超国家主義と「国体」 本稿は五月二十三日に開催された〈国 体学講座・戦後の『国体論』を読む②〉 の講義録を基にしたものです むねのり 昭和二十年八月六日、陸軍船舶司令部参謀部情報班 所属の一等兵であつた丸山眞男は、広島市南部の宇品 にあつた司令部で目の眩むばかりの閃光を見た。東京 帝国大学法学部に進学し、卒業後すぐに同大学の助手 「八月革命」説の実質的創唱者 労働省の基準では「入市被爆者」にあたるが、「広島 で生活していた人間というより、至近距離にいた傍観 動にあたる中、留守番として司令部で短波放送を傍受 してゐた丸山は、「原子爆弾を投下した」といふトルー マンの放送を耳にする。九日、報道班長に随行して爆 心地近くを歩き、その惨状を目の当たりにした。厚生 原爆の直撃を受けなかつた宇品には、爆心地付近か ら人々が避難してくる。翌七日、司令部あげて救護活 ―――丸山眞男の怨恨 かね こ と な り、 昭 和 十 五 年 六 月 に 助 教 授 に 昇 進 す る。 昭 和 十九年七月に応召。幹部候補生となる道も開かれてゐ 者なんですから」と述べる丸山は、被爆者健康手帳の 申請をしなかつたといふ 〔『中国新聞』平成二十五年三 月十四日〕 。 八月十五日の敗戦を、丸山は「解放」と捉へてゐる。 旧制第一高等学校在学中の昭和八年四月十日、唯物論 研究会主催の講演会に出席したとして検挙・拘留され 金子 宗德 たが、軍隊に加はるのは自らの本意でないとして拒否 し、 二等兵として朝鮮半島へ。脚気により除隊するも、 昭和二十年三月に再び応召する。船舶司令部とは戦時 における部隊や物資の輸送管理する機関であり、敵潜 水艦の出没情報を整理したり、内外の報道を基に国際 情報を執筆したりといふ業務にあたつてゐた。 里見日本文化学研究所所長 亜細亜大学非常勤講師 て以来、丸山は「思想犯予備軍」として脅へながら暮 らしてきた。敗戦直後に別の隊に居た副島種典 (マル はまだ十分に究明されていないようである。いま主と して問題になっているのはそうした超国家主義の社会 的・経済的背景であって、超国家主義の思想構造乃至 心理的基盤の分析は我が国でも外国でも本格的に取り 上げられていないかに見える」と書き出した丸山は、 ヨーロッパの近代国家と明治維新以後の日本国家を比 較する。 クス経済学者・維新の元勲である副島種臣の孫)と顔を 合はせた際、 「どうも悲しそうな顔をしなけりゃなら ないのは辛いね」と話し合つたといふ〔座談会「戦争 (昭和三十三年九月九日) 『丸山眞男座談』 (第 と同時代」 二 巻 )所 収 〕 。 そ の 後、 東 京 帝 国 大 学 憲 法 調 査 委 員 会 の委員となつた丸山は「八月革命」説を唱へる。その 後、 「八月革命」説は委員長であつた憲法学者の宮沢 俊義により広く知られるところとなつた。 ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがい )たるこ うように、中性国家 ( Ein neutraler Staat とに一つの大きな特色がある。換言すれば、それ 値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置 いているのである。近代国家は周知の如く宗教改 革につづく十六、十七世紀に亘る長い間の宗教戦 争の真只中から成長した。信仰と神学をめぐって の果てしない闘争はやがて各宗派をして自らの信 条の政治的貫徹を断念せしめ、他方王権神授説を 振りかざして自己の支配の内容的正当性を独占し 「内容的価値の実体」たる「国体」 昭和二十一年五月、丸山は月刊誌『世界』に「超国 家主義の論理と心理」を発表する。 「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、 また世界に対して今次の戦 争に駆りたてたところのイ デオロギー的要因は連合国 ウルトラ・ナショナリズム によって超国家主義とか エクストリーム・ナショナリズム 極 端 国 家 主 義 とかいう名 で 漠 然 と 呼 ば れ て い る が、 その実体はどのようなもの ようとした絶対君主も熾烈な抵抗に面して漸次そ 2 【国体文化】平成 27 年 10 月号 3 超国家主義と「国体」 は真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的 立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱ ら他の社会的集団 (例えば教会)乃至は個人の良 心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価 であるかという事について 終戦後間もない丸山眞男 の支配根拠を公的秩序の保持という外面的なもの に移行せしむるの止むなきにいたった。かくして 形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なも のという形で治者と被治者の間に妥協が行われ、 果して間もなく、あの明治思想界を貫流する基 督教と国家教育との衝突問題がまさにこの教育勅 語をめぐって囂々の論争を惹起したのである。「国 家主義」という言葉がこの頃から頻繁に登場し出 〔 前 略 〕第 一 回 帝 国 議 会 の 招 集 を 目 前 に 控 え て 教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的 大義と国家活動とはつねに同時存在なのである。 大義を実現するために行動するわけだが、それと 共に行動することが即ち正義とされるのである。 〔 中 略 〕国 家 活 動 が 国 家 を 超 え た 道 義 的 規 準 に 服しないのは、主権者が「無」よりの決断者だか らではなく、主権者自らのうちに絶対的価値が体 現しているからである。それが「古今東西を通じ て常に真善美の極致」とされるからである (荒木 貞 夫、 皇 国 の 軍 人 精 神、 八 頁 ) 。 従 っ て こ こ で は、 道義はこうした国体の精華が、中心的実体から渦 紋状に世界に向って拡がって行くところにのみ成 り立つのである。「大義を世界に布く」といわれ る場合、大義は日本国家の活動の前に定まってい るのでもなければ、その後に定まるのでもない。 なる。 由はそもそも存立の地盤がなかったのである。信 仰のみの問題ではない。国家が「国体」に於て真 善美の内容的価値を占有するところには、学問も 芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存 立しえないことは当然である。しかもその依存は 決して外部的依存ではなく、むしろ内面的なそれ て解決されたのではなく、それが片づいたかのよ うに見えたのは基督教徒の側で絶えずその対決を 回避したからであった。今年初頭の詔勅で天皇の 神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自 したということは意味深い。この論争は日清・日 露両役の挙国的興奮の波の中にいつしか立ち消え になったけれども、ここに潜んでいた問題は決し 実体として価値内容の独占的決定者たることの公 然たる宣言であったといっていい。 体」である。 思想信仰道徳の問は「私事」としてその主観的内 面性が保証され、公権力は技術的性格を持った法 体系の中に吸収されたのである。 ところが日本は明治以後の近代国家の形成過程 に於いて嘗てこのような国家主権の技術的、中立 的性格を表明しようとしなかった。その結果、日 スピリチュアル 本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこ までも自己の支配根拠を置こうとした。幕末に日 本に来た外国人は殆ど一様に、この国が精神的君 主たるミカドと政治的実権者たる大君 (将軍)と の二重統治の下に立っていることを指摘している が、維新以後の主権国家は、後者及びその他の封 建的権力の多元的支配を前者に向って一元化し集 中化する事に於て成立した。「政令の帰一」 とか「政 刑一途」とか呼ばれるこの過程に於て権威は権力 と一体化した。そうしてこれに対して内面的世界 の支配を主張する教会的勢力は存在しなかった。 丸山によれば、その「内容的価値の実体」こそ「国 なのだ。国家のための芸術・国家のための学問と いう主張の意味は単に芸術なり学問なりの国家的 実用性の要請ばかりではない。何が国家のためか という内容的な決定をば「天皇陛下及天皇陛下ノ 政府ニ対シ」(官吏服務紀律)忠勤義務を持つとこ ろの官吏が下すという点にその核心があるのであ る。そこでは、 「内面的に自由であり、主観のう ダーザイン ちにその定在をもっているものは法律のなかに 入 っ て 来 て は な ら な い 」( ヘ ー ゲ ル )と い う 主 観 的内面性の尊重とは反対に、国法は絶対価値たる 「国体」より流出する限り、自らの妥当根拠を内 容的正当性に基礎づけることによっていかなる精 神領域にも自在に浸透しうるのである。 権力と倫理 「国家が『国体』に於て真善美の内容的価値を占有 する」ことの何が問題か。丸山は云ふ。 「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義 は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯してい るところに日本の国家主義論理の特質が露呈して 国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に 占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の こうした立場は亦倫理と権力との相互移入とし である! いる。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、 本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐 なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるの 規準を自らのうちに(国体として)持っており、 従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超 えた一つの道義的規準には服しないということに 4 【国体文化】平成 27 年 10 月号 5 超国家主義と「国体」
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