アジア新興国における財政運営のベストプラクティス…中林 伸一

SPOT
アジア新興国における
財政運営の
ベストプラクティス
IMF国際経済コンサルタント 中
1.財政改革の背景
林 伸一
IMF(国際通貨基金)では、2010年春のギリシ
1997年から1998年にかけて、タイ、インドネ
ャ債務危機以来、ユーロ圏の債務危機への対応に
シア、韓国など東アジアの新興国を相次いで襲っ
追われてきた。これは改めて、健全な財政運営の
たアジア通貨危機は、政治経済を混乱させ、長期
ありかたを見直す契機となった。筆者は2011年8
失業と貧困を増大させ、社会に深い亀裂を残した。
月より、IMFシンガポール研修所で、アジア太平
その際、金融危機対策のための財政支出、為替の
洋地域の財政金融当局者を対象とした研修で、講
暴落による外貨建て債務負担の増大、不況による
師を務めてきた。そして財政に関する講義に活か
税収の落ち込みと景気対策のための財政支出拡大
すため、この分野におけるIMFの最近の研究をサ
によって、各国の政府債務は大きく増大した。こ
ーベイした。本稿では、それをもとに、アジア通
の苦い経験を教訓として、アジア新興国では、為
貨危機の再来を防ぐために留意すべき財政運営の
替レートの柔軟化、金融規制・監督の強化、健全
要点について検討してみたい。
な財政運営によって、過剰投資を抑制して経常収
支を黒字化し、外貨準備を蓄積してきた。このた
2.財政の持続可能性
め、今回の世界金融危機では、比較的良好なパフ
通貨危機を防ぐという観点からは、政府債務の
ォーマンスを示すことができた。折から、日米欧
持続可能性という概念が重要である。これは政治
の先進国がそろって、大規模な金融緩和を実施す
的経済的に非現実的な増税や政府支出の大幅な削
ると、世界的に金利が低下し、投資先に困った先
減を前提にしなくても、政府債務の元利払いに支
進国の資金がアジア新興国に流入した。これは新
障をきたさないということである。新興国では、
興国に、直接投資の増大、国債金利の低下による
狭小な課税ベース、不十分な税務執行体制、対外
財政収支の改善、為替の増価によるインフレの鎮
ショックへの脆弱性といった共通の課題に直面し
静化などの好影響をもたらした。その一方で、為
ている。財政には、経済成長や雇用の促進のため
替の増価による国際競争力の低下や国内需要の増
のインフラの充実や、教育・保健への支出など人
大による経常収支の悪化などの副作用が懸念され
的資本への投資、社会的セーフティーネットの提
た。2013年5月にアメリカが量的金融緩和からの
供などが期待される。その上で、債務の持続可能
出口を示唆すると、新興国から資本が逆流し、ア
性を維持するという長期的課題と景気の安定化と
ジア新興国では、株価の下落、国債金利の上昇、
いう短期のマクロ経済運営との両立を図る必要が
通貨の下落に見舞われた。特に、経常収支の赤字
ある。
が大きかったインドやインドネシアへの影響が大
きかった。
44
ファイナンス 2015.3
財政赤字拡大の要因としては、特定の財政支出
プログラムの受益者は比較的少数の者に集中して
アジア新興国における財政運営のベストプラクティス
いるために、財政支出の確保に向けて、一致団結
3.財政改革のポイント
政府債務の持続可能性を向上させるために、第
う税収は広く薄く負担されるために、その他多数
一に、課税ベースの拡大と税務執行能力の強化が
の納税者には、それをチェックする誘因が働かな
必要である。企業を誘致するためにアジア各国が
いという、いわゆる「コモン・プール」問題が挙
税の優遇措置を競い合っているが、立地の決定に
げられる。さらに、選挙に勝つために、選挙前に
影響を与えるのは各国間の差異に過ぎないので、
財政赤字を拡大し、景気を刺激しようとするいわ
行き過ぎた競争を回避し、インフラや規制などの
ゆる選挙サイクルも生じる。新興国では近年、こ
投資環境を整備すべきである。2002年から2006
うした裁量を制限して財政赤字バイアスを取り除
年にかけてインドネシアでは税務執行体制の改革
くために、財政ルールや独立の財政諮問会議を導
を進め、GDPの1.1%ほど税収を増大させた。し
入する動きが顕著である。IMFの調査によれば財
かし、付加価値税の税収ギャップ(脱漏)は、51
政ルールを採用している国の数は、1990年の5カ
%に上ると推定され、さらに改革を進める余地が
国から2012年には76カ国に急増し、多くの新興
大きい。マレーシアでは税収が石油に大きく依存
国が財政ルールを採用するようになっている。
しているが、2015年の4月から付加価値税を導入
偶発債務に起因する財政リスクの過小評価の是
する。第二に、構造改革により成長を促進するこ
正は、引き続き重要な政策課題である。ギリシャ、
とが重要である。堅調な成長なしに政府債務比率
アイルランド、スペインの最近の経験は、偶発債
を引き下げるのは難しい。教育、R&Dや生産的な
務の発現が政府債務を突如、増加させ、債務危機
投資への公共支出は成長への果実をもたらす。そ
を引き起こしうることを示している。アジア通貨
のため、エネルギーへの補助金を改革し、低所得
危機の際、インドネシアでは銀行への資本注入の
者に焦点を絞ったセーフティーネットを構築する
ために要した財政コストは、GDPの52%に上った。
ことが必要である。インドネシアでは新政権がイ
したがって、偶発債務の規模や発現の確率を評価
ンフラ投資を増やすため、エネルギー補助金改革
することは、財政の透明性向上のために重要なス
を加速させている。石油価格下落という良好な環
テップである。
境を生かして補助金改革を進めることが肝要であ
アジア通貨危機の際、タイではGDPの20%、韓
る。第三に、為替と金利変動の影響を軽減するこ
国ではGDPの15%ほど、政府債務が増加した。新
とが重要である。そのためには、自国通貨建て債
興国における政府債務の増大の要因としては、税
券市場をさらに発展させる必要がある。
収および税外収入の対GDP比率が低く、しかもそ
財政と金融の健全性は相互に密接に絡んでい
れらの変動が大きいこと、利払い費の比率が高く
る。銀行貸し出しが金融仲介の大宗を占めるアジ
変動が激しいことが挙げられる。アジア新興国の
アでは、銀行の規制・監督が経済と財政の安定の
税収および税外収入の対GDP比を他地域の新興国
ために果たす役割は一層大きい。一方、恒常的で
と比較すると、ラテンアメリカの30%、欧州の37
過大な財政赤字や政府債務は、金融政策を財政政
%に対して19%と著しく低くなっている(2011
策に従属させることにつながる。インドでは財政
年)
。タイでは通貨危機以前、ドルに対して事実
健全化法の制定などにより財政改革を進めてきた
上のペッグ(固定為替相場制)をとっており、こ
が、世界金融危機の際に必要以上の財政出動を実
れにより外貨建ての短期債務が大量に流入し、そ
施したため、インフレと経常収支の赤字に悩まさ
れをもとに自国通貨建て長期の投資が増大し(通
れることになった。健全な財政運営は有効な金融
貨と期間のダブル・ミスマッチ)
、経常収支の大
政策の土台であり、持続可能な経常収支や資本市
幅な赤字と為替レートの過大評価が生じていた。
場の発展のためにも、引き続き重要な政策課題で
自国通貨が過大評価されている場合、通貨危機が
あり続けている。
(文中、意見にかかる部分は筆
起こるまでは、政府債務の対GDP比を実態よりも
者の個人的見解である。
)
低く見せるような作用があるので注意が必要であ
る。
ファイナンス 2015.3
45
SPOT
して政治運動を展開するのに対し、それをまかな