現代肉牛考−私家版− - 全国肉用牛振興基金協会

現代肉牛考−私家版−
肉牛問題についてズブの素人である私が、これまでのわが人生において現れた諸相を通じて、
現代の肉牛問題の状況について語ることをお許し願いたい。
鳥取環境大学大学院 教授
高度経済成長期の肉牛事情
−耕うん機が肉牛生産を駆逐?−
私が学生時代、卒論を書いていたのは今から40
数年前の秋のことである。卒論のテーマは“わが
国における動力耕うん機の普及実態に関する研
中川 聰七郎
う。今思えば、 関西の食文化では、肉類の中で
は牛肉が比較優位であった。当時は耕うん機の導
入・拡大時期であり、農家は役牛を急速に手放し
ていたので、おそらく牛肉は市場に豊富に出回り
低価格で売られていたと思われる。
その翌年の昭和36年の春に私は農林省(当時)
究”であった。卒論を書くために、京都府亀岡市
に就職した。農林経済局金融課に配属された。当
近郊の農家に実態調査に時々出かけた。いま、そ
時、農林省は「農業基本法」案を国会に上程して
の卒論の草稿を取りだして見ると、「耕うん機の
おり、国際化時代を迎えての新農政路線の設定に
導入に伴い発生する余剰労力を肉牛生産に振り向
意欲的に取り組んでいた。金融面では農林漁業金
けると、所得が増加する…」という趣旨の論述で
融公庫法改正案、農業近代化資金助成法案等が関
始まっている。当時、かつては役牛として飼養さ
連法案として国会に提案されていた。農業近代化
れていた牛の役割が耕うん機の出現によって失わ
資金制度は農協系統資金に国・都道府県が利子補
れ、牛の飼養が急速に後退していた時期における
給を行い、低利の設備資金を農家等に融資できる
私の問題意識はこのような点にあった。当時、佐
ようにするもので、資金種類の中に「家畜導入資
賀大の陣内義人先生が農業機械化問題に精力的に
金」(年利4.5%)が盛り込まれていた。肉牛、乳
取り組まれており、私も大いに先生の論文に啓発
牛のほか豚、鶏なども対象になっていた。有畜農
されていた。柏祐賢先生のゼミ(農学原論)で研
家創設資金を引き継いだものと聞いたが、役牛の
究発表をしたりもした。
急減少を見てきた私には不思議な感じがした。そ
学生時代、私は京都の街中の実家から自転車で
通学していた。自宅でのお客様のご接待はいつも
の当時の私の知識では国の畜産政策の方向性を十
分理解できていなかったのである。
すき焼であり、私はいつも母の指示で近所の肉屋
さんに牛肉を買いに行った。魚に比べても割安感
のある値段であったように思う。育ち盛りの子供
輸入自由化直前の肉牛事情
−北海道での肉牛生産の開始−
たちもいたので沢山買った。今はグラム買いであ
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るが、当時はモンメ(匁)買いで、いつも600∼
それから約20年後の昭和50年代後半に私は農
800匁(2.2kg∼3.0kg)位は買っていたように思
水省の大臣官房で仕事をしていた。中曽根内閣が
国鉄や電々公社の民営化などを目指す第2次行革
そうした中で、ある一冊の本に出会った。表題
に着手していたころである。政府の北海道開発計
も著者も忘れてしまったが、それには「日本に
画や北海道庁のつくる北海道発展計画の見直し作
“肉食習慣がなかった”というのはウソ。庶民は
業が始まった。道庁側から「肉牛生産に着手した
肉をかなり食べていたはずだ!」とあった。その
い」という申し出が農水省になされた。そのとき
本では、戦争の規模と回数を掛け算するとその時
初めて、私は道庁がそれまで肉用牛生産を政策上
代の牛馬の屠殺頭数や飼養頭数を推計できる。な
位置づけていなかったことを知った。10年計画で
ぜなら、甲冑や武具およびそれらの結び紐に牛馬
10万頭の肉用牛飼養を目標とする決定がなされ
の皮革が使われてきたから…とあった。牛馬の屠
た。考えてみれば、その当時、私どもが北海道に
殺が行われると肉や内臓が必ず生産されたはずで
出張しても牛肉料理は食卓に上らなかったような
あり、生産された肉や内臓をお百姓たちが捨てて
気がする。このことを道庁のお役人に聞いてみる
しまうはずがないという論調であった。日本の歴
と「道民には牛肉を食べる習慣がない…」という
史は戦乱に充ちている。そう言われてみれば、納
説明があったことを思い出す。私は「へー、そん
得せざるを得ないがどうだろうか。
なものか!」と半信半疑であったが、あとで家計
であるとすれば、牛肉の消費量が現在少ないの
調査のデータを調べてみると、札幌は豚肉、仙台
は、食習慣というよりは供給不足で価格が高いか
は鮮魚類、名古屋は鶏肉、関西は牛肉がそれぞれ
らではないか?という素朴な疑問が生じてくる。
優位であり、各地域には固有の食習慣がなお残っ
その後、米国と日本との間で貿易面での牛肉・オ
ていることを改めて知った。そして、日本の肉牛
レンジ戦争が始まった。米国は日本の消費者が国
生産の戦略目標がまだ十分に確立されていないの
境障壁による不利益を蒙っていると非難した。消
ではないか…?との疑問を感じたのもこのときで
費者は貿易自由化によって、もっと安い牛肉・オ
ある。
レンジを享受できるという主張であった。これに
それはさておき、その当時、「わが国の牛肉の
対し、政府は牛肉・オレンジ生産の保護のために
消費量が少ないのはなぜ?」という疑問から、わ
は自由化できないと主張した。結局、この交渉は
が国における肉牛生産の歴史を文献等から読み取
3年後に両品目を自由化するということで昭和60
ろうとしていた。畜産関係研究者の書き物の多く
年に決着した。「牛肉消費量が少ないのは値段が
は「仏教伝来以降、“肉食禁断令”が布告され、
高いからではないか」という疑問に対しての回答
それ以降の“肉食禁忌”の伝習が現代社会の中に
は、価格安の牛肉輸入という形で収まった。その
なお受け継がれている」という趣旨の指摘がなさ
後、牛肉消費量は増え、自給率は急速に低下した。
れていた。
(表参照)
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BSE発生以降の牛肉事情
−消費者に訴えて市場が拡大する−
を図るため、関西の消費者に対し次のような呼び
かけを行っていた。すなわち、今後の目標として
「20ヶ月齢の若牛による赤肉を100g280円(小売
牛肉自由化が決まったときから約20年を経た
価格)で供給する生産体制を確立する…」との方
2001年に、わが国でもBSEが発生した。輸入肉骨
針を打ち出したのである。そして、この方針を生
粉の使用による効率化を目指す飼養方式がBSEを
産現場で確立するため、京都生協の消費者などと
もたらしたと分析された。私は、当時、鳥取の新
の交流イベントを盛んに行った。
設大学に籍を置いていた。鳥取の肥育素牛の多く
それ以降(と筆者は思っているが)、京都生協
はホル雄で地元産のほかに北海道産のものが多か
の店舗では鳥取県産の牛肉や牛乳・乳製品が目立
った。隣接県でのBSE発症の報告が相次ぐ中で、
つようになり、今では白ねぎ、なし、メロン、ス
鳥取では1頭の発症も認められなかった。生産者
イカ、豆腐なども置かれるようになった。時代は、
団体も県当局も「鳥取牛には肉骨粉を使用してい
生産者が消費者に語りかけることにより市場が形
ないので安心!」とのアナウンスを強調した。そ
成・拡大されるという新時代を迎えたことを示し
の結果、肉牛出荷頭数は、全国で前年比6割強減
ている。外国産牛肉を使用した牛丼も人気回復途
となる中で、鳥取は4割減にとどまった。
上にあるが、市場では生産者名付き、あるいは産
こうした混乱の最中、鳥取県畜産農業協同組合
(鎌谷一也専務、当時)は鳥取産牛肉の消費拡大
地銘柄付きの高級肉がけっこう高価格で売れてい
るように思う。
阿蘇の山頂に立つあか牛
阿蘇五岳山系の一つ往生岳(1,238m)の山頂
に立つあか牛、世界一のカルデラ山野が毎日の生活
の場とはなんとも贅沢な光景です(管理は阿蘇市の
黒川牧野組合)。あか牛は昭和30年代に全国で50
万頭以上も飼われ、都会でも荷車を挽く姿をみかけ
ましたが、使役がなくなった現在では全国で約4万
頭と激減しています。
米塚を見下す絶景がかすんで見えるのも、今のあ
か牛を象徴した光景ですが、自然を活かした草原利
用は必ずや見直され、彼方に明るい日差しが見えて
きそうです。
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