入った。自分の剣は王家に捧げるものだと信じ
て疑わなかったが、彼女に捧げたいとすら思ったこともあった。
それが恋だと気付いたのは、彼女が第二王子であるエドワード様と
結ばれた時。始めは落胆したが、けれども彼女を守りたいと思う気
持ちと、そして自分のこれまで培ってきた信念と矛盾しなくなった
のだと気付いた時には、やさぐれていた気持ちが少し落ち着いた。
俺はこれから、彼女を俺なりに守っていこう。そう、心に誓った。
だから、エドワード様がユーリ令嬢を虐げていたというアイリス公
爵令嬢と対峙するとなった時には、勿論俺もユーリ令嬢に加勢した。
アイリス令嬢を無事排斥することに成功し、彼女を守ることができ
た⋮⋮そう、思っていた矢先。
305
﹃お前は、何て事をしたんだ﹄
突然父上に呼び出されたかと思えば、開口一番にそんな事を言われ
た。一体何の事を指しているのか分からず、首を傾げていると、大
袈裟に溜息をつかれる。
﹃アルメニア公爵令嬢の一件だ!﹄
﹃⋮⋮。自分には、何故そのように怒鳴られるのか見当がつきませ
ん﹄
﹃それは、本気で言っているのか?﹄
﹃はい﹄
﹃公爵令嬢に手を上げたという事実ですら許し難いが、騎士を目指
す者が女性に手を上げ、そのようによく開き直っていられるな?お
前は、騎士の教えを誇りに思っていたではないか﹄
﹃ですがアルメニア公爵令嬢は、ユーリ男爵令嬢を虐げていたので
す﹄
﹃その虐げているところを見たのか?﹄
﹃い、いえ⋮ですが流言を流したというのは⋮﹄
﹃その裏付けを、お前自身が取ったのか?それとも、その現場をお
前は見たのか?﹄
306
﹃い、いえ⋮﹄
﹃呆れて物が言えぬわ!確たる証拠もなく女性に手をあげた。それ
も、第二王子の婚約者にだ。騎士の風上にも置けん!お前はこの家
にもだが、騎士という存在にすら泥を塗ったのたぞ﹄
﹃ですが、俺は⋮⋮!﹄
﹃言い訳は聞きたくない!暫く家で謹慎して頭を冷やせ!﹄
取りつく島もなく言い渡されると、俺は執事に連れられて部屋に軟
禁された。それから暫く、俺は学園を休み自宅謹慎。訓練をするこ
とも許されず、さりとて他にすることもなく、ぼんやりと部屋にい
るだけ。
何故、自分がこのような仕打ちを受けるのかが分からなかった。自
分は、ただ彼女を守りたかっただけなのに。けれども頭の中ではぐ
るぐると“お前は騎士という存在すら泥を塗ったのだ”という父上
の言葉が回っていた。
そんな折、母上に呼び出された。
﹃久しぶりね、ドルッセン﹄
久しぶりだと言われて、今更ながら母上に長らく会っていなかった
ことに思い当たった。最近ほぼ休日も学園にいて、謹慎を言い渡さ
れてからも自室から出ていなかったためだ。
﹃⋮⋮お久しぶりです﹄
307
目の前には茶器と、それから茶請けなのか見た事もない茶色の物体
が皿の上に盛り付けられている。
﹃それはね、チョコレートと言うのよ。最近王都で流行し始めて⋮
食べてみてちょうだい﹄
母上の勧められるがままに、それを口にする。⋮⋮美味しい。甘く
てけれども少し苦くて、そんな複雑な味。
﹃アルメニア公爵家の商会で取り扱っているものなの﹄
﹃⋮⋮アルメニア公爵⋮⋮﹄
﹃噂では、その商会を取り仕切っているのは公爵令嬢であるアイリ
ス様だとか﹄
アイリス公爵令嬢の名前を呼ぶとき、母上は少し悲しげだった。
﹃ねえ、ドルッセン。貴方は本当に“正しい事”をしたと胸を張っ
て言えるのかしら?﹄
﹃正しい事、ですか⋮?﹄
﹃ええ、そう。正直、政治的にも我が家の家の関係としても貴方の
行動は大問題だったけれども、それは全て置いたとして、それでも
正しい事をしたと言える?﹄
母上の言葉の真意が分からない。正しい事をした⋮そう思ってた。
謹慎を言い渡された後、騎士団に泥を塗ったのだという父上の言葉
の意味を考え、結局、父上は俺にカタベリア家の貴族としての立ち
308
位置を考えて怒ったのではないか⋮という考えに至った。それなら
ば、尚更自分の行動を恥じる必要はないとも。彼女を守ることがで
きたのだから、家など関係ないと。
﹃私はね、ドルッセン。こんな言い方は失礼だけど、アイリス公爵
令嬢に同情しているわ﹄
﹃それは何故ですか、母上﹄
﹃結果を見れば、ユーリ・ノイヤー男爵令嬢は婚約者がいる男性に
色目を使った⋮そう取られても仕方ない事をしたのではなくて?同
じ女として、私はアイリス公爵令嬢のした事は仕方のない事だと思
うわ。愛している婚約者に近づく女。嫉妬と悲嘆、そういった感情
が湧いて、それがユーリ令嬢に向いたとして誰が責められますか?﹄
﹃それは⋮⋮﹄
﹃愛した人を奪われて。貴方達が大勢の人の前で糾弾したせいで、
社交界からも追い払われて﹄
ふと、彼女の学園での最後の言葉を思い出す。“貴女は、これ以上
私の何を奪うというのでしょうか。私の婚約者、私の地位⋮⋮”
涙を流しながら言った、その言葉を。
﹃私は、この菓子は彼女の覚悟のように思えます。誰とも結婚せず、
独りを貫くことができるようになるという覚悟が。彼女は婚約を破
棄された上に、社交界から追放された身。確かに、新たな婚約とい
うのは難しいでしょう。ねえ、ドルッセン。そんな女性に手を挙げ、
人生を狂わすことに加担し、寄ってたかって彼女を貶めた。⋮そん
な行動を、貴女は本当に騎士として正しいと言えるのかしら﹄
309
﹃それは⋮﹄
反論できなかった。考えたこともなかった。彼女が苦しんでいたか
もしれない、なんていうことも⋮悲しんでいたのかもしれない、と
いう当たり前のことを。
﹃好きな子を守れて満足?貴方の剣は、そんなことのためだけに磨
いてきたの?目の前で苦しんでいたかもしれない非力な女性に手を
上げて、それで貴方は満足していたのかしら﹄
母上から言葉がある度に、どんどん心が抉れる。確かに⋮と、思っ
てしまった。でも、もう後戻りはできない。
﹃母は騎士ではないので、その志も誓いも分かりません。分かりま
せんが、アイリス令嬢に対して貴方が行ったのは、ただの暴力だと
いうことは分かります﹄
父上に叱責を受けた時は、反発心しか湧いてこなかった。けれども、
今、心にあるのは混乱と後悔。
﹃貴方は自分の行動を、省みなさい﹄
母上との対面があっただすぐ後に、あまり休むのもマズイというこ
とで学園に戻った。授業には出ていたが、その他の時間は只管訓練
に費やした。頭の中をスッキリさせたかった。母上の言葉や、アイ
リス令嬢の言葉が頭の中を巡って自分を苛むことから逃げたかった
のかもしれない。少しユーリ令嬢やエドワード様と疎遠になったま
ま、学園を卒業した。
310
卒業後、俺は予定通り騎士団員見習いとして騎士団に入団。以降は
先輩方に揉まれつつも充実した毎日を送っていた。
そんなある日、軍との模擬試合に参加してみないかとの誘いがあっ
た。正直何故自分が?と思わなくもなかったが、折角の誘いだから
ということで参加を表明した。
そして、現れたのはガゼル将軍。軍部所属の方ながら、その武勇伝
は騎士団員にとっても憧れの方だ。そして、その脇には彼の弟子と
言う人物が2人。弟子という言葉には、軍部も騎士団もざわめいた。
正直、ガゼル将軍の個人訓練は受けたくても中々受けることができ
ない。それ程、人気で人が殺到するからだ。
そんな彼ら3人に見守られつつ、試合が開始。どの試合も、随分と
盛り上がっていた。2勝2敗⋮次が自分の番だと緊張しつつ壇上に
上がった。目の前には、軍部所属の兵が1人。緊張感が最高峰にな
ったところで、試合開始の合図があるかと思えば、まさかのガゼル
将軍の弟子2人との戦い。それも、軍部の者と手を組んで。
⋮面白い。そう、思った。憧れのガゼル将軍に手解きを受けている
2人はどんなものなのか⋮また、自分の力はどこまで通用するのか。
311
試合の行方
﹁⋮⋮それでは、試合開始!﹂
審判の言葉が聞こえたと同時に動き、そのまま刃を潰した剣を、思
いっきりライルという男の方に向けて振る。本来自分の相手になる
筈だった軍部の奴は、同じタイミングでディダという男の方に剣を
向けていた。即席の2人では、連携なんぞ取れないという意見が一
致し、1対1に持ち込もうという考えだ。
ライルは、自分の攻撃を剣で受け止めた。ガキン、と剣と剣がぶつ
かり合う音が響く。そのまま押し切ろうと力を入れても、びくとも
しない。涼しい顔をして、平然と受け止めるその姿に少し苛つきを
感じた。
⋮このままでは、攻めきれない。
そう感じて、一旦引き、そのまま再び攻撃を繰り出そうとしたその
瞬間、剣を弾き飛ばされたかと思えば、怒涛のように攻め込まれる。
一撃一撃が重く、防ぐことに手一杯。
﹁⋮⋮くっ﹂
それでも何とか突破口はないかと思案しつつ身体を動かすも、隙が
ない。攻められる一方で、反撃らしいことは何もできていない。⋮
ここまで一方的に攻められるのは、久しぶりの事だった。今まで育
ってきた環境が環境なだけに、同世代での試合は負け知らず。騎士
団に入ってからも、それなりに勝ち星を挙げてきた。⋮⋮なのに。
今、この状況では防ぐことが精一杯。相手は余裕綽々の表情。勝て
るビジョンが全くもって見えない。正直、ここまで彼らと自分に差
312
があるということに愕然とする。
ガキンという音共に、視界の隅で剣が宙を舞うのが見えた。⋮⋮デ
ィダと軍部の奴との試合が早々に終わったようだ。勝者は、ディダ。
それと同時に、ライルの剣に乗せる力も強まった。やはり、さっき
まで加減していたのか⋮。そのまま押し切られ、そしてあっさりと
自分の剣も弾かれた。
負けた⋮。降参の言葉を言おうとしたが、けれどもその前にライル
は剣を休めることなく自分の方に剣をそのまま振ってくる。
﹁なっ⋮⋮﹂
普通、相手の剣が弾かれたら攻撃を止めるだろう!そんな言葉を口
から出す前に、避けることで手一杯。重い攻撃なのに、この速さは
何なんだ⋮.。
﹁止めろ!試合は終了だ﹂
審判の言葉に、ピタリとライルは剣を止める。丁度喉元に剣先を向
けられて、寸前のところで助かった⋮。
﹁⋮⋮⋮﹂
ライルは無言のまま、その表情は不満げに剣を下ろす。ホッと、我
知らず詰めていた息を吐いた。
﹁⋮⋮2人は、何故軍部や騎士団に所属していないんだ?﹂
安心して、最後の攻撃を抗議をする気にもならない。代わりに、気
313
になっていたことを聞く、彼らならば、何方からでも厚遇されるだ
ろう。なのに、一切此方で名前を聞いたことがない。
﹁仕えるべき主人がいるからだ﹂
﹁だが⋮その力があれば⋮﹂
﹁だがも何もねえよ。国に仕えようなんて思ったこともねえ。俺等
は姫さんを守れればそれで十分﹂
﹁⋮⋮ディダ。お前と言う奴は⋮。この場でそこまで言う必要はな
いだろう﹂
ディダの発言に、ライルは溜息を吐きつつこめかみに手を置いてい
た。
﹁けどよ、ライル。お前だってそうだろう?国が何をしてくれた?
俺らを引き上げてくれたのは、姫さんじゃねえか﹂
﹁⋮⋮それは、そうだな﹂
﹁そんな訳で、俺らは軍部だろうが騎士団だろうがどっちにも行く
気はねえんだ﹂
2人はそう言って、闘技場から降りて行く。代わりに、ガゼル将軍
が闘技場に上がり、騎士団と軍部の間に立った。
﹁諸君、ご苦労だった!歓談の席を設けている故、互いの立場は一
旦置いて今日はゆるりと飲もうぞ﹂
314
ガゼル将軍がそんな言葉で、この模擬試合を〆た。
俄に場が騒がしくなった中、一先ず汗を流そうと、その場を離れて
訓練場近くの水場を目指す。
﹁お疲れさん﹂
ポンと肩を叩かれて、背後を見れば先輩がいた。先輩は自分と1番
年が近く、それ故自分の面倒をよく見てくれている。
﹁さっきの試合、凄かったな﹂
﹁⋮⋮全然です。自分は、彼らの相手にもなりませんでしたから﹂
﹁そりゃそうだろうよ。あの2人とまともに剣を合わせることがで
きるとしたら、ガゼル将軍とか⋮騎士団で言えばマルコム隊長レベ
ルだよ﹂
マルコム隊長といえば、騎士団の中でもエース中のエース。そんな
方と互角に戦えるとは、やはり流石はガゼル将軍の弟子だ。
﹁本当に、何故2人は王都に来ないのでしょうか。騎士団でも軍部
でも、2人ならば厚遇でむかえられるでしょう﹂
﹁さっき2人も言ってたじゃねえか﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁お前が2人に反論しようとした時、俺は肝を冷やしたね。あの2
人、あれ以上お前が言うようだったら剣を抜いてたぞ﹂
315
﹁まさか⋮﹂
流石にそれはないだろうと先輩の顔を見れば、先輩は苦笑いを浮か
べている。
﹁お前のようにな、俺たち騎士団も軍部のやつらも挙って2人をス
カウトしたんだよ。けれども、頑として突っぱねられた。あんまり
しつこくしたもんで、決闘騒ぎだ。主人を侮辱されたってな。スカ
ウトの言葉もマズかったらしい。で、2人は勝った﹂
唖然とした。確かに騎士は名誉を重んじ、主人が侮辱された時には
剣を抜くことを良しとする。けれども、それを実際に行う奴がいる
なんて。
狂犬、という言葉が頭の中でちらつく。狂ったように主人を求め、
そしてその狂気染みた刃を敵に向ける。そんな狂犬を見出し、懐に
抱き込むことができた主人とは一体誰なのか⋮⋮。
﹁⋮⋮その決闘は、圧巻だった。今日みたいなお遊びじゃない。ガ
ゼル将軍が止めなければ、命が危うかったほどだ﹂
﹁そんなに、ですか⋮﹂
﹁ああ。騎士のように基礎をみっちりと固まっているかと思えば、
軍部の奴らのように型にハマらない、臨機応変な対応する。ディダ
っていう男の動きは速すぎて追いきれねえし、ライルって奴の方は
重過ぎてまともに剣を合わせられねえ。あの試合は、忘れることが
できねえな。そういや、お前。最後に随分とライルに攻撃されてい
たが、審判が止めてくれて運が良かったな﹂
316
﹁何でですか?﹂
﹁あの2人の主人こそが、アイリス公爵令嬢だからだよ。俺は、お
前の不運に同情したね。多分、あの2人は元々ガゼル将軍が軍部対
騎士団の成績がどちらかに傾いていた時に、片方が勝者とならない
よう呼んでおいたんだろう。最悪、軍部+騎士団対あの2人にでも
したんじゃねえか?⋮まあ、それは兎も角、まさかの2勝2敗で最
後の試合がお前の番。で、予想通りあの2人の登場。ここまで来れ
ば、学園での一件からお前がボコボコにされるんじゃねえかって心
配もするだろ﹂
﹁それは⋮﹂
あの2人の主人が、アイリス公爵令嬢⋮。その事実に、鈍器で頭を
殴られたような衝撃を受けた。まさか、彼女が⋮彼女こそが彼らを
見出し、そして懐に受け入れているというのか⋮。
﹁だから、良く無事だったなって意味で“凄かったな”ってこと﹂
本当に、そうだと思う。まだ、今日が“模擬”試合で良かった。ま
だ、自分の相手がライルで良かった。でなければ自分は、もしかし
たら今ここに立ってられなかったかもしれない⋮と薄ら寒気すら感
じてきた。
﹁⋮⋮先輩﹂
﹁何だ?﹂
﹁先輩から見て、アイリス公爵令嬢はどう見えますか?﹂
317
﹁俺に答えを求めるなよ。何せ、俺は彼女と話すどころか会ってす
らないんだから﹂
その言葉が、自分の胸に突き刺さった。あの行動を起こす前に、自
分は彼女に会ったことはあっても会話をしたことはなかったからだ。
﹁だがなあ⋮あの2人の懐きっぷりを見ていると、相当懐が大きい
人なんだろうとは思うぞ﹂
﹁⋮⋮そうですよね⋮﹂
318
複雑な気持ち
﹁すまん、少し飲ませ過ぎたようでな﹂
朝方家にお祖父様がいると思ったら、何とライルとディダを送り届
けてくれたとのこと。お祖父様はザルらしいから、お祖父様に付き
合わされたのなら仕方ないでしょう。
﹁ターニャ。2人には、たっぷり水を飲むようにさせて﹂
﹁畏まりました﹂
脇に控えていたターニャに指示を出しつつ、私はお祖父様の対面の
席に腰を下ろした。
﹁お祖父様、いくらお祖父様が強いとは言え、飲み過ぎは身体によ
くありませんわ。お祖父様も少しお酒の量を控えた方が宜しいかと﹂
﹁ぬ⋮﹂
お祖父様は少し気まずそうに目を逸らした。⋮お酒大好きだものね。
﹁それで、昨日はどれだけ飲まれたのですか?﹂
﹁騎士団と軍部の奴らと飲んでおってのう。まあ⋮あまり楽しく飲
めなかった故、その後3人で飲み直した﹂
﹁まあ⋮﹂
319
原因は最後のそれね。昔から、お祖父様ったら“飲んで限界を覚え
ろ”とか言って2人を飲みに連れて行っては、2人が前後不覚にな
って帰って来てたもの。お祖父様は随分2人のことを気に入ってい
るからついつい飲み過ぎてしまう、とその時に仰っていたし。
﹁⋮⋮失礼します﹂
﹁あら、ターニャ。どうかしたの?﹂
﹁ガゼル様のお迎えにと、ルディウス様がいらっしゃってます﹂
﹁⋮⋮何じゃと!﹂
途端にお祖父様が狼狽えた。あまり見ない光景についつい可笑くて
笑ってしまう。
﹁儂はいないと伝えてくれ﹂
﹁⋮⋮それが⋮⋮﹂
言いにくそうにしていたターニャの後ろから、ひょっこりとルディ
ウスが現れた。
﹁お祖父様、聞きましたよ。また、店中の酒を飲んだとか﹂
﹁いや、それは⋮﹂
﹁自重して下さいと、何度お伝えすれば良いんでしょうかね?貴方
は、この国で有名人なんです。平時は強いとは言え、飲んだ後に襲
われて不覚を取ってしまったなんて事になってしまったら目も当て
320
られません。お願いですから、外では飲み過ぎないように!﹂
ルディウスの正論に、お祖父様のその大きな体躯はどんどん小さく
なったような気がした。ルディウスは、私のお母様のお兄様の息子
⋮つまり、私の従兄弟であり現アンダーソン侯爵家当主嫡男。因み
に叔父様であるアンダーソン侯爵は、自分はお祖父様ほど強くない
と言って軍部や騎士団には所属せず。ルディウスも、同じくどっち
にも所属しないで後継者として色々勉強しているとのこと。具体的
に何をしているかは知らないけどね。⋮とはいえ、流石お祖父様の
孫。動きが何処となくライルやディダみたいな武人の動きだし、細
身ながら鍛えられた身体つき。
﹁久しぶり、ルディ﹂
﹁久しぶりだね、アイリス。ああ、ごめん。久しぶりの再会だって
言うのに、出合頭からこんなんで﹂
私の2才年上だったから、学園にいた頃は1年間だけ被っていた。
けれども、学年が違うとあまり接点ないし、私が学園を追い出され
た後は言わずもがな⋮である。
﹁別に良いのよ。私もお祖父様にはお酒を控えて下さいってお伝え
していたところだもの﹂
﹁そっか。アイリスからも言ってくれると、ありがたいかな。僕の
諌言は聞いてくれないのに、お祖父様はアイリスの言う事は聞くん
だ﹂
﹁そんな事ないわよ。あ、ルディもお茶飲まれて行くかしら?﹂
321
﹁折角のお誘いだけど、これから予定があるんだ。さあお祖父様、
帰りましょう﹂
﹁ぬ⋮⋮﹂
﹁お祖父様、ライルとディダを送り届けてくださって、ありがとう
ございました。お祖父様もご自宅でごゆるりとお体をお安め下さい﹂
﹁ぬぬ⋮儂はここに残る﹂
眉間に皺を寄せたかと思えば、お祖父様はそんな事を仰られた。
﹁何を言っているんですか。さ、帰りますよ﹂
それをキッパリと切り捨てたルディウス。相変わらず、2人の会話
は見ていて面白い。
﹁アイリス。また今度ゆっくりと話そう﹂
ルディウスはそんな事を言ってお祖父様を引っ張って行った。あの
細い身体の何処にそんな力があるのかしら?なんて思った。
嵐が過ぎ去ったように、一気に場が静まり返る。
﹁⋮⋮ターニャ。もう一杯、いただけないかしら?﹂
﹁畏まりました﹂
折角なので、もう少し休もう⋮と思っていたら、今度はベルンが部
屋に入ってきた。
322
﹁ご一緒させていただいても、宜しいでしょうか﹂
﹁勿論よ。さあ、そこに座って﹂
私のその言葉の前に、優秀な侍女であるターニャは何処から持って
きたのか茶器をベルンの前に置いている。
﹁こうしてベルンと話すのも、久しぶりね﹂
建国記念パーティー以来、殆ど顔を合わせていなかった。私は私で
色々してたし、ベルンはお父様に付いて仕事をして忙しそうにして
いたからだ。
﹁ええ、そうですね﹂
ベルンは肯定しつつ、注がれたハーブティーを飲む。口に合ったら
しく、僅かに顔を弛めていた。
﹁もう少しで、貴女も領地にお帰りになるかと思いまして﹂
﹁そうね。もう随分と領地を空けてしまったから、流石にそろそろ
帰らないと。⋮最近、ベルンはどうなのかしら?﹂
﹁⋮⋮父に付いて、随分学ばせて貰ってます。今までのんびりさせ
ていただいていた分、取り返さないと﹂
﹁別に遊んでいた訳じゃないのだから、良いと思うけど?学生の時
にしか、味わえない事は沢山あるもの﹂
323
前世ではよく感じてたなあ。学生時代って、本当に貴重な時だった
なって。働き始めると、特にそれを感じるわよね。同世代の人が集
まって、同じ空間で勉強したり仲良くなったり喧嘩したり⋮⋮辛い
こともあるけれどもそれを含めて輝いていた。青春、って言葉の意
味が分かるようになるのは、学生を終えた後だと私は個人的に思う。
﹁⋮⋮その貴重な時を、貴女から僕は奪ってしまったんですよね﹂
﹁⋮⋮?﹂
突然声が小さくなったベルンの言葉を、私は聞き取れなかった。顔
色が悪くなったし、何か良くないことなのだというのは分かるけれ
ども。
﹁⋮⋮姉さん。僕に、謝ることをお許し下さい﹂
﹁突然何を言い出すかと思えば⋮⋮それは、一体何の謝罪?﹂
何の謝罪か⋮なんて聞かなくても、学園追放からの一連の件だとい
うのは察しがつく。
﹁⋮⋮それは、貴女を学園から追放した事です﹂
それでも敢えて聞いたのは、その行為の何に対する謝罪なのかを聞
きたかったから。
﹁学園から追放したこと⋮⋮それは謝る必要がないわ。あれは私が
感情のままに動いた結果⋮つまり、私の失態だもの﹂
﹁以前も、貴方はそう仰っていましたね。けれども、そうではない
324
と僕は思いました。あの時僕もまた、ただただ彼女に好かれたい⋮
その一心で動いていたのですから。それこそ感情で動いて、その後
の影響は何も考えずに﹂
﹁つまり、貴方は宰相を目指す者として、私に謝罪と言う名の決意
表明をしたいということかしら⋮﹂
もう、これからは感情に流されて思考を止めません⋮と言っている
ように聞こえた。お父様のところで修行をして、そう思ったという
ところかしら。
﹁それも、あります。ですが、それだけではありません﹂
﹁⋮他にも何かあるの?﹂
﹁僕は彼女に夢中になって、その気持ち故に動いていたというのに、
そんな自分の事を棚に上げて、同じく感情で動いた貴女のことを陥
れました。貴女にも心があって、だからこそ傷ついた上での行動だ
ったというのに、そんな当たり前のことを汲み取らずに。だから僕
は、家族として貴女に謝らなければなりません﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
ベルンの言葉に、私は言葉を失ってしまった。何を今更と思う気持
ちと、少しの嬉しさで。
あのエンディングの場面から、私の中でベルンを家族として見れな
くなっていた。あの時あの瞬間、彼はユーリ男爵令嬢を選んでいた
のだから。
325
前世の“ワタシ”は、“まあ好きな子の方につくのは仕方ないかな
”と冷めた気持ちで頭を切り替えていたのに対して、アイリスであ
った“私”が“どうして、どうして”と心の中でワタシに訴えるよ
うに叫んでいた。“どうして、分かってくれなかったの?”だとか
“私はただ、あの人の事が好きだっただけなのに。ベルンまで私を
捨てるなんて!”等々。私の気持ちはワタシも私故に分かるし、そ
んな風に訴え叫ぶ私にワタシは同情した。
正直ドルッセンやヴァンは、そこまで関係がなかったから、私もど
うでも良かった。
けれどもエド様とベルンは違う。エド様の事は、婚約者という立場
と恋慕の想い故に。そしてベルンは大切な家族故に。だからこそ、
2人が彼女を選び、私をいとも簡単に切り捨てたことが私はショッ
クだったのだろう。そして、あんな屈辱を与えられたことも。
大勢の前で、取り押さえられ糾弾される。あの時ワタシの記憶が蘇
ってそれどころではなかったから良かったものの、普通だったら恐
慌状態に陥るわよ。
だからこそあの時以来、“私”はもう恋はしないと誓った。そして、
人に完全な信頼を置いてはならないのだと。だって家族にすら切り
捨てられたのだから。そんな風に私の価値観を変えた出来事に加担
した彼を、“はいそうです”かと私は許すことはできない。
今この時も、何を今更⋮と冷めた感情で聞き流す“ワタシ”と弟と
の和解を望む“私”がせめぎ合っていた。
﹁⋮⋮謝罪は、受け入れるわ。でも今すぐ、許すとは言えない﹂
あの子⋮ユーリ男爵令嬢なら、こんな時許すと言ってあげるのかし
326
ら。そんなしょうもない考えが私の中に浮かぶ。
﹁それで、僕にとっては十分です﹂
ベルンは、けれども私の答えに、満足気に微笑んでいた。
327
お父様の忠告
⋮⋮さあ、そろそろ帰りましょうか。
そんな決意を胸に、お父様の部屋の前まで来た。部屋をノックし、
中へと入る。
﹁⋮失礼します、お父様﹂
沢山の書類に囲まれたお父様が、じっと私の方を見た。学園を追放
されたすぐ後もこうしてお父様と向き合って話したけれども、それ
が今では遠い昔のようだ。
﹁⋮⋮帰るのか?﹂
﹁ええ。明日、私は領に帰りますわ”
﹁そうか⋮﹂
カタン、とお父様は手に持つペンを机の上に置いた。そして書斎机
の前に置かれている椅子に座るように、仕草で私に促す。
﹁失礼します﹂
私はそれに従って座る。
﹁1つ、お前に忠告したいことがある﹂
お父様の厳しい声色に、自然と私も姿勢を正した。何だか前に対峙
328
した時よりも緊張感があるわ⋮。
﹁何でしょうか﹂
﹁エルリア王妃と、彼女の実家⋮マエリア侯爵家に気をつけろ﹂
﹁それは⋮第二王子派のトップなのですから、当然今後も動向には
注意しますけれども⋮﹂
﹁そういうことではない。お前は此度の建国記念パーティーで、内
外共に王太后の後ろ盾を持つことを示した﹂
﹁それはつまり、それ故にエルリア王妃とマエリア侯爵家にとって
私が邪魔者になるということですか?﹂
私は、第二王子に婚約破棄をされた身。だからこそ、自身の陣営に
抱き込むことは不可能に近いことを分かっている筈だ。私自身の気
持ちの問題だけでなく、対外的にも心象が悪くなるし。であれば、
私の存在というのはエルリア王妃にとって邪魔者以外の何者でもな
い。
﹁否⋮⋮“お前”がではなく、“アルメニア公爵家”が、だ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁元々、マエリア侯爵家にとって、アルメニア公爵家は目の上のた
ん瘤。王妃を輩出したとはいえ私は宰相、メリーは王太后の気に入
りであり社交界で絶大な発言力を有するが故に、我が家は優位に立
っていた。とは言え、私は中立派を謳っていたし、メリーもメリー
で徹底的に王宮の勢力争いからは避けてきていた。だからこそ、ま
329
だマエリア侯爵家にとって我が家が邪魔な存在であれ、態々リスク
を侵してまで我が家に攻撃をしようとはしてこなかった。だが⋮﹂
﹁第二王子に婚約破棄をされたアルメニア公爵家の娘である私が、
力をつけてしまった⋮﹂
﹁そうだ。お前は私の想像以上に領を盛り立て、また、商会を作り
資金まで作り上げた。お前は、あまりにも早くそれを成し遂げてし
まった。それ故に、マエリア侯爵家にとって我が家は放っておけな
い存在になっていることだろう﹂
﹁⋮⋮も、申し訳ございません⋮⋮!﹂
⋮情けない。トントン拍子で進み、その幸運をただ享受するだけで、
考えが及ばなかった。少し考えれば、当たり前のことなのに。私と
いう存在が、どれだけアルメニア侯爵家にとって厄介な存在かなん
て。私があそこにいることができるのは、単にお父様の温情だった
というのに。再び、家に迷惑をかけるなんて⋮⋮!
﹁⋮いや、お前のその力を見誤った私の失態でもある。だから謝る
必要はない﹂
﹁ですが⋮﹂
﹁幸い、まだ何も起こっていない。だからこそ、アイリス。より一
層の注意の注意を払い領政に当たれ﹂
﹁はい⋮⋮!﹂
ふと、お父様は手持ちのベルを鳴らした。すぐさま、侍女の1人が
330
部屋に入ってくる。
﹁何か飲み物を﹂
﹁畏まりました﹂
それから殆ど間を置かず、私の前にはティーカップに入れられたお
茶。心を落ち着かせるために、ありがたくそれをいただく。
﹁⋮⋮これは蛇足だが⋮﹂
言いづらそうに、お父様は口を開いた。
﹁⋮⋮マエリア侯爵家を気をつけることは当然のこと、エルリア王
妃には更なる注意が必要だ﹂
﹁それは⋮先ほどから仰られていることでは⋮?﹂
﹁⋮⋮エルリア王妃は、王宮に入って変節された、と⋮﹂
何処か言葉を探るように、お父様はゆっくりとお話になられる。何
をそう、そんなに言い淀んでいらっしゃるのかしら⋮⋮?
﹁⋮⋮正妃が亡くなられたのは、エルリア王妃の仕業という噂もあ
るぐらいだ﹂
﹁お父様⋮何故そんな大事、裏をお取りにならなかったのですか﹂
﹁⋮⋮物証は、何も残っていなかった。それで、側妃であり侯爵令
嬢の取り調べが行えると?﹂
331
﹁⋮⋮失言でした﹂
考えて見れば、科学捜査などないこの世界で白黒つけるのは難しい。
おまけに、なまじ相手が権力を持つ故に強行手段も取れないんじゃ
⋮ね。
第一王子派が故意に流した噂かもしれないし、真実なのかもしれな
い。何方かは分からないが、そんな噂が流れる人物ということは注
意するに越したことはないということだ。
﹁兎も角、そんな黒い噂があるのだ。身の回りにはくれぐれも注意
をしてくれ﹂
﹁はい﹂
ぶるり、と身体が震える心地がした。敵には回したくないが⋮確実
に、向こうは敵認定をしているでしょう。
﹁⋮ターニャ、ライル、ディダにはよく言い聞かせてある。お前も、
自身で気をつけなさい﹂
﹁お父様のご忠告、しかと胸に刻みました﹂
折角あわや幽閉から、ここまで来たのだ。私自身、まだまだ死にた
くない。それに⋮今、ここで死んでしまったら、領民達に申し訳が
たたない。今やりかけている改革も、領政も全て投げっぱなしにす
るようなものじゃないか。
﹁⋮⋮それからお前は現在、ユーリ・ノイヤー男爵令嬢について、
332
調べさせているらしいな?﹂
﹁あら⋮⋮お父様、随分と大きなお耳をお持ちのようで﹂
﹁まあ、な。それで、お前は何処まで調べがついている?﹂
﹁ユーリ令嬢のお母様が、王城の侍女だったというところまでは﹂
﹁なるほど、な。⋮⋮因みに彼女の身元の保証は、ルーベンス家が
行っていた﹂
﹁⋮⋮ルーベンス家?﹂
聞いたことのない家名に、私は首を傾げる。
﹁この件で、私が開示できる情報はここまでだ﹂
キッパリとした物言いに、私はこれ以上お父様から聞くのを諦めた。
﹁お前なら、この情報から国で起こっていることを察することがで
きるだろう。だが、あまり深入りをしないでくれ。そうでなくても、
今のお前は非常に厳しい状況に立たされているのだから﹂
﹁⋮⋮ならば、お父様は何故⋮﹂
﹁お前の子飼い達に王城をウロウロされて、あまり方々︵ホウボウ︶
に刺激を与えたくないからだ。家名を調べるぐらいなら、本を読め
ばできるだろう?﹂
﹁⋮⋮情報、ありがとうございます﹂
333
これ以上、調べるなということ⋮ね。さっきの話もあって、勝手は
できない。流石、お父様。反論しようがないわ。
﹁お時間ありがとうございました。これにて、私は失礼させていた
だきます﹂
﹁ああ。道中、気をつけるように﹂
私には、道中“も”と言っているように聞こえた。そうよね。もし
何かしてくるのであれば、道中ほどやりやすいところはないもの。
帰りはターニャとライルそれからディダの言う事をよく聞きましょ
う。
334
お父様の忠告︵後書き︶
50部まで、きました。皆さんの応援でここまでこれました。あり
がとうございます。
335
お嬢様、襲われる
と、言う訳で。大々的なお別れ会を開くこともなく、親しい人に挨
拶のみで私は領地に帰ることとなった。
家族全員と、使用人総出でのお見送り。領地に“帰る”のに、何だ
か少し寂しく感じた。
﹁⋮⋮お嬢様。道中は、なるべく急いで帰ります。快適とは言えな
いかもしれませんが、ご容赦くださいませ﹂
﹁良いのよ、ターニャ。皆、私の安全を考えてくれているのでしょ
う?なら、私がとやかく言うことはないわ﹂
ターニャの言った通り、帰りの道中は快適とは程遠い旅程だった。
昼間はひたすら馬車に揺られ、夜は街の宿屋にお忍びで泊まる。陽
が出ると同時に、また馬車に揺られる。そんな日々。疲れるけど、
私が原因なんだから文句は言ってられない。
⋮むしろ⋮。
﹁皆、ごめんなさい。こんな大変な事に付き合わせてしまって﹂
私は馬車に揺られているから良いけど、護衛の皆なんてほぼ休憩な
しでずっと馬に乗ってるんだもの。私以上に大変な思いをしている
わよね。申し訳なくて、数少ない休憩の合間に謝罪した。
﹁お嬢様、謝る必要はありませんよ。私たちはお嬢様の護衛なので
すから﹂
336
﹁私を狙っているかもしれない相手が相手なのだもの⋮。ライルも
ディダもいつも以上に気を張っているでしょう?﹂
小さい頃から一緒にいるから、ターニャの無表情から感情が読み取
れるように、2人の雰囲気とか何気ない仕草で読み取れるものはあ
る。
いつもは余裕を崩さない2人だけど、今回の旅路では常に緊張感を
纏っていた。ピリピリしている、そんな感じ。
襲われないかもしれないし、襲われるかもしれない。襲われるなら、
どのような形なのか。真っ向に来るのかも知れないし、それこそ闇
夜に音もなく襲ってくるかもしれない。暴力に訴えるのかもしれな
いし、毒物などの道具で命を狙われるかもしれない。その道具も手
練れも、幾らでも揃えることができる。そんな、相手だから。
そもそも王族に狙われているかもしれない⋮そんな面倒な主人をさ
っさと見限って、何処にでもいけるというのに。特に、ライルとデ
ィダは。それでも態々、私についてきてくれる。それが、とても嬉
しくて申し訳ない。
そんな事を思っていたら、私の内心を悟ったのかライルが私の前で
跪いた。
﹁⋮⋮私は、お嬢様の剣であり盾であることを誇りに思います。此
度も、これからも⋮お嬢様の身の安全をお守りし致します﹂
次いで、ディダもライルの横に跪く。
﹁⋮⋮俺は、お嬢様の剣であり盾であることを誇りに思います。此
337
度も、これからも⋮俺の剣は主人である貴女の為にふるいます﹂
ディダの言葉が終わると同時に、他の護衛達は敬礼を私にむける。
ディダは珍しく、軽口を叩かなかった。少しそれに驚いたけれども、
それ以上に今目の前に広がる光景に驚く。
﹁皆、ありがとう﹂
僅かな休憩も終わり、私は再び馬車に揺られ始めた。ぼんやりと、
外の景色をカーテンの隙間から眺める。もう少しで、領地に到着す
る。
護衛達が馬に騎乗しつつ、この馬車を囲むようにして並走していた。
⋮何だか、騒がしい。
﹁⋮⋮お嬢様⋮!﹂
突然私をターニャが引っ張ったかと思ったら、窓からなるべく私の
身を遠ざける。かと思えば、馬車のスピードが更に上がった。
﹁⋮⋮現在、護衛が交戦しているようでしたので﹂
﹁相手は何処の者⋮?﹂
﹁私も見えませんでした。ですが、正規の軍ではなさそうな装備だ
と思いましたが⋮﹂
それから、馬車の中にいる私たちは無言。緊張感が、場を支配して
いた。喧騒から離れるように、ひたすら速く駆け抜ける。
338
馬車のスピードが元のスピードに戻ったかと思えば、やがて止まっ
た。
﹁どうしたの?﹂
﹁少々お待ちください、お嬢様﹂
ターニャは、外にいるライルと話しているようだった。
﹁もう、大丈夫だそうです﹂
﹁そう。皆は、無事なの?﹂
﹁ええ。ライルより報告があるとのことですので、宜しいでしょう
か?﹂
﹁勿論よ﹂
私は少し場所をズレて、ライルの近くに寄る。ライルは少し薄汚れ
ていたものの、目立った怪我はなさそうで一安心だ。
﹁騎乗のまま、失礼致します。現在、襲いかかってきた者たちは殲
滅し、数名で残党の探索を行っております﹂
殲滅、という言葉が私の心に重くのしかかる。日本という安全な国
にいた“私”にとっては、特に。けれども、危機が去ったことはそ
れにも勝る喜びだ。今更ながら、“私”が元いた世界とは違うとい
うことを嫌という程知らされた。
﹁そう⋮。本当に、ありがとう。それで、負傷した者は?﹂
339
﹁軽傷者が数名。ですが、問題なく護衛を続行できるほどです﹂
﹁それなら良かったわ⋮。それで、相手の者たちについて、何か分
かったことはある?﹂
﹁いえ。装備や動きからは、ただの賊のように思えますが⋮本当に
ただの貴族を狙った犯行なのか、それともお嬢様だから狙われたの
かまでは不明です﹂
残念な事に、この国では未だ賊が存在している。領地の境だとか治
安維持に尽力していない領では、特に。
けれども本当に、ただの賊なのか。それこそ、身代金狙いの無差別
な犯行だったのか、それとも私だからこそ⋮雇われて襲ってきたの
か。私だからという理由なのであれば、王妃やその一派の手の者が
襲ってきたにしては軽すぎるような気もするが。
﹁申し訳ございません。本来であれば、1・2名生かして取り調べ
を行うべきところですが⋮﹂
﹁良いのよ。この人数で襲われて、それで生かしたまま捕まえるの
は難しいでしょう。一先ず、後少しで領地に着くでしょう?今日中
に領内に入ることを目指して、速く行きましょう。皆にも、後でお
礼を言わなきゃね﹂
そして、再び馬車は出発する。どうやら、索敵を行っていた護衛の
者たちも帰ってきたようだ。
⋮早く、領地に帰りたい。
340
そんな事を想いながら、ひたすら馬車に揺られた。
341
お嬢様、襲われる︵後書き︶
実は、50部の記念に﹃公爵令嬢の説明書﹄という人物説明と会話
集をアップしました。http://ncode.syosetu.
com/n9261cp/
本当は50部の後書きに書こうと思っていたのですが⋮先に50部
目をアップしてしまったというミスです。
ご報告が遅くなって、すいません。
私自身、横文字の名前を覚えるのが苦手で、人物名と設定のメモを
こしらえていたのですが、途中“あれ、この人の名前って何だっけ
?”とメモを読み返すことが多々。
感想にも、人物の一覧みたいなのがあると良いとの助言をいただい
ていたので、今回アップさせていただきました。今後も少しずつア
ップしていこうかと思いますので、宜しくお願い致します。
342
再開と再会
⋮そうして、やっと辿り着いた領地。懐かしいという気持ちも勿論
あるけれども、やっぱり無事に辿り着いて安心したという気持ちが
一番大きい。
﹁お帰りなさいませ、お嬢様﹂
セバスやセイを筆頭に、今回領地に残った使用人が勢揃いで出迎え
てくれた。
﹁道中のこと、聞き及んでおります。どうぞ、ごゆるりとお休みく
ださい﹂
﹁ありがとう、セバス。皆も、出迎えありがとう﹂
セバスの申し出は、正直ありがたかった。やっぱり私も道中常に緊
張していたせいか、とても疲れている。安心して、それが一気に出
てきたのだろう。
セバスに先導されながら、私は部屋にむかった。部屋に入ると、私
はシャワーを浴びて楽な格好に着替えた。椅子に座って一息つくと、
ターニャが用意してくれたハーブティーを飲む。
﹁ターニャもお疲れ様。今日は貴女もゆっくり休んでちょうだい。
私ももう眠るわ﹂
﹁畏まりました﹂
343
ターニャも流石に疲れたのか、素直に了承すると下がった。
ふう⋮と息を吐きつつ、ぶるりと震える身体を自分の腕で抱き締め
る。⋮本当に、怖かった。皆のお陰で私は敵に直接対峙した訳じゃ
ないけれども⋮それでも、自分の命が狙われたという事実は本当に
今思い出しても肝が冷える。
とは言え、怖いからと言って立ち止まってられないし、逃げる事な
んて以ての外。ちゃんと賊の出処を探らせないとだし、そこから考
えなければならないことは山ほど。
ああ、でも。やっぱり今日はゆっくり休もう。⋮そうして、私はベ
ットに横になるとそのまま深い眠りについた。
翌朝。私はいつも通りの時間に目覚めた。昨夜はかなり早くに寝た
から、今朝は早めに起きるとばかり思っていたけれども⋮まあ、そ
れだけ疲れてたってことかしら。お陰で、凄くスッキリしている。
ヨガをやって、シャワーを浴びて着替えれば完全にいつも通りの朝。
食堂で、久々の領地でのご飯をいただく。
﹁⋮アイリス様ぁ!﹂
食後のお茶をいただいていたら、レーメが入ってきた。昨日出迎え
てくれてたけれども、会話も何もなかったし。何だか久しぶりで懐
かしい気分。
﹁あら、レーメ。どうしたの?﹂
﹁どうしたの、じゃないですよー!本当に、心配しましたぁ。無事
344
で良かったですぅ﹂
﹁心配してくれて、ありがとう。ほら、レーメ。私は無事だったの
だから、そんなに泣かないでちょうだい﹂
﹁でもー⋮﹂
ヒックヒックとしゃくりあげながら、それでも泣き続ける彼女。何
だか、昔に戻ったみたい⋮と思ったけれども、そういえばエド様か
ら婚約破棄をされて出戻りしたときも、こうしてレーメは泣いてた
っけ。
﹁本当に、心配をかけてごめんなさいね、レーメ。ほら、泣き止ん
で⋮落ち着いたら、後でゆっくりとお話ししましょう?﹂
﹁はぃぃ⋮⋮﹂
⋮そう、落ち着いたら⋮だ。それは、レーメの感情だけではない。
﹁⋮⋮お嬢様﹂
﹁ええ、セバス。今日から早速業務を始めるわ。手紙でも報告を貰
っていたれけれども、各部門の報告書を私にちょうだい。必要であ
れば、担当者にも話を聞かないと﹂
私がいない間に溜まっていた書類の決済及び現在の状況の把握に努
めなければ。領にいる以上、一先ずそれをやらないと。書斎に着く
と、机の上には整理されながらも書類が山となって置かれていた。
﹁それじゃ、まずは書類を読んでおくわね。後で呼んだら来てちょ
345
うだい﹂
﹁畏まりました﹂
﹁それと、ライルとディダを呼んでおいてちょうだい﹂
昨日の賊についても調べさせないと。どうせ時間はかかるだろうし、
先に指示を出しておきましょう。
セバスが退出した後、私は書類との戦いを始めた。⋮この書類の確
認が終わるのは、いつになることやら⋮なんて少しばかり遠い目を
していたタイミングで、ノック音がした。
﹁どうぞ﹂
てっきりライルとディダかと思えば、入って来たのはディーンだっ
た。
﹁ディーン!﹂
思わぬ入室者に、私は少しばかり驚く。
﹁お久しぶりです、お嬢様﹂
﹁ええ、本当に。⋮私が王都に行っていた間も、時折来てくれてい
たのでしょう?ありがとう、ディーン﹂
﹁いえ。礼には及びませんよ。それより、聞きましたよ。帰りの道
中で、襲われたとか﹂
346
﹁⋮⋮ええ。けれども、それを何処で⋮?﹂
まさかもう、領内で噂になっているのか⋮とディーンに探りを入れ
る為に聞いた。
﹁館の中で、話題になっていたので。お嬢様が無事で良かったです﹂
そのため、返ってきたその言葉に、少しだけ安心した。
﹁護衛の皆のおかげで、何とか⋮ね。それで、ディーン。幾つか質
問をしたいのだけれども⋮﹂
﹁ええ。私も幾つか報告したいことがございましたので、取り急ぎ
此方に参りました﹂
挨拶もそこそこ、私は今まで読んだところまでで出てきた不明点を
ディーンに質問する。私がいない間は、ディーンとセバスが分担し
て業務を取り仕切っていたようで、このタイミングでディーンが来
てくれたことは本当にありがたかった。
﹁⋮⋮では、領都の区画整理は完了。戸籍は領内全ての場所で作成
が終わっていて、残るは領都以外の土地の所有権の整備のみね﹂
私が王都に出る前から施行していたことの進捗確認。領都は宅地が
多いから、土地の所有権も分かり易い。売買時には、基本契約書を
交わしていることが多いしね。けれども、領都から離れると、勝手
が変わってくる。やはり農村部などでは、何処から何処までが誰の
土地というのが明確にはなっていないことが多いからだ。
﹁はい。付け加えるのであれば、東の地域ではほぼ完了しています。
347
南の地域⋮特にカカオを産出する村の方では、アズータ商会との契
約を交わした際に土地の所有権を整理していたので、此方ももう少
しなのですが⋮問題は西部と北部ですね﹂
﹁うーん⋮⋮。こればかりは、なるべくその近辺の住民達の話をよ
く聞いて行っていくしかないわよね﹂
﹁ええ。民部では、現在その業務を最優先としています。また、そ
れと並行して、領都では以前お嬢様が言っていた住民票の作成に着
手しています﹂
﹁そう。今後も方針はそのままで行っていきましょう﹂
そのまま確認を繰り返していたら、再びノック音が聞こえてきた。
﹁失礼します﹂
入ってきたのは、今度こそライルとディダだった。
﹁遅くなってしまい、すみません﹂
﹁気にしないで良いのよ。⋮それじゃあ、ディーン。申し訳ないの
だけど、一旦下がって貰って良いかしら?﹂
これから話す内容が内容なだけに、流石にディーンでも聞かせられ
ない。
﹁ええ。それでは、私はその間に今お嬢様から話があったことを詰
めてきますので﹂
348
ディーンはあっさり引き下がると、そのまま部屋から出て行った。
349
使用人達と
﹁まずは、改めてお礼を。本当に、ありがとう。貴方達のおかげで、
こうして無事に帰ることができたわ﹂
﹁当たり前の事だって昨日コイツが言ってたろ?それよか姫さん、
昨日はよく眠れたみたいだな?﹂
﹁ええ。貴方もね、ディダ﹂
2人の顔は昨日よりも晴れやかで、いつもの表情に戻ってる。最も、
ライルは相変わらずディダの軽口に顔を顰めていたけれもども。そ
れすらも無事に帰ってきて、今、身の危険のない安全地帯にいると
いうことが実感できて微笑ましく思う。⋮それは兎も角、2人とも
ゆっくり休めたようで何よりだ。
﹁それで、2人とも。ここからが本題なのだけど⋮﹂
﹁昨日の賊の背後関係ですね?﹂
﹁ええ、そう。正直、お父様の忠告通りエルリア様が裏で糸を引い
ているのならば、甘いと私は思ってるの。けれども時期を考えると、
ただの賊とは捨て置けないし﹂
あんな賊を使わずとも、エルリア様なら如何様にも私を攻撃する手
段があると思う。例えば、それこそ王妃という立場と実家の権力を
フル活用してでも。
とは言え、タイミングがタイミングなだけに、全く関係ないとも言
えない。エルリア様や彼女の実家の思いを汲み取った貴族の行動な
350
いし暴走⋮そんなところではないか、というのが私の予想。
﹁その件に関しては、既にターニャと共に調査中です﹂
﹁⋮⋮ターニャが?もしかして、昨日から⋮?﹂
﹁はい。昨晩、屋敷の者に指示を出し、自分でも動こうとしていた
ので、我々も共に調査をしています﹂
昨日早く退室したと思ったら⋮まさか、昨晩から動いていたなんて。
本当にあの子、いつ休んでいるのかしら?
﹁そう⋮分かったわ。引き続き、よろしくね﹂
﹁では、我々は業務に戻ります﹂
2人が出て行くと、入れ違いにメリダが入ってきた。
﹁あら、メリダ。久しぶり﹂
商会の喫茶ラインの現場を任せているから、いつもは店にいるか各
店舗を飛び回っていて、この館で会うことは本当に久しぶり。
﹁お嬢様が危ない目に遭ったって聞いたからねえ。そりゃ、私だっ
て心配して駆けつけるよ﹂
﹁ありがとう。でも、見ての通り無事よ?﹂
﹁そりゃそうさね。でなけりゃ、私がライルとディダをとっちめて
やるさ﹂
351
メリダらしい物言いに、思わず笑った。
﹁それとね、お嬢様から言われていた新商品ができたよ﹂
﹁ああ、あれ?今、持ってきてるのかしら﹂
﹁いや、報告だけ。慌てて来ちまったもんだから、肝心の品を忘れ
楽しみにしてるわね﹂
ちまっていけないねえ。後で作って見せるさね﹂
﹁
メリダに頼んでいたのは、貿易で隣国から手に入るようになった寒
天を使ってのデザート開発。
﹁あと、あのコーヒー?とかいう飲み物はいつから店に出すんだい
?﹂
それと王都にいる間に、コーヒーが完成した。因みにコーヒー豆は
まだ見つかってないので、今回はタンポポコーヒー。前世でコーヒ
ーを欠かさず飲んでいた私からすると、少しコーヒー豆のコーヒー
とは少し違う気がするのだけれども⋮。
﹁まだ宣伝も何もしてないから、もう少し後になるわね。出すまで
の間に、コーヒーを使ったデザートも考えてくれるとありがたいの
だけど﹂
﹁了解。どうせ久しぶりに屋敷に暫くいようと思ってたところさね。
その間は、それに注力しておくよ﹂
352
﹁宜しく頼むわ﹂
﹁ところで、久しぶりの王都はどうだった?﹂
﹁⋮もう少し、色々な感情が込み上げてくるかと思っていたのだけ
ど。何も、感じなかったわ﹂
﹁⋮⋮何も?﹂
﹁ええ。勿論、友達に会った時や家族に会った時には、懐かしさや
嬉しさを感じたわ。でも、王都という場所にはどうやら未練はなか
ったみたいよ﹂
﹁随分とサッパリしてるねえ﹂
メリダは小気味良くクツクツと笑った。
﹁サッパリしているというよりも⋮あそこは、元から“ワタシ”の
居場所じゃなかったからかしらね﹂
“ワタシ”が蘇ったのは、あの事件の最中だもの。王都に深い思い
入れができる前にこっちに来てしまったし。“私”にとっても、公
爵令嬢という肩書きとユーリ令嬢とのイザコザで、あそこではあり
のままにいれなくて息苦しかった。
﹁ふうん、そんなもんかねえ﹂
﹁そんなものよ。⋮私にとって、ここが故郷で、貴女達という大切
な家族もいる。だから、それで良いのよ﹂
353
﹁はははっ、光栄の極みだね﹂
メリダは、それから二三言葉を交わすと部屋を退出していった。
私はそれから、再び資料の確認に戻る。
⋮税収は、上々。他国との貿易が活発化したことで、商会の収益が
上昇。後は高等部で開発された物の販売益も順調に上がってきてい
るようだし。また、雇用が生まれることで個人の収入も上がってい
る。
中等部の建設も着工した。後は、地方のインフラ整備。⋮領都はイ
ンフラが不便に感じない程に整っているけど、地方はまだまだ上下
水道がないところも多い。
それぞれの進捗を確認し、必要なところにサインや手直しをしてい
たら再びドアからノック音がした。
﹁⋮⋮すいません、先ほど伝え忘れたことがありまして。今日には
ここを発つので、今宜しいですか?﹂
354
告白紛いなスカウトの答え
入ってきたのは、ディーンだった。
﹁まあ⋮来たばかりだというのに、もう発ってしまうの?﹂
﹁ええ。今回は、お嬢様に報告をする為に実家を少し抜け出して来
ているものですから﹂
﹁そう。⋮ごめんなさいね、気を使わせてしまって。それで、ディ
ーン。その伝え忘れたこととは?﹂
﹁⋮院の子供達が、お嬢様に会いたいと。どうやら学園で開催され
た発表会の成果を見せたいようですよ﹂
﹁発表会!一体どんな事をしたのかしら?﹂
ああ、そう言えば院にも随分と顔を出してないわね。王都に行く前
は10日ぐらいに1回は顔を出していたのに。
﹁確か、劇や絵それと歌など。幾つかのグループに別れて行ったら
しいですよ﹂
﹁まああ⋮それは、是非見に行かなければね。落ち着いたら行くわ﹂
和みに行きたいけれども、今は無理でしょうね。きっと、護衛の皆
が許さない。私自身、子供達の身の危険を晒してまで会う訳にいか
ないと思っている。
355
﹁⋮⋮落ち着いたらというのは、領政や商会の事だけではないです
よね?﹂
ディーンのさり気ない言葉に、一瞬私の思考が止まった。⋮ああ、
こんな変な間を空けてしまえば、それこそ肯定しているようなもの
だと、我に返って後悔する。
﹁どうして、そう思ったのかしら?﹂
悪足掻きだと分かっているけれども、つい彼の考えを聞いてしまっ
た。
﹁ライルさんとディダさんが、あれだけ難しい顔をしてこの部屋に
入室していれば想像がつきますよ。折しも、お嬢様が賊に襲われた
という話も聞いておりましたし﹂
﹁⋮⋮それも、そうね﹂
ただでさえ、ディーンは目端が効くのだ。ここまで近くにいて隠し
ておくことの方が無理だったのかもしれない。
﹁それに、お嬢様の表情。決して、領政や商会のことに没頭してい
る時でも見せないような⋮不安で恐怖に怯えているように見受けら
れましたから﹂
⋮⋮参った。そこまで心情を言い当てられたら、もう反論する気も
起きてこないわ。
﹁ねえ、ディーン。それなら、貴方はどうして態々そんな事を教え
に来てくれたのかしら?﹂
356
相手が王妃だとは想像つかなくとも、彼なら今私が不安定な立場に
いるということぐらい想像がつきそうだもの。先々のことを考えた
ら、さっさと去っても仕方ないのに、院の事を態々伝えに来るなん
て。それとも、それこそが餞別なのかしかしら?
﹁それは勿論、お嬢様の周りが落ち着かれたら一緒に行こうかと思
いまして﹂
意外な言葉に、私の頭は一瞬その言葉の意味を捉えきれなかった。
﹁⋮⋮ディーン。貴方、本気でそれを言ってるの?﹂
﹁本気ですよ?でなければ、態々伝えに戻って来ません﹂
﹁⋮⋮貴方なら、ここからさっさと去るかと思ってたわ﹂
﹁そんなに薄情な人間だと思ってたんですか?﹂
逆に意外だと言わんばかりに、目を見開かれてしまう。そんなに変
な事を言ったかしら?
﹁薄情云々の前に、留まる理由がないもの。そもそも貴方との契約
は、毎回あくまで短期間のものだから、留まる義務はない。それに
貴方なら、他のところで契約を結んでも破格の報酬を得ることがで
きるでしょう。危うくなるところに態々留まる必要がないわ﹂
勿論、彼との契約には報酬も取り決めてある。その報酬は、私の右
腕として領政の取り纏めをしてくれているということで、一般の領
官より少し高め。けれども高めと言っても、そもそも領官の収入自
357
体が物凄く高いという訳ではない。商会とかの顧問になった方が、
収入だけを考えたら高いと思う。領官のメリットは、領地が潰れな
い限り安定しているというところかしら。でも、彼は常駐している
訳ではないからそのメリットもないし。
私には彼を留める権利はないし、彼もまた、契約期間を除けば自由
の身。であれば、別にほとぼりが冷めるまでここに来なければ良い
だけのことだわ。
﹁⋮お嬢様がそこまで私を買ってくださっているとは、知りません
でした﹂
茶化したように、ディーンは笑って言った。私は、真面目に言って
るのに。
﹁でなければ、ここまで仕事を任せないわ﹂
溜息を吐きながら言った言葉に、ディーンは微笑む。
﹁まあ⋮確かに、私は今まで、仕事だけを切り取って見るのであれ
ば、何か壁にぶち当たって苦労した事はありませんでした﹂
何を大きなことを言って⋮と思わせないところが、ディーンだわ。
むしろ、彼ならばそうかもしれないと思ってしまう自分がいる。
﹁⋮⋮ですが、それはとてもつまらないことなんですよ。勉強でも
運動でも、そうでしょう?何か困難にぶつかって、それを乗り越え
るからこそ達成感が得られる。楽してできたことには、面白みも思
い入れも何も沸いてきません﹂
358
自分に置き換えてみると、なるほど確かにと納得した。前世でもそ
うだったけど、難しいと思っていたことができると、苦労が多い分
とても達成感を感じたものだったわ。⋮何故、彼が今その話をする
のかは分からないけれども。
﹁⋮⋮ですがここに来て、私はとても楽しませて貰っているのです
よ。自分が思いつかなかったような斬新な考えをされる、お嬢様。
それから、お嬢様に付いて働く優秀な使用人達。改革を推し進め、
活気付く領。次は何をしようか、何がでてくるのか。そんな事を考
えながら仕事をしていうのは、久しぶりで。それ故に、面白い﹂
扉のところから彼は一歩一歩私の書斎机に近づいて来た。
﹁だからこそ、私はここに来ているのです。初めの一回だけのつも
りが、ついつい足を運んでしまう﹂
見上げるような形になった彼の顔を、じっと見る。彼の表情は、と
ても楽しげだった。
﹁お嬢様が、私を信用し切れないのは無理のない事です。私自身、
短期間という契約しか結べない上に、お嬢様には幼い頃から時を共
に過ごしている信頼できる部下がいるのですから﹂
確かに、皆のことは信用している。ううん⋮寧ろお父様とお母様を
除けば、彼ら“だけ”が信頼できる人達とさえ思っていた。
﹁あの人達と同列に扱え、なんてそんな事は言いません。過ごして
きた時の長さも、密度も遠く及びませんから。ですが、お嬢様。私
は貴女の手となり足となることを心から楽しみ、望んでいるのです。
例え、契約が切れている間でさえも﹂
359
﹁⋮⋮ディーン⋮﹂
﹁私に遠慮はいりません。今はまだ、こうして僅な時のみ側にいま
すが⋮私は、とっくに貴女のモノだ﹂
その言葉に、顔が熱くなった。いつも告白まがいなスカウトをして
いるのは私の方だというのに。逆の立場になってみると、こそばゆ
い。
ディーンは言うことを言って、部屋を出て行ってしまった。
後に残された私は、暫くただ呆然と座っていた。
360
疑惑と知らせ
領に帰ってから、二週間が過ぎた。
賊の調査は継続中、私の決裁が必要な書類は粗方片付いた。暇な時
間があると、ディーンの言い残した言葉を思い出してしまって精神
状宜しくなかったので、殊の外仕事に没頭していたおかげ。
今日は仕事もひと段落ついたので、お父様にいただいた情報を調べ
ようと図書室にむかっていた。
図書室は、館の中でも別棟にある。入ると吹き抜けの部屋の天井近
くまで本棚になっていて、所狭しと本が置かれている。
﹁あれぇ?お嬢様こちらにいらっしゃるのは久しぶりですねぇ﹂
中に入ると、レーメがいた。
﹁レーメ。今日はこちらにいたのね﹂
﹁はぃ。今日は授業がないのでぇ。それで、お嬢様は何をしにこち
らへぇ?﹂
﹁調べ物よ。ルーベンス家﹂
﹁ルーベンス公爵家ですかぁ?珍しい名前を聞きますねえ﹂
﹁公爵家!どうして私、聞き覚えがなかったのかしら⋮?﹂
361
﹁それはそうですよぉ。何代か前の王弟が興した家でぇ、確か領地
はなく王都に館を構えている筈ですぅ。最近話題になったのは、3
0年ほど前でしょうかぁ﹂
﹁30年前⋮トワイル戦役かしら?﹂
﹁はい、そうですぅ。戦勝国として、トワイル国からお姫様が輿入
れしたんですけどぉ、当時の王は女王様ですぅ。それに王子は幼な
過ぎてぇ、年齢が合わなかったんですぅ。それにぃ、トワイルの姫
様を王家や王家に近過ぎる家にお迎えしてしまうとぉ、王位継承権
がややこしいことになるということでぇ、白羽の矢が立ったのがル
ーベンス公爵家ですぅ。主だった貴族が無くならない限り王位が回
ってくることはなく、確りと王家の血が入ってるぅ⋮そんな家だっ
たんですぅ﹂
⋮⋮つまり、ルーベンス公爵家にはトワイル国の血が入っている。
そして、ユーリ・ノイヤー令嬢の母親はそのルーベンス家からの紹
介で王宮の侍女になった。
使用人の募集をかけているところに、公爵家からの確りとした紹介
状で来れば断りづらいものね。
国の命令でトワイル国の姫を受け入れて貰ったというのに、それが
理由で断れば公爵家の扱いについて⋮外聞が悪いもの。お父様のこ
とだから、逆に利用しようと監視でも付けてたとは思うけれども。
それは兎も角⋮⋮あら、何となく繋がってきたわ。嫌な方向に。
つまり、ユーリ・ノイヤー令嬢の母親はトワイル国関係者という可
能性がとても高くて。そしてユーリ令嬢も、もしかしたらその母親
の影響を受けているかもしれなくて。
ここまで考えて、妙に納得した。これはお父様の仰る通り、私の領
362
分ではない。国家間の化かし合いに、一領主⋮それも代行⋮である
私が立ち入る隙はないだろう。特に、自分の足元を固めなければな
らない時期に、そんなことまで手を回していたら足元を掬われてし
まうわね。
﹁⋮どうしたのですかぁ、お嬢様。何だか、とても顔色が悪いです
よぉ?﹂
﹁⋮ちょっと、色々考えてしまって。でも、大丈夫よ﹂
そう、大丈夫⋮よね?お父様なら、きっと更に情報を集めて対策を
している筈。
ただ⋮一つ気になることといえば、彼女という存在についてかしら。
もし仮に、本当に彼女がトワイル国の間者だとして。
結果から言えば無事、第二王子の婚約者に収まったけれども⋮もし
もなれなかったのなら、トワイル国はどうしていたのかしら?
つまり、トワイル国がそんな賭け染みた策しか取っていない訳な
いと思うのよね。どうせ策を仕掛けるのであれば、彼女以外にも何
かしら手は打っている筈。
それと、彼女の言動。⋮間者なら間者らしく、もう少し目立たない
ようにするということ。
ワタシが、前世でスパイ小説や何かを読み過ぎていただけかしら?
何となく、彼女の役目と言動がちぐはぐしている気がする。
そこまで考えていたら、ドタドタと走る足音が聞こえてきた。そし
て、バンと大きな音ともに扉が開かれる。
﹁図書室では、お静にぃ!﹂
363
なんてレーメが怒っていたけれども、やがてその表情がポカンと呆
気に取られるそれに変わった。
彼女の視線の先に、私も視線を移すと、そこには⋮⋮。
﹁﹁お嬢様!!一大事にございます!!﹂﹂
滅多に表情を変えないセバスとターニャが、必死の形相でいた。
364
事件勃発
﹁一体、何があったの?﹂
私の声も、自然と固くなった。何せ、2人がここまで必死な形相に
なるのだ⋮生半可な事ではない。
﹁ダリル教より、お嬢様へ破門の宣告がございました⋮!﹂
﹁何ですって⋮⋮!!﹂
想像もしていなかった事に、思わず私は悲鳴のような声で叫んでし
まった。
血の気が引く。貧血で頭がクラクラする心地がする一方で、心臓は
ドクドクと鼓動が五月蝿い。
⋮ダリル教は、この国の国教。この国のほぼ全ての人間が信者とし
て属している。つまり、だ。この国の国民の信心の対象である神の
代理人たるダリル教教皇と神官達の発言には、かなり影響力がある
ということを意味する。時には、貴族の権力を優に超えるほどの。
ダリル教教皇の息子が、本来貴族しか通えない学園に当たり前のよ
うに通っていたのも、そういう背景があってのこと。
さて、ダリル教の破門宣告とは、そのダリル教から信者として認め
られない⋮有り体言えば除籍されるということと道義。
ほぼ全ての国民が信じるダリル教。逆を言えば、その信者でないと
のはこの国の国民にとってそれだけで“異端”ということだ。まし
てや破門なんて、教会にとっての罪人であり蔑む対象となる。
365
国の模範ともなるべき貴族の令嬢がそうなるなんて⋮外聞が悪いど
ころの話ではない。“あってはならない”ことだ。
勿論、今まで築き上げた信用も人脈をも失うだろう。
地球で言う、カノッサの屈辱を思い浮かべてくれればそれに近いか
もしれない。この破門宣告を契機に、これ幸いと叩かれるだろう⋮
考えただけで頭が痛いわ。
﹁理由は?﹂
﹁それが、教会を勝手に破壊したことだと。神への祈りを捧げる地
を破壊するとは、神をも恐れぬ所業であり、許し難いことである⋮
というのが理由です﹂
﹁⋮⋮教会を勝手に破壊したこと⋮⋮?まさか、あの区画整理のや
つ⋮⋮?!﹂
確かに教会を1つ壊した。それは、かつてミナが住んでいた孤児院
を兼ねた場所。けれどもあそこは“既に教会の所有物ではない、誰
のモノでもない地”だったからこそだ。
それに、その代わりに大きな教会を別に建造する予定だもの。
完全に、私を⋮アルメニア公爵家を攻撃するための宣言にしか思え
ない。
⋮⋮あの教皇子息のヴァンが裏で手を引いているのかしら?それと
も、教皇自身?さたまた、第二王子一派の何処かが?
﹁釈明状を⋮そう、別途建設予定の教会の設計書と計画書と共に提
出するわ。破壊したのではなく、移転させるのだとね﹂
366
誰がやったのか、が今は重要なのではない。勿論、それも大切だけ
ど⋮。今、優先させるべきはその事実そのもの。
このまま犯人探しをするよりも、先に破門をどうにかしないと⋮⋮。
お父様お母様にご迷惑をお掛けするのは勿論、領民に不安が広がり
領政が滞る。商会へのダメージも計り知れないわ。
﹁セバス、すぐに準備を﹂
﹁畏まりました﹂
セバスは一礼をすると、すぐさま踵を返して部屋から出て行った。
﹁それで、ターニャ。貴女の一大事は?﹂
もう、何が来ても驚かない。寧ろ、教会に罪人認定されるより大変
な事はないだろう。
﹁はい。私からの報告は2つ。1つは、先日お嬢様が襲われた件に
対する調査の経過報告です﹂
﹁今はそれどころではないわ﹂
ハッキリ言って、命がかかってたことだけど、それの経過報告を一
々聞いてる余裕はない。
﹁いいえ、お聞きください。調査を進める内に、彼の領が第二王子
派に与したことが分かりました。最も、賊とそれが何か関係がある
のかまではまだ不明ですが﹂
367
﹁そう。それで?﹂
いや、通常であればそれも十分嫌な事態なんだけど。さっきの報告
がインパクトあり過ぎて、小さな事に思えてしまうからダメだ。
﹁はい、2つ目の報告です。その領が、アルメニア公爵家に対する
通商・通行領を上げると宣言しました﹂
﹁⋮⋮何ですって!?﹂
またもや、私は悲鳴のように叫んでしまった。
⋮何せ、隣の領地はウチから王都への主要行路なのだ。アルメニア
公爵領から見て北にあるその領。東は海に面しているし、西は険し
い山々が連なっている。そして、南だと北西にある王都へは遠回り
になる。必然、我が領から王都への輸出には、その北隣の領を通過
することが殆どだった。
﹁理由は⋮⋮?﹂
ただ、隣の領地はそもそも領土が小さめで、その北半分は山。更に
交易の要所となるので田畑よりも宿や観光に力を入れているという
のがあって、耕地が少ない。そのため、我が領から輸出される穀物
に頼っている面があった。だからこそ、油断していたわ⋮。
﹁上に立つ者が破門された罪人のため、だと。また、自領の農作物
の価格を守る為だと﹂
﹁自領の農作物の価格保持ですって⋮!あそこは人口ばかり多くて、
耕作地は少ないのよ﹂
368
食料自給率は追いついていない筈だ。つまり、ウチから格安で農作
物が手に入る算段がついた⋮と。そこ辺りも、第二王子派からの攻
撃ということかしら。
﹁こんな⋮同時にくるなんて⋮⋮!﹂
隣の領の宣言事態、手痛いものだわ。他領⋮特に第二王子派の領は
ここぞとばかりに便乗してくる筈。そしたら、王都への輸出だけじ
ゃない。他領に広げている店にも影響が出てしまう⋮!
少しずつ、王都だけでなく他領や他国へ交易の領は分散させてきた。
それは、王都が内紛になってもある程度稼げるように。
でも、国の方々で関税を上げられてしまってはどうしようもない。
﹁レーメ、南から迂回して運搬するとなると日数がどれぐらいか、
費用はどれぐらいになるか比較して報告して。それから、ターニャ。
早くモネダとセイを呼んできて﹂
釈明状の準備かできたら、セバスと領政への影響も話し合わなきゃ。
その時には、主だった領官も呼んで。
﹁畏まりました﹂
ターニャもまた、踵を返して行った。私もまた、部屋を出る。
途中ふらりと倒れそうになったけれども、踏ん張った。⋮今、倒れ
ている場合じゃないでしょう!と。
書斎までの道のりが、異様に長い心地がした。悪い夢であれば、ど
369
んなに良いでしょう。
けれども、私の?や背中を伝う冷や汗がこれは現実だと知らせる。
兎に角、早く書斎に行きましょう⋮。
370
不安︵前書き︶
お待たせ致しました!今回は6話まとめての更新です!
371
不安
⋮⋮頭が、重い。
考えなければならない事が多過ぎて、頭痛がする。こめかみを抑え
つつ、書類を捲った。
あの破門宣言を受けた後、セバスと共に作成した釈明文を送った。
土地が一度売られ、建物もボロボロで修繕が必要であったこと。売
られた時の売買契約書は私が保管していること。修繕ではなく、別
の地に教会を建て直したこと。そして、その前に伺いを教会に立て
たこと。
けれども、教会から破門の撤回はなかった。
﹁⋮⋮見事な蜥蜴の尻尾切りね⋮⋮﹂
﹁ええ。アルメニア公爵家の伝手を駆使して、かつて教会を売却し
た神官を探しましたが、見つかりません。恐らく、切り捨てられた
のでしょう。また、アイリス様が取り壊し時に書状を送った担当も
同様です。⋮教会という特殊な組織ですと、やはり公爵家という力
を使っても得られる情報は限りがございます故に、これ以上の調査
は困難でしょう﹂
クダン
﹁件の神官さえ見つかれば、話は早いのだけれども⋮⋮﹂
まさか構成員全てを開示しろだなんて、言えないし。見つからなか
ったという情報が、こんな短期間で得られたというだけでもマシな
方だろう。
372
﹁それで?領内の様子は?﹂
﹁⋮⋮僅か数日の間でございますが、既に不安の声が広がっており
ます﹂
﹁そうでしょうね。領官たちは?﹂
﹁同じく。辞する者や休暇を取る者達がチラホラと出始めています。
まあ、“そんなことよりも仕事!”という類稀な仕事中毒の面々の
おかげで現状を保っていますが⋮﹂
それはそうでしょうね。そのやり取りや経緯を知らぬ者にとって、
私は無断で教会を取り壊した者⋮神の地を潰した神をも恐れぬ所業
を犯した者でしかない。
領地を預かるが故に、自身の利益の為にそのような行為に及んだ⋮
と見られても仕方ない。
﹁交易も見事に落ち込んだわね。領地全体的に影響がすごいわ﹂
隣の領に引き続き他の第二王子派もウチから輸出する場合、また
その為に領地を通る場合は通商料を上げると宣言し始めた。⋮理由
も、同じ。
そのせいで、我が領地に拠点を構える商会は大損害だ。アルメニア
領に拠点を構えるというだけで、そのような事態に陥っているのだ
⋮⋮早々に片を付けなければ、商会から見限られても仕方ない。
勿論、アズータ商会にとっても大打撃だ。そもそも会頭たる私が
罪人認定されたのだもの。忌避する人々が出てきてもおかしくはな
373
い。
そして、勿論ここから出荷するものもあり、それらは税の分値上げ
をするしかないというのも痛い。
アズータ商会の商品を愛用していた貴族の方々からは、値段が上が
ることから少なからず不満が出ているものの、私そんな状態の為表
立って文句が出ていない。庶民の方からは不満が出ているみたいだ
けど。
そして、ただでさえ値上げから数日の間に商会の売り上げは明らか
に落ちているというのに、更に追い討ちをかけるように従業員達が
次々と他商会に引き抜かれていった。それも、王都とか他領の店の
従業員が。そんな訳で、生産が落ちて商会の売り上げも下がってい
た。
そんな訳で、次々とウチから出していたものと似た様な物が他のと
ころから販売されている。今までもなかった訳じゃないけれども、
今回はウチから出て行った者達が直接製造に関わっている訳で⋮。
なら、破門宣告をされた会頭がいる商会の商品よりも、そちらの似
た商品で良いかと思う人も出てくるというものだ。
﹁⋮⋮酷い顔⋮⋮﹂
書斎の脇にある鏡を覗き込めば、目の下には隈がくっきりと現れて
いて、髪の毛はボサボサ。肌も荒れてる。
日本にいたワタシからしてみれぼ、教会の破門なんて⋮と思うけれ
ども、本当にこの世界の教会って強い。
374
その発言力は今更言うに及ばず。
向こうは神様なんていう後ろ盾がある為、アルメニアという名は殆
ど意味を成さず。
教会という組織自体、不可侵な領域の為中々交渉もできない。そも
そも、その窓口に辿り着くことすら難しい。私が罪人認定されたか
らというのもあるけれども。
私の破門宣言に、第二王子派は勢い付いてお父様を攻撃し始める始
末。お母様も催し物の
出席を全て自粛されている。王太后様が表立って大きく動けないの
は、それだけ教会というのが建前上は権力に屈しない組織であり、
あまり事を荒げることができないため。
ふと、私は見上げた。
ああ、頭が重い⋮。立ち上がれば、目眩がするだろう。
僅か数日。されど、数日。
殆ど眠らずに、刻一刻と変わる状況を把握し、対抗策を考え、そし
て話し合い。
時間との戦いだからこそ、焦り、そしてこの上ない緊張感の下での
日々。
再び視界を下に戻す。やはり、視界がぐるぐると歪んだ気がした。
後、もう少し⋮後もう少しで、準備は整う。けれども、未だ勝算は
見えてこない。これで良いのかという不安が、心に暗い影を落とす。
戦う相手が大き過ぎる、というのもあった。時間があり、確りと下
375
準備することができれば⋮とも思うけれども、そうも言ってられな
い。
376
不安︵後書き︶
お待たせ致しまして申し訳ありません。この対教会編が終わるまで
はまとめてアップしていく予定です。
377
プレゼント
﹁⋮⋮お嬢様、大丈夫かい?﹂
セバスとセイはそれぞれ揺らぐ領と商会の対応を任せている。ター
ニャには、王都の動向と教会を調べて貰い、ライルとディダには領
土内の治安維持の強化で動いて貰っていた。モネダは銀行と商業ギ
ルドとのやり取りに掛かりきりだし、レーメにはセバスの手伝いを。
だから、普段私が接する使用人で今この場に来るのは、メリダだけ。
彼女が入室した瞬間、下がりかけていた眉を上げる。
﹁⋮⋮大丈夫そうに見える?﹂
表情を作り過ぎて、皮肉げな笑いになってしまった。
﹁失言だったね。少しでも疲れが取れるかと思って、ホラ。チョコ
レートとお茶﹂
﹁ありがとう﹂
チョコレートを一粒いただいた。うん、美味しい。疲れた頭に染み
渡る。
﹁ねえ、メリダ。貴女にも色んなところから働かないかって誘いが
来たのじゃないかしら?﹂
﹁そりゃあねぇ。私は喫茶店全てを実質任されている訳だし﹂
378
カラカラと、メリダは笑った。今はそんな陽気さが心地良い。
﹁破格な条件のところもあったんじゃない?﹂
私の問いかけに、一瞬メリダは驚いたように目を丸めて⋮けれども
また、笑った。
﹁⋮⋮今更私が欲しいなんて言われてもねぇ。ここまでこれたのも、
全部お嬢様のお陰さ。だから、他のところになんて興味はないね﹂
﹁そう⋮⋮﹂
﹁それに、お嬢様がこのまま、やられっぱなしとは思ってないしね
ぇ﹂
ニヤリと笑った彼女。
﹁⋮⋮ご期待に沿えるように頑張るわ﹂
既にほぼ準備は整った。けれども、あと1つ足りない。今回は生半
可には終わらせない。終わらせてやらない。徹底的に、逃げ場を失
くして、追い詰める。そうでなくては、また付け込まれ攻撃される。
そのための、ピース。
﹁⋮⋮失礼します、お嬢様﹂
考え事をしていたら、何時の間にかメリダは去っていて代わりに別
の人物が入って来ていた。
﹁⋮⋮ディーン!!﹂
379
思いも寄らなかった人物に、私は思わず叫ぶ。
﹁な、何故貴方がここに⋮⋮?﹂
﹁貴女の手伝いを﹂
﹁私の手伝いですって⋮⋮?私が今、どういう状況か分かっていて、
それでも来たというの?﹂
罪人認定された者のところから去るのなら分かるけれども、来るな
んて信じられない。ニホンの感覚で言うところの、犯罪者に助けま
すなんて言っているのと同じだ。
実際だからこそ、商会からは何人も出て行ってる訳だし、領官から
も私が破門されたにも関わらず、領主代行の地位を返上しないこと
に対する抗議の手紙が届いている。
﹁ええ、勿論です。だからこそ、お手伝いできることがあるかと思
いまして﹂
﹁罪人相手に手伝いを?貴方も、ダリル教から目をつけられるかも
しれないのよ。態々、そんなリスクを取るなんて⋮ありえないでし
ょう!﹂
疲れているせいかしら⋮さっきのメリダの時といい、随分と口調が
キツくなってしまう。そうと分かっていても、今は止めることがで
きなかった。
﹁ありえますよ。言ったじゃないですか。私は、既に貴女のモノだ
と。こんな時に力になれず、いつ力になるというのですか﹂
380
さも当たり前のことの言うディーンの言葉に、私は一瞬言葉に詰ま
った。
﹁それは⋮⋮﹂
﹁それに私は貴女の力に成り、かつ貴女が求めているものをお持ち
しましたよ﹂
サッと渡されたものとその続きの言葉に、私は声を失った。まさか、
最後のピースを手に入れることができるなんて。しかもそれを、か
れが持って来るなんて。最早驚きを通り越して、感動すら覚える。
﹁⋮⋮それで、貴女の作戦は?﹂
ニヤリと彼は笑った。私のすることを分かっていて聞くなんて、人
が悪い。
﹁貴方の想像通りよ。⋮⋮そして、貴方がコレらを集めてくれたお
かげで、ピースは揃ったわ﹂
﹁それは良かったです。⋮それで、いつ“開放式”を?﹂
﹁貴方の耳は、随分と大きいのね⋮もう、耳に入ってるなんて﹂
﹁王都では大分話題になっていましたよ。私も道すがら、耳にしま
したし﹂
381
葛藤
﹁“開放式”は、明日に行われるわ。それにしても、ディーン。こ
こまで準備が良いなんて⋮貴方、こっちの計画を想定していたとい
うことかしら?﹂
そこからディーンが言った答えは、多少の誤差はあるものの、殆ど
考えていたそれに近かった。
彼は私の教会破壊行為について、殆どこちら側での経緯⋮つまり院
やそこでのいざこざを、領政全般に携わっていた為知っていたとい
うこと。そして、領都内でチラホラと聞いた“噂”。それらを、全
て繋ぎ合わせて考えた結果だとディーンは言った。
﹁⋮⋮それを踏まえた上で聞きますが⋮貴方はそんな顔で明日の大
勝負に出るのですか?﹂
﹁そんな顔って⋮?﹂
﹁ご自分でも、気づいていらっしゃるでしょう。貴方の今の顔は、
とても酷い﹂
⋮酷いだなんて、随分と言ってくれる。と内心一瞬反発したが、先
ほど自分でも思っていたことだ。反論はできない。
﹁ここの皆さんは気づき、内心では心配していてもあえて言わない
のでしょう。ですが、私は言わせていただきます。私は、皆から貴
女の話を聞いた時、貴女の側で働いている時⋮疑問に思う事があり
ました。貴女が第二皇子との婚約を破棄された時も、領民を思って
382
身を削って働いていた今までも、そして今回の騒動でも。貴女は涙
を見せず、弱音らしい弱音を吐かず、全てを内に溜めこまれ、そし
て前を歩き出す。何故、貴女はそう強くあろうとするのでしょうか﹂
﹁⋮⋮強くあろうとする⋮私は、一度も強くあろうとしたことなど
ないわ﹂
泣かないから、強い⋮か。というか、今更ながら“アイリス”⋮こ
の場合は“ワタシ”かしら?の運命は波乱万丈ね。
﹁感情を切り離す貴女が、ですか?﹂
止めて。これ以上、私を追い詰めないで。そんな事を思いながら、
一瞬、唇を噛み締めた。
﹁⋮⋮涙を見せても、どうにもならないからよ﹂
自分から出た言葉は、思ったよりも冷めていて固い声。
﹁⋮⋮涙を見せても、どうにもならない⋮それはそうですね。です
が、自分の中で折り合いをつけることはできるでしょう。私には⋮
貴女の有り様は、とても危うく感じるのです。そして、それが今の
貴女のその顔だ﹂
もう、ダメだ⋮そう思った時に、抑えていた感情が爆発した。
﹁じゃあ、どうしろと!?泣いて、助けて下さいと言えば誰かが助
けてくれると?泣いて愚痴の1つ言えば、解決する?そんなことな
いでしょう⋮⋮!﹂
383
八つ当たりもよいところ。でも、歯止めがきかない。
﹁泣いて、立ち止まることなんてできなかった⋮!エド様の時だっ
て⋮ええ、悔しかったわよ!悔しくて、辛くて泣き喚きたかったわ
よ!﹂
エド様に婚約破棄されて⋮あの仕打ちに恋が冷めたとはいえ、思う
ところがなかったとは言わない。これから先のことに不安に思うこ
ともあったし、悔しくて憎くて。
でも、泣いて喚いても待ち受けるのは勘当からの幽閉。だから、泣
いてなんていられなかった。それぐらいなら、お父様に交渉するべ
く足りない頭を回転させるわ。
領地に着いた後も、本当は不安でいっぱいだった。前世の記憶かあ
るといっても、所詮一介の雇われ社員でしかなかったのだもの。政
治なんて初めてのことだし、これで本当に良いのか⋮なんていう不
安はいつでもまとわりついていた。
﹁今回だって⋮!破門?何よ、それ!一体、何で私がそんな宣言を
受けなきゃならないのよ!﹂
ポロポロと、目から涙が溢れる。
﹁悔しくて、悔しくて仕方ない。何で、何でって。辛いって、逃げ
けれども涙が止まらない
出したいわ。大声で、どうしてって泣き喚いて﹂
私は涙を隠す為に、手を目に添えた。涙
せいで、手の平から涙が溢れ落ちる。
﹁それに、自分の不甲斐なさに⋮心が苦しいのよ。折角領民が⋮私
384
の周りの人たちがここまで頑張って作り上げてくれたというのに⋮
私という存在が、それを邪魔して。自分で自分が情けなくて、申し
訳なくて⋮辛いの﹂
ドロドロとした感情のままに言葉を紡ぐせいで、言葉の内容はまと
まってない。後から後から言葉が、感情のままに浮かび上がって衝
動のままに言葉が出てくる。
﹁そんな私が、泣いて助けてくださいって?そんなこと言うなら、
邪魔にならないようにさっさと隠居しなさいって思うでしょう!で
も、だからと言って私は家に皆に迷惑をかけ過ぎたわ。もう、私1
人が逃げたところでどうにもならない。私という罪人がいたという
ことは取り消されないもの﹂
そう。今更私が泣いて逃げて、公爵家や商会が関係ないとしても、
それで全てが元通りになるとは思えない。そこまで破門認定は軽く
ないし、その事実を無かったことにはできないもの。それを覆さな
い限り。
﹁強くあろうとしているから、泣かない⋮⋮?違うわ。泣いてもど
うにもならないから⋮泣いて、周りが愛想を尽かすのが怖いから⋮
だから、泣かないだけなのよ!﹂
皆に迷惑をかけた私が、今更泣いて⋮皆に迷惑をただでさえかけた
のに、迷惑だって愛想を尽かされたらどうしようって。
皆はそんな人たちじゃないって思っても、どうしても疑ってしまう。
もしかしたら⋮って。
﹁強くなんてない。ただ、強く見せたくて⋮けれどもそれすらでき
ていない無様な人間⋮それが私なのよ⋮﹂
385
それから、私はわんわんと泣いた。多分、ワタシと私が融合してか
ら、初めて。私の中に在るどろどろとした感情を表に出すように。
﹁⋮⋮貴女のその強さは、美しい。だが、その美徳故に無理はする
な⋮それが、皆の総意。弱みを見せるのを躊躇うのも、貴女の過去
や立場を思えば仕方ない⋮だが、貴女のその辛さを晒さない有り様
こそが、ついていく者達を心配させる⋮それを忘れるな﹂
敬語ではないディーンの顔は、真剣そのもの。まるでお父様に説教
をされているみたいだ。でも、今その言葉の意味は、痛いほど分か
る。
久しぶり⋮というか、初めてわんわん泣いたその日、私は疲れてぐ
っすりと眠った。何かあっても、ディーンが仕事を肩代わりすると
申し出てくれたので、有り難く休む。
⋮そして、次の日。あれだけ大泣きしたおかげが、目は未だ少し赤
かったけれども、大分スッキリとした顔が鏡に映っていた。
386
下準備
﹁⋮⋮ごめんなさいね、ミナさん。こんな風に動いて貰ってしまっ
て﹂
﹁い、いえ!あの⋮当然のことをしたまでです。領主様⋮﹂
私の前には、とても恐縮したミナさん。⋮そう、あの破門宣告が起
きてすぐ、ミナさんを連れて来て貰った。今後起きるであろう、領
民の不満を抑える為の下準備。
今まで私がアルメニア公爵令嬢というのを全く知らなかったミナさ
んは、最初目を白黒させていた。更に、私の話した内容から今の状
況を知って、もっと恐縮してしまった。自分達のせいで⋮って。そ
うなると予想して、教えた私は本当に性格が悪いなと思ったものだ
ったわ。
﹃ここに呼び出したのは、他でもない⋮貴女にお願いがあるからな
の﹄
﹃は、はい。何でしょうか?私のできることでしたら、何でも!﹄
﹃貴女には辛いことを思い出させるけれども⋮あの、教会が売られ
た時のことを、周りに沢山話して欲しいの。そうね⋮少し大袈裟な
ぐらいに。筋書きは、こう。“聖なる教会である場が、私たちが住
んでいたというのに人身売買に手を染める者たちに売られてしまっ
た。そのせいで立ち退きを強いられ、嫌がらせを沢山受けて。その
現状を知ったアイリスがならず者たちを逮捕し、嫌がらせのせいで
ボロボロになった教会を移転して自分たちを住ませてくれている”
387
って。それと、“教会の移転後、まだ門は開かれていないけれども、
もうすぐ大々的に開放されるみたい。その時にはアイリスも来る”
って﹄
私のお願いに、キョトンと首をミナは傾げた。
﹃そんな事ですか?﹄
﹃ええ。貴女は沢山の好奇な視線に晒されるかもしれない⋮いいえ、
十中八九そうでしょう。否定や疑いの眼差しを受けるかもしれない。
それでも、沢山の人たちに話して欲しいの﹄
﹃そんな事で良ければ、勿論!今から早速沢山話してきます!この
領都中に触れ回ってきますね﹄
そうお願いして、僅か数日。噂はかなり広がった。それこそ、各地
を飛び回ってくれている皆の耳にも届くほど。勿論、肯定的なもの
ばかりではないし、疑いや、噂自体、尾ひれ背びれがついてねじ曲
がってしまったものもある。けれども、素地はできた。そして、新
しい教会の開放式に人々の関心も高まっている。
そこまでのことを思い出して、私は現実に戻った。
﹁本当に、ありがとう。ミナ。それから私は領主ではなくて、あく
まで領主代行よ﹂
﹁そ、そうでした⋮﹂
﹁それから、私のことは子供達には内緒ね。また一緒に遊んだ時に
アイリス様だなんて言われたら⋮距離を感じて悲しくなっちゃうも
388
の﹂
﹁またいらっしゃってくださるんですか?!﹂
﹁勿論。子供達の発表会の時のもの、まだ見せていただいてないも
の。それに新作の絵本や童話も、まだ渡せてないし﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます、アイリス様。子供達は楽しみに待っ
ております﹂
﹁それは嬉しいわ。⋮その為にも、早く片を付けないとね﹂
私はそう言って、馬車を降りた。
今日は、待ちに待った新しい教会の竣工祝い及び開放式。これに参
加する私のために、各地を転々とするライルとディダそれからター
ニャが護衛にと同行してくれている。
目の前には、新しい教会が聳え立っていた。神聖な場所だというの
に、気分は魔王城に向かう勇者のそれ⋮は、言い過ぎかしら。
さあ、まずは。領民の心を纏めるために、私は乗り込みましょう。
389
ある民から見た演説
黄昏時。いつもは酒場が賑わい始める頃、大勢の人が教会に集まっ
ていた。真新しい教会は、時間が時間なだけに薄暗い。けれども、
それ故に神秘性が増しているような気がした。
そこには、有名な商会の会頭や地方村の村長などの有力者から、自
分のような平民まで。特に領都に住む民は多く集まっていた。
入りきらないほどの人々は、大きな新しい教会の礼拝堂を埋め尽く
す。自分は近くに住んでいて、何とか早めにここに着いた為座れて
いるが、中には立ち見の者や、礼拝堂に入りきらず扉近くで中を伺
い見る者までいる。
領主が破門宣言を受けるなどという前代未聞の事態に、自分を含め
皆が不安に思っている。その不安を少しでも和らげようと、新しい
教会に足を運んだのだ。
そして、もう1つ。誠しやかに流れる噂も原因の1つだろう。曰く、
領主様は孤児達を守る為に教会と対立したと。曰く、その孤児達は
ここの教会に併設されている孤児院にいると。
確かに、領都に院はあった。俺は商売をやっていて、院の存在を知
っていたし、子供達やミナと会話もしたことがある。だから、あの
現状には正直胸を痛めてた。けど、一商人の俺ではどうしようもな
かった。
俺は子供達を見かけたことがあるから、信じても良いかなという
思いもあるが⋮でも正直、領主様自ら俺たちのような平民のために
教会と対立するか?なんて疑いもある。
390
そんな事をつらつらと考えていたら、いつの間にか現れた神官様が
祭壇の前に立ち神への礼をしていた。
そして、それと同時にパイプオルガンの音が響き渡る。神秘的な、
それでいて厳かなメロディー。美しいそれに、胸が詰まった。
そして、その後神官が神への祈りを捧げ、それに合わせて自分達も
祈りを捧げる。
その後、神官様からの説法が始まった。
﹁神は、人へ愛を説きました。愛を以って接することで、人は人と
手を取り合い世界は成り立つのだと。人は弱きモノです。独りでは、
決して人は生きていけない。そのために、神は人と人との繋がりの
尊さを教えられました﹂
柔らかな口調のその言葉は、決して声を張り上げているのではない
けれども、この礼拝堂に響き渡る。
﹁けれども、人と人の繋がりを大切にするあまり、間違いから目を
逸らしてはならないとも教えになられました。愛と依存は異なりま
す。間違いを見た時には勇気を以って、これを正す必要があります﹂
ザワザワと、少し礼拝堂が騒がしくなった。間違いを正さなければ
ならない⋮それは領主様のことを仰っているのかと。
﹁私たちは曇りなき心で、物事を見定めなければなりません。何が
正しく、何が悪なのか。正しいと思った者には、手を差し伸べなさ
い。例えそれが、他者に疎まれる者だとしても。私はこの地に神の
教えによって愛が溢れ、正しき光が満ちることを祈っています﹂
391
そう話を締めくくった後、神官様は祭壇から退場した。そのまま式
も終わりかと思いきや、代わりに女の子が祭壇に立つ。
純白のドレス⋮けれども飾りも何もないその服はドレスというより
は、ダリル教の礼服に似たような作りだ。けれども、そんな質素な
服を着ていても⋮この場の誰もが釘付けになる程、少女は美しい。
﹁お集まりの皆様。本日はこの教会の開放式にご参加いただき、誠
にありがとうございます﹂
澄んだ声。そしてそのお辞儀は、まるでどこぞのお嬢様⋮それもそ
んじょそこらでは見ないような、だ⋮のように美しい所作だ。
あの女性は誰だ?という声が、チラホラ挙がっている。耳を澄ませ
ば、“アリス⋮!”という声が自分と同じ平民から挙がっているの
が聞こえてきた。
その疑問に答えるように、彼女は声を出す。
﹁私の名前は、アイリス。アイリス・ラーナ・アルメニア。アルメ
ニア公爵令嬢にして、現在領主代行の地位を持つ者です﹂
途端、会場のざわめきが大きくなった。⋮領主代行の方が来たとい
うことよりも、勿論、破門宣言をされた彼女が何故?という声が大
きかったのだが。
﹁皆様、お聞きください。皆様は、何故私がこの場にいるのか⋮疑
問に思われることは、尤もな事でしょう。ですが、私はこの神官様
にお許しをいただいて、この場に立っているのです。そして、先ほ
392
どの神官様のお話にあった通り⋮皆様に、曇りなき心で正しい事か
どうかを聞き届けていただきたいのです﹂
彼女の口調は凛としていて、この教会の雰囲気によく合っていた。
威厳、と言えば良いのか。彼女のその雰囲気に、混乱し騒いでいた
聴衆も怒鳴るのを止めた。そういう人たちは、ボソボソと何かを言
い合っているようだっけれども。
﹁我々の領地は豊かで、人々は神の教えに従い愛を以って他者に接
しています。けれどもその愛が行き届かず、不遇な環境にいる方々
も確かにいます﹂
まるで神に祈りを捧げるように手を組み、声を挙げた。
﹁私は、そのような者たちに出会いました。かつては、シスターと
いう良き師に恵まれ、領都にある教会の孤児院で健やかに暮らして
いた子供達。ですが⋮シスター亡き後、教会の地は売られてしまい
ました。残された子供達は行き場を失い、買い取った者たちの心無
き行動で傷ついていました。子供達には何の罪もないというのに、
あまりにも酷い仕打ちでございました。この場にいる領都の住民の
方々の中には、その様を知っている方々もいらっしゃるでしょう﹂
彼方此方から、知っているという言葉が挙がる。自分も、その中の
一人だった。
﹁気付かない、それは我が一族にとっては罪です。私は、この地に
住まう人々を守るためにいるのですから﹂
彼女はそう言いながら、片目からツウ⋮と涙を流した。その光景は、
とても美しく絵になっている。
393
﹁同じ過ちを、私たちは繰り返しません。私たちは、貴方達を守る
べく在りましょう。その一歩が、この新たな教会です。子供達の安
全を、将来を守る場。この教会は、我が一族の、私の決意。皆の輝
かしい未来への象徴。さて、私の罪は、教会を破壊したことだと宣
言されました。ですが、それの何が罪なのでしょうか。守るべき民
を見捨てるべきでしたか?破壊行為によってボロボロの教会をその
まま捨て置くべきでしたか?それが、正しい事なのでしょうか?﹂
それまで淡々としていた口調が、次第に身振りが混じり感情の起伏
が感じ取れるようになった。それと同時に、胸が詰まった。彼女の
言葉が本当なら⋮問われなければ罪人は、一体誰なのか、と。
﹁私は、ダリル教の敬虔な使徒です。ですが⋮私は、この地とこの
地の民を守る領主なのです。神は私達を見守られていますが、行動
すべきは自分たちなのです。幸福が、突然空から降ってくるとは思
ってはなりません。全ては私たちの行動と意志にかかっているから
です。悪を仕方ないと受け入れる人は、悪の一部になります。悪に
抵抗しない人は、実は悪に協力しているのです。先ほどの子らを知
っていると答えた方々、貴方達はその子らの為に何かをしましたか
?声にして、助けを求めましたか?私の両の手は小さく、そして私
の目も耳も2つしかありません。ですが、私には私を支える領官と、
ここにいる皆さんがいます。私は応えましょう。弱き者がいたら、
真っ先に守りましょう。不遇な環境を嘆き、手を差し伸べましょう。
この地が、この地に住まう人々誰もがより豊かになるよう、力を尽
くしましょう。だから、皆さんも力をお貸しください﹂
パチパチ⋮と1人が拍手した。徐々にその拍手が波のように広がり、
394
この会場や会場の外からも拍手の音が鳴り響いた。
この人に、ついていけば。この人についていけば、自分たちは豊か
になれる。この人は、自分たちを守ってくれる⋮何を敵に回しても。
そう、思った。根拠なんて、考えなかった。ただ、漠然とそう思っ
た。
多分、彼女の雰囲気とこの場の雰囲気に呑まれたというのもあるの
だろう。けれども、それでも良いと思わせるだけの感動があった。
﹁⋮⋮貴女に、神の祝福を﹂
神官様も、そう仰った。彼女は身を屈め、神官様の祝福を受け取ら
れる。そして、それを振りまくように再度自分たちの方に向けて、
頭を下げられた。
⋮今日、この場に来て良かったと。本当に、心の底から自分は思っ
た。
395
振り返りつつ再びの王都へ︵前書き︶
連続投稿してます。6部投稿してますので、ご注意ください。
396
振り返りつつ再びの王都へ
⋮⋮プロパガンダ。
世論・意識・行動を意図する方へと誘導する宣伝行為。
私が行った演説は、まさにそれ。下準備としてミナに走り回って貰
って流した証言を利用し、私につく事でメリットがあると思い込ま
せ、教本を利用し道徳的な言葉を結びつける。
かの有名なアドルフ・ヒトラーは、﹁宣伝効果のほとんどは人々の
感情に訴えるべき﹂﹁宣伝を効果的にするには、要点を絞り、大衆
の最後の1人がスローガンの意味するところを理解できるまで、そ
のスローガンは繰り返し続けることが必要﹂と残していたけれども
⋮上手くできたかしら?何せ、私は演説なんてこの方したことがな
かったし。できたと、信じよう。沢山の拍手を貰えたし。
因みに、駄目押しとばかりに黄昏時に解放式を行ったのも、薄暗い
部屋で行ったのも全て、それをより効果的なものにするためだ。
さて、これで脇は固めた。私が少しばかり領地を離れても大丈夫⋮
ということで、向かう先は王都。⋮元凶を叩きに行かないと。
それにしても、と心の中で繰り返し考えている疑問を反芻する。
あの場で平和的に式で演説を行えたのは、ディーンのおかげ。今、
肌身離さず持っている書状2枚。この書状のおかけで、神官の協力
を得ることができたのだ。私が求めていた最後のピースこそが、こ
の書状。
397
どうすれば、得ることができるか⋮お母様か王太后様のお力をお借
りするかと考えていたのだけれども。本当にディーンはどうやって
⋮まさか⋮。
﹁⋮⋮お嬢様、大丈夫ですか?﹂
考え事をしていたら、心配げな声色でライルに声をかけられた。
﹁だ、大丈夫⋮﹂
﹁後もう少しで、休憩です。それまで、ご辛抱ください﹂
現在、王都に向かっているところ。それも、速度重視で馬車を使わ
ずに。⋮何が言いたいかというと、現在私は馬車に揺られているの
ではなく、馬に乗っているのだ。⋮勿論乗馬の心得なんてない私は、
ライルに手綱を握ってもらっているような形で。
前回あの強行軍に耐えられたのだから大丈夫かな⋮なんて思ってた
けれども、全然違う。甘かったわ。馬ってこんなに揺れるのね⋮。
地面が恋しくて仕方ない。
同行しているのは、ディダ、ターニャ、それから我が家の護衛たち。
ディーンは用事があるとのことで、途中で別れた。それが終わり次
第向こうで合流する、とも。皆見事に馬を乗りこなしていて、この
場でお荷物は私だけ。
⋮けれどもその苦労の甲斐あって、見事に時間短縮はできた。
王都につくと、ふらつく足を何とか動かして別邸へ。
﹁お帰りなさいませ﹂
398
ここを去った時と同じく、使用人総出でのお迎えを受けつつ、中に
入った。
﹁た、ただ今帰りました。お父様、お母様、ベルン⋮今回ご迷惑を
お掛けしまして、大変申し訳ございません﹂
家の玄関で、家族の皆も迎えてくれた。それに対する挨拶は、随分
と締まらないものだったけれども⋮。未だに平衡感覚が戻らなくて、
若干視界がグルグルする。
﹁⋮随分と早い到着だが⋮大丈夫か?﹂
私の状態を察したお父様が、気遣うように問いかけてくれた。
﹁ええ。何とか⋮﹂
﹁少し身体を休めろ﹂
﹁は、はい⋮⋮.﹂
そこから、お父様の厚意に甘えて数刻部屋で休んでから、リーメに
案内されつつ部屋に入る。
いつもは、お茶を飲む時とかに使う部屋だけれども、勿論今日はそ
んな和やかな雰囲気ではない。既に家族全員が席についていて、私
も空いている席に腰掛けた。
﹁改めまして⋮この度は、ご迷惑をお掛けしまして誠に申し訳ござ
いませんでした﹂
399
再度、皆に向けて謝罪。
﹁いや、まさかダリル教がここまでの行動を起こすとは思わなんだ。
そう、気に病むな﹂
﹁ですが⋮﹂
﹁そうよう。言いがかりもいいところだもの﹂
お父様とお母様の温かいお言葉に、胸が詰まる。
﹁会の準備はできている。王太后様がとても張り切っていらっしゃ
った。向こうは我らに戦いを嗾けてきたのだ⋮遠慮はいらない。思
いっきりやれ﹂
﹁はい。⋮そういえば、お母様。ディーンからお母様にと書状を預
かっておりまして⋮﹂
﹁まあ、彼から?見せてちょうだい﹂
お母様は興味津々とばかりに私から手紙を受け取ると、すぐさまそ
れを開いて読み始める。読み終えた頃には、ふふふ⋮と楽しそうな
笑みを浮かべていた。
﹁⋮⋮彼は、何と?﹂
﹁いえ、ね。勝手に名前を使わせて貰って申し訳ない⋮と。貴女が
受け取ったその書状を教会から得るのに、どうやら私の名前を使っ
たみたいなの﹂
400
﹁お母様の名前を使う⋮効力は絶大でしょうね。現在お母様が出席
を予定されていた慈善パーティーに欠席を表明されてから、欠席者
が続出していると教会から悲鳴が上がっているそうですから﹂
ベルンの言葉に、私は納得する。欠席が続出する⋮ということは、
集まるお金というのも減るということだ。それは確かに教会側にと
っては手痛いしっぺ返しだろう。⋮でも。
﹁大丈夫なのですか?教会はこれ幸いと、お母様にまで攻撃を仕掛
けてくるのでは?﹂
﹁大丈夫よう。納めているものは納めているのだし。そもそも慈善
パーティーは元々任意で出欠席できるものよ。“破門宣告を受けた
娘の母が教会のパーティーに出席するのは、場の空気が悪くなるの
で辞退します”ってちゃんと手紙にも書いといたし﹂
直球すぎる内容に、思わず笑ってしまった。
﹁まあ、今回の件が解決したら、ちゃんと出席するようにするけれ
どもね。何せ、それが教会側から書状を勝ち取る為の条件の1つだ
ったみたいですし﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁私がそんな行動をすると予想して、教会側との交渉の材料に使っ
たみたいなのよ。私としては、私の名前がアイリスちゃんの役に立
ったのだから良いけど﹂
⋮⋮ディーン。随分と大胆な行動に出たわね。お母様の名前を勝手
に使うどころか、交渉材料にするなんて。しかも、事後報告。お母
401
様がお許しになったから良かったものの⋮若干頭が痛い。
﹁お姉さま。私から、1つ報告が﹂
考え事をしていた私に、ベルンが口を開いた。
﹁あら、何かしら?﹂
﹁今回の件、ヴァンが首謀者ではありません﹂
﹁だから、許せ⋮と?﹂
私が若干睨むように見ると、すぐさまベルンは首を横に振った。
﹁いいえ。⋮⋮今回の首謀者は、恐らく教皇本人。そして、彼の周
りに、最近モンロー伯爵が懇意にしている商人の姿があります﹂
﹁貴方は、その商人が裏で糸を引いていると?﹂
﹁恐らくは。⋮そもそも、いくら何でも教皇とはいえ、おいそれと
公爵家に仕掛けることなんてしない筈だと疑問に思い、ヴァンから
話を聞き出しました。勿論、直球では聞けないので色々と世間話を
して⋮そこで気になったのが、その商人です。この事件の少し前に
からモンロー伯爵のところの商人が教皇と面談を数度している、特
にお姉様の破門宣告をする前に多く。偶然にしては出来すぎていな
いか、と思いまして﹂
﹁なるほど。⋮お父様、その商人の事は⋮?﹂
﹁勿論、調べさせている﹂
402
なら、良い。それにしても、ベルンの行動に少し感動する。スパイ
よろしく、まさか向こうから話を聞き出してくれるなんて。
﹁私としては、エドワード様の関与も疑っているのだけど?﹂
だからこそ、聞いてみた。今の彼なら答えてくれるのではないか⋮
って。
﹁いいえ。彼の方も、教会の件で関与はしていませんが⋮﹂
﹁何か?﹂
﹁御本人に向かっては言いにくいのですが⋮お姉様が王太后様の後
ろ盾を得た事を、彼の方は面白く思っていないようでして。意趣返
し⋮と申しましょうか。何かできないかと、お姉様の事を疎んじて
いる彼の方は、随分と方々で愚痴っていました。そして今回の件を
耳にして、これ幸いと動き始めまして。商会から従業員を引き抜い
たのは、まさに彼の方の行動によるものです﹂
﹁⋮⋮なんと、まあ⋮⋮﹂
小さい男なのか。とはいえ、商会の売り上げは確かに落ちているの
だから、侮ってはならないのだけれども。
﹁⋮⋮商会の件は、この件が終わったら思いっきりすることにする
わ。情報提供、ありがとうね﹂
﹁いえ﹂
403
﹁さ、アイリスちゃん。そろそろ食事にして、早く休みなさい?明
日もまた、大勝負よ。しっかりと休養を取って、勝ちにいきましょ
う﹂
﹁はい、お母様﹂
さて、明日は本場。前回の建国記念のパーティーも戦に出陣する兵
士のような気分だったけれども⋮今回は、それ以上。
明日、私の運命が決まる。負けは許されない、ここ一番の大勝負。
404
振り返りつつ再びの王都へ︵後書き︶
次回より、お嬢様のターンです
405
出陣
身支度をして、王宮にむかう。この前の演説の時と同様、華美にな
らないような服を選んで着た。
さて、今日は王宮にてお父様へ今回の事態を問う査問会が開催され
る。⋮貴族社会に大きな影響を齎す重大案件だからこそ、当人では
なく当主であり私の監督責任を持つお父様に説明を求めるのだ。要
するに、部下がやらかして、その上司に“何をしているんだ!説明
をしろ”とボスが言っているというような場面。
私の進退が決まる場⋮良くて勘当からの幽閉⋮最悪投獄や極刑すら
下手を打てばありえる今回の査問会では、関係者は勿論、聴者とし
て参加できる貴族からもかなりの人数が見にくるだろうというのが
大方の予想。
私は僅かな護衛⋮いつもの通りライルとディダなのだが⋮2人を連
れて登城した。
既に人々は集まっている。⋮というのも今回、実は私は正式には招
待されていない。謹慎している私を堂々とは呼べないので、私は王
太后様から内々的に了承をいただいたのだ。
そのため、人の目を避けるように予め王太后様から指定されたルー
トを通って歩く。気分は不法侵入者だ。⋮強ち間違いではないけれ
ども。
﹁⋮⋮アルメニア公爵。娘の監督もできぬような身で、我が王国の
監督なんて荷が重いのではないかしら?﹂
406
声が聞こえてきた。⋮この声は、第ニ妃のエルリア様だ。宰相職を
辞めるべきだと示唆する言葉⋮ここぞとばかりに、お父様を責めて
いるということかしら。
﹁そうですな。此度の事は、我が国にとっても恥ずべき大事。その
責を、令嬢一人で賄えるものなのでしょうか﹂
﹁宰相職はもとより、家の断絶というのも⋮﹂
エルリア様側の貴族から、そんな言葉が彼方此方から噴出し始める。
やがて、その空気に飲まれるように他の貴族からも“確かに”とい
うような言葉が漏れ始めていた。
﹁⋮⋮私は、アレを監督したことなどありません﹂
お父様の低い声が、その騒めく場を切る。
﹁監督をしていないから、罪を負わないと?とんだ責任逃れではあ
りませんか?﹂
けれども、その内容にエルリア様は鼻で笑った。
﹁お聞きになったでしょう?宰相職はもとより、アルメニア家が公
爵家として存続し、あの領地を治めることすら、問うべきであると
いう意見があることを。それ程の大事、そのような言で責任から逃
れられると思うのですか﹂
エルリア様が高らかに宣言された。⋮つまり、ウチからあの領地を
取り上げたい⋮と。貴族の方々も、成長を続けるあの領地を合法的
407
に手に入れる事ができるのであれば、それ程美味しいことはないも
のねえ。特に隣の領地を治める人なんかは、エルリア様側に付けば
立地からして貰える可能性が高いと舞い上がっても仕方ないかも。
現に一生懸命、今もそうだそうだと言っているし。
再び騒がしくなった場で、お父様はジロリと周りを一瞥した。その
冷たい視線に、周りは一瞬呑まれて静かになる。
﹁⋮⋮責任逃れなどでは、ありません。私は、アレを監督をしたこ
となどない⋮それはつまり、監督なんぞしなくても、アレは必要な
事を⋮貴族として正しい事をすると信用していたからだ。そして宰
相職についてこの方、私はその手の事で見誤った事はない﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます、お父様﹂
言い切ったお父様に、私は思わずその場で小声で呟く。今の言葉が、
私に勇気をくれた。この場に入っていく勇気を。
緊張で震える手を抑え、出る⋮とは言え、さっきまでいたところは
謁見室を見る事ができる所謂隠し部屋なので、直通では出られない。
再びその場から少し複雑な道を通って、謁見室の扉の前まで来た。
私に気づいた謁見室の扉を守る衛兵達が、“お待ちください”と慌
てたが、王太后様からの手紙を見せて黙らせる。
そして、そのまま扉を開けさせた。
408
409
出陣
︵後書き︶
本当に申し訳ないです。ご指摘にありました通り、投稿ミスをして
途中で切れていました⋮!!投稿し直しましたので、一回見られた
方は此方からご覧ください。
410
査問会︵前書き︶
1/8です。お待たせ致しました
411
査問会
部屋を開けた瞬間、一斉に人々の視線が向けられた。⋮そして、こ
の重要な会議に乱入してきたのが私だと分かると、更に室内は騒め
く。私を見て驚かなかったのは、予め私が来ると知っていたお父様
と王太后様⋮そしてラフシモンズ・クリストファー司祭⋮彼らだけ
だ。
私はそのまま奥に進む。豪奢で、威厳に満ちたこの室内。そして、
両端に佇む厳しい目を向ける貴族の面々。そして最奥に座る王家の
方々⋮とはいえ、ここにいるのは王太后様とエルリア妃のみだが⋮
とダリル教の面々。
その全てが、私にとって酷く恐ろしいものに感じられて、折角さっ
き勇気を貰ったと思ったのに、再び手が震えた気がした。
⋮大丈夫。そう思い込もうと、手に力を込めて握りしめても、それ
は止まらない。
私からしたら長い時間⋮けれども、実際にはほんの少しの時間だっ
たろう⋮をかけて、それでも何とか奥まで進んだその時、ふと、私
はある人物が目に留まる。
ラフシモンズ・クリストファー司祭。痩せていて、眼鏡をかけた理
知的そうな人物。彼の表情は、無表情⋮けれども、その視線は他の
面々と違い私を試しているように感じられた。
果たして、この盤面をひっくり返す事ができるのか⋮与えられたピ
ースを活かす事ができるのか、そう問われているように。
412
それを感じた瞬間、私の震えも止まった。思い浮かんだのは、司祭
との繋ぎを作ってくれた彼。
⋮上等じゃないか。私は、彼の厚意を無駄にはしない。そして、私
に付いてきてくれている皆の信頼に応えなければならない。
私はお父様の隣に立った。対するは、空席の玉座。それを挟むよう
にして、エルリア妃と王太后様がお座りになっている。そして少し
その手前に、ダリル教の面々が座っていた。
﹁⋮⋮何故、貴女がここにいるのかしら?﹂
エルリア妃の冷たい言葉が、視線と共に突き刺さる。
﹁⋮恐れながら、事態を報告するのに当事者たる私が説明すべきだ
と思ったからです﹂
﹁報告するも何も⋮貴女が、神聖なる教会を破壊したという事実は
変わりないのでしょう。今は貴方の破門どうこうではなく、その責
をアルメニア公爵家としてどう取るのか。その話し合いのための査
問会ですわ﹂
鷹揚に頷いたのは、ヴィルモッツ・ルターシャ教皇。あの第二王子
の取り巻きの1人⋮ヴァン・ルターシャの父親にして、ダリル教の
教皇だ。
﹁アイリス・ラーナ・アルメニア。貴女は、教会の断りもなく神の
地たる教会を破壊。それは神を畏れぬ所業であり⋮⋮信徒にあるま
じき行為でもあり⋮また、上に立つ者の行為とは到底思えぬもので
す。神も大変お嘆きになっている事でしょう﹂
413
﹁それはそうですわね、教皇様。神の地⋮祈りの場を壊すという事
は、それ即ち神との対談を拒むという行為。神がお嘆きになってい
るというのも、理解できますわ﹂
何を今更⋮という、エルリア妃と教皇の視線に嘲りの色が写ったの
が見て取れる。
﹁それと同じように教会の土地が売られるということは、不信心故
の行為だと思いますが⋮如何でしょうか?﹂
﹁何が言いたいのです?﹂
エルリア妃は鼻で笑いつつ、それを隠すように扇を口元に置いた。
﹁何が⋮と問われても、そのままの意ですわ。エルリア様﹂
﹁その意が分からないと言っているのです。破壊が悪で、他者の手
に移るのは良いと⋮?そんな事ある訳ないでしょう。まさに、不信
心故の行為としか言いようがないですわ﹂
﹁ええ、そうですわね。私もそう思います。ですが実際、此方に教
会の土地が売買の契約書がございます﹂
ペラリと、私は持参した契約書を高らかに上げた。いつかに捕らえ
たあの人身売買に携わっていた者たちの家宅捜査をした時に出てき
た売買契約書。売主は勿論、ダリル教。そして買主はあの人身売買
を行っていた人物たちだ。
騒がしかった野次馬⋮もとい観客達は静まり返る。恐らく事の成り
414
行きを見守っているのであろう。⋮最も、第二王子派の面々は相変
わらず騒がしいが。
﹁⋮まさか、教会という聖なる地を売却する者がいるなんて⋮と、
私も驚きましたわ。エルリア妃様も仰られていた通り、教会の地が
売却されるなど、あってはならない事。ですが実際に、教会の管理
者が亡くなられたすぐ後に、我が領の教会の土地は売却されていま
した。売買契約書にサインをしたのは、神官様ですが⋮これはどう
思われますか?﹂
﹁馬鹿馬鹿しい⋮教会の神官が、神の土地たる教会を売却するなど
あり得ぬでしょう。そのような神官の名を騙る事自体、重罪に値し
ますわ﹂
﹁ええ。私もそう信じたかったですわ。神に仕える者がまさか⋮と。
ですが事実、この買主は教会の地の持ち主として、管理者であるシ
スター亡き後教会の破壊行為に及び、そこに住む幼き子供達へ立ち
退きを求めておりました﹂
﹁どうせその者達が謀っただけの事でしょう。神に仕える者を疑い、
そのような素性の知れぬ者を信じるとは⋮⋮貴族にあるまじき事。
全く、嘆かわしい﹂
エルリア妃が、嘲笑しつつ私の言を否定した。
﹁申しましたが、私も“まさか⋮”と思いましたわ。⋮⋮ところで、
私が領主代行の地位にいる事は皆様のご存知の通りでございます。
アルメニア公爵家当主である父にその地位を承ってこの方、私は領
政の改革に励んでおりました。税金の見直し、領民の明確化、領政
415
に携わる人員の見直し⋮また、土地所有者の明確化というのも行っ
ておりました﹂
﹁⋮⋮それが何だと言うのです?﹂
﹁土地という財産の1つを、明確化するのです。当然、各土地の所
有者に伺いを立てましたわ。⋮⋮勿論、教会にも伺いを立てました
の。我が領内での土地所有権を確定させる為と明記して。つまり、
ここで“保有せず”と解答すれば、我が領内においてその土地はダ
リル教のものではないということ⋮﹂
狙ってた訳ではないけれども、土地所有の明確化は早めに進めてお
いて良かった⋮と本当に思った。
﹁⋮⋮結果は、保有せず⋮という解答でした。驚きましたわ。まさ
か、ダリル教の方が本当に教会を売却するなんて⋮と。その時の書
状も、私は確りと保管してあります。それが此方ですね﹂
私は、その書状も高らかに上げた。下の方には、確りとダリル教の
神官の名前と印が押されているそれ。
﹁ダリル教の敬虔な信徒である私としては、領都に教会がないとい
うことを大変嘆かわしく思いました。ですので、その教会を一度取
り壊し、新たに教会を設置する旨もダリル教の方に伺いを立ててま
したの。また、それについてはダリル教の方々だけでなく、王国の
官吏にも報告を出してありますわ。その書状も私は保管しておりま
す﹂
﹁王国の官吏についてもそうですが⋮貴女が教会の方々に伺いを立
てたという証拠はあるのかしら?先ほども言いましたが、神官を名
416
を騙った者の仕業かもしれません。あるいは、貴女と共謀した誰か
が後付けで作成させた者かも知れませんし﹂
エルリア妃は、眉を眉間に寄せながら硬い声で問いかけてきた。要
するに、証拠を見せなさいというその言葉。
﹁まあ⋮王宮の官吏の名を騙るなど、王宮に問い合わせをしたのに、
そのような事もあるのでしょうか?それであれば以後、王宮とのや
り取りは全て相手を疑ってかからなければならないということです
ね﹂
私は思いっきり嘲笑するように言った。エルリア妃は不快な様子で
手に持つ扇子をパチンと閉じる。
﹁口が過ぎます。もう、良いわ。そのよく回る口で、貴女は自分の
罪から逃れようとしているようですが⋮先にも言った通り、本当に
ダリル教の方々であったのかという証拠はありません。いくらその
ような証拠を捏造したところで、私は騙されませんの﹂
下がりなさい⋮そう言いかけようとエルリア妃が口を開いた瞬間、
それに被せるように私は言を紡いだ。
﹁証拠なら、ありますわ。私のこの手に﹂
417
最後のピース︵前書き︶
2/8
418
最後のピース
私は、一冊の冊子を取り出した。それは随分と古めかしい茶色の冊
子である。
﹁なっ⋮それは⋮⋮!﹂
取り出したそれを、けれども殆どの者は知らないのか、それが何か
という事を問うような言葉が彼方此方から出てきていた。
顔色を変えたのは、ダリル教の面々。まあ、彼らがこれを知ってい
るのは当然の事。
﹁ダリル教の皆様は、勿論知っているかと思います。此方は、神官
を務めている方の名が記された名簿ですわ﹂
ダリル教だとて、組織だもの。俗な言い方だけど、神官達も霞を食
べて生きている訳ではないのだから、給金も必要だし、そう言った
人材を管理するために、名簿のようなモノがあるかもしれない⋮と
思ったのだけれども、これが大当たりだった。
主だった神官の方々の名は、全て記載されている。勿論、私がやり
取りをした面々の名も。
﹁この冊子の中に、売買契約にサインをされた方の名前も、私が伺
いを立てた方の名前も、何方も載っていますの。驚きましたが⋮お
二人ともダリル教内で随分な地位にいらした方々でしたのね﹂
﹁⋮⋮何故、それを貴女が⋮⋮﹂
419
門外不出らしいこの冊子を、私が持っていたのは余程驚いていたの
だろう。ヴィルモッツが呆然としたように呟きつつ、その冊子を凝
視していた。
⋮まあ、いくら私が他の証拠を持ってきたとしても、貴族の面々は
こちら側に傾きかけるかもしれないが、教会の面々やエルリア妃は
最後まで認めないだろう。ダリル教の教会関係者にそのような者は
いない⋮と。
それを黙らせる一手が、これ。
﹁⋮⋮貴女がそれを“どうやって手に入れたかは知らない”が⋮果
たして、それ自体が本物かは疑わしいものです﹂
ラフシモンズ司祭が、吐き捨てるようにそう言った。それに分かり
やすいぐらいに目を輝かせたのは、エルリア妃だ。
﹁ええ、そうですわよね。ラフシモンズ司祭様﹂
﹁⋮⋮でしたら、是非これを確かめてください。ラフシモンズ司祭
様?それに他の司祭様がたも﹂
私は、そう言って一歩ずつ彼らに近づいた。それを止める者はいな
い。そうして⋮私はそれを、ラフシモンズ司祭に渡した。
彼はパラパラと冊子を捲り、最後のページを凝視する。
﹁⋮⋮⋮⋮これは⋮⋮⋮﹂
420
そうして、驚愕したようにある一点を見つめていた。⋮なんて演技
の上手い方なのでしょう、と内心呟く。
﹁失礼しました。⋮⋮まず、間違いなく教会の物と言えるでしょう﹂
恐る恐る、と言った体でそう呟く。随分と小声だったそれは、けれ
ども部屋に見事に響いた。
﹁⋮⋮そんな⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮貴方達も見てみなさい﹂
そう言って、ラフシモンズ司祭はその冊子を別の司祭に手渡す。訝
しげに見ていたそれを、けれども渡された司祭様たちは次々と小さ
く首を縦に振ったり小声で肯定の意を示していた。
﹁⋮⋮何を根拠にしているのです⋮⋮?﹂
余程苛ついているのか、そう問いかけたエルリア妃の手は震えてい
て⋮顔色も随分と怒りが見て取れるような表情だ。
﹁この冊子の最後のページに、教皇を中心に枢機卿2人の捺印があ
ります。そして、これらの印は偽造防止の観点から、公にしない文
書⋮つまりこういった書類等にしか捺印しない特別な物なのです﹂
枢機卿とは、教皇の下にいる5人。教会の中で勿論権力を持つ人物
たち。
﹁⋮⋮つまり、間違いなく本物ということですわ。まあ、本人達か
ら話を聞けば一番早いでしょうけど﹂
421
そう言った瞬間、再び扉が開かれた。そこには、ライルに連れられ
た男が2人。⋮⋮件の神官達だ。否、“元”神官と称した方が正し
いのかもしれないが。公爵家の名前をフル活用し、かつターニャに
随分と骨を折ってもらって探し出した人物達。
422
証人︵前書き︶
3/8
423
証人
﹁⋮⋮さて、お二人とも。自己紹介をしてくださらないかしら?﹂
私は務めて優しく彼らに話しかける。
﹁⋮⋮わ、私の名前は、ダナンです。王都の教会で事務職を務めて
いました﹂
王都の教会⋮それが指し示す教会は、ただ1つ。碁盤の目のような
都市構造である王都の中でも北部を占めるのが王宮とダリル教総本
山の教会。王都の教会と言われれば、まず誰もがそれを思い浮かべ
る。
﹁私は教皇様のて、手となり足となり働いていて⋮あ、アルメニア
公爵家の領内の売却については、教皇様の許可を得て売却のサイン
をしました。そ、それなのに、いきなり教会から追放をされて⋮⋮﹂
﹁私は、レーニンです。私もダナンと同じように王都の教会で働い
ていました。アルメニア公爵領内の教会については、記録と照らし
合わせ、解答を致しました。ですが先日、突然教会から追放されま
して⋮⋮。虚実の発言をしたためとの事でしたが⋮私は指示通りに
動いただけだというのに。私は教会からアルメニア公爵家に対して
回答した時の書類の写しと教会の記録を持ち出してあります。もし
も私の発言に疑いを持たれるのであれば、此方もご参照いただけれ
ば、私の身の潔白は証明されるでしょう﹂
2人の発言に、室内は更に騒めいた。囁きを拾うに、完全にこちら
側の流れになったのを肌で感じる。
424
﹁ダリル教の方々の中には、彼らとの面識がある方もいらっしゃる
はずですね﹂
質問の体で言った言葉は、けれども最早質問ではなくただの確定し
た事を改めて口にしただけのこと。
ダリル教の面々は驚いたように目を見開き⋮そして気まずそうに目
を逸らす。
﹁物証もあり、証言人もいるのです。これで私の身の潔白は証明で
きたと思いますが⋮如何でしょうか﹂
再度の私の問いかけに、ギリリっとエルリア妃は唇を噛みしめてい
た。頭の中では反論する言葉を絞り出しているのだろうけれども⋮
この流れでそれを口にするのは許されない。
同じくヴィルモッツ教皇も怒りに顔を赤く染めていたものの、何も
言葉を口にすることはない。
﹁そうですね。私としては、彼女に何ら咎はないと思います。この
場の方々も同じ結論でしょう。⋮そうですよね?﹂
王太后様が、ここにきて初めて口を開いた。その言葉もまた、先ほ
どの私のそれと同じく、質問のような口調ながら全く誰にも意見を
求めていない。むしろ、断定したようなそれだった。
﹁アイリス・ラーナ・アルメニア。貴女は、我が国筆頭貴族である
アルメニア公爵家の名に何ら恥ぬ行いをしていないことを、王家は
ここに宣言致しましょう﹂
425
⋮⋮王太后様のその宣言により、決は下された。
﹁⋮⋮ありがとうございます。王太后様。恐れながら、このまま続
けて発言しても宜しいでしょうか?﹂
﹁まだ、何かあるのかしら?﹂
﹁はい。⋮⋮此度の責任の所在についてです﹂
私の発言に、エルリア妃は眉を顰めた。
﹁貴女の責はないとの事で決は下ったところです。アルメニア公爵
家にも勿論責めを負うものなど何もないとの事で良いと思いますが
⋮?﹂
﹁ええ。私が申しているのは、“此度のこの騒動を起こした”責任
の所在です﹂
私は下げていた頭を上げ、前を見据える。その視線の先にいるのは、
ヴィルモッツ教皇。
﹁我がアルメニア公爵家は、代々王家に仕えた臣でございます。そ
の歴史も長く、影響力も大きいと自負しております。そしてその家
の者である私がこのような疑いをかけられるなど⋮⋮皆様の仰られ
ていた通り、事実でなかろうとあってはならない事ですわ﹂
幾人かが、目を反らす。自分がさっき言った言葉がブーメランで返
ってきているのだから。
426
﹁そのような出来事に対して、私の身の潔白が証明された今、それ
を引き起こした面々に対して何の咎もないというのは、国として示
しがつかないと思うのですが⋮?﹂
そうですよね、ヴィルモッツ教皇?とは口に出さなかったが、視線
を思いっきり向けた。
﹁⋮⋮確かにそうね。エルリア、どう思う?﹂
王太后様は、エルリア妃に問う。けれども、彼女は口を閉ざしたま
まだ。
﹁それでは、ダリル教の皆さんはどう思われるのかしら?﹂
その様に、王太后様は思いっきり溜息を吐きながらダリル教の面々
に矛先を変えた。
彼らもまた、何かを口にしようとして、結局口を開きかけるものの、
再びそれを閉じるという事を繰り返していた。
﹁黙りしていては、分からないわ。アイリスの話を聞いてて、私、
思ったの。いいえ、この場の皆も分かっているわよね?この事態に
関わった者を追放し、証拠を隠蔽して⋮⋮貴方たちダリル教の方々
は“意図的”にアイリスを、ひいては我が国筆頭貴族のアルメニア
公爵家を追い落とそうとしましたね?それについて、どう責任を取
ってくれるのかしら?﹂
﹁⋮⋮恐れながら、王太后様﹂
しん⋮と怖いぐらいに静まり返ったこの空間で、ラフシモンズ司祭
427
が声を出した。誰もが、彼に注目する。
﹁此度の件に関しては、完全に我ら教会側の落ち度です。誰が関わ
ったのか、厳正なる調査の上処罰を行いたいと思います﹂
﹁それは勿論必要ね。でも、教会の方々は常に神秘のベールに包ま
れているのだもの⋮私たちが把握できない事を良い事に、有耶無耶
に終わらないかしら?﹂
王太后様の氷のような冷たい視線が、教会の方達を射抜く。先ほど
のお父様と同じく、物凄い威圧感が場を包み込んだ。
王太后様のお言葉の通り⋮教会って、この国の中枢に深く食い込ん
でいる割に、不可侵の領域として、有力な貴族ですらその内部に立
ち入ることはできない。更に言えば、“この国唯一の宗教にして、
国民全ての心の拠り所”であるダリル教には、王族ですら平時には
不可侵な領域。下手に掻き乱してしまえば、国民の不審感を煽り、
貴族に付け入る隙を与えることになるのだから。
⋮けれども、今回はカミサマを盾に逃げる事なんて許さない。この
場を利用して、第二王子派と教会を分断しなければ、また同じよう
に、私に対して何かしら妨害をしてくるかもしれないのだから。特
に教皇は是が非でも引きずり落とさないと⋮ヴァンがエド様の近く
にいるのだもの、そのつながりを断たなければ。
﹁⋮⋮勿論、そのような事にはさせません。神に仕える神官である
と同時に、私はこのタスメリア王国に住む者として⋮例え関わった
者が教会で“どのような位置”を占めてようと、断固処断する心算
はできております﹂
428
﹁⋮⋮頼もしいわね。それが、自分であっても?﹂
﹁勿論。今回の件において、教会側で保管してある物も全て挙げて
都度王家の方々及び貴族の方々に報告をあげましょう。その上で、
王家の方々による厳正な処罰をいただくのが宜しいかと﹂
﹁⋮なっ⋮⋮!ラフシモンズ、勝手な事を⋮⋮!!﹂
彼の宣言に、それまで呆然としていたヴィルモッツ教皇が我を取り
戻して叫ぶ。けれども叫ばれたラフシモンズ司祭は、冷めた視線を
彼に向ける。
﹁出過ぎた真似を致しました。ですが、これしかないのです。アル
メニア公爵家のご令嬢にあらぬ疑いをかけた挙句、なかった事にす
る事などできようがない。⋮⋮教皇様も、それはお分かりでしょう﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁周りの方々の目をご覧ください。今の私たちの聖域は、この国の
方々にとって疑惑の場。そのような事、それこそ本来であればあっ
てはならぬ事なのです。失った信頼を取り戻す為にも、此度の件、
我ら教会側も厳重に処断されるべきでしょう﹂
﹁⋮⋮そうですわね。そこまで言うのであれば、ラフシモンズ司祭。
此度のその調査及び報告を貴方に一任して宜しいかしら?﹂
﹁⋮⋮承ります﹂
王太后様のその決に、ラフシモンズ司祭はそう言って、再び頭を下
げる。
429
﹁そんな⋮!﹂
それに慌てて声をあげたのは、ヴィルモッツ教皇だった。
﹁⋮⋮何をそんなに慌てているのかしら?﹂
冷めた視線で王太后様が問う。
﹁お考え直しください。この者とて、処断されるべき一人やもしれ
ません。当然、何かしら自身に都合の悪い事について隠蔽工作を行
う可能性もあり得ます。調査及び報告する人員については、厳選に
選び後ほど王太后様に報告致しましょう﹂
﹁⋮⋮申し訳ないのだけれども、ヴィルモッツ教皇。先ほどラフシ
モンズ司祭が言った通り、今のダリル教の方々に信頼できる者はお
りません。誰でも同じと私には思えます。であれば、ここまでの覚
悟を見せた彼にこそ、私はお願いしたいのですが?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮この件について、反論は許しません。ラフシモンズ司祭、宜
しく頼むわね﹂
﹁⋮⋮神に誓って﹂
430
追撃︵前書き︶
4/8
431
追撃
﹁⋮⋮ラフシモンズ司祭。貴方が調査及び報告を担当されるのであ
れば⋮もう1つ、貴方に調査をお願いしたい事がございます﹂
﹁⋮⋮何でしょうか﹂
﹁資金の流れについて、です﹂
﹁それは、アルメニア公爵領内の教会が売却された際に発生した資
金の事ですね。今回の件の根幹に関わることですので、勿論調査さ
せていただきます﹂
﹁それについてもお願いしたいのですが⋮。私、他にも気になる事
があるのです﹂
﹁⋮⋮他に、ですか?﹂
﹁売却資金は決して少なくない額が出ておりました。その上で元々、
貴族の方々より寄付という名で資金も入っております。それなのに、
私の母が慈善パーティーに出ないからと資金が不足するとパーティ
ーへの出席を懇願されるなんて⋮一体どういう事なのか⋮です﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁失った信頼を取り戻すべく今回の件を報告をしてくださるのでし
ょう?であれば、それについてもしっかりと開示してくださった方
が宜しいのでは?⋮私、アルメニア公爵家としては教会に寄付する
事が嫌なのだと言う訳ではございません。母も、私の無罪潔白が示
432
された今、精力的に働く事でしょう。ですが、このまま情報の開示
がないままでは、それまでの教会の体質と同じという事。それです
と、また同じようような事が我々のあずかり知らぬことでが起きる
かもしれないと思いますが⋮?﹂
﹁⋮⋮アイリス様が危惧されている事は尤もな事でしょう﹂
ラフシモンズ司祭は、苦虫を潰したかのような表情を浮かべた。そ
れは痛いところを突かれているからか、“打ち合わせ”になかった
事を私が話しているからだろうか。どちらにせよ、止める気はない
けれども。
﹁⋮⋮もう1つ。私は、アズータ商会の記録で気になった事がござ
います。それは⋮⋮大変失礼ながら、ヴィルモッツ教皇様。貴方の
年収は、一体いくらなのでしょうか?﹂
﹁⋮⋮なっ!!神に仕える者に向かって、そのような俗な質問など
⋮⋮!﹂
﹁私だとて、好き好んでこの場でそのような事を申しませんわ。⋮
ですが、此度の件に関わることだから申しているのです。ヴィルモ
ッツ教皇、貴方がここ1年で我がアズータ商会で購入した物の金額
は、有力貴族のそれと同じぐらいですわ。教皇様の給金というのは、
果たしてそこまで多いものなのでしょうか⋮ラフシモンズ司祭?﹂
﹁⋮⋮いいえ。そのような事、ある訳がございません﹂
﹁まあ⋮⋮では、ヴィルモッツ教皇。その資金は一体どこから出た
のでしょうか⋮?﹂
433
﹁失礼であろう!!そのような事、私がする訳がない!!﹂
私は、貴方が売却資金から出したとは明言していないのだけどねえ。
尤も、この場にいる皆様がたは“まさか”から“もしかしたら”と
いうような疑惑の視線を向けている。
﹁そうですわね。これ以上、証拠が提示できない今この場において、
無闇に話を進める事は、ダリル教の方々が私にした仕打ちと同じで
すもの。ですから、ラフシモンズ司祭?厳正な調査をお願い致しま
すわ﹂
﹁⋮⋮も、勿論です﹂
﹁他に何かありますか?アイリス・ラーナ・アルメニア﹂
﹁いえ、ございません﹂
王太后様の問いかけに、首を横に振ってから頭を下げる。
﹁そうですか。⋮⋮それではダリル教の方々には、追って沙汰があ
るまで謹慎していただきましょう。特に、ヴィルモッツ教皇以外枢
機卿面々には﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
ヴィルモッツ教皇は何かを言いかけていたけれども、結局何も言わ
なかった。この場の流れを覆せるだけの物が何もないのか、それと
も何かを隠しているのか⋮一抹の不安が過る。もっと反論があるか
と思っていたから⋮あっさりし過ぎていて逆に怖い。
434
とは言え、教会に一矢報いることはできた。ヴィルモッツ教皇に対
しても、これから厳密な調査の手が及ぶだろう。
そうして、査問会は閉会された。
435
舞台裏︵前書き︶
5/8
436
舞台裏
﹁⋮⋮全く、ヒヤヒヤさせないでいただきたいものですね﹂
﹁あら、私はそんなに頼りなかったでしたか?﹂
私の問いかけに、ラフシモンズ司祭は苦笑いを浮かべる。
あの査問会から一週間が経った。その一週間の間に、教皇及び教皇
派の面々は次々に粛清されていった。破門とはならなかったものの、
神職に着くものが教会から追い出されるということはそれに匹敵す
るような処罰。加えて、資金の着服については現在調査中であり、
事態が明るみになったその時には王国の法による処罰も待ち受けて
いる。
﹁そうではないですよ。まさか、あの場であのような事を言いだす
なんて⋮。追い詰められた獲物は、何をするか分かったものじゃな
い﹂
﹁ですがあの場でこそ、意味があったのですよ。何せ、貴族という
聴衆の前にして彼処まで疑惑が挙げられたのですもの。おいそれと
彼の派閥の方々も彼と接触を図ることは難しくなった筈﹂
ヴィルモッツ教皇の築き上げた人脈や信用というのは、あの時あの
場で地に墜ちた。彼に接触を図っても、自身に余計な火の粉がかか
るかもしれないというこの環境で、それでも彼を弁護ないし引き立
てようとする者はそうそういないだろう。
﹁それでも逆に接触を図るのであれば⋮それはつまり、並々ならぬ
437
理由がある筈。そうした面々を炙り出す為にも必要なことでしょう﹂
﹁⋮⋮仰る通りです﹂
ふう、とラフシモンズ司祭は溜息を吐いた。
﹁⋮⋮それで?貴方も満足のいく結果でしたか?﹂
﹁ええ。教皇一派を追い落とす事が出来たのですから。これで、教
会の腐敗についても手を入れることができるようになりました﹂
私とラフシモンズ司祭を一言で言い表すのであれば、共犯者。⋮そ
う、あの査問会で私と彼はそれぞれ別陣営であったけれども、密か
に内通していたのだ。
そしてそれこそが、ディーンが持ってきてくれた最後のピース。
私はあの査問会までに、何とか教会側の物証と教会に属する人間の
人脈が欲しかった。けれども破門を宣告された私に、その人脈は簡
単に得ることができなかった。
ラフシモンズ司祭はヴィルモッツ教皇と対立していた派閥のトップ。
⋮私にとってはうってつけな人材を、彼は私に与えてくれたのだ。
﹁貴方の求める、正しい教会の在り方⋮ですね﹂
ラフシモンズ司祭は、現状の教会の有り様について異議を唱えてい
た人物。積み上げてきたキャリアは凄いらしいが、それでも上に上
がれなかったのは、派閥争いに敗れたからだそうだ。
﹁ええ。恥ずかしながら、現在の王都の教会の腐敗は凄まじい。神
438
職にある者が、貴族の真似事をするなどあってはならないこと。享
楽に耽り、その為に教会の資金は癒着され、火の車状態。遅かれ早
かれ、教会の信用は失墜していたでしょう。最近の教会は、より寄
付の多い者たちを優先し、職務を疎かにしていたきらいがある。で
すが、それも今後正していけるでしょう﹂
⋮本来の教会とは祈りの場であると同時に、民たちの最後の救済で
もあった。病院にかかれぬ者たちに治療を施し、食事につけぬ者た
ちに施しを行う。アルメニア公爵家に領内にあった教会のように、
身寄りのない子らを保護するのも珍しい事ではなかった。
つまり、ユーリ・ノイヤー男爵令嬢が民たちに施しを云々と言って
王国の予算を割かせていたけれども、本来は教会だけでそれ賄って
いたのよ。その為の寄付や慈善パーティーだし。
けれども、腐敗が進むと同時にそれに割かれる予算というのがどん
どん先細りしていった⋮らしい。
現在の教会は、寄付金の多い者たちに擦り寄り、教会の威光を笠に
着て便宜を図るだけの存在に成り下がっていたのだ。
﹁⋮⋮期待していますわよ?ラフシモンズ司祭﹂
﹁今度は私が試される番ですね﹂
そう言って、ラフシモンズ司祭は微笑んだ。
﹁⋮私は、貴方の期待に応えることができましたか?﹂
ラフシモンズ司祭は、共犯するに当たり私にあの冊子を託した。門
439
外不出の冊子⋮それを持ち出すということは、彼にとっても大きな
賭けでありリスクであった筈。
今は私の手元にないが、それでも彼が私に寄越したというのはその
旨が書かれた彼のサイン入りの手紙という物証が残っている。
共犯という同盟を結ぶ際に、彼が私への信頼を形にしたのがそれ。
裏切らない、裏切れないというところまで、彼は自身を追いやって
くれたのだ。
﹁ええ。ですから、今度は私の番です﹂
﹁貴方に最大限の感謝を。今後、アルメニア公爵家は、貴方への助
力を惜しみません﹂
その代わりに、私が復活した時には助力することを約束して。
﹁⋮⋮それでは、私はそろそろ行きますね﹂
﹁もう行かれるのですか?﹂
﹁ええ。商会の方が中々忙しくて﹂
私の破門宣告が撤回され、教会より逆に謝罪を受けるという出来事
があってすぐ。
私はアズータ商会で新商品を販売させた。以前、メリダと打ち合わ
せをしていたタンポポコーヒーやそれを使って作った甘味。そして、
貿易によって得た寒天を使った甘味。
440
これらの新商品は見事に当たって、現在再び売り上げは上がった。
そして、チョコレートを使って作った甘味にも新製品を次々に発売
させた。
⋮⋮今まで温めていたそれらは、全て我がアルメニア公爵家領内に
あるアズータ商会の本拠点の開発部にいる者しか知らない。つまり、
エド様が引き抜いていったという職人たちには既存の物は作れても、
新製品の事は何も知らないのだ。
と言う訳で、客足も戻ってきている。それに伴い、エド様のところ
に鞍替えした面々も、アズータ商会に戻りたがっているみたいだけ
ど⋮まあ、許す訳ないわよね。
エド様が開いた商会だけれども⋮職人たちだけでなく商会の取引先
についても、大口取引が全て此方に戻ってきているから、遅かれ早
かれ資金面が厳しくなるだろう。随分杜撰な経営をしていたみたい
だし。
﹁と言う訳で、失礼させていただきますわ﹂
441
舞台裏
6/8
別視点︵前書き︶
442
舞台裏
別視点
カツン、カツンと足音が響く。
﹁⋮⋮見事な牢屋だな﹂
皮肉を込めて呟いたその言葉に、自分の一歩後ろを歩くルディが笑
った。
﹁そりゃ、教皇様が収容されているのですから。平民と同じように
とはいかないでしょう﹂
﹁⋮⋮そのような考え方が、今回このような事態を招いたのだがな﹂
扉の傍にいる兵士達に指示を出し、開けさせる。現在謹慎という名
目で捕らえられた教皇は、この特別な牢屋で衛兵達に見張られなが
ら生活を送っている。
﹁⋮⋮誰だ⋮⋮あ、貴方は⋮⋮っ﹂
教皇は、俺を見て驚いたように目を丸めた。その表情が可笑しくて、
つい口の端が上がるのを感じる。
﹁⋮⋮久しいな、ヴィルモッツ・ルターシャ教皇。いや、もうお前
は教皇ではなかったか⋮⋮﹂
意地の悪い笑みだと、自分でも思う。けれども、やっと膿の一部を
消せるのだと思うと愉快で仕方ないのだ。
443
﹁⋮⋮アルフレッド王子!!何故、貴方がここに?﹂
﹁⋮⋮何故?それは、お前が私を呼んだからだろう?﹂
俺の問いかけに、ヴィルモッツは漸く思い至ったのか落ち着けるよ
うに息を吐く。
﹁エルリア妃及びマエリア侯爵家はお前と手を組み、この件が片付
かなければ⋮そうだな、確かに私は出てこざるを得なかった。私と
彼らの勢力は拮抗⋮王都での勢力については彼らの方が若干上だ。
その上教会まで味方につけられたら、こんなコソコソと動くような
真似はできなかったろうよ。それを見込んで、彼らはお前に手を組
む事を持ちかけ、更に邪魔なアルメニア公爵家に対して仕掛けさせ
た。⋮まあ、結果は私を引きずり出すどころかアルメニア公爵令嬢
に敗れるというお粗末な物であった故、彼らとしては納得いく結果
ではなかったろうがな﹂
﹁⋮⋮わ、私は王子の仰る通り、エルリア妃に利用されただけなの
です。どうか、アルフレッド王子。御慈悲を⋮⋮﹂
その言葉に、ついつい声をあげて笑ってしまった。可笑しくて、仕
方ない。
そして、そんな自分をヴィルモッツは奇人でも見るかのように狼狽
しつつ見ていた。
﹁⋮⋮舐められたものだな。そう言え、と言われたのか?﹂
﹁そんなまさか。私はエルリア妃にそのような事は⋮⋮﹂
﹁違う﹂
444
自分でも、冷めた声だと思う。けれども、十分な威圧感を与えられ
たようだ。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁あの商人だよ。なんと言ったか⋮⋮そうそう、ディヴァンと言っ
たか﹂
さあっとヴィルモッツの顔色から血の気がなくなる。⋮こんなに顔
に出して、本当に教会という王宮とはまた違った魑魅魍魎が跋扈す
る場でよくぞ生き残ったものだ。
﹁⋮⋮な、何故⋮⋮﹂
﹁エルリアとマエリア侯爵家に利用された⋮確かに尤もらしい言葉
であるな。だが、こうなる事はお前だとて手を組む前に容易に想像
できた筈だ。⋮では、何故それでも手を組んだのか。もっと利にな
ることが他から提示されていたと考えるのが自然であろう?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
ヴィルモッツは、口をパクパクと開け閉めしていた。何やら言葉を
探しているようだったが、特にそれらしきものは出てこない。
﹁お前の目的は始めから、アイリスを蹴落とすことじゃない。まあ、
蹴落とすことができたら重畳と言ったところか。⋮それ以上に、ル
イ・ド・アルメニア公爵を一時的にでも動けないようにすること。
国内の目をその件に集中させ、ディヴァンとその一派が動き易くな
るようにさせること。そして、アルメニア公爵家より国内の流通を
445
鈍らせることだった。⋮見返りはあの国で国教として認めて貰うか、
はたまたこの国の統治権を貰うか⋮まあ知らぬが。ああ、別に答え
合わせを求めている訳ではないぞ﹂
﹁それが分かっていて、何故⋮⋮﹂
﹁何故?私としては、お前のような膿を吐き出せるこの機会を待っ
ていたんだ。その先の企みさえ潰せれば良いのだからな。礼を言う
ぞ。勝手に自滅してくれてありがとうとな﹂
ヴィルモッツは、面白いぐらいに顔を歪めた。
﹁⋮⋮追って沙汰は下す。それまでこの快適な部屋でのんびりと過
ごすが良い﹂
言うべき事を言って、ルディと共に部屋を出た。後ろでヴィルモッ
ツが何か喚いていて、煩い。あのタイミングで部屋を出て正解だっ
たな。そんな事をボンヤリと思いつつ。
﹁⋮⋮随分と動きましたね、アルフレッド様﹂
ルディがニヤニヤと笑いながら話す。
﹁これまで信仰という盾に守られた組織に手を入れる千載一遇のチ
ャンスだ。無駄にする訳はないだろ?﹂
﹁いえ、そうではなくて。アイリスの手助けですよ﹂
⋮⋮⋮流されなかったか。
446
﹁まあ、な。彼女には矢面に立って貰ったんだ。あのぐらいのフォ
ローはするさ﹂
﹁最終的に冤罪と助けることはあっても、アルメニア公爵家の力を
削ぐために、あの件を利用することも貴方にはできた筈です。それ
でも、貴方は彼女を助けることを選んだ⋮﹂
﹁⋮⋮何だ?何か問題でもあるか?﹂
﹁いいえ。何も。これで貴方はアルメニア公爵家も取り込めた。今
後彼が動いたことで、中立派を保つ王に仕える者達はこちら側の陣
営に入ってくることでしょう﹂
確かに、現在王に仕える中立派を謳う者達が俺に接触しようと動い
ているというのは耳に入ってきている。
﹁⋮⋮何より、彼女の従兄妹として。彼女の手助けをして下さった
ことに、本当に感謝致します﹂
﹁⋮⋮別に、お前に感謝される事じゃない﹂
447
舞台裏
7/8
別視点
弐︵前書き︶
448
舞台裏
別視点
弐
﹁随分と我が従兄妹殿を気に入っているようですね?﹂
ニヤニヤと笑いながら、問いかけてきた。⋮コイツ、それが言いた
かったのか。
﹁お前こそ、随分と大きな耳を持っているんだな﹂
﹁そりゃ血縁者ですから。短期契約で何回も出入りしている上に、
随分と深いところまで関わっている奇特な人、貴方より他いないで
しょうし﹂
飄々と笑いながら言われた。⋮面白がってるいるな。
﹁本当、びっくりしましたよ。孤児院に何度も出向いていて、しか
も子供の相手までしているなんて。レティ様以外で、ですよ?アイ
リスとは他にもちょいちょい出かけているらしいですし、執務の面
では細やかなフォローをしていて。外面の仮面被ってることを除い
ても話を聞いて思わず“え、誰?”って思ってしまいましたよ﹂
つらつらと挙げられた内容に、思わず舌打ちをする。分かっていて
言っているのだから、タチが悪い。
﹁⋮⋮本当は、初めの一回だけのつもりだった﹂
急成長をしたアルメニア公爵領に興味を持ったのが、始まり。それ
も、学園を追放されたアイリスが陣頭指揮を取っているというのだ
から、尚更だった。
449
学園で一度見かけた事があるが、当時の彼女はそれは酷いものだっ
た。真正面から馬鹿正直にユーリ・ノイヤー男爵令嬢へ嫌味を言っ
ていて。その言葉自体が眉を顰めるものであった上、弟の心変わり
故の行為だとしても、もう少しやりようがあるだろうにという感想
だった。
そんな彼女が、まさかの領地経営。アルメニア公爵家当主も、何を
考えているのだと思う他なかった。
着実に成長を遂げる領地の経過を見ても、彼女の下について行った
者が余程良い人材なのだろうと思った。その人物の引き抜きも視野
に入れて潜入してみれば⋮まさかの、彼女自身が陣頭指揮を取って
いるという事実。あの時の衝撃は、とても大きかった。
﹁面白かったよ。私は今まで自分の血縁者以外で負担を感じた事が
ないし、儘ならぬ事と思った事もない。だからこそ達成感もなく何
に対しても無感動で、何に対しても面白みを感じられなかった。⋮
⋮けれども、彼女といるのはとても面白いんだ。思ってもみなかっ
た提案、思ってもみなかった反応。その全てが既存の自分の考えを
打ち砕いてくれて⋮その度に新たな発見がある。彼女といると、次
に何が飛び出してくるのか。そう考えるのもまた面白くて⋮本当に、
飽きない。このまま見守っていたいとさえ思えてくる﹂
気づけば、ドロドロに甘やかしたくなる。自分だけに弱みを見せろ
となんとも意地の悪いことすら思ってしまう。けれども、彼女がそ
れを許さない。その意固地なところがまた、愛らしく思えてしまう
のだから重傷だ。
﹁国民も財も政務も、全ての物が机上で完結していた。数字は単な
る数字であり、それ以上の物でも、それ以下の物でもない。人材は
盤面の駒であり、どう動かすかを考えるだけ。⋮⋮だが、あの地に
450
言ってそれは違うのだということにも気付かされた﹂
﹁⋮⋮ええ。以前の貴方より、随分丸まったと思いますよ、俺は﹂
﹁言ってくれる﹂
﹁⋮⋮だからこそ、自分は心配です﹂
急に、ルディの口調が変わった。それまでの飄々としたものから、
真剣なそれへと。
﹁貴方が丸まったこと、それ自体は貴方にとって良いことでしょう。
けれどもこれより先、情にほだされて貴方の計画が狂うこと⋮それ
だけが心配なのです﹂
﹁⋮⋮先ほど従兄妹の手助けをしてくれた礼を言ったその口で、ア
イリスを巻き込むことを是とするのか?ルディウス・ジブ・アンダ
ーソン﹂
﹁彼女ならそんな事では潰れないと信じている事が1つ。もう1つ
は⋮何より、俺は何を置いても貴方を取るからですよ。アルフレッ
ド・ディーン・タスメリア様﹂
451
舞台裏
8/8
別視点
参︵前書き︶
452
舞台裏
別視点
参
﹁⋮⋮なるほど、な﹂
彼の言葉を自身の中で噛みしめる。血縁よりも何よりも、私を取っ
てくれると言ったその言葉を。
﹁⋮⋮案ずるな。予定通り⋮これから起こる出来事は、妨害しない。
エルリアと共に王を排除すると決めたあの時から、私の考えは変わ
らない。私は、父と同じようにはならない﹂
﹁それを聞いて、安心しました﹂
ホッと詰めていた息をルディは吐く。
﹁⋮⋮そもそも、お前の心配は杞憂だ。彼女を真近で見たからこそ、
私の決意は固まったんだからな﹂
﹁⋮⋮それは、どのような理由で?﹂
﹁無能な王は、民を殺す。⋮父が我が母を愛していたからこそ、彼
女を失い心を失った事は⋮憐れむことはあれ、同情する事ではない﹂
あの男は、母を失った時から目に見えて気力を失った。考えること
を、放棄したのだ。それが、エルリア妃と彼女の実家であるマエリ
ア侯爵家の増長の理由の一端でもある。
愚かな事に、母が亡くなったのは彼女の差し金であるというのに、
その事実からすら目を背け⋮そして彼女に言われるがまま、私とレ
453
ティを排除しようとした。あの男にとって、私とレティは幾ら母が
産んだ子供とはいえ、母の存在には遠く及ばぬ存在であったという
ことであろう。
王太后が私とレティを匿わなければ、私たちは早々にエルリアの手
によって亡き者とされていた。
﹁彼女が己の全てを懸けて政務に当たっている姿を見て、その思い
は強くなったさ。どうせ病に侵されて、どうしようもないんだ。遅
かれ早かれ王位を退くのであれば、最後に役目を果たして貰らう。
王として、この国の膿を排除するという⋮な﹂
それが、道連れという形であっても⋮だ。もう、あの時から親子の
縁というのは感じられない。私にとって家族とは妹のレティだけだ。
だからこそ、王を排除するというのに全く感傷がない。
ああ、そうか⋮と、ふと納得する。ルディは私に丸くなったと言う
が⋮確かにそうだと今の会話で実感した。本来の私は、こうだった。
何に対しても無感動と言うことは、何に対しても関心がなかったの
だ。例え何人が死のうと、何人が苦しもうとそれは全て数字の上で
のこと⋮と。後で帳尻が合えばそれで良いのだと。
唯一心の片隅にいたのは、レティとルディぐらいと言ったところか。
傍目から見ていた2人には、特に私の変化が大きく見えていたこと
だろう。
そして逆に言えば⋮私を変えた彼女は、それだけ私の中で大きな存
在となっていたのだ。
今更気づいたことに、笑えてくる。
454
﹁⋮⋮父と同じようには、ならない。ああ、そうだ。私の心を持っ
ていった彼女は、私のモノにならないのだから﹂
﹁⋮⋮貴方が望むのであれば、アルメニア公爵家は喜んで嫁がせる
でしょう。何より、それが自然です。次期当主となる弟がいる彼女
には、いずれ領主の権限を開け渡さなければならないのですから﹂
そうだろう。アルメニア公爵家には、ベルンがいる。やがて彼女は
彼に権限を渡さなければならない。けれども、彼女はそれが何だと
言うだろう。アルメニア公爵領領主権限を渡したところで、彼女に
はアズータ商会がある。何より領主の権限がなかろうと、彼女はそ
れに代わる“何か”を見つけて、また走り出すだろう。
﹁⋮⋮私が愛する彼女は、自由に羽ばたく彼女だ。羽を?いで王宮
に入れる事は、私の本意ではない﹂
そうだ。領政に全てを懸け、領内を駆け回り、何か壁を乗り越える
度に目を輝かせる彼女こそが魅力であるからこそ、王宮で規律に縛
られ雁字搦めにさせるなど勿体無い。
﹁期待している王太后には悪いが⋮私は彼女を王宮に迎え入れるつ
もりはないさ﹂
﹁⋮そうですか⋮﹂
455
456
報告と暗躍
歩きながら話していると、目的地である書斎についた。
離宮にいる時は、眠る時以外は殆どこの部屋で過ごしている。⋮と
は言え、最近は各地を回ったり、王宮に忍び込んで仕事をしている
事が殆どの為、あまり離宮にもいないが。
壁一面には、所狭しと本が置かれている。中々の蔵書量だと思うが、
一度アルメニア公爵家のそれを見てしまうと少なく思えてしまうか
ら不思議だ。⋮というか、あの量は個人所有のそれではない。
どっかりと、部屋の一番奥に位置する書斎机に向かうようにして椅
子に座った。
何代か前の王族の者が入れたらしい木造のこの机はと椅子のセット
は、あまり豪奢なものではないが使い勝手が良い為、結構気に入っ
ている。
﹁お茶でも持って来させましょうか?﹂
ルディの言葉に頷き、そして一瞬目を瞑った。
パタンと、微かに扉が閉じる音がする。恐らくルディが部屋の外に
いる使用人に声を掛けたのだろう。
この宮には、必要最低限の使用人しかいない。元々王太后が隠居す
る身だからと、そうしたというのもあるが、命を狙われた私とレテ
ィシアが住む事になったというのが大きな理由だ。
﹁アルフレッド様、貰って来ましたよ﹂
457
ルディが執事よろしく給仕をしてくれた。手慣れた手つきで、大抵
の事を器用にこなすこの男は、茶を淹れるのも中々どうして上手い。
﹁ああ⋮と、これは⋮﹂
﹁アズータ商会人気商品のハーブティーですよ。疲れた時に良いそ
うで﹂
﹁知っている。⋮気遣い感謝するぞ﹂
﹁いえ﹂
黄色の液体は少し独特な香りだが、美味かった。
﹁順調に回復しているらしいな、あそこの商会は﹂
﹁ええ。彼女もまあ、凄いですよね。無罪が確定したところで、好
機を逃すまいと次々新商品を展開していますから。それも、全く新
しいものを﹂
﹁⋮⋮随分と、弟も手酷くやられているみたいだしな﹂
クツクツと笑ってしまう。
理由はどうも矮小なものだったが、タイミングとしては中々良い時
に弟は引き抜きを持ちかけていた。
それなりの地位にいる人員⋮例えば、王都の店舗に所属していた厨
房の責任者が最たるものだが⋮囲い込めたのは評価に値する。
ただ、随分と迎え入れていた人員が偏り過ぎていた。
458
既に一定以上の評価を得ている者ならば⋮例えば先ほど挙げた厨房
の責任者などは、なるほど確かに店への貢献度が高いだろう。だが、
それだけだ。思うに⋮あのアズータ商会の最たる宝は、斬新な新商
品と経営手法。
引き込むのであれば、商品開発部の面々と財務を担当する者から引
き抜くべきであった⋮と、私は思う。
﹁それからラフシモンズ司祭より、報告が入っております。まず、
教皇から。資金着服と、アルメニア公爵令嬢への冤罪、また意図的
な証拠の捏造により教皇地位を剥奪。先ほど面会した通り、現在監
禁中ですね。あと、枢機卿クラスが2人。それと司祭クラスが3人
処分を受けています。その報告書は此方に﹂
7人の内2人の枢機卿が関与していたか⋮教会側が完全にエドワー
ド⋮マエリア侯爵家の駒として動く前に、さっさと手を入れること
ができたのは僥倖だ。
暫く教会は立て直しに時間を取られる事で、王宮内の派閥争いには
参加できないだろう。
﹁⋮⋮そういえば、マイロを見なかったか?﹂
﹁いえ、特に見ていませんが⋮まだ戻ってきてないかと﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮呼ばれて飛び出てジャジャジャーン!!﹂
459
ルディとの会話の最中、それをぶち壊すように明るい声が響き渡っ
た。
その声の主は、先ほどまで姿形も見せなかった男。薄い茶色の髪で、
顔は妙に可愛らしい⋮女と見紛うような男。
﹁⋮相変わらず、唐突な登場だな﹂
気配すら先ほどまで全く感じさせず、音も立てずにそこに現れた女
のようなその男の名は、マイロ。私の子飼いであり、諜報活動を得
意としている。
﹁そりゃ、“影”だからね。で?何か用?﹂
﹁用があるのはお前だろう。さっさと報告をしろ﹂
460
報告と暗躍
弐
﹁いやー⋮あのお嬢ちゃん、怖いね﹂
まず一言目がそれか、と思わず再びため息を吐いた。
﹁何故、そうだと?﹂
﹁ホラ⋮教皇の子息君はさ、今のところ特に罰則は受けてないでし
ょ?一応代々教皇はあそこの家から出すって事にも今のところ変わ
りないし﹂
﹁とは言え、どうなるかは分からないでしょう。代々教皇位を継い
だ方々は勉学を行い見聞を広めるという名目で学園に入り、貴族や
この国の上層部の者たちと繋ぎを作ってから、卒業後に教会に入り、
修行を積んで教皇への道を辿るところを、修行中にまさかの親が教
皇位を剥奪されているんだから。このまま彼の修行の終わりを待つ
となると、数年教皇位が空位になりますし。何より国から罪を問わ
れるような者を輩出した家から再び教皇を出すのは如何なものかと
いう意見が、国の上層部は疎か協会側からも出ていると聞きますよ﹂
ルディの言葉に、マイロはうんうんと頷いていた。
つまり、現段階でヴァンが教皇を継ぐ事ができる可能性は限りなく
低いということだ。
﹁そうだよねー。そうなんだよねー。だから、なんだろうけど⋮。
子息君がいつもの調子で彼女に話しかけたら、“何か御用ですか?
”だって。それも超他人行儀で。ビックリしちゃったよ、今まで頼
461
んでもないのにズカズカ人のテリトリーに入ってくるなあ⋮なんて
見てたけど、使えなさそうになってまさかあんなにすぐに見捨てる
なんて、ね﹂
ニコニコと笑いながら出てくる言葉には、かなり棘があった。
﹁時期尚早かなーとも思うけどね。切り捨てるの。ま、使えなかっ
たら直ぐに見切りをつける辺り、上に立つ人向きかなーなんて思わ
なくもないけど﹂
﹁なんだ、お前はあの男爵令嬢が好みなのか?﹂
﹁さあ?一長一短なんじゃない?それに、主人を決めた俺としちゃ、
他に浮気もする気はないし﹂
﹁そうか。それで?まさか、それで報告終わりという訳ではないだ
ろう?﹂
この質問に、マイロは笑みを浮かべつつも急にその目つきが真剣な
それに変わった。
﹁まあね。あのお嬢ちゃんの周りに、随分ウロチョロと鼠がいるけ
ど、どうする?﹂
﹁護衛か?それとも⋮﹂
﹁どっちも、かなー?守る為だけにしては、動きがおかしかったし
ねえ﹂
﹁なるほど、な。彼女の周りの人間は、余計な事を漏らしてないだ
462
ろうな?﹂
﹁そりゃ、こっちの動向を知る奴は彼女の周りにはいないし。それ
に、随分公爵子息君と騎士団長の子息君は彼女から離れ始めてるし
ねー﹂
﹁ほー⋮ドルッセンまでもか﹂
﹁そうそ。良かったね、彼も。瀬戸際で留まれて。このまま彼女サ
イドにい続けられたら、こっちとしても排除しなければならなかっ
たもんねー﹂
﹁現状ただの一騎士である彼を排除したところで、特に国に大きな
影響を与える訳ではないですし﹂
ルディもまた、言葉に棘があった。軍部の将軍を祖父に持つコイツ
としては、やはり軍部寄りの意見となるのだろうか。なんて取り留
めもない事が思い浮かばれた。
﹁ルディ、コワーイ﹂
﹁素晴らしいほど棒読みですけど﹂
ルディのツッコミに、けれどもマイロは特に気にしたようには見え
ない。相変わらず、ニコニコ無邪気な笑みを浮かべている。
﹁⋮あ、それとあの公爵令嬢の侍女が未だにコソコソと嗅ぎ回って
いたよ﹂
﹁ターニャか⋮﹂
463
﹁中々良い線言ってると思うよ。コッチに引き抜きたいぐらいかな﹂
マイロがそこまで言うのならば、相当良い線をいっているのだろう。
是非とも引き抜きたいところだが⋮。
﹁あいつがアイリスのところを蹴って此方にくることは、天地がひ
っくり返ってもありえないだろうな﹂
⋮まあ、絶対に無理だろう。
﹁ふふふーそんなところも含めて良いなーって思うよ、うん。主人
を見つける前に、できれば出会いたかったなあ﹂
﹁主人がアイリスだからこそ、お前のテリトリーに片足を突っ込ん
だんだろう﹂
﹁それもそっかー。残念、残念﹂
﹁それで?男爵令嬢の動向は?﹂
﹁うーんっと、あのディヴァンとかいう商人との面談が月2・3回
ぐらい。内容は、取り留めもない話だったねえ⋮王子との仲はどう
かだとか、暮らしはどうかだとか﹂
﹁王子との仲、ですか。向こうにしてはそりゃ重要事項でしょう。
というか、どうして態々ディヴァンは事を起こそうとしているんで
すかねえ⋮このままあの男爵令嬢がエド様を捕まえていれば、エド
様が王位に着いた暁には裏で糸を引いて何でもし放題でしょうに﹂
464
﹁さあねー。アルフレッド様を警戒している⋮もしくは、初めから
彼女はただの捨て駒だった。そのどっちかなんじゃない?﹂
マイロの回答に、ルディは納得していないとでも言うかのように眉
を眉間に寄せたままだ。
﹁捨て駒だった、それはそうだろう。付け加えるのであれば、向こ
うにとって未来のその素敵な状態を待たなくとも、今で十分旨みが
あるからだろう﹂
﹁⋮⋮旨み、ですか?﹂
﹁ああ。エドが王位に着いたところで、宰相位にいるのは、あのル
イ・ド・アルメニアだぞ。強固な地盤、そして豊富な財源を持つ彼
は、王宮内では官僚達を掌握し、貴族の中でも頭一つ飛び抜けてい
る。エドを利用して何かしようとも、彼が目を光らせている中でそ
うそう派手な事はできんだろう。それよりも、現在のこの貴族達の
内紛を利用し、国力を疲弊させ、そして横っ腹を突くように何もか
も奪った方が手っ取り早い﹂
﹁ふーん⋮。それはそれで統治だとか面倒だと思うけど。何で古今
東西、領土拡大を目論む国が出てくるんだろうねえ⋮﹂
﹁この国の肥沃な大地は、彼らにとってそれだけ魅力的なのだろう。
エナリーヌからの報告にも挙がっている。今年の彼の国の収穫量は、
近年の中でも特に悪いとな﹂
エナリーヌは、マイロと同じく私の影。現在、国境のマーベラス・
メッシー男爵家に預けてある。私とマーベラスの連絡係にして、ト
ワイル国への潜入員。
465
彼女曰く、近年不作が続いていたらしいが、今年は特に酷いとのこ
と。あそこは北国で、一年の殆どが冬であり、土地もやせ細ってい
るというのに、敗戦国として随分賠償金を過去奪っているからな⋮。
要するに、待つ事も出来ないほどに追い詰められているということ
だろう。
チンタラ将来の優遇を待つよりも、今のこの⋮石を投げればすぐに
揺れそうな脆い王国を壊して奪ってしまえば、それで良い。そんな
ところだろう。
﹁ま、そういう事を考えるのは僕の役目じゃないか。柄にもない事
考えてたから、少し疲れちゃったー﹂
﹁報告は以上か?﹂
﹁ん?そうそう。他に彼ら特に話なかったし﹂
﹁分かった。⋮⋮引き続き、頼むぞ﹂
﹁畏まりました﹂
急に真剣な顔になったかと思えば、現れた時と同じく音もなく姿を
消した。
466
妹の策略
﹁⋮⋮さて、と。久々に体を動かしてくるか﹂
﹁また軍部の訓練に潜り込むのですか?﹂
﹁ああ。折角ガゼル将軍もいることだしな﹂
ツテ
ガゼル将軍には、幼い頃から世話になっている。この離宮で訓練を
して貰い、今もその伝を使って時折軍部の訓練に参加させて貰って
いた。騎士団は兎も角、軍部は街での治安維持活動が主な任務。何
より表舞台に立たぬ身であるからこそ可能なことではあるが。
﹁⋮⋮お兄様。お身体を動かすのも結構でございますが、その前に
頭と手を動かして下さいまし﹂
はあ、とため息を吐きながら現れたのはレティシア。愛称、レティ。
同母妹にして、この国第3位の王位継承権を持つ彼女は、金髪に柔
らかなエメラルドグリーンの瞳の何とも愛らしい容姿の少女。朧げ
ながら覚えている母親の面影と同じ容姿だ。
﹁レティ。もう終わったのか?﹂
﹁ええ、お兄様。お兄様が悪だくみと、愛しの君とお会いしている
間に﹂
ニコリと笑う笑顔はとても愛らしいが、その目は笑っていない。そ
して無言のまま、手に持っていた書類を机に置いた。
467
﹁こちらはサービスです。⋮少し、お金の流れで気になるところが
ありましたので﹂
私が出かけている間、実務を行っているのはレティだ。王が病に倒
れた今、チマチマと私がやっていた実務は増える一方で、彼女がい
なければ外に出る事なんぞな叶わなかっただろう。
悲しいことに、幼い頃から自分の微妙な立ち位置⋮つまりこの王宮
内での勢力争いの渦中にいる現状なのだが⋮を理解していた彼女は、
その頃から貪欲に勉学のみに留まらず執務まで学んでいた。
その実務能力と手腕は、宰相であるアルメニア公爵ですら認めてい
る。
﹁随分と手際が良くなったものだ。⋮これなら安心して、今後“も
”任せられるな﹂
﹁まあ、お兄様。言ってるそばから、次の外出の算段をつけるのは
止めてくださいまし﹂
パラパラと、報告書に目を通す。手をつけ加えるところなぞ、何も
ない。それどころか、普段方々︵ほうぼう︶を渡り歩き、それ故に
目の届かないようなところを、こうして彼女こそが補ってくれてい
る。
あちら側
﹁人務大臣は、第二王子派ですから。こうした小さな案件ですと、
どうしても後手に回ってしまいますわね﹂
﹁⋮⋮全くだ﹂
468
国を運営する上で、王都の行政機関は7つの部署に分かれている。
財務・軍務・法務・外務・人務・教務・工務⋮そしてそれらを取り
まとめるのが宰相であり、その上に王がいる。王族直轄地の運営の
他、国としての方針を固めることや各領主との折衝するのが行政機
関の仕事だ。
領主の力は絶大で、それ故に国を運営していく中で各領主達との折
り合いをつけることに非常に時間がかかってしまう。だからこそ、
中央集権化を更に進めていきたいところだが⋮未だ強大な力を有す
る貴族がいる為中々前に進まない。
閑話休題。
第一王子
財務大臣であるサジタリア伯爵・軍務そして外務は私陣営。
対して人事権や民事を取り扱う人務や工務そして教務が第二王子派。
教務とは要するにダリル教側から寄越してきた人材が国政に食い込
む為の部署だったのだが、この前の破門騒動で第二王子派が粛清さ
れ、教会側も混乱の最中にある為、現在機能をしていない。これを
機に、完全に国政から切り離していきたいところだ。
因みに、法務は中立派。宰相であるアルメニア公爵も法務と同じく
以前は中立派であったが、これも破門騒動以降で決定的にこちら側
と“周りから見なされる”ようになった。
﹁癒着し、金銭を懐に仕舞い込んだ⋮か。人事権を有する人務の大
臣ともあろう者が⋮﹂
﹁王宮内での椅子取りゲームにご熱心だからこそ仕出かした事でし
ょう﹂
469
着服した資金を自身で使い込む他、賄賂としてばら撒いていた事を、
彼女は皮肉げに謳った。
﹁私と弟で陣取りゲームをしている下で、地位を獲得する為の椅子
とりゲームか。⋮随分とまあ、彼方此方でゲームが始まっているも
のだ﹂
﹁言い得て妙ですわね。⋮それはそうと、お兄様﹂
﹁ん?何だ﹂
﹁私も、アルメニア公爵令嬢に会わせてくださいまし﹂
瞳を輝かせて食い気味に言ってきた彼女の迫力に、若干押された。
﹁⋮⋮急に、どうしたんだ?﹂
それ故か、早々に話を切ろうとすれば良かったものを、態々質問を
重ねてしまうという愚行をしてしまった。
ニョニン
﹁同じ女人として、政に関わる希少かつ奇特な人材とは是非とも同
士として交流を深めたいもの。⋮というのは建前で、本音としては
お兄様とは憎からぬ仲なので﹂
﹁⋮⋮私と彼女は、お前が思うような仲ではない﹂
ワザワザ
﹁まあ!そんな事ございませんでしょう?アルメニア公爵家の力を
削ぐ絶好の機会を、態々見逃したのですから﹂
470
﹁それは⋮﹂
﹁使える人材だから、というのは無しでしてよ?﹂
彼女の追求の鋭さと、何を言っても無駄であろうと分かる瞳の輝き
に、思わず溜息を吐く。
﹁⋮⋮⋮会うと言っても、此処に呼ぶことは出来ない。とは言え、
お前は王都からどころか、この宮と王宮以外の場から出たことは殆
どなかろう﹂
﹁お兄様とルディが一緒ならば安全でしょう﹂
﹁⋮機会があれば、な﹂
﹁そうして、私をまた置いて行くのでしょう?全く、酷いわ。ねえ、
ルディ?﹂
﹁⋮⋮私の口からは何とも﹂
突然話を振られたルディは、苦笑いを浮かべていた。私は、といえ
ば⋮やられたと苦虫を噛む表情を浮かべていたことだろう。
﹁もう!ルディまでそんな反応なのね﹂
ルディの言葉に、レティは不満気に口を尖らせる。けれどもやがて
溜息を一つ吐き肩を落としたかと思えば、それまでの何処かふざけ
ていた雰囲気から一転、暗い表情に変わった。
その先の言葉を聞きたくない、と思いつつも、それでも私は彼女が
471
口を開くのを黙って見ていた。
﹁⋮⋮アイリス様の話は置いておいて。真面目な話、私ももう少し
外の空気に触れたいですわ。王族の一員として、市井を周り、その
生活をこの目で見てみたいのです﹂
﹁お前は、お前自身の立ち位置を理解し、それでもそれを望むのか﹂
レティの行動範囲は、狭い。この離宮と王宮の限られた場所だけだ。
それは王族の子女だから⋮という理由だけではない。
彼女は、私達の母親に似過ぎていた。それも、年を追うごとにそれ
は如実に表れている。
王である父が彼女の育つ姿を見れば、まず間違いなく溺愛すると理
解できるほどに。
けれどもだからこそ、王とに会わせる訳にはいかない。彼が彼女を
慈しめば慈しむほど、それは彼女の首を絞めることになる可能性が
あるからだ。
母に良く似たレティ。そんな彼女を慈しむ王の姿を見れば、エルリ
アにとっては面白くない筈。
ただでさえ、私とレティは彼女にとって邪魔な存在。悪戯に刺激し
て、直接的な行動を起された時⋮果たして彼女を守りきることがで
きるのか。私も王も、彼女の側に四十六時いることはできないのに。
何より病的に母を愛する今の父を見れば、父すら信用できない。
⋮分かっている。これは私のエゴだ。
失うことを恐れて、彼女を閉じ込めて。
もう、母の時と同じように無力であった自分を嘆きたくないだけ。
472
私も父と同じく病んでいるのかもしれない。こうしてレティを鳥籠
に閉じ込めて、失う事への恐怖に蓋を閉じようとしているのだから。
﹁⋮⋮分かっています。何か事が起きた時に、私はお荷物以外の何
者でもない事を。けれども、それでも私は外の世界を見てみたいの
ですわ。社交界にすら出る事の叶わぬ身であれば、何を大きな事を
とお思いでしょうが﹂
ジッと、レティを見る。⋮本当に、大きくなったなと今更ながらそ
んな事を思う。
﹁それでも私は、外の世界を見たいのです。あの兄と同じく、見た
いものだけを見てこの牙城でぬくぬくと生きていたくはないのです
わ﹂
⋮⋮閉じ込めておけば、やがて彼女は自ら出て行くであろう。それ
が、分かるほどに。
寧ろ“態々”こうして交渉しようとしてくれただけ、マシだ。
﹁分かった﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁市井を共に周るのであろう?私とルディがいる時であれば、良い
ぞ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます!お兄様﹂
473
レティはニッコリと嬉しそうに微笑んだ。
﹁ならば、さっさと残った書類を終わらせましょう。お兄様も、仕
事を溜めずに早々に出かけられるようにしてくださいまし﹂
﹁ああ、分かった﹂
彼女は上機嫌のまま、先ほど彼女が置いた書類の束とは別のそれを
持った。私が先ほど終わらせたモノだ。そして彼女はそれを持った
まま、部屋の外に出て行く。
﹁あ、レティ様。俺が持ちますよ﹂
その後を追うように、ルディも部屋を出て行った。
474
妹の策略
弐
﹁⋮⋮レティ様も、やりますね﹂
﹁⋮⋮あら、ルディは何を言っているのかしら?﹂
アルフレッド様の妹であるレティ様は、ニマニマとご機嫌な様子で
質問をしてきた。
分かっている癖に⋮と思いつつも、俺は質問を返す為に口を開く。
﹁何をって⋮さっきのやり取りですよ。最初っから、外出許可を得
る事が目的だったんでしょう?﹂
﹁ふふふ、当たりですわ﹂
アイリスに会いたかったのも、事実なのだろう。けれども、それは
“あわよくば”。本当に求めていたものは外出許可だったのだろう
⋮という予想は、見事に当たっていたようだ。
大量の書類を彼女の書斎机の上に置く。彼女の書斎は、アルフレッ
ド様のそれよりは小さく、また随所随所に可愛らしい小物が置かれ
ているが、それでも本棚に置かれている蔵書の量やその内容はあま
り王女らしくない。
﹁お兄様から教えていただいたのでしてよ?相手との交渉において、
自分の本当に欲しているものを提示する前に、より相手にとって許
容し難い⋮難度の高い要求を先に提示しておく方が、通り易いと。
見事に当たっていましたわね﹂
475
よく言う、と俺は笑った。
﹁⋮⋮その為に、アイリスとの仲を随分言及していたのでしょう。
喰えない御方だ﹂
﹁ふふふ⋮随分大袈裟に言ってしまいましたわね。途中でお兄様も
気づいていたみたいでしたし﹂
﹁⋮⋮そうでしたね﹂
今思えば、あの時の苦虫を噛んだような表情はそれか⋮と思う。恐
らくあの時点で、アルフレッド様も、レティ様が何を望んでいるか
気づいていた。それでも掌で踊ったのは、彼女の気持ちを尊重して
だろうか。
彼女は書斎机の椅子に座る。白が基調の美しい机で、過去王族の子
女達はこれで手紙を書いていたりなんかしていたのだろうが⋮と想
像できるような絵になる机だが、現実の光景⋮置いてある書類の量
がそんな幻想を粉々に壊していた。
﹁まあ、言質は取らせていただきましたし。後は王都を歩いていて
“偶然”アルメニア公爵令嬢に会っても、文句は言えませんでしょ
う?﹂
﹁だから、急かしているのですか⋮﹂
今回の騒動が終わったが、もう少しアイリスは王都にいるだろう。
エドワード様にちょっかいをかけられたせいで起きた諸々の騒動の
後処理があるだろうし。
476
﹁ええ。私がアルメニア公爵令嬢に会いたいという言葉に、嘘偽り
はありませんもの﹂
﹁⋮どうして、そうまで彼女に拘るのですか?そりゃ、貴方にとっ
て大切な兄が心を砕く様を見ていれば気になるのも仕方ない事です
が﹂
﹁⋮⋮そうですわね。ルディの言う通りですわ。でもそれは、貴方
が想像しているような“大切な兄を取られたくない”という気持ち
からではなくてよ?﹂
自分の予想していた事をいとも簡単に言い当てられて、しかも否定
されてしまえば黙って続きの言葉を待つしかない。
特に相槌を打つ事もなく黙っていたら、彼女はクスクスと笑ってい
た。
﹁勿論、少しはあるけれども。⋮単純に、興味が湧きましたの。例
えば⋮“あの兄”は、とても世界が狭い。幼き頃はエルリアに守ら
れ、長じてからも周りには耳触りの良い言葉を述べる者たちを側に
置いて。その結果が、アルメニア公爵令嬢との婚約破棄ではないか
しら?﹂
あの兄、とはエドワード様の事を指しているのだとすぐ分かった。
レティ様はエドワード様の事を呼ぶ時、いつも“あの兄”と呼んで
いるからだ。
﹁けれどもそれとはまた違った意味で、お兄様の世界も狭い。お兄
様の世界には、私とそれからルディだけ。後は使える人間かそうで
はないか⋮その基準で、側に置いているのだと思うのですわ﹂
477
その言葉に、彼女の言わんとする事をようやく理解した。⋮確かに、
アルフレッド様の世界はエドワード様とはまた違った意味で狭いの
かもしれない。
それは見聞が狭いという訳ではなく、存在を求めているかどうかと
いう事。使えるから必要とするのではなく⋮気を許し、意見を求め、
他愛無い話もする。そんな当たり前の事ができる相手だ。レティ様
と、後は自分が少しだけ入り込めているかどうか⋮それぐらいだろ
う。
﹁王族の者として、それは仕方ない事なのかもしれません。けれど
も、お兄様は極端にそうなのだと思うのですわ。⋮敵だらけの王宮
の中で、私のようなお荷物を幼い頃から背負わなければならなかっ
た環境に在って、それは仕方なかった事なのかもしれませんが﹂
ふう、とレティ様は溜息を吐いた。
モト
﹁⋮いえ、それは言い訳にはなりませんわね。損得勘定で動くお兄
様の下にいるのは、それ故にお兄様の能力によって集まった者達。
それはそれでお兄様の強みなのだけれども⋮それだけに頼るのは勢
力としては脆いですわ。青臭い言い方をするのであれば、絆⋮かし
ら?そう言う連帯感がなければ、仮にお兄様が失策をした時には、
すぐに離れてしまう危険性も孕んでいるとも考えられますもの﹂
なるほど、確かに一理あると思わず納得してしまった。現状、アル
フレッド王子の勢力下にいるのは、新興貴族と地方貴族達。彼らは
己が確固たる実績を積み上げてきたからこそ、アルフレッド王子に
着いた。より有能な王子に着くのであれば⋮まあ、エドワード様と
比べるのであれば、アルフレッド王子であろう。
478
けれども、その判断基準で選ぶ場合⋮仮に同じ能力がいる者がいた
場合。その者とアルフレッド王子の何方に着くのかと問われれば、
それは﹃どちらでも良い﹄となってしまう。
エドワード様との対立が浮き彫りになった当初、中立派が多くいた
のはそう言った理由もあっての事なのかもしれない。
﹁⋮今回中立派の者達が僅かにお兄様に傾いたのは、アルメニア公
爵家がお兄様に傾いたことが一番の要因でしょう。では、アルメニ
ア公爵家当主が何故、お兄様の下に着いたのか。確かに、“周りか
らそう見られるようになったから”そうも考えられますわね。でも、
あそこまで大きな家ならばそれすら無視して静観を決め込むことも
できましてよ?最悪、破門騒動を理由に職を辞して領地に引っ込む
のも手ですわね。それでもあの当主が留まり、お兄様の手となり足
となり協力を表立ってするようになったのは⋮⋮﹂
﹁⋮恩義を感じたから、ですか﹂
﹁そうですわね。国を二分するというリスクを取ってでも選び取っ
たのは、やはりアルメニア公爵家に連なる者を、お兄様自ら無償で
手助けしたからではなくて?﹂
﹁⋮計算していないかったからこその、獲得ですか⋮﹂
﹁そうですわね。⋮そして、対立を“終息させた先”を見据えるの
であれば、そう言った味方を増やしていくべきだとは思わなくて?
ルディ﹂
﹁⋮⋮王権の強化のために、ですね﹂
479
﹁そうですわ。歴代の王達のように、諸侯の力をまとめるだけであ
れば⋮平時の現在において、お兄様の能力があれば無理がない筈。
まあ、戦時でも軍部にだけは結構な繋がりを作っていらっしゃるの
で、王として軍を指揮することにも問題はなさそうですけれども﹂
⋮⋮確かにレティ様の言う通り、唯一軍部だけは、トップにお祖父
様が就いているということ、また訓練に潜り込んでいるディーン=
アルフレッド王子というのが分かれば、着いてきてくれそうな気も
する。割と、溶け込んでいるし。アルフレッド王子もあそこでは、
王子としてではなく、ディーンとして行動しているが故に、そこま
で壁を作っていない。
﹁⋮話は逸れましたが、今後王権の強化を加速させていくのであれ
ば、お兄様はご自身の陣営を確固たるモノにしなければならない⋮
私は、そう思っているのですわ﹂
﹁なるほど。あの、レティ様﹂
﹁⋮何ですの?﹂
﹁⋮⋮本当に、レティ様は外に出られてないんですよね?﹂
レティ様のこれまでの言葉に、思わず聞いてしまった。いや、だっ
を加味したとしても、だ。
てまさか年下の女の子からこんな話をされるとは思わないだろう、
普通。王族であるという事を
﹁⋮⋮どうしましたか?急に﹂
﹁まるで当事者であるかのように話を集めていらっしゃっているの
480
で、思わず﹂
﹁⋮⋮逆ですわよ。こうして、籠の中にいるからこそ、少しでも外
の世界を知りたいと、推測するようになるのですわ﹂
﹁⋮⋮そんなモノですかね﹂
﹁ええ、そうよ﹂
惜しいな、と思った。素人目で見ても、ここまで才の片鱗を見せる
彼女が、ともすればこの力を存分に使う場を与えられないとは。
﹁全く惜しくなくてよ、ルディ。だって、私はまだ自身で交渉をし
た事がないもの。起こった出来事に対して考察を加える事は、誰に
だってできることでしょう?﹂
⋮誰ににでも、出来る事ではないだろう。レティ様は、他者をどれ
だけ高く見ているのだろうか。人と接しないことが、こんなところ
で弊害になるとは⋮。
というかレティ様、今俺の考えている事言い当てたよな?そのスキ
ルがあれば、十分交渉の場でもやっていけると思うのだが。
そんな事を思っていたら、レティ様は微笑んだ。⋮今思っている事
も、丸わかりなのかな?なんて思ったら、俺も可笑しくて笑ってし
まった。
481
482
妹の策略
参
﹁⋮私、驚きましてよ?お兄様が他者に興味を持ったことも、足繁
く通われている事も。お兄様の世界に、私とルディ以外が現れて、
お兄様が翻弄されているんですもの。⋮ねえ、ルディ﹂
﹁何でしょうか﹂
﹁⋮身内の貴方に聞くのはどうかと思うのだけれども。アルメニア
公爵令嬢は、貴方から見て、どんな方?﹂
﹁⋮良い意味でも、悪い意味でも貴族⋮ですね﹂
﹁悪い意味でも⋮?﹂
あんな事
﹁ええ。彼女は誇り高い。自らの足で立って歩くだけの強さがある。
だからこそ、婚約破棄があっても打ちのめされなかった。その結果
が商会の経営であり、領地の経営です﹂
﹁⋮なるほど。ある意味、お兄様と彼女は似ているということかし
ら?﹂
﹁そうですね。⋮⋮彼女は、誇り高いが故に弱みを見せない。頼る
ことを知らない。学園で行った嫌がらせも、あんな正々堂々⋮自ら
表舞台に出てやらなくても、彼女の権威があればどうとでもできた
というのに、それをしなかった。寧ろ嫌がらせなんぞしなくても、
家族に頼れば⋮もしくは悲劇のヒロインであることを前面に出して
いれば、周りからの目も違った筈だ﹂
彼女は、あまりにも堂々動き過ぎた。その結果、彼女の名前は利用
483
され、最後は全ての罪を背負わされることに繋がる。
⋮彼女の預かり知らぬことだろうが⋮彼女以外にも、男爵令嬢への
嫌がらせを行った者たちはそれこそ沢山いた。
それもそうだろう。貴族社会の中で権威が底辺とも言える男爵令嬢
が、第二王子に始まり公爵子息、騎士団長の子息、教皇子息⋮この
国の中で最高の血筋に連なる者たちを侍らせていたのだから。他の
貴族のものたちが面白くない、と思わない方が無理だ。
かと言って、既にエドワード様たちの御気に入りとなった男爵令嬢
と、アイリスのように真っ向から対立するのも無理な話。
だからこそ、そんな彼ら彼女らはアイリスを上手く隠れ蓑に使って、
エゲツない嫌がらせをしたのだ。コソコソと隠れ回って、そして全
ての罪はアイリスに。
もしもアイリスが、もう少し上手く立ち回っていたのならば。あの
様な公衆の面前で、屈辱的な茶番に引きづり降ろされることもなか
ったことだろう。
何せ、彼女が行った嫌がらせとは⋮噂を流すだとか嫌味を言うだけ
のまだまだ可愛らしい部類なのだから。⋮それで可愛いというのも
どうかとも思うが。
何せ公爵令嬢というこの国でもトップクラスの権力を持つ娘に嫌味
を言われるというのも、随分なダメージだ。
とは言え、他の奴らがやった事に比べたら可愛らしく見えるのだか
ら、貴族社会の悪意というのはそら恐ろしい。
﹁今も、そうだ。⋮彼女には、確かに全幅の信用を寄せる使用人達
484
がいる。けれども、それはあくまで“信用”だ。彼女はどこかで線
引きをしていて、彼らを慈しむことはあれども、何か事が起これば
弱みを見せて縋るのではなく、守るべきものとして認識しているだ
ろう﹂
あの一件以来、信じる事すら難しくなった彼女にとっては唯一無二
の存在達なのだろうけれども。“信用”と“信頼”を履き違えてい
る気がしてならない。
﹁本当に、ある意味でお兄様そっくりですわね。ただ⋮公爵令嬢の
方が真っ直ぐな分、良い人なのかもしれませんが﹂
ふう、とレティ様は溜息を吐かれた。
﹁⋮お兄様も彼女を見てもどかしい想いをしているのならば、少し
は己を省して欲しいのですけれども﹂
﹁ハハ⋮でも、変わられたと私は思いますよ。何せ、あそこまで方
々を駆けずり回る彼を始めて見ましたから。大切な手札を彼女の為
に切りましたから﹂
教会内部との繋がりを得るのは、アルフレッド様にしても随分骨を
折られていた。
何せ教皇の権威というのはとてつもなく大きく、教会内部では絶対
的。それ故に自らの陣地に引きづりこめそうな人材を見つけ、そし
て繋ぎを作るのは中々難しい。
それを王子として使うのではなく、あっさり彼女に与えた。⋮まあ、
タイミング的にその方が効果的だったと思った事もあるのだろうけ
れども。
485
﹁そうでしたわね。⋮ところで、お兄様と彼女は何処まで進んでい
るのかしら?﹂
﹁進むも何も、彼の方は自分の気持ちに自覚したばかりですし⋮彼
女に至っては、気持ちがあるのかどうかすら⋮﹂
﹁まあ!それで、お兄様は何か行動に移されているの?﹂
﹁いや、それは⋮﹂
﹁全く、お兄様は恋愛面ではとんだヘタレですわね。恐らく、アイ
リス令嬢もそちらの面ではとんと鈍いでしょうし⋮﹂
仰る通りです、と言いかけた言葉を飲み込んだ。
﹁分かってあげてください。彼の方には彼の方なりの、突き進めな
い理由というのがあるのですよ﹂
﹁お兄様ならば、欲しいと思ったらどんなに困難な事でも行動に移
されるでしょうに。そんなカッコつけた言葉で擁護しても、無駄で
すわよ﹂
あまりにもバッサリ切られて、最早反論できずにいる。
﹁私としても、お兄様が動かれた方が好都ご⋮⋮いえ、なんでもな
いわ。妹として、心の底から応援しているの﹂
不穏な言葉が聞こえてきたけれども、敢えて聞かなかったことにし
た。⋮レティ様ならば早々変な事はしないだろうし。
486
487
妹の策略
1/2
肆︵前書き︶
488
妹の策略
肆
そっと、レティ様は立ち上がった。そして、俺に背を向けてそのま
ま窓際まで進む。
何をされるのかと思いきや、そのまま窓辺で眼下に広がる景色を眺
めているようだった。
﹁⋮⋮覚えていて?ルディ。私たちが、初めて会った時の事を﹂
﹁ええ。そりゃ、もう。アルフレッド様に連れられて来た王城で、
レティ様に初めてお会いした時、レティ様はアルフレッド様の背中
の後ろにいらっしゃって、中々顔をお見せいただけませんでしたね﹂
﹁⋮⋮そんな事もありましたわね﹂
少し恥ずかしげにレティ様は同意すると、懐かしむように微笑んで
いた。
﹁楽しかった⋮とても、楽しかったですわ。この下の庭園でもよく
遊びましたわね?幼い頃、この城から一歩も外に出れなくて。城下
は疎か、王宮にも行った事がなくて。お兄様が貴方を連れて来られ
るのを、とても楽しみにしていましてよ?⋮お祖母様とお兄様それ
から貴方が私のセカイの全てでしたわ﹂
﹁⋮⋮レティ様⋮﹂
﹁ルディ、そんな顔をしないで下さいまし。私、幸せですわよ。確
かに、社交界がどんなところなのか⋮だとか、学園はどんなところ
489
なのか⋮後は同世代の子達がどんな話をするのかだとか、気になる
ことは沢山ありますけれども﹂
幼い頃から病弱という設定で通していて、同世代の子達と交流を持
った事も、学園に通う事もしていない。⋮正に、籠の鳥という言葉
が当てはまっているような状況の中で暮らしている。
﹁⋮⋮でも、それ以上に守られているという事が、理解できていま
すもの﹂
エルリア様との確執。そして、現状の貴族社会での陣取り合戦。レ
ティ様を、それらに近づけない様に徹底的に王太后様とアルフレッ
ド様がされたことを指しているのだろう。
﹁⋮⋮お祖母様はどうか知りませんけれども。お兄様は、私を道具
として扱わない。この状況下で、私を嫁がせるという手法を思い浮
かばなかった訳ないでしょうに﹂
確かに、そうだ。レティ様を対抗する貴族の中でも、他家に影響力
を持つ家に嫁がせる事もできただろう。
﹁⋮まあ、中立派とあの兄の派閥の家の者との婚姻に関しては、そ
れで下手に子を産んでしまって、お兄様にとって面倒な事になると
いう事もあるのでしょうけれども﹂
レティ様の仰る通りだ。その理由で、アルフレッド様は王太后様を
抑えている。
“エドワードを排斥した時に、レティが子供を産んでいたら?”と。
490
今の王家の直系は、少ない。アルフレッド様とエドワード様、そし
てレティ様。
アルフレッド様とエドワード様は、現在争いの最中。エドワード様
とそのご実家が、エドワード様に王位を継がせる為に起きた、貴族
を巻き込んだこの争い。負ければ最悪死、良くて生涯幽閉というと
ころだろう。
仮に⋮縁起でもない事だが⋮アルフレッド様が負けた場合、十中八
九待っているのは死だろう。エルリア様が、幽閉なんて生易しいも
ので済ますとは到底思えない。
それ故に、アルフレッド様も身を引けない戦いとなっているのだが
⋮。
閑話休題。
どちらが勝っても、片方が王家から転げ落ちるのは明白。
アルフレッド様が勝利を収めた時に、先にレティ様が結婚をされて
子を産んでいた場合。
王族直系に残されたのは、アルフレッド様ただ1人。⋮その状況で、
レティ様が降嫁された家は必ずこう思うだろう。
“もしもアルフレッド様に“何か”あれば、自分の家から王が出る
”と。
⋮それは即ち、新たな争いの火種になりかねない。
そう、アルフレッド様は王太后様を押し留めているのだ。
﹁でも、お兄様の派閥の者との婚姻を勧めないのは、エルリアとの
491
決着をつける前に此処から出して、彼女に狙われないようにする為
でしょう?表舞台に立たせずに病弱を装わせるのは、そうした思惑
から私を遠ざけるため。⋮⋮本当に、私はお兄様に守られています
わね﹂
﹁⋮それだけ、彼の方にとってレティ様は大切なのでしょう﹂
﹁⋮⋮ふふふ。そうですわね。⋮そうなると私が嫁ぐのは、お兄様
が勝利を収めてからという事になるのかしら?ああ⋮敗れても、他
国に嫁がせるだとか何かで、あの兄に程の良い駒にされるのでしょ
うけど﹂
⋮⋮嫁ぐ、というレティ様の言葉に、僅かに胸にチクリとした痛み
が走った事を感じた。
けれども本当に僅かな時だったので、気のせいだろう⋮とすぐに、
レティ様との話に集中する。
﹁⋮⋮不安な事も、寂しく思う事もあったけれども。やっぱり、あ
の頃が一番楽しかったですわね﹂
レティ様は、そう言って寂しげに微笑んだ。やがてその笑みを引っ
込めると、決意の込もった真剣な表情に変わる。
﹁⋮⋮ルディ。私たちは、勝たなければならないのですわ。お兄様
の為にも、私の為にも。アルメニア公爵令嬢の為にも﹂
﹁そうですね﹂
﹁差し当たっては、アルメニア公爵家の通商妨害への対抗策でしょ
492
うか。お兄様の事だから、それについてはもう手を付けていて?﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
﹁私も手伝える事は何でも致します﹂
ニッコリと、レティ様は笑って締めくくった。
493
セイの断罪︵前書き︶
2/2
494
セイの断罪
﹁⋮⋮今回も大変だったわねえ﹂
ほう⋮とお茶を飲んでいる最中、そんな言葉を聞いた。目の前に座
るのは、ミモザ。
ここはアルメニア公爵家の別邸⋮つまり王都にある我が家だ。
﹁まあ、ねえ⋮。あわや罪人だったんだものね﹂
﹁貴女、波乱万丈過ぎるわよ﹂
苦笑いと共に言われた言葉に、全くだ⋮と私も苦笑いを思わず浮か
べてしまった。
﹁晴れて無罪を証明して王都にいるって言うから、会おうと手紙を
出しても中々返事をしてくれなかったしね?﹂
あの査問会から一週間が過ぎている。
早く帰りたいと思いつつ、けれどもまだ帰れてない。
取り敢えず従業員を引き抜かれた王都にある店舗のゴタゴタを収め
るのと、後はあわよくば通行税を取られている通商がどうにかなら
ないかなあ⋮⋮という交渉で。
正直、領地が第二王子派の面々に囲まれている以上、なかなか上手
くはいっていないけれど。
495
一週間と言わず、査問会前から休みなく働いていたので、皆に休め
と強制的に休みを取らされている今日、久しぶりにミモザに会った
という訳だ。
﹁それについては、本当に申し訳なく思っているわ﹂
﹁謝る必要はないわ。⋮私の言い方もきつかったけれど。貴女が働
き詰めだって言うのも、聞いていたし。⋮⋮今日も、時間をくれて
ありがとう﹂
﹁こちらこそ。愛想を尽かされても仕方ないのに、いつも気にかけ
てくれてありがとう﹂
学園から追放された後も、連絡を取ってくれてたし。
この前の査問会の時も、心配してくれているような文面の手紙を送
ってくれていた。
⋮⋮本当に、彼女が友達で在り続けてくれていることをありがたく
思っている。
﹁そういえば王都にある店舗、営業再開していたわね﹂
﹁仮、だけどね。今は領地から連れてきた面々と後は新たに雇って
いる人たちで回して貰っているの﹂
領地から連れてきた面々は半分以上が、今まで商品開発に携わって
きてきた人たち。
現場の空気を感じて貰う機会があった方が良いのかしら、と前に思
496
った事があったので、今回便乗してみた。
新たに雇った人たちで回せるようになったら、引き上げさせてまた
領地で通常業務に戻って貰うけれども。
﹁そう。やっぱり今まで閉じていたからか、随分混んでいたわね﹂
﹁あら、行ったの?﹂
﹁いいえ。行こうと思ったんだけど⋮⋮あまりに混んでたから諦め
たのよ。一週間で、少し落ち着いたみたいだけど﹂
﹁へえ⋮⋮嬉しいけど、大丈夫だったかしら?確かに、メリダも随
分疲れて帰って来てたけど﹂
うーん⋮⋮行ったところで、何もできない。
けれども、この目でどんな様子か直接見たいような⋮⋮。
﹁⋮⋮商会に行ってみましょうか﹂
﹁良いの?﹂
﹁ええ。営業再開してこの方一回も様子を見ていないし⋮⋮これか
らも見に行けるか怪しいし。ターニャ。従業員の皆が飲めるよう果
実のジュースを準備しておいて﹂
﹁⋮⋮従業員の人たちが飲めるよう?﹂
ターニャはすぐに頭を下げて了承の意を示していたけれども、ミモ
497
ザが不思議そうに首を傾げていた。
﹁ええ。差し入れよ。一生懸命働いてくれているのだから﹂
﹁そんな事もするのね⋮⋮﹂
ミモザは、驚いたように目を丸めている。
﹁どこの商会もそうかは知らないけれども。でも、従業員がいて初
めてお店がまわせるでしょう?﹂
⋮⋮今回の事件で、それは痛いほど痛感したわ。
﹁特に最近忙しいみたいだしね﹂
そうして、私とターニャ・ミモザと護衛の面々で領都に繰り出した。
﹁何だか久しぶりね、こうして外に出るのも﹂
視察に行く時と同じく質素な格好に、今回は髪色まで染めている。
そのため、いつもの銀髪ではなく赤みがかった茶色の髪だ。
これはアズータ商会で研究中の新商品。
なんでも植物からできた染料らしく、2・3日で落ちるらしい。
最近、企画研究の部署にいる皆が持ってくる新商品は、私をあっと
驚かせるようなものが混じっている。
498
これも、その一つだ。
いずれは、白髪染めみたいなのができると喜ばれるかしら?
でも、この世界ってカラフルな髪色だからあまり白でも目立たない。
寧ろ、灰色になったおじ様⋮⋮うん、渋くて素敵。
と言うわけであんまり需要、なさそうよね⋮⋮。
そんな事を考えつつ歩いていると、割とすぐに店に辿り着いた。
499
セイの断罪
1/2
弐︵前書き︶
500
セイの断罪
弐
店は外から見ても、そうと分かるほど混み合っていた。
王都の店舗は特にここ最近報告を確り読んでいたけれども⋮⋮やは
り実際見るのとでは、随分違う。
売上や在庫数・備品の注文等々や業務報告から混んでいるというの
は分かっていたし、それに対しての対応もしてきたつもり。
だけど、やっぱり実物を見ると⋮⋮改めて凄いと思うより他ない。
﹁⋮⋮これでも随分マシになったと思うわよ、前に見たときよりか
は﹂
そんな私を横目で見つつ、ミモザがそう言った。
⋮⋮そう。これで、マシね⋮⋮。
店の中だけでも人・人・人と人が詰め込まれていて空いたスペース
が見当たらない。
会計も随分並んでいるみたいだし、外にも中に入れずに待っている
人がいる。
商会の会頭という立場から言わせてもらえば、この光景は狂喜乱舞
したくなるようなそれだけど。
従業員達からしたら気の遠くなるような光景だろう。
501
私たちは裏口から中に入った。この裏口は従業員専用となっていて、
そのままバックスペースにつながっている。
﹁⋮⋮これはこれは、アイリス様、セイさん、よくお越し下さいま
した﹂
私達の姿をすぐに見つけた店長が、駆け寄って頭を下げた。
﹁楽にしてください。今日は、アイリス様からの差し入れを渡しに
来ただけですから﹂
セイが苦笑いを浮かべながら、店長にそう言って物を渡した。
﹁⋮⋮差し入れ、ですか?﹂
呆気に取られているかのように、店長は言葉を繰り返した。
それが、どういう意味合いのものか聞きたいであろう店長は、けれ
ども私の方には目を向けない。
失礼になってしまってはいけない、という想いがあるのだろう。
私もまた、そんな反応に苦笑いを浮かべつつ口を開いた。
﹁ええ。ここ最近混み合っていて、皆さん疲れていらっしゃるでし
ょう?数種類のジュースを持ってきたから、是非休憩中に飲んで﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
店長はオズオズと、セイからそれを受け取る。
502
﹁人数は足りているかしら?何か困ったことはない?﹂
﹁いえ、大丈夫です。先週に比べれば大分落ち着いてきていますし
⋮⋮﹂
店長が、そう言った時だった。
ガシャン⋮⋮!と何かが割れる音と、怒鳴り声が店の方から聞こえ
てきた。
その瞬間、瞬時にライルとディダは辺りを警戒しつつ私を背に庇う。
私は壁とライルに挟まれるように立ち尽くしていた。
店長は、すぐさま店の方へとむかう。
﹁ディダ。ここは良いから店長の後を追って、様子見てきて﹂
私のその言葉に、ディダは顔を顰め︵しかめ︶る。
﹁姫さん、俺はあんたの護衛だぞ?﹂
そして真剣な声色で、そう言葉を紡いだ。
﹁何が起きているのか、状況の確認も必要でしょう?﹂
それでも引かない私に観念したのか、それとも確かに状況の把握が
必要だと思ったのかは定かではないが、ディダは溜息をつく。
﹁⋮⋮ああ、分かったよ。ライル、姫さんを頼む﹂
503
﹁勿論﹂
そうしてディダも店の方へと走って行った。
次に動いたのは、セイ。何度も視察として来ているだけあって、彼
は建物の構造を把握している。
﹁こちらへ﹂
私たちを、店の中に設けられた事務所兼応接室に案内した。
幾つか執務をするための机が並べられ、衝立で仕切られている先に
応接用の机と椅子があった。
私はその応接用の椅子に腰掛ける。
そのタイミングで、ノック音と共に従業員と思わしき男性が室内に
入ってきた。
﹁⋮⋮し、失礼致します。セイ様はいらっしゃいますか?﹂
呼ばれたセイは立ち上がり、彼の前に立つ。
﹁はい。どうしましたか?﹂
﹁店先で暴れていた者を取り押さえてくださったディダ様という方
が、是非セイ様に来て欲しいと⋮⋮﹂
彼の言葉に、ホッと詰めていた息を吐いた。ディダならば、鮮やか
504
にその男を捉えることができただろう。
⋮⋮それにしても、何故、ディダはセイを呼んだのかしら?
﹁私が、ですか。ディダがそう言ったんですね?﹂
セイも疑問に思ったのか、確認するように言葉を返す。
﹁は、はい。⋮⋮上の者を出せ、と暴れていた者が叫んでいるから
というのもありますが、このバックスペースで事を収めるよりも、
店で話した方が良いとディダ様は仰っていました﹂
﹁分かりました。では、行きましょう﹂
505
セイの断罪
弐︵後書き︶
長らく更新せず、すいませんでした。
506
セイの断罪
2/2
参︵前書き︶
507
セイの断罪
参
セイが部屋から出て行った瞬間、私も追いかけようと腰をあげる。
﹁﹁⋮⋮お嬢様?﹂﹂
けれども、それを目敏く見つけたライルとターニャが、咎めるよう
に私を呼んだ。
﹁す、少しだけ。影からこっそりと見るだけだから﹂
﹁ダメです。危険です﹂
取りつく島もりないほど、ライルは否定した。確かに、護衛として
は騒動の震源地に近づくなど言語道断の行いだろう。
じっと見つめるが、ライルも真剣な様子で視線を返す。このままで
は、考えを変える事はなさそうだ。
﹁⋮⋮その危険かもしれないところに、セイとディダだけでなく、
私の下で働いている従業員の人達がいるのよ﹂
一瞬、ライルから視線を外して私はぽつり思った事を口にする。
﹁私はこの商会の責任者だわ。責任者を出せと言うのであれば、私
が出るべき事。⋮⋮何より、私は私の下で働く方々が安全かつ安心
して職務に就けるよう、職場を保つ責務がある。⋮⋮お願い、ライ
ル。責任を放り出す様な真似を、私にさせないで﹂
508
﹁しかし、お嬢様⋮⋮﹂
﹁それに、貴方が側にいて私を守ってくれるのでしょう?⋮⋮ねえ、
ライル。わたしは貴方を信用しているからこそ、行く事ができるの
よ﹂
﹁ですが⋮⋮。いいえ、畏まりました。お嬢様、では決して相手に
お姿を晒さないようにしてください﹂
不承不承と了承を伝えるライルの言葉に、私は頷くとそのまま部屋
を出た。
未だ怒鳴り声は店先の方から聞こえてきて、そのせいで店はガヤガ
ヤと騒がしい。
﹁⋮⋮お久しぶりですね、ダンメさん﹂
そんな中、セイのその言葉がハッキリと聞こえてきた。
バックスペースと店を区切る衝立から、そっと店内を見る。
取り押さえられている男は1人。ディダがその男に乗るようにして
自由を奪っていた。
﹁貴方のご要望通り、私は出てきましたが⋮⋮。それで、何故“元
従業員”の貴方がこのような騒ぎを起こしたのか説明いただけるん
でしょうね?﹂
セイの言葉に、それまでのざわめきが嘘のようにシン⋮⋮と静まり
返る。
509
直接言葉にされなくても、そうと分かるほどセイの怒りを感じた。
セイって怒るとこんなに怖いんだ⋮⋮と、ぼんやりそんな事を頭の
片隅で思う。
﹁⋮⋮⋮﹂
その証拠に、セイの雰囲気にのまれて男は言葉を失っていた。そん
な彼の反応に、セイは殊更大きく溜息を吐く。
﹁だんまりですか。⋮⋮私は責任者として、此方にいらしてくださ
ったお客様がたが、快適にお過ごしいただけるよう、場を整える義
務があります。本来であれば、さっさと然るべきところに突き出し
て終わりなところを、態々話を聞いて差し上げようとしているので
すから、さっさと釈明でも何でも話していただけると有り難いので
すが﹂
﹁⋮⋮お、俺は悪くない⋮⋮!﹂
﹁この期に及んで、﹃自分は悪くない﹄ですか⋮⋮﹂
再度、セイは大きく溜息を吐いた。
俺は、この商会で働いて成果を出して
まあ、これだけ騒ぎを起こしておいて自分は悪くないと開き直られ
たら、それはね⋮⋮。
﹁ああ、俺は悪くない!
きた。それこそ、身を粉にして働いて結果を出してきたのに。なの
に、復職願いを出したら、あっさりと跳ね除けられて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮貴方は、確か別の商会に引き抜かれてお辞めになられたので
510
しょう?
それならむこうで同じように成果を出せば良いだけの話
ではないですか﹂
セイの言葉に、得心がいく。つまりその男⋮⋮ダンメだったかしら
?
彼は、この商会を辞めてエド様の息がかかった商会の方にいったと
いうことね。
﹁そ、それはそうだが⋮⋮。けど、やっぱり俺の力量を活かすこと
ができるのは、こっちの商会だって分かったんだよ。だから、復職
願いを出したって言うのに⋮⋮足蹴にされて⋮⋮﹂
﹁他の商会に行った者が、やっぱり戻りたいと言い出してきて、﹃
はい、そうですか﹄とでも言うと⋮⋮?﹂
俺はこの店で料理を任されていたんだぞ!
雇え
﹁け⋮⋮けど、俺ほどの腕がある奴だったら、普通喜んで受け入れ
るだろう!?
ば即戦力じゃないか!﹂
﹁確かに、貴方は私どもの商会で優秀なパフォーマンスを出してく
れたかもしれません﹂
﹁⋮⋮なら⋮⋮﹂
﹁ですが正直、貴方レベルの方は他に幾らでもいるんですよ﹂
そう、セイは冷たく言い放った。
﹁確かに、貴方には元々技術がありました。でも、今となっては元
から技術がない者も、研鑽に努めて力をつけています。慢心して己
511
技術は確かに必要ですが、それだけ
の研鑽を怠った貴方よりもね。⋮⋮私が、職務態度を見ていないと
でも思っていたのですか?
ではないのですよ。仮に貴方と同じレベルの者がいたとして⋮⋮元
の技術にあぐらをかき、あまつさえ我が商会の危機にあっさり手の
平を返した者と、自己研鑽に努めて商会の危機にも力を貸してくれ
た者⋮⋮どちらを取るかは言われるまでもないですよね?﹂
セイの目が、男を射抜く。それだけで、男⋮⋮ダンメと呼ばれた男
は震え上がっていた。
⋮⋮本当に、セイの迫力がすごい。
512
セイの断罪
1/2
肆︵前書き︶
513
セイの断罪
肆
﹁⋮⋮だ、だけどっ!
こにいるじゃないか!﹂
俺と同じく商会を去った女は復職してそ
ダンメに指差された彼女⋮⋮ウェイトレス兼会計係のその子は、ビ
クリと体を震わせた。
彼女が休
思わず前に出かかってしまったけれども、ライルとの約束を思い出
して心を落ち着かせる。
﹁⋮⋮彼女は、子を産むためと“休職”したんですよ?
職する時には貴方もこちらで働いていたのですから、その経緯は知
休職と退職は違います﹂
っていたと思っていましたが、何故彼女を引き合いに出したのでし
ょう?
彼女を庇うようにセイは彼女の前に立ち、そして言い捨てた。
﹁⋮⋮ふ、ふん。休職だが退職だが知らねえが、そんな商品運ぶこ
とと会計することしかできねえ女の替えなんか幾らでもいるじゃね
エコヒイキ
えか。なのに、その女が戻れて俺が戻れないなんて随分とこの商会
は依怙贔屓をするもんだ。それとも、なんだ?あんたとそこの女は
デキてるのか?﹂
あまりの発言に、思わず私もまた、叫び出しそうになった。
怒りの感情に、怒鳴り散らしたい想いを抑えつけてプルプルと身体
が震える。
514
その激情に、お腹の底が熱くなってそれが上へ上へと昇ってくるよ
うな錯覚すらした。
私の商会への侮辱。セイへの侮辱。何より働く女性への、侮蔑。
ああ、どうしてくれよう。悪役令嬢らしく、公爵令嬢の強権すら発
動しても良いとすら思えてくる。
けれども、それを押しとどめるように⋮⋮私の気持ちを代弁するか
のように、セイが口を開いた。
﹁⋮⋮あまり女性の事を舐めた真似はしないでいただきたい。聞い
ているだけで、不快だ﹂
ギロリとセイはダンメの事を睨みつける。ディダの彼を捕まえる手
にこもる力も強まったらしく、ダンメは痛みに顔を歪めていた。
﹁商品の物を運ぶ、会計をする⋮⋮なるほど、確かに単調な仕事な
のかもしれません。けれどもそうした役割の方々がいるからこそ、
この店はまわっている。私からしたら、貴方がしていた仕事も彼女
がしてくれている仕事も等しく重要な事です。そこに貴賤はない。
それに彼女は、手際良く仕事をこなしてくださる大切な戦力ですよ﹂
﹁イタタタッ、痛えよ!﹂
ダンメはセイの言葉よりも何よりも、ディダから与えられる痛みに
耐え兼ねて騒いでいた。
﹁おっと、悪いなあ。女の子を貶めるような言葉を聞いて、ついつ
いカッとなっちまった﹂
515
ディダのその謝罪は、ダンメにむけられたものではない。⋮⋮セイ
の邪魔をしたと、セイに向けて謝っていた。
セイはその謝罪を、苦笑いで受け取る。
﹁退職する時に退職金を受け取っておいて、休職の者と同じように
取り扱え⋮⋮とは、随分理不尽なことを仰いますね。第一、退職さ
れる時にサインをいただいた書類には、休職と退職は異なるという
旨が確り記載されていますし、私どももそれを予め説明しています。
⋮⋮貴女も、その説明を聞いて休職を選ばれたんですよね?﹂
﹁は、はい⋮⋮。辞める事を伝えた時に理由を聞かれて⋮⋮子を産
むためと伝えたら、子を産んだ後どうするのかと聞かれまして⋮⋮
また仕事を探すと答えましたら、それならば休職にするのはどうか
と提案いただきました。正直次の仕事をまた探すのは大変ですし、
仕事に戻ってからもシフトの面で何かと便宜を図っていただいてい
るので、とてもありがたく思っています﹂
客たちの方から、僅かに驚きの声があがっていた。
休職という制度はあまり一般的ではないらしいから、彼らの反応も
当然と言えば当然かもしれない。
導入する時に、随分と皆に説明を要したもの。
﹁それは良いねえ。私もここで働きたいぐらいだわ。旦那の給金だ
けじゃ苦しいし、さりとて子の事を考えると、中々難しいしねえ⋮
⋮﹂
﹁確かにそうね。懇意にしてたら別だけど⋮⋮基本、子ができる度
516
に辞めなきゃならないし⋮⋮もし戻れたとてしても、戻る前と同じ
ように働かなきゃならない⋮⋮早退けなんてできないってこと考え
ると、戻ることも億劫に考えちゃうものね﹂
女性の客たちから、そんな声が挙がってきた。確かに、女性は中々
仕事を続けるのは難しい。
ニホンでもそうだったけれども、ここはそれ以上。
近くに頼る家族がいれば良いけど、王都は割と核家族が多い上、子
を預かってくれるところなんてまずないし。
いずれ、商会で働く女性のために託児場みたいなのを作るのも良い
かもしれない。
﹁ありがとうございます。⋮⋮つまり、貴方の言っていることは、
ただの言いがかりという訳ですよ﹂
セイは、発言をしてくれたウェイトレスの子に礼を言った。その時
ばかりは、先ほどまでの冷たい雰囲気は引っ込んでいたようだった。
けれども⋮⋮。
﹁別にこの店を辞めた後、貴方が独立しようが他の商会で働き始め
ようが、それを制限するつもりはなかったし、しませんでした。今
のこの状況のように、店に迷惑をかけなければ、それだけて良かっ
たからです。⋮⋮だというのに、貴方は⋮⋮﹂
再びダンメに顔を向けた時には、セイの瞳は再び冷たく、まるで人
を射殺せそうなほどのそれに変わる。
517
それをむけられたダンメは、びくりとダンメが身体を震わせていた。
﹁二度はありません。今回は、警備隊に突き出すだけにしてあげま
しょう。ですが⋮⋮このような事が再びあったら、その時は分かっ
ていますね?﹂
ダンメの耳元で囁いた彼のそれは底冷えするような、声だった。も
しも次があったら、自分の命はない⋮⋮そう悟ってしまえるほどの、
それ。
ブルリとダンメが身体を震わせている間に、セイはニコリと笑みを
深めた。
﹁⋮⋮おや、丁度警備隊が来ましたね。ディダ、彼を引き渡しなさ
い﹂
﹁⋮⋮良いのか?﹂
﹁ええ﹂
そして、丁度来た警備隊に引き渡す。
ダンメは抵抗する気も無くしたのか、大人しく警備隊に連行されて
行った。
518
セイの断罪
2/2
伍︵前書き︶
519
セイの断罪
伍
ダンメが去ってガヤガヤと騒がしくなった店内。
﹁お騒がせして、申し訳ありませんでした﹂
その中心に未だ佇むセイが、そう言って頭を下げる。
﹁現在注文いただいているものは全て、無料で提供させていただき
ます。また、次回お店をご利用いただけた時に使える割引券を贈呈
させていただきますので、今後ともよろしくお願い致します﹂
そしてそのまま続けて、周りに聞こえるようハッキリと少し大きめ
の声で言って宣言した。
心配が頭を過る︵よぎる︶。
どんな反応が返ってくることか⋮⋮。
そんなと
けれども意外にも客たちからは、拍手が湧いた。
セイも意外だったのか、内心首を傾げているようだ。その証拠に、
思いっきり顔に出すことはないが、僅かに眉間にシワが寄っている。
客達のに再び視線を戻して様子を伺ったところ、無料となったこと
を喜ぶ客が3割。
彼らは、拍手を終えた後嬉しそうに目の前の食べ物を食べつつ、も
う少し注文をすれば良かったと嘆いていた。
520
そして残りの7割といえば⋮⋮。
﹁あの方々の名前は何と言うの?﹂
﹁今話されていた方がセイ様、騎士様のような方がディダ様ですっ
て﹂
﹁ああ、カッコイイ⋮⋮﹂
と、セイとディダの勇姿に目がハートになっている女性が4割。
﹁スカッとしちゃったわ。あんな人を見下すような奴、叩き出して
正解よ﹂
﹁本当にね。そこの貴女、あいつの言った事なんて気にしちゃダメ
よ。まあ、この職場ならそんな気にする事もないか﹂
ウェイトレスの子に同情しつつダンメを叩き出したことに爽快感を
感じている様子の人たちが3割だ。
思いの外良い反応に、ホッと詰めていた息を吐き出した。
一応、丸く収まった⋮⋮ということで良いのかしら。
そこまで考えた瞬間、力が抜けて危うくその場に座り込みそうにな
った。
﹁アイリス様⋮⋮!﹂
521
心配気に、ターニャが私に駆け寄ってきた。
﹁大丈夫よ、ターニャ。ありがとう﹂
﹁あまり心配をかけないで下さいませ⋮﹂
﹁でも、今回はライルの言いつけを守ったわよ?﹂
苦笑い気味でそう答えても、ターニャの顔色は冴えない。
﹁いつ矢面に立たれるかと心配で気が気でなかったです。お嬢様の
大丈夫は全く大丈夫ではありませんから﹂
﹁そうかしら?﹂
﹁ええ。今回だとてそうです。普通、お嬢様がたはこのような場に
好き好んで出て来られないかと思いますが﹂
﹁⋮⋮。確かに、そうかもしれないわね⋮⋮.﹂
ターニャの言葉に、反論するどころかむしろ納得してしまった。
確かに、市井に交じろうとすることなど普通ありえず、かつ更に言
えば、あのような怒鳴り声が聞こえてきた時点で失神してしまう⋮
⋮という方が想像がつく。
﹁お嬢様らしい、とそう思ってしまった私にも非はありますが﹂
ターニャはそう言って苦笑いを浮かべた。
522
確かに今回、内心はどうあれターニャはあまり反対らしい反対を口
にしなかったものね。
﹁⋮⋮ですが、お嬢様。今回は既にディダが取り押さえているとい
うことも加味して、そう思うこともできましたが⋮⋮お嬢様の責任
感と私どものそれは別です。お嬢様が従業員の方々に責任をお持ち
になられているのとは別に、私どもにもそれぞれ役割がございます。
お嬢様をお護りするという役割が。⋮⋮お嬢様の御身を案じ、お護
りすることが私どもの役割であり誇りであり、想いです。どうかお
嬢様⋮⋮それを御心に留めておいてくださいませ﹂
﹁⋮⋮約束はできないわ﹂
﹁お嬢様⋮⋮﹂
﹁貴女たちが心配してくれているのを知りながら⋮けれども私は、
きっと無茶をこれからも繰り返す。だから、約束はできないわ﹂
きっと私は同じ場面になったら何度も同じように動く。でも⋮⋮。
﹁でも、それは皆の意見や想いを蔑ろにしている訳でもないのよ。
皆なら、きっと私を守ってくれる。私の背についてきてくれる。そ
う信用しているからこそ、私は進めるの。だから⋮⋮皆が役割を全
うできるよう、できる限り譲歩はするつもりではあるの﹂
今回表立たなかったのは、それが理由。セイならやってくれると、
信用できたから。そして、私が表に立ち過ぎて万が一の時に皆に迷
惑をかけてしまうかもしれないと考慮した結果。
⋮⋮結果は丸く収まったのだから、それで良かった。
523
﹁さあ、邪魔にならないようバックスペースに戻りましょうか。⋮
⋮ターニャ﹂
﹁はい﹂
﹁セイに、並んでいる方々にも同じように割引券を渡すようにすぐ
に伝えて。長い間待たせてしまっているのだから、ね﹂
﹁畏まりました﹂
私はライルと共にバックスペースへと戻った。
524
騒動の後日談︵前書き︶
1/2
525
騒動の後日談
事務所兼応接室に戻ると、そこには真っ青な顔色のミモザがいた。
⋮⋮怖い想いをさせてしまって、本当に申し訳ない。
﹁⋮⋮ミーシャ、本当にごめんなさい﹂
ミモザではなく、街での偽名で呼ぶ。バックスペースで私たちしか
いないとはいえ、ね。
﹁アリス、心配したんだからね。本当⋮⋮貴女の護衛の気持が良く
分かるわ。心臓が、幾つあっても足りない⋮⋮﹂
ふう、とミモザは溜息を吐く。居た堪れなくて、身体が縮こまる想
いだ。肯定も⋮⋮勿論反論なんて以ての外だ⋮⋮できず、私はただ
ただ苦笑いを返すのみだった。
﹁⋮⋮まあ、貴女が無事で良かったわ﹂
その日は結局、そのまま解散となった。それ以上、街を周る気には
ならなかったし。
妙に疲労を感じた次の日、私はいつもと同じく執務用の机に向かっ
ていた。
勿論、目の前には大量の書類。幾つか決裁を終え、一息ついたとこ
ろで傍に控えていたターニャを呼ぶ。
﹁⋮⋮ターニャ﹂
526
﹁はい﹂
﹁現在のエド様の息のかかった商会が、どうなったのか。それを知
りたいのだけれども﹂
﹁昨日の件ですね?そう仰られると思いまして、既に指示を出して
調べてあります﹂
ターニャはそう言って、書類を出してくれた。流石、ターニャ。
パラパラと書類をめくって中身を見る。
⋮⋮私の破門騒ぎのせいで、途絶えていた客足。
それは、私が設立させたアズータ商会もそうだったし、アルメニア
公爵領を本拠地とする全ての店が大なり小なり影響を受けてしまっ
ていた。
そのタイミングでのエド様の行動は、商会の会頭としての私にも領
主代行の私にも大きなダメージを与えた。
その証拠にこうして今、事後処理が私を苦しめているのだから。
正直、あの最中にはそれを考えている余裕がなかったけれども⋮⋮
本当、教皇とエド様の派閥の面々にはしてやられた感が否めない。
あの騒動を何とか早期に収束できたから良かったものの⋮⋮客が寄
り付かない、それだけでも大きな痛手だったというのに、アズータ
商会にいたっては店の中核を担って貰っていた人材がいなくなった
527
のだもの。
もしこれで今尚収束できていなかったらと思うと⋮⋮ゾッとする。
﹁⋮⋮あのタイミングで、ディーンが教会のラフシモンズ司祭との
繋ぎをつけてくれて、本当に良かったわ。でなければ、今頃アズー
タ商会は解散もしくは買収されていたかだったわね。⋮⋮いえ、そ
れどころかアルメニア公爵領に拠点を構える商会は立ち行かなくな
っていたわ﹂
私のその発言に、ターニャは頷く。事実、早期に収束できたのは協
力者⋮⋮ラフシモンズ司祭の協力が大きい。
﹁⋮⋮“もし”の仮定をしても仕方ないことですが⋮⋮仮にラフシ
モンズ司祭の協力がなければ、あの査問会で決定打に欠けていたで
しょう。お嬢様もそれが分かっていて、行動ができなかった筈。そ
う考えると、遅かれ早かれアルメニア公爵領の産業は立ち行かなく
なっていたと思われます﹂
経済的な力を伸ばすことに注力していたアルメニア公爵領にとって、
それは大きな痛手だ。
もし仮に、事実そうなっていたとして⋮⋮商会の会頭達は、ウチを
見限ってもおかしくない。むしろ、それが道理だ。
ほとんどの商会は、ウチに本拠地を置かなければ“ならない”理由
はないのだから。
つまり、武力ではなく経済的な力でエド様はアルメニア公爵家を崩
しにかかったという事。
528
⋮⋮とはいえ、仮定はあくまで仮定。
実際は、査問会を乗り越えることができて、アズータ商会は新商品
が当たり、他の商会もジワジワと客足が戻ってきている今。
﹁⋮⋮エド様の商会は、随分と追い込まれているわね﹂
それが、現状だ。
エド様の息のかかった商会は、騒動の最中のそれほどの勢いはない。
価格設定はほぼ同じ。品質も同じ。エド様が商品を製造する面々の
み引き抜いていたせいか、接客はウチの方が上。
⋮⋮おかげで騒動が収まった今、その騒動を嫌ってウチから離れて
いった客達れの大半は戻ってきている。
おまけに、そもそも経営は随分と杜撰で、客足が減った今、それが
浮き彫りとなって火消しに右往左往している状態が今の向こう側の
商会の実情だ。
﹁ええ。そのせいか、従業員への対応も疎かになっていて、ただで
さえ客足が減ったことにより、やる気を失くしている面々に追い討
ちをかけている状態です。雇用契約の内容から言っても、現在の仕
事の状態から言っても、アズータ商会の方が良かった⋮⋮という声
が挙がっているようです。また、経営が悪化した事による、解雇も
しているようです。昨日のダンメもその1人のようでした﹂
﹁⋮⋮随分あっさりと切り捨てるものね﹂
529
﹁同情されているのですか?﹂
﹁まさか。でも⋮⋮折角アズータ商会から引き抜いたというのに、
あっさりと解雇するなんて勿体無いってね。そう思ったのよ﹂
経営が悪化した時に従業員を首にすることは仕方ないこと。⋮⋮自
身の感情に基けばやりたく無い事とはいえ、経営者としては最後の
手段として頭の隅に置いてあるので、責める権利も責める意思もな
い。
けれども一時とはいえ、アズータ商会から引き抜いた面々から得た
情報により、向こう側の商会が繁盛したのは紛れも無い事実。
その功績を無視してあっさりと解雇してしまうというのは、随分と
まあ思い切ったことをやったなと思ってしまう。
﹁人間、一度築き上げた経済力や社会的地位というのは中々捨てき
れないというもの。逆にアズータ商会から引き抜いた面々は、雇用
時に交わした契約の給金が高かったということ、経営が悪化した後
の待遇についての文句が多かったということ。⋮⋮総じて、解雇と
いう形になったのでしょう﹂
あの破門騒ぎのあった時点ですら、私の破門による将来の経営の不
安という事以外、雇用の条件についてはアズータ商会の方が上だっ
た⋮⋮らしい。
それに慣れてしまえば、確かになるほど、雇用の条件についてはハ
ードルが高くなるのかもしれない。
530
﹁今後解雇された面々が、アズータ商会に押しかけてくる可能性は
?﹂
﹁無きにしも非ずでしょう﹂
﹁⋮⋮そう。昨日のようなことがないように、警備を強化させてお
いて﹂
﹁畏まりました﹂
531
お嬢様の企み︵前書き︶
2/2
532
お嬢様の企み
アズータ商会の会頭として行わなければならない対応は、これにて
ひとまず区切りがついた。
騒動の最中受けた打撃に対する対応。そして、収束した後の繁忙さ
に対する対応。
後は領主代行として、他の商会からきている陳述書への対応を実行
していくことぐらいかしら。それも、同時並行でボチボチ進めてい
たから残りはわずかな筈。
でも、今やってるのって通常業務とは違うからね⋮⋮これだけ仕事
をやって、全然そっちが終わってないっというのが泣所。
椅子に深く座り直して、羽ペンを机に放り出して上を向く。
疲れた時とか、何かを考える時とか、最近この体勢になることが多
いな。
﹁⋮⋮ねえ、セイ﹂
書類を回収しに来ただけではないだろうが⋮⋮丁度良いタイミング
で来たので声をかける。
﹁はい、何でしょうか﹂
﹁今回エド様が働きかけて、ウチにちょっかいをかけてきた商会は
3つ。その中で、買収をするのならどこが良いと思う?﹂
533
この前まで、第二王子の後ろ盾
私の言葉に、一瞬セイはギョッとした。けれども次の瞬間には、一
呼吸を置いて落ち着いたようだ。
﹁⋮⋮何故、急にそんな話を?
がある以上、報復行為と見なされるような真似をして拗れさせたく
ないと仰っていたではないですか﹂
訂正。努めて冷静さを装っているだけのようで、内心は次に何を言
い出すかと戦々恐々としているようだった。
﹁それはそう思うのだけど⋮⋮いえ、ね。思うに、ここまで見事に
3つとも経営が悪化していると、全てに目を行き届かせるというこ
とは難しいと思うのよね。むしろ、あの王子様の性格を考えるに、
自分の企みにケチがついたモノをいつまでも構っているかしら?
きっと玩具に飽きた子供のように、目障りだとどっかに放り出して
そうじゃない?﹂
自分で言ってて、何だか笑えてきた。
婚約してた時は全く気づかなかったけれども⋮⋮否、当時は見て見
ぬフリをしていた彼という人を、婚約破棄後になってやっと本当に
見ることができるようになった気がする。
﹁それは否定できませんが⋮⋮憶測で動くのは危険かと。何故、リ
スクを取ってまでリターンのあまりなさそうなものに手を出そうと
されているのですか?﹂
りょうざかい
﹁あの破門騒動の時に、アルメニア公爵領から出る商品が領境を通
る際、アルメニア公爵領を本拠地とする商会から徴収する関税上げ
534
られたでしょう?
どうせ第二王子派の貴族が手を回したのでしょ
うから、この際、第二王子の庇護下にいた商会の名を利用してしま
うのはどうかと思って﹂
騒動が収まったというのに、関税は未だ戻して貰えてない。交渉し
ても暖簾に腕押し、そもそも交渉のテーブルについてくれないとこ
ろすらある。
まあ、第二王子の派閥には完全に私が敵視されているからねえ⋮⋮
アルメニア公爵家の名ですら効力を発揮しない。
﹁つまり、他領に商品を流す時、矢面に立たせると﹂
﹁ええ。商会丸ごとと言わずとも、商会の一部分の経営だけ買収で
きればそれで良いのよね。契約弄って商会の名前を借りることがで
きたらなお良し。ほら、今アズータ商会で運送を専門にしている部
署があるでしょう?そこと合併させちゃって独立させるのも面白そ
うでしょう?﹂
﹁なるほど⋮⋮つまり、その商会の名さえ使えれば、あくまでアル
メニア公爵領を本拠地とする商会からの商品が通過するという訳で
はなく、王都を本拠地とする別商会が引き受けた商品が通過すると
いうことにしてしまえると。上手くいけば、アルメニア公爵領に構
える他の商会からも仕事が来る筈⋮⋮そういうことですか?﹂
オオダナ
﹁ええ。以前聞いた時、大店の商会も、余程の規模でなければ護衛
を一々雇って街から街へと流通させていると聞いたわ。一手に引き
受けることでコストも削減できるし、そうすれば他の商会からも利
用がある筈。要は、今アズータ商会でしている事を事業として発展
させたいという事ね﹂
535
口に出しながら、これからの仕事を増やすことを提案しているなあ
⋮⋮と、内心苦笑い。
とは言え、第二王子派閥の貴族たちとの交渉で難航している今、そ
うした別の手を考えなければいけないのもまた事実。
まあ、単純に事業拡大ができるっていうのにも旨味を感じていると
いうのもあるけれども。
﹁⋮⋮それぞれの商会の事業特性と第二王子との親密さを勘案し、
買収する商会を絞り込んでみます﹂
﹁お願いね﹂
536
情報提供︵前書き︶
1/6
537
情報提供
セイはすぐさま動いてくれた。買収するにあたって、それぞれの商
会の事業内容、人員そして買収した際のメリット・デメリットを挙
げて貰った報告書。
それをもとに、1つの商会へ仕掛け始めた。
なるべく表立って仕掛けているようには見せないように、裏から裏
から手を回し、更に経営状態を悪化させる。
やっている事は正に悪役のそれだな⋮⋮と何ともほろ苦い気持ちを
感じながら、淡々と指示を出した。
とはいえ、こちらとしても関税が未だ正常化されていない今、引く
訳にもいかないもの。
関税といえば、そういえば⋮⋮。
﹁⋮⋮なんでエド様一派は、ウチからの関税を高くしているのかし
らね﹂
何度も考えた疑問を、ボソリと呟く。
﹁単純に、お嬢様への嫌がらせでは?﹂
それに対して、脇で控えていたターニャが応えてくれた。
﹁ううん⋮⋮その可能性が濃厚なのだけれど
538
、ね。国として、メリットよりもデメリットの方が多い事を考える
とそれだけではないような気がしてならないのよね⋮⋮﹂
事実、アルメニア公爵領は肥沃な大地を有していて、国でも作物の
出来高は2・3番目ぐらいに位置している。
けれども今回の騒動で、勿論輸出は減っている。それはつまり、他
領に流入する作物が減るということだ。
他領に輸出しても利益があまり出ない⋮⋮それに対して、現在ウチ
の領は人口が増えつつあるし、災害が起こってしまった時のため⋮
⋮これには悪天候による不作の時の為の対策というのが含まれる⋮
⋮ある程度、領内で備蓄をするという政策も始動したため、領が買
い取っている現状、他の領に流すよりも領内で売買する方が利益が
出るというのが理由。
﹁まあ、考えるにしても今は材料が少ないわ。というわけで、ター
ニャ。王都の貴族たちの動きを探って逐一報告をしてちょうだい。
それと王都の市井の物価動向、それから反応もね。⋮⋮とりあえず、
これで今日のノルマは終了⋮⋮と﹂
最後の書類にサインを書き、そしてそれをターニャに渡す。
そのタイミングで、ノック音が聞こえてきてセイが入室してきた。
あまりにも良いタイミング過ぎて、部屋の中が見えていたのではと
一瞬思えてしまえるほどだ。
﹁お嬢様。例の商会が交渉のテーブルにつくと﹂
例の商会とは、ここ最近せっせと私が追い詰めていたそれだ。
539
﹁まあ、やっとね。日程は?﹂
﹁明後日を先方は希望しております﹂
﹁そう⋮⋮分かったわ。先方に了承しておいて。ターニャ、明後日
の予定の調整をお願い﹂
2人は、私の指示に頭を下げると書斎を出て行った。
ふう、と疲れを吐き出すように詰めていた息を吐くと、椅子に深く
座る。
ひと段落ついたことだし、屋敷内を歩こうかしら。執務中はずっと
同じ体勢だから、流石に身体の節々が痛い。
そこまで考えて、そうと決まればと私は立ち上がる。
中庭で、ゆっくりお茶を飲みながら本でも読もうかしら。そんな事
を考えつつ歩いていると、ちょうど歩いてきたベルンとばったり遭
遇した。
﹁あら、ベルン⋮⋮﹂
﹁お姉さま、今何をされていらっしゃるのですか?﹂
﹁今日の分の仕事が終わったから、ちょっと休憩をしようかと﹂
﹁⋮⋮少し、お時間をいただいても?﹂
540
ベルンの問いかけに、思わず苦笑いを浮かべる。
﹁それは、中庭で聞いても良い話?﹂
その問いの答えに、ベルンもまた苦笑いを返してきた。
﹁そう。じゃあ、書斎に行きましょうか﹂
お茶は、書斎でいただきましょう。そろそろターニャが誰か自身の
代わりに細々とした事をしてくれる者を寄越してくれているでしょ
うし。
そして私は、ベルンを連れて結局部屋に戻って行った。
﹁それで、どうされたのかしら?﹂
﹁相談といいますか⋮⋮ご報告といいますか⋮⋮﹂
随分と歯切れの悪い物言いに、何か悪い話であろうという覚悟だけ
ができる。
﹁⋮⋮先日、軍の解体の提案が奏上されました﹂
思わぬ言葉に、目が点になった。
さぞや貴族の令嬢らしからぬ間抜けな表情であろう。
﹁⋮⋮ま、まさか、あのユーリ・ノイヤー男爵令嬢が随分前に言っ
ていたあれ?本当に奏上するなんて⋮⋮﹂
541
そう口にしながら、溜息を吐いた。同時に、戦慄する。それを実現
させるよう実際に動けるほど、彼女の言葉に影響力があることに。
﹁奏上するからには、幾人かの貴族たちの賛同を得ていたのでしょ
う?﹂
﹁ええ。お父様がお姉様の破門騒動で身動きが取れなくなっていた
時に、事が起きていたようでして﹂
少なからず、私にも責任がある⋮⋮と。
﹁ですが、お姉様が早期解決をなされ、お父様はお祖父様⋮⋮アン
ダーソン侯爵とその一派、また反対派と共闘され、瀬戸際で止める
ことができました﹂
﹁つまり、軍の解体は却下されたと。どのようにして?﹂
﹁戦時体制法を持ち出したと聞いています﹂
﹁⋮⋮戦時体制法⋮⋮?﹂
何処かで見たような⋮⋮けれども聞きなれない単語に、一瞬首を傾
げつつ頭の中の知識を漁る。
ふと、随分前に本邸で見た書物でそれを見た事を思い出した。
﹁ああ、あの埃かぶったも同然の古い法ね⋮⋮﹂
確か国家が制定された時に作られた法。その名の通り、戦時の時に
は何よりも優先される国家の法。
542
百数年間前に一度使われたきり、使われたことのないそれ。
確か建国から間も無いその時に使われたのは、今よりも各領の自治
権が更に強かった頃。
当時国家としての常設軍はなく、各領主が兵力を束ねそれを国家と
して君主である王族が更に束ねていた。
そんな時代に、戦争に反対し派兵を拒否した領主一派をその法によ
って強制的に引きずり出し、かつ、戦後その領主達は領地を取り上
げたという経緯。
それによって、現在のように国家の常設軍が作られた。⋮⋮とはい
え、現在も各領は護衛という名目で最低限の兵力を保有するという
二重構造になっているのだが。
閑話休題。
この百数年間、その法が使われずにいたのは単に“必要がなかった
から”だ。
常設軍がある今、基本、戦争という国家の大きな出来事の最中、各
貴族の思惑はどうあれ敵を前にして纏まり、国家は一つの方向に向
かっていた。
つまり、その法を持ち出し再び使われることになること自体、国家
として既にガタがきているも同然だ。
﹁⋮⋮あくまで休戦であり、停戦ではないと。つまり、戦時中だか
543
らその法が適用されるということね﹂
﹁はい、そうです﹂
﹁お父様も、随分苦労されたのね。でも、軍が解体されるという最
悪のシナリオが回避出来て良かったわ﹂
本当に、ね。お父様の仰られていた通り、今はあくまで休戦中であ
り、停戦ではない。
それに⋮ユーリ・ノイヤー男爵令嬢の経歴を調べて貰った辺りから、
あの国が随分水面下で動いているというのを私は疑っている。
とはいえ、お父様に釘を刺された通り私はあくまで一領主だから積
極的に介入するつもりはないが。
﹁ええ。⋮⋮それで、ですが⋮⋮﹂
﹁まだ何かあるの?﹂
﹁いえ、ここからは相談なのですが⋮⋮。お父様は私に今回の件で
宿題を出しました﹂
﹁宿題?﹂
﹁はい。今回の件で、何が最も問題なのか。それを考えろとお父様
は質問してきました﹂
﹁何が、問題なのか⋮⋮ね。それで?﹂
﹁いえ⋮⋮お姉さまには報告がてら、もし思い浮かぶことがあれば
544
ヒントをいただければと﹂
﹁お父様は、私に報告せよと?﹂
﹁はい﹂
一瞬頭の中で思案する。私の考えがもし当たっていたのならば⋮⋮
恐らくお父様は宰相として娘に話を通したのではなく、現アルメニ
ア公爵家当主として、アルメニア公爵領主代行としての私に情報を
渡してくれたということか。
つまりは、備えろと。
﹁⋮⋮ねえ、ベルン。因みに、今回奏上するに当たって賛成した貴
族の顔ぶれは?﹂
なび
﹁第二王子派の他に中立派も。僕としては中立派が第二王子派に靡
いたことが問題なのかと思ったのですが⋮⋮﹂
﹁違う、と言われたのね?﹂
﹁はい﹂
そして、そこからベルンに賛成の意思表示をした者たちの具体的な
家名を聞いた。
ああ、この国は斜陽のそれだ⋮⋮それを聞いて、思わず天を仰ぐ。
﹁因みに、それが可決された場合の軍人への救済案も共に出たので
はないかしら?﹂
545
﹁ええ。本人の希望にもよりますが、平時は各領の軍として召し抱
えれば良いと。そして、有事の際には国の名の下に徴兵される。つ
まり、現在の軍事費を各領に担って貰うということですね﹂
ああ、やっぱり⋮⋮と思わず溜息を吐いた。
﹁⋮⋮ベルン。私は、私の考えが当たっているかどうか分からない。
お父様は、恐らく“答えのない物事をどこまで深く考え、先々を想
定し、動こうとするか”⋮⋮それを見たいのだと思うわ﹂
仕事をしていると、常々思うわ。学園の試験のように、しっかりと
した解答があればどれだけ楽かと。
﹁なるほど⋮⋮﹂
﹁第二王子派に中立派の面々が傾いたこと⋮⋮なるほど、それは脅
威ね。けれども、それだけかしら?﹂
﹁それだけ、とは?﹂
﹁あらゆる角度から、物事を見なさいと言うことよ。中立派がどの
ような思惑で今回賛成したのか、その結果どのような先が見えるの
か。それを考えなさいということよ。何が正解か何が不正解かなん
てないのだから、考えたら考えた分だけ、あらゆる事に対処できる
筈よ﹂
ベルンは私の言葉に少し思案しているような表情を浮かべ⋮⋮やが
て、頷いた。
546
﹁ありがとうございました、お姉さま﹂
﹁いいえ。こちらこそ、情報をありがとう﹂
この部屋に来た時よりも幾ばくかスッキリしたような表情で、ベル
ンは部屋を出て行った。
547
ディダの問いかけ︵前書き︶
2/6
548
ディダの問いかけ
ベルンと入れ違いに、ターニャがライルとディダを連れて部屋に戻
ってきた。
タイミングが良いわね。
﹁戻ってきたところ早速で悪いのだけど⋮⋮ターニャ。今すぐ領の
備蓄の報告書を私の下に。それから、ライル・ディダ。現在の警備
隊及びアルメニア公爵家の私兵の数、それからそれらを指揮できる
人員の数も﹂
﹁畏まりました﹂
﹁すぐに取り掛かります。ですが、お嬢様。何かあったのですか⋮
⋮?﹂
ターニャがすぐに頭を下げ、それに続いてライルとディダも頭を下
げたが、ライルは私の指示に疑問を持ったのかそんな質問をしてき
た。
まあ、突然言われたらそうなるわよね。
﹁さっき、ベルン経由でお父様から報告があったの。軍を解体させ
るべきだという奏上があったことを﹂
﹁﹁﹁なっ⋮⋮﹂﹂﹂
三者三様に驚きをそのまま外に出していた。アルメニア公爵家の者
549
だからというのもあるが、将軍であるお祖父様の弟子で、お祖父様
のことを心配してというのもあるのだろう。
﹁幸い、それはお祖父様とお父様を中心に止めたのだけれども⋮⋮﹂
続いての言葉に、3人ともホッと息を吐いた。
﹁問題はその流れ、奏上した面々それと奏上の内容なのよね﹂
﹁⋮⋮どういう意味ですか?﹂
﹁先に断って置くけれども、これはあくまで私の私見よ。間違って
いることもあるでしょう﹂
私の前置きに、三人は頷く。
﹁まず、流れ。今回の件は、ユーリ・ノイヤー男爵令嬢の呟きから
始まっているの﹂
﹁あの女の、ですか?﹂
隠そうともせず、ライルが不快げに言葉を発した。彼がここまで感
情を露わに、しかも不機嫌になるのは珍しい事だ。
﹁私はターニャの報告から、どういう形かは分からないけれども、
彼女がトワイル国と繋がっていると思っている﹂
どのレベルで、どういう経緯か。もしかしたら⋮⋮脅されてかも知
れない、無意識で利用されているだけなのかもしれない。はたまた、
本当にむこうの尖兵なのかもされない。
550
それらは定かではないし、繋がっていることも確証がある訳ではな
い。けれども、私は当たって欲しくない疑惑を前提として今回のこ
とを考えてみた。
﹁頼みの綱のお父様が私の失態のせいで身動きを取れないうちに、
軍の解散なんていう⋮⋮トワイル国にとっては願ってもみない案が
動き始めた。こうして振り返ると、ダリル教教皇による私へのあの
攻撃も、お父様が身動きを取れないようにする為に、ユーリ様⋮⋮
もしくはその背後の者が糸を引いていたのかもしれないわね﹂
その方が、しっくりくる。教皇が強固に私の排斥を狙って動いてい
たのも、それなりの見返りが彼らから約束されていたのだろう。
私の発言に、舌打ちが聞こえてきそうな程三人は不快感を露わにし
ていた。
﹁で。ここからが問題なのだけれども⋮⋮。今回、奏上するに当た
って賛同した面子ね﹂
﹁当然、第二王子派ですよね?﹂
ライルが、私の期待通りの返しをしてくれた。
﹁それがね、それだけではないのよ。実は今回、中立派からも賛同
の声があがったの﹂
﹁中立派からも、ですか⋮⋮﹂
ライルは驚いたように呟く。隣で、ターニャとディダも険しい表情
551
を浮かべていた。
﹁ですが、彼らにとってのメリットは?﹂
﹁⋮⋮合法的に軍備を拡大すること、だと私は思ったわ﹂
﹁どういう事ですか?﹂
﹁ライルとディダは特にご存知の通り、私たち領主は一応保有する
軍事力は最低限のもの⋮⋮領土によって大体の規模が定められてい
るわ﹂
これは、かつて領主の権限がより大きかった時の名残ね。
兵力を集中するに当たって随分大きな反対があり、さりとて“国軍
”として一つの組織化を目指した結果、このような中途半端な状態
になったと。
﹁それを下に領主同士が牽制し合い、過剰な戦力を保有していると
ころは王国からも監視が入るわね﹂
そうすることで、領主の離反を防ぐというのが狙い。
﹁で。今回の軍解体の奏上と同時に出された案が、軍解体後は兵士
を分配させ、各領主の預かりとすることで軍事費を各領主が肩代わ
りし、有事の際は国に差し出すというもの。⋮⋮なんて事はない、
領主権限が最大だった頃の昔に逆戻りをするというだけだわ。それ
を中立派の貴族達も少なからず求める者がいるという事は⋮⋮﹂
﹁何かあった時の為に兵力を確保しておきたい。⋮⋮まあ、有り体
552
言えば王国を見限ってるって事?﹂
ディダが私が紡ぐはずであった言葉を続けて言った。
﹁そういう事ね。積極的に離叛したいのか、領地に引き篭もるのか
は分からないけれど﹂
﹁それで?兵力を確認して、姫様はそういう輩と一戦交えたいと?
王国の盾となり剣となり、共に戦いと思っているのか?﹂
﹁まさか。もしもの時の為よ。内憂外患な状態である今、いざとい
う時に領地を守る為に﹂
﹁ふーん⋮⋮。けどさ﹂
ディダの口調は、いつも通り飄々としながらもどこか真剣だった。
それ故なのか⋮⋮はたまた先ほどまでの奏上の内容にショックを受
けているからなのかは分からないが、いつもはその口調を咎めるラ
イルも静かだ。
﹁そのいざという時、領地に属する兵に号令を出すのは領主代行を
務めている姫様なんだろ?﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
恐らく、だが。
お父様は中央の政治にかかり切りになる。
553
仮に領主代行という地位につく私がいなければ、それ程の重みのあ
る事案の決定は指示に時間がかかったとしても、それでも王都から
直接指示を出していただろう。
幾ら今まで領地を任されていたという実績のがあるセバスでも、そ
こまでの決定の権限は彼にないからだ。
けれども、領主と同等の権限を持つ私がいれば、その必要もない。
むしろ迅速な対応が必要であろうそれに、使える人材がいて使わな
い事があるのだろうか。
554
ディダの問いかけ
3/6
弐︵前書き︶
555
ディダの問いかけ
弐
﹁姫様に、その覚悟はあるのか?﹂
そう言ったディダの表情は、いつになく真剣そのものだった。
﹁戦いになればそりゃ、相手を殺すことが求められるし、自分が傷
つき死ぬことだってある。姫様の号令一つで皆がそういう場に立た
される﹂
﹁⋮⋮⋮ディダ﹂
ライルがここにきて、咎めるように名を呼んだ。
﹁殺される覚悟を持って、相手を殺せと姫様は命じることができる
のか?﹂
﹁ディダ!!﹂
それでも尚口を閉ざさないディダに、ライルの鋭い声が響き渡る。
シン、とその一瞬場が静かになった。
﹁戦に出るならば、誰もが覚悟をしなければならない。自分の命が
失くなることも、剣を持つこの両の手が相手の血に塗れることも。
お嬢様一人が背負う必要はない﹂
ライルの言葉は、静まり返ったその場に酷く響いた。
556
その甘い響きに、一瞬揺らぎそうになる。
﹁そりゃ、俺も覚悟はしているさ。けど、姫様に必要な覚悟はそう
じゃないだろう?
姫様の号令で、戦場は如何様にもなる。直接兵を率いることはなく
ても、姫様の命が俺たちの指針だ。俺たちは自身とその背後に立つ
民達の命を背負う。けれども、姫様は戦場に立つ全ての者たちへの
責任とそして“その後”に責任を持たなければならない。⋮⋮そう
だろう?﹂
ディダの問いかけに、ライルが口を閉ざす。
﹁そして直接手を下さない、けれども命令書にサインをするならば、
姫様の手も血に塗れるも同然だ﹂
けれどもディダの言葉は正しく⋮⋮だからこそ、胸に突き刺さる。
知らぬ存ぜぬでは、いられない。
⋮⋮例え民がどう思おうが。
私の指示一つで、事はなされる。
守る為にと言いながら、戦えと命を奪えと指示をする。
私の指示一つで、本当に命のやり取りがなされる。
争いを望まない民達をも、巻き込んで。
⋮⋮もしも戦いが起きた場合、私は戦えと命じることができるのか
557
しら?
﹁⋮⋮今、すぐにその覚悟を示せとは言わないけどさ。でも、先を
見据えて備えろと指示を出すのならば、姫様も先を見据えて今から
覚悟を決めた方が良い﹂
自身に問いかけたけれども、答えはでない。
﹁そうね。⋮⋮貴方の言う通りだわ、ディダ﹂
随分と情けない声だった。
けれども、どうしようもなかった。
本当に、情けない。
ディダやライルに備えろと指示を出しながら、自分はまるで備えら
れてなかったのだから。
﹁私はまだ、貴方のその問いに答えることはできないわ。少し、時
間をちょうだい﹂
﹁分かりましたよ。じゃ、俺たちは先に備えておくんで﹂
てっきり、私の答えを聞いてからでないと動いてくれないと思った
のに。
先んじて備えてくれると言ったディダの言葉に、少し驚いた。
﹁⋮⋮ええ。宜しくね﹂
558
559
思考の渦︵前書き︶
4/6
560
思考の渦
ディダとライルが去った後、私は通常の業務に戻った。けれども、
先ほどのやり取りが頭から離れない。
﹁⋮⋮あ﹂
結果、見事に書類に書き間違えをしてしまった。
気もそぞろ、と言うのはこんな状態のことを指すのだろうな⋮⋮な
んて、とりとめもない考えが頭に浮かぶ。
一度ペンを置き、思いっきり体を伸ばした。ボキボキと乙女にある
まじき音が響く。
脳裏に浮かぶのは、先ほどのやり取り。
⋮⋮正解なんて、ない。それは、領主代行の任を受けてから幾度と
なく思ったことだ。
けれども、またもやその壁にぶち当たる。
所詮“if”⋮“もしも”の話をしているだけだと、切り捨てるこ
とは容易い。
その時に、覚悟を決めてしまえば良いのだと自身を誤魔化して主張
すれば良い話だ。
けれども、それではきっと⋮⋮ディダは、納得しない。そして、誤
561
魔化して塗り固めたメッキはきっと土壇場で剥がれ落ちる。
その時が本当に訪れた時⋮⋮恐らく、自分自身すら誤魔化せないだ
ろう。無様に取り乱す様が目に浮かぶ気すらした。
今までだって、何度も人の運命を⋮⋮イノチを、預かっている。
無能な主は、民を殺すのだから。
⋮⋮けれども、今度のは次元が違う。
人の命が直接やり取りされ、そしてその責を背負う。
これまで以上に、民達の命を背負う。
⋮⋮前世のワタシどころか今世の私ですら、そのあまりに重く大き
い責に身がすくむ様な気がした。
誰も、傷つかない世であれば良かった。
⋮⋮それはただの建前。自分が指示を出すことを恐れているだけ。
もしも、ここが本当にゲームの世界であれば⋮⋮。
誰にでも優しい世界だったのかもしれない。
誰も傷つかず、まるで物語のように汚い部分はオブラートに包まれ
て、それすらもさも美談のように語られて。
562
否、ゲームの中ですら⋮⋮アイリスという悪役がいて、それが汚い
部分を一手に引き受けていたのだ。本当に、誰にでも優しい世界な
んぞないのかもしれない。
いずれにせよ、この世界は現実だ。
でなければ、こんなにもまざまざと見せつけられることなどないは
ずだ。
様々な思惑が交差する中での、貴族達のドロドロとした争い。
物語の中では語られなかった、貧富の差による眉を顰めたくなるよ
うな光景。
その1つ1つに、様々な想いが生じて。
だからこうして、今でも思い悩んでいるのだ。
⋮⋮ターニャに、何か飲み物を持ってきてもらおう。今の状態じゃ
仕事にならない。
思考を放棄して、私はターニャを呼ぼうとした。
﹁⋮⋮あら⋮⋮﹂
そのタイミングで、書類の山が崩れた。何枚かのそれが、宙に舞う。
ああ、やってしまった⋮⋮。
折角分類されていた書類が混じってしまった。正直これを整理し直
563
す労力と時間を考えると嫌気がさす。
﹁⋮⋮ターニャ﹂
﹁はい、ここに﹂
﹁申し訳ないのだけど、サロンに行くわ。お茶を用意するように指
示を出しておいて。それから、ここの書類の整理を頼んでも良い?﹂
﹁畏まりました﹂
結局、全てを放り出して休憩へとむかった。
564
お母様の過去︵前書き︶
5/6
565
お母様の過去
サロンで、一人優雅にお茶を飲む。
いつもは美しい調度品と飾られている花々に心が和むのだけれども
⋮⋮今日に限っては、それがない。
﹁ふう⋮⋮﹂
﹁まあ、アイリスちゃん。どうしたの?そんなに沈んだ顔をして﹂
明るく柔らかな声と共に現れたのは、お母様だった。
﹁お母様⋮⋮﹂
﹁そこの貴女、私にもアイリスちゃんと同じものを﹂
そう言って、お母様は私の対面の席に腰を下ろす。
﹁休憩かしら?﹂
﹁⋮⋮⋮ええ。少し、疲れてしまったので﹂
﹁根を詰めるのは良くないわ。本当、旦那様にそっくりね﹂
クスクスと微笑む姿は、相変わらずキレイだ。
茶器を口元に持っていくその所作も美しく、我が母ながら思わず見
惚れてしまう。
566
﹁本当に、疲れているだけなのかしら?何かに思い悩んでいるよう
よ?﹂
お母様のその言葉に、私は驚いて固まる。
私ったら、そんなに分かりやすいかしら?
﹁⋮⋮アイリスちゃん。少し、外に出ましょう。中に閉じこもって
いては、悪い方にばかり考えてしまうわ﹂
そう言って、お母様は私の手を掴むとスタスタと歩き始めてしまっ
た。
﹁え?え?﹂
お母様は見た目と違い力があるらしく、私はなすがままに引かれて
いく。
後ろを振り返れば、側にいた侍女がオロオロとしているのが目に映
った。
⋮⋮お母様に手を引かれて数分。
訳の分からないまま馬車に詰め込まれて揺られる事十数分。
更に長い階段を登らされて。
私は、王都を見渡せるほどの高さの塔の上にいた。
567
﹁⋮⋮キレイ⋮⋮﹂
思わずそう呟いてしまうほど、美しい。
青い空はいつもよりも近く、太陽の光が優しく包み込む。
それに照らされて、王都もまたいつもよりも美しく映る。
﹁ええ、キレイね。アイリスちゃん﹂
﹁お母様、ここは⋮⋮﹂
﹁ここはね、かつて王都の警備の為の見張り台だったのよ。今も、
同じく軍の管轄になっているはず﹂
﹁⋮⋮私たち、よく入れましたね﹂
要するに、軍の施設って事でしょう?貴族とはいえ、一般人の私た
ちがよく入れたものだと驚いた。
﹁お父様の名前を使えば簡単よ﹂
事も無げにそう言ったお母様に、畏怖する。
﹁⋮⋮子どもの時からね、私は何かあるとここに来ていたのよ。だ
から、ここの守衛さんとは顔見知り﹂
そう言って、お母様は微笑んだ。
﹁⋮⋮お母様は昔、どのような事でお悩みになられていたんですか
568
?﹂
﹁ふふふ⋮⋮例えば、お父様と喧嘩した時だとか、武術の稽古でお
父様に負けてしまった時だとか﹂
お母様は、楽しそうにお話をする。
﹁あとは、私の夢が断たれた時もここに来たわね﹂
﹁お母様の夢、ですか⋮⋮?お母様は、一体⋮⋮﹂
お母様の夢⋮⋮想像がつかない。
はや
社交界の華ともて囃され、栄華を誇るような方。
何もかもがその手にあるようにすら、思えてしまうほど。
そんなお母様が諦めた夢が、私には分からない。
﹁昔ね、私は軍人になりたかったの﹂
思いもよらなかった回答に、私の目は点になった。
﹁⋮⋮軍人、ですか?﹂
﹁ええ。⋮⋮私はね、小さな頃から武術を習っていたの。それは、
私のお母様が野盗に命を奪われてしまったから﹂
知らなかった事実に、私はまたも驚く。
569
﹁お父様の嘆きは、大変なものだった。幾つもの勝利を収め、国の
安寧を願ったあの人が⋮⋮まさか自らの妻を守れず、守ってきた国
民によって奪われるなんて夢にも思わなかったのでしょう﹂
胸が痛かった。
歴戦の英雄。⋮⋮戦場の救世主。
そんな風にまで呼ばれるお祖父様が、まさかお祖母様を護れず、命
を奪われるなんて。
それも、守ってきた民に。
﹁私もね、お母様が亡くなられて⋮⋮武術を学び始めたの。お父様
はお母様の件があったから反対しなかったわ。⋮⋮貴女のようにマ
ナーだとか貴族の子女が学ぶようなものは一切学ばず、ただただ武
人に憧れる男の子のように﹂
まさかの発言に、またもや驚く。
お母様の会話で、今日だけで一体何回驚かされた事か⋮⋮。
だって、お母様よ?
貴婦人の鏡と呼ばれるようなお母様が、まさか小さな頃はマナーを
一切学んでいなかったなんて。
﹁⋮⋮お父様の教えが良かったのか、はたまたお父様の仰る通り才
があったのか。私は、同い年どころか年上のお父様の弟子相手でも
負け知らずだったわ。記憶にある負けは、お父様だけかしらね?﹂
570
コロコロ笑って言う言葉に、私は全く笑えない。
﹁⋮⋮いつしか、お母様は軍人になりたいと思ったの。軍人になっ
て、お父様のように国を守りたいと﹂
﹁⋮⋮でも、お祖母様の命を奪ったのも、この国の民だったのでし
ょう?それなのに、何故⋮⋮﹂
﹁そうね⋮⋮。貴女の言う通り、私はお母様の命を奪った野盗を憎
んでいたし、お母様を奪われて尚、民を守ろうとするお父様の気持
ちが全く分からなかったわ。憎しみからなのか、それとも本当に、
ただ単に自分の身を守りたかったからなのか。正直、武術を学んだ
キッカケすら分からないもの﹂
お母様の微笑みは、いつしか陰を帯びていた。
太陽に曝されているそれは、とても儚いものに感じる。
﹁だから、なのでしょうね。⋮⋮お父様が件の野盗を捕まえてしま
われた時、一度私はカラッポになってしまったの。一体、何の為に
武術をやっていたのか。その目的が見えなくなってしまって。⋮⋮
たくさん、ここで考えたわ。私は何の為に武を身につけているのか。
考えて考えて⋮⋮この光景のおかげで、私は心の整理がついたの﹂
“ほら見て”と⋮⋮そんな言葉と共に、お母様は眼下の光景を指差
す。
沢山の人。そして、美しい街並み。
571
﹁あの建物一つ一つに人がいて⋮⋮“生きているからこそ”、日々
の営みがあり、泣いて笑うことができて。なんて、美しくて尊いも
のなのだろうと⋮⋮私は、そう思ったわ﹂
﹁お母様⋮⋮﹂
﹁確かに、野盗に身を落とした輩もいる。けれども、それよりも沢
山の非力な民がいる。そして私や私の家族のように突然の悲劇に嘆
くことのないように。この光景が、いつまでも続くように。私は、
私の手を血で染めてでも守りたいと思ったわ﹂
その重い覚悟が、私の胸を突く。
﹁⋮⋮そんな、小さい頃にそのようなお覚悟を⋮⋮?﹂
﹁大切な人を失ったからかしら。これ以上失いたくないのだと、強
く思っていたからかもしれないわね﹂
﹁お母様⋮⋮﹂
﹁でもね、現実はうまくいかなかった。何故なら、軍は女人禁制。
試合で私に負けた男たちの言葉が私に現実を突きつけ、完膚なきま
でに夢を粉々に砕いたわ﹂
その男たちも、小さな男だな⋮⋮と内心過去の事だというのにムッ
としてしまった。
私でこうなのだから、当時のお母様の心情はいかほどだったことか。
572
﹁騎士になろうとは、思わなかったのですか?﹂
騎士は、僅かながら女人にも門戸が開かれている。
それは、王族の女性警護の為だ。
﹁私は、王族の方々をお守りする為に武を身につけたのではないわ。
それに、女人騎士はどちらかと言うとお飾りというのが実態よ﹂
確かに、とお母様の言葉に頷く。
女人騎士はそれぞれ武を一定以上の基準を求められているものの、
殆ど日の目を見ることはない。戦地に出ることは疎か、女人である
からと、ほぼ戦闘の矢面に立つことはないのだと。
﹁⋮⋮私は、またここに来たわ。でも、その時ばかりはどうしよう
もなかった。なにせ、見つけた目標がまたも霞となって消えてしま
ったのだから﹂
復讐相手が消えて。代わりに見つけた夢すら立ち消えて。
⋮⋮全てを手にしているとすら思ったお母様の過去に、私はそう思
っていたことを反省する。
﹁その時ね、旦那様にここで出会ったの﹂
﹁お父様ですか⋮⋮﹂
﹁ええ。当時、旦那様のお父様がやはり宰相の地位についていてね。
視察でここに来て以来、旦那様もすっかり気に入ってよく来ていた
573
そうよ﹂
⋮⋮本当に、ここの警備大丈夫かしら、と一瞬思ってしまった。
まあ、身元不明ではないから良かった⋮⋮のかしら?
﹁泣いている私のそばで、旦那様はすっかり私には無関心で景色を
眺めてて。お気に入りの場所に邪魔者が来たようで、私、恥ずかし
ながら八当たりしてしまったのよ﹂
頬を朱に染めて言うお母様に、段々馴れ初めを聞いているようで居
た堪れなくなってきてしまった。
﹁でも、その旦那様にね。諭されてしまったの﹂
﹁諭されてしまった⋮⋮ですか?﹂
﹁ええ。“諦めるのであれば、所詮その程度のものだったのだ”と﹂
泣いている女の子に追い打ちをかけるようなその言葉を、よくお父
様は言ったものだ。
それを嬉しそうに話すお母様もお母様だと思うけど。
﹁“お前は、何の為に武を磨いたのか”。そう問いかけられたわ。
“武を極め軍で名誉を得る為か、それとも民を守る為か。前者なら
思いっきり泣くと良い。後者であれば、何故泣く必要があるのか”
と⋮⋮そう仰られたわ﹂
﹁⋮⋮後者であれば、何故泣くのか⋮⋮ですか﹂
574
﹁ええ、そう。旦那様はこう言いたかったのでしょうね。“手段が
目的になっていないか”と﹂
なるほど、と納得する。
お母様の夢が、軍に入って武を極め名誉を得る為ならば、確かに完
全に夢が断たれたことになる。
けれどももし、民を守る為だと言うのであれば⋮⋮。
﹁“守るという目的ならば、一つ手段が潰えただけ。沢山のやり方
で、民の営みを支えることはできる。自分は、武ではなく文でそれ
を成そうと思っている。⋮⋮とはいえ、まだまだ父には遠く及ばな
いが”。そう、仰られていたわ。私はその言葉に衝撃を受けて⋮⋮
目が覚めたような心地がしたの。それから、旦那様にお見合いの席
であって。志を同じくする旦那様を尊敬したし、恋に落ちたの。そ
して旦那様と結ばれて⋮⋮私は、別の戦場へと足を踏み入れること
にしたの﹂
﹁別の戦場、ですか﹂
﹁ええ、そう。社交界という、全く別の戦場にね﹂
そう言って微笑む姿は、とても誇らしげで⋮⋮眩しかった。
そして、思わず笑ってしまった。
確かに戦場だわ、と。
575
﹁⋮⋮お母様。今日は連れて来てくださって、ありがとうございま
す。つきましては、もう少し⋮⋮こちらから眺めを見ても?﹂
﹁ええ、勿論﹂
576
覚悟︵前書き︶
6/6
577
覚悟
屋敷に帰った後、そのまま就寝しようと寝支度をしてベットに寝転
んだ。
けれども、妙に頭が冴えていて眠れそうにない。
⋮⋮頭の中では、お母様との会話とあの光景が浮かんでいた。
﹃⋮⋮悲劇に嘆くことのないように。この光景が、いつまでも続く
ように﹄
そう言ったお母様の表情は、とても美しいものだった。
生まれ持った容姿が、という訳ではなく⋮⋮まるで、全てを慈しむ
ような母のような姿だとすら、思えた。
翻って、私の民への想いはどのようなものだったのか。
そこまで考えて、私はこれまでの自分のしてきたことを思い浮かべ
て⋮⋮思わず、笑った。
同じじゃないか、と。
ミナさんと孤児院の子らに会った時⋮⋮ううん、それよりももっと
前、この領地を見回った時に決めたじゃないかと。
政に携わったことのないワタシ。けれども、私には力がある。それ
は、領主代行という権力という名の力。私の進む道、私の為すこと、
578
それはすべて民の生活がかかってのこと。
執務机の上にある書類は全て、その一枚一枚を捌く時にすら重責が
のしかかる。
それでも、民達の生活を守る為に。
既に、覚悟は決めていたじゃないか。
それが⋮⋮あの破門騒ぎを経て、随分と弱気になっていた。
な
な
私という存在が領政の頂にいるのは百害あって一利なしではないか
と。それならば、私の為すこと成すこと全て、悪い方向へ進んでし
まうのではないかと。
⋮⋮そんな弱気なこと、思う場合ではないというのに。
既に私は進んだ。その流れは民を巻き込み、領地をも巻き込んでい
る。
今更、覚悟がないなんて言える筈がない。
私は私の想いを叶える為に、進むだけなのだ。
目的を見失ってはならない。私が惑えば、それ即ち私に付いてきて
くれる人々も民達もまた惑うのだから。
私は為すべきことをするだけ。
そうまで考えたら、急にストンと胸のモヤモヤが消えて心が定まっ
579
たような気がした。
そしてそのまま、気持ちよく夢まどろみに委ねた。
翌日、私はまたライルとディダを呼び出した。
﹁何かご用ですか、姫様﹂
﹁ええ。貴方達に、聞いて欲しかったの。私の覚悟を﹂
私の一言に、ライルは驚いたように目を丸くして⋮⋮ディダは面白
いと言わんばかりに笑っていた。
﹁⋮⋮昨日、ディダは私に聞いたわね。覚悟はあるのかと﹂
﹁そうっすね﹂
﹁あの時動揺してしまったけれども⋮⋮考えてみれば、今更な問い
かけだったのよね﹂
私の答えに、ディダはポカン⋮⋮としていた。
﹁だって私は、既に心に決めていたのだもの。この領地を、この領
に住まう民達を守るのだと﹂
﹁⋮⋮守る為に、血を流そうともっすか?﹂
﹁“はい”であり⋮⋮“いいえ”ね﹂
私の答えに、ディダだけでなくライルも首を傾げる。
580
﹁既に私はこの肩に幾百の民の命を背負っているの。私の役目は、
この領地を守ること⋮⋮そして領民を守ること。その為に、いざと
言う時に必要ならば私は兵達を動かさせるでしょう。そして、その
責を負いましょう﹂
誰も傷つかない世界なんて、ない。そんな事、分かっていたじゃな
いか。
﹁だけどね。そんな事態が起きないよう⋮⋮最後の最後まで足掻く
わ。交渉を重ね、時を見て、情勢に流されないように。戦にどう勝
つかよりも、どう戦を起こさせないか。それをまずは第一に、私は
動いてみせる﹂
目的が手段になっていないか。
まさに、私はそうだった。
私はもし戦が起きたら、戦の責をどう背負うべきか。領主のあるべ
き姿は。そればかり考えていた。
けれども、そうじゃない。手段は決して、一つではないのだから。
先を見据え、知恵を絞り、策を打ち立てること。ペンと頭とこの口
先が、私の武器。
武力は最後のカードで、それを引く前に他のカードをきれるように。
それが、私の役割。
581
﹁だけどね⋮⋮もしも、どうしても⋮⋮それしか道がないと判断し
たら。ライル、ディダ。貴方達に、お願いするわ。流す血が、少し
でも少なくなるように。そして、その道しか残す事ができなかった
私が、その責を全て背負いましょう﹂
言い切った時、なぜかディダは笑い始めた。
⋮⋮何か、おかしな事を言ったかしら?
いいえ、真面目に話した筈なんだけれども⋮⋮。
﹁素晴らしい決意で⋮⋮物凄く甘い言葉だ﹂
﹁ディダ⋮⋮!﹂
ディダの隣のライルは憤慨している。
﹁でも、良い。そんな姫様だからこそ、守りたくなる。姫様を、姫
様の大切なものを﹂
⋮⋮合格、という事かしら?
﹁⋮⋮素直になれば良いものを﹂
ライルは呆れたように、そう言った。
﹁お嬢様。我らは貴女の盾であり、剣です。貴女の憂いは、我らが
払いましょう。貴女がそれしか残されていないとなったら⋮⋮我ら
に寄りかかり下さい。我らが必ずや、守りましょう﹂
582
ライルはそう言って、騎士の礼節を取る。
ディダも、その横で同じくそうしていた。
﹁ええ。ありがとう⋮⋮ライル、ディダ﹂
彼らもまた、私の失いたくない⋮⋮守りたいものだから、こそ。
私は私の領分で、戦いましょう。
583
覚悟︵後書き︶
この場をお借りして、報告を。
この度、角川様より書籍化することが決定しました。
発売日は、11月10日予定です。
これも、お読みいただいている皆様のおかげです。本当に、ありが
とうございます。
連載を開始してから、皆様のおかげでここまで続けることができま
した。
Web版は引き続き更新していきますので、今後とも宜しくお願い
致します。
584
とある男の憤り︵前書き︶
1/2
585
とある男の憤り
﹁これっぽっちじゃ、1回分にも満たねえよ。金のない奴はさっさ
と出てけ!!﹂
怒鳴り声と共に、室内から押し出された。
慌てて室内に戻ろうとするが、扉は固く閉ざされていて開けること
もできない。
﹁⋮⋮⋮くそっ!﹂
激情に任せて、悪態をついた。
昼間なのに薄暗い小道。⋮⋮否、太陽の光に照らされている道は、
そんな層
暗くない。けれども通りがかる人々は、どこか生気のない目をして
いて、それが陰鬱な印象を与える。
かつて、この地は豊かではないが特別貧しくもない⋮⋮
の平民達が集まるような一角だった。
笑い声が溢れる素晴らしい場所⋮⋮とまでは言わないが、それでも
少なくとも通りがかる人たちがこんな生気のない目をしていたわけ
でもない。
一体いつからだったろうか。石が坂を転げ落ちるように、どんどん
どんどんと下へと沈んでいったのは。
一体いつから陰りを見せ始めたのか。
586
この国は、腐りつつある。
上が人件費を削減したことで収入が減って、けれども税は変わらず。
そしてそういう家の消費が減って、商会を営む家の収入も減って。
商会に品物を下ろすところも売れないものだから、生産を手控えし
て。どんどんその負の連鎖は広まって。
救済策として広まった、炊き出し。けれどもありゃ、ただの貴族の
人気取りだ。
炊き出しをするぐらいなら、仕事をくれ。金をくれ。一食の飯こそ
確かに必要だが、そんな気まぐれに行われるそれに縋りついて、果
たしてそれが途絶えたら?それに、必要なのは飯だけじゃない。
馬鹿らしいと、誰かが笑っていた。
ない仕事を探さなくても、炊き出しで飯が食えるなら、それで良い
じゃないか⋮⋮と。
むしろ楽ができて良い、民の事を考える良い国だと言う始末。
けれども俺は⋮⋮まるで上の奴らに飼われているのと同じだと、思
う。
気まぐれな貴族という名の飼い主が、必要性もなく芸も何もできな
いペットをいつまでも飼うとは、到底思えない。
そんな不安定な状態であることに皆は気づいてないのか、それとも
587
見て見ぬフリをしているのか。
どんどん腐っていく。
結局、いつも民に上のやる事のシワ寄せがくるんだ。
上がヘマして、その対価を払うのは民。
とにかく、金がない。金がなければ、薬は買えない。こればかりは、
炊き出しでどうこうなるものじゃない。
﹁⋮⋮⋮そこの貴方﹂
凛、とした声が響いた。
その声の主を見てみると、フードを被ったその人物が俺の目の前に
いる。
薄暗くて中まで見えないが、恐らく声からして女。
﹁そう、貴方﹂
身なりの良い彼女が、一体俺に何の用か。
﹁貴方の名前は⋮⋮﹂
そうして告げられた名は、間違いなく俺の名前。なんで俺の名前も
知っている?
﹁間違いない?﹂
588
﹁⋮⋮ああ、そうだけど。一体、何の用だよ﹂
﹁ねえ、貴方。悔しくないの?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁全てを奪われて、こんなところに追いやられて。⋮⋮いえ、全て
ではないわね。貴方には、守るべきものがまだ残っているのだから﹂
頭の芯が冷えた。そして、それと同時に目の前の女から距離を取る。
﹁そんなに警戒しなくても良いじゃない。相手は、女ただ一人なの
に﹂
﹁見せかけには騙されるな、って嫌ってほど知っているからな。生
憎俺は、他人を信用しないことにしてるんだ。それも、お前みたい
な得体の知れない奴は特に﹂
﹁それもそうね。一度裏切られて、それでも学ばないなんて、ただ
の馬鹿だものね﹂
彼女の物言いに、ムッとする。
﹁どこでどう調べたかは知らないが、俺はあんたに用はない﹂
﹁私は、用があるのよ﹂
﹁他を当たってくれ﹂
589
俺は彼女に背を向けた。さっき追い出された店の前を通るのは癪だ
けど、このままこの女と話すよりマシだ。
少なくとも、貴方の弟さんを今よりもマシな環
﹁単刀直入に言うわ。貴方、無くしたものを取り戻したくはない?﹂
﹁⋮⋮興味ない﹂
﹁そうかしら?
境に置けると思うけど?﹂
その言葉に、足を止めた。
﹁⋮⋮俺に何を求める?﹂
﹁全てを。貴方の名⋮⋮存在、その全て﹂
﹁俺に尻尾を振れってか﹂
﹁私は別にペットを必要とはしていないわ。私が貴方に求めること
は私の手となり足となり働いてもらうこと﹂
﹁はっ⋮⋮何をやらされるんだか﹂
﹁別に変な事をさせるつもりはないわよ?私は貴方の失ったものを
取り戻す手助けをする。貴方は取り戻したその地位に恥じない仕事
をする。ただ、それだけ﹂
﹁それが信用できないっつうんだよ。そんなウマイ話があるもんか﹂
﹁⋮⋮邪魔なのよ。私にとっても、あの男は﹂
590
そう言った彼女の声は、先ほどまでの柔和な声色から一段も二段も
下がったそれだった。
﹁ぶんぶん、蠅のようにね。私の商会にちょっかいをかけては、耳
障りな羽音をたてて周りをつきまとうの。五月蝿くて煩わしくて仕
方ないわ。だから、私としてもあの男には退場いただきたいのよ﹂
バサリ、彼女はフードを取り払った。銀色の髪が、月の光を浴びて
輝いている。
その容姿は、今まで見た事もないような美しさ。
なんで、こんな女がここにいる⋮⋮?
﹁⋮⋮私の名前は、アイリス。アズータ商会の会頭﹂
彼女が続けて発した言葉に、益々その疑問は浮かんだ。
アズータ商会といえば、今王都でも一二を争う大商会じゃないか。
その会頭が⋮⋮こんな、若い女なのか?
﹁貴方が私の話に乗ろうが乗らまいが、私は既に事を進めている。
貴方がいなくても、別にそれはそれでやりようはある。⋮⋮けれど
も、貴方が私の手足となって働いてくれた方が、私としてもやり易
い。これ以上仕事は増やしたくないし﹂
そう言って、彼女は苦笑いを浮かべる。人畜無害そうなその笑みに、
一瞬心が僅かに弛む。
591
けれども、次の瞬間。
﹁だからこれは、取引よ。貴方は⋮⋮利用しなさい。私の名と力を。
私も、貴方を利用させてもらうから。貴方の名を、力を。⋮⋮どう
する?このまま、尻尾を巻いて逃げても良いけど﹂
そう言って、彼女はさっきまでの笑みとは違うそれを浮かべる。
ゾクリと、した。
挑発的で、それでいて目は笑っていない冷たいそれ。
ここで逃げたら負けだ⋮⋮とか、負けてられるか、と。そう、奮い
立たされたような気がした。
﹁⋮⋮俺は、俺の意に沿わない仕事はしないぞ﹂
﹁それで結構。交渉成立ね。⋮⋮ついてきなさい﹂
592
とある男の戸惑い︵前書き︶
2/2
593
とある男の戸惑い
警戒をとくことはしなかったが、とりあえず彼女の後についていく。
﹁⋮⋮ターニャ﹂
そう思うのが先か後か、彼女の前にいつの間
ふと、彼女は誰もいないところで名を呼んだ。
誰もいないぞ⋮⋮?
にか別の女が立っていた。
﹁お呼びですか、お嬢様﹂
﹁ええ。すぐに医者の手配をお願い﹂
﹁既に準備は整っております。後は、お嬢様の指示を待つばかりで
す﹂
﹁まあ、流石ターニャ。⋮⋮それで、貴方はどうする?﹂
いきなり話をふられて、困惑するより他ない。
﹁どうするって⋮⋮﹂
﹁貴方の弟さんのところへ医者を連れていける準備は、既に整って
いるわ。後は貴方が私を信じて弟さんのところへターニャと医者を
連れて行くか、それとも先に私の屋敷に来るか選ぶだけ﹂
一瞬、気持ちが揺れた。正直、今すぐにでも連れて行きたい。
594
⋮⋮けれども。
﹁⋮⋮お前の屋敷に行く﹂
俺は、後者を選択した。俺のその言葉に、アイリスと名乗った彼女
は目を細める。
﹁まあ、どうして?﹂
﹁さっきも言ったように、得体の知れない奴をいきなり信用するほ
ど、俺の頭は湧いちゃいない。お前の屋敷を見て、お前との話をし
てからでないと、弟を安心して任せることはできない﹂
正直な気持ちを述べると、彼女は何処か嬉しそうに微笑んだ。
﹁正論ね。⋮⋮気が変わったら、いつでも言いなさい。ああ、料金
の方は気にしなくて良いわよ。貴方に対する前払いだから﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
そうして、再び歩き始めた。少し歩き、大通りまで到着すると、そ
こに停めてあった馬車に乗り込んだ。
乗り合いの馬車ではなく、自身の持ち物らしきそれ。しかも、地味
な意匠であるが、見る人が見れば一級品と分かるものだ。
⋮⋮アズータ商会の会頭というのも、あながち嘘ではないのかもし
れない。
595
そんな風に考えていたら、彼女に再び名を呼ばれ我に返った。
ええい、ままよ⋮⋮!
覚悟を決めて、俺はその馬車に乗り込んだ。
互いに無言のまま、数十分。随分遠くまで来たと思ったら、いつの
間にか貴族の屋敷が立ち並ぶ区域まで来ていたらしい。
馬車は、その区域の中でも取り分け豪奢な建物に入っていく。
⋮⋮は?と、唖然としているうちにも馬車はどんどん進んでいった。
﹁ようこそ、アルメニア公爵家へ﹂
﹁⋮⋮こうしゃく、さま?﹂
彼女の言葉に、再び衝撃を受ける。
公爵なんて、一生関わる事なんてないと思っていたのに。まさか、
こんなにも唐突に遭遇するものなのか?
﹁さ、早く中に入って﹂
促されて、中に入る。
どう進んだのか、まるで迷路のように左に曲がっては右に曲がりと
繰り返した。
断言できるが、帰り一人では玄関にたどり着けないだろう。まず間
596
違いなく、屋敷の中で迷う。
“あいつ”に奪われるまで、わりかし裕福な生活を送っていたと自
信を持っていえる俺でも、こんな屋敷見たこともない。
やっとのことでついたのは、応接室らしき部屋。
もう何がきても驚くまい、そう思いつつ示された席に座った。
﹁⋮⋮落ち着いたかしら?﹂
﹁そう見える⋮⋮いえ、見えますか?﹂
思い起こせば俺、ずっと丁寧な言葉なんて使ってなかったな。それ
が元で、罪に問われたりしないよな?⋮⋮まあ、そうなったらその
時はその時だ。
恐らく、コイツは俺に何かをさせたいようだから、すぐに罪を問う
こともないだろう。
﹁良いわよ、今は無理に口調を変えなくても。後々身につけて貰え
れば良いから﹂
そう思ってたのに。まさか、咎められないどころか、それを良しと
されるとは。
貴族と言えば、俺ら平民を人とは思わない⋮⋮まるで虫けらのよう
に思っていると思っていた。
だからこそ、対等な口調なんて以ての外だと思っていたんだけどな。
597
﹁はあ⋮⋮﹂
その証拠に彼女は良しとしているが、その後ろに控えている侍女ら
しき女性は、ずっと俺のことを睨んでいる。
﹁⋮⋮そうでしょう?ターニャ﹂
けれども、それを察したらしい彼女は、その侍女に釘を刺した。
主人に言われ、仕方ないと諦めたのかその侍女は溜息を一つ吐く。
﹁⋮⋮ええ、仰る通りです﹂
﹁さて、単刀直入に。貴方にやってもらいたいことは⋮⋮今は特に
ないわ。あえて言うなら、働いた後のことを考えて礼儀作法を身に
つけてもらうぐらいかしら?﹂
﹁⋮⋮⋮は?﹂
﹁貴方には、私の手となり足となって商会で働いて貰うわ。それだ
けの恩を感じてもらう為に、貴方の復讐劇に付き合うし、貴方の弟
さんの面倒も見るの。破格でしょう?﹂
﹁ああ。あんまりにも美味すぎて、何かあるんじゃねえかと思うぐ
らいだ﹂
﹁ふふふ⋮⋮私が望むのは、貴方が商会で働き始めたら、ウチの商
会に役立ってもらうこと。指示はその時々で出すわ﹂
598
﹁その指示が、恐ろしいんだけど﹂
上手い話には裏がある。⋮⋮一体、どんな指示を出されることやら。
﹁⋮⋮私は、アズータ商会の会頭であり、アルメニア公爵家の第一
子にして、アルメニア公爵領の領主代行を務めているわ﹂
唐突に自己紹介をされて、たじろぐ。もう何を言われても驚かない
と思ったが、その内容に俺は再び驚いた。
よくよく考えれば、この場にいるってことはアルメニア公爵家の縁
者というのは分かる。
けれどもまさか直系で、しかも女だてら領主を治めているなんてな。
それにアルメニア公爵令嬢といえば、この前教会からの破門騒動で
随分騒ぎになった女性だ。
﹁その後の失うものを考えたら、私は変なことはできないの。宰相
の地位につく父のためにもというのもあるけれども、何より領民に
顔向けできないことはしないわ。⋮⋮それに、もし何か後ろ暗いこ
とをするならば、貴方を使うよりも、もっとそうした事に手慣れた
人物を雇うわ﹂
前半はどうだか⋮と思ったが、後半は確かにと若干納得した。
確かに、俺なんかよりももっとそうした事に長けているような人材
をすぐにでも雇えるだろう。
﹁⋮⋮貴方、気づいたのでしょう?私が、あの破門で騒ぎになった
599
人物だということを﹂
そう問われたが、答えにくい。言葉に詰まった俺に、彼女は笑った。
﹁その反応で、バレバレよ。⋮⋮私が、少しでも動いたら、ああし
て揚げ足を取ろうとしてくるのよ。貴族のこの身は、動きづらい。
だからこそ、貴方に頼りたいのよ﹂
そこから、彼女は俺を商会に雇った後にして欲しいことを大まかに
教えてくれた。
なるほど、俺の名と力を利用したいというのはそういうことか、と
妙に納得する。
﹁⋮⋮さて、貴方はこの話にのる?のるのならば、これから手配し
た医者をむかわせるわ﹂
そうして、俺は彼女が持ちかけた取引に了承した。
600
とある男の戸惑い︵後書き︶
たくさんのコメント、本当にありがとうございます。
質問がありましたが、ダイジェスト化はしません。引き続きweb
版も宜しくお願い致します。
601
心の扉︵前書き︶
1/3
602
心の扉
﹁⋮⋮役に立つのですかね?﹂
彼がどんな人物だろうと、彼を手中に収められればそれ
彼が帰った後、ターニャは困惑しつつそう呟いた。
﹁さあ?
で私の目的はひとまず達したことになる。後は、明日の交渉を成功
させるだけ﹂
私は、彼という人物を思い出して笑う。
﹁⋮⋮でも、時が経てば彼も成長するんじゃないかしら﹂
﹁何を根拠に⋮⋮﹂
﹁勘よ、勘﹂
私の答えに、ターニャは苦虫を潰したような表情を浮かべていた。
そんな彼女の反応に、私は笑みを引っ込める。
﹁彼、弟さんの話の時に少し不満をもらしていたでしょう?戯れに
話しを振れば、彼の答えは意外なものばかりだった。国庫のことも、
金の廻りも。街を歩けば、エド様とユーリ様を讃えるような声が多
いというのに。⋮⋮飼われてる、なんて面白い表現ね﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮まあ、何より。簡単に懐柔されないところが気に入ったわ﹂
603
私が笑ってそう言えば、ターニャは何を言っているんだと言わんば
かりに首を傾げた。
﹁きっと、この先⋮⋮彼は私の押し付けた恩に見合った仕事をして
くれるでしょう。でも、それだけ。彼はきっと、仕事の付き合いだ
と割り切って心を許すことはない﹂
いわゆる、ビジネスライク。彼は対価に見合う仕事をしても、それ
以上はない。
﹁彼は、誰に対しても何に対しても裏切られる可能性を念頭に置い
ている。本当に裏切られた時のために。⋮一度裏切られているから
こそ、ね。そういうところが、自分と重なったのかもしれないわ﹂
言ってて、少し悲しくなったけれども。
でも、これは私の本音だ。
彼にもまた、幾重にも重い扉が心にあって。どこまでなら開けられ
る、どこまでなら心を見せることができると、常に測ってる。
私と、同じ。
だからこそ、彼が警戒心を露わにしていたことに不快感を感じるこ
とはなかったし、むしろそれが当たり前だとすんなり受け入れるこ
とができた。
共感すら、できた。
604
⋮⋮まあ、これから先商会で働くのならば、もう少し腹芸というの
も覚えて貰いたいなあ⋮⋮と思うほど感情が表に出ていたのはいた
だけなかったが。
けれども、そうして正面から感情をぶつけてきてくれたからこそ、
気に入ったというのもあるかもしれない。
同じく商業ギルドにいたモネダはそんな可愛らしいことしないし、
セイだって最近は何を考えてるんだか読めないことが多々あるし。
ターニャは私の言葉に少し悲しそうに、目を伏せていた。
少しそんな空気に気まずさを感じつつ、執務室にむかうべく立ち上
がった。
ターニャはその物音に我に返ったらしく、私の後を追随してくる。
書斎について、私は執務椅子に座った。
﹁⋮⋮ターニャ、何か温かい飲み物を﹂
﹁畏まりました﹂
ターニャがお茶を準備している間に、私は積まれた書類をパラパラ
と眺める。
明日は件の商会の代表との話し合いをする日だし、今日は少し仕事
をセーブしよう。
遅くまでやって倒れてしまえば、元も子もないし。
605
めく
ふと、書類を捲る手を止めた。
それは、“商業ギルドの取り決め”という資料。
商会の開業は、その代表者が商業ギルドに届けを出し、それが受理
されることで店を開くことができる。
その許可書がある限り、店を続けることができる。
仮に商会の会頭が亡くなった場合、通常は許可書も財産の一つとし
て子に相続される。
ただし、子が幼く商会の勤務経験がない場合、後見人をたてて商会
を継続することは可能。
その場合、後見人は商会の切り盛りをしつつ子に商会の経験を積ま
せ、いずれは子に全権を渡すというのが前提⋮⋮なのだけれども。
ただ⋮⋮子が商会を継ぐという申請を商会ギルドに提出しなかった
場合、それもまた同じよう受け継ぐ直系尊属がいないものとみなさ
れて、その後見人に自動的に商会の許可書がいくことになる。
あと他者に許可書が渡るのは、代表者が書式を整えて正式に委譲す
るか、もしくは直系尊属がいなかったときだけ。
すなわ
逆に許可書を誰にも委譲せず、かつ直系尊属もいない場合、それは
即ち店を畳むということ。
⋮⋮要約すると、そんな内容の書類。
606
﹁それにしても、更新が10年以上されていなって⋮⋮それも凄い
わよね﹂
私が誰に言うでもなく、そう呟いた。
商業ギルドという同じ組織でも、領ごとで取り決めには差異がある。
前述した開業の取り決めについて例を挙げるのであれば、許可書の
取り扱いまでは同じ。
ただ、許可書の更新というのがアルメニア公爵領では毎年必要とな
っている。
誰が代表者なのか、そして代表者には取り扱ってる商品に変わりな
いか等々、軽く問答をする。
それは新しくできた税金の申告の時に一緒にやっていて、納税・問
答この両方を行わないと許可書は更新できない。
それから、違法なものを取り扱ってないか、届け出通りの商いをし
ているのか、抜き打ち検査をしたり。
ところが、王都の商業ギルドの場合は、代表者が変わったタイミン
グのみその申告をして許可書を書き換えて終わり。
10年・20年更新がないのがザラにある。
⋮⋮まあ、王都はそれだけ商会の数があるから仕方ないと言えば仕
方ないのかもしれないが。
607
﹁失礼致します﹂
ターニャが私の目の前に、要望通り温かい飲み物を置いた。
﹁⋮⋮そういえば、ターニャ。今回も、よく働いてくれたわね。本
当に、ありがとう﹂
ターニャの情報収集能力が凄い、ということを改めてここ2・3日
で実感した。
本当に、ターニャは何を目指しているのか⋮⋮甚だ疑問だ。
﹁⋮⋮いえ、当然のことをしたまでです﹂
労いの言葉に、ターニャは淡々と答える。
けれども、その口元は僅かに弧を描いていた。
﹁ターニャがここまで頑張ってくれたのだし。私も明日の交渉を頑
張らなくてはね﹂
﹁お嬢様なら、必ず成し遂げられます﹂
﹁ふふふ⋮⋮ありがとう﹂
608
化かし合い︵前書き︶
2/3
609
化かし合い
さて、今日は件の商会会頭との会合の日。
よし⋮⋮と気合を入れ直してから、馬車に乗り込んだ。
これからむかう商会は、私の破門騒動の時をついて、従業員の面々
を引き抜いた商会の一つ。
前にウチのお店の中で騒いだ男⋮⋮ダンメもいたところだ。
王都の中でも栄えている土地の一角にあるその建物の前で、馬車は
停まる。
店を少し覗いてみたが、中にいる客は少なく閑散とした様子だった。
セイが店の者に私が到着したことを伝え、すぐさま応接室のような
ところに通される。
⋮⋮なんだか、ちぐはぐな雰囲気。
それが、応接室を見た時に初めに思ったことだった。
沢山の調度品。重厚な⋮⋮ウチの領の商業ギルドの応接室にあるよ
うなそれらと同じ雰囲気を持つモノもあれば、一方で、目がチカチ
カするのではないかと思うような派手な調度品や美術品も置かれて
いた。
まるで気の合わない2人がそれぞれ好き勝手した結果、このような
610
⋮⋮全体的に見て、ちぐはぐとしたものになってしまったようでは
ないか。
それと、幾つか不自然に調度品と調度品の間にある何もない空間が、
また更にちぐはぐな印象を与える。
恐らく、以前は何か置いてあったのだろう。
その証拠に、壁の不自然に空いた一角にはかつて絵画が掛けられて
いたのであろう跡が見受けられた。
⋮⋮模様替え中?いやいや、まさか。そんな模様替えの途中で客を
部屋に入れるようなことはしないでしょ。
⋮⋮売ったのかしら?その可能性の方が高いわね。
そんな考察をしていたら、会頭が現れた。
派手。それが、第一印象だった。金糸をこれでも使っている衣服。
全体的にレースが多く、男性の服ながら何だか重そうだ。
﹁初めまして。私の名前は、ヴルド・ランカム。この商会の会頭を
勤めています﹂
﹁初めまして。アズータ商会会頭のアイリスです。以後、お見知り
置きを﹂
互いに柔かな笑みで会話がスタートする。
﹁それにしても、話題のアズータ商会の会頭の方にお会いできると
611
は﹂
﹁私の方こそ。王都で一・二を争う商会の会頭にお会いできたので
すから、またとない幸運ですわ﹂
ほほほ、と扇で口元を隠しながら笑う。この笑い方って、何だか物
語の中にある悪役令嬢のそれよね、と内心自分自身でツッコミなが
ら。
ピクリと、相手のヴルドは眉を僅かに顰めた。
はて、早速私は彼の神経を逆なでることができたのかしら?揺さぶ
りは、もう少し和やかに話してからにするつもりだったのだけれど
も。
﹁⋮⋮王都で正しく一・二を争う商会であるアズータ商会の会頭の
貴女が、何を仰いますか﹂
あら、早速突っついて良いのかしら。
﹁まああ⋮⋮過分なお言葉、痛み入りますわ。けれども、所詮私ど
もはアルメニア公爵領から参りました新参者ですから。貴方様の商
会のように、歴史がある訳ではありません。それに、貴方様の商会
はエドワード王子様の覚えも目出度く⋮⋮。本当に、羨ましい限り
ですわ﹂
そう言った瞬間、ヴルドはすぐに笑みを浮かべる。立て直したか。
﹁⋮⋮そんな、恐れ多い。ですが、そうですね。エドワード様は私
の商会を重用してくださいまして。とても有り難いことだと思って
612
おります﹂
ああ⋮⋮。エドワード様を盾にするのか。この商会の盾であり鉾は、
正しくそれ。私が会頭である故の、アズータ商会のウィークポイン
トをよく理解した上での武器。
﹁⋮⋮ところで、このお部屋に置かれている美術品はとても素晴ら
しいものでございますわね﹂
私はここで話題を切り替える。まどろっこしいが、自分から望むも
のを早々に提示するのは具の骨頂。相手に足元を見られてしまう。
例え資本でこちらが優勢に立っていても、そんなこと関係ない。向
こうは、エド様との繋がりを盾にして、少しでも有利に進めようと
目論んでいる。
一か零かの勝負ではないこの場で、私も私の望む形で話を纏める
には、少しでも気を抜いてはならない。
﹁⋮⋮そう言っていただけて、嬉しく思います﹂
向こうも、いったん攻勢の手を緩めた。
﹁ええ。どれも素晴らしくて、ついつい魅入ってしまいましたわ。
“全てが”揃っていたら、さぞや壮観でしたでしょう﹂
またもや、ピクリと彼は反応を示した。不自然な間がある理由につ
いて、私の考えは当たりかしら?
﹁⋮⋮丁度、模様替え中でしたので。不完全な部屋をお見せしてし
613
まい、誠に恥ずかしい限りです﹂
そう言った彼の顔は鋭く、僅かに気を張っている様子が見受けられ
た。これがウチの領の商会の会頭達だったら、そんな動揺も見せず
に自然に笑って場を和ませるような一言でも添えたでしょうに。
あの人達との交渉を重ねたおかげで、少しはこういう場のスキルも
上がったのだから感謝はしているけど⋮⋮全く、こうして彼と対峙
していると、彼らがどれだけ狸なのかよく分かるわ。今後はもう少
し手加減して欲しいと、切に願う。
﹁まあ、そうでしたの。きっと、全てが揃ったらそれはそれはとて
も素晴らしい部屋になるのでしょうね。次はあちらに何を飾るのか
しら?﹂
﹁⋮⋮⋮まだ、思案中でして﹂
﹁左様ですか⋮⋮不躾に質問を繰り返してしまいまして、大変失礼
致しましたわ。ルドルフ侯爵様とも仲の宜しいヴルド様ですもの。
当代随一の風流人であらせられるルドルフ様のツテで、きっと素晴
らしいものをお手にされるのでしょうね﹂
そう言った瞬間、目の前の彼から仮面が剥がれ落ちた。
614
商談︵前書き︶
3/3
615
商談
ルドルフ侯爵は第二王子派の貴族の一つ。
何を思ったのか、以前にあの建国記念祝賀パーティーに出席した後
で、私に自身が主催するパーティーの招待状を寄越してきた家の一
つ。
第二王子派だからとお母さま共々断ったのは、記憶に新しい。
⋮⋮さて、ここで一つ。何故、彼はルドルフ侯爵の名にここまで反
応を示しているのか。
その答えは単純。それは、ルドルフ侯爵との繋がりを彼は隠してお
きたかったからだ。
﹁⋮⋮失礼ですが、何故ルドルフ侯爵様のお名前を?﹂
﹁とても、仲が宜しいのでしょう?“エドワード様へのお願い”を
聞いて貰えるほどには﹂
﹁⋮⋮⋮っ!﹂
ポカン、と衝撃を受けたようにヴルドは口を開ける。ああ、面白い
ほどに反応をしてくれてるわ。
私はニマニマとした笑みを扇子で隠しながら、その様をただ黙って
見ていた。
616
﹁⋮⋮そんな事より、本題に移りましょう﹂
﹁本題、ですか?﹂
﹁ええ、そうです。今回、私どもののベンネル商会とアズータ商会
の経営協力の件についてです﹂
﹁確か私どもは王都とその他幾つかベンネル商会が保有している場
所と人材を譲り受ける代わりに、資金の提供をする⋮⋮でしたか﹂
﹁ええ、そうです﹂
﹁⋮⋮残念ですが、それでは承諾しかねますわ﹂
﹁⋮⋮なっ!﹂
﹁人手不足なのも、場所を欲しているのも確かにそうですけれども。
けれども、それは別に他から補えば良いこと。⋮⋮そちらの提示す
る資金を払ってまで欲しいとは思いませんもの﹂
﹁そうかもしれません。ただ⋮⋮お言葉ですが、アイリス様。アズ
ータ商会は、エドワード王子への繋がりが欲しいのだと見受けられ
ましたが?﹂
ほうら、来た。エドワード様との繋がりを盾と矛にして、有利な条
件を引っ張り出そうと。
でも、向こうの条件を飲むつもりはない。
だって向こうの提示した金額は、ありえないほど高い。本当に、よ
617
くこれだけ借金をこさえたわね⋮⋮と思ったぐらいだ。
最初に金額を見た時は、足元みて吹っかけてきてるのかな、と思っ
たわよ。
﹁ええ、ヴルド様が仰られる通り、私どもアズータ商会は王都での
足がかりとしてエドワード様へのつながりが欲しいですわ。⋮⋮で
すが、よくよく考えたら別にそこまで資金を出さずとも、それこそ
他に打診をすれば良い訳ですし。お宅の商会が、ルドルフ侯爵にも
打診をしたように﹂
﹁何故、それを⋮⋮!﹂
もう、彼は取り繕うこともしなかった。驚きを、そのまま口にする。
﹁ふふふ、我が商会の耳はとても大きいのですよ。幾ら断られたか
らといって、従業員にそれで当り散らしたり、酒場で愚痴を言って
しまえば、すぐに広まってしまうものです。もう少し、周りに気を
配ることをお勧めしますわ﹂
ターニャを労った理由は、コレ。本当に彼女の情報収集能力はすご
いわ。
﹁くっ⋮⋮⋮!﹂
﹁話がそれてしまいましたわね。せっかくルドルフ侯爵に“お願い
”をしてまでエドワード様とつなぎをつけ、アズータ商会から人員
を得たというのに、今では商会の内状は火の車。最早、風前の灯火
⋮⋮⋮今日の今日私が断ればもう明日にでも店をたたまなければな
りませんね﹂
618
“お願い”は、エド様に目をかけて貰うということ。つまりは、ウ
チから人員を引き抜くために、エド様の庇護下に置いて貰うという
ことだった。
そうなってしまえば、エド様⋮⋮というか王族とコトを構えたくな
い私は、文句を言い辛くもなるわよね。
まあ⋮⋮コトを構えたくないと思うのは私に限ったことではなく、
他の商いをする者たちも同じ。
つまりは、私だけでなく商業ギルドからの不満も抑えることができ
る訳だから、怖いものはない。
通常、あんなにあからさまに従業員を引き抜けば、こちらとて商業
ギルドを通して苦言を呈することだってできる筈だった。
けれどもそれができなかったのは、先の破門騒ぎの他に、王族の庇
護下にあったせい。
そのせいで、こちらの文句は全て握り潰されてしまったのだもの。
そりゃ、私には知られたくないわけだ。
閑話休題。
ルドルフ侯爵にとっては良い取引だったでしょう。商人とエド様の
仲介をするだけで、懐が潤うのだから。
そうして“利”で繋がった間柄なのだから、ここまで商会の経営が
619
悪くなってしまえば、切り捨てるのも当然と言えば当然だろう。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
目の前の彼はそうと分かるぐらいに狼狽していた。
﹁⋮⋮このままいけば、貴方も借金で首が回らなくなる。私との取
引を止めて商会と心中するか、それとも商会と借金共に綺麗さっぱ
り縁を切って新しい状態でスタートするか。そのどちらか、です﹂
憎々しげに私を見る。まあ、仕方のないことだけれども。
彼にとって私は、救いではなく全てを奪う者なのだから。
何度か口を開きかけては止め、開きかけては止め⋮⋮けれども、ふ
いに何かに気がついたかのような表情を浮かべて忙しなかった彼の
表情は落ち着いた。
⋮⋮何に、気づいたのか。
﹁⋮⋮つまり、貴女の条件は私の退任でよろしいでしょうか﹂
﹁ええ。この商会に資金を提供する代わりに、貴方はこの商会と金
輪際関わりを持たない。それが、私の条件ですわ﹂
ふう、とヴルドは溜息を吐いて微笑む。まるで、心の整理がついた
とでも言うかのような清々しい表情。
けれどもそれを見て、私が思ったことは⋮⋮。
620
白々しい、その一言に尽きる。
本当に、アルメニア領の商人たちの面の皮一枚でも剥いでつけた方
が良いのではないかと思うぐらいだ。
その清々しい笑みにそぐわない、爛々とした目の輝き。
この段階でも、自分の利する方へ利する方へいう計算を行っている
ということは目に見えている。
﹁⋮⋮分かりました。では、その条件をのみましょう﹂
621
商談︵後書き︶
温かいお言葉、本当にありがとうございます。
書籍は大幅な加筆と、アニメイト様ととらのあな様用にSSを書き
下ろしました。見かけた際には、是非お手にとってみてください。
11/11加筆
申し訳ございません。
現在販売中の書籍ですが、一部誤植がございます。
最初の挿絵のライルとディダの名前が逆になってしまっているとい
うものです。
重版された際には、そこは修正されるとのことでしたが⋮⋮。
取り急ぎ、こちらでご報告させていただきました。また、次話をア
ップする時にこの文を載せさせていただきますが、取り急ぎこちら
でご報告させていただきました。
既にご購入いただいた方、大変申し訳ございません。
622
決着︵前書き︶
1/2
623
決着
そうして、彼はこちらが準備した書面を入念に確認してからサイン
をし印を押した。
﹁⋮⋮確かに﹂
私も書類を確認し、受け取る。そして、セイに手渡した。後はセイ
が、写しを商業ギルドに提出するだけか。
﹁⋮⋮ではヴルド様、今日はこれにてお開きにさせていただきまし
ょう。時間は惜しいものですから。私にとっても、貴方にとっても﹂
﹁これはこれは、随分性急なことで。まあ⋮⋮貴女は商会の会頭と
して忙しい身でございましょうが、何せ私は今この時を以って仕事
を退いた身。惜しむ時間など、ありましょうか﹂
憎まれ口を叩きながら、けれども彼は笑っていた。
そんな彼に、私はそうと分かるように首を傾げる。
﹁あら⋮⋮私などより、貴方の方が忙しいでしょう?仕事を退いた
身ならば、業務の引き継ぎがあるでしょうから﹂
﹁そんな、引き継ぐ仕事などありませんから﹂
﹁はあ、そうですの。⋮⋮ああ、でも。荷造りは宜しいのでしょう
か?商会にある私有物は、一週間以内に荷物を纏めて持ち出すよう
にして下さいね﹂
624
彼は、ふふん⋮⋮と嘲笑とも言える笑みを浮かべる。
﹁別に、必要ないのでは?先ほど私が書類にサインと印を押した時
点で、この商会も畳むことが決まりました。商会が無くなった時点
で、けれども借財も貴女が清算してくださることになったこの状況
では、商会名義の土地や建物も私の個人のものとなります。故に、
私有物を退去させる理由などありませんよ﹂
ククク⋮⋮と彼は笑い声つきで、わざわざ丁寧に説明をしてくれた。
﹁⋮⋮どういう事です?確かに貴方は先ほど商会を退く旨を記した
書類にサインしていただきましたが⋮⋮商会を畳むとは一言も書い
てなかった筈ですよ﹂
それに対して、私は思ったよりも低い声で返答していた。
﹁どうもこうも⋮⋮。私がサインをした書類は、あくまで私の退任
についてで、許可書については一切触れていないものでした。私は
このまま許可書を誰にも譲るつもりはありませんから、必然、店は
畳まないといけないことになりますなあ⋮⋮﹂
彼の言葉に、私の身体は震えた。その様を見てか、彼の瞳には優越
感が写る。
そしてそれを見て、ますます私の身体は震えた。
ああ、もうダメ⋮⋮。
吹き出す笑いを堪えきれず、扇で口元を慌てて隠した。
625
﹁⋮⋮何がおかしいのです?﹂
彼は不機嫌さを隠しもせずに問いかけてくる。
﹁丁寧なご説明、どうもありがとうございます。ですが⋮⋮そのお
話は少し先走り過ぎでは?﹂
﹁どういう意味でしょう﹂
﹁どういう意味も何も⋮⋮だって、この商会は“貴方の持ち物”で
はないでしょう?﹂
ふふふ⋮⋮と、笑いが止まらなくて、言葉を紡ぐのも一苦労だ。
﹁10年前⋮⋮この商会の当時の会頭とその奥様が馬車の事故で急
逝された後、商会を仕切りだしたのが貴方。当時跡取りである息子
が未成年だったことを良いことに、商会での地盤を固め実権を握り
⋮⋮そして、息子を息子側についた関係者共々商会から追い出した。
違いまして?﹂
私の問いに、彼は驚いたように顔を上げ、私を見つめる。
﹁何故、それを⋮⋮!﹂
﹁何故って、それは商業ギルドで確認すればすぐ分かる事でしてよ
?﹂
﹁だが、分かったところで当人が届けを出さなければ意味を無さな
い筈﹂
626
﹁ふふふ。言ったでしょう?我が商会には大きな耳があると。既に
彼の居場所を突き止め、話をまとめたわ。彼はここを継ぐと、先ほ
ど商会で許可書の更新も行ったの。あとは、貴方が退任をする旨を
認めたこの書類を提出するだけで⋮⋮この商会は、彼のものになる﹂
﹁くっ⋮⋮!﹂
﹁残念でしたね。商会が潰えれば、商会の物は貴方個人の所有物と
なると計算されたのでしょうが﹂
じっと彼を見下ろせば、彼の顔色は血の気が失せて真っ青になって
いた。身体は、そうと分かるほど震えている。
﹁⋮⋮ふざけるな⋮⋮﹂
ぼそり、囁くように呟いた。けれどもあまりにも小さな声だったた
め、私には言葉が拾えない。
﹁ふざけるな、ふざけるな⋮⋮!お前に何の権利があって、そんな
⋮⋮﹂
どんどんヒートアップしていくにつれて、徐々に彼の言葉が聞こえ
てくるようになった。
叫ぶような、そんな声。部屋の外まで聞こえていたのだろう。なん
だなんだ、と扉を開けて人が様子を見に来ていた。
けれどもヴルドはそれに気づいていないのか、はたまたそんな事に
構っていられない精神状態なのか、彷徨っていた視線は、セイの方
627
に固定されていた。
そして、セイの契約書を奪い取ろうとして彼につかみかかる。
それを止めたのは、物陰に隠れていたしターニャだった。
ターニャは、彼の手を取るとそのまま手を後ろで組ませて捕まえる。
﹁ぐっ⋮⋮⋮!﹂
﹁そこまでだ、ヴルド・ランカム﹂
人混みを縫うようにして、男が一人入ってきた。彼を見て、ヴルド
は目を見開く。
﹁何故、カリムがここに⋮⋮﹂
﹁語るに落ちたなあ、ヴルドさん。10年ぶりだってのに、よく俺
の名を言えたもんだ。そんなに俺は、親父に似てるかあ?﹂
つい、といった感じで漏らしたその言葉に、彼は楽しそうに言葉を
返した。
﹁⋮⋮あ⋮⋮﹂
ヴルドは呆然と、彼⋮⋮カリムを見ている。
﹁10年前⋮⋮親父とお袋をいっぺんに亡くした俺に、“自分に全
て任せてくれ”と言って、よくも商会どころか家からも追い出して
くれたな。おかげでこの10年、死に物狂いで生きてきたぜえ﹂
628
ニコニコと笑っているけれども、カリムの瞳は全くもって笑ってい
ない。むしろ、今すぐにでも力に訴えそうな雰囲気すら醸し出して
いる。
﹁⋮⋮カリム﹂
私が制止の意味を込めて名を呼ぶと、カリムは分かっているとでも
いうかのように笑みを向け、一瞬目を閉じた。
﹁言ってやりたいことは色々あるけれどもよ、まあ⋮⋮なんだ。実
際目の前にいると、思い浮かばないもんだな﹂
そしてそう言って、再び目を開ける。
﹁先代会頭の第一子、カリム・ドゥーマがこの商会を継ぐと商業ギ
ルドには申告してきた。既に成人の俺は、ヴルドが退任するとサイ
ンした今この時を以って、この商会の会頭だ﹂
そう言って、周りを見渡した。
訳が分からない、とポカンとしている面々に向かって見せつけるよ
うに、商業ギルドの権利書を掲げる。
﹁そして、商会の会頭として正式にアズータ商会との業務提携をす
ることを決定した。異論は認めない﹂
矢継ぎ早に、カリムは宣言した。その様は堂に入っていて、貫禄す
ら感じられる。
629
﹁⋮⋮申し訳ないが、その男を摘み出してくれねえか?大事な取引
相手のあんた達に、この場で危害を加えられちゃ堪らねえ。それに、
この男はこの商会とはもう何も関係もないからな﹂
その願いにターニャは頷き、ズルズルとヴルドを引っ張って行って
いた。ヴルドは呆然としているせいで、抵抗らしい抵抗もせずに引
きすまられていく。
﹁⋮⋮あ、そうだ。ヴルド様﹂
名を呼ぶと、彼を引きずっていたターニャが立ち止まってくれた。
﹁商会への援助金ですが、あくまで商会の赤字部分のみ。貴方が最
初に提示された金額は、貴方の借金も加算されていたようですが⋮
⋮先ほどサインいただいた書類には、“あくまで商会の借金分”の
と明示されていすから。確りとご自身の借金はご自身で返済下さい
ね﹂
ニッコリと微笑みながら、そう言う。
ヴルドは、顔色を真っ青にして⋮⋮がくりと肩を落としていた。
630
ある男の振り返り︵前書き︶
2/2
631
ある男の振り返り
目を閉じると、思い浮かぶのは遠いあの頃のこと。
家族全員が揃って暮らしていた、温かなあの日々。
商会を切り盛りし従業員に慕われて、どんどん商売を拡大させてい
く父に、子供ながら憧れたし、かっこいいと思っていた。
母は⋮⋮叱る時はめちゃくちゃ怖かったけれども、常に柔らかな笑
みを浮かべる、とても温かな人だった。
使用人がいるのに、料理は欠かさず母親が作っていて、父親を陰日
向に支えていて。なんとなく、父親と母親が微笑みあっている姿は
子供ながら誇らしくて、温かい気持ちになったものだった。
それから元気いっぱいで、笑顔が愛らしい弟。自分より年下という
存在が、初めてで。だからこそ、自分が守ってやるんだと心の中で
誓った。
そんな、温かな家族。優しい日常。
それを喪ったのは、本当に突然のことだった。
⋮⋮人は喪ってなら、初めてその物の価値を知るというが⋮⋮正し
く、それだった。
当たり前のものとして享受していたものが、どれだけ得難いものだ
ったのか。どれだけ、恵まれていたものだったのか。
当時を思い出しては、悔しく⋮⋮そして悲しくなる。
632
それだけ、俺にとってあの日々はとても大切なものだったから。
ふと、目を開けた。
目に映るのは、書斎。
今自分がいるのは、会頭専用のそれ⋮⋮つまり、かつて父が仕事に
打ち込んでいた場所だ。
昔見た時は、もっと書物や書類が沢山あって
、随分と乱雑な部屋だと思ったけどな。
今はガランとしていて、視界に映る光景が妙に寂しい。
そんなことを思い出しつつ、背もたれにもたれた背を伸ばし拳を握
る。
ようやく、取り戻した⋮⋮と。
失ったのは、本当に唐突だった。
あの日⋮⋮父と母は所用で馬車に乗って王都を出ていた。
まさか、事故に遭って帰らぬ人になるとは、見送った時には勿論思
いもしなかったし、想像すらできなかった。
父と母が亡くなったという知らせを受けて。悲しむ間も無く、葬儀
やら様々な手続きをこなすこととなった。
633
幼かった当時の俺に代わって、その全てを行ってくれたのが当時副
頭を務めていたヴルド・ランカムだった。
﹁自分に全て任せてくれれば、大丈夫だから﹂
頼る者を喪い、心細さと共にあった俺にとってその言葉は何よりも
嬉しいもので。
俺は全て彼に言われるがままだった。
﹁⋮⋮少し、商会がマズイことになっているんだ。申し訳ないが、
前会頭だった君たちのお父様のところにも調査が入るかもしれない
から、暫く家から出て別のところに隠れ住んで貰えないかな?﹂
だから、こそ。⋮⋮そんな彼の言葉をも、あっさりと信じてしまっ
た。
そして家を出て、王都の隅にある地区の古ぼけた家に隠れるように
住み始めた。
﹁いつか、迎えに来るから﹂
そんな言葉と共に僅かばかりの金を渡され、俺と弟はそこで暫く身
を潜めるように暮らした。
一週間⋮⋮二週間、そして一ヶ月。
流石に三ヶ月過ぎたあたりから、おかしいなと思って、商店に行っ
た。
634
そして、そこで俺は初めて騙されたことを知ることとなる。
﹁⋮⋮すまないが、君は誰でしょうか﹂
のたま
そんな言葉を、平然と彼は宣った。
﹁何を言っているんだよ⋮⋮俺だよ、カリムだよ。この商会の前会
頭の息子だよ﹂
﹁⋮⋮前会頭のご子息は、不幸な事に前会頭夫妻と共に亡くなられ
ましたよ﹂
﹁あんたこそ、何言ってるんだよ⋮⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮誰か!﹂
更に口を開こうとしたら、ヴルドは人を呼んだ。
﹁前会頭の息子を騙る、不届き者です。外に放り出しなさい﹂
そして、無情にもそう言ったのだった。
﹁やめろよ⋮⋮!なあ、やめてくれ⋮⋮!﹂
ジタバタと暴れる俺に、ヴルドは哀れむような視線を寄越した。
そして引きずられる俺に近づいてきて、耳元に唇を寄せた。
﹁⋮⋮この商会で貴方を知る者皆に、暇を出しました。貴方が何を
言おうとも、無駄ですよ﹂
635
﹁⋮⋮なっ⋮⋮⋮!﹂
﹁貴方は、とても良い子でした。純粋で、人の言う事為す事に対し
て疑う事を知らない、そんなね。貴方を上に立てて私が貴方を操る
ことも考えたのですが⋮⋮私が思っていた以上に事が上手く進みま
した﹂
にこやかにそう言うと、奴は用は済んだと言わんばかりに俺を引き
ずる男たちに視線で指示を出した。その結果、俺を引きずる力が強
まって、あっさりと俺は商会の外に放り出された。
まだ幼かった俺は、どこにどう訴えれば良いかなど分からなくて。
分からないまま日々は過ぎて、けれども生きていくにはどうにかし
て金を稼ぐしかなくて。
何とか食いつなぐことができるようになって、けれども今度は弟が
病に罹り、更に金が必要になってしまってからは復讐どころの話で
はなくなってしまって。
そのまま、ズルズルとここまできてしまった。
行き場のない、怒りを抱えて。
そんな中、現れたのが彼女だった。俺の名と力を借りたい、そう言
いながら。
﹁⋮⋮失礼します。アズータ商会の会頭が、いらっしゃいましたが﹂
ノック音と共に現れた従業員の言葉に、俺は我に返った。
636
﹁ここに通してくれ﹂
暫くして来たのは、あの時俺を掬い上げた女性。
﹁忙しいのに、無理に時間を取ってしまって申し訳ないわね﹂
﹁いいや。あんたの為だ。時間を取るのは当たり前だろう﹂
﹁ふふふ⋮⋮随分口が上手くなった事ね﹂
彼女はふわりと笑う。あの暗闇の中でも美しいと思ったが、明るい
中でもその印象は変わらない。
﹁今日は、契約を交わしにきたのよ。今まで口約束であったものを
しっかり書面にて明文化しましょう﹂
﹁ああ。その方が良い﹂
かたわら
彼女の傍にいた女性から契約書を渡され、それを確認しサインをす
る。
﹁確かに。では、明日から宜しく頼むわね﹂
彼女との口約束とは⋮⋮そもそも、俺の力を借りたいと言っていた
それ。
俺の商会とアズータ商会の運送部門を統合し、俺の商会の名の下で
運送を行うということ。
637
﹁仕事はどうかしら?﹂
﹁まだまだ分からないことがたくさんある。正直、あんたのところ
から人を派遣して貰って助かってるよ﹂
ヴルドに加担した奴らを商会から追い出した結果、商会の人材不足
は深刻な問題となってしまった。
そこで、アズータ商会から人材を派遣して貰ったのだ。
﹁ふふふ、彼らから話は聞いてるわ。貴方は決して人任せにするこ
となく、そして随分貪欲に学んでいると﹂
﹁⋮⋮﹂
何となく肯定も否定もできず、思わず口を閉じてしまった。
その様に、彼女は再び笑った。
﹁良い事だわ。私を含め、彼らも利用なさい。決して、他者に流さ
れることなく意思を持って仕事に取り組みなさい。そうすれば、き
っと迷っても貴方らしく仕事ができる。それが、先輩としての助言
よ﹂
﹁⋮⋮あんたも、迷うことがあるのか?﹂
﹁あら、当然じゃない。私は貴方と同じ人だし、先輩といってもほ
んの数年。迷う事も後悔することも苦しく感じることだって、沢山
あるわ﹂
638
少し意外だった。彼女のことだから、何か障害があっても、初めて
会った時と同じように不敵に笑って乗り越えていきそうだと思って
いたから。
﹁⋮⋮でも。私の手でも何かを為すことができるかもしれない、と
ビジョンが定まったおかげでここまでくることができたのよ﹂
﹁⋮⋮その、ビジョンって?﹂
﹁孤児院の子達と会って、その子達に物語を読み聞かせることがあ
った後⋮⋮その物語を絵本として売り出す商売を始めたの。そして、
それで得た利益は孤児院に寄付する形にして。そんなことがあって
からかしら。金を得ることは勿論必要だけど、商会の得るべき﹃利
益﹄とはそれだけじゃない、ということが分かって、それを励みに
しているわ。⋮⋮貴方も、何かそういう目標だとかビジョンはある
のかしら?﹂
彼女の言葉に、一瞬俺は考える。
俺の求める、ビジョン⋮⋮か、と。
﹁今特にないのであれば、急いで決める必要はないわ﹂
随分長い間口を開かなかったせいか、彼女はそう言って微笑む。
﹁⋮⋮いつか⋮⋮﹂
俺は、思った事をそのまま発すべく口を開いた。
﹁薬に関わる仕事、それから、あの下町の人たちが笑顔になるよう
639
な仕事がしたい﹂
﹁そう⋮⋮﹂
全く、そこに至るまでの道筋は見えてない。どうすれば良いのかな
んて、分からない。
けれども、それができたら⋮⋮きっと、俺の経験は決して無駄じゃ
なかったと言えるんじゃないかと、そう思う。
彼女は、俺のその言葉にただただ笑みを深めていた。
640
ある男の振り返り︵後書き︶
再度この場をお借りしてご報告を。
大変申し訳ございません。
現在発売中の書籍ですが、一部誤植がございます。
最初の挿絵のライルとディダの名前が逆になってしまっているとい
うものです。
重版された際には、そこは修正されるとのことでしたが⋮⋮。
既にご購入いただいた方、大変申し訳ございません。
641
今更
さて、商会のあれやこれやは片付いた。
カリムの商会が運送を担ってくれることによって、関税は通常の税
率で領境を通過することが可能になった。
他の商会にとっても、カリムの商会に運送を頼むことによって、高
い護衛や人件費削減によるコストカットが実現。
カリムの商会もそれによって、利益を得る。
まさに、互いがWin−Winな関係に。
正直、今回関税を引き上げた領の領主との交渉は上手くいってない。
第二王妃辺りが妨害しているんでしょうけど。
税率は基本各領主の裁量によるものだから、破門が冤罪であったこ
とを理由に下げてくれとお願いしたところで、﹁それは良かったで
すね。ですが、我が領は全体的に税率を上げています。これが我が
領の方針です﹂と言われれば終わりだ。
アルメニア領の周りだけ、一斉に税率が上がるなんて作為しか感じ
ないけれども。
訴えたところで、上に待ち構えているのは第二王妃なのだ。
握り潰されるに決まっている。
642
お父様が宰相といったって、各領主に命令権がある訳ではないし。
各領主への命令権があるのは、王のみ。とはいえ、その王も病気で
伏せっているし。
まあ⋮⋮どちらにせよ、税率が領主の裁量というのは変わらない事
実。
平時において王が命令権を発動し、領主の裁量を侵すことはない。
八方塞がりとはこのことだ。
⋮⋮一応目的は達成したし、このまま領に帰るか。セバスが優秀と
いっても、そろそろ仕事量が大変なことになっているだろうし。
あー⋮⋮でも。もし、ディーンがいたら何とかなってそうだな。
なんて事を考えつつ、書類を片付けていた。
﹁ターニャ。そろそろ領に帰ろうと思うのだけど﹂
﹁それが宜しいと思います。早速日程を調整させていただきます﹂
まあ⋮⋮色々挨拶やら後処理があるから、後何日かはいることにな
るでしょうけど。
﹁よろしくね﹂
ああ、領が懐かしい。
643
学生の頃のように1年・2年領から離れていた訳じゃないのに、随
分帰っていないような気すらする。
それだけ濃い日々だったということよね。
﹁お嬢様。ミモザ様からお手紙が届いております﹂
私はターニャからそれを受け取ると、ペーパーナイフで封を開け、
中の手紙を見る。
ここ最近、速読が更に磨きがかかった気がするわ。
一通り読むと、それを閉じて再び便箋に戻した。
﹁⋮⋮随分大変そうだわね﹂
手紙の内容は、この前のダンメについての謝罪に対する返答だった。
特に気にしなくて良い、逆に気を使って今後誘って貰えない方が寂
しいというミモザらしい優しい回答。
けれどもそこからいつの間にか、結婚についての話になっていって
いた。
随分結婚⋮⋮否、婚約相手を探すことに難航しているようだ。
やっぱり、ミモザの家は中立派だからね⋮⋮余計慎重になってしま
うのかもしれない。
644
でも、そろそろそれを理由にゆっくりしていられない、という焦り
もまたミモザから感じた。
貴族の子女にとって、相手の家との結びつきが重要だからこそ、相
手の家がどの派閥に属するのか、または属そうとしているのか見極
めが重要なのは分かっている。
相手の家の家格が重要なのも、重々分かっている。
けれども、その見極めをしている間にも時は平等に過ぎていく。
⋮⋮貴族の結婚年齢は、日本と比べればそれはそれは若い。
社会背景も価値観も何もかも違うのだから、それは当然といえば当
然なのだけれども。
という訳で、アイリスの記憶と照らし合わせると焦ってしまう気持
ちも分からなくもないのだ。
あくまで、“分からなくもない”で“分かる”ではない。
私も結婚していないのだけどね⋮⋮最早結婚に夢を見てないし。
焦らずに落ち着いて待っていた方が良いわ、という旨の返事を書く。
相手の家も含めて相手の見極めは重要だもの⋮⋮なんて私が書くと、
重みがあるなと自嘲してしまった。
﹁⋮⋮そういえば、ライルとディダは大丈夫かしらね﹂
645
昨日・今日と連続でライルとディダはお祖父様に連れて行かれてし
まった。
彼らは、私の護衛なんだけど⋮⋮まあ、カイルの商会とのやり取り
に関する書類が溜まっているから、特に外出の予定もないから良い
のだけどね。
﹁二人なら、連日連れて行かれても大丈夫ですよ。ガゼル様の元で
何年も修行を積んでいるのですから﹂
﹁⋮⋮それもそうね﹂
ターニャと話をしていたら、ノック音が聞こえてきた。
ターニャが扉を開けて対応をする。
そこにいた使用人と話しているうちに、ターニャの表情はどんどん
険しいものに変わっていった。
﹁⋮⋮⋮すぐに追い返してください﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
冷たい声でその言葉は、かなり迫力があったというのに、使用人は
怯みつつも引かない。
﹁良いです。私が行きますので﹂
これ以上言葉は不要とばかりに言い切った。
646
けれども、ターニャのその言葉に相手はほっとしたような表情に変
わる。
それだけの人物が来ている⋮⋮ということかしら。
﹁⋮⋮ターニャ﹂
﹁失礼致します。私、ただいま対応して参りますので﹂
そしてターニャの様子を見るに、私には知られたくない⋮⋮内々に
処理してしまいたい、ということね。
﹁ちょっと待って。ターニャ、誰が来ているの?﹂
﹁お嬢様はお気になさらずとも大丈夫です。私が、全て対応致しま
すので﹂
﹁⋮⋮⋮ターニャ﹂
もう一度名を呼ぶと、ターニャは困ったような表情を浮かべていた。
﹁ヴァン・ルターシャが、お嬢様を尋ねに来たと﹂
﹁⋮⋮ヴァン様が⋮⋮﹂
予想外の名前に、私も思わず動揺してしまう。
﹁ライルとディダがいない以上、下手に接触をしない方が良いでし
ょう。相手が何を企んでいるのか、何を起こすか予想ができません。
647
⋮⋮それに、先触もれなく訪れるなんて失礼にも程が過ぎます﹂
まあ、確かに。そもそも、こっちは話したいことなんて何もないも
の。
私の時は話を聞いてくれようとしなかった彼らに、何故私は話を聞
かなければならないだろうか。
﹁⋮⋮そうね。よろしく頼むわ、ターニャ﹂
﹁畏まりました﹂
648
何故か︵前書き︶
1/4
人物説明書は以下にあります。
http://ncode.syosetu.com/n926
1cp/
649
何故か
ヴァンが来た⋮⋮一体何故今更になって来たんだか⋮⋮と、気にな
って仕方ない。
まあ、恐らく先の破門騒動が何か関係していると思うのだけど。
ヴァンのお父様、教皇の任を解かれて捕らえられているみたいだし。
私のところに来るよりも、仲良くしていた面々を頼った方が良いと
思うのだけどねえ⋮⋮。
ユーリ・ノイヤー男爵令嬢⋮⋮エド様の婚約者となって、それなり
に発言力を得ている。
エド様は第二王子だし、外祖父であるマエリア侯爵は飛ぶ取り落と
す勢いで権勢を誇っているし。
あー⋮⋮でも、ベルンはお父様の下で仕事漬けの日々だから会うの
が厳しいでしょうし、ドルッセンはドルッセンで騎士団に所属して
以来忙しいみたいだし⋮⋮。
とはいえ、私もそれなりに予定が詰まっているのだけど。
あー、もう本当にさっさと領に帰っちゃいたい。流石に、領までは
押しかけて来ないでしょう。
彼と顔を合わせて何を言われるのだか⋮⋮考えただけで面倒ごとの
臭いがプンプンするもの。
650
﹁ただいま戻りました、お嬢様﹂
そんな事を考えていたら、ターニャが戻ってきた。
﹁随分早かったわね⋮⋮?﹂
﹁ええ。さっさと帰っていただきましたので﹂
澄ました顔で、けれども言い捨てるように言った。
ターニャも随分イライラしているみたい。後で労ってあげよう。
﹁何か言っていた?﹂
その前に、聞かなければならない事を聞いておかなければ。
﹁いいえ。何も聞いてません⋮⋮あの男が口を開く前に、とっとと
追い払いましたから﹂
ターニャは笑顔だったけれども、その目は笑っていない。むしろ、
彼女から発せられる雰囲気が冷たすぎて、寒気すら感じてブルリと
身体が震えた。
どうやって追い返したのか、聞きたいけれども怖くて聞けない。
⋮⋮まあ、ターニャも変なことはしないから大丈夫でしょう。大丈
夫だと思いたい。
﹁もう、良いわ。彼のことを気にかけていても、仕方ないし。ター
651
ニャ、そこの書類を片付けておいて﹂
﹁はい、畏まりました﹂
それは良い笑顔で、ターニャは答えてくれた。
﹁⋮⋮そういえば、お嬢様﹂
﹁どうしたの、ターニャ﹂
﹁ヴルドが、消息を絶ちました﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
ヴルドは、カリムの商会から追い出した後、念のためその動向を探
らせていた。
ダンメの時のように恨まれて仕事の邪魔をされるのは、嫌だったか
ら。
﹁⋮⋮こちらに何か仕掛けてくるような動きは?﹂
﹁ルドルフ侯爵との接触はなかったですし⋮⋮その他の貴族にも相
手にされていませんでした。そもそも、何かを仕出かすような資金
力は彼に残っていません。借金取りから逃げる為に消息を眩ませた
⋮⋮それが、一番可能性が高いかと思います﹂
﹁そう⋮⋮。なら、良いわ。今後、ヴルドに割いていた分を、第二
王子派の貴族の動向を探ることに注力して﹂
652
﹁良いのですか?﹂
﹁ええ、良いわ。各店には護衛をつけているし、私も身辺について
はライルとディダがいるもの。心配しなくても大丈夫でしょう。⋮
⋮それより、第二王子派の方を調べさせる方がずっと有意義だと思
うもの﹂
﹁畏まりました。そのように、取り計らいます﹂
すっかり諜報員として活躍する、ターニャ。最近じゃ同じくそうい
ったコトを生業としている面々を集めているんだけど、その彼らを
まとめ上げてくれている。
一応、アルメニア公爵家⋮⋮正確には、お父様お抱えのそういう人
たちはいるのだけど。
今回の破門騒動やら何やらで、情報の大切さというのをヒシヒシと
感じた私は、少しずつ私専属の者たちを集めていた。
まあ、中々信用のおける人物って探すの難しいから、そんなに人数
は集まってないんだけどねえ⋮⋮そこは、お父様とお母様、それか
らお祖父様のツテを頼っている。
﹁⋮⋮さっさとここでの仕事を終わらせて帰りましょう﹂
﹁はい、お嬢様﹂
653
何故か︵後書き︶
更新が遅くなってしまい、申し訳ありません。
wordsのデータが吹っ飛んだショックから、中々立ち直れませ
んでした⋮⋮。
654
ディダの不満︵前書き︶
2/4
655
ディダの不満
﹁⋮⋮だからさ、師匠。何で俺らが付き合わないといけないわけ?﹂
不満を隠さず、師匠に言った。
ライルは珍しく、俺の態度に何も言わない。
まあ正直なところ、師匠にはお世話になっているし、今日はお嬢様
も出かける用事はない⋮⋮ターニャもいることだし、大丈夫だから
良いと言えば良いのだけど。
﹁まあ、そう言うなて。儂とて、さっさと騒がしい王都を離れて領
地でゆっくりしたいわ!﹂
師匠は、現役の将軍だ。
けれどもそれは、英雄として名誉職の意味合いも兼ねて与えられて
いる。
本来なら、引退していてもおかしくない年齢だ。⋮⋮とはいえ、今
のところ師匠を超える武人は見たことがないが。
年を経て力が弱まった分、より技巧が磨かれている。
そもそも弱まったとはいえ、未だに手合わせでライルと競り合うこ
とができるのだから、普通の老人と同じに考えてはいけない。
ライルと競り合うことができる人物なんて、軍部・騎士団合わせて
656
も片手ほどの数の人数だ。
つまり、師匠の力は弱くなったとはいえ、衰えたと言うほどではな
いのだ。
閑話休題。
師匠の現在の主な仕事と言えば、実はそこまで実務は行っていない。
大規模な争いが、近年ないということもあるが⋮⋮。
あえて言うなら、軍部・騎士団双方の仲を取り持つことと後進の育
成というところか。
そういった背景があるため、基本、師匠将軍という位に対して驚く
ほど自由に行動している。
自身の領地にいることもあれば、ついこの前はアルメニア侯爵領に
いた。たまに国境に視察に行っているが、あれは半ばフラフラとし
たいという自身の願望で動いているだけ。
ただ、王宮にいることは少ない。
固っ苦しいのは嫌いだ、と常々言っている師匠らしいが。
そんな師匠が、ここ最近ずっと王都の⋮⋮それも王宮に通い詰めて
いる。
その理由は、軍解体の案が出たからに他ならない。
﹁⋮⋮師匠。上の動向はどうですか?﹂
657
﹁ん⋮⋮今は大人しくしておる。じゃが、儂らがいなくなったら、
分からん﹂
師匠は苦虫を潰したかのような顔をしていた。
⋮⋮師匠の存在は、各領主も王宮で勤めている者たちも無視できな
いものだ。
それだけの実績を築き上げ、民衆からの人気も高い。
師匠がいるだけで、プレッシャーをかけることができる。
それ故、師匠は王宮に顔を出してはおかしな動きがないか常に見張
っているのだ。
﹁儂とて、好き好んで戦争をしたい訳ではない。だが、丸腰でおれ
るほど平和ボケしたつもりもない。軍という壁がなくなったら、こ
の国を一体誰が守るというのか。それが、エドワード様の陣営の方
々には見えておらん。⋮⋮国がなくなれば、混乱が生まれ、やがて
は領地に引きこもっているだけでも、それに飲み込まれてしまうか
もしれんという危険性を、あの会議で賛成した日和見主義の貴族ど
もは分かっておらん。いや、軽く見ている⋮⋮か﹂
﹁姫様は既に争いも視野に入れてるよ、師匠﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
俺の言葉に、少し悲しそうに笑った。
658
﹁⋮⋮儂という老いぼれの存在で、少しでも抑止力となるのであれ
ば。あの子の覚悟が杞憂に終わるように気張らねばな﹂
﹁⋮⋮まあ、姫様のためなら仕方ないか﹂
﹁何を言うておる。お主らは、楔となるほど顔が広くないだろう⋮
⋮儂の鬱憤晴らしに付き合ってもらうだけじゃ﹂
﹁ええ、師匠⋮⋮やる気なくしたわー﹂
﹁こら、ディダ。⋮⋮それが巡り巡ってお嬢様のためになるという
のなら、我らは力を尽くしましょう。勿論、お嬢様の護衛が一番で
すが﹂
しょうがないな⋮⋮と呟きつつ、俺はライルと共に師匠の後につい
て歩いて行った。
659
ディダの不満︵後書き︶
人物紹介
http://ncode.syosetu.com/n9261
cp/
660
ドルッセンの懇願︵前書き︶
3/4
661
ドルッセンの懇願
﹁ほらほら、どうした?打ち込みが足りない﹂
カンカン、と歯を潰した剣の打ち合う音が響く。
お優しいライルは、騎士団を相手に試合というより指導をしていた。
その横で、俺も軍部の相手をしていた。
⋮⋮何で、こうなったんだか。
昨日は確か、師匠と模擬戦⋮⋮もとい、師匠の鬱憤晴らしに付き合
っただけだった。
軍の奴らと騎士団の奴らは、それを遠目で見てただけだ。
前に王都で模擬戦の相手をやった時の挑んでくるような視線とは違
い、どこか畏れられているようなそれ。
別にどう見られていようが関係ないかと放っておいたら、今日にな
って模擬戦をやって欲しいとの申し入れが。
師匠は楽しそうに受けろと言うし、自分たちにとっても良い暇つぶ
しになるかと受け入れた。
⋮⋮とはいえ、模擬戦というよりかは、どちらかと言うと稽古をつ
けているような感じになってしまった。
662
ライルも熱くなっているが、対等な相手に対するというよりも、ア
ルメニア領で部下に対して教えている時と同じ様子だ。
しあい
折角だから、もう少し対等な相手⋮⋮久々にライルと師匠以外の誰
かと仕合たい。
ふと、視線を感じた。
丁度、相手の剣を弾いたタイミングで、そちらを確認する。
あれは、確か⋮⋮騎士団団長の息子にしてドルッセンとか言ったか。
名前はしっかりと覚えてないが、別にどうでも良い。重要なのは、
姫様に対して、無礼を働いた男の内の一人だということだ。
何故、俺やライルのことを食い入るように見る?何故、そんな⋮⋮
何かを言いたそうな表情を浮かべている?
そんな疑問が浮かんだが、あいつの存在自体が不愉快なので、気づ
かなかったことにして試合に集中した。
﹁⋮⋮一戦、教授いただきたい﹂
試合が終わって、ドルッセンがそう宣言する。
騎士団の連中は、面白いぐらいに慌てているようだった。⋮⋮俺ら
がドルッセンにどう対応するのか、心配しているようだな。
﹁ああ、良いよ﹂
﹁⋮⋮もし、俺が勝ったら﹂
663
彼らの心配は、杞憂で終わるだろう⋮⋮そう、思っていたのに。
﹁アルメニア公爵令嬢と、会わせてくれ﹂
その一言に、その考えは消えた。
﹁⋮⋮何を、言っているんだ⋮⋮?﹂
﹁言葉の通りだ。⋮⋮彼女に会えるよう、貴殿らに取り計らってい
ただきたい﹂
﹁俺らは、一介の護衛だ。姫様にそんなこと言えるわけねえだろ﹂
﹁既に公爵家には伺いをたてた。だが、返答は否だった。⋮⋮貴殿
らは彼女の信用も篤いと伝え聞く。とり持つことは可能であろう﹂
﹁⋮⋮信用してもらっているかはさて置き、姫様に仕える俺らが、
わざわざおまえのよう奴の手伝いをするとでも?﹂
﹁⋮⋮だから、勝利をした時には⋮⋮だ﹂
﹁⋮⋮面白い﹂
ふつふつと、怒りが湧いてくる。
会って、どうすると?
再び、姫様を煩わせる気か。取り入る気か。⋮⋮それとも、今更謝
罪をする気か。
664
そのどれも、許せる訳がなかろうに。
﹁⋮⋮ライルと違い、俺になら勝てるとでも?さっさと、来い。そ
の代わり、俺が勝ったらお前は今後一切姫様に近づこうとするな﹂
審判は困惑しつつも、試合開始の声を挙げる。
さて、どう調理してやろうか。
暴力的なまでの怒りが、俺の中を渦巻く。
ああ、熱い。こんなに怒ったのは、いつぶりか。
唇を舐めながら、相手をどういたぶろうかとばかり考えていた。
騎士どころか軍の奴らでもドン引きしそうな考えだろう。
⋮⋮そんな風に、考えながら動いたのがいけなかった。
一瞬、だった。
一瞬で、相手の剣は吹き飛んじまった。
もっとジワジワと追い詰めてやろうと思ったのに。
⋮⋮まあ、良いか。
前回、ライルの動きはぬる過ぎたんだ。俺ならば、もっと痛めつけ
たのに。
665
そう思いつつ、腰が引けた相手に対して俺が剣を振りかぶった時だ
った。
﹁⋮⋮何のつもりだぁ?ライル﹂
﹁落ち着け、ディダ﹂
俺の剣を止めたのは、ライルだった。
﹁⋮⋮落ち着いているさ、これ以上なくな。分かったら、さっさと
どけ﹂
﹁分からないな﹂
気に食わなかった。いつも姫様一番なこいつが、彼女を害した男を
庇うのが。
俺の背を任せられると思っていたコイツの考えが、全く分からなか
ったことが。
﹁これ以上、コイツを庇うならお前でも容赦しねえぞ﹂
﹁⋮⋮上等﹂
そうして、俺とライルは剣をぶつけ合う。
それでも、ライルは引かない。つうか⋮⋮やっぱり、ライルの剣は
重いな。
﹁⋮⋮よく見ろ、ディダ﹂
666
ライルは俺の剣を受け止めながら、叫んだ。
﹁⋮⋮ああ?見ろって何を⋮⋮.﹂
そう言うが早いか否か、ライルの後ろに座り込んでいたドルッセン
が目に入る。
その瞬間、俺は動きを止めた。
﹁⋮⋮何で、止めたんだ⋮⋮?﹂
そんな俺に問いかけたのは他でもない、ドルッセンだった。
﹁逆に聞くけど。何でお前の希望を俺が叶えてやらなきゃならない
んだよ?﹂
﹁⋮⋮何で、それを⋮⋮﹂
ドルッセンは驚いたように目を見開く。
﹁てめえの顔を、てめえで見てみろ。⋮⋮ったく、興醒めだ﹂
﹁⋮⋮ま、待ってくれ⋮⋮!﹂
闘技場から出ようとした俺を呼び止めようと、ドルッセンが叫んだ。
聞く気はないので、足を止めることはしないが。
﹁お前がしてくれないのならば、誰が俺を罰するんだ⋮⋮!﹂
667
その言葉に、気が変わって俺は向きを変えてドルッセンのところへ
むかう。
そして、思いっきり剣を振りかぶった。
切っ先を潰した剣は、けれども綺麗に地面に突き刺さる。
﹁あんまり舐めたことを言うなよ?﹂
ドルッセンの目線に合わせるべく、しゃがんだ。
﹁誰に罰してもらうか。んなもん、知るわけねえだろう。⋮⋮簡単
に清算できるほど、俺らの因縁は浅くないんだからな﹂
謝って、はい終わり⋮⋮なんてこと、許せる筈がない。
悔いて悔いて、苦しめば良い。
苛み、そして心に刻み付けろ。
俺らの怒りを。
そして、姫様の悲しみを。
俺は奴をそのまま放置して、今度こそ闘技場から出た。
ライルも俺が出たことで満足したのか、同じようにその場を離れる。
そっから先、俺らは再び訓練を再開させた。
668
669
ドルッセンの懇願︵後書き︶
人物紹介
http://ncode.syosetu.com/n9261
cp/
670
妹来襲︵前書き︶
4/4
671
妹来襲
王都を出る前にと、私は街に出た。
本当は時間があんまりないのだけれども、せっかく王都に来たのだ
から休みがてらショッピング⋮⋮という訳だ。
領地に残っている皆に、お土産でも買って帰ろうかと。
﹁⋮⋮皆、何が喜ぶかしらね﹂
レーメとモネダには、何か王都ならではのお菓子かしら。
頭を使う作業だから、糖分は必要よね。
でも、メリダとセイには、お菓子をあげると何だか仕事に結びつけ
てしまいそうな気がするし⋮⋮。
﹁お嬢様のお選びになったものならば、何でも喜ぶかと﹂
ターニャの言葉に、私は苦笑いを浮かべる。
﹁それが一番困るわ。せっかくあげるのだから、使い勝手の良いも
のだとか⋮⋮その人が欲しているものが良いじゃない?﹂
街を歩くということで、いつものごとく少し変装をして歩いていた。
幾つかの店をまわり、候補を絞る。
672
でも、何か決め手に欠けるのよね⋮⋮。
そんな感じで、悩みつつ歩いていた時だった。
あれ?⋮⋮見覚えのある人がいる⋮⋮。
﹁⋮⋮ディーン﹂
まさかの、ディーンがいた。しかも、その隣には女性の姿が。
何で、ここにディーンかいるの?⋮⋮というか、その隣の女性は誰?
そんな疑問が頭の中を駆け巡って、言いようのないモヤモヤが心を
占める。
やだ⋮⋮ディーンがどこにいたって誰といたって、別に良いじゃな
い。
今は契約中じゃないのだもの⋮⋮どこにいようが誰といようが、自
由じゃない。
そのモヤモヤを振り払おうと、自分に言い聞かせるが⋮⋮中々、そ
れは頑固に私の心に居座る。
まるで、子供みたい。
思ってもみなかった自分の独占欲に、自分で自分を嘲笑う。
ディーンが私に気付いたらしく、一瞬驚いたように目を見開いた。
673
その反応がまた、私をイライラさせる。
⋮⋮さっさと家に帰ろう。とはいえ、ここで方向転換したら不自然
だし、まだお土産が買えていない。
﹁⋮⋮お嬢様、お久しぶりです﹂
﹁ディーン、久しぶりね。まさか、王都で会うなんて、ね。⋮⋮そ
ちらの方は?﹂
﹁初めまして。私の名前はレティと申します。兄がいつもお世話に
なっております﹂
﹁⋮⋮兄?﹂
よくよく見れば、確かになるほど⋮ディーンとよく似た顔立ちであ
る。
違いといえば、ディーンの瞳の色がエメラルドグリーンなのに対し
て、レティはペリドットのような明るい緑色という違いぐらいかし
ら。
﹁はい、そうです。私は家族が過保護なので一人では外に出れませ
んし、兄がそちらにお邪魔している時は、私が仕事を引き継いでい
るものですから、ご挨拶できずに申し訳ありませんでした﹂
というか⋮⋮私、間接的に彼女にもお世話になっているということ
よね。
ここは、しっかりお礼を伝えなければ。
674
﹁いえいえ。⋮⋮よろしければ、是非ゆっくりお話をさせてくださ
い。兄がお嬢様のところでちゃんと働いているのか、聞きたいです
し﹂
ニコリと、レティは花が綻ぶように笑った。
﹁お嬢様、妹の言葉は聞き流してください。お嬢様は忙しい身です、
妹に時間を割いてしまっては⋮⋮﹂
﹁まあ、お兄様。何か聞かれては、まずいことでも?﹂
﹁レティ⋮⋮お前というやつは⋮⋮﹂
その横で、ディーンは珍しく困ったような焦っているような様子を
見せている。
こんなディーンを見るのは初めてだ。
﹁まあ⋮⋮﹂
思わず、笑ってしまう。
私の笑みに、レティは共にクスクスと笑っていた。
﹁よろしくてよ。ここでは何ですから、どこかお店に行きましょう
か﹂
という訳で、とあるレストランに来た。ここはアルメリア公爵家が
懇意にしているところなので、バッチリ個室を準備。
675
街中のカフェとかで、私のことを話す訳にもいかないし。せっかく、
変装をしているのだから、ね。
﹁改めて、初めまして。私の名前は、アイリス。アイリス・ラーナ・
アルメニアです﹂
﹁初めまして、レティと申します。いつも兄がお世話になっていま
す﹂
﹁こちらこそ、ディーンにはお世話になっているわ。私のお手伝い
のせいで、貴女にしわ寄せがいってしまっているとか⋮⋮本当に申
し訳ないわね﹂
﹁いえ⋮⋮仕事は好きですし。何より私はお嬢様のことを尊敬して
いますので、申し訳なく思う必要はありません﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
何故、この子はこんなにもキラキラと目を輝かせているのかしら。
そもそも初対面なのだから尊敬も何もないだろう。
﹁お嬢様がアルメニア公爵家の領地を監督してから早数年。アルメ
ニア公爵家の経済的発展は目覚ましいものだと、聞き及んでいます。
また、住み易いとのことで移住される方も多いとか。その手腕は、
尊敬に値しますし、何より同じ女性として第一線で活躍されている
方の話を聞くのは、何よりも嬉しいものです﹂
こちらの内心を読んだかのような、言葉。
676
可愛らしい子だけど、流石はディーンの妹⋮⋮というところかしら。
﹁ありがとう。⋮⋮そういえば、貴女も仕事をされているのでしょ
う?どういったことをされているのかしら﹂
﹁私は、主に書類の作成や収集された情報の整理、それから主だっ
たところへの交渉の根回し⋮⋮というところでしょうか。ですから、
引き継ぐといっても、あくまで兄の仕事の裏方だけ手伝っていると
いう現状です﹂
﹁裏方だけ、なんて。書類の作成も得た情報に基づいて交渉の根回
しも、どれも根気が必要なもの。私も領主代行といっても、書類の
作成や整理が仕事の多くを占めているから、あまり変わらないと思
うけど?﹂
﹁いえ⋮⋮お嬢様の場合、責任を持って幾つもの判断を下されてい
ます。ですから、私のそれとは全く違うと思います。ですが、そう
言っていただけて、とても嬉しいです﹂
それから私は、レティとの会話を楽しんだ⋮⋮のだが。
﹁ええ!?アイリス様もですか!﹂
﹁ええ、度々。やっぱり書類に何時間も向き合ってると、終わった
途端頭が重くって﹂
﹁そうなんですよねー⋮⋮。特に、夜にすると、朝が酷いんですよ
ね﹂
677
﹁そうそう、よく分かるわ﹂
何故かその内容は、健康の悩みだとか、ストレス解消法だとか。
とても、十代の私たちが集まって熱心に会話を繰り広げる内容では
ない⋮⋮と思う。
ほら、やっぱり恋話だとか、話題の甘味屋さんだとか⋮⋮女の子同
士の会話って、そういうのをイメージするじゃない?
まあ、レティも仕事を引き継いでいるのは伊達ではなく、その悩み
だとか話は、とても私も共感できるものだったから、ついつい盛り
上がってしまったのだけど。
最早一緒に来たディーンを置き去りにして私とレティで話を進めて
しまっていた。
ふと会話が途切れたところで、それまで笑顔だったレティの表情が
一変、真剣なそれを浮かべる。
﹁アイリス様。補佐する立場の私から言わせていただきますと⋮⋮
アイリス様は、他の人の二倍・三倍と仕事をしていそうですね。兄
で言う私のように、どなたかに仕事を割り振られて少し仕事を減ら
された方が良いのでは?﹂
﹁これでも随分減らした方なのよ。⋮⋮商会にも頼りになる補佐が
いるし、領政に関しては家令とそれから貴女のお兄様がいてくれる
し﹂
678
﹁まあ⋮⋮兄は役に立っているのでしょうか?﹂
﹁勿論よ。貴女のお兄様は、細かいところまでよく気が利いて⋮⋮
それに仕事は正確。ディーンがいなければ、私はどこがで倒れてし
まっていたかもしれないわね﹂
うん。本当に、ディーンは私の大切な右腕だ。
上手く言い表せないけれども⋮⋮多分、セバスやセイ、ターニャや
レーメなどは私の指示をいかに上手くこなすか、それに重きを置い
ている。
それは立場上しょうがないことだし、むしろ求められていることで
もある。
けれども、ディーンにその縛りはない。だからこそ、ディーンは私
に意見をする。
私が突発的に思いついたアイディアだとか、構想を練っているアイ
ディアを纏め、そこからそれより効率的なものにしてくれたり実現
可能なレベルまで落とし込んでくれて、それを元に私がまた意見を
出す。
結果的に私一人で思い悩むよりも早く実効できたり、良いものがで
きたり。
本当の意味で、ディーンは私の右腕⋮⋮ううん、私の相棒だ。
﹁ええ、そうですか?⋮⋮確かに、兄は細かなところをよく気がつ
きますけど。おかげで、私は仕事上気が抜けません﹂
679
レティの言葉に、私は思わず笑った。
﹁まあ⋮⋮﹂
﹁レティ。そういうことは、本人のいないところで話せ﹂
ここに来て、初めてディーンが口を開く。
﹁まあ、お兄様。私は次、いつアイリス様と会えるか分からないの
よ。だから、話したいと思ったことは、この場で話さないと﹂
﹁⋮⋮そういえば、レティはあまり外に出られないのだものね﹂
﹁ええ。家族が過保護でして。⋮⋮それに、お兄様はあちらこちら
とどこお
と仕事で飛び回っていることが殆どなのですが、その間、私まで離
れてしまえば書類等が滞って下の者達が困ってしまいますから﹂
﹁そう⋮⋮。レティは普段、王都にいるのかしら?﹂
﹁はい﹂
﹁私も、またきっと王都に来ることがあると思うわ。だから、その
時に会いましょう﹂
680
妹来襲︵後書き︶
人物紹介
http://ncode.syosetu.com/n9261
cp/
681
招かざる客人︵前書き︶
この度、公爵令嬢の嗜みが漫画化になりました。漫画連載はネット
でされています。https://web−ace.jp/you
ngaceup/contents/1000012/
これもお読みいただいている方々のおかげです。本当に、ありがと
うございます。
682
招かざる客人
﹁⋮⋮お嬢様。そろそろ⋮⋮﹂
ターニャが申し訳なさそうに、時間を告げる。⋮⋮楽しい時間は本
当にあっという間ね。
﹁まあ⋮⋮アイリス様。長い間、お引き止めしてしまい、申し訳あ
りません。是非、また王都にいらっしゃった時にはお知らせくださ
い﹂
﹁ええ、勿論。今日は早速、貴女に教えて貰ったところに行ってみ
るわ﹂
話している途中、レティには今王都で流行のお店を幾つか教えて貰
った。ということで、お土産を探す為に、これから行ってみようか
と。
﹁はい。良い土産が見つかると良いですね﹂
﹁ありがとう。⋮⋮ディーン。また、領に来てくれるのを待ってい
るわ﹂
﹁はい。私も、諸々の業務が終わったら、むかいますので﹂
﹁ええ﹂
それから、私は店を出て土産を求めて歩く。
683
明日には王都を出るから、今日中に買ってしまわないとね。
結局、レティお勧めの小物屋さんでメリダとセイにはハンカチーフ
を。
そして、他の皆には当初の予定通り甘味を買って帰った。
帰りの馬車の中で、良い物を買えたと満足な気持ちに浸りつつ屋敷
の前まで来たら、突然目の前に人影が現れて寄ってきた。
﹁アイリス様⋮⋮!﹂
そう叫びながら寄ってくる、その人物。
すぐに、ライルとディダがその人物と私の間に私を守るように立つ。
﹁ああ、会いたかった⋮⋮。アイリス様、話を聞いてくれ﹂
その人物は、私のよく見知った人物だった。
﹁ヴァン様⋮⋮⋮。何故、貴方がここに⋮⋮﹂
私がその名を呼ぶと、ライルとディダの警戒心が高まった。
ターニャは一度屋敷に押しかけた彼の対応をしているため、始めっ
から不快そうな表情を浮かべていたが。
﹁何故も何も⋮⋮一度、会って話したいことがあったからさ。この
前は、屋敷にいないからと言われてしまって帰ったけれども、今日
は君のことを待っていたんだよ﹂
684
﹁⋮⋮だからと言って⋮⋮無礼が過ぎます!約束もなく、こうして
押しかけるなんて⋮⋮!貴方は、アルメニア公爵家を軽んじている
のですか!﹂
ヴァンの言葉に、ターニャが激昂した。
ライルもディダも怒鳴らないだけで、全く同じことを思っていたら
しい。明らかに、不快そうにしていた。
﹁⋮⋮良いわ。ヴァン様、ここでは何ですから屋敷にお入りくださ
い﹂
﹁アイリス様⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮こんな往来で、これ以上の騒ぎはごめんよ。ヴァン様、話を
聞きますから、さっさと中に入ってください﹂
失礼な物言いだと自覚していたが、生憎このような押しかけに対し
て礼儀を重んじるほど私も優しくはない。
重い溜息を吐きつつ、私は屋敷の中に入った。
﹁⋮⋮随分物々しいね﹂
席についてヴァンの第一声はそれだった。
屋敷の中では、ヴァンの姿に皆が警戒心と敵対心をもって迎え入れ
ていた。⋮⋮勿論、それを表立って出すほど、アルメニア公爵家の
使用人は感情的ではないが。
685
この室内での対面も、ライルとディダそれからターニャが私を守る
ように控えている。
﹁⋮⋮ご自分が、歓迎されるとでも?﹂
﹁いや、失言だったね﹂
﹁それで、ご用件は?⋮⋮私、明日には領地に帰らせていただきま
すの。ですから手短に、お願い致しますわ﹂
﹁⋮⋮君に、頼みたいことがあるんだ﹂
﹁何でしょう?﹂
手短にとは言ったが、駆け引きの“か”の字もないその性急さに私
は驚く。
それ以前に、“私”に対してお願いをするなんて、ね。私の側に控
える3人からは、今にも飛びかかりそうなほどの殺意を感じる。
﹁僕の後見になって欲しいんだ﹂
﹁まあ⋮⋮⋮﹂
想像がついたけれども、まさか本当に言ってくるとは思わなかった
⋮⋮そんな類の言葉が、彼の口から発せられた。
﹁今回の件で、君にも迷惑を掛けておきながらこんな頼みをするの
は厚かましいことだが⋮⋮今、僕は非常に厳しい立場に立たされて
いる。そして、それと同時にダリル教も混乱の真っ只中だ。⋮⋮こ
686
のままでは、ダリル教の波乱が、王国にも波及するかもしれない。
だからこそ、この混乱を招いた父の息子である僕が、今回の一件の
被害者である君と協力関係にあると内外に示すことができれば⋮⋮
これ以上ない抑止力になると思うんだ﹂
確かに彼の言う通り、現在ダリル教は波紋騒ぎの後の教皇の粛清及
びその一派に対する責任追及で揺れに揺れていることは事実だ。
いわ
そして、それと同時に教皇やその一派と癒着のあった貴族の面々に
ゆる
対する調査も進んでいると聞く。⋮⋮とはいえ、その貴族たちは所
謂蜥蜴の尻尾⋮⋮小物たちばかりで、本当に責任追及をしなければ
ならない面々にまで及んでいないらしいが。
﹁⋮⋮確かに、ダリル教の混乱は王国にも害がありましょう﹂
﹁なら⋮⋮﹂
期待を持った目で、私を見つめる。
けれども、おあいにく様。
﹁⋮⋮ですが、私が貴方と協力したとして。それに対する私のメリ
ットは何でしょうか?﹂
私は、続けて勤めて冷たい声でそう問いかけた。
687
招かざる客人︵後書き︶
番外編集を追加しました。
http://ncode.syosetu.com/n7919
da/
688
会談︵前書き︶
1/3
689
会談
﹁⋮⋮メリット?﹂
ヴァンは、意味が分からないと言いたげな表情で問い返してきた。
﹁ええ、メリットですわ。私が貴方に協力したとして、何かメリッ
トはありますか?﹂
﹁メリット云々の前に、君は王国貴族としてこの国の危機を救おう
という気概はないのか?﹂
﹁まあ⋮⋮可笑しなことを。そもそも、私に冤罪をかけようとしな
ければ、このようなことにならなかったのではなくて?﹂
コロコロと、私は笑う。それはもう、心の底からの笑みだ。
﹁そもそも、国の混乱なんて今更な話だわ。次の王位を巡って貴族
それが長らく続いた状態で国が保っていること自体
を含め上は真っ二つ⋮⋮いえ、中立派も含めると三つ巴と言って良
いのかしら?
が奇跡﹂
どう保たせているのかは知らないけれども、それを成している方々
を私は本当に尊敬する。
こんな上が派閥争いなんて繰り広げてたら、民たちの生活はもっと
荒んでいてもおかしくないと思うのだけど。
隣国がこれ幸いと攻め込んできても、不思議でないのだけど。
690
それらを全て封じ込めているのだとしたら、その手腕は本当に賞賛
すべきものだと思う。
一つの領と国を比べるのも烏滸がましいことだけど、私が領の運営
をするに当たって、そのトップは私一人。
反体勢力がないからこそ、今のところ強引にでも新たな施策を推し
進めることができるし、指揮系統が私一人だから混乱もない。
それに対して、今この国を運営するとなると、何か行動を起こすに
も敵対勢力からの妨害があるでしょうし、味方もいつ敵に寝返るか、
そもそも味方なのかの疑いは常にあって。
そこを含めて、周りを上手く動かさないとならない。
そんな仕事以外のことで神経が磨り減りそうな、環境。
そして、一歩でも踏み外せば国家存亡の危機と言っても過言ではな
いほどの綱渡りにも等しい仕事内容。
ああ、お父様に胃薬渡してあげよう⋮⋮そんなことを考えつつ、ヴ
ァンを見つめる。
﹁その片棒を担いでいた貴方が、今更国の混乱を防ぎたいから、私
と手を組みたい?⋮⋮どの口が言ってるのでしょうか﹂
﹁僕は、国を危機に落とすようなことなどしてないよ﹂
﹁まあ、無自覚なの?⋮⋮貴方、随分とエドワード様と仲良くして
いたじゃない﹂
691
クスクス笑う。それが癇に障ったのか、顔を顰めていた。
﹁それは、同じ学園なのだから当然でしょ﹂
﹁当然じゃないから、私は言っているのよ。⋮⋮あの学園は、この
国の貴族社会の縮小図。共にいるのは、自然と親が同じ派閥の者同
士。貴方が追っかけていたのがエドワード様かユーリ様かは知らな
いけれども⋮⋮あそこまで常時共にいたら、誰でも思うでしょうね。
“ヴァン様、引いてはヴァン様の後ろにいる教皇は、エドワード様
を支持されているのだ”と﹂
それから言うと、私とベルンも本当に危なかったのよね。
本来は私が婚約者のため、ベルンがエド様と距離を置く筈だったと
いうのに⋮⋮まさかのベルンからエド様ないしユーリに近づいてい
く始末。
婚約破棄という貴族社会でとんでもないほどの瑕疵がついてでも、
私を引き離しにかかったお父様の気持ちが今となっては、あの時以
上によく分かる。
﹁貴方だって、この国の派閥争いを激化させた一人なのよ。今更国
のためだと言われても、私は笑うしかないわ﹂
ヴァンは、一瞬目を瞑る。そして、次に目を開けた彼は悲痛そうな
表情を浮かべた。
少し、言い過ぎたかしら?
﹁⋮⋮自分の浅慮さは、よく分かった。だけど、だからこそ僕は責
692
任を取らなければならない。これ以上の混乱を招かないように、や
っぱり僕は僕のできることをしたいと思う﹂
﹁その第一歩が、私と貴方の手を組むことだと?﹂
迷いを見せつつ、彼は頷いた。
⋮⋮前言撤回、全然言い過ぎでも何でもなかったわ。開き直った彼
に、私は溜息を吐くのを通り越して、最早乾いた笑みしかでてこな
い。
﹁大きな変革を前に、組織が混乱をするのは当然のこと。それも旧
体制のトップの者たちが罷免、捕縛までされる者が出ているのだか
ら、仕方ないことでしょう﹂
パチン、と私は持っていた扇子を閉じた。
﹁そもそも、教会の腐敗は目に余るものがあったわ。貴族たちから
集めたお金を、民たちに還元さず、自らの懐に収めていたわ﹂
﹁だけど、聖職者も生活があるんだ。それは⋮⋮﹂
﹁仕方のないこと⋮⋮と言うなら、即刻ここから出て行きなさい﹂
私の剣幕に、ヴァンは顔を引きつらせた。
﹁税金の中から少なくない額が、教会にはいっていた筈よ。⋮⋮一
体その金額を捻出するのに、どれだかの労力がかかることか﹂
納税者たちが、どれだけ大変な思いをして税を収めていることか。
693
それを管理し、適正な価格を振り分けるのにどれだけ大変な労力が
かかることか。
領主代行として、税を軽々しく思う気持ちは見過ごせない。
﹁よしんばそれで足りないにしても、あんなに寄付金を募り、慈善
パーティを開かせておいて、一体そのお金はどこにいっているのか
しらね﹂
﹁それは⋮⋮﹂
そんなこと、知らなかった⋮⋮そう言いたそうな不満が顔に出てい
た。
けれどもそれを言った瞬間、私に叩き出されると察したのか口を噤
んだ。
まあ、﹃知らなかった﹄⋮⋮その一言は、過去の私にも当てはまる
のだけどね。
私は前世の記憶が蘇るまで、私の環境はどこか当たり前のものだと
思って享受していたのだから。
今だとて、貴族としての責務を十全に果たしていると胸を張って言
えるのか⋮⋮それは、分からない。
分からないけれども、少なくともあの頃よりも周りが見えるように
なったのは、事実。
694
かざ
﹁それに、教会はその力を随分と翳していたじゃない。先の破門騒
動が良い例ね。王国としても、多少の混乱はあれど、教会が国に干
渉してこないのなら王国にとってもプラスよ。⋮⋮私と貴方が手を
組んで表面上の平穏を得るよりも、ずっとね﹂
695
会談
2/3
弐︵前書き︶
696
会談
弐
ヴァンは、唇を噛み締めながら俯いた。
﹁⋮⋮というわけで、私は貴方と取り引きをすることはないわね。
失礼させてもらうわ﹂
﹁⋮⋮待ってくれ!﹂
追いすがるように、席を立った私に近づいた。
けれども、側に控えていたターニャ、ライルそしてディダが私と彼
の間に立ち塞がる。
﹁まだ、何か?﹂
﹁僕は、僕は⋮⋮⋮!﹂
喚き散らす彼を、私は観察するようにじっと見た。
﹁どうすれば良いんだ!僕を、助けてくれ⋮⋮!﹂
助けて、くれ⋮⋮ねえ。彼の言葉に、思わずクスリ笑ってしまった。
﹁何故、私が貴方を助けなければならないの?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁私は、﹃心優しい﹄ユーリ様を虐げた﹃悪女﹄なのでしょう?
697
貴方も、私をエドワード様と共に弾劾したじゃない。そんな私が、
何の利もなく貴方を助けるとでも?﹂
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
彼の助けを求める言葉を聞いて、けれども何とも思わなかった。
同情は勿論のこと、あの時と立場が逆転したことに満足することも
なく。
ただただ、無。⋮⋮本当に、私の中で如何に彼がどうでも良い人物
だったのかが分かる。
﹁父が、教皇の立場を追われて。けれども、ユーリは変わらず接し
てくれると思ってたんだ⋮⋮!なのに、急に他人行儀になって。僕
のこと、いない存在かのように扱うんだ﹂
要するに、ユーリは彼のその後ろにある教会の力を欲していたとい
うことか。
彼の言葉を聞いて、逆にユーリに感心した。
そこまで簡単にバッサリと切り捨てるなんて、いっそ清々しいわね。
﹁周りの皆も、手の平を返したように僕を冷遇するんだ。僕は⋮⋮﹂
﹁それが、何だと言うの?﹂
私は、至極あっさりとそう答える。
698
﹁愛した人が、他人行儀になった?全ての人が、手の平を返して冷
遇する?貴方がそんな状況に陥っても、私は何とも思わないわ。貴
方だって、私が学園を追われても何とも思わなかったでしょう?﹂
私の皮肉に、彼は顔を歪めた。
﹁⋮⋮ああ、君の言う通りだ。そうだ、僕は君を追い落とした側だ。
その僕が、ここに来ているなんて自分でも馬鹿だとしか思えないよ﹂
﹁あら、分かってくださっているなら結構。さっさとお引取りを﹂
﹁それでも、僕は諦め切れなかったんだ。僕を見捨てた奴らを見返
したい、何もできないまま終わりたくないんだ!﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
彼の叫びに、私は笑った。それは、彼のことを馬鹿にして⋮⋮では
ない。
あんなにふんわりとした緩やかな雰囲気を持っていた彼が、変われ
ば変わるものだなと。
顔を歪めながら必死に叫び、可能性がないと分かりながらも追い縋
る今の彼からは、あの学園の頃の彼の姿は全くもって想像つかない。
﹁ああ、そうだ。本音を言えば、国のことなんてどうでも良い。僕
は、僕を見捨てた人たちを見返したいからこそ、君のところに来た
んだ⋮⋮!﹂
﹁見返して、どうするの?愛を乞う?側近において欲しいと願うの
699
?﹂
﹁⋮⋮見捨てられた時点で、彼らのことなんてどうでも良い。ただ、
僕は僕の為だけにそうしたいんた⋮⋮!﹂
⋮⋮なんて、利己的な考え。
けれども呆れることができないのは、私にもその考えが分かるから
なのよね。現在進行形で、彼らを見返してやりたいという気持ちは
確かに私の中である訳だし。
そして同時に⋮⋮何て危うい。
私と彼の決定的な違いは、私の場合それが目的にはなり得なかった。
それに囚われなかったのは、領民の皆のおかげ。
けれども、今の彼を見る限り⋮⋮彼はそれだけが目的であり、それ
だけを求めている。
そのために、何が起きても辞さないとでもいうかのような剣呑な雰
囲気すら、あった。
私は、もう一度彼の対面の席に座る。
﹁だから、私と手を組みたい⋮⋮と﹂
彼は私の言葉に頷いた。
なるほどね⋮⋮私もまた、彼らを見返してやりたいという願いを持
っていると当たりをつけたからこそ、来たということか。
700
⋮⋮けれども、残念。
﹁私が後押しをしたところで、既に貴方が教皇につくことは不可能
だわ。それだけ、今回の組織改革は進んでいるのだから﹂
ラフシモンズ司祭とは、今でもやり取りをしている。彼の報告を見
る限り、ヴァンが教皇につくのは不可能だ。
そもそも今回、上層部の面々はほぼ更迭ないし捕縛。教皇の世襲制
からの脱却も案にあり、それはほぼ可決される見通しだ。
代わりに、枢機卿からの多数決による教皇の選出が採用される見通
しだ。
﹁私としても貴方を推すよりも、現在辣腕を振るっているラフシモ
ンズ司祭を支援したいわ。貴方には教会の地盤もなければ、経験も
何も無さ過ぎるのだもの。このままでいけば、貴方はダリル教に残
ることも難しいわね﹂
何せ、現在ヴァンは宙ぶらりんな立ち位置。今回の一件がなければ、
次期教皇としてダリル教本部に入り経験を積んで⋮⋮というところ
であったろうが、今はそもそも世襲制すら否定されている。
それに旧体制からの脱却を目指すダリル教にとって、彼の存在は邪
魔以外の何物でもないだろう。
このままでは、ダリル教に在籍できるかどうかすら怪しい。
701
﹁⋮⋮ただ、貴方を知り合いの教会に置いて貰えるよう取り計らう
ことは可能だわ。勿論、聖職者としてね﹂
以前領都の神官兼責任者に就いてくださった方には、私個人の繋が
りができている。
教皇どころか、本部に入れるかどうかも分か
彼になら、お願いすることは可能だ。
﹁一介の聖職者よ?
らない。けれどもその方は周りの評判よりも、自身の目で見たもの
を信じる方。貴方が自身で実力を積み、示せば重用してくれる可能
性もまた、あるかもしれないわね﹂
⋮⋮さて、どうする?
その問いかけに、彼は迷いを見せなかった。
702
会談
3/3
参︵前書き︶
703
会談
参
それから誓約書を互いに交わした後、彼は帰って行った。
﹁⋮⋮何故、あのような温情を?﹂
ライルが、不満気にそう呟いた。
ターニャでないのが珍しいと思ったけれども、それは声を出したの
が彼が彼女の違いなだけだったというのが彼女の表情を見てよく分
かった。
﹁⋮⋮温情、かしらね﹂
私は、クスリ笑って呟く。
その反応に、彼は怪訝な表情を浮かべた。
﹁至急、ラフシモンズ司祭への連絡の準備を﹂
﹁畏まりました﹂
私の指示に、ターニャが反応する。
﹁⋮⋮さっきヴァンにも言った通り、今、ダリル教は改革を進めて
いる最中。けれども、全ての人がその改革に賛成している訳ではな
いのよ。貴方達も、想像がつくでしょう?﹂
甘い汁を吸っていたのは、ダリル教の上層部のみならず、ダリル教
704
と繋がっていた貴族の面々もだ。
そんな彼ら⋮⋮または彼らと繋がりのある面々が、今回の改革案に
黙って指を咥えて見ているということはないだろう。
必ず、妨害はあるはずだ。
ヴァンの血筋、彼の危うさを利用してその旗頭にすることは十分あ
り得る。
だからこそ、彼をこちら側に囲っておきたかった。⋮⋮その面々に、
取り込まれる前に。
﹁⋮⋮彼が今の悔しさを糧に成り上がった時に、私のこの援助は活
きてくる。ラフシモンズ司祭ならば、予め彼の動向を伝えておけば
それすら上手く利用してくれるでしょう。そもそも、彼に言ったこ
とは、嘘ではないわ。今、領都の教会を取り仕切る彼は医学を収め
領民への奉仕を推奨する方。その考え方はラフシモンズ司祭のそれ
と重なるし、そこで力をつければ本部への道が開ける可能性とてあ
る。彼に恩を売ることもできるわ﹂
これは、ラフシモンズ司祭の力量を信じているからこそ採れるそれ
だけれども。
﹁逆に彼が今の悔しさを忘れたとしても、それで良いの。私は彼の
動向を把握し、彼と接触しようとするあちら側を事前に排除するこ
とができるのだから。それを成すことで、ラフシモンズ司祭にも恩
を売ることもできる﹂
﹁なるほど。それならば、私は彼に私の手の内の者をつけて監視致
705
します﹂
﹁私も、それはお願いしようと思っていたのよ。⋮⋮どちらに転ん
でも、私にメリットはある。ね?果たしてこれは、彼への温情かし
ら?﹂
彼が﹃お願い﹄をしに来た時点で、どう転ぼうとも私には利点しか
転ばない。
⋮⋮何せ、私は悪役令嬢なのだとヴァン自ら
笑いが止まらないとは、このことだわ。
まあ、良いわよね?
私に引導を渡そうとしたのだし。
706
会談
参︵後書き︶
公爵令嬢短編集も始めました。
http://ncode.syosetu.com/n7919
da/
今後とも、宜しくお願い致します。
707
ターニャ、お嬢様を案じる
﹁ふう⋮⋮⋮﹂
私は、下ろした髪のブラッシングを終えて、溜息を吐いた。
時刻は日付が変わろうとしている頃。
お嬢様の就寝前の細々とした支度を整えて、私も眠ろうとしていた。
よく、私は﹃本当に眠っているのか?﹄だなんて冗談半分で方々か
ら聞かれることがあるが、私だって人間だ。勿論、睡眠は必要。
それに、私なんかよりセバスさんにこそ、その疑問はぴったりだ。
それでいて疲れなんて見せずに、常に穏やかな表情を浮かべている
のだから凄い。⋮⋮私も見習って精進しなければ。
そんな取り留めのないことを考えつつ、ふと、私は机の上に置いて
あるリボンを手に取る。レーメ、メリダそしてお嬢様とお揃いのそ
れ。
⋮⋮いつだったか。あれはまだ、私が侍女の見習いとして学ぶ前の
ことだった気がする。
旦那様が出入りの商人が来た時に、お嬢様に欲しい物はないかと聞
いた時に選ばれたものだった。
﹃コレで良いのかしら?こっちの宝石の方が良いのではなくて?﹄
708
煌びやかで、高価なものが並ぶ中あえてこのリボンを選んだお嬢様
に、旦那様は不思議そうな顔をして⋮⋮奥様は、他の物を勧めてい
らっしゃった。
﹃はい、コレが良いのです。その代わり、コレを4つください﹄
そうして手に入れたリボンを、お嬢様は私たち3人にくださったの
だ。
﹃皆でお揃いよ﹄
そう、微笑まれながら。
私たちにとっては高価な⋮⋮けれども公爵令嬢たるお嬢様が身につ
けるには安価なそれ。
けれどもお嬢様はそれを宝物だと言う。
﹃趣味に合わなかったら、ごめんね。でも、皆でお揃いのものが欲
しかったの。貰ってくれると嬉しいな﹄
私にとっても、宝物になったのは言うまでもない。お嬢様の御心が
詰まったものなのだから。
⋮⋮本当に、幸せだと思う。あの日あの場所で、お嬢様に拾ってい
ただけて。
多分、お嬢様が私を拾ってくださらなければ、私は何処かでのたれ
死んでいた。
709
いつからそこにいたのかは、分からない。けれども、恐らく親に棄
てられたのだろう。
気がついたら、私は領都の中でも特に貧しい民が集まる場所に独り
でいた。
幼く要領も悪かった私には、食事にありつけないなんてことザラに
あって。そうして、段々弱っていった。
ボンヤリと、路地に座り込んで空を見上げる毎日。
たまに、親子で手を繋いで歩く姿を見かければ、何故だか無性に泣
きたくなった。
このまま、独り死んでいくのだろう⋮⋮そう自分の生に諦めるのも、
時間はかからなかった。⋮⋮むしろ早く消え去ってしまいたいとす
ら、思っていた。
そんなある日、見知らぬ二人組の男が私に声を掛けてきた。
どんな内容だったのか、覚えていない。
けれども下卑びた笑みに、“良くない”人間だということだけは、
本能で分かった。
生に諦めた私も、けれども目の前に差し迫った危険に身体が反応し
て。私は逃げようと、走った。
走って、走って、けれども体力のない幼子が逃げれる訳もなく⋮⋮
私は、捕まりそうになって。
710
その時、助けてくれたのがお嬢様だった。
無我夢中だったけれども、私が逃げた先はたまたま運良く大通りで、
お嬢様の乗った馬車の前に飛び出していたのだ。
﹃怪我は、ない?﹄
止まった馬車から現れたお嬢様を初めて見た瞬間、自分とは何て住
む世界が違うのだろう⋮⋮そう思いつつ、私は首を横に振った。
﹃良かった。⋮⋮ねえ、貴女。行くところはあるの?﹄
その問いにも、私は再び首を横に振る。
﹃そう。⋮⋮なら、私と共に来ない?﹄
その後、お付きの人に止められてもお嬢様は頑として私を連れて行
くと主張して⋮⋮結局、私は助かった。
﹃なんだか、追われていたみたいだし。あの人たちは、お父様に言
っておいたから﹄
後々知ったことだったが、彼らは身寄りのない子ども達を捕まえて
安価な値段で売り捌く生業をしていたようで。
お嬢様とお付きの人たちに拾われるところを見て、私のことを諦め
たらしい。
そして、お嬢様の申し出とお付きの人たちの報告によって、その面
711
々も捕縛されたとのこと。
﹃これから、ここで一緒に暮らしましょう。貴女、名前は?﹄
﹃⋮⋮分からない﹄
﹃そう。⋮⋮なら、ターニャという名前はどうかしら?お伽話に出
てくる、賢いお姫様の名前よ﹄
陽だまりの中で、笑顔でお嬢様は私の手を握りつつそう言ってくだ
さった。
その手の温もりに、路地で見かけた親子を思い出して。⋮⋮私は、
ポロポロと流れる涙を止めることができなかった。
﹃い、嫌だった?じゃあ、違う名前⋮⋮﹄
私のそんな様子に、お嬢様はオロオロと慌てていらっしゃって。そ
れが可笑しくて、けれども涙は止まらなかった。
私は二重の意味で、救われたのだ。
あの場での危機に救われただけでなく、生をを諦めた私に、生きる
目的を与えてくれたのだから。
だからこそ、お嬢様の御心を煩わせたくない。煩わせるもの全てか
ら、守りたいと思う。
そしてそれ故に今、お嬢様には早く領地に帰っていただきたいと願
う。
712
お嬢様は王都に来られてから、一度も本当の意味で笑っていない。
いつも、疲れたような表情。
勿論、王都に来て最初の頃は破門騒ぎを静めるためで、それどころ
ではなかったし、その後も諸々の事後処理のため交渉していたのだ
から、気を張っていたのも仕方ないのかもしれない。
かげ
仕方ないのかもしれないが⋮⋮私的な時ですら、表情が翳っていた。
﹃⋮⋮お嬢様、何か変わったことはありましたか?﹄
忌々しいことに、妹と現れたディーンにも見送りの際、そう聞かれ
た。
たまにしか現れない、あの男ですら気づくのだ。勿論、私を含め館
でお仕えする面々はお嬢様のその変化に気付いている。
気付いていても、何もできない。それが、歯痒かった。何故なのか、
その原因すら分からなかったのだから。
けれども、何となくなのだが⋮⋮恐らく、お嬢様の御心を蝕んでい
るのはこの地なのではないかと、私はそう思う。
お嬢様にとって、忌まわしき事件のあった地。今回もまた、お嬢様
の御心を苛むような事件が起きて⋮⋮この地を、厭うのも仕方ない
ことだろう。
けれども、根本的に⋮⋮何故だかお嬢様はこの地では、お嬢様らし
く在られない。
713
上手くは表せられないが⋮⋮自身を、悪く見せようとしているかの
ような。
公爵令嬢の令嬢として、お嬢様は幼き頃の陽だまりが良く似合うだ
けの方ではない。
成長されたのだ⋮⋮それは、仕方のないこと。
権謀渦巻く上流階級の中で、むしろ昔のままでいれば、そんなお嬢
様を利用せんとする輩が、うようよと集まってくることぐらい、使
用人の私にですら察しがつく。
冷静かつ、自身の御心を押し込めて厳しい判断を下す姿もまた、お
嬢様にとって必要なことだ。
けれども、何故だか王都ではそれが顕著だった。
あの陽だまりの笑みはなく、冷たく感情を隠された笑みを浮かべる
ことが多くて。
まるで、自分を悪く見せるかのように振舞っているようにすら感じ
られた。
そして多分、無意識にお嬢様もそれを感じていらっしゃる。
しき
頻りに、領地に帰りたいと願うのは、何も仕事が溜まっているから
⋮⋮というだけではなさそうだった。
早く帰りたいと。待ち遠しいと。
714
そう願うお嬢様は、まるでその振る舞いに疲れているようで。
私もまた、早く帰って欲しいと願うばかりだった。
715
真夜中の密会︵前書き︶
1/2
716
真夜中の密会
ノック音がして、私は扉を開ける。
そこには、何故だかディダがいた。
﹁こんな時間に、何か用ですか?﹂
﹁⋮⋮と、悪い。寝るところだったのか﹂
﹁ええ。今日はお嬢様も早くに就寝されましたし、私の仕事も早く
終わったものですから﹂
﹁なるほど、な。⋮⋮というか、そんな姿なのに扉を開けるなよ。
もう少し、女なら警戒心を持て﹂
﹁あら、公爵家の館でそのような心配は無用かと。⋮⋮それに私も
多少は心得がありますから、いざとなれば実力行使致します﹂
にっこりと笑ってそう言えば、ディダは一瞬苦笑いを浮かべる。
けれどもやがて、真剣なそれになった。
﹁⋮⋮その実力行使が通じない相手なら、どうする?俺は簡単には
やられないぞ?﹂
﹁そうですね⋮⋮屋敷に限って言えば貴方とライルだけは、難しい
ですね。他侵入者で、私も手こずるような相手ならば色恋ではなく、
それは命を狙ってくるような輩でしょうし。まあ⋮⋮二人は一応信
717
頼しておりますので﹂
じっと、視線がぶつかり合う。夜更けの今、互いが口を閉ざせば物
音一つしない静かな空間で、その沈黙がとても重く感じた。
﹁⋮⋮参った。そう言われちゃ、何もできねえな﹂
けれども、ディダがそう言って笑ったことで、それもあっという間
に吹き飛ぶ。
﹁で?要件はなんだったのです?﹂
﹁いや、ライルと飲もうと思ってたんだけどよ。ライルが寝ちまっ
たから、お前はどうかなって﹂
﹁全く⋮⋮貴方こそ、こんな時間に誘うなんて。一応私は女で、変
な噂をたてられても知りませんよ﹂
﹁構わないさ﹂
そう言って笑う、目の前の男の真意は読めない。
﹁ま⋮⋮確かにもう遅い時間、か。明日も早いんだろう?悪かった
な﹂
﹁待ちなさい﹂
立ち去ろうとした彼に、声をかける。
﹁私も、目が覚めてしまいましたし。⋮⋮せっかくだから、飲みま
718
しょう。着替えるので、少し待ってください﹂
﹁おう﹂
そうして私は着替えて、再び部屋を出た。
今から店に行く⋮⋮というのも微妙な時間帯だったため、結局私た
ちは使用人用の歓談室で飲むことにした。
この歓談室は使用人達全員の共有の部屋で、読んで字の如く歓談し
て交流を持つための部屋だ。
アルメリア公爵家はその家格に相応しい大きな屋敷を王都に持つの
だか、その半分ぐらいは使用人たちの為のスペースだ。
これだけの大きな屋敷を維持し、また皆様が快適に暮らせる為には、
それだけの使用人が必要ということの現れであるし、また、代々使
用人を遇するこの家の方々らしい造りでもあると思う。
﹁何飲む?一応、これ持ってきたけど﹂
﹁⋮⋮これ、マカラマ産のじゃないですか。一体、どうしたのです
?﹂
﹁師匠から、ふんだくった﹂
悪びれもせず言ったディダに、私は思わず溜息を吐いた。
﹁全く、貴方という人は⋮⋮﹂
719
﹁良いじゃないか。⋮⋮師匠も、今回のことは俺とライルに悪いと
思っていたみたいだから。これでチャラだ、と言ったら苦笑いして
いたよ﹂
そう言ったディダもまた、苦笑いを浮かべている。
この男らしい気の使い方だな⋮⋮と、そう思いつつ、私は無言で差
し出された瓶を受け取った。
﹁⋮⋮貴方がたの労働の対価を、私も飲んで宜しいのかしら?﹂
﹁ライルはいらないって言ってたし。何より労働、とまではいかな
いさ﹂
良く言う⋮⋮と内心呟きながら、私はグラスを二つ取り出して、注
ぎ始める。
二人が毎日のように、お師匠様に駆り出されていたよことは勿論知
っている。そこで教官のようにお師匠様の補佐として訓練を施して
いたことも。
そしてその間も、お嬢様の護衛としての勤務はされていて、しかも
空いた時間には領地から共に来た面々に通常通り訓練を施していた
ことも。
ここ最近、彼らを見かけなかったのはそれだけ仕事を彼らもまた、
していたのだ。
お嬢様や旦那様が家の仕事をしなくても良いと、仰っていても。
720
うそぶ
ライルは頑なに固辞し、そして目の前の男は飄々と﹃師匠のところ
では、遊んでいるだけだから﹄と嘯いて。
注ぎ終えたグラスを、私たちはそれぞれ手に持った。
﹁乾杯﹂
チンと、涼やかなグラスを合わせる音。
私たちはそれぞれ、それを口に運んだ。
甘やかで、けれども深みのある味が口一杯に広がる。
﹁あー⋮⋮やっぱり、美味いな。マカラマ産﹂
﹁⋮⋮本当に。随分良いのを貰ってきたわね﹂
﹁師匠にあるところのお酒は、全部良いものだろ。何せ、あれだけ
飲むのに随分飲む酒にはうるさいから。いや、飲兵衛だからこそ⋮
⋮か﹂
笑ってそう言いつつ、ディダはグイッと残ったそれを一気にあおっ
た。
﹁やっと、帰れるな﹂
ふと、そんなことを呟く。
﹁ああ、だからもう⋮⋮お師匠様のところに通うのも終わったのね﹂
721
﹁まあ、な。支度もあるし﹂
﹁⋮⋮貴方も、早く領地に帰りたい?﹂
﹁貴方“も”?﹂
﹁いえ、深い意味はないわ。それで、その答えは?﹂
﹁んー⋮⋮俺の帰るところっつうか、いるところって結局姫様のと
ころなんだよな。だから、領地に帰るっつうのもおかしな表現だ﹂
﹁確かに、そうね﹂
この男もまた、私のようにお嬢様にその身を捧げた一人。普段あま
りにも飄々としているので、ついその忠誠心を疑うことも多々ある
が。
﹁けど、まあ⋮⋮領地に戻りてえな。姫様と一緒に、早く。ここに
は、色んな柵があり過ぎる。領地でのように、姫様の下にずっとい
ることは叶わないし⋮⋮何より、俺たちの持つ力じゃ及ばないよう
な力を持つ奴らが、たくさんいるからなあ﹂
﹁貴方たちよりも、強い人なんてそうそういないと思うけれども?﹂
トボけてそう言えば、ディダも笑った。分かっているだろう?とで
も言いだけな目をして。
﹁冗談よ。⋮⋮そうね、王都にいると自分の力がいかに小さなもの
か実感するわ。私たちでは持ち得ない力⋮⋮権力という名の大きな
力の前では、いくら修行を積もうが太刀打ちできないのだもの﹂
722
﹁それなんだよな。だから、早く戻りたい。姫様の身を守る者とし
て﹂
﹁そう、ね⋮⋮﹂
723
真夜中の密会
2/2
弐︵前書き︶
724
真夜中の密会
弐
﹁お前こそ、浮かない顔してんな?何だ、どっかの貴族様に嫌味で
も言われたのか?それとも、久々に侍女頭さんの下でシゴかれたか
?﹂
﹁それ、エルルさんの前でも言える?﹂
﹁絶対無理﹂
カラカラ笑う彼の横で、私は溜息を吐いた。
﹁いいえ、そういう訳じゃないわ。ただ⋮⋮少し、悩んでいただけ﹂
﹁お前が悩み事ねぇ⋮⋮どうせ、姫様関係のことだろ?﹂
﹁どうせとは何よ﹂
私の睨みに、ディダは“こりゃ失敬”と笑う。彼の反応に、自分が
八つ当たりめいた反応をしてしまったことに気がついて、また溜息
を吐いた。
﹁⋮⋮まあ、でもそうね。貴方の言う通り、私の悩みはお嬢様のこ
とよ﹂
﹁⋮⋮姫様に、何かあったのか?﹂
急に、彼の声色が真剣なそれに変わった。
725
お嬢様、王都にいればいるほ
こういうところを見ると、やっぱりこの男にとってもお嬢様の存在
が大きいのだと感じて安心する。
﹁貴方も、気づいているでしょう?
ど顔色が悪くなることを﹂
﹁そりゃ、な﹂
ディダは苦笑いをしつつ同意してきた。
﹁常に気を張っていなければならないから、そうなるのも仕方のな
いことかもしれない。けれども、お嬢様のその様子に気づいていな
がら何もできない自分が歯痒いのよ。貴方の言っていた、自分の及
ばない大きな力というものをまざまざと突きつけられて。⋮⋮私、
自分の力というものを過信していたみたいね﹂
言葉を口にすればするほど、苦い想いが胸に広がって、つい自嘲し
てしまう。
﹁あー⋮⋮まあ、その何だ。人にはさ、領分ってもんがあるんだよ﹂
﹁分かっているわよ。だから私には、どうしようもないってことは﹂
犯せない、領分。私にはどうしようもない、壁。それが分かってい
るからこそ、こんなに苦しいのだ。
﹁いや、分かってねえよ。例えば、俺の領分っつうのは、姫様の護
衛。俺の身を盾にしてでも、姫様を守るっつうのが俺の役目であり、
領分だ。⋮⋮その領分だけならば、俺は誰にも負けない。誰にも、
726
譲らねえ。例え、お前でもな﹂
分かっていない⋮⋮そう、否定された時、私はどうしようもない怒
りが心を占めてディダを睨んだ。
けれども続いた言葉に、反論しようとしていた口を閉ざす。
﹁なら、お前の領分は何だ?お前の役目は、姫様の側に常に在って、
色んなことを助けることだろう?それは、俺にはできない。俺には、
お前のように美味しい茶を煎れたり身支度の手伝いをすることもで
きなければ、姫様の予定を把握して管理することも、仕事の手伝い
をすることもできねえからな﹂
﹁それは⋮⋮そうかもしれないけれども﹂
﹁お前が努力をしているのは知ってる。師匠のところに行って護身
術を学んでることも、セバスさんのところで姫様の業務の基礎を学
んでいることも⋮⋮お前が、自分の領分を広げようとしていること
を。それは、姫様の役に立つんだから良い。けど、人一人でできる
領分の広さには、限界っつうもんがある。良いじゃねえか⋮⋮姫様
はお前の役割をこなす奴を必要としていて、それをお前に任せてい
るんだ。お前は、その求めに応えられるよう、与えられた領分内で
できることを深めれば﹂
グイッと、ディダはグラスに残っていたお酒を一気に飲み干した。
﹁俺の言ってること、間違っているか?﹂
﹁⋮⋮いいえ。いいえ⋮⋮﹂
727
頭を、鈍器で殴られた気がした。
私は、過信していたんじゃない。驕っていた。
ライルとディダが護衛の力量を高めているように、メリダは料理の
腕を上げているし、レーメは知識の幅を広げまたは深めようとして
いる。
セイもモネダも、与えられた役目を全うしようと努力していて。
皆にそれぞれ求められている役割があり、その分野で頑張っている。
﹁まあ、つまりなんだ。できないっつうことで立ち止まるんなら、
自分のできること、できる方法で姫様を支えることを考えれば良い
んじゃねえか?﹂
私もまた、グラスに残っていたお酒を飲み干した。
﹁⋮⋮そうね。私は、お嬢様の御心が安らぐよう、私にできる方法
で側に在るだけだわ﹂
それは、さっきまでの不貞腐れた想いからではない。
私にも、矜持がある。
ディダがお嬢様の護衛の役目を譲れないと言ったように、私にも、
私の領分があるのだから。
﹁その顔の方が、お前らしいや﹂
そう言って、ディダはカラカラとまたいつもの調子で笑った。
728
帰還︵前書き︶
1/2
729
帰還
﹁やっと、帰れたわ⋮⋮﹂
私は万感の思いを込めて、そう呟いた。
⋮⋮本当に、長かった。
シーズンと比べれば、今回の私の王都の滞在期間はそう長くない。
それでもそう感じるのは⋮⋮恐らく、あまりにも濃い日々だったか
らだろう。
前回帰って来た時もほっとしたものだったけれども、今回はそれ以
上。
屋敷に到着すると、使用人が総出で迎え入れてくれた。
﹁﹁﹁おかえりなさいませ﹂﹂﹂
そう言った皆の表情が、泣き笑いのようなそれで、思わず私の瞳に
もうっすら涙が浮かんだ。
本当、皆に心配をかけてしまったわね。
﹁ご無事でのお戻り⋮⋮セバスめは、大変嬉しく思います。本日は
どうぞ、ごゆるりとお休みくださいませ﹂
﹁ありがとう、セバス﹂
730
いつもなら書斎に直行だけれども、今日は自室にむかう。
皆の言う通り、ゆっくり休むことにしたからだ。
のんびりとターニャが淹れてくれたお茶を、ゆっくり飲む。
ふと、風がふわりと吹いてカーテンが揺れた。それに誘われて、私
は立ち上がって窓辺に寄る。
そして、窓から領を眺めた。
美しい、領地。緑が溢れ、少し遠くに見える街並み。私は⋮⋮この
光景が、好きだ。
歴代当主が、守り育んできたそれを眺めると、私は自身に流れる血
に誇りすら感じる。
ぼんやりと眺めつつ、ホッと息をついた。今回の騒動を、何とか終
息させることができて本当に良かった⋮⋮と。
・・
私はまだこの地を預かることができるのだから。
﹁あ⋮⋮そうだ。ターニャ、ライルかディダを呼んできて﹂
﹁畏まりました。どちらかへ⋮⋮⋮?﹂
﹁ええ。でも、敷地内だから安心して﹂
﹁左様でございますか。少々、お待ちくださいませ﹂
ターニャは部屋から出て、けれどもすぐに戻ってきた。
﹁ちょうど、ディダがおりましたので﹂
731
﹁ありがとう、ターニャ。⋮⋮ディダ。少し、私の散歩に付き合っ
てくれない?﹂
﹁良いですよ。因みに、どこまで?﹂
﹁お祖父様のところまで、よ﹂
﹁ああ⋮⋮あそこ、か。了解。姫様の行く道につき従うのが俺の役
目だ﹂
﹁ありがとう。ターニャ、花束の準備をお願い。⋮⋮一緒に行きま
しょう?﹂
﹁勿論です。すぐに準備をして参りますので、お待ちください﹂
そして、ターニャとディダと共に敷地内の奥⋮⋮歩いて15分ほど
の鬱蒼と木々が並ぶ場所まで歩いた。
ここで、歴代当主が眠りについている。何故か墓地ではなく、ここ
に。
その理由は、私にも分からない。けれども、アルメニア公爵領の⋮
⋮それも沢山の思い出が詰まった屋敷を眺めながら眠れることは、
羨ましいことだと思う。
私はその中でも1番新しい墓石の前にむかった。
﹁⋮⋮お祖父様﹂
732
私はターニャから花束を受け取って、そこに置く。
私が学園に入学する前に亡くなった、お祖父様。魔王顔のお父様と
は似ても似つかぬ優しい顔つきの方だった。お祖母様の温和な方だ
ったから、お父様は一体どなたに似たのか、甚だ疑問だ。
閑話休題。
領主代行となって、お祖父様のことが妙に思い出されて、度々ここ
に足を運んでいた。
誰よりも領地を愛した方だったと、思う。
私の記憶の中で、窓辺で私が領地を眺めていた時と同じように、幼
い私とベルンを連れ出して領地を一望しながら誇らしげに領のこと
を語った方。
狸たちが蔓延るあの王宮で、よくぞ宰相を勤め上げたと思うほど柔
和な方だった⋮⋮というのが領主代行になりたてだった頃私は思っ
ていた。
けれども、今は違う。
領政に携わる中でお祖父様の痕跡を見つける度に感嘆して⋮⋮そし
て、自らを嘲笑った。
人の一面を見て、その人は“こういう人だ”と判断した愚かな自分
を。
よくよく考えれば分かることではないか。お祖父様が私に見せる顔
733
と仕事の時の顔が違うことは。しかもお祖父様とお会いできていた
のは、幼い頃の自分。その印象で、お祖父様のそれを決めつけてい
たなんて。
私が領政の改革ができているのは、その地盤をお祖父様が作ってく
れていたからだ。
それを悟ったのは、インフラの整備に着手していたからだ。あちら
こちらに、お祖父様の痕跡がそこにはあった。
その指示は確かで、特に災害への対策については何年何十年先を見
据えて仕事をしていたのかと私は舌を巻く。
⋮⋮私が先へ先へと発展ばかりを考えていて、足元が疎かになって
いたのも否めないが。
それを宰相の仕事をこなしながら行っていたのだから⋮⋮本当にこ
の領地を愛していたのだと、感動すらした。
﹁ただいま、帰りました﹂
そう呟きつつ、手を合わせる。
領地を騒がせてしまった、謝罪。家に迷惑をかけてしまった、謝罪。
そして、今後も見守っていてくださいという願い。
応えがないと分かりつつも、心の中で長々とそれらを語りかけた。
﹁⋮⋮⋮良し﹂
734
私は立ち上がると、振り返る。ターニャとディダが、微笑みを浮か
べながら佇んでいた。
﹁帰りましょう﹂
幾分心がスッキリしつつ、私はその場を後にした。
735
忙殺︵前書き︶
2/2
736
忙殺
﹁この報告書に書かれていること、もう少し詳しい内容が知りたい
わ。担当者を呼んでちょうだい﹂
書類の山を、私は指差す。
﹁こっちの決裁は終わったわ。各署に戻しておいて﹂
次に、その隣の小さな山を。⋮⋮これしか終わっていないと思うと、
少し涙が出てくる。
﹁そっちは直してもらう分よ。無駄な出費が多すぎる。その金額が
必要だというなら、その根拠を提出﹂
更にその隣の書類。出した部署の面々が肩を落とすのが眼に浮かぶ
けど⋮⋮財務の面々も同意見だったのよね。
﹁あそこの橋は確かに老朽化が進んでいるわよね。⋮⋮こちらの整
備より先に、橋の修繕作業を進めさせて﹂
⋮⋮さて、明くる日。
私は朝から書斎にいる。山となった書類に囲まれながら、少しずつ
それらを処理していた。
自分の分身が欲しいと心の底から願いつつ、そんな栓なき事を考え
る暇があったら仕事!と、自分を叱咤激励。
737
少し書類が無くなっても、セバスが次から次へと書類を持ってきて、
減る事はない。
最初から処理が必要な書類が全部置かれていたら、きっと足場もな
くなっていただろう。
その光景は、流石に私のやる気と気力が削がれるので、次々と持っ
てきてくれる方がありがたいと思うべき⋮⋮か。
セバスは申し訳なさそうに持ってくるのだけど、長らく空けてしま
っていたのだから仕方ない。
おまけに、今回の騒動のせいで元々予定立てて進めていたものも大
幅な遅れがでてしまったのだから、尚更だ。
領官たちの中にも、私の破門騒動で出勤しなくなった者たちがいる。
けれども、彼らは私が無罪であると確定したあの査問会の後も戻っ
てきていない。
つまり何が言いたいかというと⋮⋮まあ、人手不足なのよね。これ、
深刻な問題。この状況が長く続くのは領官たちに申し訳ないし、何
よりせっかく残って第一線で仕事をしてくれている彼らを、過労で
失いたくない。
﹁そういえば、そろそろ各地から税の報告がくるわね。その前に片
付けられる案件は片付けておかないとね⋮⋮﹂
ポツリ呟いた瞬間、珍しくセバスの顔色に変化があった。
738
勿論、良い意味ではなく悪い意味で。
⋮⋮分かっているわよ。これ以上の仕事をこの人数でまわすことが
無理だということぐらい。
とはいえ、税の報告は重要だ。各々の収益・収入が分かるのだから。
その数字は、今後の領内の経済がどうなるかのある種の指標だ。
入ってくるお金が多ければ、それだけ消費が期待できる。個人であ
れば収入が多ければ各人の財布の紐が緩み消費の活発化、商会であ
れば、その資金を元手にさらなる事業展開⋮⋮それらが期待できる。
それだけに、税収の報告は念入りに読み今後に活かしたいところ。
⋮⋮が、このままじゃそれも難しいので、本当早くどうにかしなけ
れば。
カリカリカリ⋮⋮筆を走らせる音のみが室内に響く。
﹁⋮⋮お嬢様、そろそろ休憩を挟まれては﹂
ターニャが遠慮がちに声をかけてきた。
⋮⋮あら、いつの間にかそんなに時が経っていたのかしら。窓に視
線を向ければ、なるほど確かに太陽が傾き始めている。
﹁⋮⋮ねえ、ターニャ。一つお願いがあるのだけど﹂
﹁いかがされましたか?﹂
739
﹁今回の騒動で職場から離れた者たちのリストを作ってちょうだい。
彼らの周囲の評判やら交友関係も一緒に報告してくれるとありがた
いわ﹂
﹁畏まりました﹂
﹁じゃあ、私は貴女の言う通り休憩を取るわ。少し経ったら、セバ
スにここに来るように伝えてちょうだい﹂
ターニャは頭を下げると、部屋を出て行った。
それから、ターニャが部屋から出る前に淹れてくれていたお茶を飲
みつつ、甘味をいただいて一息つく。それと同時にアンダーソン侯
爵家現当主夫妻からの手紙を、読んだ。
アンダーソン侯爵現当主夫妻⋮⋮つまり、私の伯父様夫婦ね。
アルメニア公爵家とアンダーソン侯爵家って昔から⋮⋮といっても
お祖父様同士が意気投合されてかららしいけれども⋮⋮親交がある。
お祖父様たちはとても良くしてくださっていて、私が学園を退学し
た時も破門騒動の時もとても心配してくださっていた。
一応アルメニア公爵家の西側に隣接した領がアンダーソン侯爵家領
地なんだけど、互いの領地の間には標高の高い山々が連なっていて、
訪れるとしたら迂回するか海路になるし、何より互いに中々忙しく
て会えない分、こうして手紙のやり取りは続いている。
⋮⋮手紙を読み終えて、さてそろそろ仕事に戻ろう、そう思ったタ
イミングでセバスが入ってきた。
﹁そろそろお嬢様は仕事を再開されるかと思いましたが⋮⋮﹂
740
﹁ちょうど良いタイミングだわ、セバス。少し聞きたいことがある
のだけれども﹂
﹁いかがされました?﹂
﹁貴方のことだから、きっともう既に商業ギルドに臨時の働き手の
募集はかけているのでしょう?﹂
ディーンがここで働くようになった、キッカケ。大きな仕事ではな
いけれども、細々とした計算の手伝いだとか書類の整理だとか。多
くの人の手を必要とするそれらの仕事に従事して貰うための人員。
﹁はい﹂
﹁集まり具合はどう?﹂
﹁⋮⋮あまり芳しくはございません。なにせ繁忙期の今、募集はた
くさんありますから。我々のところよりも高待遇のところもありま
すし、その上、我々のところは誰でも良いという訳でもありません
し⋮⋮﹂
﹁やっぱり⋮⋮﹂
ふう、と息を吐いた。
﹁⋮⋮ねえ、セバス。それについて、一つ案があるのだけど﹂
﹁何でしょう?﹂
741
﹁学園の領官科に通う者たちへ募集をかけるのはいかがかしら?﹂
私の提案に、セバスは目を見開く。
﹁仕事内容は、雑務全般。学生ながらあそこのカリキュラムをこな
しているのであれば、それなりにできるでしょう。猫の手も借りた
い私たちにはありがたいことだし、学生の面々にとっては現場の雰
囲気を掴むことができる﹂
﹁ふむ⋮⋮それは、妙案です。早速学園側にも打診してみましょう﹂
﹁それなら、コレ﹂
私は、セバスに学園長宛の手紙を差し出した。私の肩書きを利用で
きるところは存分に利用しないと。
﹁もしも学園長側が了承したら、その後の交渉は任せても良いかし
ら?﹂
﹁勿論です﹂
﹁では、この件はセバスに任せるわ。よろしくね﹂
﹁畏まりました﹂
742
確固たる何か︵前書き︶
1/5
743
確固たる何か
ランプの頼りない灯りの下、カリカリ筆を走らせる。
ここ数日、ずっと同じ音を聞いているような気がした。
﹁⋮⋮んー⋮⋮﹂
書ききったところで筆を置いて腕を上げた。ポキポキという可愛ら
しい音ではなく、ボキボキという音が体内で響く。
伸びをして、次の瞬間、力を抜いた。ズルズルと椅子に沈み、腕は
ダランと椅子の肘掛を越えて垂れる。行儀の悪い座り方だが、今は
独りだから良いだろう。
視界が低くなったその体勢のまま、さっき書き上げた書類を取って
ぼんやりと眺める。
⋮⋮うん、これで今日の仕事も終わりね。
そういえば⋮⋮と、この部屋に入ってから一歩も出ていない事実を
思い出して、苦笑いを浮かべる。
ターニャに言われなければ、食事すら取っていなかったかもしれな
い。
集中し出すと周りが見えなくなる癖は、中々抜けない。それは前世
のワタシも、記憶を思い出す前の私もそうなのだから最早魂に刻ま
れた性分といっても過言ではないのだろう。
744
﹁⋮⋮失礼致します﹂
ノック音がしたかと思えば、ターニャが部屋に入ってきた。
﹁灯りがついているので、もしやと思いましたが⋮⋮やはりまだ、
仕事をしていらっしゃいましたか﹂
呆れたように、ターニャは溜息をつく。
その反応に、私は笑った。
王都から領地に帰る頃から、ターニャは変わったように思う。勿論、
良い意味で。
角が取れたというか、張り詰めていたものが和らいだような⋮⋮そ
んな柔らかさがあった。
﹁差し出がましいことを申し上げますが、そろそろお休みください。
アイリス様のされていることがどれほどのものか、というのを私は
完全に理解していませんでしょうが⋮⋮このままではアイリス様は
再び倒れられ、その結果進捗が遅くなることは分かります﹂
最も、その物言いはあまり変わらないけれども。
﹁⋮⋮ふふふ。そうね、貴女の言う通りよ。そろそろ私も終いにし
ようかと思っていたところ﹂
﹁それは良うございました﹂
﹁でもその前に、貴女の報告を聞きたくて。そろそろ完了している
のではないかと思って、ここで待っていたのよ?﹂
745
﹁それは⋮⋮お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした﹂
﹁私が勝手に待っていたことだから。それよりも、報告を﹂
私は彼女より受け取った書類を読みつつ、そこには書かれていない
彼女の私見に耳を傾ける。
﹁⋮⋮なるほど、ね﹂
私は、読み終えた書類を灯りの火で燃やす。暖炉があればそこで燃
やしているのだろうが、生憎常春のこの領地にそれはない。
けれども、他者に見せることのできない書類というのはあるもの。
執務を行うこの書斎ではそれが特に。
だもので、机脇に置かれている先が窄まった瓶⋮⋮大きな花瓶のよ
うなそれには砂が敷かれており、そこに私は炎が揺らめく書類を投
下した。
﹁やっぱり、傾いた者たちがいた、か⋮⋮﹂
﹁⋮⋮誠に残念なことながら、人というのは移ろいやすいもの。確
固たる何かを持たない者たちならば、それは尚更でしょう。だから
こそ、どんな清廉な組織であっても揺らぐ者がいても仕方ないこと
かと﹂
﹁ええ、ええ。人とは移ろい易いもの⋮⋮とてもよく分かるわ。何
せ、この身に染みているもの。でもねえ、ターニャ。それだけでは
ないのでしょう?言ってくれて良いのよ?私という小娘が上だから、
746
侮られ易いということを﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁まあ、良いわ。言っても栓なきことだし。さて、ターニャ。この
者たちを皆、集めてちょうだい。場所は⋮⋮そうねえ。あ、新しい
教会なんていかがかしら?﹂
﹁承りました。ですが、全員ですか?﹂
﹁ええ。正直貴女の報告を聞いて、この者たちの今後の進退は決め
ているのだけれども⋮⋮一回会っておきたいかな、って。全員に、
ね。まあ、どうせ来ないでしょうけど﹂
﹁畏まりました﹂
﹁それにしても⋮⋮ターニャ、凄いわね。ここまで事細かに調べ上
げるなんて。腕、上がっているんじゃない?﹂
﹁お嬢様の為でございますから。それに、情報はあくまで情報。私
が持ってきたそれらを、お嬢様が信じて用いていただけるからこそ、
これらは活躍するのです﹂
確かに、情報というのは形のないもの。間違いがあればそれはただ
の流言、あるいは妄想になり果てる。玉石混交の中でそれらをふる
いかけ、信じきることは難しい。
﹁⋮⋮ねえ、ターニャ。貴女にとって、私は何?﹂
﹁私にとっての“確固たる何か”⋮⋮支柱でございます﹂
747
﹁そう。ターニャ、貴女は揺らがない。それが感じられるからこそ、
私にとって貴女はもう一つの目であり、もう一つの耳。だから、貴
女の持ってくる情報は信じて利用することができる﹂
﹁身に余る光栄でございます﹂
﹁⋮⋮さて、今日はもう寝ましょう。ターニャ、調整をお願いね﹂
﹁畏まりました﹂
748
説得︵前書き︶
2/5
749
説得
新たに建設された教会は、それはそれは立派なものだった。領地の
力を表すような、豪奢な装飾⋮⋮それは穿ち過ぎか、と内心その男
は毒づいて笑う。
彼にとって、ここに訪れることは初めてのことだった。それという
のも、ここが建立された由縁に起因する。教会を取り壊したという
領主代行の行動に抗議するために、彼は仕事を放棄して自ら蟄居し
た。志を同じくする者と共に。
彼らのその時の心情を表現するならば、義憤。アイリスは、教会と
いう人のふみ行うべき正しき筋道を示す場に背いた行為をしたのだ
⋮⋮正義は自分たちに有ると思って信じての行動だった。
代わりにこの新たな教会が建ったと知っても、取り繕う為であろう
と反発して訪れなかった。
⋮⋮それは、件の領主代行が無実だと発表された後も。
否、発表された後だからこそ、来ることに抵抗を感じた。何を今更、
と。
あの時、領主代行の役職を持つ彼女を貶めたことには変わらない。
例え教会の⋮⋮彼女を糾弾した面々のような直接の加害者でなくて
も、彼女を貶めた側の一人なのだ、と。
否⋮⋮彼女側にいながら、彼女を見捨てたのだからよりタチが悪い
と彼は自身でそう思った。
750
あの破門騒動の時、彼女を糾弾するならば、蟄居するのではなく彼
女に諫言するべきだったのだ⋮⋮と。
例え怒りを買ったとしても、言葉が届かないと初めから何もかもを
諦めるよりも、彼女に自ら言葉をぶつかるべきだったのだ⋮⋮と。
けれども、全てはもう遅い。
だからこそ、自分は蟄居したまま。やがては退職願を出さなければ
ならないだろう、否、そんな行動をしなくともそう見做されている
だろう⋮⋮そう、思っていた。
そんな中、届いた招待状。差出人は、件の領主代行⋮⋮アイリス・
ラーナ・アルメニア。招待状というよりも、招集状だろう、と初め
てそれを見た時に彼は苦々しく思いつつも笑った。
恐らく、自身の進退に関わることであろうことは、書かれていなく
ても容易に察することができる。一つ疑問を挙げるとするならば、
何故場所が教会で指定されているか、ということぐらいだ。
ケジメを、つけなければならない。
そう、自身を奮い立たせて、今日この場に来た。
見れば、ポツリポツリと礼拝堂には自身と同じく職務を放棄した面
々が佇んでいる。
見知った顔もあったけれども、互いに重い空気を背負っていて話か
けることはない。それが更に、重々しい雰囲気で周りを包み込んで
いる。
751
﹁⋮⋮今日は来てくれて、ありがとう﹂
それを切り裂くように、彼女⋮⋮アイリスは、現れた。
彼女は和かに微笑みながら、辺りを見回す。
﹁来ていない人もいるけれども、約束の時間がきたので始めさせて
貰うわ﹂
彼女の言葉は、礼拝堂の壁や天井に反響して身体の中で響く。
﹁ここにいる貴方たちは、私の破門騒動の時に領官の仕事を放棄を
した方たち。今日、私は貴方たちとお話をしたくて呼んだのだけど
⋮⋮誰か、私に何か言いたいことはない?﹂
誰の口からも、言葉は出なかった。かく言う自分も、ここで退職を
宣言すべきなのか迷って、けれどもこの重苦しい雰囲気に口を閉じ
た。
﹁では、私が貴方たちに問いましょう。領官とは、何か﹂
彼女の表情は、変わらない。笑顔のままだ。けれども、逆にそれが
プレッシャーを感じささせる。
﹁そこの、貴方﹂
誰も口を開かない面々に業を煮やしたのか、彼女の方から指名が入
った。
﹁はい。領官とは領主の方の手となり足となり、職務をこなすこと
752
です﹂
その人物は、待ってましたと言わんばかりの笑顔で模範的だと思え
る回答を口にした。
﹁そう⋮⋮では、貴方は?﹂
彼女はそれに対し、けれども眉を顰めてその隣の人物を指した。
指された彼は、ピクリと一瞬肩を揺らす。
﹁わ⋮⋮私も、そうだと思います﹂
﹁貴方たちの言葉通りだとすると、此度の騒動で貴方たちは既に領
官ではなくなったということね﹂
彼女は、クスクスと声をあげて笑った。貴族の女性らしく扇で口元
を隠しながら。
﹁だって、そうでしょう?貴方たちは、頭である私に逆らって領官
の仕事を勝手に放棄したのだもの。頭の言うことだけを聞くのが職
務ならば、言うことを聞かぬ貴方たちは不要でなくて?﹂
その言葉に、彼らの顔から血の気が失せた。
﹁質問を変えましょう。何故、貴方たちは此度の騒動の最中、職務
を放棄し蟄居をしたのか。⋮⋮そこの貴方、答えてくれるかしら?﹂
ついに彼女から、自分に指名が入った。視線を逸らすことなど許さ
れない⋮⋮そう思いながらも、彼女から放たれるプレッシャーに、
753
そうしたいと思ってしまう自分がいる。
﹁⋮⋮僭越ながら、私から貴女様に問い返させていただきたい。領
主とは、何かを﹂
何とか奮い立たせ、答えようとした矢先⋮⋮当たり障りのない一言
を答えようとしたのにも関わらず、自分の口から出た言葉は、質問
だった。自分自身、そんな大胆なことをするとは思わず、内心驚く。
﹁質問に質問で返されるのは好きじゃないわ﹂
﹁ですが、私の答えにとって貴女のその問いの答えが重要なのです﹂
もう、どうとでもなれという思いが強かったのかもしれない。
既に誇りも何もない。彼女の言う通り、領官の仕事を放棄した時点
でそれすら失せた。あるのは自棄っぱちにも似た諦めだけ。
﹁⋮⋮領主の仕事とは誇りを持たせること。民を守り、慈しみ、そ
して豊かに発展させる。民の生活を保障することで、領への帰属意
識を持たせ、領民たちを統治する⋮⋮それが、領主の役割だと私は
思っています﹂
﹁然り。正にそれが領主であるからこそ、私は職務を放棄しました﹂
﹁言葉が足りないわ﹂
彼女は不満そうに、彼女は眉を顰めた。
﹁失礼しました。私も⋮⋮領主は、領民たちを守り導くものだと思
754
っています。そして、だからこそ私は此度の騒動で職務を放棄しま
した。教会という私たちにとって心の拠り所の一つである場から罪
を問われる方ならば、民たちを導くなどできはしない。改革を行う
こと、それは結構。けれども、あの事件は領民たちにとって領主へ
の⋮⋮ひいては貴女の行う改革に対しても不信感を覚えさせるには
十分過ぎるほどのものでした。夢を見せるべき領主がその夢を壊す
などあってはならない。だから、私は貴女に抗議すべく蟄居致しま
した﹂
﹁それらしい言葉を口にするのが、お上手ね﹂
彼女の言葉に、カッと自分の中で熱が灯る。抗弁しようとした自分
の言葉を口にする前に、彼女が続けて言葉を口にした。
﹁私のような小娘が上に立ち、わけ知り顔で指示をするのが気に食
わなかったという気持ちが貴方の中にあったのではなくて?﹂
けれども、続けられたその言葉に内心灯っていた怒りの熱も急速に
冷める。
自分でも気づかなかった自身の心の内⋮⋮否、気づこうとしないで
蓋をしていた気持ちを、彼女に暴かれた⋮⋮そう、思って。
確かに、彼女の言うことは否定できない。
そもそも、彼女が領主代行の地位に就くことすら自分は反対だった。
王家に睨まれた彼女を、それもその為の教育を受けてこなかった女
性を、何故わざわざ領主代行として据えるのか⋮⋮と。所詮領主様
の気まぐれ、お飾りの地位を与えたのだと思ったのだが。
755
彼女は次々と領政に口を出し始めた。始めはそれを苦々しく思って
いたが、やがて領地が活気付き、そして彼女が王太后様より御言葉
を賜ったことを知り、彼女の存在を苦々しく思う気持ちに蓋をした
のだ。
そしてその蓋が教会の破門騒動により再び開き、蟄居するという行
動を後押しした。
⋮⋮でも。
﹁確かに、そのような思いがあったことは否定できません。ですが、
先ほど申し上げたことも紛れもなく私の本心です﹂
﹁そう⋮⋮ならば、貴方にとって領官とは?﹂
﹁領民たちの生活を守り、領地を豊かに発展させるために、領主の
手となり足となることです﹂
ほう、と彼女は溜息を吐いた。その反応に、ピクリと肩が揺れた気
がする。
恐る恐る彼女の表情を見た。
何の感情を示さない、無表情。それが次の瞬間、この会の最中で一
番の笑みを浮かべた。
整った彼女の浮かべるその笑みは、本来であれば美しいと見惚れる
ものなのだろう。けれども、その時自分は美しいと思うよりも壮絶
だと⋮⋮ただただ戦慄してしまった。
756
﹁なるほど、なるほど。ならば、貴方はその処刑を待つ者のような
恐れを顔に浮かべる必要はないじゃない﹂
彼女の指摘に、自分がその表情を浮かべていたことを始めて知った。
﹁領官とは、手足。手足が頭である領主に逆らうことは許されない。
けれども、それ以上に民たちのことを省みないことこそが、罪。な
れば、貴方は私に抗議したことは誇りを持ちこそすれ、恥じる必要
はない。むしろ、今貴方たちが騒動が終息した今も仕事を放棄し、
結果領政が滞ることこそ民のためにならない。民のための領官であ
るなるば、それこそ罪﹂
﹁ですが⋮⋮私は、無実の貴女様を⋮⋮﹂
﹁今更私を糾弾したことを後悔するような、無駄な感傷を持つのは
お止めなさい。事ここにきて今更そのような情を持たれても、迷惑
よ。私は、初めから貴方たちに味方になってもらいたいと思ったこ
となど、一度もないのだから﹂
﹁それは⋮⋮﹂
彼女の言葉に、衝撃を受けた。
﹁私はね、貴方たちに忠も義も求めていないの。私が求めるのは、
貴方たちの仕事の成果だけ﹂
彼女は、歌うように囁く。
﹁領民のために、仕事をなさい。私を滅し、公に仕えるように。貴
方たちは、ただの守られるだけの立場に既にいない。守る立場にい
757
るのだから。それを、誇りに思いなさい﹂
彼女の言葉が、徐々に力強いものとなっていた。
まるで、躍動するその前のように。
心が、熱い。先ほどとは、違う熱さが灯っていた。
否、彼女の背後にもその熱が見えた気がする。
吹けば飛びそうなか細い彼女が、どこにそのような熱量を隠し持っ
ていたのか⋮⋮思わず、そう思った。
﹁私は、忠義を求めない。だから、今回の件も不問にするわ。早く、
仕事に戻りなさい﹂
﹁⋮⋮つまり、我々を許してくださると?﹂
別の男が、恭しく問い掛ける。その問いは、無意味だと何故わから
ないのか自分にはそちらの方こそが疑問だった。
﹁許すも許さないも⋮⋮私は、貴方たちに忠義を求めていないのだ
から、その問いも無意味ね。私に対して憤りを感じて行動した者、
ただ流されて行動した者⋮⋮どのような思いを持って行動していた
としても、良い。ただ一つ、領地とそして領民を裏切っていなけれ
ば、それで良い。今ここにいる貴方たちは、前者だった⋮⋮だから、
私は貴方たちに戻るように誘っているの。でなければ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮でなければ?﹂
758
その言葉に、彼女は笑みを深めた。
聞きたい、けれども聞きたくないという相反した気持ちが湧き出る。
﹁貴方たちは知る必要はないわ。それとも、そうなる予定でもある
のかしら?﹂
誰もが、間髪を入れずに首を横に振った。
﹁そう、それならば良かった。ならば、早く仕事に戻りましょう。
時は、有限よ﹂
759
覚悟を問う︵前書き︶
3/5
760
覚悟を問う
彼らが立ち去った後も、私はぼんやりと教会を眺めていた。
﹁⋮⋮随分、苛烈なことを仰られましたね。お嬢様らしく、ありま
せん﹂
ターニャの言葉に、私は微笑む。
﹁私“らしい”って、何かしら⋮⋮?﹂
私の問いかけに、ターニャは言葉を詰まらせた。
﹁お嬢様。僭越ながら、王都にいらっしゃる時からお嬢様は随分変
わられたと思っていました。無理をして、御自身を悪く見せようと
しているような⋮⋮そんな気がしてならなかったのです﹂
ターニャの言葉に、私は驚いて目を瞬かせる。
﹁確かに、王都での駆け引きで私は随分と変わったかもしれないわ
ね。⋮⋮いいえ、正確にはディダから私の覚悟を問われた時からか
もしれない﹂
あの問いかけは、私の甘い考えを打ち砕いた。⋮⋮前だけを、見て
いた。理想を追いかけて、ただただ前進して。平和な世界で、一従
業員として働いていた“ワタシ”の感覚が私の行動の指針だった。
それを、否定するつもりはない。けれども、どこか夢の中にいたよ
うな気もする。転生という非現実を前に、夢を見ているような自身
761
の感覚。その隔たりを見ないようにして。
けれども、あの問いかけは正にそれを打ち砕いた。
ここは、確かに現実だと。領主代行という地位は良い意味でも民の
命と責を負うのと同時に、悪い意味でもそれを負うのだと。
それを理解した瞬間、“私”は美しいもののみに囲まれていた少女
時代にお別れを。“ワタシ”は日本という優しい国に本当の意味で
のお別れをした。
私はもう、他者に喰われるような隙を見せてはならない。断罪の場
や破門騒動のような事件はもう、ゴメンだ。
﹁⋮⋮大丈夫よ。私が間違った道に進もうとしたならば、私の側に
いてくれる人たちが止めてくれる。そう、信じることができる﹂
﹁先のディダのようにですか?﹂
﹁ええ、そうね﹂
皆、私の言う事を叶えようと動いてくれる。けれども、本当に間違
った時には意見をしてくれる⋮⋮そう、信じることができる。
今の、私なら。
セバス然り、ディダ、ライル、レーメそしてセイとメリダ⋮⋮それ
からディーンも。
ターニャだけは、何だか全てを肯定してしまいそうな気がするけど。
762
それは、それで良い。
﹁もう一つだけ、宜しいでしょうか?﹂
彼女の問いに、私は無言で首を縦に振った。
﹁今更ですが、何故この教会に彼らを集めたのでしょうか?﹂
﹁ああ、それはね⋮⋮﹂
私は、小さく吹き出して笑う。
﹁彼らに、相応しいと思ったの﹂
その答えに、ターニャは首を傾げた。
﹁この教会は、あの時の騒動の象徴。そして、ダリル教の未来の進
む道の象徴といっても過言ではない﹂
実際、ラフシモンズ司祭もそう言ってたしね。
この教会は、管理する司祭の意向で貧しき民たちへ無償で往診に赴
いていた。それに、親のいないための院も併設されている。その志
に沿うための手助けを領都の民たちも積極的に行っている人たちも
徐々に増えてきているらしい。そしてそれは、ラフシモンズ司祭が
口にしていた、古き良き教会の形そのものである。
﹁私はね、別に教会と積極的に対立しようなんて思っていないわ。
割が合わないもの﹂
763
スッと、私は祭壇に視線を向けた。この場で演説を行っていたこと
が、今では遠い昔に思える。
﹁⋮⋮神様が本当に存在するのか。それは、分からない。分からな
いけれども、私は神を信じている。けれども、私が信じているのは
神様の存在であって、ダリル教ではない﹂
﹁⋮⋮お嬢様、それは⋮⋮﹂
私の過激な発言に、ターニャは一瞬顔から血の気が引いていた。
﹁神の代理人を謳う彼らが何をしたのか、貴女は忘れたの?⋮⋮あ
りもしない事実をでっち上げ、私を糾弾したわ。それも、権力闘争
に肩入れをしてまで﹂
嘲笑しつつ紡いだその言葉は、自分の頭の中で考えていたそれより
も過激で棘がある。
﹁結局⋮⋮神の代理人を謳っても、その組織を運営するのが人であ
る以上、結局人の思惑や思想が混じり合い、元の形から歪んで、変
形する。それは、仕方のないことだわ。けれども、だからこそ私は
教会に信を置かない⋮⋮いいえ、置けない﹂
私がすべきことは、神に祈ることではない。
神を盾に、自らの考えを押し通そうとする輩がいるなら、それはな
おさら。
﹁前にも、言ったでしょう?ここは、私の覚悟の現れだと。ダリル
教の全てを、私は否定するつもりはない。人民をまとめるには、宗
764
教というのも有効だというのは分かるから。けれども、今回のこと
で証明された通り、ダリル教という組織は清いだけの組織ではない。
王国の権力闘争にすら関与する、とても属人的なもの。だから、彼
おもね
らが民たちの側に立つとは信じてはならない。それが民のためにな
らないと考えたのなら、私は戦わなければならない。ダリル教に阿
ることなく、従うこともなく、あくまで対等に⋮⋮それが、私の出
した結論。そして、彼らにもそんな矜持を持って欲しいと思ったの。
神に委ねるのではなく、組織に阿るのではなく、自らの手で民を守
るのだと﹂
ターニャに向けていた視線を、そのまま再び祭壇の方に向けた。
﹁⋮⋮私はね、あの古い教会を取り壊したことを後悔していないわ。
あの騒動を引き起こした原因であり、周りから教会を破壊したと誹
りを受けても。私が後悔したのは、もっと別のこと⋮⋮あの、騒動
が起こると予測できなかった私の至らなさだけ﹂
﹁⋮⋮あれを予測するのは、難しいことでしょう。現に、御当主様
もそう仰られていたではないですか﹂
﹁そう、かもしれないわね﹂
私は、小さく笑った。その瞬間、側面の扉が開いた。⋮⋮そこから
現れたのは、この教会に併設されている院に在籍している子どもた
ち。
﹁あ、アリス姉ちゃんだ!!﹂
﹁ほんとだー!!なんでいるの?﹂
765
﹁先生のとこ、一緒にいこう!!﹂
元気な声が、聖堂に響く。ドタドタと走り寄った子どもたちは、私
の周りを囲んだ。
﹁良いわね。でも、私が突然行ったらミナさんが驚いちゃうわ。だ
から、先に行ってミナさんに私が来てること、伝えてくれない?﹂
私は彼らと目線が合うようにしゃがんで、伝えた。
﹁⋮⋮本当に、来てくれる?﹂
﹁勿論よ。約束﹂
そう言って微笑むと、子どもたちも納得したのか再び扉の方へと走
って行った。
﹁⋮⋮彼らの未来を、守れたのだから。後悔しようが、ないわ﹂
﹁お嬢様⋮⋮﹂
﹁ねえ、ターニャ。あの子たちは、小さな貴女なの﹂
私の言葉に、ターニャは首を傾げる。
﹁小さな頃の、貴女と同じ。いいえ、貴女の方が大変な境遇だった
かもしれないけれども。⋮⋮あの時の私は、目についた貴女しか拾
い上げることができなかった。貴女のような、子どもたちを守りた
い⋮⋮そう思って、仕事をしてきたのだもの。後悔しようが、ない
わ﹂
766
﹁⋮⋮彼らは、幸せですね﹂
﹁あら、ターニャは今、幸せではない?﹂
﹁勿論、幸せですよ。私が、幸せだからこそ⋮⋮彼らも、幸せにな
れる。そう、思えるのです。何せ、彼らは小さな私、なのでしよう
?﹂
その言葉に、私は吹き出してしまった。
ターニャから、まさかそんな言葉を聞けるなんて。
﹁さ、彼らが首を長くして待っていると思います。お嬢様、行きま
しょう﹂
﹁ええ、そうね﹂
そうして、私はターニャと共に扉にむかった。
767
矜持︵前書き︶
4/5
768
矜持
﹁ミナせんせー﹂
夕食の準備をしていたら、4人の子どもたちがキッチンにやって来
た。
﹁コラ。ここは危ないから、入る前に先生に声をかけてからってお
約束でしょ﹂
﹁ごめんなさーい﹂
しゅん、と項垂れる姿に反省の色が見て取れて、私は怒りを収めた。
そして、作業を中断して彼らに目線を合わせるようにしゃがむ。
﹁それで、どうしたの?﹂
﹁あのね、アリスおねーちゃんが、来たよ!﹂
﹁まあ!﹂
その言葉に私は驚いて、つい大きな声を出してしまった。その反応
に、子どもたちもまた驚いたような表情をそれぞれ浮かべている。
﹁領⋮⋮じゃなかった、アリス様が!?大変!!﹂
お茶の準備を⋮⋮と思ったけれども、あいにく茶葉は切れている。
今すぐ買いに行くのは間に合わないし、そもそも次お金が入ってく
るまで節約中だ。
769
﹁と、とにかく出迎えに行かないと⋮⋮﹂
﹁ごめんください﹂
ターニャさんのお声が聞こえて、私は玄関へと走る。あの方々にと
って、はしたない真似だと言うのは理解しているけれども、それよ
り待たせる方が失礼だと思って。
﹁い、いらっしゃいませ⋮⋮アイ⋮⋮いえ、アリス様。ターニャ様﹂
僅かな距離だったのに、全力疾走と緊張感からか息も絶え絶えだ。
ふと、アイリス様の姿に違和感を感じる。私の記憶にある御姿より
も、お痩せになられた気がした。肌も、白を通り越して透き通って
いるよう。
﹁そんなに畏まらないで、ミナ。私は、友達のところに遊びに来た、
ただの女の子﹂
私が訝しんでいると、アイリス様からそんなお言葉をかけられた。
その言葉に、私は我に返る。
﹁⋮⋮友達、ですか?﹂
﹁あら⋮⋮ねえ、皆?﹂
﹁あー!アリスおねえちゃんだ!きょうはどうしたの?﹂
﹁ねえねえ、わたしほんをよめるようになったのよ!﹂
770
﹁きょうはぼくとあそぶやくそく!﹂
子どもたちが、わらわらと彼女に集まっては次々に声をかける。
それに迷惑がるどころか、アイリス様は嬉しそうに微笑んでいらっ
しゃった。
﹁ふふふ⋮⋮確かに、この前約束したものね。じゃあ、今日は新し
い遊びをしてから本の読み合いっこをしましょうか﹂
わーい!!と言って、子どもたちは彼女の手を引っ張って進んでい
く。
こ、こら⋮⋮その方にそんな⋮⋮という言葉が出かかったけれども、
すんでのところで止めた。
彼女が貴族様で、領主代行の地位にいることは、彼らに秘密なのだ
⋮⋮いきなり彼女にそのような畏れ多いことを止めなさいと言って
も、理由を伝えられないのだから彼らは納得しないだろう。
﹁ミナ、私にとってこの子達も貴女も大切な友人なのよ?だから、
そんな反応されてしまうと悲しいわ。⋮⋮というわけで、お邪魔し
ます﹂
そう、私のそばを通りがかかる時に戯けたように言って、彼女は中
に入って行った。
アイリス様は、子どもたちと“ドロケイ”なるものをして、走り回
っている。
771
貴族様が⋮⋮と私は半ば驚きつつ、その様を眺めていた。隣では、
侍女様が同じようにその光景を見守っている。その表情は、少し呆
れたような、けれども微笑ましく眺めているような。
﹁あー捕まっちゃった﹂
アイリス様の声が聞こえて、視線をそちらに戻す。彼女は、朗らか
に⋮⋮心の底から楽しそうに、笑っていた。
﹁⋮⋮アイリス様は、何故⋮⋮﹂
﹁|アリス︻・・・︼様に、何か?﹂
私の呟きに、ターニャさんが反応して厳しい声で質問をしてきた。
その声色に、私はピンと背筋が伸びる心地がする。
﹁失礼しました。アリス様は、何故あんなにもお優しいのでしょう
か﹂
その言葉に、ターニャさんは目をパチクリ丸めていた。珍しい彼女
の反応が少し可笑しかったけれども、それ以上に哀しさを感じてい
たので、自分でも笑っているんだかそうじゃないか、よく分からな
い表情を浮かべていると思う。
﹁私たちが、巻き込んでしまったのに。なのに、私たちを責める言
葉なんて、一言もなくて。それどころか、こうしてまた訪れてくだ
さって﹂
アイリス様が大変な思いをされた破門騒動は、そもそも私たちが原
因だ。私たち⋮⋮いいえ、私がもっとしっかりしていれば、アイリ
772
ス様の御手を煩わせることなんてなかったのに。
巻き込んで、背負わせて。それでも、アイリス様は変わらない。何
もできないで、守られて。それがとても、もどかしくて悲しくて。
﹁アリス様は、そういう方なのです﹂
そう言ったターニャさんの表情は、とても誇らしげだった。
﹁楽しかったわね。少し、休憩させて貰って良いかしら?﹂
アイリス様のその言葉に反応されて、いつの間にかターニャさんは
タオルを手にアイリス様の傍にいらっしゃった。
いつの間に、あそこに行ったのだろう?だとか、そのタオルはどこ
から出したのだろう?だとか、そんなどうでも良いような疑問がフ
ワフワと頭の片隅に浮かびつつ、視線はぼんやりとアイリス様を追
っている。
﹁⋮⋮アリス様﹂
﹁どうしたの、ミナ?そんな浮かない顔をして。何か、問題でもあ
ったのかしら?﹂
﹁いいえ、まさか。ここで、とても良くしていただいております﹂
﹁そう、良かった。何かあったら、遠慮なく言ってちょうだい﹂
⋮⋮本当に、この方は何故こうなのか。
773
貴族様、よね?それも、庶民の私が直接話しかけるなんて畏れ多い、
公爵家のご令嬢⋮⋮雲の上の方なのよね?
何故、取るに足らない私にここまで親しげにしてくれるのか。案じ
てくださるのか。
﹁お気遣い、感謝いたします。⋮⋮あの、アリス様。一つお聞きし
てよろしいでしょうか﹂
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
﹁アリス様は、街にはお出かけににならないのですが?﹂
﹁まあ⋮⋮どうして、そのような疑問を?﹂
﹁皆、アリス様がお顔を見せないので、とても心配していましたも
のですから﹂
アイリス様が訪れたという花屋のおばちゃんも、角に店を構えてい
る食堂のおじちゃんも。それから、道行く人たちも。
街のいたる所で、アイリス様のお名前を聞く。それだけこの方が“
アリス”としてこの街に馴染んでいたということだ。
私の問いに、けれどもアイリス様は苦笑いを浮かべていらっしゃっ
た。
﹁⋮⋮あそこまで大々的に、表の肩書きを曝け出して舞台に上がっ
てしまったからね。警備上、以前のように街を出歩くことはできな
いわ﹂
774
それも、そうか。私は、落胆と共に肩を落とす。落胆する資格なん
て、ないのに。
﹁なんて、それは建前。いえ、大きな理由なんだけど⋮⋮本当は⋮
⋮単純に怖いのかもしれないわね﹂
﹁怖い、ですか?﹂
﹁そう。街の方々の、反応を直で見ることが。アリスという偽名の
人間の、本来の名と役職を知って変わってしまうのは仕方ないこと
だわ。それについては、割り切っている。けれども、今回⋮⋮私は、
皆に迷惑をかけたでしょう?暴動こそ起きなかったけれども⋮⋮私
が自分たちの近くに現れれば言いたいことの一つや二つもあるはず。
どんな罵倒が来るのか⋮⋮それを聞くことが怖くてできないのよ。
なんて、お役目失格ね。忘れてちょうだい﹂
彼女は、最後に軽く笑って言われた。けれども、私の視界は真っ黒
に染まっていてその笑顔を認識できない。
この視界の変化は、怒りでなのだろうか。それとも、自身の無力さ
に対する絶望かのだろうか。
どちらに対してでもあるような気がしたし、そのどちらでもない気
がする。そんなことよりも、胸の中に重りがのしかかったように苦
しくそれに対してどこかにぶつけたい衝動が熱くお腹の底から湧き
上がっていた。
﹁⋮⋮アリス様⋮⋮無礼を承知で、言わせてください﹂
775
私の声は、震えていた。それは恐怖ではなく、叫び出しい気持ちを
抑えることに精一杯で。
﹁私を、私たちを馬鹿にしないでください⋮⋮!﹂
けれども、ついに感情の激流は理性という堰を切って溢れ出ていた。
﹁確かに、私たちは貴女様から見れば弱い存在です。狭い世界で生
きていて、上が何をしているのか知ることはないし、目の前の生活
でいっぱいいっぱいで知ろうとすることもない﹂
毎日、仕事をしてご飯を食べて。その、繰り返し。明日も今日と同
じ様に平穏な日を暮らせるようにと祈りながら眠りについて。
だって、知っているから。平穏な日々が、どれだけありがたいもの
なのか。明日の食事を心配することもなく、仕事があってお金を得
る術があることがどれだけ大切なことなのか。
上の人が、どんな政策をしているから自分たちの生活にどう影響し
ているとか。そんなこと、分からない。どうせ、雲の上の世界の話
だ。自分たちがそれを理解したところで、何かが変わるわけでもな
い。諦める以前のもので、それが当たり前のことだと思っている。
だから、どこか別の世界の出来事だと思いながら噂話で面白おかし
く話が出回るだけ。
いつだってそれが身近に感じられるのは、何か悪い方向にむかって
いるぞ、と感じた時だ。仕事が無くなった、金が無い、店先にある
食物が高くなった⋮⋮街の空気が淀んで、陰鬱な表情を浮かべて誰
もが俯いて。
776
私は、知っている。その様を。シスターに拾われる前に、他の領で
住んでいた私はその光景を見た事があるから。
そして、その時だけは上に文句を言っている姿も見てきた。それに
怒り、それを鎮圧させようとする上の人たちと更にそれに反抗する
街の人たちとで、街の空気は一層悪くなって。
アイリス様の今回の件だって、一時街は大騒ぎになって、アイリス
様を責める言葉があちらこちらから噴出していた。
けれども⋮⋮。
﹁でも、私たちだって馬鹿じゃありません。アリス様が真実、街の
ために色々なことをしてくださったことを、私たちはちゃんと理解
しています⋮⋮!﹂
それとは逆に、アイリス様のことを援護する言葉が出ていたことも
事実なんだ。
最近暮らし易くなったね、って言っていただろう?と。
俺たちのことを考えてくれる領主様だったんだぞ、と。
何かの間違いだ、って。
アイリス様が、どんなことをされてきたのか分からない。聞いても、
難しいだろうから、きっと理解できない。けれども、アイリス様の
おかげで暮らし易くなったと、皆が笑っていたことは知っている。
医者の人が増えて、病気を治してもらえただとか。
777
読み書きができるようになって、他所からきた商人の人たちに騙さ
れることも侮られることもなくなったとか。
将来の夢ができたと、笑っていた子どもたちとか。
作物の取れなかった地で、作物以外で利益を得て生活ができるよう
になった人の話とか。
たくさんのひとが、アイリス様の話をしていた。
その誰もが、自分のことじゃなくて単なる噂話でも笑顔で話してい
たことも。
﹁私たちは、弱いです﹂
立っている場所が、違うのだ。持っているものも、当然違う。権力、
それに伴う武力、それから財力も。でも、でも、でも⋮⋮!
﹁でも、弱さを盾にアイリス様を責めることだけはしたくないので
す⋮⋮!﹂
アイリス様とて、一人の“にんげん”なんだ。こんなに痩せて、顔
色を悪くされるまで追い詰められてしまって。
そうなるまで働かれるこの恩人の方に、更に悪く言う奴がいたら、
私が許さない。
花屋のおばちゃんも、食堂のおじちゃんも。
とっても、悔しがっていた。雲の上のに立つアイリス様が、身近に
778
いらっしゃったのだから、それを特に感じていたのだろう。
何かできることはないかって、でも何もできなくて。弱い立場の自
分たちの身を上を呪って、それなのにその弱さを盾にすることはあ
の人たちも決してしない。
あの人たちだけじゃない。
私の、子どもたちの境遇を知っていて何もしなかった、申し訳なか
ったと言ってくれた人たちもきっと同じ。
私が知らないだけで、アイリス様に助けられたという人や、アイリ
ス様とアリスとして接した人たちの中でそう思う人たちは他にもい
るだろう。
﹁だから、お願いします。アイリス様、御自分をこれ以上、責めな
いでください。貴女を責める方を、私は例えそれが貴女であっても
許すことはできないのです﹂
言ってやった、言い切った、そんな達成感を感じていてのはほんの
僅かな時。
ふとアイリス様を見れば、その達成感はどこかに吹き飛んだ。
ど、どうして涙を流されているのですか⋮⋮?
言いすぎたかしらとサア⋮⋮と頭から血の気が引いた。
ポロリと静かに涙を流される彼女は、とても美しい。
779
思わず魅入りそうになって⋮⋮違う、違う。私、とんでもなく失礼
なことをしてしまったんじゃ⋮⋮?と慌てていたら、いつの間にか
子どもたちが私たちの周りを囲んでいた。
﹁あ!先生、姉ちゃんをなかした!﹂
﹁いけないんだー﹂
子どもたちが私を怒る。うっ⋮⋮確かに、私が言い過ぎてしまった
のだし。た、逮捕とかされるのかしら?
﹁⋮⋮違うのよ、皆。私、とっても嬉しくて﹂
﹁うれしくて、泣くの?﹂
﹁そうよ。とっても嬉しいことがあると、涙は流れてしまうの。先
生が、とっても良いことを言ってくださってね、嬉しくて嬉しくて、
涙が出てしまったのよ﹂
﹁なんだー。さっすが、先生。そんなすごいこと、言ったんだね﹂
子どもたちは、アイリス様の言葉を信じてホッとひと息ついていた。
﹁⋮⋮さ、皆。今日はとっても美味しいお菓子を持ってきたから、
ターニャから受け取ってね﹂
﹁お菓子!!﹂
子どもたちは、嬉しそうにはしゃぐとターニャさんのところへと走
って行った。
780
﹁⋮⋮ミナ﹂
﹁は、はい!!﹂
2人になった空間で、私はガチガチに緊張していた。やらかしたと、
冷や汗がタラタラ垂れている。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
﹁い、いえ⋮⋮失礼なことを申してしまいまして。子どもたちに科
はありません。どうか、処分されるのならば、私だけを﹂
私の言葉に、アイリス様はキョトンと首を傾げられた。
﹁どうして貴女を処分しなければならないのかしら?貴女は、私を
喜ばせてくれたのに﹂
ふふふ⋮⋮と、アイリス様は微笑まれながら涙を拭う。
﹁⋮⋮仕事が落ち着いたら、御忍び用の格好を考えないとね﹂
その言葉に、今度は私が一瞬首を傾げた。けれども、すぐにその言
葉の意味が分かって、私は思わず笑顔を浮かべる。
﹁皆で、その時を楽しみに待っております﹂
そう、笑って伝えた。
781
本性︵前書き︶
5/5
782
本性
﹁ディヴァン。⋮⋮何故、わざわざ足音消して近づいてくるの?﹂
不機嫌な気持ちをそのまま滲み出させた声色に、けれども背後から
近づいてきた男は笑った。
﹁それはそれは、申し訳ございませんでした。これも性分でござい
ますれば、どうぞご容赦を﹂
﹁貴方がそんな丁寧な口調で話すなんて、違和感しか感じない⋮⋮﹂
﹁貴女様のお立場を考えれば、それも当然のことかと。⋮⋮全く、
素晴らしい手腕ですね。この国の王太子妃として、頼もしい限りで
す﹂
﹁⋮⋮貴方には感謝しているんですよ。私を保護してくれて、色々
教えてくれたのは他ならぬ貴方なんだもの。だから私を持ち上げて
くれなくても、話は聞くわ。それで、今回はどうしたの?﹂
﹁いえ、たまには世間話なんかをしようかと﹂
﹁世間話?﹂
﹁ええ、そうです。貴女様がその昔お気に召していた、アルメニア
産の絹という布地のドレス。あれが、ついに少数ながら販売に漕ぎ
着けたようでして﹂
﹁まあ⋮⋮あの美しいドレスが。是非とも、欲しいわ﹂
783
﹁貴女様もそう仰られると思っていましたよ。王子様におねだりを
してみてください。貴方のためなら、きっと手に入れてくれるでし
ょう﹂
﹁ふふふ⋮⋮ディヴァンも、そう思う?私も、そう思うわ﹂
エドワード様が私の為に動いてくださる様を想像して、私は思わず
笑みを浮かべてしまった。
﹁ですが、危険ですねぇ。ただでさえ、富が集中している彼の地が、
更なる資金を手に入れるのですから﹂
﹁⋮⋮そうなのよね。でも、ディヴァン。それは、貴方のせいじゃ
ないの?﹂
﹁と、仰られるのは⋮⋮?﹂
﹁だって、それもこれも貴方があの件で失敗したせいで、彼女が貴
族社会に残ってしまったのだもの。せっかく、教皇様を紹介してあ
げたというのに。貴方が失敗して、彼女は更に強かになってしまっ
たわ﹂
﹁それは、私の不徳の限りでございます。ご助力いただきながら、
あのような結果⋮⋮誠に申し訳ございません﹂
﹁まったく⋮⋮次回は、失敗しないようにね﹂
﹁畏まりました。⋮⋮にしても、貴女は本当に彼女がお嫌いですね
ぇ﹂
784
﹁ええ、嫌い。初めから何もかも持っていて、それを当たり前のよ
うに享受するのが本当にイライラする。学園を退学した時には、も
っと無様な姿を見ることができると思ったのに⋮⋮﹂
私は、窓ガラスを覗き見る。そこには、私の姿が映っていた。
﹁ずっと、ずうっと、下町にいる時から思っていた。私のいる世界
は、ここじゃないって。こんなに可愛い私が、こんな場所で燻って
埋もれるなんて、ありえないって。だから、私はここまで頑張って
きたの。そして、これからも頑張るの﹂
﹁本当に、頼もしいですね﹂
﹁私は、いつかこの国を手に入れるの。ああ、楽しみ⋮⋮!﹂
ついつい、気持ちが高ぶって声が上擦る。私の演説に、ディヴァン
は拍手をしてくれた。
﹁そういえば、ディヴァン。貴方の言う通り、ヴァン君を突き放し
たら、彼、姿を消しちゃったけど⋮⋮これで本当に良かったの?﹂
﹁ええ、ええ。良いんです。このまま貴女様の側にいても、彼は役
に立ちません。貴女が突き放すことで、初めて役に立つようになる
んですよ﹂
﹁ふうん⋮⋮楽しみにしているわね﹂
.
﹁ええ。⋮⋮そういえば、王子様とはどうですか?﹂
785
﹁円満よ。キャ⋮⋮恥ずかしい。彼、可愛いのだもの﹂
﹁おやおや⋮⋮。お母様のようにならないか、心配するべきでしょ
うか?﹂
その言葉に、私の心が冷えた。せっかく、良い気分だったのに。
﹁私はお母様とは違う。お母様と同じようにはならないわ﹂
﹁それは良うございました。それでは、またいずれ﹂
﹁ええ、またいずれ﹂
786
本性︵後書き︶
コメントをありがとうございます。返信できていませんが、励みに
させていただいております。
誤字脱字は非常に遅い速度ですが、少しずつ直しています。今後も
ご指摘いただければ幸いです。
この場をお借りしてご報告ですが、公爵令嬢の嗜みの2巻が発売さ
れます。皆様の応援の賜物です。本当にありがとうございます。
787
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n1337cn/
公爵令嬢の嗜み
2016年3月13日19時37分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
788