④法隆寺

F-4
法隆寺
*法隆寺は本当に最古なの?
1993年に法隆寺が世界遺産登録を受けたのは日本への仏教伝来直後に建造された
仏教建築物であるとされたためである。
これは法隆寺再建・非再建論争が続いていたが、最初の斑鳩寺と考えられる若草伽藍遺
跡が発見され発掘調査されたことにより再建論に軍パイが上がった。
しかし現存する法隆寺・西院伽藍は何時、誰が造営したかは不明で謎が残されたまま論
争されているのが現状である。
論争の要因は文献史学では日本書紀に法隆寺の焼失記録が残されているが造営・再建記
録が記されていない点にあり、皇極二年(643)に斑鳩宮に居た次期大王候補である山
背大兄王を蘇我入鹿の軍が急襲し宮を焼き払ったとあり、王は生駒山中にのがれた後斑鳩
寺に戻ったとされ最後は入鹿軍により上宮王家は滅亡された。
更には天智九年(670)に法隆寺が雷火で一屋余ることなく焼失したとある。
これ等の史料から歴史学者等が種々の推論を構築しているが決定的な資料が発見され
ない限り通説には成り得ないでしょう。
一方考古学的に若草伽藍の調査を進められた結果、7世紀初めの飛鳥式瓦が発掘されて
おり、聖徳太子が隠棲したとされる斑鳩宮の近くに創建した斑鳩寺が若草伽藍で、配置は
四天王寺式を採用しており聖徳太子が造営したとする説が通説となっている。
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従って670年に焼失した法隆寺は若草伽藍であった可能性が高いが、現在の西院伽藍
は若草伽藍の跡地では無く、新たに整地した西側隣接地に建立されており、北側に展開で
きなかった為か伽藍を一直線に南北に並べる四天王寺式ではなく、塔と金堂を並列する法
隆寺式に変更している。
西院伽藍のその後の調査では金堂天井の落書き、年輪年代法による使用木材の鑑定から
650~690年の間に伐採された木材を使用していると考えられる等の考古学的アプ
ローチから判断すれば西院伽藍は7世紀後半に建造に着手された可能性が高いと云える。
この点から若草伽藍と西院伽藍の併設案も生まれており、何故に伽藍配置を変えて創設
する理由が在ったのかが謎とされている。
しかし法隆寺史料によると中門の仁王像や五重塔内塑造彫刻像は711年に造像した
との記録から完成したのは天平期でしょう。
これらから観て現存する法隆寺は飛鳥形式を残した世界最古の木造建築物で有ること
には変わりなく世界遺産に適合する史跡と云える。
*建物が国宝になっているのは?
現在建造物で国宝に指定されているのは西院伽藍
西院伽藍(南大門・中門・金堂・塔・鐘楼・経
西院伽藍
堂・大講堂・回廊)、西に隣接する西円堂・三経院、東に隣接する食堂・綱封蔵・東室・
聖霊院・東大門(西院伽藍と東院伽藍の間)、東院伽藍
東院伽藍(夢殿・伝法堂・東院鐘楼)であ
東院伽藍
り、七堂伽藍が全て国宝に指定されているのは法隆寺のみである。
殆どの寺院が災害で焼失、再建の繰り返しで、時には消滅してしまった寺院も数多くあ
る現実の中で法隆寺のみが存続できた要因は謎でもある。
更に工芸遺品としての国宝は仏像を中心に20作品を保持しており、その他多数の重要
文化財を所持している我国の最重要寺院である。
現在安置されている国宝仏の堂塔は
金堂:銅造釈迦如来及び両脇侍像・銅造薬師如来坐像・木造四天王立像
木造毘沙門天・吉祥天立像
五重塔:塑造塔四面具
講堂:木造薬師如来及び両脇侍座像
上御堂:木造釈迦如来及び両脇侍座像
西円堂:乾漆薬師如来坐像
聖霊院:木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒未呂王・慧慈法師座像
大宝蔵院(1998年完成):百済観音・九面観音・夢違観音・地蔵菩薩
玉虫厨子・阿弥陀三尊像及び橘夫人厨子
夢殿:救世観音・乾漆行信僧都座像・塑造道詮律師座像
以上であり法隆寺訪問時には是非立ち寄って頂きたい堂塔です。
近隣には中宮寺、法起寺、法輪寺が残されており、この地域・斑鳩は特殊な環境に恵ま
れた地といえるでしょう。
古代より伝統が引き継がれてきた要因の一つは聖徳太子信仰があり、天平期には確立し
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ていたと考えられ個人的崇拝のもとで政争に巻き込まれることも無く、立地上も政争の中
心から離れていた事も幸いしたと云えよう。
それに広く信仰を集めた結果として時の権力者からも修理工事による維持管理がなさ
れたことで、特に豊臣秀頼による慶長大修理が大きく貢献しており豊臣家を潰したが法隆
寺を後世に残したことになる。
参照D-1、G-2、G-11
聖徳太子関連資料
*夢殿は何時建てられたの?
夢殿を中心とする東院伽藍は聖徳太子が移り住んだとされる斑鳩宮後に、僧・行信によ
り太子信仰を中心に天平11年(739)に造営されたとしている。
夢殿は聖徳太子の等身像とされる木造救世観音を本尊として建立された八角円堂で東
院伽藍の中心となり金堂の役割とされている。
八角は中国の八方位陰陽説から来ているとされ、個人の菩提を弔うために建造されると
して興福寺の北円堂、栄山寺の八角堂が現存している。
「法隆寺東院縁起」の天平11年建立説には多少疑問が在るが、「法隆寺東院資材帳」
の天平宝字5年には既に存在していたのは確実と考えられ、太子信仰が天平期に確立して
いたこととされている。
東院伽藍で講堂に相当する伝法院は不比等の夫人・橘三千代の邸宅を移築したとの伝承
が在ったが、最近になり聖武夫人である橘古奈可智(たちばなのこなかち)の住居を移転
したとされる説が有力となり国宝に指定されている。
しかし法隆寺に七堂伽藍を揃えた堂塔が二式も維持管理されてきたのは希有のことで
もあり謎でもある。
この謎を解く要因としては天智九年の雷火による焼失と天武八年の官寺としての保護
を失ったことでの危機感が挙げ有られるが、時代の流れの中で太子信仰を盛り上げた傑
僧・行信の力量が大きな底力になったのは事実で、聖徳太子により創建された斑鳩寺を西
院伽藍として、太子の菩提寺として斑鳩宮跡に東院伽藍を残すことが不可欠だったのでし
ょう。
*金堂壁画はどうなった
*金堂壁画はどうなったの?
ったの?
昭和24年の戦後の混乱期に不審火で焼損した金堂壁画は印度・アジャンター石窟群の
壁画や中国・敦煌莫高窟壁画と共にアジアの古代仏教絵画を代表する作品である。
従ってこの壁画も環境条件が全く異なるが高松塚やキトラ古墳壁画と同様に如何にし
て劣化を防止するかに関して明治期より検討されてはきたが画期的な保存法が見つから
ず、桜井香雲等の画家による模写が試みられた程度であった。
明治30年の古社寺保存法で壁画をガラスで覆うことを検討されたが実現せず、大正期
になりカーテンで遮蔽すると共に春秋の一定期間のみの公開と制限した。
昭和期に入り昭和14年に文部省に「法隆寺壁画保存調査会」が設置され、各部門の専
門家による科学的保存法の検討が実施された結果、壁画を現状の金堂室内で保存する方法
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と壁面を取り外して別途保存する方法が提案されたが壁画を移すこと自体に関して寺側
の信仰上の反対が強く結論が出なかった。
この間昭和10年に美術誌出版社「便利堂」による原寸大写真が撮影されたが、当時は
モノクロ写真でカラーフイルム技術は未熟で4色フイルターでのカラー写真程度だった
が昭和13年にはコロタイプ印刷による複製を製作している。下図参照
法隆寺金堂壁画再現図
(再現図提供:便利堂)
一号壁全図
二号壁全図
三号壁全図
四号壁全図
五号壁全図
六号壁全図
七号壁全図
八号壁全図
九号壁全図
十号壁全図
十一号壁全図 十二号壁全図
当時の写真はモノクロで色彩を残すために昭和15年から模写がスタートした。
模写を日本画か洋画で行うかが調査会で論争されたが、最終的に日本画で実施すること
になり四名の画家・荒井寛方、入江波光、中村岳陵、橋本明治が選出された。
模写は便利堂のコロタイプ印刷を下敷きに着色する方法で、金堂内の狭い空間での作業
のため進捗度が遅い上に太平洋戦争に突入したため昭和17年頃には作業を中断せざる
を得ない状況に追い込まれた。
終戦後模写は再開されたが荒井、入江両氏は戦後間もなく没しており、この度の模写は
完成すること無く被災してしまった。
昭和24年(1949)1月26日AM7:20分頃に出火し9時前後に鎮火したが出
火原因は種々推定されたが眞相は不明である。
模写は2,5,6,8,10号壁のみが完了し、1,9,11号壁は未完、3,4,7,
12号壁は未着手の結果となった。
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金堂内の壁画配置は下図の如し
法隆寺金堂壁画配置図
壁画は金堂外陣主壁・12面に仏像絵画、外陣小壁18面に山中羅漢図が描かれてお
り、内陣小壁20面に飛天壁画が存在した。
幸か不幸か終戦直前の昭和20年に金堂解体修理が計画され、戦火を避ける為工芸品だ
けでなく建造物も貴重なものを解体疎開しようとして、上層部の解体が済み初層部の天井
板を外した状態で被災した。
従って金堂安置の仏像群と内陣小壁の飛天壁画は疎開していたため難を免れたが外陣
小壁の山中羅漢図は跡かたなく粉砕焼失した。
外陣主壁の仏像絵画は蒸し焼き状態になったと考えられ、壁自体は残存したため尿素樹
脂とアクリル樹脂を注入して、昭和29年から再組み立てされ食堂東側に建設された収蔵
庫に保管されている。従って金堂壁画は焼失したのではなく焼損と定義され昭和33年に
飛天壁画と共に重要文化財として保管されている。
この焼損壁画は一般公開されていないが毎年7月に開催される法隆寺夏季大学の参加
者には特別伽藍見学として組み入れられている。小生は知人を通じて特別拝観させてもら
ったが驚愕でもあり是非拝観すべきと感じた。これの一般公開も検討されている。
焼損した金堂は解体修理中だったため初層部主軸のみ新材で解体修理を昭和29年に
終えて復旧したが壁は白壁のままだった。
昭和42年に画家14名・4班に手分けして模写を担当し、一年足らずで完成しパネル
にはめ込み金堂の所定の壁に設置し火災前の姿に戻った。上図参照
PS.2015.9.23まで奈良国立博物館で「白鳳展」開催中ですが壁画模写の原
図を展示中ですのでご覧ください。
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<註>
若草伽藍:670年に焼失した斑鳩寺と考えられ、四天王寺式の伽藍配置で金堂には壁画
が在ったと考えられる
西院伽藍:現存する我国最古の七堂伽藍で法隆寺式伽藍と称され寺院建築としての代表作
である
斑鳩宮:聖徳太子が移り住んだ宮で山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて焼失したが、宮跡
に東院伽藍が天平期に行信により建立された
コロタイプ印刷:1876年ドイツで発明された写真製版法で当たった光の量でインクの
付着量が異なるのはゼラチンのヒジワを利用している
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