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平成二十七年度
研究発表要旨
―柑子の囲いは盗人避けに非ず―
仏教文学会四月例会
『徒然草』第十一段再考
池上
保之
『 徒 然草 』 第十 一 段は 「 神無 月 の比 」 で 始ま る有 名 な章 段 であ る 。兼 好 は山 奥 でひ っそ
り と暮 ら す遁 世者 の 庵を 発 見す る 。そ し て 、そ の 様子 に 心を 打 たれ るの であ る。 しか し、
庭先 の 柑子 の木 に 囲い が して あ るの を 見て 幻 滅す る 。柑 子 を 盗人 に 取られ まい と厳 重に柵
を 張っ た 庵主 の 執着 心 を見 咎 めた の であ る 。以 上 のよ う な解 釈 が今 日 一般的 であ り、 この
盗人避けの囲い、という捉え方は林羅山『埜槌』
(元和七年刊)以来の解釈である。
し か し、 こ の囲 い は本 当 に盗 人 を防 ぐ ため に 張ら れ たの で あろ う か。兼 好を 幻滅 させ た
もの は 盗人 避 けの 柵 であ る とさ れ るが 、 す ると 不 審な 点 がい く つか ある こと になる 。兼 好
は 「 この 木 なか ら まし か ばと 覚 えし か 」と い うよ う に、 柑 子 の木 自 体を問 題視 してい るの
で あっ て 、周 り の囲 い は付 随 的な も ので あ った と も考 え られ る 。ま た、 そも そも 盗人 避け
の柵だとは本文には書かれていない。問題は柑子の木だったのではないか。
そ こ で本 発 表で は 、柑 子 が中 世 、ど の よう なも の とし て 扱 われ て いたか を他 の文 学作 品
や古 記 録な ど から 探 り、 そ れが 遁 世者 の 草庵 に ある 意 味を 考 えた い 。ま た、木 の周 りの 囲
い に つい て も、 別の 可 能 性を 考 える 。 それ は 盗人 避 けの 柵 では な く、 冬の 寒さ から柑 子を
守 るた め の防 寒垣 だ った の では な いか 、 と いう こ とで あ る。 神 無月 、真 冬が 近付 く時期 に
あっ て 、風 や霜 に 備え て 囲い が され て いる の を目 撃 した の で はな か ったか 。そ して、 これ
らの状況に接した兼好の心情を辿ってみたい。
また 、 この 前 段と な る第 十 段は 、 家居 と いう も のと 、 その 主 の人 柄 の関係 を述 べた 章段 で
あ るが 、 本第 十 一段 と も 密接 な 関係 が ある と 考え ら れる 。 第十 段 につ いて は、 既に論 じた
健一郎
こ とが あ る が ( 拙稿 「『徒然 草 』第 十段 再 考 」『 百舌 鳥国 文』 第 二五 号 )、 この 両段 の関 係
―軍記物語と〈仏法〉との関係性に及ぶ―
性も押さえた上で、第十一段の読解を試みたいと思う。
いくさ語りと禅僧
源
室 町期 に おけ る 禅僧 た ちの 日 記に は 、琵 琶 法師 に よる い く さ語 りの 記事 が散 見され る。
ただ し 、琵 琶 法師 の 語り は 、必 ず しも 「平 家 」語 り に限 ら れ たも の ではな く、 その 内容は
多 岐に わ たる も ので も あ った 。 また 、そ の 一方 で 、禅 僧 たち の 日記 に は瞽 者では ない 人物
によ る 『平 家 物語 』 等に ま つわ る いく さ 語り が あっ た こと も 、少 な から ず確認 され る。 本
発 表で は 、応 仁 の乱 と い う時 代 の劃 期 を含 む 十五 世 紀の 禅 僧の 日 記を 対象 に、 そのあ り方
について検討してみたい。
『 平 家物 語 』等 の 軍記 物 語に 由 来す る 知 識は 、 禅僧 た ちに と って はそ れ自 体で 独立す る
ものではなく、より大きな知識体系の網の目の一つとして認識されていたように思われる。
それ は 、当 時 の禅 僧 たち に とっ て 重要 な 活動 で あっ た 漢詩 や 聯句 の 制作・ 注釈 ・講 釈に 関
わ るも の とし て の位 置 づ けで あ り、 あ るい は 『太 平 記』 が そう で あっ たよ うに 、経典 講釈
の場において活用された可能性も想定されよう。
しかし一方で、禅僧たちのいくさ語り享受のあり方は、きわめて主知的なものであった。
い くさ 語 りか ら 得ら れ た知 識 は、 聯 句会 や 遊宴 等 、室 町 将軍 家 等の 権力 者に 対す る、 ある
いは 五 山内 部 の円 満 な関 係 保持 の ため に 活用 さ れる こ とが 専 らで あ り、現 実社 会に 展開 す
る動乱を解釈する原理としては認識され得なかったように思われる。
『 平 家物 語 』 等 の 軍記 物 語 で は 、〈 仏 法〉 が 、 動乱 の行 方 を左 右す る 解釈 原理 と して 機
能 し てい た 。当 時 の〈 仏 法〉 の 主た る 担い 手 であ る 禅僧 た ちに 、 そう した 意識 はほと んど
旭輝
窺 われ な い。 こ うし た 思想 的背 景 が、 軍 記 物語 史 にお け る『 明 徳記 』か ら『 応仁 記』 に至
る質的転換にも関わるものと考えている。
東照宮祭礼の創始と天台系法会の再編
―徳川頼宣による東照社小祥祭を中心として―
吉村
日光 山 は、 嘉 祥元 年 (八 七 八) に 円仁 が 三仏 堂 を創 建 し、 日 光山 の 本地 仏 を 祀って から
三 仏堂 を 本地 神 宮寺 と す る天 台 修験 の 一大 拠 点と し て、 中 世に は 存在 して いた 。しか し、
天正 十 八年 ( 一五 九 〇) の 豊臣 秀 吉に よ る 小田 原 攻め の 際、 日 光山 は鹿 沼の 壬生 氏とと も
に 後 北条 氏 に加 担 した こ とで そ れま で 日光 山 が神 領 とし て い た一 八 万石の 領地 が悉く 没収
さ れ、 日 光門 前 と山 内 、足 尾 郷七 百 石を 残 すの み とな っ た。 そ の結 果、 それ まで 約三 〇〇
院あ っ たと さ れて い る寺 坊 がわ ず か九 ヵ 院と な り、 日光 山 は おの ず と奉仕 して いた 宮仕 、
神 人の 減 少を も 余儀 な く され て いく 。 中世 以 来、 日光 山 では 法 会を 中 心に さまざ まな 芸能
が行なわれていた。
し か し 慶 長 一四 年 ( 一 六 〇九 )、 徳 川 家 康 が日 光 山 の 山 領を 安 堵 し たこ と がき っか け と
な り、 元 和二 年 (一 六一 六 )四 月 には 徳 川 家康 の 遺言 を 受け た 徳川 秀忠 によ って 、日 光山
に東 照 社( 東 照大 権現 ) が造 営 され 、 さら に 元禄 一 四年 ( 一 七〇 一 )には およ そ二 万五千
石 と総 目 録に 記 され 、 神領 と して は 中世 の 日光 山 をは る かに 上 回る 繁 栄をみ せる よう にな
っていた。
元 和 三年 、 久能 山 から 日 光山 へ 徳川 家 康の 遺 骸を 移 す小 祥 祭が 執 り行 な われ た 。この 祭
礼の 創 出に は 山王 神 道に 基 づい た 展開 に よ る山 王 一実 神 道の 創 出お よび 天台 系の仏 教的 祭
式 が 基本 と なっ て いる だ けで な く、 豊 臣家 に よる 秀 吉神 格 化 に依 拠 した京 都で の慶長 年間
の豊国社の祭礼を模範としたことが考えられる。
この 小 祥祭 の 指揮 を 執っ た のが 当 時駿 府 藩主 で あっ た 徳川 頼 宣と 安 藤帯 刀 であ った 。頼
宣 はの ち に紀 州 藩主 と な るや 天 海を 招 き、 全 国で もい ち 早く 元 和七 年 に東 照社を 建て 、翌
年に は 官民 一 体と な った 和 歌祭 を 創出 し て いる 。こ の こと か ら頼 宣 およ びその 家臣 が東 照
宮 祭 礼の 創 出に どの よ う な役 割 を果 た した の か。 本 発表 で は天 台 系法 会を 基盤 として 創出
された東照宮祭礼成立の背景を、徳川頼宣の動向を中心に明らかにしたい。