聖霊の命の法> ローマの信徒への手紙 8 章 1~11 節 鬼は外、福は内

<聖霊の命の法>
ローマの信徒への手紙 8 章 1~11 節
鬼は外、福は内、来週 2 月 3 日は節分でしょう。
前回の 7 章では、私達のクリスチャン達も時々、罪を犯す時があります。パウロが語って
いるように、
「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行なっている」自分を見つけて、
「誰が私を救ってくれるでしょうか。」と嘆く告白の段階まで至ったのです。ところで、感
謝する事は譬え、私達が肉親の弱さのために、罪に落ちてしまってパウロのように 7 章 24
節で오호라 나는 곤고한 사람이로다 누가 이 사망의 몸에서 누가 나를 건져내랴と告白
する嘆きがあったとしても、その事によって、罪定められないのです。その理由は、今日
の御言葉 2 節に出ています。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則からあなた
を解放したからです。
」聖霊は命を与える霊です。人間達に、罪によって失った命を再び回
復させる方なのです。命を失った人々に命を回復させる命の法です。
クリスチャンは聖霊に導かれる人です。イエス・キリストを信じている人と信じていない
人の違いはキリストの霊があるかどうか、キリストの人だったら、必ずその人の内にキリ
ストの霊である聖霊が宿っています。今日の御言葉 9 節がそれを語っています。
「神の霊が
あなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリ
ストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
」<キリストの霊を持っている人>
は<キリスト者>です。英語でクリスチャンと言う意味もキリストに属している者と言う
意味です。だから、キリストの霊、つまり、聖霊が居なければ、キリスト者ではないので
す。キリスト者になったと言う言葉は、聖霊の人になったという事を意味します。
聖霊は弱い肉親を持っている人間にいらっしゃって神様の祝福を下さるお方です。2000
年前に十字架の死と復活によってイエス様が人類の救いを成し遂げましたが、その救いの
働きが私の救いとして成し遂げるためには、聖霊様が働いたのです。イエス様が霊として
私達の内においでになる事によって私達がキリストの人、聖霊の人、神の子になったので
す。
今日の本文 8 章は、その聖霊が私達のキリスト者達に向かって、どういう祝福が与えら
れるか、について詳しく記しています。ローマ書 8 章を「聖霊の章」とも言い、ローマ書
の中でも一番、重要な部分であり、核です。ある聖書学者は、指輪の中で宝石、タイヤモ
ンドだと言っています。
今日、8 章を通して与えられる祝福を期待しながら、御言葉を考えて見ましょう。
先ずは、聖霊が宿っている人に与えられる祝福は、決して罪に定められないのです。1節
を見ましょう。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる事
とはありません。
」1回、聖霊が宿ったら、キリストと一体になり、どんな弱い姿、つまり、
考えの狡猾さや言葉の未熟さや望ましくない行動にもかかわらず、そのために罪に定めら
れる事はないと言う事です。聖書で、罪定めは、その罪のために責任を負う事です。律法
は罪を定めるのです。<罪とは、こういう事です>と律法に記し、<その罪を犯したら、
こう罰を受けます>と教えています。だから、<私達が罪に定めると言う>言葉は<私達
の行動が罪として認められ、その罪に代価を払う、つまり、身代わりが必要だ>と言う言
葉です。
罪とは、道徳的な間違いだけではなく、創造主である神様を離れる事であり、その結果、
罪犯し、罪ある生活を過ごすようになります。その罪の結果、人間達は心配と恐れの中で
過ごしながら、永遠な滅びに落ちてしまうのです。
教会学校で勉強して創世記 3 章 17 節によりますと、神に不従順によって罪を犯した人間達
に神様がどういう罰を下したかを(기록해 놓고 있습니다)記しています。「土は呪われるも
のとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
」そして、19 節に見ると、塵に過ぎな
いお前は塵に返る。
創世記 2 章 7 節を開いて見ましょう。旧約聖書 2 ページです。創世記 2 章 7 節をゆっくり、
そして詳しく見ましょう。
「主なる神は。土、括弧の中の言葉、アダマと言う土、の塵で、
人、つまり、括弧の中の言葉、アダムと言う言葉が人、人間を形づくり、
」と言う言葉があ
るように、人間最初のアダムは塵から生まれたので、3 章 19 節を見ると、次のページ 3 章
19 節、全部を、蓮香先生、読んで下さいませんか。
「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵
に過ぎないお前は塵に返る。
」
ありがとうございます。皆さん、生活のために、パンを得るためにどんなに苦労していま
すか。その次、罪を犯したアダムに「アダムと言う意味が塵でしょう。だから、塵に返る。」
と神様が罰を下し、その罰はここの私達も同じです。私達は土の塵に返るべき存在なので
す。
私達が尊敬する渡辺暢雄先生も 11 月 16 日に亡くなって 22 日に火葬場で塵に返りました。
私達も塵から生まれた者だから、必ず塵に返ります。罪を犯したアダムが塵に返えったよ
うに、私達もその子孫として、塵に返ります。
しかし、聖霊が宿っているクリスチャンは、その罪の代価として 2000 年前にイエス様が十
字架で身代わりとして、死んで下さったのです。
2000 年前の十字架の出来事がこんにちの私達の出来事として、効き目が現わすためには、
聖霊の働きが必要です。その聖霊の働きによって私達は全ての罪定めから自由になるので
す。罪から解放されるのです。
3 節と 4 節を見ると、その理由を詳しく記しています「肉の弱さのために律法が、なしえな
かった事を神はして下さったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ
姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
」そして、4 節に「そ
れは、肉ではなく、霊に従って歩む私達」と言うのは「肉に属しなくて聖霊に属するよう
になった私達」を意味します。私達は聖霊に属している者になりましたが、時には、昔の
習慣に落ちて、肉に従う時があるのです。しかし、そうだったとしても、私達が肉に属す
る者に戻る事ではありません。私達は、神様の変わらない愛の恵みによって、もうすでに
聖霊に属した者になり、罪に支配から神の支配に移ったのです。イエス・キリストが十字
架で身代わりとして、死んで下さる事によって、すべての律法は成し遂げられたように、
イエス様を信じる私達には、すべての律法の要求が成し遂げられたように見なすのです。
だから、聖霊が宿っているクリスチャンにおいて、どんな罪に対しても、イエス様が代価
を払っていたのです。
だから、聖霊が宿っているクリスチャンになる事は、ものすごく大きな祝福なのです。私
達の昔の罪だけではなく、今、現在、見えている弱さ、はなはだしく、これから犯す罪か
らも、自由になるのです。解放されるのです。
<聖霊が宿っているクリスチャンに罪定めがなくなる祝福は、自分自身だけではなく、>
渋谷教会の人々も新しい聖霊の命の法の祝福が豊かに与えられますように、お祈りいたし
ます。
聖霊に導かれる人の第 2 番目に特徴はこれからは肉に欲望にコントロールされる事ではな
く、霊によってコントロールされるという事です。9 節がそれを語っています「神に霊があ
なた方の内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく、霊の支配下にいます。キリス
トの霊を持たない者は、キリストに属していません。」