SURE: Shizuoka University REpository http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/ Title Author(s) Citation Issue Date URL Version IC-1 登呂の時代の生態系 (『人間と地球環境』研究報告 : 環境変動と生態系・人間(生活)への影響) 佐藤, 洋一郎 静岡大学学内特別研究報告. 2, p. 30-31 2000-03 http://doi.org/10.14945/00008231 publisher Rights This document is downloaded at: 2015-04-20T15:20:30Z IC-1 登 呂 の時代 の 生 態 系 佐藤洋一郎 日本 では縄文時代は狩猟 と採集 の時代 とされて 切 られて行 く。森 が切 られ裸地 が生 じると、日本 の きた。 日本列島は全体的 には高温多湿であるから、 よ うな高 温 多湿 な環境下では裸地 は裸 地 のままお 大山の噴火 などのか く乱 が加わらない限 り、陸地の かれ る ことはない。そ こにはまず コ ロナイザ ー と呼 多 くの部分 は森 であ りつづ ける。こ うした こ とから、 ばれ る、移動性 の強 い、一年 生の植 物が侵入 して く 縄文時代 の列 島は一部 の地域を除いて深 い森 に覆 る。やが て もとの裸地 は、多年生 の 草本 か ら潅木 ヘ われて いた と考えるのが一般的であった。しか しこ と、しだいに長寿 で 体 の大きな植物 に取 つて代 られ 、 縄文時代 の全時期を通 じ列 島のい うした深い森 が、 最後 にはもとの深 い森 へ と返 つて行 く。こ うした生 たるところに展開 していたわけではない。特に栽培 の存在 は縄文時代にお ける定住型の ライ フス タイ 態 系 の変化 を遷移 と呼ぶ。そ して最後 の森 を極相 の 森 とか極相 の状態 と呼ぶが、この極相 の状態 をべつ ルの存在 を強 く示唆す る。そ して定住が一般的な社 とすれば生態系 は常に次の段階 へ と移 ろ つてい る。 会では、集落周辺の環境 が大きくかく乱 され、それ だが ヒ トが 常 に生 態系 にか く乱 を加 えるよ うに までにはなか った新 しい種類 の生態系が生まれる なると、生態系 の遷移 は止 ま り、あ る段 階 で停止す ことも周知 の事実である。 る。遷移 が どの段階 で停止す るかは ヒ トのか く乱 の い くつ もの栽培植物が 縄文時代 の 日本列島には、 大 き さによるが、か く乱が強けれ ば草原 として、あ あつた ことが知 られてい る。いままでに、縄文時代 るいはそれ ほ どで もなければ ヒ トの 手 が加 わ つた の遺跡 か ら見つかつた栽培植物はイネ以外 にも、ヒ 森、 い わゆる里 山 として残 りつづ けることになる。 ソの仲間)、 ク さて縄文時代 か ら弥生時代 にか けて 日本列島 の リ、ヒエ 、アカザの仲間な ど多岐に及ぶ。縄文時代 水田は水 を媒介 に し低湿地 各地 で水 田が開 か れ た。 の遺跡 か ら出土する植物 についても うひ とつ気が か りなのは、 半栽培植物 ともい うべき一連 の植物の に成 立す る。水 を媒介 とする こ とで 、水 田農耕 は畑 農耕 にはない 特徴 を手 に入れた。ほ とん どの作物 は、 存在 である。具体的には、アカザの仲間、タデの仲 同 じ場所 に繰 り返 して栽培す ることで 「連作障害」 間、ニ フ トコなどである。それ らの植物は、成熟 し とい われ る障害 を引き起 こす。畑 で連 作す るとイネ た種子 が母親から離脱す る脱粒性など野生植物 に 病気 にな りやす くな つた で さえ連作障害 が起 こ り、 固有 の性質 と同時に栽培植物に似た性質 をもあわ り収量が落ちた りす る。ところが水 田で耕作す ると せもつてい る。進化的には、それらの多 くは野生植 この連作障害 が起 こ らない。そ の理 由は不明である 物か ら栽培植物への進化 の途 上にあるもの と考え が、 水 を媒介 とす る ところにそ の秘密 があるだろ う ることができる。 と言われてい る。 ョウタ ン、マ メの仲間、エ ゴマ (シ 農耕 の始ま りはヒ トに定住を促 した。定住 の期間 水 田には畔、灌漑水路 といつた 「仕掛け」が必要 はともか く、一定の期間 ヒ トがいつづ ける ことで、 なため、 それを支 える社会の存在 が 不可欠であると 生態系には大きな変化が及ぷ.最 大の もの は燃料 の されてきた。つ ま り社会全体が水 田稲作 とい う生産 周囲の森 の本は燃料としても使われた。 確保 である。 のスタイルを受容 し、そのための投資を認 め、代わ 本は燃料 のほかにも建築用材 として使われ る。 畑に りにそ の対価 と して米 を受け取 る とい う合意 を必 要 とす る、とい うわけである。私 も ―私は歴史を専 開 くための伐採も加わ って、 集落周辺の森 は急速に ―-30- 門に研究するもの ではないが ―古代 の荘園など以 の技術的な裏打 ちがあった はず で ある。 降 の水田稲作 のシステムにはこ うした論理が働 い 結論 か ら言 うと筆者 は 当時彼 らが一 種 の 輸作 の てい るのだと思 う。なるほど国家 とい う制度が確 立 体系をもつていたのではないか と考 える。彼 らの生 し水 田稲作の仕掛 けの部分がその国家によって担 態 に対す る知識 は相 当に進 んでいた もの とい うこ われ るようになると、当然のこ ととしてインプ ッ ト とになる。 に対する高いア ウ トプ ッ トが要求 され土地生産性 いずれにせ よ、この時代 の「水 田地帯 Jは 、全 面 が要求 されることは疑いがない。「反収Jと い う今 一 帯 が水 田 とい う現代的 な景観 をな してはいなか の 日本の農家な ら知 らない ものが ないこの概念 も、 つた と考 え られ る。おそ らく一 見す ると、ヨシ原や 土地生産性に対す る国家 の論理 として生まれた も 潅木 な どを生い茂 る草原 と水 田とが入 り組 ん 草本、 のであることは議論 をまたない。 だ、多様性 に とんだ空間がで きあが つていた こ とだ 大古における稲作 が、高い土地生産性をもち、よ ろ う。水 田の 区画にも、イネ以外 にも今 の私たちに く整備 された見渡す 限 りの水 田ではなかつたとい は雑草 で しか ない水生 の草本 が生 え、多 くの小動物 う推定をを裏付ける分析事例が、 静岡市郊外の曲金 がい たのだろ う。そ してその ゆ えに生態系 としての 北遺跡で得られて い る。これを紹介 しておこ う。曲 結果 として害 虫や病原菌 な どによ 多様性 が守 られ、 金北遺跡は静岡平野 の 中央部に位置 し、 弥生時代の る侵食 も比較 的小 さか つたので はな いか と考え ら 後期 か ら古墳時代の水田が約 5万 平方メー トル に れ る。 大古 の人 々が 自然に神秘 を感 じ、恐れ に似た気 わた つて発見され 大 きな話題になった。当時の水田 は 1筆 が数平方メー トルのいわゆる小区画水田で、 持 ちを抱いていたこ とは確 かで あろ う。未知 なもの 1万 筆に及 んだ。水 田面のいた に対す る漠然 とした不安はだれ もが もつ もので 、 相 るところからは稲 のプ ラン トオパール が出上 した 手 が見 えて くるにつれてそれ は薄れて行 く。農耕 を こ とか ら、当初、ここには全面水田のよ うな景観 が 知 つてい た彼 らが 自然全 体 に神 秘 を感 じていたわ 広が っていたと想像 された. けではないであろうが、 それでも山奥に入 り込むに 発掘 された筆数 も 5万 平方メー トル はそれなりの勇気が必要であつたろう。今も各地に に及ぶ全面水 田を想像す るこ とはかな り困難 であ 残る修験道は大昔からの原始宗教の流れをひ くと る。小面積ならともか く、これだけの面積 を全面水 されるが、 それ らが山や森を神聖視 していることを 田にすると、そ こに入 り込む雑 草、有害昆虫や小動 考えれば、 人々のこころが修験道に通 じているとの 物、 病原性微生物な どの種類や量も相当なもの とな 見方も的外れなものではないであろ う。 だが、生態学的な観点か らは るこ とが予想 され る。また毎年継続的 に栽培を続け いずれ に して も、 縄文時代 か ら古墳時代 にかけて るこ とで地力は低下 し、 外か ら肥料分を持ち込まな の生態系につい て、 私たちは従来 か らの生態観 に大 い限 り相当量の収穫 は期待できない。 巴 農薬や化学月 きな変更 を加 え ることを余儀 な くされて い るよ う 料 を持たない当時の人 々が水 田稲作 を続けるこ と に思 われてな らない。 がで きた背景には、これ らの問題 を解決する何 らか -31-―
© Copyright 2024 ExpyDoc