植 谷 フ石 川文庫、昭銘・4、大内初夫氏 ﹁幻住庵記﹂の制作過程ほ ついて、鹿 れには解答が興えられたのであった︵山崎喜好民﹁芭蕉俳文集ヒ角 けが最初の課題であり、この場ム営 ロ然のことではあるが、やがてこ 芭蕉の表現における風雅とその定着 幻住庵記の成立について | ︵一︶ しく異稿が出現した場合には、その異稿の他の諸穂に謝する位置づ ともあった。しかしながら、成稿以前に幾稿 かが存在する作品に新 諸稿の整備の上で﹁芭蕉文者﹂本幻住庵記の出現を最終的なもの とする試みがあって然るべきであろう。 をも手掛りとして幻住庵記成立の意味は、より組織づけて抱えよう 立に掬する数々の示唆の含まれていることは勿論であるが、それら えられてよいのではなかろうか。上記した諸論考の中に幻住庵記成 しかしそれにしても、幻住庵記の成立については、更 に検討が加 も、もはや疑いえないところとなったのである。 最近の記述︵明治書院﹁俳句講座﹂俳論・俳文、昭 駿 9︶によって する限りは、 最初のものと考えられるという。,そして、このこと 閲に 庄庵記譜稿の 児島大事文科報告ゼ、昭お・8︶。即ち、この異文は幻 の 異文の一 文つ 藝 、﹂ 三 昭 4 ︶ ︵ ⑯は 成 ・、 城 住 従記 来成 の幻 庵 の 異検 文討を要求するものであった。 程についての臆説にこ 再 を 新 、 し 現は 早、 くか 覗 さ られ 重て 住 要 庵い 記た 成幻 立 の 意︵ 味 真 ﹁ 幻 意 住 ﹂ な も の 解し把握諸 しの 直整 す備 たの め的 の 稿 上 で 、 恐らく最終 あ つて差支えないかもで 知っ れない、その意味で劃期的なこと 思われるのである。 問 清﹁ 氏 住 庵 幻記﹂俳 私 研 詣 註 究、 十 綴 連 ・ 9 二 ︶ 歌 、 がわ 昭れ た笠 こ井 が、革に期待しがたいというだけでなく、恐らくこれにさほど甚大 ぅ とするのは、その﹁本文研究﹂の解決や去来宛 一穂の新たな出現 廣堵されることであるが、しかしあえてそれの試みを明らかにしよ いま現存諸穂 のみを以てして果してその成立論が可能か苔かは営然 。とすれば、 致するかなどは、大いに疑問とすべきことだからである 書簡に添えて送られたはすの 一稿が、果して現存成稿とどの程度合 来 解決の問題を含んでいるよう であるし、また芭蕉の元禄 了一年去宛 も、なお末 住庵記ロの本文研究﹂︵ 國語 ・園女士セノセ、昭雄・㏄︶ であろうとしたが、所詮一つの推測にすぎない。山崎氏による﹁コ幻 しかも芭蕉俳文としての気品を併せ有するやぅ で、初稿か、こ 次のように述べられる。﹁:::︵この異文は︶全般索 に漠であ それに対立するかたちで、この異文の信鼠性と位置づけをめぐ 深く濁 れておられないので、ここには割愛する。山崎氏は板坂 見解を明らかにしておられるが、初稿・高欄・成稿の展開過程 ね、それは﹁高次の完成﹂であったと本稿の結論にもほは 一致 あろう。笠井氏は成稿と未定稿との比較から﹁成稿の眞意﹂を 正常に把握しえないことは、以下の記述によっても明 らかにな 坂氏も後に改められた由であるし、その過程では幻任庵記 の成 本、﹁芭蕉文者﹂本、成稿の順で書かれたことになる。がこれ 近いものだと解したい。ただその場合、冒頭が﹁石山の奥、岩 な衝撃を興えはしないであろうと考えられるからである。 翁眞蹟拾 後に山有り云々﹂とあって 、全く成稿に等しく、﹁芭蕉 や米津家蔵の眞蹟と異なる貼を、どのやう に解決するかが問題 ︵一一︶ ここで、﹁芭蕉文者﹂所収異文の出現に伴って提出され幻 た住庵記 つて来る。これに謝しては、初稿ではこのやうに書き起し、再 つたのであらう。そのやう に見る方が、本篇を米澤家蔵の真蹟 成立過程に閲する二三の見解を、本稿の前提としてもたどっておき 最初に、板坂氏は上記異文の紹介に際してそれの成立 位置を 、 、成稿の前の形とするよりも、全挫の順序や用語の上で妥嘗て どでは改め、最後に成稿では再びもとに戻ったといふやうな形 ﹁去来にあてて送った本文を書き上げた前後に、芭蕉は問題となつ 遥かに圓清 に連絡するといつてよい。﹂︵角川文庫﹁ 芭蕉俳文 ぅ。換言すれば、米津家蔵真蹟の本文は、成稿に勤し て本篇よ たいと思う。 た字句をことどとく省いて別な草稿を書き上けたのでほ あるまい 。これを、以下の記述のためにも一膳整理してみると、 か二 ︵成城文勢三︶ と 一炊推定された。すなかち、これにょれば、 幻住庵記の成立過程は、﹁芭蕉翁 眞蹟拾遺﹂本、米澤家蔵真蹟、去来 Ⅰ ⑪﹁芭蕉文者﹂本 l ㈹﹁芭蕉翁真蹟拾遺﹂木|ょ ⑬米澤家 一つの真蹟及び﹁猿蓑﹂等所収のもの。︶ 蔵真蹟 @@ ㈹成稿︵ 一 ロ的に解決理解さ となり、話柄成立の﹁順序﹂は、ここに初めてム理 れることになったのであるが、もとより右は解題的なもので、以上 のような簡略な記述にとどめられている。大内氏は、諸稿の詳細な 一儂、成稿が うに、これほどの軒綜曲折を経た作品、作者にとってこれだけ苦海 に満ちた作品は、 恐らく他に見出しえないであろう。 未定稿に勤して高次の完成であるとするならば、それは正確にいか なる意味でそう 言いつるのであろう。成稿が再び初稿へ回帰したの は 、これといかに開達するのであろうか。 再稿の構成 は 初稿に 勤 し よ て果して整理されたものと言いう るか。また初稿の性質 @ その前に、ここで上記した過程に注記を加え、本稿の動機 にも綺 比較検討の上、凡そ次のよう な結論を導き出された。﹁即ち蕪雑な ⑪の稿は最初筆の赴くまⅠにビくあらましに書きとばされたもので れるならば、右の㈲Ⅰ㈲Ⅰ㈲す㈹の過程の中、㈹四二稿 は殆 んど 同 ものにすぎな あることを感じない詳にはいかなかつたのである。 程をたどろりとして、他に対比するもののない矛盾に満ちたもので と考えて大きな誤りはないと思う。この高楠 が、芭蕉俳文の形成過 い︶。従って、初稿㈲、成稿㈹に勤して㈲若しくはを働 ㈹以て再 稿 よ う である︵㈲は㈹の前半後半に若手加筆修正した じ頃に書かれたものであろうか、ほぼ同一の性質のものと言いうる あらう。そして更に語句の選揮と彫琢が加へられ、文の構成も整へ 0。﹂そして成稿の成立につ られて㈲の形に纏められたものであ@ぅ ロ如 。此につビり候。﹂と いては、去来宛書簡に、則 ﹁前後の文章ません せての あるのは、﹁この部分は 一つの文の前と後とを適嘗 にませムロ せてこのやうな形︵成稿㈹ 指すと解し、二つの文章を適宜つなぎムロ れに﹁不安定を直感﹂ 意味に解津出来るのだが、 ︵中略︶前後の文章を初稿㈲と高楠㈲を 宍幻住庵記﹂の制作過程 に近い文︶に纏めあげたととりたい::。﹂ 感じられると思う。新しい俳句講座の幻住庵記脊係の記述は以上に もないが、そこにはなおかなりの疑問も もハリⅠ 哺 あスリアことは ぅ舌 まロ 弔 Ⅰ ければならないようである。詩人芭蕉にとって幻住庵記の成立が 、 者における存在形式と意識の問題が、密接に離保 して いると言わな であろう。そこにはこの作者の俳文制作上の万法の問題が 、この 件 れは軍に推蔽彫琢の不十分などという理由だけでは説 明しきれない 宍幻住 庵 記しの本文研究︶しておられる。 そ 山 崎 氏が早くこ について︶と言われるのが、それである。 績 くものであるが、本稿と組合せて見るべきもののよう で、混 %を その詩における新しい段階を切り開く上での重大な契機 であったこ これらは、営面の問題を解明するための基礎的な前提となるべき 避けてここには述べないことにする。要するに、すでに知られるよ -一 とを述べるのは本稿の直接の目的ではないにしても・この高楠の矛 盾を無現してそれは到底十分に論じえられるものではないと思われ る。一つの論理に従えば、そこには前後二つの万法の封立があり、 封立の矛盾が止揚きれぬまま集約されていると考えるれないであろ ぅか 。 四 れたものであらう。﹂と、 嘗時の作者の情況を推測されている0 無 せない﹂︵ 荻 論 ﹁納得田家るまで想を案じ、筆を加へねば作品を手離 野清氏三省堂﹁芭蕉講座﹂書簡篇︶この作者にとっては、推敵彫琢 を前提にしたためたこれが最初の一穂であったとは言わなければな れ共少々草臥付申供間、前後の文先是迄にと ぜめられ、所々は御伽 此 二つビり候。猫脚遠慮なく 御評判可。被。成候。 さ 文章まぜ合如。 、﹁ 則前後の そしてそれの意味する作者の苦悶、それらは作者自身が に心身共に消耗、健康を害して、あの風雅に生きようとする意欲の つて、これにとってもそれは、営時の作者が、前年の奥の細道の旅 ㈲稿の成った︵セ月下旬︶ゼ月も半ばを過ぎてのことであった。従 っかれ候間 ::ニ ︵牧童 宛セ同士 セ日付書簡︶と彼が書いたのは、 初稿㈲は、彼の既成の作品に比して異質なのである。 ﹁去年遠路に らないことである。しかし、このことを考慮においても、なおかつ 筆 くるしからず候間、能々御覧 被" 成候而、他のそし りをまぬかれ 幻住庵記成立過程におけるあまりにも露わな紳鎗曲折、この矛盾、 口土 口 すリ プとオし 候様に可レ被 " 成候。﹂︵元禄三年去来宛書簡︶と懇願、 は、十分考えられることなのである。それは彼が安息の地を求めて 見出しえた幻住庵の環境の中にあたかも浸るよう にして自己自身を 激しさを、そのままには到底保持しがたい情況にあったからだと る性質のものであるかを解明するためにも、その成立過程は、いま 横たえ、かつてない安らぎを覚えて適任して、平静にしかも刻明に ろに見事に照臆する筈である。この結鈴曲折,矛盾・苦悶 がいかな 一度省りみられる必要があると考えられる。 フ。この年回 周葺と自己自身とを観察しえた時期ででもあったろ , 兄面白候故、 前、國分山と言虎、幻住庵と中祓茅、あまりに静二風見 月、自らも言う病身の彼は、﹁此度佳ム握ハ、石山の後、長良山之 山 四月十日附言 是にだまされ、卯月初入唐、暫残生を養候ピ ︵知行死 ︵ 古-︶ 味す 簡︶とも、﹁拙者も頃日ぜビヘ田中侯而、幻住庵と申魔王休息、遠 初稿 た る ㈲稿は、では一肌どのような性質のものであろうか。 境鶉旅の思をと ビめ申侯。︵中略︶飢り風景おかしき所故わりなく 崎氏は、 ﹁全般に素撰 ﹂と評された。﹁索漠﹂とは果して何を意 さ どく あらましに書きとばさ そしてこ の稿は、﹁最初筆の赴くままに るであろ ぅか 。また、大内氏は、これに﹁蕪雑﹂の語を典えられる。 る 。 に 非 静 静 を な に ら 俗 き を へ な れ 時 よ つ 燈 を と を こ とぜまり侯こ ︵雌節・千川 宛四月十日附書簡︶とも書 いた0そして また、やがて彼は、﹁塵俗のけが御 れ心ぐるしさ推察、大かた此方も 伴 そ に 生 を に 唾 景 畢 か Ⅹ 御同前、近来下。 寛俗情 ニしみ中條。﹂︵乙宛 州六月十五目的書簡︶と ハ 若 も まで書かねばならなかつた。しかも、この㈲稿はなお残暑の去りや @A@ ㏄) 夜 夜 ち り 宛セ万古三日付書簡︶感じられる頃 らぬ﹁ことのほかあ つく﹂︵智月 に、恐らく書かれたのである。普遍の詩人として生きようとした悲 肚な気塊を、しばし留保せざるをえなくねったものの、それなりに 自らをも留保しぅる方法は、その境涯に自らを肯定道任する以外に なかつたであろうか。彼にほ﹁休息﹂が、﹁残生を養っ ﹂こ ,とが、必 要 であったのである。しかし、そうした情況においても、彼の表現 は決して不毛でなかつたことを、⑪稿の存在は示すもののようであ る。﹁ 素撲﹂であるにせよ、﹁蕪雑﹂であるにせよ、 作者にとってそ れは、その表現が如貫に 示しているかぎりにおいて、封家 に恕實に、 対象 に則したかたちで、はじめて形象化されるに至ったものであ る。これは畢責 そうした万法によって達成されえた一つ0作品と見 るべきであろう。結果的に、それは所詮幻住庵記の初稿 にすぎない と言わざるをえないにしてもである。そこに、われわれは芭蕉の表 現として意外に思われるものまでも起用されているのを見出すので に (功 ①) @ん (助 さ 五 ある。︵㈹は、村田氏 藏真蹟 に掠る。︶ ひはり 卸利義樹いⅡ燈 をか Ⅰけて ィ⑪夜坐 物静にしてヨ窩卸卸パ い / しの伯父の僧の世をいとひし跡 とかや 0 ぬ しは 八 とせは ほのかなり。名を幻住庵といふ。是は勇士菅沼反曲水 の何か 平 に過荷風景、朝暮の愛化もまた足打の栖 なる へしと、 頓て め、垣根緒 そ へなんとして、四囲 に趣 んとするをと L め らる。 す をや ふりて、今年湖水のほとりにたⅠ えふ。鳩の浮 巣 のな 去年は松島ききかたに色をくらうし、北海のあらいそ にき ひ 以上は幻住庵記の終末の部分に営るが、夫々は比較して極めて 僅 目は ついて ㈲五十年や ヒち かき身八苦桃の老木となりて、蝸牛の からを,ヮ たりにその面影をとどめてゐるといつてもよから ぅ 。﹂告 幻住庵 て、松 しま白川におもてをこかし、湯殿の御山に 訣 をね ら 引㍉ 彼宗鑑がはたこを朝夕になし、能因か頭陀の袋を 丹ご木り しな ひ、み のむしのみのを 離て 、 行衛 なき風に ぅ かれ 出 むと ﹂の本文研究︶と、山崎氏も言われるように、諸穂の基本的な質 ぅ した意味での比較のためにも、掲出しておく必要が ありそうで る。 多病いふかしなど袖をひか ゆ るに 心 たゆみて、きさか たとい あら うき 巣のなかれと㌧ま ろ へき芦の一葉のやとりをもと 磯 にき ひすを破りて、ことし湖水のほとりにたⅠよふ 。 湖の -マト︶ 侍 ふなる へし。ふもとにほ そき流 涼しく、しけろを分 入 、坂 を幻住庵といふ。山を國分山といへり。古き御社のた Ⅰ せ給 ふ虎より越路におもむく。高砂こちゆ てくるしき北海の の間三曲り、のほ ろ事一丁半はに過て、八幡宮 た 卜せ 給 ふ 。 へは、六根清うしてをのつからちりなき心地なんせらる か l む。 名 て、 松榔燭軒を園 み、すしき根笹 庭を閉て、狐狸の足跡 のみ 祀 いとかみさ ひ だり。 某傍に住捨し草の戸のやねくさ り 墜落 ㈲石山の奥いはまの後に山有、國分山といふ0 昔 國分 寺の名を と、しきりにおも ひ立 侍るを、同行 曽良 何かしといふ もの、 す 。猶ぅとふ憶 そとの 濱擾 より ゑそか干 しまをみやら む まて 註 、本稿では 再 稿 に営 る 。︶ り しやまの、 頓 ていてし とさへお もひそ みね 。 かれとしまる時節もあれはにや。卯月の祝いとかりそ めにい な 差異をもつに過ぎないと考えられるかも知れない。 け れども、 とおも ひ 捨てふし な 0 ㈹賢愚文質のひとしからさるも、いつれか幻のす ミか ならす や 昔になりて、 栖ハ 幻のちまたに残せり。さるを我窟に 漏 をと て、初秋 へ 正 出てさり ぬ。 ㈲ 労 して 功 むなしく、たまし めっ かれ、まゆをしかめ /"" コ 差異は 、決して無規しえないものと思われる。所謂冒 頭の部分を るとき・最も主情的な芭蕉は第三草稿︵ のと言わなければならないのである。﹁この﹁幻住庵記 れらは個々に、 基大的な表現の万法において、大きな差 異 をもつ か そ も み 的 証 あ そ あ ㈹ まや、 。 勇 す な 人 り が 世 の へ,ね 、 るこて 見出さ 無 凹め 、 れと Ⅰま ろ へき芦の 一もとの 陰 たのもしく、軒端 茨 あら ため、 垣ねゆひそへ なむとして、卯月の祝いとかりそめに入し やかていてし とさへお もひそみ れ。 そもそも、芭蕉俳文中幻住庵記に比肩しうる長大な作口叩は他に見 幻住庵記に 出すことができない。長文に見えるその紀行の文章も、 より短く 断 絶して 連績 する作品と見られるからである。それでは、 おいて初めてなぜかくも長大の俳文が達成きれえたかは、 更めて 考 え直されねばならないことと思う 。それは初稿㈲の方 渋を 瞼讃 する こ こではむ ことにも、また 再稿の矛盾を解明することにも、つながるであろう。 第一に、芭蕉の文章への闘心が考えられる。しかし、 しろ、彼が死を賭して積極的に風雅に生きようとした激 しい気塊を その旅において行使した高さにおいてもはやこの時保 持したなかっ た結果、そして対象に彼の文章としては可能なかぎり則 した万法で 起稿した結果、はじめてこれだけの長文の俳文が達成されえたのだ と考えるべきであろうか。この前年、彼は自ら積極的に江戸の草庵 世界に自己の限界を追求したのであった。勿論、その 旅 の途上に接し 出 登に 際して、 を放棄し、一所不住の境遇に身を置いて、旅に死んだ古人の風雅の 早くも﹁幻の巷に離別の涙﹂を禁じえなかつたし、 た現 實の人間に深い親愛の情を感じない討にもいかなかった。しか し、それにも拘らず、彼は彼の悲劇的な宿命のようなものを生きな セ にたどりついた彼は健康をも害して、次第にこのことを認めぎるを 誰彼にあっても、この現質以外にありえなかつたのである。幻住庵 営然新しい身のありかを彼は見出す必要があった。そしてそれは無 ければならなかつたのである。けれども、企圃した旅も 一億果し、 が 、またそれの長文化を可能にした万法が抱えられるのであって 、 述 であることを示すものである。こうした難にも、初稿 ㈲の性格 るところであるが、それは要するにこれが事實に則した客観的な記 て、 ㈲稿の信 繍性 の根壕 としてすでに 板坂 氏によって 指適されてい 記述があっ の 一句がある。そして、これは加行宛書簡中に符合する うか。前掲例文の中に、 ﹁:::四囲 に趣んとするを と Ⅰめらる ご 八 えなくなって行く。しかし、そのために其盧は狐狸のふしどの幻住 要の説明であらう。従って㈹は之を省いてゐる。﹂ めらる﹂と他動的にこの庵に上ったことを記しているが、これは 不 に漏をとめ::四囲 に趣 んと するを とぢ 績 きを、彼は必要としたよう である。﹁鉄り風景おかしき所故わり 作過程について︶のように考えるとき、その成立過程は必然的なも ﹁㈲は終りに﹁さるを我鳥 庵 ではあったが、そのような土地に対してさえ、﹁あり ま静昌風景面 容赦なく責め なく﹂︵ 此筋 ,千川宛書簡︶とも彼は述べる。とにかく のとして 抱 えられないであろう。 自候故、是にだまきれ﹂︵知行宛書簡︶ると言わねばら なれような手 たてる苛酷な宿命に限りなく狂奔した牽句の彼は、彼に可能な万法 ろうか。﹁記は其物を記すの 心﹂︵しろさ ぅし︶とは、彼も 言うとこ 結果の彼の自我の磨滅とでも言う べき事態が考えられるのではなか ければならなかつたところには、死を賭して風雅に自己を追求した をえないところであるが、逆にそれ種の自然随順をもわりなくしな あることは、すでに指摘した㈲稿の表現の異例によっても認めぎる たのである。それが、彼の従来の姿勢とは劃期的に異なったもので ても、この自然に、現貫の人間世界に、所謂随順する以外になかつ と言わなければならないが、こうした特色もまたひとえに幻住庵記 になる。この事實は芭蕉の他の俳文に封比しても注目に慣すること 景的 展開部が他に附 して量的に最も大きな部分を占有していること 後に %分しうる筈である。とすれば、幻住庵記一篇は、右の第二 叙 ひ ::・日南に是非をこらす。﹂の一文を、その過渡的段 第一第二のそれにおけるほど明確でないが、﹁山居といひ 旅寝とい 分 の 接貼は、 に構成上国分しうるであろう。この中、第二第三の両部 掲冒頭の部分、第二に叙景的展開部、第三に叙情的終 結部の三部分 凡そ、幻住庵記はその何れのテキストに壕 るとしても、 第一に上 宍幻 住庵記 ﹂の制 で、たとえそれが﹁だまされ﹂るという言謹めいた虎理を必要とし とによって、 ろである。しかし、上記したような背景をこれがもつこ 階 として 前 はじめてこの長文の俳文は達成されえたのだと言う べきではなかろ 初稿にお げる栢射的に客観的即事的な万法の結果したものと考え ら れるべき であろう。 初稿㈲ の性質の解明はなお究明すべき蝕地 があるよ う には思わ れ るが、 以 上によってもそれは、作者の上記した意味での自然随 順の 結果したものであり、これと不可分に窩保する事態に則して客観的 に記述し よ う とした結果のものであることがほぼ明らかになった とと思 う。それは、これが再構成稿に比較して、それらに見られる ような 推鼓彫琢を加えられないままの、ひしろそれらに見られ るよ う な推鼓 ぽ琢にまでは闘心をもたない性質の、万法の作品であ るこ とを意味 するであろう。芭蕉は、﹁五ロ が徒の文章は 、 構かに 作 意を ︵四︶ かくして幻 住庵記における長文の俳文は、初稿㈲の方 沃 によ つ にこの間に再稿の過程を必要とした。 實現されることになったが、それが成稿㈲に到達するためには、 高楠 は、初稿㈲に謝していかなる意味をもつであろうか 。しか す でに 山 その前に再稿 の字ひ矛盾について明らかにしておかなければなら 高楠 が 、﹁不安定﹂を感じきせるものであることは、 氏も指摘されたところである。それが、矛盾を含むものであると るのは決して本営な意見ではないと思われる。去来の指摘もあ て、芭蕉自身もやがてこれには﹁落付﹂の悪さを 蔽じ なければな なかつたし、凡兆にもこれの﹁不出来﹂を宣告されて ﹁気の毒﹂ 故實 ︶ と 述 @ 立て、文字 はたと ひ漢字をかるとも、なだらかに云 ひつ ビけ、事 ま べる。 しかし、所詮この初稿は、そうした卓見の確立きれる遥 か以 以上は疑 つている︵元禄三年去来宛書簡Ⅹこのことによっても、 る 。㈲㈲ 二 えないところであろう。従って、これが﹁文の構成も整 へられ﹂ 成ったもの,だとは、もはやこ乙では考えがたいのであ 頃に㈹稿に 繕 いて書かれたであろう㈲稿が、㈲稿の前後に若干、 をここでは上述したように高楠として扱う 澤であるが、 恐らく 同 に前半により多く加筆修正があるのみで、その性質上人きな差異 乳 考えられないものであることは、作者がこの高楠に一時固執した 他 ならな い。芭蕉の俳文における散文性の間頭がここに反射的に考 である。 えられるが、今はそれについて多くを述べるべき段階ではないよう 者が 、し かしそれ故にこそ成就しえた長文の俳文と言う べきも のに 雅の中に 自己の表現の追求を、積極的に行う べき情況になかつ た作 えられた ものと比しても明らかに次元を異にする地煕 において、 風 前の産物 と考えられるものであり、高楠成稿のように推敵彫琢 を加 部俗の上 に 及ぶとも、懐しくいひとるべし﹂︵去来抄、 し 更 て な 見 崎 つ ら い が 稿 て じ の 特 こ 一O とを示すものであろうか。それはな 矛盾 おを 百矛 滴盾 にと おし ける 品を結晶せしめるには、おのずからそれに備わった文 章の質量 て感じえなかつた間のいくばくかの作か 者と の思 動わ きれ であっ蕉た の俳文にはあるように思われる。このように考えるならば、 る。山崎氏 再は 稿 を他 稿に勤して、﹁主情的﹂ もら のれ とし 0% ひ矛盾は一段と明白になろう 。 てな 抱 え た。相射的にそれは十う 分 る言 こい とである。前 項た に冒 引頭 用し 記したように、大きな叙景的展開部をも含む幻住庵記 の長文化 0部分が示してう いに る、 登 よ端から﹁五十ち 年か や Ⅰ ヨ白 ミ ハ 老 ﹂L こ、 初稿㈲の万法によって初めて實 現しえたのであったが、 そうし 作者は自己自身を提起し、自己の感る 情こ のと 経鈴 緯り を表現す に 品を 、再稿が初稿とは異質の万法で企画した結果にそれは 掃せ にも性急でありすぎる。﹁立 し 侍き るり をに ﹂ 思 、 ひ ﹁ 袖 を ひゆ かる るであろう。 再稿は初稿に謝し、その冒頭の部分におい て最も 差異がいちじるしい。そこには栖者の万法上の差異が考えられ に指摘するまでもないとさえ思われる こ。 とそ がし 原て 因、 しこのであるが、しかしそれにも拘らず、 次 段階の叙景的展開部 、叙 て、﹁名を幻住庵といふ。﹂以後 、従 のっ 説て 明れ 的に 記必 述然 が そ 終結部において、 再稿は初稿に追従依存する結果とな つてい 的なものと連 し績 し てえない結果となって 幻任 い庵 る に。 か﹁ る Ⅰ ︵このことは冒頭の部分においても、ある程度言い うる ことで ノⅠとな﹂︵去来宛書簡︶いこと は山 作崎 者氏 自が 身も認。したがつてこの問題は作品全 膿に 波及する。︶ここに 、作口叩の 所はき め、 作者の分裂が、万法の分裂が考えられる。勿論、再稿 はそれら く気にしておられるところでもある。 いて、初稿の表現に推敵 彫琢を加え、 再稿の万法によ つ て改稿 獅えつてまた、この冒頭に接して想起 この さ るものは固、したものと考えられるが、しかしながら、叙景的展 開部 にし 前れ 年 作 と考えられている﹁銀河の序﹂で 此康 あ一 ろ気 う書 か下 。し ﹁て に 情的 終結部にしろ、それらはすべて初稿㈲の万法によ つてはじ 専佐州望む事ふ を二 い ︵風俗文選通程︶と 主意 、は こ説 れ明 のされ 成就しえた長文の俳文の構成部分として質量共に存在 の許され ている。まきしくこれは、飛躍の多い で言わねばならぬものである。したがつて、高楠のいみじく 統速 一度 さの れあ てる表現 のと いる。表現の主題は、無限の空間に狐 お 濁け のる 感人 傷間 にの卑小 呈している矛盾は、 再稿 とは異質の初稿㈲の万法によ つてはじ 他ならないと思われるが、要するに主 ﹁観 一を 気披 に歴 ﹂し ・性急 に 可能 であった長文の俳文に、それが本営にも依存しよ,フとした 裂の理由はいかに考えられるであろうか。 万法の分裂を考えない詳にはいかないのである。とすれば、この分 結果だと言わなければならない。即ち、そこには作品の、作者の、 をも一万にも 況、彼における 現實との親和に謝して、いきさかの焦慮 こうしたことを念頭に置くならば、彼が初稿及びそれと適合した情 と彼は書いている︵芭蕉は八月十日過世庵、義仲寺無名庵に移住︶。 は、そうした彼の意欲の激しさを示すものである。そして、それは た。﹁黄奇蘇新のたぐひにあらずは云ふ事なかれ。﹂︵ 笈の小文︶と 境涯に風雅を自己自身において追求しなければならない彼でもあっ びもあったことであろう。けれども、他方においてまた 一所不住の 旅路の果てに求めえた安息があり、その世界に適圧し, えた自信と喜 な自信と喜びがあったかも知れないのである。その背 巨泉 には ト、長い れる。そこにはこの作者にとっては長大な文章への一つのささやか えた作品として、それなりに一膳満足すべきものであつたかと思わ たいであろうが、しかし作者が営時の情況において企 固して達成し の存在形式であった。初稿㈲は決して売れた作品であるとは号目いが における現質との親和があった。それは常時の作者がとり,ん マた一︵ @・ た。彼が、彼における現貫との親和を破棄して、別個に彼の存在形 住の境涯に自己を見出すことも、営時の彼には不可能なことであ っ 管する現質の愛容は勿論、そうした現實を拒絶してか つての一所不 彼の存在形式を愛車することは極めて困難なことであった。彼が位 れる。彼が、 撃けえなかつた理由は、容易に明らかになることと思わ て営時の作者の存在形式を思い合わせるとき、それが十分 な成果を のであったかも知れないのであるが、しかしそれを支える背景とし ジスタンスとして、前者に謝して否定的に産み出されよぅとしたも 産し去るほどのものとはなりえなかつたである。後者は前者への レ に対立するものと考えられるが、しかし後者は前者をことことく否 であったとしなければならない。したがつて、初稿再稿は 一膳相互 意味する作者における現實との親和に対する、そうした焦慮の結果 なのである。 たなかったというような事態は、到底考えられないこと また常時にあっても、﹁残生いまだ漂泊やまず、湖水ほ のとりに夏を 式を求めようとしたのは、所詮一つの夢想︵それほ彼か終生断ちが すでに初稿㈲の性質について述べた際に、それが営時 の作者の情 いとひ侯。猶どち風に身をまかすべき哉と秋豆比を待か け候。﹂小 ︵ たいものであったが︶でしかなかつたのである。それは究極的に彼 初稿に謝する再稿の起草は、畢寛初稿に附する、ひ いては初稿の 春宛 六月甘口附書簡︶とか、﹁追行田 庵 いたし・名月迫一八いつ古 へ刀 の新しい現實への開眼をう ながすものではあったが、そのままでは 況に適ムロした形で成就したものであろうことを見たそ 。こには作者 なりとも風にまかせ可ゾ申と存候。﹂︵牧宛 童セ月十セ日 附書簡︶など -一 それは到底實 現しえない性質のものであったことが、 結 局彼を破綻 一一 | 元元端の意向をも謙虚に求めたのであった。初稿 Ⅰ再稿の過程で ︵この書簡 から初稿の存在を窺うことが全く困難であることも、それを裏書き は、このような事態は想像もできないことなのである 高楠における矛盾は、そうした作者における分裂、不統一な精神 するであろう。︶そして、その事態は、そこに﹁他のそしりをまね に、分裂に導かずにはおかなかつたものと考えられるの である。 そ れは終に 作 者が作者自身であろうとするかぎり、何ら解決の方途 のないもので 成稿の成就を期待した結果に他ならないと考えられる。すなむち、 かれ膜様に﹂と見えるよう に、彼が﹁他﹂を考慮することにおいて 情況に 鋪因 せしめられるのではなかろうか。しかし、 苦悶は、やがて 極限にまで 達 | それは﹁他﹂の中に自己の表現を見定めようとしたことを意味する あり、したがつて彼における分裂 したであろうと想像することも、決して困難ではないと 思われる。 ものである。この﹁他﹂が一驚何程のものを指すかは、古書簡中に 女御存知なきと被。仰候へ共、貫文にたがひ候半ハ無念2車:: ニ 見える﹁賢女﹂の解程と密接に閲保すると思う。そこ で彼は、﹁誹 そ こには 何 と述べている。彼はすでにこの時、﹁計立﹂の自覚に達していたこ ︵五︶ よりも 雄辮に 、高楠ヰ成稿の過程をめぐりての作者の意圓が 語られ とになるが・﹁ 誹文﹂の語への反間に対して、彼はそのよう に答えた 再び元禄三年去来宛書簡を顧みるべき段階になった。 来 たいまは、も のである。幻住庵記を﹁誹文﹂としてあらしめたいと考えた芭蕉が、 それを﹁貫文﹂以外のものであってはならないと考えた、このこと ているからである。初稿の性質、再稿の矛盾と述べて はや成稿について多くの言葉を費す 必要もなくなった よ ぅ であるが。 幻 住庵記の作者は、その書簡によってすでに知られて いる如く 、 から﹁貫文﹂とは、去来や元端や凡兆やめ、凡そ同時代 の文事にた そしてそれが、彼が彼自身であろうとする限り解決し えない性質 することのある人々と考えてよいものと思われる。勿論、それらは ﹁他のそしりを﹂の﹁ 他﹂もしたがつて、一般に、文卑 の文章に閲兵 ずさわるものが通常考えるであろう文章を指すものと見られる。 上記してきた再稿を門弟去来の許に送り、その意見を 乞 う たのであ のものであることが示されている。彼は去来の返書をま っ てその 意 更に具僅的に限定する必要のあるものであるが、ここでは暫らく以 つた。この見逃しかれない事態にこそ、かつての高楠 見を大いに加味し、万丈記その他に範を仰ぎ、一万ま た凡兆の痛切 上の説明にとどめて置きたい。 に おける矛盾、 な批評をも受容して新たに改 し稿 、再度それを去来に 送って、その 親和の中に見出したのであったが、それをあきたらぬものと考えた よう に思われるのであるが、要するに幻住庵記の成立は、彼の文孝 的に限定することによって、彼の文睾の可能性や限界 は考えられる 物語るであろう。彼が意識した﹁他 ﹂や﹁貫文﹂の 内 容を更に具 結果、次の再稿 において彼は表現︵風雅︶を、その親 實との親和を の形成過程において彼の志向した通時的世界と共時的世 界との一つ かって彼は、幻住庵記初稿において、表現を彼における現質との 拒否してそれとは別個に、一撃に、風雅に生きた古人 の系譜の中に の大きな接ムロ の地鮎 であったとは言いうるであろう。 き ︵八月十日すぎの義仲寺移住︶があることは解れた が、再稿 たにすぎないことになる。また、この間芭蕉の博記上 には若干 幻住庵記初稿の起草より成稿の完成までには、およそ 一箇月を のとすれば、高楠はこの間に位置すること勿論である。とすれ ﹁元禄平仲秋日﹂︶となっている。これらがそのまま信せ 頼られ が八月︵村田家蔵真蹟には﹁元禄 三仲秋日色猿蓑所載 震新題語 れぞれの年記に従えば、初稿が セ月下旬︵﹁一万緑三別 東丁﹂、 ︶ お、以上には詳しく織れえなかつたが、初稿,成稿の成五時期 八 補記Ⅴ 彼自身における可能性として見出そうとしたのであ っ た。しかしそ れば 、彼及び彼の表現の﹁不安定﹂矛盾を意味するも のでしかなか つた。これらの結果、最後に彼は成稿において、表現を再び 現實と て ではない。 の親和の中に見出そうとしたのである。けれども、それ ほもはや初 稿 におけるよ う に、 軍なる 素僕な 現實 との親和におい それは、表現を去来宛書簡に見られるような新しい事 態 の現實 との 親和においてであると同時に、また自己自身の固有の使命において 見出そうとしたものと言いう るであろう。﹁ 誹文 ﹂は﹁ 貫文﹂に 封し て、そこにおいて成り立つ。そしてそれは、去来抄に 博 える彼の ﹁吾が徒の文章﹂についての把握につながるものと考 えられるので ある。このように考えるとき、去来宛書簡の末尾に近くの、﹁いま少 ろ うか 。そしてそれは、彼がその表現を、風雅に生きた古人の系譜 を更に欲したことなどが、少しの抵抗もなく理解きれるのではなか を精密に検討するべくもないので、省いた。本稿の組織が、そ すでに二三のほぼ同一の解程が見られるが、粗雑な木 稿 ではそ て本稿を損傷するものではないと思われる。﹁貫文﹂に ついて ける矛盾の伏線として考えられるもののよう である。こ れらは 彼をめぐる の解程を拒むからでは決してないことをお断りしておき 申 ・@ @ レ い や 、﹁此度の文章 少落付﹂や、 ﹁ 文 のつよみ﹂ ︵適時的世界︶の中に追求しようとしたばかりでなく、 しえたことを よろしく風流あるべく﹂ 現實 ,友孝共同 膿 ︵典侍的世界︶の中に追求し、定着 一-一 - Ⅰ。
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