WIJC150111信仰によって生活する

●題:「信仰に生きる:信仰によって生活する」 ●聖書:
●聖書:第Ⅰ列王
書:第Ⅰ列王 17:1-16 ●2015 年 1 月 11 日
序
論
●元旦礼拝で、当教会の牧師として、今年一年の一つの目標を掲げさせて頂いた。それは「信仰によっ
て生きる」ということであった。御言葉としては、「義人は信仰によって生きる」(ローマ 1:17)、ま
た、「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」(ヘブル 11:6)である。
●そして、先週は、「信仰によって生きる」とは、「信仰によって救われる」ことから始まることを学んだ。
1.主イエス様の十字架による救いに入れられること、即ち、罪赦されて信仰生活をスタートするこ
とそのものが「信仰による」ことを学んだ。
2.しかも、「信仰プラス何か」ではなく、救われるために必要なのは、ただ「信仰だけ」なのである。
(1)即ち、私たちの救いは、「何をしたか」という「行い」によるのものではない。神様の一方的な
恵みと憐れみによるのであり、主イエスを信じる信仰によるのである。
(2)救われるために、献金もいらない。奉仕もいらない。良い行い・善行・苦行を積む必要もな
い。すばらしい品性や人格を持つ必要もない(それらは、むしろ結果であって、条件ではない)。
(3)ただ、イエス様を神として、私たちの罪のために十字架にかかられた救い主と信じれば救わ
れるのである。
-------------------------------------------------------●さて、今日は、このテーマを一歩進めたい。即ち、「信仰によって生きる」とは、「信仰によって救わ
れる」だけでなく、「信仰によって生活する」ことを含んでいるというメッセージである。
●聖書箇所は、先ほど読んだ列王記上 17 章 1-16 節であるが、今日と来週の 2 回この箇所からこのテ
ーマでメッセージを取り次がせて頂きたい。
---------------------------------------------------------●私は、17 歳、高校 2 年生の三学期に入ったばかりで、愈々大学受験の本格的準備に入らなければな
らないという時期に、この救いの経験に入り、信仰をスタートした。
1.言うまでもないかもしれないが、私はそれまでほとんど何の生活の苦労を知らない人間であった。
2.学校のことを言えば、小学校から大学まで続く学校に入学させてもらい、そこを途中で父の転勤
で移らなければならなくなると、中学校も同じように大学まである学校に入学させてもらう、と
いうように、すべて親に守られ、親に整えてもらうという恵まれた環境に育った。
3.高校の時、友達と一緒に小遣い稼ぎにアルバイトがしたくて、夏休みに自転車でデパートのお中
元の配送をする仕事を自分で取ってきたが、その時も父に危ないと禁じられ実現しなかった。
4.とにかく、生活のために(遊ぶためにさえ)苦労するということは、一度も経験したことのない
「ボンボン」「お坊ちゃま育ち」の人生であった。
●そんな中で私はクリスチャンになり、その嬉しさのあまり友人にだけでなく親類にまで伝え始めた。
●しかし、同年代の高校の友達とは違って、親類の叔父叔母たちの反応は極めて冷ややかであった。
「人生のことを何も分かっていない、”親のすねをかじっている”だけの純ちゃんに、”救いだ”の、
“信仰だ”のと言われてもピンと来ない」というのが彼らの評価であった。
●当然と言えば当然であるが、その頃の私の信仰には「生活感」がまったくなかったのである。
●それゆえに、「イエス様を信じて救われました」「私は変えられました」という私の信仰の証し、「叔父
さん、叔母さんも、イエス様を信じる必要があります」と言う伝道は、「生活苦」の中を現実に生きて
いる年上の大人たちには、若者の机上の理想論くらいにしか響かなかったのである。
●私はその後、
1.3 年間、教会で「徒弟」というか「丁稚」のような生活をして実地訓練を受け、更に、聖書学校に 3
年間学び出身教会の副牧師となった。
2.それから約 10 年、その教会で奉仕をした。私とは 50 才近くも離れていた牧師のもとで、色々
ご訓練・教導を頂き、様々な奉仕をさせて頂いた。
3.私が出席を始めた頃 10 名そこそこだった小さな開拓教会が、100 名ほどになり、幼児から高
校生までの子供たちを集める日曜学校も毎週 160 名を超えるようになった。
4.普通の「小さな借家」を教会としていたが、その家と土地を買い取り、新しい会堂も建った。
1
5.私個人としても、教会内の副牧師として、特に当時、同年輩で教会の中核であった 20-30 台の
若者、若夫婦のリーダー的役割だけでなく、教会外、超教派的にも沢山の活躍・活動の場も与え
られて行くようになった。
6.確かに職業牧師としての形は整って行った。
●しかし、それらは、所詮、私の父親より上の年齢・世代に属する老練な主任牧師、戦争というキリス
ト教信仰の迫害の時代を妥協することなく乗り越えてきた霊的な大牧者の下にあってのことであった。
●ここでもやっぱり、家にいたときに「父親のすねをかじって生きていた」のと同じように、主任牧師の
信仰のすねをかじって生きているに過ぎない自分を発見したのである。
●私が米国留学を志したのにはいくつかの理由があるが、「信仰によって救われる」だけでなく、「信仰
によって生きる・生活する」ということを個人的に明確に体験したかったことが大きな理由であった。
-----------------------------------------------------●今日のメッセージの重要性をあえて強調するなら、「もし、私たちが、私たちの人生の現場である、毎
日の実生活の中で、信仰を働かせ、信仰によって生きていないなら、私たちの信仰は、私たちの人生
において、ほとんど意味の無いものになる」ということである。
●確かに、信仰は、物質的な意味で、実生活を支えるためにあるのではない。それはご利益宗教である。
●しかし、同時に、信仰は、物質的な意味も含めて実生活の中で、働かせ、経験されていかなければ意
味がない。ここにこそ信仰の成長の鍵があるのである。
●信仰を毎日の生活という現場で働かせ、実践するとき、私たちは、絶えず「主よ、主よ」と言わずにお
れなくなる。しかし、それがゆえに、四六時中、片時も主から離れず、主と共にいるという「主の絶
えざる臨在」の事実が現実となり、信仰に成長していくのである。
●そこで、今日と来週の礼拝で、預言者エリヤと彼に出会った一人の未亡人が、飢饉という実際生活の
苦難の中で、如何に信仰によって生きたかについて学びたい。(聖書箇所の出来事の復習?)
本
論
Ⅰ.神様は、実際生活の中で、私たちを導き、支え、必要を満たすために意外な人、意外なものを用いられる。
A. 元旦礼拝のときにも申し上げたが、この課題に関して一つ序論的に確認したいことがある。それは、私た
ちがしばしば感覚的に、時には神学的にさえ陥りやすい誤りについてである。即ち:
1.私たちは、しばしば、私たちが困難や欠乏に直面するのは、私たちが不服従であるから、神
に背いているから、神に愛されていないから、信仰が足りないからと言って落ち込む。
2.勿論、そういう場合もある。しかし、それはいつでもではない。むしろ、神に従い、神に信
頼し、神のために生きている人にも、そのような状況は起こることを知っておく必要がある。
3.ここでエリヤが置かれた状況が正にそうであった。彼は神に背いている王に向かって、神様
の命令で警告的預言をしたのである。その預言の成就が国全体を襲う「飢饉」という刑罰であ
ったので、その結果、彼もとばっちりのように飢饉という苦難に直面していたのである。
4.大切なことは、どのような困難・苦難が私たちを襲っても、神に従う者、御心のうちを歩く
者に、神様は、必ず生きて行くための助けを与えてくださること、生活のために必要なもの
を満たしてくださるという事実と信仰である。
5.今日の聖書箇所は、正にこのことを、神様が預言者エリヤの生涯においてなさっていること
の実例であり、証明である。
1.二つのものを用いられた。一つは「カラス」であり、もう一つ(というより「もう一人」)は、「や
もめ(未亡人)」であった。これらは、普通から言うなら二つとも大変意外なものであった。
2.私たちがもし助けを求め、「助けを送るよ」と言われたら、普通、強そうな人、肉体的にも、
経済的にも、社会的にも、知性的にも力のありそうな人を送ってくれることを期待する。
3.そうでなければ、助けを約束してもらっても、ガッカリだし、あまり期待もできない。
4.エリヤの状態はそんな状態であったと言える。なぜなら、神様が送ると言った「助っ人」は、
その度に、どちらも、余り「助け」になるとは思えないものだったからである。
B.さて、ここで神様は、飢饉に直面するエリヤを2回にわたって助けられたが、何(誰)を用いられたのか?
2
5.第一に「カラス」についてであるが:
(1)神様はエリヤに「お前を養うようにカラスに命じた」と言われた。カラスが助ける?!
(2)これはイソップ物語ではない。おとぎ話や寓話の世界でもない。エリヤに言わせるなら、
「神様、ふざけないで下さい。これは小説じゃないんですよ。現実の問題ですよ」と。
(3)それなのに神様はこともあろうに「カラス」が助けるという。人間的にはあり得ない。
●カラスの脳のサイズは体の大きさとの比率から言うと結構大きく賢いのだそうであるが。
●それにしても、イメージや体験から言って、サルとか犬が助けてくれるとか言う方がま
だ理解できるし、期待もできる。
●それなのになぜカラスなのか? 第一、カラスのイメージは、私たちに食料を運んで来
るというより、むしろ、食物を取って行くという感じでさえある。とにかく意外である。
6.次に、「やもめ」(未亡人)である。
(1)神様はエリヤに言われた。「シドンのツァレファテの一人のやもめに命じてあなたを養
う」と。彼女もまたあり得ない、まったく意外な「助っ人」であった。
(3)当時、「やもめ」とは、社会的に、一番「弱い」存在であった。それゆえ、神様は幾度も聖
書の中で「やもめと孤児」を助けるように勧め、命じている。
(4)即ち「やもめ」とは、他人を「助ける」存在と言うより、むしろ「助けられる」存在であった。
(5)しかも、彼女は、独り身ではなかった。小さな息子がいたのである。
(6)普通だったら、「そんな人に助けてもらうなんて無理だ。第一、助けて何て頼めないよ。
神様は何を考えているんだ」と言いたくなる状況である。
7.このように神様がエリヤに約束された「助っ人」は、いずれも予想外、意外で、とても助けを
当てにできそうに無い、頼れそうになれない存在であった。
C.神様がエリヤを助けるために用いられたこれらのものについて、更には、神様がそれらを用いられた方法
について、今少しコメントを加えたい。
1.第一に、神様が私たちの生活において、必要を満たされる方法・形態は絶えず変わるという
事実である。
(1)ケリテ川のほとりでエリヤが生活した日々のことはその典型である。彼がそこで生活を
始めて、暫くすると、そこの川の水が涸れて、エリヤはそこにいられなくなった。
(2)簡単に言うと、そこでの生活はいつまでも続かなかったということである。
(3)これは、しばしば私たちの人生の現実である。これで落ち着くかなと思うと、また動か
なければならない。エリヤもそこを通ったのである。
2.第二に、これと関連して言うべきことであるが、神様は、私たちの必要を満たすために、必
ず「次の導き」「次の方法」を準備しておられると言う事実である。
(1)7、8 節を見ると、日本語訳では「すると」、英訳では「Then」とあるように、神様は、川
の水が涸れるや、すぐにエリヤの必要を満たすために次の場所、次の出会いへと導かれた。
(2)このことに関して更にコメントするなら、確かに神様は次の道を準備しておられるが、
それを私たちに教えてくださるのは「ギリギリ」になってからであることが多いことである。
(3)言い換えるなら、神様は、私たちに、「次にこうなって、その次にこうなって、・・・」
と、前から教えておいてくださることは必ずしも多くないという事実である。
Ⅱ.最後にご一緒に考えたいことは、これらのことから私たちは何を学ぶか、また具体的にどうするべきかである。
A.まず、第一に、なぜ、神様は、私たちを助けるために、人間的には意外だと思うような、人間的には期待で
きない、頼りがいのない人や物を用いられるのか?ということに関してである。
1.それは、第一に、神様だけが栄光を得るためである。
(1)力ある人間、有能な人が用いられるとき(その力、有能さは神から来たものなのに)、しば
しば、神様より人が崇められるからである。
(2)Ⅰコリント 1:26-28を見るとき、このことが明らかになる。
2.それは、第二に、私たちの神様への信頼を純粋に保つためである。
(1)私たち信仰者は、みな神様に信頼して祈り、神様から「助け」を頂く。
3
(2)しかし、もし、その祈りの答えとしての「助け」が、人が期待し予想する、「力ある人、有
能な人、当てになる人・物」であると、しばしば、私たちの信仰がシフトする。
(3)神様ご自身を純粋に信頼する信頼から、神様がくださった祈りの答え、神様のエージェ
ントに過ぎない人や物への信頼へと、いつの間にか巧妙に移って行くのである。
(4)その人の「優しさ」「親切さ」「気前の良さ」、その人の「お金」、そのほか、その人が「してく
ださるすべての良きこと」に(神様ご自身に頼るよりも)頼るようになるのである。
(5)この信仰のシフトを示す証拠の一つは、
●神様が用いておられたその頼りがいのある人や物が、いなくなる、或いはなくなる可能
性が出てくると、同じ神様がそこにおられるのに、不安になったり、怖くなったりする。
●更には、神様を恐れ、喜ばせるよりも、その用いられた人のご機嫌を伺ったり、喜ばせ
ることが優先になったりする。
2.最後に、神様が、人を助けるために、思わない、予想外の、頼りがいのない、どんな人をも
用いられるということは、私たちもその一人になりうるということである。
1.神様のエリヤに対する導きは:最初はケリテ川のほとり、後にはシドンのツァレファテに行
けであった。最初はカラスに養われ、後にはやもめに養われた。大きく変わっている。
2.誰でもが落ち着きたい。しかし、これが神様の取られた道である。
3.しかも、それはあらかじめの予告や計画表の提示もなしであり、時間的には、その時が来て
初めて知らされるギリギリの導きであった。多くの人は急な変化を嫌う。
4.これらから私たちが学ぶことは何か? 神様は計画性のない、行き当たりばったりのタイプ
のお方なのか? 言うまでもなく、答えはNOである。
5.これらのすべてを通して私たちが学ぶことは、「神様を信じるとは何か」を学ぶのである。
(1)神様の導きであっても必ずしも Final ではないことを信じること。暫時的な導きがあり、
次の段階の導きが待っていることがあること。
(2)それゆえ、それが何であれ、その度に直面する試練・課題の中で神様を信じ仰ぐこと。
(3)その度に、面倒くさがらないで、失望しないで、いつも新鮮に神様を信じる必要がある。
(4)たといそれが突然来ても文句を言わずパニックに陥らず神様の守りと助けを信じること。
(5)最後に学ぶことは、神様を「信じる」とは、神様に「服従する」ことであることを学ぶ。
●ここで、エリヤについて一度も「神を信じた」とは記されていない。彼がしたことは、神
様が彼に言われた通りにしたこと、即ち「服従」であった。
●神様を信じる者は、神様に従う。信仰と服従は一枚のコインの裏表である。
●だから、ヤコブも言った。行いのない信仰があったら見せて欲しいと。
B.第二は神様が私達の生活の必要を満たされる方法や状況は必ずしも一定していないことについてである。
結
論
●前述のように私達の
前述のように私達の米国留学
私達の米国留学の
米国留学のひとつの理由
ひとつの理由は「
理由は「主を信頼して生きる
は「主を信頼して生きる」
主を信頼して生きる」ことを実体験することであった
ことを実体験することであった。
ことであった。
●まだまだ小さなレベルの低い経験であるが、私たちなりに、
●まだまだ小さなレベルの低い経験であるが、私たちなりに、この
低い経験であるが、私たちなりに、この 32 年半の間(
年半の間(最初は 5 年の予定で
あったが)
あったが)、主を信頼して生きる祝福と喜びを経験させていただいた。1
、主を信頼して生きる祝福と喜びを経験させていただいた。1 つのことを短くシェアしたい。
●一応、最初は「留学」目的で来たのでそのことに関することであるが、
●一応、最初は「留学」目的で来たのでそのことに関することであるが、 生活費は少ないながら
生活費は少ないながら初め月
少ないながら初め月
$500 の予算で、
の予算で、ある程度の準備とサポートがあったが、学費の準備は
で、ある程度の準備とサポートがあったが、学費の準備は聖書学校での最
ある程度の準備とサポートがあったが、学費の準備は聖書学校での最初の一年分しか
聖書学校での最初の一年分しか
なかった。 二年目に大学に行くとき、クリスチャン大学だから、Mi
二年目に大学に行くとき、クリスチャン大学だから、Ministry のために留学して来ている
生徒のためには沢山スカラシップがあるだろうくらいに「高をくくっていた」
生徒のためには沢山スカラシップがあるだろうくらいに「高をくくっていた」。 しかし、全く期待はず
れであった。 Financial Department の Vice President に相談に行った。 近く「
近く「宣教大会」
宣教大会」に講師
として招かれているので、一緒に来てそこで証しのご奉仕をするように言われた。しかし、そこでは経
として招かれているので、一緒に来てそこで証しのご奉仕をするように言われた。しかし、そこでは経
済援助が必要であることは言わせてもらえなかった。 しかし、その VP のお陰で後に
のお陰で後に 7 つのルイジア
つのルイジア
ナ、テキサスの教会が次の 3 年間の学費を卒業するまで見てくれることになっ
年間の学費を卒業するまで見てくれることになった。
ることになった。 興味深いことは、
後で聞いたのだが、この
後で聞いたのだが、この 7 つの教会はお互いに連絡がなく、協力していた訳ではなかったこと、各教会
の支援額は、その時その時に高低があったにもかかわらず、合計額
の支援額は、その時その時に高低があったにもかかわらず、合計額はいつもほぼ
はいつもほぼ必要額を下回ることも、
ほぼ必要額を下回ることも、
上回ることもなかったことである。まさに主がコントロールして満たしていてくださった証拠である。
上回ることもなかったことである。まさに主がコントロールして満たしていてくださった証拠である。
4