歴史ガイド - 石巻市新門脇地区震災復興事業

昔
石巻まちあるきマップ特別編
歴史ガイド
制作:東京工業大学真野研究室 発行:一般社団法人 ISHINOMAKI2.0
監修:千石船の会・邊見清二、石巻の歴史文化を記録するプロジェクトチーム
墨廼江酒造(株)蔵
相馬家文庫蔵 明治19年
明治中期
1
石巻駅
横町
2
新田町
4
5
7
9
羽黒山
カフェあぷりこっと
13
8
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14
16
19
20
内海橋
17
21
明治13年に建設された日
本 最 古 の 木 造 教 会 堂 建 築。
昭和53年の地震で被災し
た後に現在地に移築・復元
され、昭和55年に市の指
定文化財になりました。
造船所群跡
仙台藩
米蔵
門脇村
旧石巻ハリストス
正教会教会堂
魚市場跡
仙台藩
湊米蔵
一関藩
米蔵
元龍丸汽船船蔵 明治35年頃
牧山
岡田劇場
開運堀
22
住吉公園にある
「巻石」に由来。
秋葉神社
中瀬
盛岡藩
米蔵
川口港を示す
水門の脇から。
九軒町
後町
o
3 富貴町
( 大正期 )
4 尼横丁
( 江戸期 )
秋田屋本家が大正年間に開通させた
私道。両脇の貸店舗の店子の商売繁
盛を祈念して命名された。
泥の転訛と推測される。
6 千葉源横丁 ( 大正・昭和期 )
7 寿福寺横丁 ( 江戸期 )
8 永巖寺横丁 ( 江戸期 )
9 畑中横丁
( 江戸期 )
10 小野寺横丁 ( 江戸期 )
江戸後期、石巻鋳銭場役人小野寺六
郎太夫の住居に由来。
11 梅屋横丁
( 江戸期 )
12 八百屋横丁 ( 江戸初期 )
享保年間に八百屋があったことから。
明治以降魚屋、水産業者の展開で「肴
町」
、戦後の26年に金刀比羅神社を
祀り「金比羅通り」と改称。
13 和田横丁
( 明治期 )
14 松川横丁
( 明治期 )
図 江戸時代中期(享保年間)の石巻絵図 江戸時代まで石巻の中心街は、南北の街道を中心に形成されていましたが、鉄道が開通し、明治 15 年
内海五郎兵衛によって北上川に内海橋が架橋されてからは東西方向に広がっていきました。中瀬も内海
橋が架けられたことで遊郭や料亭、「岡田劇場」の前身となる芝居小屋等が建ちならぶ歓楽地となりま
した。明治後半になると、中瀬は産業振興を目的とした「水産共進会」の会場となり、牡鹿半島を模し
た養殖池がつくられ、魚問屋、海産物製造所などが立地するようになりました。また石巻中心街に現存
する蔵の多くもこの明治時代以降に建てられたもので、船蔵や米蔵、店蔵、文庫蔵など、さまざまな用
途を持っていました。昭和 4 年、魚問屋が集まって「石巻魚市場」が中瀬、湊の両地区に設置され、昭
和 15 年に門脇に移転されるまで中瀬に2つの売場が設けられました。戦後、岡田座は映画の隆盛とと
もに東映の映画館「岡田劇場」に改築されました。最盛期には 4 社が操業していた造船所群は、湊地区、
工業港の整備に合わせ相次いで移転しました。その跡地は中瀬公園として整備され、昭和 53 年宮城県
沖地震により被災した「石巻ハリストス正教会教会堂」が移築されました。
( 大正期 )
土地を取得した芸者置屋が長屋建築
の中に開通した道。
18 石切横丁
( 江戸期 )
19 御殿横丁
( 明治期 )
写真 石巻川湊の風景 写真 漁業船の風景 開運堀南側、高札場と仙台道に通じ
る道。
南町
元仙台藩石巻御仮屋守が御仮屋御殿
跡地の分与にあたり開通させた私道。
魚市場跡
20 無知名横丁 ( 大正期 )
荒町
日和山
( 江戸期 )
17 置屋横丁
湊 村
金華山鉄道
点線より川側は昭和に埋
め立てられた土地。昭和
4 年に魚市場として整備
され、近くには大きな魚
問屋がありました。
2 縄張横丁
16 代官所横丁 ( 江戸期 )
ミ ( 水門 ) ナ ( の ) ト ( 通路 )、
海や川の水が出入りする場所
門脇渡
( 江戸初期 )
開運堀北側、代官所を囲む道。
門脇町
本間家文庫蔵 明治30年
1 住吉横丁
15 もりや横丁 ( 江戸期 )
湊本町
作田島神社
横丁の名前は、土地や屋敷の所有者
の名字や屋号などが使われました。
また、
神社(金比羅、
縄張)や畑、
置屋、
石切場など、場所にちなんだ名称で
呼ばれる横丁もあります。一方、名
前のない横丁は「無知名横丁(→狢
の文字が使われる場所も)
」
「泥横丁
(→さんずいがとれて尼横丁に変化し
た)
」と言ったものもあります。
5 無知名横丁 ( 江戸期 )
伊達家御用達の 船問屋 武
山屋の船頭を勤めた須田家
の店舗のビルで、初めての
百貨店。陶器製のタイルを
使用している近代建築。
石ノ森萬画館
本町
石巻小学校
観慶丸商店
中町渡
仲町
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石巻村
古来歌枕で知られた
「袖の渡」と呼ばれる
旧金華山道の渡し場。
ここにある巻石が石
巻の地名の由来。
12
裏町
石巻の歴史を伝える
路地「横丁」
北上川の川岸に開けた川湊である石巻湊には江戸時代に仙台藩、一関藩、盛岡藩、八戸藩など、東北東
海海岸各地の米を江戸に 送するための米蔵や魚蔵、仮屋御殿、代官所などが建ち並んでいました。こ
こでは 船問屋と呼ばれる商人たちが、千石船を持ち、さまざまな物資と情報を集め繁栄しました。石
巻湊の町割は、いくつかの掘割がめぐらされ、街並みは、道路の西側だけに屋敷を建て、東側の土地を
荷揚げ場やストックヤードとして空けておく「片町(かたまち)づくり」によって構成されました。中
瀬は江戸初期、伊達政宗が仙台に城下町を建設し、その外港として石巻に港を整備する際、川村孫兵衛
石巻横丁調 船の停泊場所を増やすため人工的につくられた島であると言われています。その後、
が河川改修を行い、
島の北側には仙台藩の造船所「船作場」が開設され、産業の要となりました。
名前の由来である縄張稲荷明神は、
江戸初期に北上川改修工事に使用さ
れた縄を奉納して勧請された。
住吉公園
北目町
11
10
不動沢
袖の渡
6
立町
畑中
この蔵は旧相馬中村藩主相馬
家別邸の敷地内にあります。
明治 16 年に石巻で生まれた
志賀直哉も、相馬家の家令を
勤めた祖父と、第一銀行石巻
支店に勤務した父の関係で、
この別邸のある住吉町におい
て3歳まで生活したと言われ
ています。
住吉町
石巻市役所
3
◆「水都」と呼ばれた川湊石巻と中瀬の歴史
石巻中心市街地はかつて川湊として栄えた歴史があり、当時の面影は建物と
して、今も尚、まちなかに多く残っています。しかし、地震や津波により損
傷を受けた建物は、急速に解体が進み、歴史的な建物も消滅の危機に して
います。このような差し迫った状況の中で、歓慶丸商店や旧石巻ハリストス
正教会教会堂、20 棟以上が残る一連の蔵のような石巻の歴史的シンボルを修
復保存する運動が住民有志により立ち上がり、動き出しています。
(写真「石巻の歴史文化を記録するプロジェクト」による調査)
21 無知名横丁 ( 江戸末期 )
22 入船横丁
( 昭和初期 )
◆石巻の蔵
凡例
1km
石蔵
水路
土蔵
横丁
※現存していないものも含みます
写真 内海橋の架け替えが行われた昭和初期の中瀬
(画面中央、橋のたもとにあるのが岡田座、その左が魚市場)