リアル短編小説 私は会社の帰宅帰りに路面電車に乗った。対面式の長椅子だった。季節は冬で誰もが岐路 に急いでいた。 夜中 10 時 25 分の最終電車だ。客は少なく私を含めて 6 人程度だった。 私が座った席には、観光客らしき人が右となりに座っていて、初めての路面電車なのか楽 しそうに話していた。他の乗客は若い女の子。20 代前半くらい。 薄暗い窓の景色と古びた路面電車の床を私はじっと眺めていた。ある停留所に止まって路 面電車は、乗客を待っていた。疲れすぎていて人を気にしなかったが、私の前に中年のお ばさんらしき人が座った。急に回りの様子が違う。乗客全員おどおどしてきだした。私は おそるおそる足元からその女性を見ていった。白のタイツ。太めのむくんだ脚、真冬だと いうのにカーディガン一枚。気になって顔を見てみると顔から鼻血が流れ、殴られたあざ が顔面にあった。私は恐らく家庭内暴力で、着の身着のまま大慌てで電車に乗り込んだん だろうと察した。 私の席に座っていた隣の外国人観光客が、 「oh my God!」と叫び、これを使ってくれと言わ んばかりにポケットティッシュを差し出すが、気にしないでくれと女性は振り払った。 私は、恐る恐る女性の側に寄りそって、ハンカチを手渡した。 「私も変な男に追われてますから。あなただけは何処までも逃げて行ってください。 」 私の顔をビックリした表情で見て、涙ながらに女性はこう言った。 「これ返さなくていいの?」 私は何も言わずにコクリとうなづいた。 そのまま女性は下車した。 女性が歩いた床には、無数の血痕が散らばっていた。
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