№4 宮松丸の元服 宮松丸は、毛利家当主になるべく着実に成長していましたが、またも毛利家の後継 者問題に巻き込まれてしまいます。今度は、宮松丸を寵愛していた秀吉が、自分の子 のように可愛がっていた甥の木下秀俊(のち小早川秀秋)を輝元の養子にしようと密 かに画策します。 このことを聞いた小早川隆景は、先手を打ち、輝元を通じて、秀吉に宮松丸の元服 について許可を求めました。隆景は、宮松丸の成人を内外に示し、毛利家の後継者 としての立場を揺るぎないものにしようとしたのです。 すると、宮松丸の優れた才を見抜いていた秀吉は元服を快諾するとともに、宮中で 元服の儀を行うことに決めました。 天正18年(1590)10月吉日、宮松丸は殿上において元服し、右京大夫に任ぜら れます。その際、秀吉から名前の1字をもらい、「秀元」と名を改めるとともに、天皇家 御紋である菊桐紋の使用を許され、御馬とともに「寮の馬具」を拝領しました。 隆景の英断により、秀吉の思惑を未然に防ぐことができましたが、毛利家の後継者 問題は、後に尾を引くこととなります。 コラム2-菊桐紋の使用 永禄3年(1560)正月、毛利元就は王親町天皇が即位するにあたり、即位料及び 礼服費等を献納しています。この功績により、元就は「陸奥守」、隆元は「大膳大夫」、 元春は「駿河守」、隆景は「中務大輔」に任じられるとともに、毛利家に菊桐の紋章が 授けられました。 秀元が元服し、菊桐紋の使用を許されたのは、この30年後にあたります。 コラム3-豊臣秀吉の偏諱 豊臣秀吉は様々な大名・武将に偏諱を与えています。例えば、徳川秀忠・結城秀 康・宇喜多秀家などが、秀吉から「秀」の1字を賜っています。 毛利家でいえば、小早川秀包、毛利秀元の2人が挙げられます。 では、毛利輝元の嫡子秀就はどうでしょうか。松寿丸(後の秀就)が元服したのは、 慶長4年(1599)9月のことであり、すでに秀吉が亡くなった後になります。そのため、 松寿丸に偏諱を与えたのは豊臣秀頼でした。 ※偏諱=功績のあった臣や元服する者に自分の名の1字を与えること。
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