先週講壇 約束の聖霊 2015年 5 月17日 松本雅弘牧師 エゼキエル書 11 章19~20節 使徒言行録1章3~8節 Ⅰ.ペンテコステとは 教会には3つの大きな祭りがあります。クリスマ ス、イースター、そしてペンテコステです。 クリスマスは救い主イエスさまのお誕生、イース ターは救い主の復活の記念、そして、このペンテコ ステは、約束の聖霊が降った記念の日です。 主イエスは昇天の直前、弟子たちに対して「エル サレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束 されたものを待ちなさい。 」と語られました(使徒 1:4) 。この主のご命令に従い、弟子たちはエルサ レムを離れずに、父の約束された聖霊を待ち望んだ のです。今日は、彼らに語られた御言葉、「エルサレ ムを離れずに、待つ」 ということについてご一緒に考 えてみたいと思います。 Ⅱ.エルサレムとは 「エルサレムを離れない」ということを考える前 に、そもそもこの時エルサレムはどのような場所だ ったかについて考えてみたいと思います。 この時の弟子たちにとってのエルサレム、それは まず第1に挫折の地でした。自分たちの願いが遂げ られず、 ことごとく失敗した場所だったと思います。 思い出していただきたいのですが、イエスさまが エルサレムに入城した日、人々は棕櫚の枝をかざし て、 「ホサナ、ホサナ、ダビデの子!」と叫び、大歓 迎しました。 イエスさまこそダビデ王の再来として、 ローマ帝国の支配から自分たちを解放することがで きると期待したからです。ところが現実は、ロバの 子に乗っての入城でした。迎えた方の群衆は、多少 首をかしげたかもしれません。 このこととの関連で、使徒言行録1章6節には、 復活後のイエスさまに対して「主よ、イスラエルの ために国を建て直してくださるのは、 この時ですか」 と使徒たちが尋ねています。この期に及んでこうし た質問が飛び出すのです。 ましてや十字架の出来事以前はどうだったのでし ょうか。 〈3年にわたる苦労が報われ、いよいよイエ スさまが新しい政権を樹立して、自分が大臣になれ る日が近い!〉と期待していた者もありました。そ の証拠に、最後の晩餐の時に至っても、絶対に仲間 の足なんか洗うものか、と心に決めていた弟子たち でした。自分が低く見られるのを恐れていたからで す。つまり自分が最高のポストに就きたかったので す。だから仲間の足を洗うことなどできなかった。 そのような弟子たちに対して、イエスさま自らが彼 らの足を洗い、神の国がこの世の国とどんなに違う 「愛と謙遜の国」であるかを示されたわけです。 弟子たちは勘違いしていました。彼らは「ユダヤ 王国の再建」を願い、〈その政権の中枢に居たい〉と 真剣に考えていたようなのです。ところが、予想に 反して、十字架がありました。イエスさまへの人々 の期待が大きかっただけに、失脚したヒーローに対 する仕打ちは本当に残酷でした。兵士たちはこぞっ てイエスさまを嘲り、唾をかけたのです。そのよう にして主は十字架の死を遂げられたのです。 弟子たちは、今後起こるであろう「イエスの仲間 の残党狩り」に恐怖していました。これこそが弟子 たちの心にあった、 「エルサレムでの記憶」です。 ですからエルサレムとは弟子たちにとって「一番 都合の悪い場所」 、 「嫌な所」 、 「自分の弱さ、失敗、恥 を想い起させるような場所」だったはずです。 しかしイエスさまは、敢えてこのエルサレムから 「離れずに、留まっているように」 とお命じになった のです。 Ⅲ.エルサレムに留まるとは では、弟子たちにとって、エルサレムに留まると いうことにはどういう意味があったのでしょうか。 結論から言えば、 「ありのままの自分を受け止める/ 自分自身と向き合う」 という経験だったと思います。 創世記の最初の所で、罪を犯したアダムとエバに 対して神さまは「あなたはどこにいるのか」と言わ れました。これに対して彼らは、 「あなたが食べては いけないという木の実を食べて、それで裸であるこ とがわかりました。そこで恥ずかしいので、あなた から隠れたのです」と答えたのです。 聖書は、アダムとエバが本来あるべき場所から離 れているならば、神さまは祝福することは出来ない ということを教えています。 あるがままの私は本当に弱さや失敗の多い人間で す。そして、そうした本来の自分自身から離れて、 あたかも素晴らしい人間のように取り繕い、肩肘張 って生きていたらどうでしょうか。立派ではないの に、立派であるかのように、自分を偽って生きてい たらどうでしょう。そうした「振りをして生きる」 私に、聖霊を注ぎ、祝福するのは難しいのです。 むしろ、神さまは「あなたは、どこにいるのか」 と尋ね、現実の、あるがままの自分自身と向き合う ように導かれます。 「振りをして生きる」とは、私ではない者として 生きることです。私の中に、ああであったら、あの 人のようであったらという願いや理想があります。 けれども、神さまは、私があの人のようになったら 祝福されるのではなく、あの人のようでない現実の あるがままの私を祝福したいと思っておられるので す。このあるがままの私のために、キリストは十字 架にかかられたからです。 ただ、ここで注意しなければならないことは、こ れから先、永遠にあるがままでよい、ということで はありません。あるがままの今の私は、神さまの恵 みの中で成長し、本来神さまが願っておられる私へ と創り変えられて行く、そのことを神さまは願って おられるのです。だからこそ、 「あなたは、どこにい るのか」と言って、現実のあるがままの自分自身と 向き合うようにと、神さまは導かれるのです。 ですから、私たちがすべきこと、それは、今居る ところに立って、 「主よ、私はここにおります。どう ぞ私を憐れみ、助けてください」と言って、神さま の方に方向転換することです。 イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれ でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 と言われるお方です。 エルサレムとは彼ら弟子たちにとって、現実の自 分を知らされる場所、カッコつけることなどできな いような場所です。イエスさまは、「そこに留まり、 そこで聖霊を受けなさい」 とお命じになったのです。 聖書は、私たち人間のことを「土の器」と呼びま す。それは、人間とは「自分で自分を満たすことの 出来ない存在」であるということ。私たち人間が感 じる虚しさの根源は、結局のところ、ここにあるの だと教えているのです。 聖書が私たちを「器」と呼んでいる理由、それは、 神さまからの愛を「盛られ」て、はじめて私たちは 人間らしく生きることができる存在だからなのです。 「神さま、私という器を、あなたの恵みと祝福で 満たしてください。 あなたの聖い霊をお与え下さい」 と祈ることを通して、本当の意味で満たされる経験 ができるのです。 聖霊によって満たされてはじめて、 「本来あるべき私」として、いきいきと生きること ができるのです。 学生の頃、ある先生が私に、 「松本君、少し逆説的 に聞えるかもしれないが、あなたが満たされていく ために必要なことは、 空っぽになっていくことだよ」 と言われたことを覚えています。 神さま以外の「頼りになるもの」で、心が一杯に なっていたら、一番大切な聖霊で満たされる領域が 少なくなってしまいます。 「頼りになるもの」がなくなり、 「空っぽ」になっ ていく時、当然、心は穏やかでなくなり、不安にな るかもしれません。けれども、その時こそチャンス だというのです。不安を感じるからこそ、キリスト の平安が心を満たすからです。そのようにして私た ちは聖霊に満たされていくのです。 空っぽになっていくこと、 そして、 最も良いもの、 すなわち聖霊で満たしていただくのです。 Ⅳ.聖霊による力 8節をご覧ください。 「あなたがたの上に聖霊が降 ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレ ムばかりでなく、 ユダヤとサマリアの全土で、 また、 地の果てに至るまで、わたしの証人となる。 」とあり ます。 《聖霊が臨まれる時、力を受けて、復活の主の証 人となる》というのです。 「力を受けて」の「力」とは「ダイナマイト」の 語源となった 「デュナミス」 というギリシャ語です。 復活の証人として力強く歩むために、聖霊降臨によ って与えられる力です。 イエスさまが約束された、この約束の聖霊が私た ち与えられているのです。そのしるしとして私たち は洗礼を受け、そして今も、この恵みの中に生かさ れています。 来週は、ペンテコステ礼拝です。2千年前のこの 日、 約束の聖霊が降り、 宣教の教会が誕生しました。 そのことを覚え、共に、神さまに感謝する礼拝を捧 げて行きたいと願います。お祈りします。
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